当社は経営状態が悪化していたことから、労働組合との間で、当該労働組合に所属する組合員の賃金の一部の支払いを猶予する旨の労働協約を締結していましたが、その後も経営状態が改善しなかったため、当該組合との間で、支払いが猶予されていた賃金を放棄する旨の労働協約を締結しました。

ところが、その後、当該組合の組合員より、この労働協約によって猶予・放棄された賃金を請求されています。当社と労働組合と間では、当該賃金を放棄するということで合意していたのですが、当社は当該組合員からの請求に応じなければならないのでしょうか。

労働協約による賃金債権放棄の効力が認められるかどうかは、組合の労働協約の締結権限の範囲によるところです。

比較的最近の最高裁判例で、参考になるケースとして平尾事件(最高裁一小判平31・4・25労判1208号5頁)があります。平尾事件の事案の概要は後述のとおりですが、第1審・控訴審では、組合員からの会社に対する未払賃金の支払請求を棄却しましたが、最高裁は未払賃金の支払いを会社に命じました。

平尾事件の最高裁判決は、未払賃金・支払が猶予された賃金について、組合員によって組合に代理権が付与されていた等の事情がない限り労使の合意で放棄することはできないとしました。つまり、最高裁は賃金債権という個人の権利の重要性に鑑みて、組合の労働協約の締結権限に限定を加えたといえます。

したがって、設問の場合にも、会社が組合と賃金債権放棄に係る労働協約を締結するにあたって、組合員から組合に対して賃金債権放棄についての代理権を明確に付与していた事情が認められない場合には、組合員には賃金債権放棄の労働協約の効力は及ばず、会社に対して在職中の未払賃金として賃金カットの分を請求できることになります。

実務としては、労働協約の締結により組合員に発生した賃金債権を処分・変更(上記判例によれば支払猶予も含む。)する場合は、当該処分・変更について、組合員から組合への授権があるかどうかまで確認しておく必要があります。

なお、実務の参考として、平尾事件について事案の概要等を以下に紹介します。

 

「平尾事件」最高裁一小判平31・4・25労判1208号5頁

(事案の概要)

Y社が、経営状態の悪化を理由に、組合との間で、賃金をカット(支払猶予)する旨の労働協約を締結した後、カットされた賃金債権を放棄する旨の合意(以下、「本件合意」)をしたところ、組合が組合員Xを代理して具体的に発生した賃金債権を放棄する旨の本件合意をしたなど、本件合意の効果がXに帰属することを基礎付ける事情はうかがわれないとして、Xのカットされた賃金債権の請求を認容し、遅延損害金の判断については原審に差し戻した(定年後の継続雇用を求める地位確認請求は上告棄却)。

 

(事件の内容)

本件は、貨物自動車運送業を営むY社が、経営状態が悪化していたことから、組合との間で、平成25年8月、①賃金の20%をカットする、②カット期間は同年8月から12ヶ月間とする、③カット分の賃金を労働債権として確認する等の労働協約(以下、「第1協約」)を締結した。Y社は、その後も経営状態が改善しなかったため、組合との間で、平成26年9月、カット期間を同年8月からさらに12ヶ月間とする旨の第2協約を締結し、平成27年8月にも、カット期間を同年8月からさらに12ヶ月間とする旨の第3協約を締結した。

Y社で生コンクリート運送業務を行っていたXは、平成26年10月、第1協約及び第2協約によってカットされた賃金及び遅延損害金の支払いを求めて訴訟を提起した。

その後、Y社の生コンクリート運送業務を行う部門は、平成28年12月をもって閉鎖された。Y社と組合は、第1協約及び第2協約によってカットされた賃金債権の取り扱いについて協議し、これを放棄する旨の合意をした(以下、「本件合意」)。

控訴審は、第1審と同様に、カットされた賃金を労働債権として確認していることから、本件におけるカットとは支払猶予の意味と解した上で、本件合意により賃金債権は免除・放棄されてすでに消滅したとして、Xの控訴を棄却した。

 

(裁判所の判断)

(1) 「本件合意はY社と組合との間でされたものであるから、本件合意によりXの賃金債権が放棄されたというためには、本件合意の効果がXに帰属することを基礎付ける事情を要するところ、本件においては、この点について何ら主張立証はなく、組合がXを代理して具体的に発生した賃金債権を放棄する旨の本件合意をしたなど、本件合意の効果がXに帰属することを基礎付ける事情はうかがわれない。
そうすると、本件合意によってXの本件各未払賃金に係る債権が放棄されたものということはできない。」

(2) 「そこで、Xの本件各未払賃金の弁済期について検討する。
具体的に発生した賃金請求権を事後に締結された労働協約の遡及適用により処分又は変更することは許されない…(省略)…ところ、Xの…賃金請求権のうち第1協約の締結前及び…第2協約の締結前にそれぞれ具体的に発生していたものについては、Xによる特別の授権がない限り、労働協約により支払を猶予することはできない。」

「そして、本件各未払賃金のうち、第1協約により支払が猶予されたものについては第2協約及び第3協約が締結されたことにより、第2協約により支払が猶予されたものについては第3協約が締結されたことにより、その後も弁済期が到来しなかったものであり、これらについては、第3協約の対象とされた最後の支給分(平成28年7月支給分)の月例賃金の弁済期であった同月末日の経過後、支払が猶予された賃金のその後の取扱いについて、協議をするのに通常必要な期間を超えて協議が行われなかったとき、又はその期間内に協議が開始されても合理的期間内に合意に至らなかったときには、弁済期が到来するものと解される。」

(一部破棄自判、一部破棄差戻、一部上告棄却)

以上