先日、当社の営業担当の取締役が、知人のAさんに「うちで働かないか」と声をかけ、一度はAさんも口頭で同意したそうです。しかしその後、当該取締役には採用権限がなく、社長の許可も得ていなかったこと、またAさんの希望月給50万円に対し、社長は月給40万円までの提示しか了承しなかったことから、結局採用の話は白紙となりました。すると、Aさんから「一度は労働契約の約束をしたのだから実質的に違法解雇だ。または入社できると思って引っ越し等の準備をしていたので損害賠償を請求する」と言われました。当社はAさんの請求に応じなければならないのでしょうか。

労働契約の成立は認められないが、損害賠償義務を負う可能性はある。

1 労働契約の成立

労働契約は、労働者が使用者に使用されて労働し、使用者がこれに対して賃金を支払うことについて、労働者及び使用者が合意することによって成立します(労働契約法6条)。つまり、指揮命令に服した労働提供及び労働提供に対する賃金の支払いの合意があれば労働契約は成立しますが、これらは抽象的な合意で足り、例えば従事すべき労働の具体的内容や種類、労働時間、賃金額、決定方法が具体的に合意されることまでは必要ないと考えられています(荒木尚志・菅野和夫・山川隆一「詳説労働契約法(第2版)」弘文堂 97頁)。

ただし、裁判例では、会社が求人サイトに掲載した求人情報から一方的に月給額を減額した採用内定通知書を交付したり、労働者が自ら月給額を加筆修正した書面を会社に提出したりした事案で、契約締結交渉の中で賃金額を合意できなかったことを理由に、労働契約の成立は認められないとされた例があります(プロバンク(抗告)事件・東京高決令和4年7月14日 労判1279号54頁)。これは、重要な労働条件についての意見の不一致が、労働契約の締結過程で明確になったためだと考えられます(菅野和夫・山川隆一「労働法第13版」弘文堂 177頁)。

なお、労働基準法との関係では、労働契約の締結に際し、労働条件を明示しなければならないとされていますが(労働基準法15条)、この労働条件明示義務に違反したとしても、労働契約自体は有効に成立すると考えられています。

2 本件で労働契約が成立したか

本件では、営業担当の取締役がAに「うちで働かないか」と声をかけ、Aが口頭で同意した時点で労働契約が成立したかが問題となります。もっとも、当該取締役には採用権限がなかったこと、またその後の交渉で給与面の合意に至らなかったことを踏まえると、賃金という重要な労働条件の合意ができていないことが明らかであり、労働契約は成立していないと思われます。

3 労働契約が不成立だとしても損害賠償義務を負うか

労働契約が不成立であっても、「契約締結上の過失」を理由に損害賠償義務が認められる場合があります。例えば、フォビジャパン事件(東京地判令和3年6月29日 労経速2466号21頁)では、労働契約の成立は認められなかったものの、損害として2カ月間の逸失利益及び弁護士費用が認められました。これは、労働者が現職の会社に退職届を提出していた状況下で、採用権限のない代表取締役が給与額や就業開始日を提示し、現職の会社での退職手順を教示していたこと等から、現職の在籍最終日の2日前になって、当該代表取締役の提示(月額39万円)を覆し、現職の会社での待遇(月額34万円)をも下回る条件(月額30万円)を提示したことは、労働者の期待権を侵害するもので不法行為を構成するとされたためです。なお、この事案では、会社から書面等による正式な採用通知はなされていなかったこと、採用に至るには他の代表取締役との面接が必要であることを労働者側も認識していたこと等から、労働者の過失割合が2割認定されています。

4 本件で損害賠償義務を負うか

本件の場合、営業担当とはいえ取締役が声をかけて勧誘したという事情がありますので、Aが「採用される」との期待を持つこと自体は自然であり、本件の会社から給与額の提示が著しく遅れた等の事情があれば、不法行為に該当する(損害賠償義務が生じる)可能性があると思われます。

以上