時流を探る~高井伸夫の一問一答の最近のブログ記事

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第18回目です。
  • 第18回目は、法政大学名誉教授諏訪康雄先生です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答(第18回)■ ■ ■ 
法政大学 名誉教授 
諏訪康雄 先生 

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[法政大学名誉教授 諏訪康雄先生 プロフィール]

1972年一橋大学大学院法学研究科修士課程修了、1974年~76年ボローニャ大学(欧州最古の総合大学)留学。1977年東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学、法政大学社会学部専任講師、教授を経て、2001年法政大学大学院政策科学研科教授、2008年同政策創造研究科教授、2009年労働政策審議会会長、2013年法政大学名誉教授、2013年~2017年2月中央労働委員会会長。

2017年6月より、認定NPO法人 キャリア権推進ネットワーク 理事。

著書に「雇用と法」(放送大学教育振興会・1999年)、「キャリア・チェンジ」(編著・生産性出版・2013年)、「雇用政策とキャリア権―キャリア法学への模索」(弘文堂・2017年)等。

諏訪康雄先生と高井伸夫

写真左から諏訪康雄先生、高井伸夫

[今回のインタビュアー・同席者は以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 宮本雅子(秘書) 

取材日:2017年6月15日(木)日本工業倶楽部会館2階ラウンジ

 


 

高井

キャリア権というものを発想して何年ですか。

 

諏訪先生

キャリア権の基本構想が自分のなかでまとまったのは1995年ころですから、22年ぐらいでしょうか。初めて海外の国際学会で発表したのが1996年です。オーストラリアのホバートの国際労働法学会のアジア支部大会で報告しました。その時はまだキャリア形成への権利という感じで説明をいたしておりました。

それを今のような姿に近い形にまとめて説明をしたのが1998年ボローニャ(欧州最古の大学がある)での国際労使関係研究学会の世界大会です。総括報告者として提唱をいたしました。これは多少反響がありまして、スウェーデンの研究者がいたく関心を示してくださいました。スウェーデンでは、失業給付を出す条件として然るべく教育訓練コースに行くことなどを義務付けるわけです。さまざまな再チャレンジ措置などの一連の政策措置はキャリア権という概念を使うと位置づけしやすくなるということのようです。

 

高井

今、キャリア権を勉強している学者はいるんですか。

 

諏訪先生

日本でキャリア権は随分、反応が出てくるようになりまして、労働法学者だけでも10人以上がキャリア権に関して議論や言及をしてくださっている(他分野の研究者でも少なからぬ言及がある)。比較的、有力な研究者が反応を示してくれています。実は今、労働法学会は新しい「労働法学会講座」(全6巻)を刊行していますが、ついに「キャリア権」を扱う1章が登場し(慶応義塾大学の両角道代教授が担当)、いわば学会に認知された形になりました。おかげさまで、ようやく単独説状態を脱して「有力説」扱いとなったようです。しかし、多数説になるかどうかは世の中の流れを見ませんと分からないですね。ともかく、塩崎恭久厚労大臣(注:インタビュー当時)もキャリア権という言葉を知っているところにまでは今、来ています。

 

高井

若手でキャリア権を研究している人はいるのでしょうか。

 

諏訪先生

先日、東大の労働法研究会からの依頼で、キャリア権をめぐる諸問題について報告いたしました。辛抱強く種を撒き、育てていけば、研究テーマにキャリア権を選ぶ人が、いずれ出てくると思っています。例えば、就労請求権をもっときちんと考えるというのはキャリア権を具体化していくときのコアになる重要な権利概念ですから、誰か若い人にドクター論文等でやっていただきたいと希望しています。

ただ、どうしても、日本型雇用慣行の中で、就労請求権を強く言うと、いろんな形で難しい副次的な問題が起きます。今さら言うまでもなく、消極説をとる裁判所もそういうふうに見ているのでしょう。そういった問題があるだけに、私は若い人にとっては非常にチャレンジングないいテーマだと考えています。

 

高井

キャリア権が多数説になるにはどうすればいいのでしょうか。

 

諏訪先生

結局は、仕事の世界と日本型雇用形態がどう変わっていくかが影響するでしょう。日本型雇用が変わっていったとき、これまでの人材育成や処遇の方式が変わって、キャリアをもっと正面から重視しないと企業も従業員も前へ進めないということになれば、少なくとも理念的には、キャリア権という考え方への関心も高まってくると思います。

 

高井

先生の考える、キャリア権の今後の展望について教えてください。

 

諏訪先生

これからの時代は間違いなく個人のキャリアを大事にしないと回らなくなると思います。AIやロボット化などのイノベーションが起こる。そういう中で人が持つ創造性、統合力、コミュニケーション能力や人間的な魅力がますます重要になってきます。創造性や人間的な魅力は、外から他人が押し付けてどうなるもんではないです。外から刺激を与えて人々がその方向に動き出すようにすることは大切ですけれども、その後は個々人が主体的に対応しなければ能力形成はとても無理です。これからの労働、仕事の世界で非常に重要な部分は、人が主体的にキャリアを形成していくという基本線に依拠していくと思います。

 

例えば、グーグルの人事担当者が書いた「ワーク・ルールズ!」という本には、読むとびっくり仰天するようなことがいろいろ書いてあります。それを読み、また、日本でのクリエイター企業の人事の話を聞くと、最先端のコンテンツ産業とか、IT産業はどういう働き方をさせなきゃいけないのかというのがかなり見えてきます。さらにそういう産業の最先端では、従来、製造業をはじめとする企業でやっていたような査定という問題、人事評価をこれまでと同じような形ではできないのではないかと思えます。

 

高井

従来の査定、人事評価ができなくなるのですか。

 

諏訪先生

評価の仕方は、徐々に、専門領域などを理解し、かなり中長期的な視点で見ていかなくてはいけなくなってきます。そうすると、まるで大学の先生や芸術家への評価みたいなものに近づいていくようです。そうなってくると、ここでも重要なのは当の本人がキャリア意識を持って、キャリアを形成していくという意欲や習慣やスキルを持つことではないかと思っています。

このように考えると、100人働く人がいたとき、全員がそうだとまでは思いませんが、最先端を走る人たちにとってキャリア形成が喫緊の課題となるだけでなく、知的なものを含めたサービス業や感性労働に従事する人たちにとっても、また、組織内でさまざまな仕事をする人にとっても、この仕事なら〇〇さんだよねという、独自の個人ブランドの形成が要請されていくことでしょう。物を売るにしても、商品やサービスをめぐるストーリーを作って、消費者の要望を満足させていく、そのような働き方をする人たちにとっては、キャリア形成というものがさらに重要になってくると思います。

知識集約産業ではこういう知識を担う人材の争奪戦が起きていますが、各種の知識サービスや感性サービスを担う人材の能力形成も重要な課題になり、そのためにはその人たちのキャリア権みたいなものをしっかり踏まえて、それを支援したり、尊重したりしていくことが不可欠になるのではないかと見ています。

 

高井

キャリア権の法制化が具体的に実現するのはいつ頃でしょうか。

 

諏訪先生

私は今から30年くらい前に、テレワークについて熱心に調査していました。当時は世間の反応が乏しかったのですが、今や働き方改革の目玉の一つとなっています。それらの経験からしますと、時代が追いつくのに30年ほどかかりますので、キャリア権も唱え始めてからまだ20年ほどですから、あと10年ぐらいはかかるかなと思っています(笑)。

 

高井

キャリア権を法制化するには、どういった方法があるのか、先生のお考えを教えてください。

 

諏訪先生

キャリア基本法というような形だったら超党派的にやれる可能性があるのではないかという気がしております。その中に、スポーツ基本法の前文でのスポーツ権と同じように、あるいは別建ての理念規定の条文として、キャリア権の理念を書き入れる方向が考えられます。そうなりますと、もう一段先へ行けるかなと思っています。

平成13年職業能力開発促進法改正により「職業生活」にキャリアの意味が明確に盛り込まれてから、厚生労働省系の法令では、多くの法令に「職業生活」という言葉が入ってきました。女性活躍推進法の場合は、「女性の職業生活」という言い方で女性のキャリアに関連する言葉がついに法律のタイトルにも入りました。「職業生活」に何らかの形で言及する法令は、はや49本になりました。

ところが、厚生労働省とほぼ同時期にキャリアの問題(キャリア教育)に着手した文部科学省は、その根拠になる特段の法を作っていないようです。教育基本法の諸規定を読み込むことで導き出せるとの考えでしょうが、免許状更新講習規則で「キャリア教育」の語が出てくる程度です。私は文部科学省系のキャリアの定義と厚生労働省系のキャリアの定義が大きくかい離することはよろしくないと懸念していますし、キャリア教育の基礎にキャリア権を置くことが望ましいと思っています。

よく知られているように、こういった省庁間の調整は極めて難しいので、議員立法で解決をはかる。議員立法で、キャリアの尊重と形成というところだったら、おそらく総論ではまとまると思っています。

 

高井

議員立法は可能性がありそうですね。

 

