時流を探る~高井伸夫の一問一答の最近のブログ記事

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第22回目です。
  • 第22回目は、シンガーソングライター・自営業 ボビン・マン・バジュラチャルヤ様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第22回)■ ■ ■ 

シンガーソングライター・自営業
ボビン・マン・バジュラチャルヤ 様 

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[ボビン・マン・バジュラチャルヤ様 プロフィール]

生年月日:1976年4月17日、出身地:パタン、カトマンズ盆地、ネパール

ヒマラヤのふもと、カトマンズ盆地の南に位置する古都パタンの大乗仏教お坊さんと金属職人を営む家系のもと生まれる。

1996年10月、アルバム『Heroes Of Dream』を発表。2000年2月日本での初アルバム、『SAMSARA bobin』をMONSOONRECORDよりリリース。2001年春、日本で2枚目となるアルバム『bobin and the mantra』をリリース。2002年7月に台湾の音楽フェスティバル『HO_HAI_YAN』に出演。ネパールに帰国。2003年春、台湾でアルバム『Soul Rhythm』リリース。当アルバムが台湾の金曲賞にノミネートされる。2003秋、2004年夏に台湾ツアーを行う。2004年冬、音楽活動の拠点を日本におくために来日。2005年春、アルバム、『Songs Of Love』をリリースし、Earth Day Main Stage、Fuji Rock Festival、Risining Sun Rock Festivalなど日本の大型音楽フェスティバルに出演する。2007年6月、日本で代表曲"Slow Burning"を収録したアルバム『Rainbow Vibaration bobin』を発表。

2007年ネパールで伯父が営む工場で音楽関係のTシャツ生産を開始。同年、日本で(株)スローバーニンを設立。その後、2010年2月まで日本を拠点に音楽活動と会社運営に励む。結婚を経て、子育てはネパールでしたいとの思いから2010年3月ネパールに帰国。地元パタンで現地生産のみのセレクトショップ、アパート、フリースペースを含んだ独自の店、『Melting Pot』を開店。

2015年のネパール地震後、カトマンズの中心街タメルにTシャツ屋を移転。ネパールに住みながら、定期的に日本での音楽ツアーを行う。ネパールでも音楽活動中。2017年9月カトマンズ・タメルに新たにTシャツ屋を2店舗オープンさせ、現在に至る。

ボビンさん写真

(写真は左からボビン様、高井、角様)

ボビン君との出会いは、2002年8月に知人と訪れた赤坂の沖縄現代料理店「紅い花」で、皿洗いのアルバイトをしている当時25歳の彼に声をかけたことがきっかけです。私は、同年11月20日から24日にかけて25名からなる「桃源郷を訪ねる訪問団」の団長としてネパールを訪問する予定があり、ボビン君がネパール・カトマンズ出身と聞き、秋にネパールを訪問予定である旨お話しました。すると彼は「10月にはネパールに帰国するので、11月20日にはカトマンズの空港でお待ちしています」という言葉を返してくれ、実際にカトマンズ空港で我々一団を出迎えてくれたのです。その後も親交を続け、シンガーソングライターとして活躍する彼をささやかながら応援させていただいております。

ボビン君についての過去のブログご参照ください。【交友録 その9】9月第1週<8月28日(日)~9月3日(土)>

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 角 耀 様 
  • 高島さつき(秘書)

取材日:2017年8月8日(火)於:中国飯店市ヶ谷店

 


 

高井

ネパールの地方選挙は終わったんですか。

 

ボビン様

地方選挙が3回に分かれてしまったんですが、僕のところは、もう終わって、20年ぶりに市長も決まりました。ただ、まだ1州(One State)が終わっていないので、そこが終わらないと完全に終わったとは言えません。

 

高井

地方選挙はまだ終わってないとして、国の選挙はいつやるんですか。

 

ボビン様

国の選挙は、もうちょっと先だと思います。今、やっと憲法ができました。それでもインドの圧力がいろいろとかかっています。実際、この20年の間に、1,000万人ぐらいのインド人がネパールの国籍を取得していると言われています。ネパールの人口が今、3,000万人ですね。その3分の1はインド人です。

 

高井

ネパールはインドの影響が大きいようですが、お隣のブータンはどうなんですか。

 

ボビン様

ブータンは、割と安定しています。ブータンの国王は、Gross Domestic Happiness(国民総幸福量)を提唱して「ブータン」のブランド化に成功しました。ブータンはインドに政治的影響を受けつつも、自身のアイディンティティーを確立させていて、政策がスマートだと感じます。

インドは、領土問題などで中国と揉めていて、中国とインドの間にあるブータンとネパールをコントロール化においておきたいんです。インドのモディは、過激ヒンズー教でネパールがヒンズー王国になるんだったら、王制を復活させてもいいという気持ちがあると思います。モディだけでなく、インドにはRAWというシンクタンクがありますが、RAWも、ネパールと合併してもしなくてもいいから、自分のコントロールできるリーダーをネパールに作りたいと思っています。

 

高井

ネパールにインドの言いなりになるリーダーがいるんですか。

 

ボビン様

いっぱいいます、それがネパールの問題なんです。国民はすごく頑張っているんですが、政府がインドの顔色を窺っている。ネパールは90年代に王制が弱くなってから、だんだん、だんだん政策もでたらめになっていったように感じます。

 

 

高井

2015年に地震がありましたが、観光への影響はどうですか。

 

ボビン様

地震の前に少し、観光客の数が増えていたんですが、地震の後、当然激減しました。4月に地震があって、8月まで全然駄目で9月からは徐々に良くなったんですよ。地震の後のネパールを見たいということで観光客が増えたんですが、9月末からインドに国境を封鎖されてしまってしばらく全くダメでした。それからやっとよくなりはじめて、今年はこれからシーズンに入るので、どれくらい来るのかまだ分かりませんが、ホテルは空室がなくなっていると聞きます。

 

角様

地震でお寺とか随分つぶれちゃったと言いますが復興は進んでいるんですか。

 

ボビン様

お寺を修復する伝統的な職人も、まだまだたくさんいますのでお寺は復活できると思います。地震があってもネパールでは暴動が一切起きなかったんですよ。そういう点でも焦ってる人は誰もいないですね。復興は、ゆっくりですけど進んでます。

 

高井

ネパールではバーや何か盛んですか? クラブやキャバレー等はどうですか。

 

ボビン様

昔みたいな、踊るところは、だんだん減っています。もっと若者が集まるライブハウスのようなところは、たくさんあります。ジャズのフェスティバルとか、ブルーズのフェスなど。

僕も1つ「Shanti Utsav(シャンティ ウトサブ)」というイベントを主催しています。シャンティは平和で、ウトサブは祝うという意味です。心の平和を祝うというテーマです。イベントでは友人である日本人のキャンドル・ジュン氏と一緒にキャンドルアートをやったりしています。

カトマンズにはストリートチルドレンがいるのですが、彼らに職業訓練として竹細工を教えたり、キャンドル・ジュン氏が、キャンドルを教えたりして、販売するにまで至っています。そのキャンドルを7世紀のお寺に灯して、中庭で僕らが音楽をやったりしています。次のイベントは11月中旬を予定していますが、過去には北海道のアイヌのミュージシャンOKI(オキ)氏を呼んでライブを開催したりしました。OKI氏はアイヌの楽器「トンコリ」の奏者で、古くからの友人だった縁でお招きしたんです。

 

高井

音楽活動に、ストリートチルドレンへの職業訓練。ボビン君の本業、ビジネスは何をやってるんですか。

 

ボビン様

僕は日本にいるときから、音楽活動とTシャツの販売の両方をやっています。音楽活動の方は、実は今年も日本でフジロックに出る予定だったんですよ。ネパールのタメルという町に2つのTシャツのお店を3月にオープンする予定だったんですが、ビルが完成してなくて、延びて、延びて、延びて、9月になってしまった。それで、7月末のフジロックに行けなくなって、キャンセルしたんですよ。

日本でのTシャツの販売のビジネスは、東日本大震災が起こる前までは、どんどん伸びていてすごく良かったんです。今は駄目ですね。地震後は、ネパール自体への注文がどんどん減ってるんです。日本人の最近の傾向として、あんまり洋服にお金かけなくなっちゃったっていうのが一番の理由だと思います。ただ、高級で高額な洋服は売れているらしいんです。昨日お会いした方は、5万円~10万円くらいの高級なシャツを作っているて、イタリアで5万~10万ぐらいのシャツを作っているんです。それをネパールで作れないかなという相談をしました。100%麻で、ビジネスマンが夏に着られる服。日本で作ると10万円を超えてしまうので、イタリアのシャツに勝てないんですね。そういうマーケットは健在していますが、僕らが売るのは、シャツ1枚8,000円とか、1万円。その価格帯は、需要がものすごい低下しました。高級品を作るか、もう、3,000円、4,000円のを作るか・・・。実は、ある方とネパールで繊維が作れないか、相談しているところなんです。

 

高井

ネパールで作る繊維とは、何の繊維ですか。

 

ボビン様

麻とイラクサです。イラクサというのは、雑草なんですが、ネパールでは、昔から紐を作ったり、洋服にしたり、食べたりしてるんです。すごく栄養があって、ちょっとねちょねちょしていて、煮てから食べるんですよ。そのイラクサから繊維が作れないかと。今は繊維を中国から輸入して、それで生地を織ったりしているんですが、コストが合わないんです。

 

角様

繊維を作るっていうのは、技術を導入するっていうことですか?

 

ボビン様

そうですね、おそらく工場を造るなどで10億円規模のプロジェクトになるので、結局、政府の協力がないと、個人ではちょっと大変です。権利関係とか、手続き等、今調べているところです。伯父が25年くらい前から縫製工場を経営していますが、今、繊維をネパールで生産できれば色々と一番スムーズにいく段階なんですね。ただ、今のネパールで作る繊維は古いスタイルのままなので粗いんです。

 

角様

麻やイラグサはネパールでたくさん生産されているんですか。

 

ボビン様

ネパールは、麻、イラクサの産地です。うちは縫製工場なので、やっぱり、麻の布で何かしたいというのが一番のメインです。ネパールでは、麻の栽培は禁止されていますが、実情は政府がコントロールできないぐらいあちこち至るところで栽培されています。5年ほど前の報道ですが、南ネパールの麻、種類がヒマラヤとは少し違って薬にも使える麻が、ネパールから60億円分もインドに密輸されてるそうです。医薬会社が、原料として使うために密輸してるらしいんです。毎年60億円分も密輸されてるんだったら、ちゃんと合法化して税金を取ったほうが、もっといいんじゃないのかという意見の記事でしたが、その状況はいまだに続いてるんです。

 

高井

音楽活動と、Tシャツのビジネスの他は何かやっていますか。

 

ボビン様

実は、ネパールの山間部に6,000坪ぐらいの土地を買ったんです。まだ車道がなくて、車道から5分くらい歩いて登らないといけないんですが、水源もあります。そこでトウモロコシの種をまいた1週間後に地震がきて、農場に2軒あった家が潰れちゃったんです。ぺしゃんこに。しばらく落ち込みました。それでその後フルーツの木を100本くらい植えたんです。今度帰国したら、車道を造ろうと思っています。車が入れるようになったら、自分たちの食べ物だけでも作ろうかなと思っています。他にもショウガとか、そういう乾燥できるもの作って、輸出できたら輸出もしようかなと思っています。来年ぐらいには農業の会社を1つ設立しようかなと思ってるんです。

 

高井

ネパールの将来は明るいと思いますか。

 

ボビン様

将来は明るいと思っています。ネパール人はネパールが好きなので、政治が安定していけばと願っています。ネパールはいろんな文化が混ざって、いろんな人種が混ざっています。地震のちょっと前は中国人観光客が多かった。今は南米系、メキシコ人とか、ベネズエラ人や、ベトナム人も増えてるんです。常に誰かしらネパールを訪問・観光しています。

ネパールは、シンプルな政策を取ればいいなと思っています。フリーポートみたいに、シンガポールみたいにすればいいんですけれど、それはインドにとっては都合が悪いので、政治家は斟酌しています。国民自体は、一回ネパールに来てみたらわかると思いますが、すごくリラックスしてます。パタンにも、おしゃれなカフェや宿ができて、町の雰囲気はすごくいいですよ。ネパールの発展には、日本とかヨーロッパとは異なる文化的な発展が、もっと重要になってくるかもしれないですね。まあ、未来は明るいと思いますよ。

 

高井

最後に、ネパールに日本人が行って、一番興味がある所どこでしょうか。

 

ボビン様

やっぱり、山、自然ですね。去年、標高5,000メートルのところにあるティリチョ・レイクという湖を見に行ったんです。自然は、もう涙が出るほどきれいです。ぜひ見に来ていただきたいです。

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第21回目です。
  • 第21回目は 墨田区長 山本亨様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第21回)■ ■ ■ 

墨田区長 山本亨様

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墨田区長 山本亨様 プロフィール]山本亨様

昭和36年9月25日生まれ、墨田区向島出身。

昭和59年3月 青山学院大学経済学部経済学科卒業

昭和63年4月1日 都議会議員秘書着任(平成17年7月退任)

平成19年5月1日 墨田区議会議員就任(2期)

平成27年4月27日 墨田区長就任。

座右の銘は「背私向公」、趣味特技は剣道(教士七段)

 

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫
  • 高島さつき(秘書)

取材日:2017年7月19日(水)於:墨田区役所

 


高井

墨田区の人口は伸びていますか。

 

山本様

おかげさまで伸びていまして、人口がいま26万7千人です。ひところは、例えば区のイベントでは“22万人のメッセージ”というキャッチコピーを使っていましたが、22万人を割っていた時期がありました。20年くらい前です。そこから徐々に増えていって、現在26万7千人です。昨年策定した墨田区の基本計画では、10年後には人口が27万5千人と想定していますが、もう少し前倒しで達成できるのではと考えています。

