先般、メンタルヘルス不調により、1年間の私傷病休職をしていた社員が復職しました。当社の就業規則では、復職者について人事考課は実施せず、昇給を行わない旨、明記しています。今年度は労使交渉の結果、社員一律にベースアップ(以下、ベア)を実施しましたが、復職者への適用について特に規定がないため、どう取り扱うべきか、判断に迷っています。当該社員に対し、ベアを実施しないことは差別的取り扱いとなり、問題でしょうか。

ベアの内容の定め方とその周知の仕方によっては当該社員につき実施しないことが可能だが、その進め方には注意が必要。また、除外事由を設ける取り扱いは一般的でないと思われる

 

1.ベアの意味、性格

ベアとは、正式には「ベースアップ」と呼ばれ、従業員全体に対する賃金水準の引き上げのことをいいます(若年層や「他社との比較で賃金水準が相対的に低い層」など、実施対象を特定層に限定するケースもあります)。ベアは広い意味での「賃上げ」に含まれますが、従業員個々人の業績・考課に関わりなく、対象となる従業員全体に対して行われるのが通常であるところに特色があります(ただし、あくまで水準の引き上げなので、水準の設計次第では、従業員の類型ごとに、賃金上昇額が異なることはよく見られます)。類似の概念として、「定期昇給」(以下、定昇)と呼ばれるものがあり、これは、賃金を、年齢・勤続年数に応じて定期的に引き上げることをいいます(いわゆる「自動昇給」)が、定昇が一定期間の経過を要件とするものであるのに対し、ベアは定期の到来を待たずに、ベアが予定された時点で、従業員全体の賃金が底上げされるところが異なります(なお、広義の定昇の概念として、毎年定期的に行う査定昇給〔人事考課に基づく昇給〕を含めることもあります)。

[図表]は、両者の関係を簡単に図式化したものです([図表]のとおり、一時点で定昇による賃上げと、ベアによる賃上げという二重の賃上げが生ずることがあります)。

わが国の高度経済成長の時代には、労使交渉(春闘)によるベアが一般的に見られました(殊に、1950~70年代)。1990年代前半のバブル経済崩壊以降、国内の労働生産性の成長の鈍化、国際競争の激化、成果主義による個人別賃金の広がりによって、かつてほどベアの実施が一般的ではなくなってきているのが実情ですが、ベアの本質は、使用者による賃金水準の改定(上昇)ということとなります。

図表

 

2.私傷病休職の意味、性格

私傷病休職とは、私傷病(業務上の傷病ではない)により就労ができない従業員に対し、在籍を認めつつ一定期間、傷病からの回復(治癒)を待つという制度であり、その本質は、就労不能による解雇の猶予と解されています。私傷病休職制度の内容は、特に成文法の規制があるわけではなく、原則として、使用者がその裁量により休職制度の内容(休職を認める期間の上限、休職中の賃金支払いの有無・程度、勤続年数への加算の有無、昇給の有無等)を決定するものです。しかし、使用者としてどのような内容でも自在に決定できるわけではなく、労働法をはじめとする各種の法規制の趣旨に大きく外れないような制度設計、運用が必要です。

 

3.ご質問のケースへの当てはめ

以上を前提に、ご質問のケースについて考えます。

貴社では、私傷病休職において、人事考課は実施せず、査定昇給を含む定期昇給は行わない旨、就業規則上明記されているものの、ベアについては特に規定がないようです。上述2.のとおり、私傷病休職の制度内容は、原則として使用者がその裁量で定め得るところですが、ご質問のケースでは、ベアについてはその定め自体がないので、私傷病休職者をベアの対象から外し得るか否かは、実施された(される予定の)ベアの内容、すなわち、賃金引き上げの「水準」(実施対象者の範囲)の内容の解釈次第となります。

前述1.のとおり、ベアは賃金水準を引き上げるものであって、労働者の既得の権利・利益を害するものではありませんから、ベアにおける「水準」の内容は、使用者側の判断により決定できるのが原則です(なお、労使の合意がある場合は、合意後は当該合意の内容に拘束されますが、その内容の合意を行うか否かは使用者の判断となります)。したがって、ベアの内容を定めるに当たり、私傷病休職者を範囲外とする内容であるならば、ご質問のケースでの私傷病休職者にはベアの必要はなくなることとなります。ただし、実務から言えば、前述1.のとおり、通常、ベアは、対象となる全従業員の賃金水準を引き上げて設定するものであって、特定の個人を対象とするものではないので、少なくとも私傷病休職者一般を想定して、ベアの範囲外と設定し、その旨を周知しておくことが原則として必要でしょう。また、そのような設定を明示していないままにベアの一般的な水準を周知・発表した後にベアを行うときになって、「私傷病休職者にはベアを行わないこととした」ということは、既に周知したベアの内容が労働契約の内容となっていると解される可能性が高く、難しいと思われます。なお、もともとベア自体が、従業員全体につき、「私傷病休職者」などの個々人の個性属性をあまり考慮せず、賃金を一律に引き上げる制度ですので、このような除外事由を策定して行われる例はほとんど見ないのが率直なところです。

 

4.実務上のポイント

ご質問のケースのような私傷病休職者の例に限らず、一定の類型の者をベアの範囲外とする場合には、ベアの内容を社内周知する(あるいは労使で合意する)前に、従業員に理解できるようにベアの範囲の内外につき明らかにするといった手法が必要になると思われます。

以上

(労務行政研究所「労政時報」4024号140頁掲載「相談室Q&A」(岡芹健夫)を一部表記変更して転載)