諏訪先生

漠としているにせよ、ともかくこれからの時代は個々人のキャリアを尊重し、伸ばすようにしていかないと、個人も、企業も、社会もきわめて難しい事態に遭遇すると懸念されます。それだけに、子ども、若者、さらには若手社員、中年、中高年へのキャリア教育・学習は、どれも不可欠です。

いずれにしても、文部科学省が生涯学習政策局を有し、また、学校でのキャリア教育を担っているのですが、キャリア教育はキャリア権を踏まえたものであるべきだと考えます。個々人のキャリア権を実現する基礎、前提としてキャリア教育があると考えています。また、経済産業省も産業人材という観点からキャリアの問題にやはり関心を示しています。とはいえ、経済産業省と文部科学省と厚生労働省の間で調整をさせて、キャリア権に関する基本法の制定をしようなんていったら、これはもう大変な時間と手間がかかるのではないかと想像します。そこで結論として、議員立法のほうがいいかなと考えています。

そのようにして成立する基本法や関係諸立法を踏まえ、実務の現場がそれぞれに工夫して、キャリア尊重と支援により、労使にも社会にもウィンウィン関係が成立するような時代が来ることを切に願っています。

 

以上

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第17回目です。
  • 第17回目は、ナミHRネットワーク 代表 人事コンサルタント 川浪年子様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第17回)■ ■ ■ 
ナミHRネットワーク 代表
人事コンサルタント 川浪年子様
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[ナミHRネットワーク 代表 川浪年子様 プロフィール]

川浪様

1947年、東京下町生まれ。フジテレビ、外資系旅行代理店を経て21歳で結婚し、夫の転勤に伴いグァム島に転居。現地で女児を出産した後、香港系の免税店にてセールズクラーク兼在庫管理要員として勤務。 

帰国後1976年、米国デュポンの日本支社入社、同時に離婚。デュポンで総合職に抜擢され、1990年にはアジア太平洋地区初の女性情報システム部長に就任するも、米国留学の夢をあきらめきれず、デュポンを退職した翌1993年米国バーモント州SIT大学院に入学。 

1995年、異文化マネジメント修士号を取得。帰国後東京ベイヒルトン 人事部長、リーボックジャパン 人事総務部長、エース損害保険 取締役人事部長を歴任、エース保険米国フィラデルフィア本社 国際人事部、中国の華泰(フアタイ)保険北京本社人事シニア・アドバイザーを経て、2004年9月にエースを退職し帰国。翌2005年、駐日英国大使館人事マネジャーに就任。定年退職した2011年8月より人事コンサルタントとして独立。

一方、2010年より3年間にわたり、英国国立ウェールズ大学経営大学院 東京キャンパスにおいて 日本語MBAプログラム の一環として「リーダーシップ」コースの教鞭をとる。2013年より海外産業人材育成協会が主催する、スリランカで選抜された企業幹部向け二週間の「シニア・マネジメント・リーダーシップ・プログラム」のコースディレクターを務め、本年11月に5期目を担当する予定。 

人事分野に直接携わってきた直近の22年をはじめ、長年、組織の変革及びリーダーシップの開発に格別の情熱を注ぎ、幅広く関わってきた。

 

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 株式会社開倫塾 代表取締役社長 林明夫様
  • 高井伸夫 
取材日:2017年5月18日(木)日本工業倶楽部会館2階ラウンジ

 

 


高井

川浪さんは今、どのようなお仕事をされていらっしゃるのでしょうか。

 

川浪様

2011年に独立し、人事コンサルタントとして活動しています。2年前から、Xcendant(センダント)いう名前のスリランカのIT企業と、日本のIT企業である株式会社ウィザードの顧問として、両社のコミュニケーションのサポートをしています。また、その他にはリーダーシップ開発に関するセミナーのファシリテーターを頻繁に行っています。毎週、スカイプでの会議に参加し、両社のビジネスに関するやり取りのほとんどを把握した上で、サポートしています。

 

高井

スリランカの会社はどういったことを希望しているのでしょうか。

 

川浪様

日本からシステムの開発を請け負いたいんです。オフショア開発(注)と言われていますが、それがかなり盛んで、日本に進出したい、パートナーを見つけたいという会社が多いんです。センダントとは2年以上前に仕事を通して知り合いましたが、日本でパートナーを探してほしいと依頼され、ウィザードが、私が拙い力でようやく見つけた日本のパートナーです。

注:オフショア開発とは、情報システムやソフトウェアの開発業務を海外の事業者や海外子会社に委託・発注すること。営業や企画、設計、納品、サポートなど顧客に近い業務は本国で、実装やテストなどを海外で行なうといった形で分業することが多い。 

センダントが開発した他のシステムを、日本の社長にもスリランカに行って見ていただく機会があり、センダント社がインドの企業にも決して劣らないシステム開発力を持っていることがわかりました。それから双方で様々なプロジェクトが盛んに行われています。まだまだ決して成功していると言えるところまでは行ってはいませんが、必ずや上手く行くと信じています。

 

高井

ところで、川浪様の経歴について教えてください。かつて所属したことのある会社の数、仕事の内容をそれぞれ教えてください。

 

川浪様

今まで、わずかな期間でも籍を置いた、あるいは常駐した会社を含めると17社です。一番最初はフジテレビで1年8か月在籍し、人生最初の転職をしました。今はもう存在していないと思いますが、トラベルセンターオブジャパンというアメリカの旅行会社で、帝国ホテルのロビーにあるブースでした。その次がリオ・ティント・ジンクというオーストラリアの大きな鉱山会社の日本における連絡事務所です。

 

その次は、結婚して夫がグァムに転勤になったので、グァムの免税店で働きました。3年余り勤務し日本に帰国し、帰国後は、アンドリュース商会という、イギリスの会社でアシスタントをしました。娘が小さかったため、パートで働き、そのあとに、デュポンジャパンに入ったんです。デュポンには16年いました。

 

デュポンを辞めてから、アメリカのバーモントにある大学院に2年間留学しました。この大学院では、キャンパスでの授業が1年間フルにあり、そのあとどこかの組織でインターンを半年以上やらなければいけないという大学院でした。インターンを終えて、サンフランシスコへ移りました。大学院の卒業論文は、世界中どこで書いてもいいので、サンフランシスコでは卒論を書きながら、州立大学で自分の好きな人事関連の科目を受講しました。

 

高井

大学院とは別に、サンフランシスコ州立大学で社会人教育を受講されたんですか?

 

川浪様

はい、“生涯教育”と呼んでおり、ダウンタウンに教室がありました。私は、Legal Aspect of Human Resource Management”と言って、日本語に訳すと、“人事管理の法的側面”とでもいいましょうか、それと人材育成関連のコースを受講しました。大学院で修士号をとり、サンフランシスコでの生涯教育も終え、そのあと5週間くらい、第二外国語として英語を教える方法だけに特化している専門学校に行きました。英語を初めて学ぼうとする人達に、最初から限られた英語を使ってどうやって英語を教えて行くのかという授業です。

 

林様

第二言語習得理論というのがありますが、それに基づいた第二言語としての英語を教える特別な資格ですね。

 

高井

日本に戻られたのはいつ頃ですか。

 

川浪様

日本に帰ってきたのは、1995年9月です。そのあとすぐに、東京ベイヒルトンに就職いたしました。はじめての人事部長のポジションでしたが、仕事に対しては、ほとんど違和感がありませんでした。これは全くデュポンのおかげだと思います。

デュポンという会社には16年間在籍しましたが、当時リーダーを育成することに力を入れていました。部門にかかわらずどのリーダーも人事というものをかなり理解させられていたんです。ただ、ヒルトンで一番大変だったのが組合との折衝でした。情熱あふれる若者が数多くいる組合で、あっという間にいい関係を築くことができましたが、その反面、トップからの信頼よりも組合からの信頼の方が大きくなってしまい、一年もしないうちに辞めることになりました。

ありがたいことに、スニーカーのメーカーであるリーボックからヘッドハントされて、人事・総務のトップになりました。しばらくして昇格して香港転勤をオファーされました。最初はかなり喜びましたが、香港に行く直前になって、リーボックが全世界でリストラをやることになったから、日本でも終えてから行ってくれと言われました。リストラを無事に終えますと、今度はオフィスの引っ越しをするから、リロケーション・プロジェクトをやってから行って欲しいと言われたのですが、そうこうしているうちに、エース損害保険からヘッドハントされました。そこで高井先生と出会うわけです。

 

高井

リーボックで昇格して香港には行かずに、エースに転職されたのは何故ですか。

 

川浪様

一つはヘッドハントされて誘われたというのがありますが、実はずいぶん悩みました。鉛筆を倒して、香港に行こうか日本に残ろうかと・・・。が、香港ではやることが決まっていました。リストラです。日本から女性のマネジャーがきてリストラをやる、それが現地の人にとってどんなに嫌なことかと考え始めました。そんな嫌な役をやるよりも、日本でこれだけ求められている、大変かもしれないけどエースに入った方がいいのではないかと思い始め、転職の決意をいたしました。エースでは日本で4年、フィラデルフィアと北京で2年と、合計6年間在籍しました。

 

高井

エースで6年勤められて、その後、どちらへ転職されたのですか。

 