 

高井

人口が増えた要因は何ですか。ベッドタウンが増えたのですか。

 

山本様

下町の“ものづくり”の工場だったところがなくなって、跡地にマンションが建っています。東京スカイツリーが5年ほど前に開業して、その近隣エリアが大手町まで13分とか、実は非常にアクセスがいいところであると再認識されました。スカイツリーができるちょっと前から、いい状況になっています。

 

高井

工業地区だったところが住宅地やマンションになっているのですね。商業地区はどうなんですか。

 

山本様

墨田区には商店街が40くらいあります。これは墨田区に限らないと思いますが、後継者がなかなかいません。墨田区は、13.77平方キロメートルと、23区のなかでも下から6番目に小さい区なのですが、大規模な商業施設ができていますので、そうした店舗と、専門の魚屋さんや八百屋さん、お肉屋さんなど、意欲あるお店も多くありますが、後継者がいない現状におかれている皆さんが競うのは厳しいと思います。

 

高井

墨田区の観光面について教えてください。

 

山本様

もともと墨田区には、大相撲が国技館で年間3場所開催され、隅田川花火大会などの伝統行事があり、江戸東京博物館やスカイツリーなどの観光スポットもあります。

さらに、昨年11月にはすみだ北斎美術館がオープンしました。平成2年頃から、作品の寄付を受けたり、区が購入したりして葛飾北斎の作品を1500点ほど取得して、なんとか建設したいということで、前任の山﨑区長さんが努力されていたんですが、区が美術館を持つことの難しさがありまして、昨年11月22日に私の代でオープンさせていただきました。これが好調で、8か月ですでに27万人のお客様をお迎えしています。

来年の1月には、日本刀の刀剣博物館がオープンします。これは渋谷区代々木にあったのですが、刀剣美術保存協会の皆さんの協力を得て、両国にある旧安田庭園内に移転されます。その他にも、大手町にあった逓信総合博物館が東京ソラマチの8階に郵政博物館として生まれ変わり、渋谷にあった、たばこと塩の博物館もスカイツリーにほど近い、横川に移転されました。

今まで、これらは連携や関連性をもった運営は、されていませんでした。他にも、相撲博物館や花火の資料館がありますが、これから連携をとってネットワークを創り上げるなどいろいろと盛り上げていきたいと思っています。また、ハード面、いわゆる施設だけつくるのでなくて、両国地域の歴史や、江戸時代から脈々と流れる下町の伝統なども伝えていきたいと思っています。

 

高井

観光地区としては材料が有り余るということですね。オリンピックは影響はありますか。

 

山本様

3年後の東京オリンピックでは、国技館がボクシング競技会場になります。墨田区から会場が一つ選ばれたということで、これをきっかけに、区民を挙げて盛り上げていきたいですし、おもてなしの心をもって、国内外のお客様に墨田区はいいところだなと思ってもらえるように、ソフトパワーも備えていきたいと思っています。

区の基本計画に掲げる10年先の墨田区の将来像は、ちょっと大げさにいうと、国際文化観光都市として、レガシーをもって街の発展につなげていきたいと思っています。

 

高井

墨田区は、ものづくりは今でも盛んですか。行政としてどのようにかかわっていますか。

 

山本様

墨田区では、墨田区のものづくり事業者が作ったそれぞれの商品を、“すみだモダン” として認証して、販路につなげる活動をしています。ものづくりは盛んで、ガラス製品、皮製品、羽子板づくりや人形づくり等、伝統工芸にかかわる皆さんは、事業継承がうまくできています。墨田区伝統工芸保存会には若い人も参加しています。伝統工芸以外も盛んで、精密機械や部品類、ニットも有名です。

伝統工芸に携わる方々は、まっすぐ地道に努力をされている方で、自分が、自分がという人でもなく墨田の独特の職人気質の皆さんです。工場を経営している人もそうです。先進、先端技術をしっかり持っていて、地道に努力されている人が多いです。それをどう紹介して、情報発信していくのか、といった点は区が担当しなければいけないところです。

 

高井

墨田区はどういった取り組みをしているのですか。

 

山本様

東京都の事業を活用し、区内で新たな“ものづくり”を創出する拠点を整備する事業者に、整備費として2000万円を上限に補助しています。ニットだったりガラスだったり、機械工場だったり、水耕栽培だったり、印刷だったり、墨田区内では、8か所の拠点が整備されています。東京都の産業労働局との連携ですが、工場を建て替えたり、改装したりして、“新ものづくりの拠点”を整備する事業者の、ものづくりを支援しています。

また、先ほどご紹介した“すみだモダン”ブランド認証事業のほか、区内での事業承継を円滑に行うための支援事業などによって、すみだの“ものづくり”を様々な面からサポートしています。

 

高井

23区の中で墨田区はそういう支援の予算は多いんですか。

 

山本様

墨田区よりもっと面積も広く予算規模も大きい区はあると思いますが、産業支援とか、産業振興という点において、うまく効率的に支援ができていると思っています。額が大きいかどうかはなかなか比較はできません。

 

高井

成果は上がっていますか。

 

山本様

8か所の新ものづくり創出拠点は視察の方が来られるなど、いろんな面で取り上げられていると思います。各事業者の皆さんも、ご自身の事業に活かしたり、異業種との連携をしたりと拡がりを見せています。ただこの事業は5年目なので、これから実を結んでいくと思います。

 

高井

最後に、墨田区の子ども子育て支援について教えてください。墨田区は、子どもの数は多いんですか。

 

山本様

人口が伸びている一番大きい要因は、20代30代の方々の転入です。特別区民税の規模が200億円くらいですが、この3年で、8億、4億、4億と増えていますので、いわゆる納税世代、お子さんがいて働く世代の方に住んでいただいて税収も上がっています。その一方で保育園も待機児童が増えているという状況です。どこも23区は似たような傾向がありますが。

たとえば、墨田区の今年度の一般会計が年間1111億円ですが、すでに保育園の運営費だけで年間100億円かかっています。待機児童を解消しようとして、保育園をつくればつくるほど、運営費が10億円単位で増えていきます。保育園以外にも、幼稚園への支援、子育て支援総合センターの運営等、子育てに関するものも含めると、現状で予算の10分の1以上を子育て支援に充てています。

 

高井

300人規模の大規模保育園を作る計画はありませんか。

 

山本様

限られた土地を有効活用してつくるので、どうしても規模は限られてしまいますが、比較的大きい保育園では、定員150人というところもあります。限られた財政の中でできる限りの対応をしていきたいと思っています。

 

高井

分かりました。今日は時間をとっていただき、ありがとうございました。

 

以上

 


 

[次回のご案内]

次々回「時流を探る~高井伸夫の一問一答」のゲストは世田谷区長 保坂展人様です。更新は10月25日(水)の予定です。

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第20回目です。
  • 第20回目は FINEST株式会社 代表取締役 徳永美佳様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第20回)■ ■ ■ 

FINEST株式会社 代表取締役 徳永美佳様

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[FINEST株式会社 代表取締役 徳永美佳様プロフィール]

徳永美佳様お写真FINEST株式会社 代表取締役社長、一般社団法人ビジネスカラー検定協会 会長 

元ANA全日本空輸株式会社の客室乗務員。チーフパーサー、グループスーパーバイザー職を務め、客室本部(地上職)勤務ではスターアライアンス、政府チャーター、新機種導入時の客室乗務員の編成担当などを担当。JAL系の研修会社ザ・アールの研修講師、みずほ証券調査部長秘書を歴任、その後独立し、個人事務所finestを設立。2013年8月に株式会社FINEST設立。

2015年12月には一般社団法人ビジネスカラー検定協会を立ち上げ、「ビジネスカラー能力検定」の普及に努めている。

 

 

 

 

 

 

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

横倉様

  • FINEST株式会社 教育研修部 チーフ講師 横倉容子 様


    FINEST株式会社チーフ講師。的確なアドバイスとメリハリのある指導が好評。ANA空輸株式会社で客室乗務員職として乗務し、その後インテリアコーディネーター、整理収納アドバイザー資格を取得。店舗研修では接遇指導に加えVMDの視点からも指導を行い、資格を活かして指導を行っている。
  • 高井伸夫  
  • 高島さつき(秘書)

 

 

 


高井

御社の研修の特徴、強みを教えて下さい。

 

徳永様

新入社員研修もそうですが、中小企業、100人以下の企業に対する研修に強みがあります。100人以下の規模だと全ての階層では行われていなかったり、そもそも研修自体を全く実施していない企業様も多いんです。「研修なんて必要ないよ」「なんで今さらマナーなんだ」と言っている現場の人を相手に、カリキュラムを作り上げて、研修を実施して、マナーの大切さを伝えてきました。そこには様々な苦労がありましたが、今ではその経験と知識の豊富さが弊社の大きな強みとなっています。

 

高井

御社のHPに、BCMブレインマネージメントカード研修というのがありますが、これは御社独自の研修でしょうか。

 

徳永様

これは、立ち上げ当初からある研修で、弊社が作り上げたコミュニケーションツールです。最初、一人で講師をやり始めたころに、心理学を学び、様々なソーシャルタイプ分けの研究をしていくなかで、どのツールも最後の落としどころが一緒だなと感じていました。またソーシャルタイプ分けの作業では、様々なキーワードを選んでもらうのですが、ネガティブなキーワードがあることは避けたかった。例えば「威圧的」とか、「権威主義」というキーワードを他人に選ばれてしまうのは嫌だろうなと思っていました。それで、そういった言葉を全部排除したものを作ろうと意識して、独自のコミュニケーションツールが出来上がりました。

外国人の方、特に中国人の方を対象にBMCカードを使いだして、カードに中国語のテプラ貼って対応していたのですが、英語のカードを作れば、さらにいろんな国の方に分かってもらえると思い、英語のカードをつくることにしました。その際に、英語のニュアンスと日本語のニュアンスが違うなと思うものは、キーワードを変えたりしました。そのほかにも、よりソーシャルタイプ分けのヒントになるようにキーワードを作り替えるなど、創業時から少しずつ改良を加えています。ソーシャルタイプ分けについては、同じようなのがたくさんありますが、弊社のBMCはより実践的で分かりやすく、皆さんが前向きに自信をもって使っていただけるものになっています。

 

高井

一番売れているコースは何ですか。

 

徳永様

そうですね。ビジネスマナーはスタンダードなので、コンスタントに人気ですが、最近は接遇マナーの問い合わせが多いです。この接遇マナーの中に「江戸しぐさ」を取り入れているのですが、これにはいろいろな意見はありますが、弊社では江戸しぐさをもとに、古き良き日本の素晴らしい部分が残っている、思いやり・おもてなしの心、所作を「幸せしぐさ」とネーミングしています。この「幸せしぐさ」の接遇マナー研修がすごく人気です。

高井

ビジネスマナー研修、「幸せしぐさ」の接遇マナー研修、3番目は何ですか。

 

横倉様

弊社の特色を活かした「CAのおもてなし研修」も人気研修のひとつです。

 

徳永様

弊社の講師全員が全日空出身者ということもあって、その特色を活かそうと発案したものです。会議室に飛行機のように椅子を並べて、最初はお客様役になっていただき、色々な事例の対応を体感していただきます。CAは、どんな目線で、どう対応しているのか、具体的に種明かしをしていく。その後実際にCA役になってもらい、学んだおもてなしを実践していきます。当初は接客をする人を対象に始めたものですが、事務職の人にも好評で、チームワークの大切さなども学べます。CAになりたいという、CAの予備校に通っているような学生も受講して合格につながっています。

 

高井

日本のマナーを世界に広げるとはどういうことですか。

 

徳永様

弊社のコースの一つに、日本で働く外国人向けのマナー講座があります。日本で働く外国人の方からは、日本のやり方・しきたり、日本人の心をすごく求められています。研修では、日本の地域的な環境や気遣いについて、日本人が何でこうやっているのかをお話しして、理解を深めていく。外国人の方は、受講中にダイレクトに意見を言います。NGなことにはNG、納得いかない、と言ってくれるので研修の中で討論ができます。外国人とマナーについて徹底的に話し合うのは楽しいですし、彼らも、そこで落としどころを見つけてくれる、そういう場を提供することが必要だと感じています。

 

高井

御社の企業理念は何ですか。

 

徳永様

「ありがとう」です。「ありがとう」には、いろいろな「ありがとう」があります。ある作家さんの講演会で、講演の題字を書道で書く機会がありました。その講演会で、難のない人生「無難な人生」と難がある人生「有難い人生」という話があって、難があっての「有難い」を知りました。ちょうど当時、私自身、「難」が多かった時代で、今でも多いですが、自分に「難」が多い時だったからこそ、何か心に響くものがありました。それもあって、「ありがとう」を企業理念にしています。研修も理念である「ありがとう」と言ってもらえるものを目指しています。講師たちは、自分の研修の出来・不出来だけに一喜一憂してしまいがちですが、研修のアンケート結果を見ると、受講者から「ありがとう」が多かったりする。自分の研修の出来ももちろん大切ですが、「ありがとう」をもらっているなら合格点という思いがあります。

 

高井

ありがとうと言われる研修。研修終了後もお付き合いは続くのですか。

 

徳永様

100人程度の規模感の企業様が多いので、非常に距離も近く気軽にお悩みを相談していただけます。例えば、受講者の様子を知っているので、次の配属をどこにしたらいいとか、相談を受けることがあります。

 

横倉様

全部を頼りにされることが多いというか、困ったら徳永さんにお願いしましょうという企業様もありますね。

 

