【海外拠点No.6 海外でのエピソード・ワン】
堅い話が続きましたが、今回は、各地で耳にしたエピソードをご紹介します。
【テヘランからの脱出】
イラン・イラク戦争の頃の話です。
イランからの国外脱出は数回あったように記憶しております。そのうち一度は、トルコ航空の犠牲的フライトで救われた時のもので、ご記憶のかたも居られましょう。1985年3月19日のことでした。
私が担当したのは、その直後のイラン・イラク戦争で、イラクによる首都テヘランのミサイル攻撃が始まったころです。
空爆とミサイル攻撃の違いについて、それまで全く知るところはありませんでしたが、当時、テヘランに駐在していた知人によりますと、全く異なるとのことでした。
最大の違いは、退避までの余裕時間です。空爆であれば、まず空襲警報が鳴り響き、次に爆撃機の音を聞いたのちに、爆弾投下が始まるという順で進みます。ところが、ミサイル攻撃だと、警報発令直後、或いはその前に、いきなりミサイルの着弾音が聞こえるのだそうです。つまりは、一般市民にとっては「奇襲」であり、退避の時間がないとのことでした。ミサイル攻撃により、広い範囲で窓ガラスが割れ、その鋭利な破片が室内に飛び込むのだと聞きました。そのため、毎晩、窓のない社宅の廊下にマットを敷いて寝たのだそうです。
この時は、駐在していた職員は、最後まで飛び続けたイラン航空に搭乗して、テヘランを脱出することが出来ました。のちに、予め外貨で航空券を購入していた者を優先的に搭乗させたのだとも聞きました。
それぞれの企業が、現在とは比較にならない規格とは言え、不完全でもBCP(Business Continuity Plan:事業継続計画)を持っていました。外貨で複数のルート・複数の航空会社の航空券をあらかじめ購入しておくというのも、その一つでした。
【第二次天安門事件】
第2次天安門事件は1989年6月4日に、胡耀邦元党総書記の死をきっかけに発生した自由を求める市民と政権との流血の抗争とされます。
この時、北京の街では人民解放軍と市民との衝突が各地で起こりました。今なお、中国政府の発表と天安門周辺から辛くも脱出できた人々との間で、話の食い違いも多いことが知られています。
当時、中国の各地に駐在していた職員の無事の脱出劇が、多くの進出企業で繰り広げられました。窓の外には銃声が響くというような状態で、駐在員は大きな不安を持つものです。
この時は、金庫内の重要書類は最悪の場合、放置してもよいと言う本部決裁で、気が楽になったと聞きました。当時は、営業性拠点ではなく、事務所であったことも幸いしました。金庫の中には「金目のもの」は少なかったからです。
これには余談があります。駐在員の脱出の目途を立てた直後、現地の所長から、「研修生はどうするのだ?」と問われ、研修生のことをすっかり忘れていたことを思い出しました。そのうちの一人は、室内履きのスリッパのままで事務所に駆けつけ、所員の靴を借りて脱出を果たしました。
【パナマ紛争】
パナマ紛争とは、ノリエガ将軍による強権的国家運営が行われていたころの話です。1989年の頃でした。
パナマでは自国の紙幣がなく、正式名称のみを「バルボア」として、米ドルがそのまま等価で使われていました。ところが、アメリカによる経済制裁で、ドル紙幣が市中から姿を消しつつありました。
アメリカの経済制裁で、米ドルが枯渇して、お客様からの「異例ですが、お支払いには細かい現金でも構いませんか。」とお尋ねがあった時は、渡りに船と跳び付きました。
現地では、停電が発生し、念のため設置していた大型の冷凍庫の中の食品も腐ってしまいました。街中のスーパーマーケットからは、既に、食料品が姿を消しつつあり、東京から見る限り、帯同家族の生活維持が、もはや危ういと判断する事態を迎えました。
そこで、帯同家族はロスアンジェルスに退避して、残る職員を半分に分け、半分は現地に残り、半分は回線の繋がったニューヨークに移動して、ニューヨークでも決算作業が出来る「分散運営体制」としました。
間もなくアメリカ軍がパナマに侵攻して紛争は落ち着き、「分散運営体制」は、後に、「そこまでやらなくても良かったね。」と評されましたが、それはそれでよかったと思っています。
【同時多発テロ】
SARS (Severe Acute Respiratory Syndrome:重症急性呼吸器症候群)で関連する事務所の入居する建物が立ち入り禁止になったり、アメリカ東部広域を襲った大規模停電(ブラックアウト)を経験したりと、エピソードには事欠きませんが、2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロを忘れるわけにはいきません。
その日の朝、朝の会議の最中に、「また観光用の軽飛行機が、墜落したらしい。」と知らされましたが、間もなく、事態は容易ならぬものだと判明しました。確か、2棟めに旅客機が突っ込んだあたりから、これは戦争だと声が挙がったように覚えています。
「崩落したワールドトレードセンターには、友人がいる!」と叫ぶ職員、ただ無言で、テレビの画面を見つめる職員、「総領事館に電話が通じません。日本語の出来る人はいませんか?」とひっきりなしにかかってくる電話。職場中が、パニックに陥り、大混乱となりました。
詳細を記述することは避けますが、心強く思ったのは、現地のよく訓練された中核職員の踏ん張りと、ハドソン川の対岸に設けていたバックアップ・オフィスの存在、それにトップの揺るがぬリーダーシップでした。
事務処理能力の維持、決済機能の確保、資金調達、日本人観光客への対応などを皆が一丸となって進めました。ニューヨークでドル資金を一元的に管理していたことから、バックアップ・オフィスの存在は、事務系企業にとって、心強い戦力となりました。
この時ほど、BCP(Business Continuity Plan:事業継続計画)の存在のありがたさを強く感じたことはありません。
申し上げたように、海外進出には、事業固有のリスクのほか、如上のような、数々のリスクがあります。それでも海外に進出するからには、企業体力に応じて、リスク軽減策や事業継続計画を周到に準備すべきだと思います。
言うは易し、行うは難し、ではありますが。
以上