川浪様

エース保険が筆頭株主となった中国の華泰(フアタイ)保険北京本社に人事のシニア・アドバイザーとして出向していた際に、ハートフォード生命というアメリカの会社からヘッドハントされて日本に帰ってきたんです。残念ながらアメリカ人のCEOと考え方がまるで違いました。当時、ハートフォード生命は大成功していましたが、ビジネスの展開と組織の拡大とがそろっていなかったのです。こんな時こそ、新しいことを考えなければならないと思っていたのですが、トップは型にはまったままでとにかくやれ、と。それでいて毎晩、その日のリポートを提出させられました。結局、区切りとなる半年間だけ勤務して辞めることにいたしました。

そのあと直ぐに、英国大使館の募集を見て応募し、人事マネジャーになりました。

 

高井

英国大使館には何年勤務されたのですか。

 

川浪様

58歳から64歳までの6年です。英国大使館が日本に来て130年経っていたのですが、初めての人事マネジャーとなりました。あらゆる変化が求められている時期でした。私が手掛けた一番大きな変革は、年功序列からパフォーマンス・ペイシステムへの移行でしたが、多くの反対もあり、大変な苦労をしました。が、結果的にはかなり上手く行き、やりがいがありました。64歳になり、自分が作った就業規則に基づいて、私が定年退職者の第一号になりました。

 

高井

64歳で自身が作った就業規則に則って定年退職された。今まで川浪様が在籍された企業は外資系企業が多いようですが、一番働きやすかった企業はどこですか。

 

川浪様

この50年間、日本の企業はフジテレビだけで、あとは全部外資系でした。デュポンの16年をはじめとして、アメリカの企業が一番長かったことになります。一言で言いますと、アメリカの企業がもっとも働きやすかった印象はありますが、それよりも、人事をやるようになってから考えたことは、働きやすい、働きにくいというのは、上司、つまりトップがどういう人かにつきると思います。部下を信頼できずに、小さいところまで管理するような上司、トップのもとでは働きにくいとつくづく感じています。

 

高井

まさにトップ次第ですね。ご自身の定年は考えていますか。

 

川浪様

4月に70歳になりました。定年についてはよく考えますが、「ノー」というのが苦手なもので、次から次へと新しいお話をいただいているうちは、働き続ける・・・それが私の生き方かなと思うようになってきた今日この頃です。

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第16回目です。
  • 第16回目は、有限会社横内商店 代表 横内誠様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第16回)■ ■ ■ 
有限会社 横内商店
代表 横内 誠 様
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[有限会社横内商店 代表 横内誠様 プロフィール]

昭和49年8月8日生まれ。有限会社横内商店代表。

『究極の産地直送とは?』を考え、自らも生産者になることを決意し、2006年の銃砲所持許可免許を取得し、2007年から狩猟者(ハンター)となり、自ら狩猟した獲物を食材として販売。日本にない食材をつくるべくフランスより食用鳩を輸入し、茨城の提携農場にて食用鳩専門農場を設立し現在も一流レストランに卸業務を行っている。その他にも大学と提携し究極の赤身牛肉の生産販売や循環型畜産にて生産されるエコ食材の精力的な販売など行っている。

2006年銃砲所持許可免許取得から夏場はクレー射撃の練習を行い続けた結果、現在クレー射撃日本代表として海外の試合などに出場。2014年アジア選手権大会(UAE)10位、2012年アジア選手権大会(インド)16位。その他、世界選手権・ワールドカップに多数出場。国内の大会では2016年岩手国体スキート種目 優勝。

横内様、新井様お写真

写真は、右から横内誠様、新井由可様
日本工業倶楽部会館2階ラウンジにて2017年5月10日撮影

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 新井(横内)由可 様
  • 昭和52年3月21日生まれ。
    オリンピックテレビ観戦をきっかけに9歳で 器械体操を始める。1990年に全日本選手権大会個人総合7位入賞、その後、数々の国際大会に日本代表として出場。段違い平行棒の降り技で新技に挑戦し、後に「ARAI」というE 難度の技が誕生。自分の名前の技を持つ体操女子選手は日本で3名のみ。18歳でクレー射撃へ転向後、日本代表として数々の国際大会に出場。現在はパーソナルトレーナーとして活動するとともに後輩選手のセカンドキャリア相談・支援も行っている。

  • 高井伸夫 
  • 高島さつき(秘書)
取材日:2017年5月10日(水)日本工業倶楽部会館2階ラウンジ

 

 


高井

ジビエは業界全体で伸びているのですか。

 

横内様

ちょっと前に比べると伸びていると思います。なぜかと言うと、昔はジビエの流通が悪かったので、ジビエ食材が行き来しませんでした。今は流通が良くなって物量が増えたのと、それを告知する報道とか、雑誌、書籍等が増えていますので、みんながジビエを食べようという気持ちになっている部分があります。ジビエに対して、「行ってみたい」「ヘルシー」というふうにイメージが変わってきています。

 

高井

ジビエを提供するレストランは増えているんですか。

 

横内様

増えています。いろんな人がジビエ食材を使う事によって、いろんな料理方法で提供され、メニューが増え、お客さんも選択肢が増えていると思います。今までは、そもそもジビエを扱っているレストランが少なかったので、ある一定の料理でしか提供されなかったのが、色んな考え方の色んな人が料理するようになった。フレンチだけでも、クラシカルな伝統的な料理を作る人もいるし、今の新しいモダンなものを作る人もいる。食べさせ方、ソースの付け方、熟成のさせ方が変わってきています。そういう意味ではフレンチは奥が深いです。

 

高井

素人におすすめの、馴染みやすいジビエを教えてください。

 

横内様

馴染みやすいのはカモです。それなりに美味しいやつは高いですが・・・。ジビエ食材は、獲るのも大変ですし手間がかかっている分、付加価値を付けて出したいというレストランが多いです。カモの他には、シカでしょうか。流通量も多いですし、食べやすさからしたらシカが一番食べやすいかもしれませんね。

 

新井様

シカ、カモ、は初級編ですね。

 

高井

具体的にはどういったお店がありますか。おすすめのレストランを教えてください。

 

横内様

この辺り(注:丸の内)だと、「ブラッスリー ギョラン (Brasserie Gyoran)」さん、このお店のシェフは一緒に狩猟をやっています。シェフ自らが獲りに行く。もちろん僕が獲ったのも卸しています。キジ、カモなどの鳥類や、珍しいところだと、コジュケイ(小綬鶏)だとか、ヒヨドリなどを獲っています。

 

高井

ジビエのダイヤモンドと呼ばれる食材はありますか。

 

横内様

ダイヤモンドと表現するものは聞いたことはありませんが、フランスの表現で、ヤマシギ(山鴫)はジビエの王様とか女王様と呼ばれています。一皿1万円くらいします。

 

高井

一番おいしい食材は何ですか。

 

横内様

好みがあると思いますが・・・、新鮮なカルガモ、もしくは1か月くらい熟成させたくらいのキジでしょうか。

 

新井様

フランスではもともとキジは、1か月くらい熟成して、腐りかけたものを食べるんですって。ぶら下げて行って、首がとろーっと伸びてくるんです。それくらい伸びてくると食べごろとなるそうです。熟成させた方が、味がよくなり香りもでるようですよ。

 

高井

横内様は、具体的にどこでどうやって狩猟をしているのですか。横内様の狩猟スタイルを教えてください。

 

横内様

地元の狩猟免許を持ったおじいちゃんたちと組んでペアでいきます。犬を使って獲物を見つけて、追い出して、飛んだところを鉄砲で狙います。獲物は特別な場所に生息しているわけではなく、身近なところにいるんですよ。

近郊だと千葉の雑木林とか、銚子辺りまで行くと、キャベツ畑で作業をしている農家の方の横を「こんにちは」なんて挨拶して通り過ぎたりすることもあります。キジは嘴でキャベツをつつくから農家さんにとっては天敵なんですよ。

 

高井

今年のヒットは何ですか?

 

横内様

今年はヤマシギですね。40羽くらい獲りました。日本では、ヤマシギを獲る人が少ないんです。鉄砲撃ちはそれなりにいますが、ヤマシギがいる場所を知っている人が少ないんです。それと、犬を連れていても、犬がヤマシギの匂いを知らないとヤマシギがいても分からない。犬は匂いを知っているか知らないかなので、僕らは犬に匂いを覚えさせて獲っているんです。

 

高井

ヤマシギの匂いを犬に覚えさせて獲るとは、どうやって犬に匂いを覚えさせるのですか。

 

横内様

親犬の猟に子犬の頃から連れていきます。親が獲ったら、内臓を出させて、子犬に食べさせるんです。これは美味しい、と子犬に匂いを覚えさせるんです。覚えると、その匂いを求めて追いかけるんです。獲物がいたら、しっぽをピーンと振るんです。ここにいるよ~と。そこで僕らは構えて待っていて獲るんです。

 

高井

一番難しい、大変だった猟について教えてください。

 

横内様

ここ2~3年は行ってませんが、北海道の蝦夷ライチョウはなかなか獲れません。日本ライチョウは獲ったらだめですが、蝦夷ライチョウは獲ってもいいライチョウです。生息数が本当に少ないんです。朝一から北海道の山奥の小川のほとりで、おびき寄せるためにピーピー笛を吹くんですが、なかなか出てきません。寒いし、吹きすぎて酸欠になって、もう頭がいたくなるんですよ。笑

 

高井

蝦夷ライチョウは高価なんですか?