徳永様

弊社は、研修の一人一人のフィードバックも細かくするので、そうすると、例えば遠くに配属しても大丈夫かなとか、あの上司とは合うかなとか、そういう相談もあります。社長からはそういった報告を、「役員会で話してくれ」と言われることもあります。

 

高井

起業したことで、女性特有というガラスの天井を意識したことはありますか。

 

徳永様

実は、私は感じたことがないんです。起業して、いろいろ仕事が取れなかったり、ばかにされたりすることはありましたが、すべては自分の実力なので、女性ならではのガラスの天井を感じたことはありません。この話を、横倉としていたのですが、おそらく組織の中にいると感じるものなのだろうという結論になりました。組織の中だと、同じ実力で、こうやって頑張ってきても、女性だからということで、ガラスの天井を感じることがあるのかもしれません。起業してしまえば、かえって感じないものなのではないでしょうか。

女性特有ということであれば、逆に天井ではなく子育てや家事というベースの部分で、仕事との両立は非常に難しいと感じました。私の場合、実家も岩手で親族も傍にいないこともあり、頼れる身内がいない中で両立している見本となる女性起業家が見つからないのが一番辛かったことです。結局は子供達自身の理解と協力、親族以外の周囲の助けがありここまでやって来れました。今では自分が見本になれればと思い、頑張っております。

 

高井

ところで、徳永様は「書道家徳永青玲」としてもウィリアム王子に書を送るなど、活躍されています。書を始めたきっかけ、活動内容について教えてください。

 

徳永様

7歳から書道を始めました。公民館でおばあちゃんに教えてもらい、年を取ったら自分もこんなふうになりたいと思っていました。そして師範の資格を取ろうと思い、CAになった後も夜学などで学びました。

私は、岩手出身なのですが、震災の後、どうやったら地元の人を励ますことができるかを考えていました。地元の人の励ましの言葉なんて要りません、という声もあるなかで、例えば「ハッピー」を、「羽が飛ぶ」で「羽飛(ハッピー)」と読む。こういう書だったら、「頑張れ」と言うのでもなく楽しめるかなと。それで、書に色も入れていきました。色彩心理で、「青だったら地球規模の愛ですよ」とかいうのを、ちょっとずつ始めて、それで読んでくれる人もいたりして。そんな活動をしているうちに、今度は、外国人の方から、自分の名前を漢字にしてくれという依頼が来るようになりました。まさかウィリアム王子の書を書く日が来るとは思ってもいなくて。

千本ノックと言って、「書彩」、英単語を全部で1000個書く取り組みを始めています。今は、560個くらいまで書いています。拙い書ですが、喜んでくださる人がいて今後も続けていきます。

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第19回目です。
  • 第19回目は 株式会社サイバーエージェント人事本部事業推進室長野島義隆様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第19回)■ ■ ■ 

株式会社サイバーエージェント
人事本部事業推進室 室長  野島 義隆 様 

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野島様[株式会社サイバーエージェント 
人事本部事業推進室 
室長 野島義隆様プロフィール]

1973年神奈川県鎌倉市生まれ。

 ベンチャー企業の立ち上げを経験後、2003年サイバーエージェントに入社。インターネット広告事業本部営業局長を経て、2013年新規事業子会社の取締役に就任。2013年に人事本部へ異動後、2015年より現職。

 


[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 宮本雅子(秘書) 

 

 


 

高井

御社の業績はいかがでしょうか。

 

野島様

7月に第3四半期決算発表をさせていただきましたが、年間の予算計画に対して堅調に推移しております(注2017年7月末現在)。注力事業であるインターネットテレビサービスであるAbemaTVのダウンロード数も順調に伸びていて、今(同上)開局1年4ヶ月で2,000万ダウンロードを超えました。利用者もだいぶ増えてきて、手探りから手応えを感じている状態です。

 

高井

インターネットとテレビの融合という企画にチャレンジし始めて、融合はどんどん進んでいるのでしょうか。テレビ事業の資金源はゲーム事業ですか?

 

野島様

おかげさまで一定の手ごたえを感じています。若者のテレビ離れに対しスマートフォンで動画視聴が進めば「新しい視聴習慣の創造」を実現できるのではと思っています。実際は若者中心ではありますがその他の世代にも使われていて、月間900万人以上(同上)の利用者の方に使っていただいております。

積極投資は広告やゲームといった既存事業が支えている形になっております。ゲーム事業はスマートフォンゲームが堅調に推移しております。また、広告事業も動画広告中心に好調に伸びております。海外拠点も増やしさらに拡大中です。AbemaTV以外のメディア事業も市川海老蔵さんなどに活用していただいているアメーバブログや若い世代に人気のマッチングサービスなどが伸びてきております。

 

高井

ところで、御社ではAIは活用されていますか?

 

野島様

社内にAI研究機関である「AI Lab(エーアイラボ)」があります。現在大阪大学、東京大学、米イェール大学、東京工業大学、理化学研究所など複数の機関と産学連携を行っております。また、事業としてはAIを活用したチャットボット(注1)事業である「AIメッセンジャー」を展開しております。

人事領域でのAI活用については、現在人材科学センターと人事システム室を設置し活用の検討をしている状態です。

(注1)チャットボット:人工知能を活用した「自動会話プログラム」

 

高井

御社ではインターンシップがかなり活発ですね。

 

野島様

そうですね。サイバーエージェントのことをもっと知ってほしい、事業の現場をリアルに体験してほしいということで積極的にやらせていただいております。

インターンの種類もいくつかあって、ワンディ(1日)か、3日間が多いですが、長期インターンも実施しています。広告をやりたい、ゲームをやりたいなど分野で選ぶ方と、経営者とか新規事業の立ち上げをやりたいなどキャリア軸でのコースの両方があるんですけど、どちらにも、まんべんなく集まっています。

 

高井

インターンの面接ではどういった人を採るのですか。

 

野島様

まずは弊社のビジョンである「21世紀を代表する会社を創る」に共感していただける方です。一緒に会社を創っていく方を求めているのでその考えに賛同していただけるかが重要です。

また、素直で良い人を多く採用するようにしています。インターネット業界は変化の多い業界です。頑固で変化に対応できない人はうまくいかないことがあります。採用基準ということではないのですが人事で活躍している人材の特徴を話したことがあります。野心があり、行動力があり、成果が出せるかどうか。野心と行動力、この二つができている人は多いのですが、最後に成果を出すところにこだわれるかが重要ですね。最後、球際(注2)で成果を出すところまで頑張らなきゃいけない時も多く出てくるので。

(注2)球際:野球やサッカーで,ボールを勝負どころぎりぎりで打ったり捕球したり,あるいは蹴ったりすること。


高井

御社の平均年齢と社員の男女比について教えてください。

 

野島様

平均年齢は31歳強です。私が入社した時は平均年齢27歳ぐらいだったので、少し上がりました。男女比は、男性7対女性3ぐらいです。ビジネス職は、女性比率が高いのです。エンジニアの職種は、ほぼ9割近くが男性です。執行役員は10人中1人のみ女性ですが、マネージメントをする管理職は20%くらいが女性です。女性で2年目から管理職になる人もいます。

 

高井

女性が多いということで気を付けていることはありますか。

 

野島様

あまりマネージメントとしては変わらないですかね。あるとすれば、女性はライフイベントがあるので、目標設定のところで短期的に一番頑張れるところを引き出せるようにしています。

 

高井

今の若者がゆとり世代という感覚はありますか。

 

野島様

感じることは少ないですね。面接の際に、何がやりたいですかって聞くと、「裁量権がある仕事がしたいです」「新規事業をやりたいです」という人が多いのでよく言われるようないわゆるゆとり世代の人は当社には少ないのかもしれないですね。

 

高井

新規事業と裁量権がある仕事がしたいと。若手での実績はありますか。

 

野島様

内定者が入社までの間にアルバイトをしていた時に社長に抜擢されたことがあります。毎日日記のようにスマートフォンに写真をアップしていく写真共有アプリを本人が趣味で作っていたところ、それを会社化しました。その会社は、今、業態を変えて、スマートフォンのマーケティング会社になったものの、大きく成果を出しています。このように入社年次の若い世代が事業責任者や子会社社長に抜擢される事例は数多くあり、若手の活躍土壌としてはチャレンジしやすい環境だと思っています。

 

 

高井

それは素晴らしいですね。他に例はありますか。

 

野島様

女性が2年目からマネージメントに登用されることがあったり、20代のうちにサイバーエージェントの取締役に抜擢されることもあります。若手の抜擢機会は、会社全体にもチャレンジを実現できるという意識が増え、実際実現する機会も増えて行く良いサイクルになっていると思います。

 

宮本

会社としての大きな目標、掲げていらっしゃる社是というのは何があるんですか。

 

野島様

社是というものはありませんが、ビジョンとして、「21世紀を代表する会社を創る」というものがあります。このビジョンができて、会社の雰囲気も変わったと思います。私が入社したころは、目標が複数あり、何を目指せばよいのかわかりませんでした。そこで1つのビジョンに絞ったことで、みんながビジョンに向かって個性ある様々な発想を持ち始めました。

 

宮本

野島様にとっての21世紀を代表するっていうのは、どういうことになりますか。

 

野島様

この質問は学生にも面接で聞かれることが多いんです(笑)。私の個人的な意見になりますが、みなさんの想像する20世紀を代表する会社であるトヨタやソニーのように、世界的に圧倒的な成果を出し、かつその企業自体が多くの方に愛されているという2つが成り立たないといけないと思っています。これからも世界中で使われるようなサービスを提供し、みなさんに応援してもらえるような会社をつくらなきゃいけないと思っています。

 

高井

社会貢献、社会のため、国家のため、企業のためとよく言いますが、何をやったら社会のため、国家のため、企業のためになるのか、どうしても利益を上げることに目が行きがちですが、それを具体化することが愛されることにつながる。社員がこうなればいいとそれぞれ思うことを実現していくということ、21世紀を代表する会社、21世紀に誇れる会社になるというのは素晴らしいと思います。頑張ってください。

以上

 

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第18回目です。
  • 第18回目は、法政大学名誉教授諏訪康雄先生です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答(第18回)■ ■ ■ 
法政大学 名誉教授 
諏訪康雄 先生 

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[法政大学名誉教授 諏訪康雄先生 プロフィール]

1972年一橋大学大学院法学研究科修士課程修了、1974年~76年ボローニャ大学(欧州最古の総合大学)留学。1977年東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学、法政大学社会学部専任講師、教授を経て、2001年法政大学大学院政策科学研科教授、2008年同政策創造研究科教授、2009年労働政策審議会会長、2013年法政大学名誉教授、2013年~2017年2月中央労働委員会会長。

2017年6月より、認定NPO法人 キャリア権推進ネットワーク 理事。

著書に「雇用と法」(放送大学教育振興会・1999年)、「キャリア・チェンジ」(編著・生産性出版・2013年)、「雇用政策とキャリア権―キャリア法学への模索」(弘文堂・2017年)等。

諏訪康雄先生と高井伸夫

写真左から諏訪康雄先生、高井伸夫

[今回のインタビュアー・同席者は以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 宮本雅子(秘書) 

取材日:2017年6月15日(木)日本工業倶楽部会館2階ラウンジ

 


 

高井

キャリア権というものを発想して何年ですか。

 

諏訪先生

キャリア権の基本構想が自分のなかでまとまったのは1995年ころですから、22年ぐらいでしょうか。初めて海外の国際学会で発表したのが1996年です。オーストラリアのホバートの国際労働法学会のアジア支部大会で報告しました。その時はまだキャリア形成への権利という感じで説明をいたしておりました。

それを今のような姿に近い形にまとめて説明をしたのが1998年ボローニャ(欧州最古の大学がある)での国際労使関係研究学会の世界大会です。総括報告者として提唱をいたしました。これは多少反響がありまして、スウェーデンの研究者がいたく関心を示してくださいました。スウェーデンでは、失業給付を出す条件として然るべく教育訓練コースに行くことなどを義務付けるわけです。さまざまな再チャレンジ措置などの一連の政策措置はキャリア権という概念を使うと位置づけしやすくなるということのようです。

 

高井

今、キャリア権を勉強している学者はいるんですか。

 

諏訪先生

日本でキャリア権は随分、反応が出てくるようになりまして、労働法学者だけでも10人以上がキャリア権に関して議論や言及をしてくださっている(他分野の研究者でも少なからぬ言及がある)。比較的、有力な研究者が反応を示してくれています。実は今、労働法学会は新しい「労働法学会講座」(全6巻)を刊行していますが、ついに「キャリア権」を扱う1章が登場し(慶応義塾大学の両角道代教授が担当)、いわば学会に認知された形になりました。おかげさまで、ようやく単独説状態を脱して「有力説」扱いとなったようです。しかし、多数説になるかどうかは世の中の流れを見ませんと分からないですね。ともかく、塩崎恭久厚労大臣(注:インタビュー当時)もキャリア権という言葉を知っているところにまでは今、来ています。

 

高井

若手でキャリア権を研究している人はいるのでしょうか。

 

諏訪先生

先日、東大の労働法研究会からの依頼で、キャリア権をめぐる諸問題について報告いたしました。辛抱強く種を撒き、育てていけば、研究テーマにキャリア権を選ぶ人が、いずれ出てくると思っています。例えば、就労請求権をもっときちんと考えるというのはキャリア権を具体化していくときのコアになる重要な権利概念ですから、誰か若い人にドクター論文等でやっていただきたいと希望しています。

ただ、どうしても、日本型雇用慣行の中で、就労請求権を強く言うと、いろんな形で難しい副次的な問題が起きます。今さら言うまでもなく、消極説をとる裁判所もそういうふうに見ているのでしょう。そういった問題があるだけに、私は若い人にとっては非常にチャレンジングないいテーマだと考えています。

 

高井

キャリア権が多数説になるにはどうすればいいのでしょうか。

 

