当社は、人材育成の観点から、希望する従業員で所定の条件を満たす者を国外の大学等に一定期間留学させる制度を設けようとしています。渡航費用や学費等の留学費用は当社が負担する予定ですが、復職後ただちに退職されてしまうと制度の目的を達成することができません。復職後に退職した場合には留学費用を返還するというルールを設けることは法的に可能でしょうか。
留学費用返還制度の実態から、実質的に労働者の意思に反して労働契約関係の継続を強要するものといえない場合であれば、留学後一定期間以内に退職した場合には留学費用の返還を約する旨のルールを設けることも可能
1.賠償予定の禁止(労働基準法16条)
労働基準法(以下、労基法)16条は、「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない」と定めています。
同条は強行規定であるため、同条違反の契約等は原則として無効となります。また、使用者は、同条に違反した場合、6か月以下の懲役または30万円以下の罰金に処されることもあります(労基法119条1号)。
労基法16条の趣旨は、労働者の自由意思を抑圧して労働を強制したり、労働関係の継続を強要したりすることを防止しようとする点にあると解されています(荒木尚志他編『注釈 労働基準法・労働契約法 第1巻』〔有斐閣、2023〕250頁参照)。
2.留学・研修費用返還制度と労基法16条
使用者が費用を支出して労働者に海外留学等をさせる場合、修学後ただちに退職されることがないよう、使用者が費用を負担して研修・留学の機会を与えた後、一定期間勤続すれば費用返還を免除し、一方で、それより前に退職したときには費用を返還させる旨の契約や就業規則の定め(留学・研修費用返還制度)がなされることがあります。このような契約等は、一定期間勤務しない場合の「違約金」の定めとして労基法16条に違反しないかが問題となります。
留学・研修費用返還制度は、大きく分ければ、使用者が留学・研修と称して業務に従事させ、その費用を負担しつつ、留学・研修終了後の勤続を義務づける場合には、同条違反となり、これに対し、留学・研修が労働者の任意に委ねられ、本来労働者本人が負担すべき費用を使用者が貸与しつつ、勤続とは無関係に消費貸借契約によって返済方法を定め、ただ一定期間勤続した者について特に返還債務を免除する旨の制度(免除特約付消費貸借契約)であれば、直ちに同条違反にはならないと解されています。
すなわち、同条に違反するかは、制度の実態に即して、これが労働者の意思に反して雇用の継続を強要する機能を営んでいるか否かを判断する必要があり、具体的には、㋐留学・研修後の勤続期間の長短(返還免除までの勤続期間の長短)、㋑返還免除の範囲・基準の明確さ、㋒留学・研修の業務性の有無・程度(業務との関連性、対象の選択の拘束度、得られる能力の汎用性)、㋓労働者本人にとっての利益の有無(本人のキャリア形成に有益か否か)、㋔自由意思の有無(業務命令か、労働者の自由意思によるものか)が判断要素と解されます(土田道夫『労働契約法 第2版』〔有斐閣、2016〕86頁~87頁参照)。
3.留学・研修費用返還に関する裁判例
留学・研修費用返還に関する裁判例としては、例えば次のものがあります。
<労基法16条違反肯定例>
・新日本証券事件・東京地判平10.9.25 労判746号7頁
留学の応募自体は労働者の自発的な意思にゆだねているものの、いったん留学が決定されれば、使用者側が海外に留学派遣を命じ、専攻学科も業務に関連のある学科を専攻するよう定め、留学期間中の待遇についても勤務している場合に準じて定めていることなどを指摘して、留学費用返還に関する規定を労基法16条違反と判断した例。
・独立行政法人製品評価技術基盤機構事件・東京地判令3.12.2労経速2487号3頁
海外での研修につき、派遣先や研修内容の決定について使用者側の意向が相当程度反映されており、研修を通じて得られた知見や人脈が研修終了後の使用者における業務に生かし得るものであった一方で、使用者や関係省庁以外の職場での有用性が限定的なものであったことなどを指摘し、使用者と労働者間の誓約書に基づく消費貸借契約を労基法16条違反と判断した例。
<労基法16条違反否定例>
・みずほ証券元従業員事件・東京地判令3.2.10労判1246号82頁
留学制度の選考に応募するか否かが、使用者の業務命令によるものではなく労働者の自由な意思に委ねられており、その留学先や履修科目の選択も労働者が自由にできたこと、留学期間中の生活について、基本的に、労働者の自由に任せられていたこと、留学終了後の配属先が、必ずしも留学先大学において取得した資格や履修科目を前提とした配属になっていないこと、留学によって使用者での勤務以外でも通用する有益な経験や資格等を得ていることなどから、使用者と労働者間の誓約書に基づく(免除特約付)消費貸借契約を労基法16条に違反するとはいえないと判断した例。
・大成建設事件・東京地判令4.4.20労判1295号73頁
海外研修が、応募や辞退、研修テーマ・研修機関・履修科目の選定が労働者の意思に委ねられていたこと、海外研修が、使用者での業務を離れても汎用性が高い内容を多く含むものであり、労働者個人の利益に資する程度が大きいこと、貸与金の返済免除に関する基準が不合理とはいえず、返済額が不当に高額であるとまではいえないことから、使用者と労働者間の誓約書に基づく消費貸借契約が労基法16条に違反するとはいえないと判断した例。
4.まとめ
以上のとおり、留学制度に関し、使用者が費用を負担して留学の機会を与えた後、一定期間勤続すれば費用返還を免除するが、それより前に退職したときには費用を返還させる旨の契約や就業規則の定めは、制度の実態から労働者の意思に反して労働契約関係の継続を強要するものといえない場合であれば、労基法16条に違反せず、有効と解されます。
裁判所の傾向としては、諸要件の中でも「業務性」が重要視されていると解され、留学費用の返還を定める場合には、留学の応募・辞退、留学先、履修科目等を労働者の意思に委ね、復職後の配属ありきで留学先や履修科目等を限定することは避けるべきといえます。
返還免除までの期間については、当該消費貸借契約が有効とされた上記みずほ証券元従業員事件と上記大成建設事件ともに、留学終了後(復職後)5年について、不当に長いとはいえない旨判示されており、長くとも5年程度とするのが妥当と考えます。
また、上記新日本証券事件は、「原告(注:使用者)は、被告(注:労働者)に右の留学費用の返還条項を内容とする念書その他の合意書を作成させることなく、本件留学規程が就業規則であるとして就業規則の効力に基づき、留学費用の返還を請求しているが、このことも被告の留学の業務性を裏付けるものといえる」とし、就業規則単体での返還請求に消極な評価をしているため、(就業規則等の定めに加え、)個別に誓約書を取得することが肝要と考えます。
なお、誓約書を取得する際には、返還の範囲(費用の費目や金額)についても明記するのが望ましいといえます。
以上