 

横内様

むちゃくちゃ高いです。北海道まで行って、僕が笛を吹く料金がかかってますから 笑。ただ、1日1羽も獲れないので、面白くないから誰もやらないんですよ。僕は高く売れると思ってやりますが、商売をやってきて、まだ6羽くらいしか獲ったことがないです。何回北海道を往復していることか・・・。蝦夷ライチョウは大赤字です。

 

高井

熊の胆嚢は癌に効くと聞いたことがありますが、マタギと呼ばれる人達から獲物を卸してもらうことはありますが?

 

横内様

僕が知っている人で、岩手と北海道でそれぞれ獲物を獲って皮をなめして販売したり、普通の時期は野菜を作ったりして生活している人がいます。その人たちは、認可を受けた解体場を持っていない人が多い。四つ足に関しては、認可を受けた解体場で解体したものしか買わないようにしています。そうでもしないと、法律が甘すぎるんで、何かトラブルがあった時に、だれも責任を負えなくなってしまうんです。ですから彼らから買わないのではなく、買えないというのが現状です。扱っている食材は、お客さんの口に入るものである以上、衛生面がしっかりしているところでないと、という思いがあります。そこの部分だけはちょっとナーバスになります。

 

高井

ジビエの仲買人をするためには、どういった資格が必要ですか。

 

横内様

僕の場合は狩猟登録、ハンターとしての免許と、食肉の販売免許、この2つでやっています。実際に販売するに当たっては、おそらく販売免許も何にもいらないと思います。まだ、そういった決まりがないんです。販売するところさえ持ってたら、ど素人でもジビエを販売できます。例えば高井先生が獲ってきたら、僕が500円で買いますよ。笑

 

高井

ジビエ・狩猟に関するの日本の問題点は何ですか。

 

横内様

疑問になりますが、日本では、狩猟をすること、鉄砲を使うことは引け目を感じる部分があります。法律的にも厳しくなってきています。国が、銃、鉄砲を持たせないようにする、という流れがあります。一方で、狩猟者が少なくなってきているから、農作物への被害が年々増え深刻化しているのを受けて、狩猟者の育成に国が補助金を出しています。あい反することをやっていてます。

 

高井

管轄している省庁はどこですか。

 

横内様

環境省が狩猟に関しての免許を全部発行しています。あくまでも駆除、生体の調整が目的ですが。一方で、鉄砲を持たさないようにしているのは、警察庁です。

 

高井

安全、防犯か、環境整備か・・・、国の姿勢に一貫性がありませんね。

 

横内様

鳥獣被害は年々拡大していて、農家は困っている。食料自給率は下がっている。イノシシとかシカの被害があるから獲って、といわれて鉄砲で獲りにいっても、警察からあなたは資格がないですね、というふうに言われると、どうしたらいいのかわからなくなります。国は何がしたいのでしょうか。

 

高井

横内様はジビエの自給率100%を目指されていますが、現状と可能性を教えてください。

 

横内様

イタリアンやフレンチレストランの場合は、ヨーロッパ産の食材をたくさん使いたいという志向があります。彼らは修行したときに使っていた現地、ヨーロッパ産の食材を使って料理を提供するという考えのため、ジビエは輸入食材が多いんです。フランス、スコットランド、スペイン等から輸入しています。

実際には、イタリアン、フレンチ、スペイン料理でも日本でジビエ料理をするうえにおいて、すべて国産で揃うんです。鮮度も高いですし、何で日本の食材使わないのかなと。それで、地産地消を訴えています。自給率100%を目指して、国産のものだけでレストランを行ってくださいよ、という形で営業を行っています。

ジビエ市場拡大についてはまだまだ課題がたくさんありますが、自給率100%を目指していきたいと思っています。

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第15回目です。
  • 第15回目は、TMI総合法律事務所パートナー弁護士・弁理士升永英俊先生です。

 

 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第15回)■ ■ ■ 

TMI総合法律事務所 パートナー
弁護士・弁理士 升永英俊 先生

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[升永英俊先生 プロフィール]

弁護士・弁理士。TMI総合法律事務所パートナー。1965年東京大学法学部卒業、1973年東京大学工学部卒業、1979年米国コロンビア大学ロースクール修士号(LLM)取得。米国ワシントンDC、ニューヨーク州に弁護士登録。「青色LED訴訟」を始め、数多くの特許権・税務訴訟を手掛ける。弁護士や文化人らの賛同を得て「一人一票実現国民会議」を立ち上げ、いわゆる「一票の格差」といわれる「1票価値の住所による差別」を撤廃すべく、自ら多くの違憲訴訟を提起している。

升永先生お写真

写真は、升永英俊先生(右)と高井伸夫(左)

 

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 宮本雅子(秘書)

取材日:2017年4月20日(木)11:45~  於:芝とうふ屋うかい

 


高井

升永先生が2017年5月3日の東京新聞に出される意見広告では、2013年7月29日に麻生財務大臣が都内で講演をされたときの憲法改正に係る発言が紹介されています。麻生大臣は、ドイツのワイマール憲法がいつのまにか誰も気がつかないうちにナチス憲法に変わっていたと述べられ、憲法改正に関しても「あの手口学んだらどうかね。」と発言されたとのことですが、「ナチスの手口」について教えて下さい。

 

 

升永先生

当時、この話が新聞に出たとき、麻生さんは何を言っているんだろうと思いました。誰も知らないうちに憲法が変わったはずはない、国民が圧倒的にナチスを支持したんだ、国民が何も知らないはずはないと。

つい1年半ぐらい前に、このナチスの当時の一日、一日を順に追っ掛けてみました。ナチスが政権を取る直前の一日、一日がとても大事です。驚くことが分かりました。

1932年11月6日に選挙がありましたが、ナチスの得票率が33%、この時点で67%も反対がいたわけです。ナチスは多数の政党の中の第一党ではあるけども、多数ではなかった、過半数は持っていなかったんです。

 

高井

ナチスが政権をとる直前の選挙で得票率が33%しかなかったのは意外です。そこからどのようにして支持を集めたのでしょうか。

 

升永先生

当時のドイツは日本と同じような議会制民主主義でしたので、過半数を連立でつくるより仕方ありません。そこで、第2政党と第3政党が連立を組んで過半数にしようとした。32年11月6日の選挙が終わってから2カ月半の間に2回連立を試みましたが、いずれも失敗しています。ナチス抜きでうまくいくと思ったらいかなかった、そこで結局、第1党のナチスと連立を組もうということになりました。12人の閣僚のうちのナチスから3人、残り9人はナチス以外で閣僚を確保することにして、当時は6カ月連立を組んでやってみて、経済が良くなったら、そこでナチスを閣議決定で追い出せばいいという予定だったんです。当初は、ヒトラーは副首相ということで連立の申し入れをしました。ここが、ヒトラーが天才と思うところです。

 

高井

ヒトラーが天才ということですが、具体的にはどういった点でしょうか。

 

升永先生

ヒトラーは、ナチスの閣僚は3人でいいが、その代わり首相は私がやりたいという提案をしました。提案された方は、閣僚12人中9人を握っていれば、閣議決定でヒトラーを辞めさせられるという考えがあり、ヒトラーの首相就任を承認しました。ナチスからは、ヒトラー以外2人しか閣僚を認めないということで連立ができたんです。

ナチス、ヒトラーが首相になったのは1933年1月30日です。ヒトラーは1932年11月の選挙の2カ月半後、選挙をしたばかりなのに1933年2月2日に(ヒンデンブルグ大統領に要請して)国会を解散させました。そして、解散の2日後、2月4日に言論の自由を停止する緊急事態命令を出したわけです。

 

高井

まず解散があって、2日後に、緊急事態命令を出した。言論の自由停止といいますが、命令というのは法的根拠とか議会の合意なく発せられるものでしょうか。

 

升永先生

議会なしで、大統領令でいいのです。大統領令なので連立があっても議会の他の議員が反対できない。

 

高井

ヒトラーは当然最初から独裁するつもりだったんですね。

 

升永先生

そうです。初めから独裁するつもりだった。天才ですよ。緊急事態命令で全て決まりです。その後、いろいろやるけれども、報道されないのです。1933年2月27日に国会が放火されます。国会を解散したのが1933年2月2日で、3月5日が選挙の投票日でした。投票日の1週間前の2月27日に国会を放火して、翌日、第2回目の緊急事態命令でナチス反対派を約5000人逮捕しています。問題は、こういう情報が国民に知らされていないんです。国民の大部分は何も知らないのです。

