与論島の選択
奄美諸島は琉球王国と日本との間で揺れ動いた地域である。
便宜的に時代区分を記せば、概ね以下の通りであろう。
- 奄美諸島時代 奄美世「あまんゆ」 (~824)
- 所属分立時代 按司世「あじゆ」 (824-1266)
- 琉球服属時代 那覇世「なはゆ」 (1266-1609)
- 薩摩藩時代 大和世「やまとゆ」 (1609-1871)
- 明治・大正・昭和 沖永良部支庁時代 (1871-1946)
- 昭和 米軍信託統治時代 (1946- 1953)
- 本土復帰 日本時代 (1953~)
奄美諸島は、日本書紀の時代から、日本の支配が及ぶ時期と、及ばぬ時期が交錯する地域であり、1266年から340年ほどの期間、琉琉王国の支配下にあり、与論島の資料では「那覇世(なはゆ)」と言われた。その後、17世紀初頭からは薩摩藩の支配が続き、「大和世(やまとゆ)」と呼ばれた。また、明治維新以降は日本の領土とされたが、第二次世界戦後は、一時的に、琉球列島米国民政府の施政化におかれ、本土復帰を果たしたのは、1952年12月25日であった。
その奄美群島に属する鹿児島県最南端の島・与論島は、東西5km、南北4kmほどの小さな島で、今や、透明度の高い青い海と白砂の海浜は、日本を代表するリゾート地である。
しかし、美しい景観とは裏腹に、サンゴ礁が風化して出来た痩せた土壌には、曾てはサツマイモのほかに主食に準じる栽培植物は育たなかった。また、ソテツのみが僅かに澱粉を採集することの出来る救荒作物であった。薩摩の藩政時代にはサトウキビの栽培が始まり、サトウキビが島全体を緑に覆ったものの、黒糖は、専ら藩の財政を潤すためのものであり、島民の生活改善には資することのない作物であった。
明治になっても、生活の基盤は変わらない。明治31年7月、空前の大暴風雨が与論島を襲い、続く旱魃、疫病、飢饉が追い打ちをかけた。サツマイモは枯れ、代用食のソテツの実も底をつき、ソテツの幹を削って中の澱粉を食べたと記録に残る。
時の戸長(村長)は、このままでは与論島民が全滅するとの危機感から、集団移住を決断する。行く先は島原半島南部の口之津であった。資料では、移住者1,226人とあり、当時の全村民6,000人ほどとすると、その5分の1が島を離れたことになる。島の生き残りを「分村」に賭けたと言えよう。
ではなぜ口之津か。
一時期、三井財閥の稼ぎ頭であった三井三池炭鉱は、福岡県大牟田の石炭を、一旦底の浅い団平船に積み替えて口之津に運んだ。ここから沖積みされ、瀬戸内海の製塩業者に売られ、また、中国・朝鮮半島へと輸出された。有明海が遠浅で、しかも湾奥では干満の潮位差が、最大5メートルを超えることから、大牟田地区には大型船は接岸できなかったことによる。
当時の三井物産口之津支店長は、沖積みの人手を確保するため、足しげく鹿児島に通っており、与論島の窮状を知る立場にあった。また、大暴風雨の後の救済に腐心していた大島島司(奄美群島の行政の長)も、集団移住を後押した。
こうして、沖積みの仕事が、与論島の集団移住者の職となった。不安を訴える島民を納得させるため、与論島の戸長自ら移住することとなった。1,226人はこの当時の移住者の数字である。
沖積みの仕事とは、つまり沖仲士であり、危険を伴う仕事である。処遇にも大きな格差があった。歯を食いしばって、石炭を運んだ与論島出身者は、この10年後、もう一度決断を迫られることとなる。
三池港の建設である。
後に三井合名理事長となった檀琢磨は、口之津での積み替えを嫌い、有明海東岸に港の建設を計画した。ほどなく、大きな干満の差を克服するため、海に繋がる外港の奥に、閘門で仕切られた内港を持つ二重構造のプライベートポートを開削することとなった。港は、明治41年に完成し、三池港と命名された。
これを巡り、与論島からの移住者の意見は分かれ、連日大論争が繰り返されたが、73人が口之津に残り、623人が与論島に帰り、428人が三池(大牟田地区)に移った。大牟田地区への再移住者は、三池でも石炭の船積みの重労働に従事し、三井三池炭鉱の成長を陰で支えた。
炭鉱閉山の後も三池港は残り、2015年に世界産業遺産に登録された。三池炭鉱を支えた与論島の出身者は、大牟田市に市議を送り出し、「与洲奥都城(与論島出身者納骨堂)」を建設し、「与論会」を結成した。今も三池地区と与論島との定期的な交流は脈々と続いている。
以上
(文責 海外室)