諏訪先生

結局は、仕事の世界と日本型雇用形態がどう変わっていくかが影響するでしょう。日本型雇用が変わっていったとき、これまでの人材育成や処遇の方式が変わって、キャリアをもっと正面から重視しないと企業も従業員も前へ進めないということになれば、少なくとも理念的には、キャリア権という考え方への関心も高まってくると思います。

 

高井

先生の考える、キャリア権の今後の展望について教えてください。

 

諏訪先生

これからの時代は間違いなく個人のキャリアを大事にしないと回らなくなると思います。AIやロボット化などのイノベーションが起こる。そういう中で人が持つ創造性、統合力、コミュニケーション能力や人間的な魅力がますます重要になってきます。創造性や人間的な魅力は、外から他人が押し付けてどうなるもんではないです。外から刺激を与えて人々がその方向に動き出すようにすることは大切ですけれども、その後は個々人が主体的に対応しなければ能力形成はとても無理です。これからの労働、仕事の世界で非常に重要な部分は、人が主体的にキャリアを形成していくという基本線に依拠していくと思います。

 

例えば、グーグルの人事担当者が書いた「ワーク・ルールズ!」という本には、読むとびっくり仰天するようなことがいろいろ書いてあります。それを読み、また、日本でのクリエイター企業の人事の話を聞くと、最先端のコンテンツ産業とか、IT産業はどういう働き方をさせなきゃいけないのかというのがかなり見えてきます。さらにそういう産業の最先端では、従来、製造業をはじめとする企業でやっていたような査定という問題、人事評価をこれまでと同じような形ではできないのではないかと思えます。

 

高井

従来の査定、人事評価ができなくなるのですか。

 

諏訪先生

評価の仕方は、徐々に、専門領域などを理解し、かなり中長期的な視点で見ていかなくてはいけなくなってきます。そうすると、まるで大学の先生や芸術家への評価みたいなものに近づいていくようです。そうなってくると、ここでも重要なのは当の本人がキャリア意識を持って、キャリアを形成していくという意欲や習慣やスキルを持つことではないかと思っています。

このように考えると、100人働く人がいたとき、全員がそうだとまでは思いませんが、最先端を走る人たちにとってキャリア形成が喫緊の課題となるだけでなく、知的なものを含めたサービス業や感性労働に従事する人たちにとっても、また、組織内でさまざまな仕事をする人にとっても、この仕事なら〇〇さんだよねという、独自の個人ブランドの形成が要請されていくことでしょう。物を売るにしても、商品やサービスをめぐるストーリーを作って、消費者の要望を満足させていく、そのような働き方をする人たちにとっては、キャリア形成というものがさらに重要になってくると思います。

知識集約産業ではこういう知識を担う人材の争奪戦が起きていますが、各種の知識サービスや感性サービスを担う人材の能力形成も重要な課題になり、そのためにはその人たちのキャリア権みたいなものをしっかり踏まえて、それを支援したり、尊重したりしていくことが不可欠になるのではないかと見ています。

 

高井

キャリア権の法制化が具体的に実現するのはいつ頃でしょうか。

 

諏訪先生

私は今から30年くらい前に、テレワークについて熱心に調査していました。当時は世間の反応が乏しかったのですが、今や働き方改革の目玉の一つとなっています。それらの経験からしますと、時代が追いつくのに30年ほどかかりますので、キャリア権も唱え始めてからまだ20年ほどですから、あと10年ぐらいはかかるかなと思っています(笑)。

 

高井

キャリア権を法制化するには、どういった方法があるのか、先生のお考えを教えてください。

 

諏訪先生

キャリア基本法というような形だったら超党派的にやれる可能性があるのではないかという気がしております。その中に、スポーツ基本法の前文でのスポーツ権と同じように、あるいは別建ての理念規定の条文として、キャリア権の理念を書き入れる方向が考えられます。そうなりますと、もう一段先へ行けるかなと思っています。

平成13年職業能力開発促進法改正により「職業生活」にキャリアの意味が明確に盛り込まれてから、厚生労働省系の法令では、多くの法令に「職業生活」という言葉が入ってきました。女性活躍推進法の場合は、「女性の職業生活」という言い方で女性のキャリアに関連する言葉がついに法律のタイトルにも入りました。「職業生活」に何らかの形で言及する法令は、はや49本になりました。

ところが、厚生労働省とほぼ同時期にキャリアの問題(キャリア教育)に着手した文部科学省は、その根拠になる特段の法を作っていないようです。教育基本法の諸規定を読み込むことで導き出せるとの考えでしょうが、免許状更新講習規則で「キャリア教育」の語が出てくる程度です。私は文部科学省系のキャリアの定義と厚生労働省系のキャリアの定義が大きくかい離することはよろしくないと懸念していますし、キャリア教育の基礎にキャリア権を置くことが望ましいと思っています。

よく知られているように、こういった省庁間の調整は極めて難しいので、議員立法で解決をはかる。議員立法で、キャリアの尊重と形成というところだったら、おそらく総論ではまとまると思っています。

 

高井

議員立法は可能性がありそうですね。

 

諏訪先生

漠としているにせよ、ともかくこれからの時代は個々人のキャリアを尊重し、伸ばすようにしていかないと、個人も、企業も、社会もきわめて難しい事態に遭遇すると懸念されます。それだけに、子ども、若者、さらには若手社員、中年、中高年へのキャリア教育・学習は、どれも不可欠です。

いずれにしても、文部科学省が生涯学習政策局を有し、また、学校でのキャリア教育を担っているのですが、キャリア教育はキャリア権を踏まえたものであるべきだと考えます。個々人のキャリア権を実現する基礎、前提としてキャリア教育があると考えています。また、経済産業省も産業人材という観点からキャリアの問題にやはり関心を示しています。とはいえ、経済産業省と文部科学省と厚生労働省の間で調整をさせて、キャリア権に関する基本法の制定をしようなんていったら、これはもう大変な時間と手間がかかるのではないかと想像します。そこで結論として、議員立法のほうがいいかなと考えています。

そのようにして成立する基本法や関係諸立法を踏まえ、実務の現場がそれぞれに工夫して、キャリア尊重と支援により、労使にも社会にもウィンウィン関係が成立するような時代が来ることを切に願っています。

 

以上

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第17回目です。
  • 第17回目は、ナミHRネットワーク 代表 人事コンサルタント 川浪年子様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第17回)■ ■ ■ 
ナミHRネットワーク 代表
人事コンサルタント 川浪年子様
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[ナミHRネットワーク 代表 川浪年子様 プロフィール]

川浪様

1947年、東京下町生まれ。フジテレビ、外資系旅行代理店を経て21歳で結婚し、夫の転勤に伴いグァム島に転居。現地で女児を出産した後、香港系の免税店にてセールズクラーク兼在庫管理要員として勤務。 

帰国後1976年、米国デュポンの日本支社入社、同時に離婚。デュポンで総合職に抜擢され、1990年にはアジア太平洋地区初の女性情報システム部長に就任するも、米国留学の夢をあきらめきれず、デュポンを退職した翌1993年米国バーモント州SIT大学院に入学。 

1995年、異文化マネジメント修士号を取得。帰国後東京ベイヒルトン 人事部長、リーボックジャパン 人事総務部長、エース損害保険 取締役人事部長を歴任、エース保険米国フィラデルフィア本社 国際人事部、中国の華泰(フアタイ)保険北京本社人事シニア・アドバイザーを経て、2004年9月にエースを退職し帰国。翌2005年、駐日英国大使館人事マネジャーに就任。定年退職した2011年8月より人事コンサルタントとして独立。

一方、2010年より3年間にわたり、英国国立ウェールズ大学経営大学院 東京キャンパスにおいて 日本語MBAプログラム の一環として「リーダーシップ」コースの教鞭をとる。2013年より海外産業人材育成協会が主催する、スリランカで選抜された企業幹部向け二週間の「シニア・マネジメント・リーダーシップ・プログラム」のコースディレクターを務め、本年11月に5期目を担当する予定。 

人事分野に直接携わってきた直近の22年をはじめ、長年、組織の変革及びリーダーシップの開発に格別の情熱を注ぎ、幅広く関わってきた。

 

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 株式会社開倫塾 代表取締役社長 林明夫様
  • 高井伸夫 
取材日:2017年5月18日(木)日本工業倶楽部会館2階ラウンジ

 

 


高井

川浪さんは今、どのようなお仕事をされていらっしゃるのでしょうか。

 

川浪様

2011年に独立し、人事コンサルタントとして活動しています。2年前から、Xcendant(センダント)いう名前のスリランカのIT企業と、日本のIT企業である株式会社ウィザードの顧問として、両社のコミュニケーションのサポートをしています。また、その他にはリーダーシップ開発に関するセミナーのファシリテーターを頻繁に行っています。毎週、スカイプでの会議に参加し、両社のビジネスに関するやり取りのほとんどを把握した上で、サポートしています。

 

高井

スリランカの会社はどういったことを希望しているのでしょうか。

 

川浪様

日本からシステムの開発を請け負いたいんです。オフショア開発(注)と言われていますが、それがかなり盛んで、日本に進出したい、パートナーを見つけたいという会社が多いんです。センダントとは2年以上前に仕事を通して知り合いましたが、日本でパートナーを探してほしいと依頼され、ウィザードが、私が拙い力でようやく見つけた日本のパートナーです。

注:オフショア開発とは、情報システムやソフトウェアの開発業務を海外の事業者や海外子会社に委託・発注すること。営業や企画、設計、納品、サポートなど顧客に近い業務は本国で、実装やテストなどを海外で行なうといった形で分業することが多い。 

センダントが開発した他のシステムを、日本の社長にもスリランカに行って見ていただく機会があり、センダント社がインドの企業にも決して劣らないシステム開発力を持っていることがわかりました。それから双方で様々なプロジェクトが盛んに行われています。まだまだ決して成功していると言えるところまでは行ってはいませんが、必ずや上手く行くと信じています。

 

高井

ところで、川浪様の経歴について教えてください。かつて所属したことのある会社の数、仕事の内容をそれぞれ教えてください。

 

川浪様

今まで、わずかな期間でも籍を置いた、あるいは常駐した会社を含めると17社です。一番最初はフジテレビで1年8か月在籍し、人生最初の転職をしました。今はもう存在していないと思いますが、トラベルセンターオブジャパンというアメリカの旅行会社で、帝国ホテルのロビーにあるブースでした。その次がリオ・ティント・ジンクというオーストラリアの大きな鉱山会社の日本における連絡事務所です。

 

その次は、結婚して夫がグァムに転勤になったので、グァムの免税店で働きました。3年余り勤務し日本に帰国し、帰国後は、アンドリュース商会という、イギリスの会社でアシスタントをしました。娘が小さかったため、パートで働き、そのあとに、デュポンジャパンに入ったんです。デュポンには16年いました。

 

デュポンを辞めてから、アメリカのバーモントにある大学院に2年間留学しました。この大学院では、キャンパスでの授業が1年間フルにあり、そのあとどこかの組織でインターンを半年以上やらなければいけないという大学院でした。インターンを終えて、サンフランシスコへ移りました。大学院の卒業論文は、世界中どこで書いてもいいので、サンフランシスコでは卒論を書きながら、州立大学で自分の好きな人事関連の科目を受講しました。

 

高井

大学院とは別に、サンフランシスコ州立大学で社会人教育を受講されたんですか?

 

川浪様

はい、“生涯教育”と呼んでおり、ダウンタウンに教室がありました。私は、Legal Aspect of Human Resource Management”と言って、日本語に訳すと、“人事管理の法的側面”とでもいいましょうか、それと人材育成関連のコースを受講しました。大学院で修士号をとり、サンフランシスコでの生涯教育も終え、そのあと5週間くらい、第二外国語として英語を教える方法だけに特化している専門学校に行きました。英語を初めて学ぼうとする人達に、最初から限られた英語を使ってどうやって英語を教えて行くのかという授業です。

 

林様

第二言語習得理論というのがありますが、それに基づいた第二言語としての英語を教える特別な資格ですね。

 

高井

日本に戻られたのはいつ頃ですか。

 

川浪様

日本に帰ってきたのは、1995年9月です。そのあとすぐに、東京ベイヒルトンに就職いたしました。はじめての人事部長のポジションでしたが、仕事に対しては、ほとんど違和感がありませんでした。これは全くデュポンのおかげだと思います。

デュポンという会社には16年間在籍しましたが、当時リーダーを育成することに力を入れていました。部門にかかわらずどのリーダーも人事というものをかなり理解させられていたんです。ただ、ヒルトンで一番大変だったのが組合との折衝でした。情熱あふれる若者が数多くいる組合で、あっという間にいい関係を築くことができましたが、その反面、トップからの信頼よりも組合からの信頼の方が大きくなってしまい、一年もしないうちに辞めることになりました。

ありがたいことに、スニーカーのメーカーであるリーボックからヘッドハントされて、人事・総務のトップになりました。しばらくして昇格して香港転勤をオファーされました。最初はかなり喜びましたが、香港に行く直前になって、リーボックが全世界でリストラをやることになったから、日本でも終えてから行ってくれと言われました。リストラを無事に終えますと、今度はオフィスの引っ越しをするから、リロケーション・プロジェクトをやってから行って欲しいと言われたのですが、そうこうしているうちに、エース損害保険からヘッドハントされました。そこで高井先生と出会うわけです。

 

高井

リーボックで昇格して香港には行かずに、エースに転職されたのは何故ですか。

 