この2回目の緊急事態命令が1933年2月28日、約5000人逮捕した後の3月23日に全権委任法ができました。重要です。全権委任法というのは、国会は立法できるけども、国会だけじゃなくて、内閣総理大臣も立法できるという法律です。この法律をどうやって通したかというと、国会は2月27日に放火されていて使えません。ナチスは3月23日にベルリン市内のオペラ座を仮会場にするという指定をして国会議員を集めました。既に逮捕・拘束されている共産党議員(81名)、社会民主党議員(26名)と病欠者を除く、残りの国会議員538人が、国会の仮会場としてオペラ座に集められた。オペラ座の周囲は武装したナチスの私兵である突撃隊が包囲していました。その会議場の正面には、カギ十字のナチスのマークが大きく掲げられ、会議場には、武装したナチスの突撃隊が居た。とても国会の会議場といえるものではない。そこで、さあ投票しろって言うわけです。

32年の11月6日の選挙のときはナチ党の得票率は33%でしたが、問題の2回目の選挙(開票日は33年3月5日)では、ナチ党の得票率は44%まで上がりました。

それでもまだ過半数ではなく、ナチス反対派が56%いた。ところが、武装したナチスの突撃隊がいる会場で表決が取られ、全権委任法は、82%(=444人÷538人×100)の国会議員の賛成により、国会を通過しました。反対票を投じた社会民主党議員・97名を除くナチス反対派は、ナチスに恐怖した、ということです。

まさに、麻生さんの言うとおり、全権委任法は、国民が何も知らないうちに成立しました。緊急事態宣言により報道統制下におかれていたので、新聞、ラジオは、このような異様な国会の議事進行を報道しなかったのです。

 

高井

緊急事態宣言の脅威について教えて下さい。

 

升永先生

内閣総理大臣が、「緊急事態だ」と判断すれば、内閣総理大臣は緊急事態宣言を出せます。最近ではトルコ大統領が緊急事態宣言を出して強権政治を行っています。トルコ大統領は、緊急事態宣言を発し、1か月で3万5,022人を逮捕拘禁しました。新聞、テレビは、そのことを大きく報道しません。そのため、日本国民の大部分は、緊急事態宣言の恐さに気がついていません。ナチスは、緊急事態宣言で約5000人を逮捕しました。戦前の日本でも、1936年の二.二六事件で緊急事態宣言が出ました。二.二六事件以降、軍が日本を支配し、議会は機能しなくなりました。

 

高井

次に自民党憲法改正案21条2項。「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは認められない。」これについて教えてください。

 

升永先生

実は、自民党改憲案21条2項は、中国憲法51条と実質的に同じなんです。中国憲法35条では、言葉の上では、日本国憲法21条1項よりもっと強く言論の自由を保障しています。中華人民共和国 憲法35条「中華人民共和国市民は、言論、出版、集会、結社、行進、示威の自由を有する。」

言論、通信、思想の自由を保障すると書いてあります。では、実際そうなってないのはおかしいじゃないかと思いますが、51条というのがあります。それが自民党改憲案の21条の2項と同じようなものです。

中華人民共和国 憲法51条「中華人民共和国市民は、自由及び権利を行使する際、国・社会・集団の利益およびその他の市民の合法的自由および権利を害してはならない。」

この条文があるから結局、中国国民は、言論の自由の権利は持っているけども、言論の自由の権利を自由に行使できないのです。自民党改憲案21条2項はこれと同じです。

 

高井

自民党草案は言論の自由を形骸化するものであるにも拘らず、新聞はなぜ報道しないのでしょうか。

 

升永先生

当初は、新聞が報道しない理由が分からなかったんです。私は、新聞は大騒ぎすると思っていた。言論の自由っていうのは彼らの飯の種だと思ってた。実際に、3年前くらいまでは、言論の自由、報道の自由が飯の種でした。ところが、今は違うようです。広告収入というのがあります。広告収入が重要なわけです。広告主の一部は安倍政権をサポートしています。だから、新聞社は、安倍政権に批判的な記事を書くと広告を出さない企業が出てくることが起こり得る、と懸念しているのでしょう。

 

宮本

安倍政権に批判的なことをいうと広告しない、とは穏やかではありませんね。

 

升永先生

実際に、自民党の一部の議員が記者会見で言っています。マスコミをつぶすのは簡単だと。広告を出さなきゃいいんだと。自民党の国会議員が公開のテレビの記者会見で、沖縄の基地反対運動がうるさいのは、あれは沖縄の新聞やテレビが報道するからだ、だから、広告で締め上げりゃあいいのだというようなことを言っていました。そういったことは、沖縄の新聞社だけじゃなくて、東京の朝日新聞も日経新聞も同じことだろうと思います。

新聞は部数を売るだけでは経営が成り立たない、広告収入も増やさないといけない、広告を取らないといけない。自民党が、広告で締め上げると言いますが、本当にそうするかどうか分かりません、本当に断っているかどうかは分からんけども、やっぱり、新聞社の忖度(そんたく)ですよ。

 

宮本

広告主の意向を忖度するということですか。

 

升永先生

一部の企業が実際に広告を出さないと言っているかどうかは分かりませんが、新聞社は忖度する。これは有り得るでしょう。

 

宮本

先生は、憲法改正が実現するかどうかというのはどれぐらいの可能性があるとお考えでらっしゃいますか。

 

升永先生

100%です。

 

宮本

100%。では、もし日本で緊急事態命令が出されたとします。そうすると、何が起こるんですか。やはり反体制の人が逮捕されるんですか。

 

升永先生

それは分かりません。ただ、首相の意のままにやろうと思えばできるのが緊急事態命令です。最高裁も憲法違反だと言えない、国会も止められない。

そのときの首相次第です。日本で首相が独裁しようと思ったら、数千人を逮捕すれば、それは可能でしょう。

 

髙井

緊急事態命令で独裁ができてしまう。逮捕者がでる。恐ろしい話ですね。升永先生は、1人1票運動に私財を投げ打って活動されていますよね。

 

升永先生

言論の自由がなければ1人1票運動なんか吹き飛んじゃいます。1人1票運動なんて悠長なことはいってられない状況です。麻生大臣は、2013年7月29日の都内の公開の講演で、「憲法も、ある日気がついたら、ドイツのこともさっき話しましたけれども、ワイマール憲法がいつのまにか変わってて、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気がつかないで変わったんだ。あの手口学んだらどうかね。」と発言しました。麻生大臣は3日後に発言を撤回していますが。多くの国民は、この麻生発言の危険性に気付いていません。日本中の誰も首相が独裁するなんて思っていない。多くの国民は、緊急事態命令の危険性を知りません。

 

宮本

私のような一般のもの、それはどのようなところを意識していけばよいのでしょうか。

 

升永先生

「あの手口を学んだらどうかね。」の麻生発言の危険性を自分の回りの人々に伝えることしかないでしょう。あなたの周りにいるこの事実を知らない人々に伝える。ドイツでは、ナチスの時代に、緊急事態命令によって、ドイツ国民の誰も知らない間に、ドイツ憲法が実質的に変えられた。この事実を、1人1人が知らない人々に伝えるしかないでしょう。

 

 

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第14回目です。
  • 第14回目は、ジャーナリスト莫邦富様です。

 

 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第14回)■ ■ ■ 

ジャーナリスト 莫 邦富 様 

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[莫邦富様 プロフィール]莫邦富先生

作家・ジャーナリスト。1953年中国・上海生まれ。上海外国語大学卒業後、同大学講師を経て、85年に来日。日本にて修士、博士課程を修了。95年、莫邦富事務所を設立。知日派ジャーナリストとして、政治経済から社会文化にいたる幅広い分野で発言を続け、「新華僑」や「蛇頭」といった新語を日本に定着させた。また日本企業の中国進出と日本製品の中国販売に関して積極的にアドバイスやコンサルティングを行っており、日中の経済交流に精力的に取り組んでいる。

『蛇頭』、『「中国全省を読む」事典』、翻訳書『ノーと言える中国』がベストセラーとなり、話題作には『新華僑』、『鯛と羊』、自分自身の半生を綴った『これは私が愛した日本なのか』、『中国ビジネスはネーミングで決まる』などがある。2002年から2011年にかけて朝日新聞土曜版にて連載コラム「mo@china」が掲載された。

現在、ダイヤモンド・オンラインにて「莫邦富の中国ビジネスおどろき新発見」、時事通信社の時事速報にて「莫邦富の『以心伝心』講座」、プレジデント社『プレジデント』にて「本の時間」(新刊書評)などのコラムを連載中。

莫邦富事務所HP:http://www.mo-office.jp/

 

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 高島さつき(秘書)

取材日:2017年4月27日(木)14:30~  於:日本工業倶楽部会館2階ラウンジ

 


高井

さて、鄧小平先生は日本に来て、松下電機などを見学して日本を学べと言いました。鄧小平先生はなぜ日本に学べと言ったのですか?

