サイクス・ピコ協定が全てか
オスマン帝国は、14世紀初頭、アナトリア台地の一角に小さな君侯国として生まれた。版図拡大の最盛期は17世紀半ばであり、黒海クリミア半島周辺から、コーカサス一帯、バルカン半島とその北部、アフリカ大陸の地中海沿岸、更に紅海沿岸の一帯に及ぶ大帝国を築きあげた。
17世紀末になると帝国は衰退の気配を見せる。領土を蚕食したのは南下政策を執るロシア帝国に、失地回復を図るオーストリア・ハプスブルグ帝国であった。オスマン帝国は第一次世界大戦に敗れ、のちに、アタテュルク(トルコの父)と称されたケマル・パシャにより、トルコ共和国が成立した。
崩壊過程の帝国の領土を巡っては、お定まりの列強による領土獲得の争いが生じ、第一次世界大戦による新秩序の構築に当たって、サイクス・ピコ協定が締結された。今から既に102年前の1916年5月16日のことであった。
イギリス・フランス・ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定の名称は、イギリスの中東専門家マーク・サイクス(Mark Sykes) とフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコ(François Marie Denis Georges-Picot)から採られている。帝政ロシア末期の外相も関与しているが、なぜか彼の名を冠されることは少ない。
協定の内容は、次のようなものであった。
即ち、シリア、アナトリア南部、モスル地区(イラク)をフランスの勢力範囲とし、シリア南部と南メソポタミア(イラクの大半)をイギリスの勢力範囲とする。更に黒海東南沿岸、黒海から地中海への海峡(ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡)両岸地域をロシア帝国の勢力範囲とする、と。
サイクス・ピコ協定によって、オスマン帝国の支配手法「寛容なるイスラム」によって描かれた曲線の多い帝国の領土は、列強による直線の多い分割線による支配に塗り替えられることとなった。
この線引きは、クルド人・アルメニアの居住地帯を無視して行われているほか、現地の民族・宗教間の違いを勘案しないものであった。このことから、今でも、この協定が中東地区の紛争の元凶のごとくに言われるが、もともとは秘密協定であり、線引きされた側の当事者の知り得るところではなかった。
ところが、1917年にロシア革命が起こると、レーニン政権によって、旧ロシア帝国の領土拡大の密約が隠されたサイクス・ピコ協定の存在が明らかにされ、「線引きされた側」の強い反感を買うことになった。
1920年には、セーヴル条約が、第一次世界大戦の連合国とオスマン帝国との間に締結され、オスマン帝国は広大な領土を失った。この条約ではクルド人自治区の設置が謳われていたが、あらたに結ばれたローザンヌ条約が取って代った。1923年に締結されたローザンヌ条約は、西欧諸国がオスマン帝国の崩壊後、新たに誕生したトルコ共和国を主権国家として認めたものであった。
一見、新秩序の構築に見えるが、それはトルコの復興と列強の分割的支配の狭間にクルド人・アルメニア人を残し、更に周辺の地域に、比較的大きな民族集団の中に、異なる民族集団が取り囲まれ、更にその中にも、小さな民族集団が取り残されると言う「入れ子」状態の民族分布の事実を置き去りにすることになった。言い換えれば、「寛容なるイスラム」であったオスマン帝国のつけは未払いのまま残ることになった。(ボスニア・ヘルツェゴビナ、コゾボ、モンテネグロの命運を想起願いたい。)
では、巷間、言われるようにサイクス・ピコ協定が、今なお続く中東紛争の出発点であり、イスラム国を生んだ元凶であり、これがなくなれば全てが解決するのかと言えば、そうではないだろう。今の混乱は、寛容なるイスラム・サイクス・ピコ協定・セーヴル条約・ローザンヌ条約に源流があると言うにとどまる。
エスニシティー(Ethnicity)とは、「言語、信仰、慣習などの文化的特性を一致する集団(における所属意識)」を言う。様々な理由で父祖の地を追われて、新天地に住み着いた民族集団を指すこともある。
クレオール(Creole)とは、言語や文化が融合した人々の集団を言う。カリブ海とその周辺地域にあって、現地で生まれ育った者を、ヨーロッパ宗主国に生まれ育った者と区別して呼んだ呼称がその原義であるが、結果的に「言語や生活様式全般が融合した集団」に用いられる。
一方、ゲノス(Genos)は、古代ギリシアにおける氏族であり、共通の祖先を持つ複数の氏族グループの集合体である。つまり、「生物学的血縁」を強く意識した概念である。
この地域の人々は、エスニシティーを共有し、クレオールを形成したが、必ずしも同一のゲノスの保有者ではなかった。その現実が今、中東にある。
以上
(文責 海外室)