川浪様

一つはヘッドハントされて誘われたというのがありますが、実はずいぶん悩みました。鉛筆を倒して、香港に行こうか日本に残ろうかと・・・。が、香港ではやることが決まっていました。リストラです。日本から女性のマネジャーがきてリストラをやる、それが現地の人にとってどんなに嫌なことかと考え始めました。そんな嫌な役をやるよりも、日本でこれだけ求められている、大変かもしれないけどエースに入った方がいいのではないかと思い始め、転職の決意をいたしました。エースでは日本で4年、フィラデルフィアと北京で2年と、合計6年間在籍しました。

 

高井

エースで6年勤められて、その後、どちらへ転職されたのですか。

 

川浪様

エース保険が筆頭株主となった中国の華泰(フアタイ)保険北京本社に人事のシニア・アドバイザーとして出向していた際に、ハートフォード生命というアメリカの会社からヘッドハントされて日本に帰ってきたんです。残念ながらアメリカ人のCEOと考え方がまるで違いました。当時、ハートフォード生命は大成功していましたが、ビジネスの展開と組織の拡大とがそろっていなかったのです。こんな時こそ、新しいことを考えなければならないと思っていたのですが、トップは型にはまったままでとにかくやれ、と。それでいて毎晩、その日のリポートを提出させられました。結局、区切りとなる半年間だけ勤務して辞めることにいたしました。

そのあと直ぐに、英国大使館の募集を見て応募し、人事マネジャーになりました。

 

高井

英国大使館には何年勤務されたのですか。

 

川浪様

58歳から64歳までの6年です。英国大使館が日本に来て130年経っていたのですが、初めての人事マネジャーとなりました。あらゆる変化が求められている時期でした。私が手掛けた一番大きな変革は、年功序列からパフォーマンス・ペイシステムへの移行でしたが、多くの反対もあり、大変な苦労をしました。が、結果的にはかなり上手く行き、やりがいがありました。64歳になり、自分が作った就業規則に基づいて、私が定年退職者の第一号になりました。

 

高井

64歳で自身が作った就業規則に則って定年退職された。今まで川浪様が在籍された企業は外資系企業が多いようですが、一番働きやすかった企業はどこですか。

 

川浪様

この50年間、日本の企業はフジテレビだけで、あとは全部外資系でした。デュポンの16年をはじめとして、アメリカの企業が一番長かったことになります。一言で言いますと、アメリカの企業がもっとも働きやすかった印象はありますが、それよりも、人事をやるようになってから考えたことは、働きやすい、働きにくいというのは、上司、つまりトップがどういう人かにつきると思います。部下を信頼できずに、小さいところまで管理するような上司、トップのもとでは働きにくいとつくづく感じています。

 

高井

まさにトップ次第ですね。ご自身の定年は考えていますか。

 

川浪様

4月に70歳になりました。定年についてはよく考えますが、「ノー」というのが苦手なもので、次から次へと新しいお話をいただいているうちは、働き続ける・・・それが私の生き方かなと思うようになってきた今日この頃です。

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第16回目です。
  • 第16回目は、有限会社横内商店 代表 横内誠様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第16回)■ ■ ■ 
有限会社 横内商店
代表 横内 誠 様
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[有限会社横内商店 代表 横内誠様 プロフィール]

昭和49年8月8日生まれ。有限会社横内商店代表。

『究極の産地直送とは?』を考え、自らも生産者になることを決意し、2006年の銃砲所持許可免許を取得し、2007年から狩猟者(ハンター)となり、自ら狩猟した獲物を食材として販売。日本にない食材をつくるべくフランスより食用鳩を輸入し、茨城の提携農場にて食用鳩専門農場を設立し現在も一流レストランに卸業務を行っている。その他にも大学と提携し究極の赤身牛肉の生産販売や循環型畜産にて生産されるエコ食材の精力的な販売など行っている。

2006年銃砲所持許可免許取得から夏場はクレー射撃の練習を行い続けた結果、現在クレー射撃日本代表として海外の試合などに出場。2014年アジア選手権大会(UAE)10位、2012年アジア選手権大会(インド)16位。その他、世界選手権・ワールドカップに多数出場。国内の大会では2016年岩手国体スキート種目 優勝。

横内様、新井様お写真

写真は、右から横内誠様、新井由可様
日本工業倶楽部会館2階ラウンジにて2017年5月10日撮影

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 新井(横内)由可 様
  • 昭和52年3月21日生まれ。
    オリンピックテレビ観戦をきっかけに9歳で 器械体操を始める。1990年に全日本選手権大会個人総合7位入賞、その後、数々の国際大会に日本代表として出場。段違い平行棒の降り技で新技に挑戦し、後に「ARAI」というE 難度の技が誕生。自分の名前の技を持つ体操女子選手は日本で3名のみ。18歳でクレー射撃へ転向後、日本代表として数々の国際大会に出場。現在はパーソナルトレーナーとして活動するとともに後輩選手のセカンドキャリア相談・支援も行っている。

  • 高井伸夫 
  • 高島さつき(秘書)
取材日:2017年5月10日(水)日本工業倶楽部会館2階ラウンジ

 

 


高井

ジビエは業界全体で伸びているのですか。

 

横内様

ちょっと前に比べると伸びていると思います。なぜかと言うと、昔はジビエの流通が悪かったので、ジビエ食材が行き来しませんでした。今は流通が良くなって物量が増えたのと、それを告知する報道とか、雑誌、書籍等が増えていますので、みんながジビエを食べようという気持ちになっている部分があります。ジビエに対して、「行ってみたい」「ヘルシー」というふうにイメージが変わってきています。

 

高井

ジビエを提供するレストランは増えているんですか。

 

横内様

増えています。いろんな人がジビエ食材を使う事によって、いろんな料理方法で提供され、メニューが増え、お客さんも選択肢が増えていると思います。今までは、そもそもジビエを扱っているレストランが少なかったので、ある一定の料理でしか提供されなかったのが、色んな考え方の色んな人が料理するようになった。フレンチだけでも、クラシカルな伝統的な料理を作る人もいるし、今の新しいモダンなものを作る人もいる。食べさせ方、ソースの付け方、熟成のさせ方が変わってきています。そういう意味ではフレンチは奥が深いです。

 

高井

素人におすすめの、馴染みやすいジビエを教えてください。

 

横内様

馴染みやすいのはカモです。それなりに美味しいやつは高いですが・・・。ジビエ食材は、獲るのも大変ですし手間がかかっている分、付加価値を付けて出したいというレストランが多いです。カモの他には、シカでしょうか。流通量も多いですし、食べやすさからしたらシカが一番食べやすいかもしれませんね。

 

新井様

シカ、カモ、は初級編ですね。

 

高井

具体的にはどういったお店がありますか。おすすめのレストランを教えてください。

 

横内様

この辺り(注:丸の内)だと、「ブラッスリー ギョラン (Brasserie Gyoran)」さん、このお店のシェフは一緒に狩猟をやっています。シェフ自らが獲りに行く。もちろん僕が獲ったのも卸しています。キジ、カモなどの鳥類や、珍しいところだと、コジュケイ(小綬鶏)だとか、ヒヨドリなどを獲っています。

 

高井

ジビエのダイヤモンドと呼ばれる食材はありますか。

 

横内様

ダイヤモンドと表現するものは聞いたことはありませんが、フランスの表現で、ヤマシギ(山鴫)はジビエの王様とか女王様と呼ばれています。一皿1万円くらいします。

 

高井

一番おいしい食材は何ですか。

 

横内様

好みがあると思いますが・・・、新鮮なカルガモ、もしくは1か月くらい熟成させたくらいのキジでしょうか。

 

新井様

フランスではもともとキジは、1か月くらい熟成して、腐りかけたものを食べるんですって。ぶら下げて行って、首がとろーっと伸びてくるんです。それくらい伸びてくると食べごろとなるそうです。熟成させた方が、味がよくなり香りもでるようですよ。

 

高井

横内様は、具体的にどこでどうやって狩猟をしているのですか。横内様の狩猟スタイルを教えてください。

 

横内様

地元の狩猟免許を持ったおじいちゃんたちと組んでペアでいきます。犬を使って獲物を見つけて、追い出して、飛んだところを鉄砲で狙います。獲物は特別な場所に生息しているわけではなく、身近なところにいるんですよ。

近郊だと千葉の雑木林とか、銚子辺りまで行くと、キャベツ畑で作業をしている農家の方の横を「こんにちは」なんて挨拶して通り過ぎたりすることもあります。キジは嘴でキャベツをつつくから農家さんにとっては天敵なんですよ。

 

高井

今年のヒットは何ですか?

 

横内様

今年はヤマシギですね。40羽くらい獲りました。日本では、ヤマシギを獲る人が少ないんです。鉄砲撃ちはそれなりにいますが、ヤマシギがいる場所を知っている人が少ないんです。それと、犬を連れていても、犬がヤマシギの匂いを知らないとヤマシギがいても分からない。犬は匂いを知っているか知らないかなので、僕らは犬に匂いを覚えさせて獲っているんです。

 

高井

ヤマシギの匂いを犬に覚えさせて獲るとは、どうやって犬に匂いを覚えさせるのですか。

 

横内様

親犬の猟に子犬の頃から連れていきます。親が獲ったら、内臓を出させて、子犬に食べさせるんです。これは美味しい、と子犬に匂いを覚えさせるんです。覚えると、その匂いを求めて追いかけるんです。獲物がいたら、しっぽをピーンと振るんです。ここにいるよ~と。そこで僕らは構えて待っていて獲るんです。

 

高井

一番難しい、大変だった猟について教えてください。

 

横内様

ここ2~3年は行ってませんが、北海道の蝦夷ライチョウはなかなか獲れません。日本ライチョウは獲ったらだめですが、蝦夷ライチョウは獲ってもいいライチョウです。生息数が本当に少ないんです。朝一から北海道の山奥の小川のほとりで、おびき寄せるためにピーピー笛を吹くんですが、なかなか出てきません。寒いし、吹きすぎて酸欠になって、もう頭がいたくなるんですよ。笑

 

高井

蝦夷ライチョウは高価なんですか?

 

横内様

むちゃくちゃ高いです。北海道まで行って、僕が笛を吹く料金がかかってますから 笑。ただ、1日1羽も獲れないので、面白くないから誰もやらないんですよ。僕は高く売れると思ってやりますが、商売をやってきて、まだ6羽くらいしか獲ったことがないです。何回北海道を往復していることか・・・。蝦夷ライチョウは大赤字です。

 

高井

熊の胆嚢は癌に効くと聞いたことがありますが、マタギと呼ばれる人達から獲物を卸してもらうことはありますが?

 

横内様

僕が知っている人で、岩手と北海道でそれぞれ獲物を獲って皮をなめして販売したり、普通の時期は野菜を作ったりして生活している人がいます。その人たちは、認可を受けた解体場を持っていない人が多い。四つ足に関しては、認可を受けた解体場で解体したものしか買わないようにしています。そうでもしないと、法律が甘すぎるんで、何かトラブルがあった時に、だれも責任を負えなくなってしまうんです。ですから彼らから買わないのではなく、買えないというのが現状です。扱っている食材は、お客さんの口に入るものである以上、衛生面がしっかりしているところでないと、という思いがあります。そこの部分だけはちょっとナーバスになります。

 

高井

ジビエの仲買人をするためには、どういった資格が必要ですか。

 

横内様

僕の場合は狩猟登録、ハンターとしての免許と、食肉の販売免許、この2つでやっています。実際に販売するに当たっては、おそらく販売免許も何にもいらないと思います。まだ、そういった決まりがないんです。販売するところさえ持ってたら、ど素人でもジビエを販売できます。例えば高井先生が獲ってきたら、僕が500円で買いますよ。笑

 

高井

ジビエ・狩猟に関するの日本の問題点は何ですか。

 

横内様

疑問になりますが、日本では、狩猟をすること、鉄砲を使うことは引け目を感じる部分があります。法律的にも厳しくなってきています。国が、銃、鉄砲を持たせないようにする、という流れがあります。一方で、狩猟者が少なくなってきているから、農作物への被害が年々増え深刻化しているのを受けて、狩猟者の育成に国が補助金を出しています。あい反することをやっていてます。

 

高井

管轄している省庁はどこですか。

 

横内様

環境省が狩猟に関しての免許を全部発行しています。あくまでも駆除、生体の調整が目的ですが。一方で、鉄砲を持たさないようにしているのは、警察庁です。

 

高井

安全、防犯か、環境整備か・・・、国の姿勢に一貫性がありませんね。

 

横内様

鳥獣被害は年々拡大していて、農家は困っている。食料自給率は下がっている。イノシシとかシカの被害があるから獲って、といわれて鉄砲で獲りにいっても、警察からあなたは資格がないですね、というふうに言われると、どうしたらいいのかわからなくなります。国は何がしたいのでしょうか。

 

高井

横内様はジビエの自給率100%を目指されていますが、現状と可能性を教えてください。

 

横内様

イタリアンやフレンチレストランの場合は、ヨーロッパ産の食材をたくさん使いたいという志向があります。彼らは修行したときに使っていた現地、ヨーロッパ産の食材を使って料理を提供するという考えのため、ジビエは輸入食材が多いんです。フランス、スコットランド、スペイン等から輸入しています。

実際には、イタリアン、フレンチ、スペイン料理でも日本でジビエ料理をするうえにおいて、すべて国産で揃うんです。鮮度も高いですし、何で日本の食材使わないのかなと。それで、地産地消を訴えています。自給率100%を目指して、国産のものだけでレストランを行ってくださいよ、という形で営業を行っています。

ジビエ市場拡大についてはまだまだ課題がたくさんありますが、自給率100%を目指していきたいと思っています。

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第15回目です。
  • 第15回目は、TMI総合法律事務所パートナー弁護士・弁理士升永英俊先生です。

 

 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第15回)■ ■ ■ 

TMI総合法律事務所 パートナー
弁護士・弁理士 升永英俊 先生

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[升永英俊先生 プロフィール]