 

莫邦富様

鄧小平先生は1978年に日本に来ました。78年以前の中国は言いかえれば、よくも悪くも、毛沢東時代の余韻がまだまだ残っていた時代です。当時、私の給料は45元(注:1978年当時の為替レート 1元=122.98円、45元=5534円程度)です。あの頃、クレジットカードのことも知りませんでした。外国人専門の友誼商店と呼ばれる店で、ある外国人がすごい買い物をしていたのを見ました。私の年収以上のものを買っていたのです。そこで小さい札みたいなものを出して会計をサインして済ませていたわけです。あれが噂のクレジットカードかと思い、その威力に目を見張りました。

ですから当時の中国にとって海外との認識の差は非常に大きかったものです。鄧小平先生は以前フランスに留学したこともあるので、とりあえず海外を見た経験を持っていた。これは非常に重要なことです。毛沢東自身と、毛沢東と共に革命をやっていた人たちは、ある意味で生活が厳しくてどうしようもなくて革命に参加したわけです。革命後は政府の高官になったりしていますが、海外のことは知りませんでした。鄧小平先生は少なくとも海外を知っているので、松下電器を訪問したり、新幹線に乗ったりして背中を押されたのを感じたという感想をもったことは、非常に当然でした。

鄧小平先生は海外について、ある意味で他の中国の指導者よりも敏感に反応しています。しかも謙虚に見ようという意識があったのでしょう。鄧小平先生の考えは非常にシンプルです。松下電器のような工場を中国にも作りたい。工場を作るには、人を派遣して工場の運営の仕方を学びたい。新日鉄製鉄所を見たら、それも中国に作りたいと言い出す。鉄イコール国の実力だと思ったからです。

新幹線は、さすがにそれに手をだすその実力は当時には、まだなかったと思います。しかし新幹線のスピードに対する彼なりの認識があったと思います。

私は比較的早い時期に日本を訪問しました。初めて日本を訪問したのは1981年です。大阪グランドホテル(注:2008年に閉館)に泊まりました。当時は自由行動が認められていなかったので、朝早く起きて、出発する前の時間を利用してホテルの周りを1人で回りました。ホテルを出たら地下街に入る入口があったので、降りてみました。誰もいなかった。地下道で自分の足音が響くほど静かでしたが、地下鉄が到着した途端に、たくさんの人が電車から降りてきました。出勤の時間が近づいてきて、女性のハイヒールの音、つまりハイヒールの踵が地面をたたく音がしますが、その音に陶酔しました。

 

高井

なぜ、ハイヒールの音に陶酔したのですか?

 

莫邦富様

足音が、速いんです。トトトトト、その後中国に戻り訪日のエッセイに書きました。これが先進国のスピードだと。朝、トトトトト、と。当時中国の歩く速度はゆっくりしていました。今はハイヒールの音にはもう感動はしませんが、当時はかなり感動しましたよ。鄧小平先生もおそらく同じ様に、このスピード感に、ある種の陶酔というか、刺激を受けたのではないかと思います。

当時の中国は、門戸を開放して、外国の文化や技術を受け容れる準備ができていなかったのです。だから、あの頃のスローガンは「窓を開けて世界を見よう」というものでした。窓です。ドアではありません。外を見ようということです。窓を開けて外を見ようとすると、アメリカやヨーロッパは遠くて見えてこない。一番見えやすいのは近くにある日本でした。

なぜ私が日本語を選んだのかと言いますと、外国語を覚えれば、将来、詩を訳せるという思いもありましたが、もう一つ別の理由もありました。ちょうど1972年に日中国交正常化、1973年に初めて上海でラジオ日本語講座が開設されたのです。そのテキストを取った時にひらめきました。英語、ロシア語は勉強する人がたくさんいた。これまで日本語を専攻した人は、いたとしても非常に少なかったはずですので、みんな0からのスタートだった。ですので、今から日本語を覚えていけば絶対メリットがあると思いました。

大学を卒業して1978年改革開放時代が訪れた時に、期待していたそのメリットがすぐに出てきました。「窓を開けて外を見よう」というスローガンですが、実際には、外国語の書物、新聞を通して、色々な情報を吸収するのです。しかし、当時の中国はあまりお金がなかったので、外国の新聞は、ニューヨークタイムズでも、ワシントンポストでも全部船便でした。

 

髙井

「窓を開けて外を見よう」として、得られるアメリカ、ヨーロッパの情報は船便だった。船では遅いですよね。

 

莫邦富様

新華社が使用する一部は航空便でしたが、他は船便でした。アメリカの新聞が中国に着くのに最低1か月以上かかりました。それに中国とアメリカとの間を行き来する船もそんなに多くはなかった。一方日本の新聞は10日間くらいで入ってきました。朝日新聞や日経新聞を読んで面白い記事を参考にしながら原稿に書いて、中国のメディアに送る。そのメディアに掲載される頃に、アメリカの新聞がようやく届くのです。時間差がかなりありました。

ですから、中国の最初に見ようと思っていたその外、つまり外国は日本でした。鄧小平先生はフランスを訪問して改革開放をやろうと決意したのではなくて、日本を訪問して改革開放路線に突入したのです。

 

高井

莫邦富先生は日中経済交流はハードからソフトへとおっしゃっていますが、ハードからソフトへ、そのソフトの次は何ですか。

 

莫邦富様

78年頃から、中国は外の世界をよく見るようになったわけです。日本人1千人と中国の1千人が持つものなどをよく比較していました。例えば、テレビは何台持っているのか、洗濯機はどれくらいか、車は何台かなど、全部羅列して中国のそれと比較して、そして中国がいかに遅れていたのをよく指摘していました。こうして家電の生産ラインなどを導入していきました。いつの間にかこういった比較はしなくなりました。ハードの比較はだんだん意味がなくなってきたからです。いまの中国では、ハード関連のものについては、質がよいかといった問題はさておき、とりあえず揃いました。

当時の中国では一回の海外の出張で持ち帰る家電に制限があり、大きいのが1つ、小さいのが2つと制限されていました。日本を訪問する中国人は帰国の際、カラーテレビ1台、ラジカセ1台、カメラ1台といった感じで中国へ持って帰った。

全部ハード関連の製品です。今は、日本を訪れた中国人の多くはドラックストアやスーパーで、日用品を買います。日本に来る目的も、だいぶ変わりました。当時は家電の生産ラインなどを導入するためといった商談でした。今は、技術を入手しよう、企業を買収しよう、あるいは日本の環境保護の政策を勉強しようとして、来ています。目的も旅行、医療、留学、あるいは住宅を買う、といったものに変わりました。全部ソフトのところに流れています。

ハードからソフトへだけではなく、もう一つ、大きいものから小さいものへ。こまごましたものになります。さらに外から中へ。以前服を買うとしたら、コートやオーバー、背広、とにかく人の目に触れるものを買いました。今は違います。保温機能のある下着など。外側から内側のものに変化しています。

さらに、日本の企業の対中ビジネスをみても、大きく変化しています。BtoCへ。以前BtoBでやっていた企業が中国のエンドユーザー向けに販売するようになりました。ユニクロや無印良品は、そういった企業の代表です。この流れはまだまだ続くと思います。

中国に対する人への講演のテーマもそういったものを求められるようになりました。東京駅周辺には、中国の視察団をよく連れて行きます。近くに東京駅の駅舎がありますが、八重洲にあった高いビルを数年前に解体して、左に200メートルくらい移して立て直しました。大丸デパートが入っているこのビルをなぜ200メートル動かして立て直したのか。実はこれは大勢の日本人も知らないことだと思いますが……。

東京湾からの風が隅田川を通ってくるわけです。風の道をたどってくると、ちょうど当時、このビルが風の邪魔になっていた。それをどけたのです。海からの風ですので、夏は温度が低い。この風が来ると東京の駅舎はそれほど高さがないので、駅舎を超えることができる。そして、その先に丸ビルと新丸ビルがあります。この2つの建物はそれぞれ高さが160メートルほどで、近接しています。物理の原理で言うと、二隻の船が近づくと、間に流れる水は早く流れます。これは空気も同じです。この建物の間を風がスピードを上げて通過します。つまり、東京湾から来た風が、この二つの建物で、加速させられるのです。25%~30%くらい加速する。この先に皇居があります。皇居は緑が多く、測定では、温度が2度ほど周辺より低いです。この涼しい空気を奪って、四谷、新宿に風が通ります。大都市にはヒートアイランド現象がありますが、建物を移動させて、巨大都市東京に電気代が1円もかからない巨大なエアコンをとりつけたようなものです。こういう話をすると、視察団は一様に驚いて目を輝かせます。こういうことに対してみんな感心するようになっています。

ハードのものも、日本に学ぶ必要がまだまだありますが、大きくいえば1段新しい階段を登る時期に来ていると思います。ですから中国国内で、78年と同じように、もう1度日本に学べと主張しているのもそのためです。1978年は、日本のハード面に目を向けていた。今はハードよりもむしろソフトに目をむけるべきだと私は思います。

 

髙井

日本に学ぶべきとおっしゃいますが、一方で日本のダメなところはどこですか。

 

莫邦富様

日本のダメなところは、日本は昔の成功に胡坐をかいているところです。それほど前進していない、というと語弊がありますが、少なくとも感心するほどの前進はなかなかないと思います。一言でいえば、ここ(注:日本工業倶楽部会館)にWi-Fiが入っていないことからもわかるように、問題はかなり深刻だと思います。ここを利用する人たちは、この国の工業に関わっているある程度の地位になっている人たちだろうと思います。Wi-Fiがないということは、たとえていうならば、このビルに電話が引かれてないのと同じことです。

 

髙井

日本工業倶楽部会館にWi-Fiが入っていないことに危機感や不便を感じる人がいないのでしょうね。

 

莫邦富様

日本工業倶楽部会館にいる方々は、年齢層が高いですが、そういう点も日本が直面しているもうひとつの深刻な問題です。今、電子決済を色々とやっています。ネットを通じてお金を払っている。日本工業倶楽部会館のような場所でも、中国ではネットを通じて利用代金などを払えます。しかし、Wi-Fiがないと払えなくなります。そうすると、誰もここは不便だと思い、いつの間にか、誰もが来なくなります。Wi-Fiは、世界の平均使用率43%、日本は10%、中国は86%です。

 

髙井

Wi-Fi以外で日本のダメなところはありますか?

 

莫邦富様

ほかにも、日本のサービスが低下している。中国人から見れば、日本のサービスはまだいいとみんなほめますが、長年日本に住んでいる私からすれば、日本のサービスは明らかに硬直化、低下しています。マニュアル化している。例えば、水をサービスする、夏ですから冷たい水を運んでくるのはサービスですが、この水を運んだことでサービスが終わったわけではなく運んだ時に、「暑いですね」と一言言う。この一言がサービスの質とレベルを2倍くらい倍増させることになる。

形の上では日本はサービスができています。例えば私のように咳をしている。冷たい水はあまり飲みたくない。数日前、私は上海のホリデイインホテルにあるWi-Fiが使えるコーヒーショップで、深夜まで仕事をしていました。紅茶を注文したとき、咳をしました。しばらくすると温かいレモン水を持ってきてくれました。「お客さん、この温かい水は喉にいいかもしれません」と女性の従業員は優しく声をかけてくれました。同じ水です。それを今、日本の従業員に求めるのは・・・

 

髙井

日本人にそういった付加価値のついたサービスを求めるのは難しいですね。

 

莫邦富様

お水を出すことは、一つの標準装備になっている。これは守っている。以前の築かれた栄光です。そこに心が入っていない。日本のサービスが低下していると私は感じていますが、多くの日本人は実はあまり感じていません。今まで通りやっているではないかと言うかもしれません。しかし、昔、サービスの“サ”もわからなかった中国は、追い上げてきています。お水を出すならば、同じ様にお水を出すと同時に、それ以上に何をやればいいのかという工夫をする。そうすると、温かいレモン水を持ってきたり、生姜のお湯を持ってくるということになる。そうして差が出てくる。こういうことは、よほどアンテナを張って敏感にならないと分からない。

 

髙井

日本は内向き内向きになっていて外向きに学ぶ心がないと思いますがいかがでしょうか。

 

莫邦富様

ある地方自治体の首長の方と対談をした際に、一生懸命日本の素晴らしさを語っておられました。対談中に日本から海外の農業に、あるいは中国、東南アジアの農業に学ぶことはないのか、と聞いた時に、きょとんとされました。実はその時に何かがずしっと落ちました。つまり、日本の良さをアピールするだけで、冷静に海外の何がいいのかを見ていなかった。あの時私は、ここまで多くの人を引っ張ってこられた人でも見方が偏ってしまうおそれもあるのだと思いました。

 

髙井

そういった内容で講演会をやっていただけないでしょうか。日本のダメなところを教えて欲しいと思います。本日はどうもありがとうございました。

以上

2017年7月5日(水)14:00~セミナーを開催いたします。詳細は以下より弊所HPご覧ください。

莫邦富が見た経済大国ニッポン 直面する厳しい課題セミナー

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第13回目です。
  • 第13回目は速水林業代表速水亨様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第13回)■ ■ ■ 

速水林業 
代表 速水 亨 様 

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[速水亨様 ご紹介・プロフィール]

速水様お写真速水林業代表。株式会社森林再生システム代表取締役。 

1953年生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、東京大学農学部林学科研究生を経て、家業の林業に従事。森林経営の機械化を行うと共に国内の林業機械の普及に努める。2000年2月には所有林1070haについて世界的な森林認証システムであるFSC認証を日本で初めて取得するなど、先進的な経営で知られる。2001年朝日新聞「明日への環境賞」森林文化特別賞受賞。2007年から株式会社森林再生システムで、トヨタ自動車所有のトヨタ宮川森林1700haを管理している。 

現在 の公職等:

日本林業経営者協会顧問、財団法人岡田文化財団理事、NPO法人日本森林管理協議会副理事長、FSCジャパン副代表、日本文化デザインフォーラム会員

著書:

日経出版「日本林業を再生する」、日本林業調査会「スギの新戦略2」共著、朝倉書店「森林の百科」共著、産業調査会「森林と木材を活かす事典」共著、林業改良普及双書「機械化林業への取組み」共著

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 高橋真希子(秘書) 

取材日:2016年10月4日 於:東京 芝 とうふ屋うかい

 


 

高井

学問としての林業に対するオーソリティは誰ですか。

 

速水様

そうですね。岩手大学にいらして今は富士大学学長をされておいでの岡田秀二先生もそのお一人です。もし、現在の林業の分析をお聞きになりたいのだったら、「日本木質バイオマス協会」の熊崎実という先生がおいでです。日本の森林に関する分析では、右に出るものはないです。彼の分析は以前から素晴らしいといつも思います。

私と熊崎先生が主催して筑波の森林総合研究所で若い人達を集めて「林業イノベーション研究会」という勉強会をやっているんですよ。

 

高井

今、学者は熊崎先生が分析としては一番とおっしゃいましたが、若手ではどうですか。

 

速水様

若手は、優秀な人は結構たくさんいます。私は東大にお世話になっていますが、若手と言えるかどうか、東京大学の白石則彦という教授は秀才肌で、例えば白書なんかを読むと見事な分析をされていますね。その分析をもとに解決策を提案するというのは中々難しいようですね。様々なアイディアを参考にさせていただいて、いろんなことやってみればいいと思っています。

 

高井

誰か提言している人はいるんですか。先程、なかなか難しいと言っていましたが。

 

速水様

私は林業経営者協会の時に2回ほど提言しました。日本林業経営者協会というHPの「提言集」という項目に掲示されています。時代が変わっているので、私の提言がそのまま今に適用できるかは分からないですが。

 

高井

ところで、今、日本の国有林はどれくらいあるのですか。

 

速水様

だいたい270万~300万haくらいですね。日本の森林は2500万~2700万haくらいかな。今の国有林の管理というのは、担当者が4年~7年くらいでみんなどんどん異動してしまうんですよ。そうすると山全体を見る機会がないです。その状況下で、伐採計画を立てたり、上から木をこの数量伐れという命令がきたり。これでは森林に適した伐採という配慮をする暇がないです。担当者個々は能力がある方々だと思います。ただし、その能力を森林の適切な管理に向かって発揮するチャンスがないですね。

同じ樹齢の木でも状態はそれぞれ違います。例えば「この木は70年だから、もう伐ってもいい時期だ」と言っても、実際見に行ってみれば、「これは全部伐るよりも、強めの間伐をして次に待った方がいい」とか「これはもう風に当たってしまって、これ以上おいても価値は出ないから今伐っちゃえ」とか。私たちならば状態を見てそういう判断をするんですね。そういった状態を考慮せずに、「これは70年だから」、「上から伐れと言われているから」と、意志なく作業せざるを得ないんですね。そういう意味で、国有林は本当に今のような組織の在り方でいいのかって思いはありますね。

 

高井

今、林野庁には人材はいないのですか?

 

速水様

私は基本的にはチャンスと能力を発揮する場さえあれば、活躍していただける方々は多いと信じています。


高井

先程の話ですが、日本は70年たったら伐るんですか。150年とか100年といった期限はないですか。

 

速水様

そんなわけではありませんが、今だったら70年くらいの木だったら伐ろうかなと思ってもおかしくないです。私自身は80年から100年で伐っています。一部は150年とか200年にしているんですけど。既に日本の森林を形成している木の樹齢はだいたい60年くらいになってきています。国は、白書などでも「成熟した」という表現を使っていて、この20年程の間に概ね伐ってしまう計画なんです。

ただし、私どもの考えでいうならば、そういう樹齢になってきた今だからこそ、生物の多様性や、人工林であっても環境負荷が非常に少ない、環境の多様性が高い森林に変質させるチャンスなんです。それに、伐ることができる樹齢になってきた、ということは間違いないですが、それを「成熟した」と表わすのは誤解が生じると思っています。例えば、ヒノキや杉の場合、概ね数百年から1000年ぐらいが、もうそろそろいつ枯れてもおかしくないという樹齢なんですね。もちろん土壌や気候の違いで、200年とか500年で枯れてしまう木もありますけれど。だから300年とか500年とかいう森林を管理していても、おかしくはないんですね。それなのに、たかだか60年くらいの木に「成熟した」という表現を使うのは、生物的には問題だと思います。

 

高井

話が変わりますが、原始林とか自然林などと言いますが、日本にはどのくらいあるんですか。

 