弁護士・弁理士。TMI総合法律事務所パートナー。1965年東京大学法学部卒業、1973年東京大学工学部卒業、1979年米国コロンビア大学ロースクール修士号(LLM)取得。米国ワシントンDC、ニューヨーク州に弁護士登録。「青色LED訴訟」を始め、数多くの特許権・税務訴訟を手掛ける。弁護士や文化人らの賛同を得て「一人一票実現国民会議」を立ち上げ、いわゆる「一票の格差」といわれる「1票価値の住所による差別」を撤廃すべく、自ら多くの違憲訴訟を提起している。

升永先生お写真

写真は、升永英俊先生(右)と高井伸夫(左)

 

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 宮本雅子(秘書)

取材日:2017年4月20日(木)11:45~  於:芝とうふ屋うかい

 


高井

升永先生が2017年5月3日の東京新聞に出される意見広告では、2013年7月29日に麻生財務大臣が都内で講演をされたときの憲法改正に係る発言が紹介されています。麻生大臣は、ドイツのワイマール憲法がいつのまにか誰も気がつかないうちにナチス憲法に変わっていたと述べられ、憲法改正に関しても「あの手口学んだらどうかね。」と発言されたとのことですが、「ナチスの手口」について教えて下さい。

 

 

升永先生

当時、この話が新聞に出たとき、麻生さんは何を言っているんだろうと思いました。誰も知らないうちに憲法が変わったはずはない、国民が圧倒的にナチスを支持したんだ、国民が何も知らないはずはないと。

つい1年半ぐらい前に、このナチスの当時の一日、一日を順に追っ掛けてみました。ナチスが政権を取る直前の一日、一日がとても大事です。驚くことが分かりました。

1932年11月6日に選挙がありましたが、ナチスの得票率が33%、この時点で67%も反対がいたわけです。ナチスは多数の政党の中の第一党ではあるけども、多数ではなかった、過半数は持っていなかったんです。

 

高井

ナチスが政権をとる直前の選挙で得票率が33%しかなかったのは意外です。そこからどのようにして支持を集めたのでしょうか。

 

升永先生

当時のドイツは日本と同じような議会制民主主義でしたので、過半数を連立でつくるより仕方ありません。そこで、第2政党と第3政党が連立を組んで過半数にしようとした。32年11月6日の選挙が終わってから2カ月半の間に2回連立を試みましたが、いずれも失敗しています。ナチス抜きでうまくいくと思ったらいかなかった、そこで結局、第1党のナチスと連立を組もうということになりました。12人の閣僚のうちのナチスから3人、残り9人はナチス以外で閣僚を確保することにして、当時は6カ月連立を組んでやってみて、経済が良くなったら、そこでナチスを閣議決定で追い出せばいいという予定だったんです。当初は、ヒトラーは副首相ということで連立の申し入れをしました。ここが、ヒトラーが天才と思うところです。

 

高井

ヒトラーが天才ということですが、具体的にはどういった点でしょうか。

 

升永先生

ヒトラーは、ナチスの閣僚は3人でいいが、その代わり首相は私がやりたいという提案をしました。提案された方は、閣僚12人中9人を握っていれば、閣議決定でヒトラーを辞めさせられるという考えがあり、ヒトラーの首相就任を承認しました。ナチスからは、ヒトラー以外2人しか閣僚を認めないということで連立ができたんです。

ナチス、ヒトラーが首相になったのは1933年1月30日です。ヒトラーは1932年11月の選挙の2カ月半後、選挙をしたばかりなのに1933年2月2日に(ヒンデンブルグ大統領に要請して)国会を解散させました。そして、解散の2日後、2月4日に言論の自由を停止する緊急事態命令を出したわけです。

 

高井

まず解散があって、2日後に、緊急事態命令を出した。言論の自由停止といいますが、命令というのは法的根拠とか議会の合意なく発せられるものでしょうか。

 

升永先生

議会なしで、大統領令でいいのです。大統領令なので連立があっても議会の他の議員が反対できない。

 

高井

ヒトラーは当然最初から独裁するつもりだったんですね。

 

升永先生

そうです。初めから独裁するつもりだった。天才ですよ。緊急事態命令で全て決まりです。その後、いろいろやるけれども、報道されないのです。1933年2月27日に国会が放火されます。国会を解散したのが1933年2月2日で、3月5日が選挙の投票日でした。投票日の1週間前の2月27日に国会を放火して、翌日、第2回目の緊急事態命令でナチス反対派を約5000人逮捕しています。問題は、こういう情報が国民に知らされていないんです。国民の大部分は何も知らないのです。

この2回目の緊急事態命令が1933年2月28日、約5000人逮捕した後の3月23日に全権委任法ができました。重要です。全権委任法というのは、国会は立法できるけども、国会だけじゃなくて、内閣総理大臣も立法できるという法律です。この法律をどうやって通したかというと、国会は2月27日に放火されていて使えません。ナチスは3月23日にベルリン市内のオペラ座を仮会場にするという指定をして国会議員を集めました。既に逮捕・拘束されている共産党議員(81名)、社会民主党議員(26名)と病欠者を除く、残りの国会議員538人が、国会の仮会場としてオペラ座に集められた。オペラ座の周囲は武装したナチスの私兵である突撃隊が包囲していました。その会議場の正面には、カギ十字のナチスのマークが大きく掲げられ、会議場には、武装したナチスの突撃隊が居た。とても国会の会議場といえるものではない。そこで、さあ投票しろって言うわけです。

32年の11月6日の選挙のときはナチ党の得票率は33%でしたが、問題の2回目の選挙(開票日は33年3月5日)では、ナチ党の得票率は44%まで上がりました。

それでもまだ過半数ではなく、ナチス反対派が56%いた。ところが、武装したナチスの突撃隊がいる会場で表決が取られ、全権委任法は、82%(=444人÷538人×100)の国会議員の賛成により、国会を通過しました。反対票を投じた社会民主党議員・97名を除くナチス反対派は、ナチスに恐怖した、ということです。

まさに、麻生さんの言うとおり、全権委任法は、国民が何も知らないうちに成立しました。緊急事態宣言により報道統制下におかれていたので、新聞、ラジオは、このような異様な国会の議事進行を報道しなかったのです。

 

高井

緊急事態宣言の脅威について教えて下さい。

 

升永先生

内閣総理大臣が、「緊急事態だ」と判断すれば、内閣総理大臣は緊急事態宣言を出せます。最近ではトルコ大統領が緊急事態宣言を出して強権政治を行っています。トルコ大統領は、緊急事態宣言を発し、1か月で3万5,022人を逮捕拘禁しました。新聞、テレビは、そのことを大きく報道しません。そのため、日本国民の大部分は、緊急事態宣言の恐さに気がついていません。ナチスは、緊急事態宣言で約5000人を逮捕しました。戦前の日本でも、1936年の二.二六事件で緊急事態宣言が出ました。二.二六事件以降、軍が日本を支配し、議会は機能しなくなりました。

 

高井

次に自民党憲法改正案21条2項。「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは認められない。」これについて教えてください。

 

升永先生

実は、自民党改憲案21条2項は、中国憲法51条と実質的に同じなんです。中国憲法35条では、言葉の上では、日本国憲法21条1項よりもっと強く言論の自由を保障しています。中華人民共和国 憲法35条「中華人民共和国市民は、言論、出版、集会、結社、行進、示威の自由を有する。」

言論、通信、思想の自由を保障すると書いてあります。では、実際そうなってないのはおかしいじゃないかと思いますが、51条というのがあります。それが自民党改憲案の21条の2項と同じようなものです。

中華人民共和国 憲法51条「中華人民共和国市民は、自由及び権利を行使する際、国・社会・集団の利益およびその他の市民の合法的自由および権利を害してはならない。」

この条文があるから結局、中国国民は、言論の自由の権利は持っているけども、言論の自由の権利を自由に行使できないのです。自民党改憲案21条2項はこれと同じです。

 

高井

自民党草案は言論の自由を形骸化するものであるにも拘らず、新聞はなぜ報道しないのでしょうか。

 

升永先生

当初は、新聞が報道しない理由が分からなかったんです。私は、新聞は大騒ぎすると思っていた。言論の自由っていうのは彼らの飯の種だと思ってた。実際に、3年前くらいまでは、言論の自由、報道の自由が飯の種でした。ところが、今は違うようです。広告収入というのがあります。広告収入が重要なわけです。広告主の一部は安倍政権をサポートしています。だから、新聞社は、安倍政権に批判的な記事を書くと広告を出さない企業が出てくることが起こり得る、と懸念しているのでしょう。

 

宮本

安倍政権に批判的なことをいうと広告しない、とは穏やかではありませんね。

 

升永先生

実際に、自民党の一部の議員が記者会見で言っています。マスコミをつぶすのは簡単だと。広告を出さなきゃいいんだと。自民党の国会議員が公開のテレビの記者会見で、沖縄の基地反対運動がうるさいのは、あれは沖縄の新聞やテレビが報道するからだ、だから、広告で締め上げりゃあいいのだというようなことを言っていました。そういったことは、沖縄の新聞社だけじゃなくて、東京の朝日新聞も日経新聞も同じことだろうと思います。

新聞は部数を売るだけでは経営が成り立たない、広告収入も増やさないといけない、広告を取らないといけない。自民党が、広告で締め上げると言いますが、本当にそうするかどうか分かりません、本当に断っているかどうかは分からんけども、やっぱり、新聞社の忖度(そんたく)ですよ。

 

宮本

広告主の意向を忖度するということですか。

 

升永先生

一部の企業が実際に広告を出さないと言っているかどうかは分かりませんが、新聞社は忖度する。これは有り得るでしょう。

 

宮本

先生は、憲法改正が実現するかどうかというのはどれぐらいの可能性があるとお考えでらっしゃいますか。

 

升永先生

100%です。

 

宮本

100%。では、もし日本で緊急事態命令が出されたとします。そうすると、何が起こるんですか。やはり反体制の人が逮捕されるんですか。

 

升永先生

それは分かりません。ただ、首相の意のままにやろうと思えばできるのが緊急事態命令です。最高裁も憲法違反だと言えない、国会も止められない。

そのときの首相次第です。日本で首相が独裁しようと思ったら、数千人を逮捕すれば、それは可能でしょう。

 

髙井

緊急事態命令で独裁ができてしまう。逮捕者がでる。恐ろしい話ですね。升永先生は、1人1票運動に私財を投げ打って活動されていますよね。

 

升永先生

言論の自由がなければ1人1票運動なんか吹き飛んじゃいます。1人1票運動なんて悠長なことはいってられない状況です。麻生大臣は、2013年7月29日の都内の公開の講演で、「憲法も、ある日気がついたら、ドイツのこともさっき話しましたけれども、ワイマール憲法がいつのまにか変わってて、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気がつかないで変わったんだ。あの手口学んだらどうかね。」と発言しました。麻生大臣は3日後に発言を撤回していますが。多くの国民は、この麻生発言の危険性に気付いていません。日本中の誰も首相が独裁するなんて思っていない。多くの国民は、緊急事態命令の危険性を知りません。

 

宮本

私のような一般のもの、それはどのようなところを意識していけばよいのでしょうか。

 

升永先生

「あの手口を学んだらどうかね。」の麻生発言の危険性を自分の回りの人々に伝えることしかないでしょう。あなたの周りにいるこの事実を知らない人々に伝える。ドイツでは、ナチスの時代に、緊急事態命令によって、ドイツ国民の誰も知らない間に、ドイツ憲法が実質的に変えられた。この事実を、1人1人が知らない人々に伝えるしかないでしょう。

 

 

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第14回目です。
  • 第14回目は、ジャーナリスト莫邦富様です。

 

 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第14回)■ ■ ■ 

ジャーナリスト 莫 邦富 様 

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[莫邦富様 プロフィール]莫邦富先生

作家・ジャーナリスト。1953年中国・上海生まれ。上海外国語大学卒業後、同大学講師を経て、85年に来日。日本にて修士、博士課程を修了。95年、莫邦富事務所を設立。知日派ジャーナリストとして、政治経済から社会文化にいたる幅広い分野で発言を続け、「新華僑」や「蛇頭」といった新語を日本に定着させた。また日本企業の中国進出と日本製品の中国販売に関して積極的にアドバイスやコンサルティングを行っており、日中の経済交流に精力的に取り組んでいる。

『蛇頭』、『「中国全省を読む」事典』、翻訳書『ノーと言える中国』がベストセラーとなり、話題作には『新華僑』、『鯛と羊』、自分自身の半生を綴った『これは私が愛した日本なのか』、『中国ビジネスはネーミングで決まる』などがある。2002年から2011年にかけて朝日新聞土曜版にて連載コラム「mo@china」が掲載された。

現在、ダイヤモンド・オンラインにて「莫邦富の中国ビジネスおどろき新発見」、時事通信社の時事速報にて「莫邦富の『以心伝心』講座」、プレジデント社『プレジデント』にて「本の時間」(新刊書評)などのコラムを連載中。

莫邦富事務所HP:http://www.mo-office.jp/

 

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 高島さつき(秘書)

取材日:2017年4月27日(木)14:30~  於:日本工業倶楽部会館2階ラウンジ

 


高井

さて、鄧小平先生は日本に来て、松下電機などを見学して日本を学べと言いました。鄧小平先生はなぜ日本に学べと言ったのですか?

 

莫邦富様

鄧小平先生は1978年に日本に来ました。78年以前の中国は言いかえれば、よくも悪くも、毛沢東時代の余韻がまだまだ残っていた時代です。当時、私の給料は45元(注:1978年当時の為替レート 1元=122.98円、45元=5534円程度)です。あの頃、クレジットカードのことも知りませんでした。外国人専門の友誼商店と呼ばれる店で、ある外国人がすごい買い物をしていたのを見ました。私の年収以上のものを買っていたのです。そこで小さい札みたいなものを出して会計をサインして済ませていたわけです。あれが噂のクレジットカードかと思い、その威力に目を見張りました。

ですから当時の中国にとって海外との認識の差は非常に大きかったものです。鄧小平先生は以前フランスに留学したこともあるので、とりあえず海外を見た経験を持っていた。これは非常に重要なことです。毛沢東自身と、毛沢東と共に革命をやっていた人たちは、ある意味で生活が厳しくてどうしようもなくて革命に参加したわけです。革命後は政府の高官になったりしていますが、海外のことは知りませんでした。鄧小平先生は少なくとも海外を知っているので、松下電器を訪問したり、新幹線に乗ったりして背中を押されたのを感じたという感想をもったことは、非常に当然でした。

鄧小平先生は海外について、ある意味で他の中国の指導者よりも敏感に反応しています。しかも謙虚に見ようという意識があったのでしょう。鄧小平先生の考えは非常にシンプルです。松下電器のような工場を中国にも作りたい。工場を作るには、人を派遣して工場の運営の仕方を学びたい。新日鉄製鉄所を見たら、それも中国に作りたいと言い出す。鉄イコール国の実力だと思ったからです。

新幹線は、さすがにそれに手をだすその実力は当時には、まだなかったと思います。しかし新幹線のスピードに対する彼なりの認識があったと思います。

私は比較的早い時期に日本を訪問しました。初めて日本を訪問したのは1981年です。大阪グランドホテル(注:2008年に閉館)に泊まりました。当時は自由行動が認められていなかったので、朝早く起きて、出発する前の時間を利用してホテルの周りを1人で回りました。ホテルを出たら地下街に入る入口があったので、降りてみました。誰もいなかった。地下道で自分の足音が響くほど静かでしたが、地下鉄が到着した途端に、たくさんの人が電車から降りてきました。出勤の時間が近づいてきて、女性のハイヒールの音、つまりハイヒールの踵が地面をたたく音がしますが、その音に陶酔しました。

 

高井

なぜ、ハイヒールの音に陶酔したのですか?

 

莫邦富様

足音が、速いんです。トトトトト、その後中国に戻り訪日のエッセイに書きました。これが先進国のスピードだと。朝、トトトトト、と。当時中国の歩く速度はゆっくりしていました。今はハイヒールの音にはもう感動はしませんが、当時はかなり感動しましたよ。鄧小平先生もおそらく同じ様に、このスピード感に、ある種の陶酔というか、刺激を受けたのではないかと思います。

当時の中国は、門戸を開放して、外国の文化や技術を受け容れる準備ができていなかったのです。だから、あの頃のスローガンは「窓を開けて世界を見よう」というものでした。窓です。ドアではありません。外を見ようということです。窓を開けて外を見ようとすると、アメリカやヨーロッパは遠くて見えてこない。一番見えやすいのは近くにある日本でした。

なぜ私が日本語を選んだのかと言いますと、外国語を覚えれば、将来、詩を訳せるという思いもありましたが、もう一つ別の理由もありました。ちょうど1972年に日中国交正常化、1973年に初めて上海でラジオ日本語講座が開設されたのです。そのテキストを取った時にひらめきました。英語、ロシア語は勉強する人がたくさんいた。これまで日本語を専攻した人は、いたとしても非常に少なかったはずですので、みんな0からのスタートだった。ですので、今から日本語を覚えていけば絶対メリットがあると思いました。

大学を卒業して1978年改革開放時代が訪れた時に、期待していたそのメリットがすぐに出てきました。「窓を開けて外を見よう」というスローガンですが、実際には、外国語の書物、新聞を通して、色々な情報を吸収するのです。しかし、当時の中国はあまりお金がなかったので、外国の新聞は、ニューヨークタイムズでも、ワシントンポストでも全部船便でした。

 

髙井

「窓を開けて外を見よう」として、得られるアメリカ、ヨーロッパの情報は船便だった。船では遅いですよね。

 

莫邦富様

新華社が使用する一部は航空便でしたが、他は船便でした。アメリカの新聞が中国に着くのに最低1か月以上かかりました。それに中国とアメリカとの間を行き来する船もそんなに多くはなかった。一方日本の新聞は10日間くらいで入ってきました。朝日新聞や日経新聞を読んで面白い記事を参考にしながら原稿に書いて、中国のメディアに送る。そのメディアに掲載される頃に、アメリカの新聞がようやく届くのです。時間差がかなりありました。

ですから、中国の最初に見ようと思っていたその外、つまり外国は日本でした。鄧小平先生はフランスを訪問して改革開放をやろうと決意したのではなくて、日本を訪問して改革開放路線に突入したのです。

 

高井

莫邦富先生は日中経済交流はハードからソフトへとおっしゃっていますが、ハードからソフトへ、そのソフトの次は何ですか。

 

莫邦富様

78年頃から、中国は外の世界をよく見るようになったわけです。日本人1千人と中国の1千人が持つものなどをよく比較していました。例えば、テレビは何台持っているのか、洗濯機はどれくらいか、車は何台かなど、全部羅列して中国のそれと比較して、そして中国がいかに遅れていたのをよく指摘していました。こうして家電の生産ラインなどを導入していきました。いつの間にかこういった比較はしなくなりました。ハードの比較はだんだん意味がなくなってきたからです。いまの中国では、ハード関連のものについては、質がよいかといった問題はさておき、とりあえず揃いました。

当時の中国では一回の海外の出張で持ち帰る家電に制限があり、大きいのが1つ、小さいのが2つと制限されていました。日本を訪問する中国人は帰国の際、カラーテレビ1台、ラジカセ1台、カメラ1台といった感じで中国へ持って帰った。

全部ハード関連の製品です。今は、日本を訪れた中国人の多くはドラックストアやスーパーで、日用品を買います。日本に来る目的も、だいぶ変わりました。当時は家電の生産ラインなどを導入するためといった商談でした。今は、技術を入手しよう、企業を買収しよう、あるいは日本の環境保護の政策を勉強しようとして、来ています。目的も旅行、医療、留学、あるいは住宅を買う、といったものに変わりました。全部ソフトのところに流れています。

ハードからソフトへだけではなく、もう一つ、大きいものから小さいものへ。こまごましたものになります。さらに外から中へ。以前服を買うとしたら、コートやオーバー、背広、とにかく人の目に触れるものを買いました。今は違います。保温機能のある下着など。外側から内側のものに変化しています。

さらに、日本の企業の対中ビジネスをみても、大きく変化しています。BtoCへ。以前BtoBでやっていた企業が中国のエンドユーザー向けに販売するようになりました。ユニクロや無印良品は、そういった企業の代表です。この流れはまだまだ続くと思います。

中国に対する人への講演のテーマもそういったものを求められるようになりました。東京駅周辺には、中国の視察団をよく連れて行きます。近くに東京駅の駅舎がありますが、八重洲にあった高いビルを数年前に解体して、左に200メートルくらい移して立て直しました。大丸デパートが入っているこのビルをなぜ200メートル動かして立て直したのか。実はこれは大勢の日本人も知らないことだと思いますが……。

東京湾からの風が隅田川を通ってくるわけです。風の道をたどってくると、ちょうど当時、このビルが風の邪魔になっていた。それをどけたのです。海からの風ですので、夏は温度が低い。この風が来ると東京の駅舎はそれほど高さがないので、駅舎を超えることができる。そして、その先に丸ビルと新丸ビルがあります。この2つの建物はそれぞれ高さが160メートルほどで、近接しています。物理の原理で言うと、二隻の船が近づくと、間に流れる水は早く流れます。これは空気も同じです。この建物の間を風がスピードを上げて通過します。つまり、東京湾から来た風が、この二つの建物で、加速させられるのです。25%~30%くらい加速する。この先に皇居があります。皇居は緑が多く、測定では、温度が2度ほど周辺より低いです。この涼しい空気を奪って、四谷、新宿に風が通ります。大都市にはヒートアイランド現象がありますが、建物を移動させて、巨大都市東京に電気代が1円もかからない巨大なエアコンをとりつけたようなものです。こういう話をすると、視察団は一様に驚いて目を輝かせます。こういうことに対してみんな感心するようになっています。

ハードのものも、日本に学ぶ必要がまだまだありますが、大きくいえば1段新しい階段を登る時期に来ていると思います。ですから中国国内で、78年と同じように、もう1度日本に学べと主張しているのもそのためです。1978年は、日本のハード面に目を向けていた。今はハードよりもむしろソフトに目をむけるべきだと私は思います。

 

髙井

日本に学ぶべきとおっしゃいますが、一方で日本のダメなところはどこですか。

 

莫邦富様

日本のダメなところは、日本は昔の成功に胡坐をかいているところです。それほど前進していない、というと語弊がありますが、少なくとも感心するほどの前進はなかなかないと思います。一言でいえば、ここ(注:日本工業倶楽部会館)にWi-Fiが入っていないことからもわかるように、問題はかなり深刻だと思います。ここを利用する人たちは、この国の工業に関わっているある程度の地位になっている人たちだろうと思います。Wi-Fiがないということは、たとえていうならば、このビルに電話が引かれてないのと同じことです。

 

髙井

日本工業倶楽部会館にWi-Fiが入っていないことに危機感や不便を感じる人がいないのでしょうね。

 

莫邦富様

日本工業倶楽部会館にいる方々は、年齢層が高いですが、そういう点も日本が直面しているもうひとつの深刻な問題です。今、電子決済を色々とやっています。ネットを通じてお金を払っている。日本工業倶楽部会館のような場所でも、中国ではネットを通じて利用代金などを払えます。しかし、Wi-Fiがないと払えなくなります。そうすると、誰もここは不便だと思い、いつの間にか、誰もが来なくなります。Wi-Fiは、世界の平均使用率43%、日本は10%、中国は86%です。

 

髙井

Wi-Fi以外で日本のダメなところはありますか?

 

莫邦富様

ほかにも、日本のサービスが低下している。中国人から見れば、日本のサービスはまだいいとみんなほめますが、長年日本に住んでいる私からすれば、日本のサービスは明らかに硬直化、低下しています。マニュアル化している。例えば、水をサービスする、夏ですから冷たい水を運んでくるのはサービスですが、この水を運んだことでサービスが終わったわけではなく運んだ時に、「暑いですね」と一言言う。この一言がサービスの質とレベルを2倍くらい倍増させることになる。

形の上では日本はサービスができています。例えば私のように咳をしている。冷たい水はあまり飲みたくない。数日前、私は上海のホリデイインホテルにあるWi-Fiが使えるコーヒーショップで、深夜まで仕事をしていました。紅茶を注文したとき、咳をしました。しばらくすると温かいレモン水を持ってきてくれました。「お客さん、この温かい水は喉にいいかもしれません」と女性の従業員は優しく声をかけてくれました。同じ水です。それを今、日本の従業員に求めるのは・・・

 

髙井

日本人にそういった付加価値のついたサービスを求めるのは難しいですね。

 

莫邦富様

お水を出すことは、一つの標準装備になっている。これは守っている。以前の築かれた栄光です。そこに心が入っていない。日本のサービスが低下していると私は感じていますが、多くの日本人は実はあまり感じていません。今まで通りやっているではないかと言うかもしれません。しかし、昔、サービスの“サ”もわからなかった中国は、追い上げてきています。お水を出すならば、同じ様にお水を出すと同時に、それ以上に何をやればいいのかという工夫をする。そうすると、温かいレモン水を持ってきたり、生姜のお湯を持ってくるということになる。そうして差が出てくる。こういうことは、よほどアンテナを張って敏感にならないと分からない。

 

髙井

日本は内向き内向きになっていて外向きに学ぶ心がないと思いますがいかがでしょうか。

 

莫邦富様

ある地方自治体の首長の方と対談をした際に、一生懸命日本の素晴らしさを語っておられました。対談中に日本から海外の農業に、あるいは中国、東南アジアの農業に学ぶことはないのか、と聞いた時に、きょとんとされました。実はその時に何かがずしっと落ちました。つまり、日本の良さをアピールするだけで、冷静に海外の何がいいのかを見ていなかった。あの時私は、ここまで多くの人を引っ張ってこられた人でも見方が偏ってしまうおそれもあるのだと思いました。

 

髙井

そういった内容で講演会をやっていただけないでしょうか。日本のダメなところを教えて欲しいと思います。本日はどうもありがとうございました。

以上

2017年7月5日(水)14:00~セミナーを開催いたします。詳細は以下より弊所HPご覧ください。

莫邦富が見た経済大国ニッポン 直面する厳しい課題セミナー

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第13回目です。
  • 第13回目は速水林業代表速水亨様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第13回)■ ■ ■ 

速水林業 
代表 速水 亨 様 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


[速水亨様 ご紹介・プロフィール]

速水様お写真速水林業代表。株式会社森林再生システム代表取締役。 

1953年生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、東京大学農学部林学科研究生を経て、家業の林業に従事。森林経営の機械化を行うと共に国内の林業機械の普及に努める。2000年2月には所有林1070haについて世界的な森林認証システムであるFSC認証を日本で初めて取得するなど、先進的な経営で知られる。2001年朝日新聞「明日への環境賞」森林文化特別賞受賞。2007年から株式会社森林再生システムで、トヨタ自動車所有のトヨタ宮川森林1700haを管理している。 

現在 の公職等:

日本林業経営者協会顧問、財団法人岡田文化財団理事、NPO法人日本森林管理協議会副理事長、FSCジャパン副代表、日本文化デザインフォーラム会員

著書:

日経出版「日本林業を再生する」、日本林業調査会「スギの新戦略2」共著、朝倉書店「森林の百科」共著、産業調査会「森林と木材を活かす事典」共著、林業改良普及双書「機械化林業への取組み」共著

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 高橋真希子(秘書) 

取材日:2016年10月4日 於:東京 芝 とうふ屋うかい

 


 

高井

学問としての林業に対するオーソリティは誰ですか。

 

速水様

そうですね。岩手大学にいらして今は富士大学学長をされておいでの岡田秀二先生もそのお一人です。もし、現在の林業の分析をお聞きになりたいのだったら、「日本木質バイオマス協会」の熊崎実という先生がおいでです。日本の森林に関する分析では、右に出るものはないです。彼の分析は以前から素晴らしいといつも思います。

私と熊崎先生が主催して筑波の森林総合研究所で若い人達を集めて「林業イノベーション研究会」という勉強会をやっているんですよ。

 

高井

今、学者は熊崎先生が分析としては一番とおっしゃいましたが、若手ではどうですか。

 

速水様

若手は、優秀な人は結構たくさんいます。私は東大にお世話になっていますが、若手と言えるかどうか、東京大学の白石則彦という教授は秀才肌で、例えば白書なんかを読むと見事な分析をされていますね。その分析をもとに解決策を提案するというのは中々難しいようですね。様々なアイディアを参考にさせていただいて、いろんなことやってみればいいと思っています。

 

高井

誰か提言している人はいるんですか。先程、なかなか難しいと言っていましたが。

 

速水様

私は林業経営者協会の時に2回ほど提言しました。日本林業経営者協会というHPの「提言集」という項目に掲示されています。時代が変わっているので、私の提言がそのまま今に適用できるかは分からないですが。

 

高井

ところで、今、日本の国有林はどれくらいあるのですか。

 

速水様

だいたい270万~300万haくらいですね。日本の森林は2500万~2700万haくらいかな。今の国有林の管理というのは、担当者が4年~7年くらいでみんなどんどん異動してしまうんですよ。そうすると山全体を見る機会がないです。その状況下で、伐採計画を立てたり、上から木をこの数量伐れという命令がきたり。これでは森林に適した伐採という配慮をする暇がないです。担当者個々は能力がある方々だと思います。ただし、その能力を森林の適切な管理に向かって発揮するチャンスがないですね。

同じ樹齢の木でも状態はそれぞれ違います。例えば「この木は70年だから、もう伐ってもいい時期だ」と言っても、実際見に行ってみれば、「これは全部伐るよりも、強めの間伐をして次に待った方がいい」とか「これはもう風に当たってしまって、これ以上おいても価値は出ないから今伐っちゃえ」とか。私たちならば状態を見てそういう判断をするんですね。そういった状態を考慮せずに、「これは70年だから」、「上から伐れと言われているから」と、意志なく作業せざるを得ないんですね。そういう意味で、国有林は本当に今のような組織の在り方でいいのかって思いはありますね。

 

高井

今、林野庁には人材はいないのですか?

 

速水様

私は基本的にはチャンスと能力を発揮する場さえあれば、活躍していただける方々は多いと信じています。


高井

先程の話ですが、日本は70年たったら伐るんですか。150年とか100年といった期限はないですか。

 

速水様

そんなわけではありませんが、今だったら70年くらいの木だったら伐ろうかなと思ってもおかしくないです。私自身は80年から100年で伐っています。一部は150年とか200年にしているんですけど。既に日本の森林を形成している木の樹齢はだいたい60年くらいになってきています。国は、白書などでも「成熟した」という表現を使っていて、この20年程の間に概ね伐ってしまう計画なんです。

ただし、私どもの考えでいうならば、そういう樹齢になってきた今だからこそ、生物の多様性や、人工林であっても環境負荷が非常に少ない、環境の多様性が高い森林に変質させるチャンスなんです。それに、伐ることができる樹齢になってきた、ということは間違いないですが、それを「成熟した」と表わすのは誤解が生じると思っています。例えば、ヒノキや杉の場合、概ね数百年から1000年ぐらいが、もうそろそろいつ枯れてもおかしくないという樹齢なんですね。もちろん土壌や気候の違いで、200年とか500年で枯れてしまう木もありますけれど。だから300年とか500年とかいう森林を管理していても、おかしくはないんですね。それなのに、たかだか60年くらいの木に「成熟した」という表現を使うのは、生物的には問題だと思います。

 

高井

話が変わりますが、原始林とか自然林などと言いますが、日本にはどのくらいあるんですか。

 

速水様

原始林という言葉よりは、もし使うなら「原生林」ですね。原生林の定義というのが色々難しいですが、簡単に言ってしまえば「商業的にその森林を切ったことのない森林」だと個人的には思います。どういうことかと言えば、シベリアやアラスカの原生林や東南アジアに広がる原生林など、どこも先住民が住んでいれば必ず木は伐っています。船を作る為とか、家を建てる為とか。それについては私は「原生林」としていいだろうと思っているんですね。ただそこに商業資本が入って、森林全体を見て太い木だけ伐ってしまうとする。それは、もう手を付けた森林だと判断してもいいと思います。そういう違いで見るならば、日本は本当の意味での原生林はほとんどないのではないかと。白神も一回伐っているようですね。

 

高井

白神原生林と言うでしょ。木曽はないんですか。それこそ三重県は。

 

速水様

三重県もないですね。一部あまり手を付けてないような森林はありますが、日本で「原生林」と位置づけるのは難しいような気がします。原生林に近い状態の森林というのは、白神も含めて沖縄のヤンバルなどありますが。

私は実は原生林好きでして。2年に一回、ヨーロッパの原生林を訪ねています。ヨーロッパって原生林はほとんどないんですよ。ましてや立ち入り禁止なので貴重なんです。それをコネを使って入れてもらっています。(笑)この2回はスロバキアの森林を訪ねました。原生林に入ると空気が変わるんです。雰囲気というか、木の一本一本の姿もなんとなく違いますし、太さも違いますし。

 

高井

速水さんの所で、一番いい木はどこで採れるんですか。

 

速水様

どこもきちんと管理すればきれいな木が採れます。私が育てているヒノキも、いろいろありますが平均すれば、世の中に流通しているヒノキのベスト10くらいには常に入っているんです。例えば、厳島神社は全部朱に塗ってしまいますよね。ところが能舞台だけは「あらわし」なんですね。塗っていない。そこは全部私のところの木なんですよ。

 

高井

高く売れるんですか?

 

速水様

安くはないですね。直径1mくらいの特別な木ですから。昔は、10mの丸太で、細い所が直径70cmくらいで節の無い真っ直ぐな木を、ちょうど立方数でいうと5立方くらいありますが、それを立方200万円、1本分を1000万円で売ったことがあります。これが私の人生で一番高く売った木ですね。今は同じ木でも100万円いかないかな。今、もう大規模な林業家はみんな赤字ですよ。

 

高井

もともとは林業は豊かだったけど、今は全然ダメだと。林業を放棄する人もたくさんいるのですか。

 

速水様

います。私の知り合いにもいます。やっぱり森林を持ち続けられなくなってしまうんですよ。他の商売をしているのならともかく、林業だけだったらフローが無くなっちゃったらもう資産は増えていかないです。だいたい日本で4大林業森林所有会社が全部赤字だっていうのが問題なんです。彼らがビジネスマタ―で森林を見ないから、政府も同じく見ないんです。ましてや一番大きな国有林も延々赤字です。

 

高井

速水さんの所は何haなのですか。

 

速水様

私の所は概ね1000haです。1000haの面積というのは、全国的に見ても森林所有面積としては大きいです。ただし、林業経営という視点で見ていくと小の上か中の下くらいですね。

 

高井

出口は何があるんですか。アイディアとして。

 

速水様

1998年に京都議定書で、日本は90年度に比べて温暖化ガスの6%削減を約束した。6%というのは先進国の中で比較的大きな数字でした。ところが日本は既にいろいろな配慮をしていたので、その時点でかなり減少していたんですね。物の単位生産あたりのCO2の排出量は世界最小でしたから。そこで、議長国の日本が小さな数字というわけにもいかず6%としたのですが、結果的にその6%の内の3.8%は森林が担うことにしたんですね。この数字は平方キロという森林の面積単位での二酸化炭素吸収量では52.0炭素トンとなり、ロシアの4.1、カナダの3.9、ドイツの11.3などと比べると如何に多くの量が認められたかがわかります。あえて言うなら科学というより、政治的な数字でしょう。

この森林吸収は、過去50年間森林ではなかった土地への植林、1990年時点で森林でなかった土地に対する再植林、1990年以降持続可能な方法で管理されている「森林経営」。これらの3つの条件のいずれかを達成している森林を吸収対象森林としたのですが、この時点で前者の2つの植林は日本ではほとんど可能性が無く、林業経営の1点だけで、3.8%の吸収を担うこととなったのです。

「森林経営」は森林を適切な状態に保つために1990年以降に行われる森林施業(更新(地拵え、地表かきおこし、植栽等)、保育(下刈、除伐等)、間伐、主伐)が行われている森林としたのです。つまり一般的な森林の手入れは全て含まれていたのですが、林野庁は「間伐」のみに光をあてたのです。その後、2001年に森林法を改正しまして、森林管理の目標を、木材生産から多面的機能の発揮に変えたんです。それは実際には3.8%を確保するためのCO2の吸収源としての森林という視点が強かったのです。

この結果、間伐作業に多額の補助金が投入され、世間に「間伐は環境維持に必要な作業だ」と日本独自の理屈で説明をして、間伐材を使うことは良いことだと思わせたのです。それ自体は決して間違いではなかったのですが、市場は木の需要が減っている時に国内の間伐量が増えて、供給過多になり市場が暴落したんです。極端に影響が出てきたのは2003年くらいです。

今は様々な国産の木材利用が始まっていますが、あくまでも安い材価が前提で、少しでも価格が上がる動きがあっても、補助金が作業自体に出て木材価格が安くても伐採を担う森林組合などは労働対価は受け取れますから積極的に伐採します。すぐ木材価格は下がり始めるという山側にとっては悪循環、使う側にとっては国産の木材を使うことがこれほど良い時代はないでしょう。

だからここで、木材を使いやすくするような、例えば木造住宅の固定資産税の評価方法だとか、税制の面で木材を使いやすくする仕組みだとか、あるいは伐ったら必ず植えるサポートとか、そういう面で国が補助をしてくれたらと思いますね。あるいは環境管理に努める森林経営をサポートする補助などが大事です。

間伐や皆抜に今後も補助が出続けると思うんですが、木材流通はある程度は市場経済に任せないと、木を伐ることに関してどんどんとお金を入れている限り、つまり国が関与している限り、木材価格は高くならないと思うんですね。

それから、森林組合っていうのが全国にありますが、私は森林組合の改革を唱えていた1人だったんですよ。森林組合は作業するための作業員を持っているんですね。私は、森林組合が事業計画を立案して、発注するのは間違いではない、そうすべきだと思いますが、作業をするのは民間に任せるべきだと思っているんです。だから作業班を持つのを禁止したらどうかと。そして森林組合の作業員が独立するときに、地方創生の予算を少し使わせて頂いてサポートしていけたらと。大事なのは森林組合から独立していく過程で、作業員だけでなく、そこに必ず安全管理や営業、経理といった専門職が一緒について行けるような資金繰りですね。そういう仕組みを作って作業班が独立していけば、そこに継続的に仕事がつくでしょう。

森林組合は、来年一年はこのくらいの仕事を出しますよ、という仕事量を提示する。すると独立した作業班はその何割を自分達が仕事として取れば、事業が成り立つんだという計算ができる。入札の時に一円でも安く取り合ってくる、という状態になれば地域も仕事も活性化もしてくる。

 

高井

速水さんの夢は何ですか。

 

速水様

小さな森林所有者も、一生懸命育てれば、最終的にはいくばくかの収入がきっちりあって「ああ、木を植えて育てて良かったな」と思える状況を作り出したいですね。大きな森林所有者も、努力しない人は利益が出なくても構いませんが、一生懸命やった人はそれなりに利益を出せるという状況を目標の一つとして、補助金等も含めて、政策をもう一回練り直したいですね。

 

 

髙橋

新聞記事の中で夢で「法隆寺の修正にうちの木を使ってくれたらな」とありましたけど。

 

速水様

法隆寺を世界遺産にするのに、非常に尽力された伊藤延男という先生がいらっしゃったんですよ。イコモス(国際記念物遺跡会議)の副会長を務めていらっしゃいました。法隆寺は1300年の間に1/3の木を取り変えている訳ですが、最初、海外では世界遺産として、それでは真実性が確保できていないという評価になりました。日本の木造建築物は世界遺産に値しない、と。それを伊藤延男先生が木造建築物の維持補修に関しての論文を発表されて、その内容が認められて、そのまま木造の世界遺産の基準になったんです。その先生が私に、「法隆寺は1000年で1/3の木を取り替えているんだけど、このままの割合で行くと今後2000年かかって全部取り替えることになる。君、2000年先までヒノキをちゃんと供給できるかい?」っておっしゃるのですよ。2000年先に日本があろうが無かろうが、世界遺産というのは未来の子供達に人類が残すって約束したんだから、と。

法隆寺であれば300年とか400年の木でしょう。新聞記事にあった夢の記述は別に法隆寺に限った事ではなく、文化財としてそういう木が必要ならば提供できるようにしたいという思いです。

法隆寺の場合は1cmに7本の年輪が入っている等、やはり世界遺産の補修に求める木材の条件が厳しいですね。全く同じ産地のヒノキで、全く同じ工法で、直した箇所が明確に分かる、というのが木造の世界遺産の条件の一つなんです。同じ産地というのは日本国内であればいいとしても、同じような材質となるとそれを目標に木を育てないといけません。

300年先、次の世代がどうするかなんてわからないですが、誰かが最初に始めなければと思ったんですよ。

 以上

 

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