速水様

原始林という言葉よりは、もし使うなら「原生林」ですね。原生林の定義というのが色々難しいですが、簡単に言ってしまえば「商業的にその森林を切ったことのない森林」だと個人的には思います。どういうことかと言えば、シベリアやアラスカの原生林や東南アジアに広がる原生林など、どこも先住民が住んでいれば必ず木は伐っています。船を作る為とか、家を建てる為とか。それについては私は「原生林」としていいだろうと思っているんですね。ただそこに商業資本が入って、森林全体を見て太い木だけ伐ってしまうとする。それは、もう手を付けた森林だと判断してもいいと思います。そういう違いで見るならば、日本は本当の意味での原生林はほとんどないのではないかと。白神も一回伐っているようですね。

 

高井

白神原生林と言うでしょ。木曽はないんですか。それこそ三重県は。

 

速水様

三重県もないですね。一部あまり手を付けてないような森林はありますが、日本で「原生林」と位置づけるのは難しいような気がします。原生林に近い状態の森林というのは、白神も含めて沖縄のヤンバルなどありますが。

私は実は原生林好きでして。2年に一回、ヨーロッパの原生林を訪ねています。ヨーロッパって原生林はほとんどないんですよ。ましてや立ち入り禁止なので貴重なんです。それをコネを使って入れてもらっています。(笑)この2回はスロバキアの森林を訪ねました。原生林に入ると空気が変わるんです。雰囲気というか、木の一本一本の姿もなんとなく違いますし、太さも違いますし。

 

高井

速水さんの所で、一番いい木はどこで採れるんですか。

 

速水様

どこもきちんと管理すればきれいな木が採れます。私が育てているヒノキも、いろいろありますが平均すれば、世の中に流通しているヒノキのベスト10くらいには常に入っているんです。例えば、厳島神社は全部朱に塗ってしまいますよね。ところが能舞台だけは「あらわし」なんですね。塗っていない。そこは全部私のところの木なんですよ。

 

高井

高く売れるんですか?

 

速水様

安くはないですね。直径1mくらいの特別な木ですから。昔は、10mの丸太で、細い所が直径70cmくらいで節の無い真っ直ぐな木を、ちょうど立方数でいうと5立方くらいありますが、それを立方200万円、1本分を1000万円で売ったことがあります。これが私の人生で一番高く売った木ですね。今は同じ木でも100万円いかないかな。今、もう大規模な林業家はみんな赤字ですよ。

 

高井

もともとは林業は豊かだったけど、今は全然ダメだと。林業を放棄する人もたくさんいるのですか。

 

速水様

います。私の知り合いにもいます。やっぱり森林を持ち続けられなくなってしまうんですよ。他の商売をしているのならともかく、林業だけだったらフローが無くなっちゃったらもう資産は増えていかないです。だいたい日本で4大林業森林所有会社が全部赤字だっていうのが問題なんです。彼らがビジネスマタ―で森林を見ないから、政府も同じく見ないんです。ましてや一番大きな国有林も延々赤字です。

 

高井

速水さんの所は何haなのですか。

 

速水様

私の所は概ね1000haです。1000haの面積というのは、全国的に見ても森林所有面積としては大きいです。ただし、林業経営という視点で見ていくと小の上か中の下くらいですね。

 

高井

出口は何があるんですか。アイディアとして。

 

速水様

1998年に京都議定書で、日本は90年度に比べて温暖化ガスの6%削減を約束した。6%というのは先進国の中で比較的大きな数字でした。ところが日本は既にいろいろな配慮をしていたので、その時点でかなり減少していたんですね。物の単位生産あたりのCO2の排出量は世界最小でしたから。そこで、議長国の日本が小さな数字というわけにもいかず6%としたのですが、結果的にその6%の内の3.8%は森林が担うことにしたんですね。この数字は平方キロという森林の面積単位での二酸化炭素吸収量では52.0炭素トンとなり、ロシアの4.1、カナダの3.9、ドイツの11.3などと比べると如何に多くの量が認められたかがわかります。あえて言うなら科学というより、政治的な数字でしょう。

この森林吸収は、過去50年間森林ではなかった土地への植林、1990年時点で森林でなかった土地に対する再植林、1990年以降持続可能な方法で管理されている「森林経営」。これらの3つの条件のいずれかを達成している森林を吸収対象森林としたのですが、この時点で前者の2つの植林は日本ではほとんど可能性が無く、林業経営の1点だけで、3.8%の吸収を担うこととなったのです。

「森林経営」は森林を適切な状態に保つために1990年以降に行われる森林施業(更新(地拵え、地表かきおこし、植栽等)、保育(下刈、除伐等)、間伐、主伐)が行われている森林としたのです。つまり一般的な森林の手入れは全て含まれていたのですが、林野庁は「間伐」のみに光をあてたのです。その後、2001年に森林法を改正しまして、森林管理の目標を、木材生産から多面的機能の発揮に変えたんです。それは実際には3.8%を確保するためのCO2の吸収源としての森林という視点が強かったのです。

この結果、間伐作業に多額の補助金が投入され、世間に「間伐は環境維持に必要な作業だ」と日本独自の理屈で説明をして、間伐材を使うことは良いことだと思わせたのです。それ自体は決して間違いではなかったのですが、市場は木の需要が減っている時に国内の間伐量が増えて、供給過多になり市場が暴落したんです。極端に影響が出てきたのは2003年くらいです。

今は様々な国産の木材利用が始まっていますが、あくまでも安い材価が前提で、少しでも価格が上がる動きがあっても、補助金が作業自体に出て木材価格が安くても伐採を担う森林組合などは労働対価は受け取れますから積極的に伐採します。すぐ木材価格は下がり始めるという山側にとっては悪循環、使う側にとっては国産の木材を使うことがこれほど良い時代はないでしょう。

だからここで、木材を使いやすくするような、例えば木造住宅の固定資産税の評価方法だとか、税制の面で木材を使いやすくする仕組みだとか、あるいは伐ったら必ず植えるサポートとか、そういう面で国が補助をしてくれたらと思いますね。あるいは環境管理に努める森林経営をサポートする補助などが大事です。

間伐や皆抜に今後も補助が出続けると思うんですが、木材流通はある程度は市場経済に任せないと、木を伐ることに関してどんどんとお金を入れている限り、つまり国が関与している限り、木材価格は高くならないと思うんですね。

それから、森林組合っていうのが全国にありますが、私は森林組合の改革を唱えていた1人だったんですよ。森林組合は作業するための作業員を持っているんですね。私は、森林組合が事業計画を立案して、発注するのは間違いではない、そうすべきだと思いますが、作業をするのは民間に任せるべきだと思っているんです。だから作業班を持つのを禁止したらどうかと。そして森林組合の作業員が独立するときに、地方創生の予算を少し使わせて頂いてサポートしていけたらと。大事なのは森林組合から独立していく過程で、作業員だけでなく、そこに必ず安全管理や営業、経理といった専門職が一緒について行けるような資金繰りですね。そういう仕組みを作って作業班が独立していけば、そこに継続的に仕事がつくでしょう。

森林組合は、来年一年はこのくらいの仕事を出しますよ、という仕事量を提示する。すると独立した作業班はその何割を自分達が仕事として取れば、事業が成り立つんだという計算ができる。入札の時に一円でも安く取り合ってくる、という状態になれば地域も仕事も活性化もしてくる。

 

高井

速水さんの夢は何ですか。

 

速水様

小さな森林所有者も、一生懸命育てれば、最終的にはいくばくかの収入がきっちりあって「ああ、木を植えて育てて良かったな」と思える状況を作り出したいですね。大きな森林所有者も、努力しない人は利益が出なくても構いませんが、一生懸命やった人はそれなりに利益を出せるという状況を目標の一つとして、補助金等も含めて、政策をもう一回練り直したいですね。

 

 

髙橋

新聞記事の中で夢で「法隆寺の修正にうちの木を使ってくれたらな」とありましたけど。

 

速水様

法隆寺を世界遺産にするのに、非常に尽力された伊藤延男という先生がいらっしゃったんですよ。イコモス(国際記念物遺跡会議)の副会長を務めていらっしゃいました。法隆寺は1300年の間に1/3の木を取り変えている訳ですが、最初、海外では世界遺産として、それでは真実性が確保できていないという評価になりました。日本の木造建築物は世界遺産に値しない、と。それを伊藤延男先生が木造建築物の維持補修に関しての論文を発表されて、その内容が認められて、そのまま木造の世界遺産の基準になったんです。その先生が私に、「法隆寺は1000年で1/3の木を取り替えているんだけど、このままの割合で行くと今後2000年かかって全部取り替えることになる。君、2000年先までヒノキをちゃんと供給できるかい?」っておっしゃるのですよ。2000年先に日本があろうが無かろうが、世界遺産というのは未来の子供達に人類が残すって約束したんだから、と。

法隆寺であれば300年とか400年の木でしょう。新聞記事にあった夢の記述は別に法隆寺に限った事ではなく、文化財としてそういう木が必要ならば提供できるようにしたいという思いです。

法隆寺の場合は1cmに7本の年輪が入っている等、やはり世界遺産の補修に求める木材の条件が厳しいですね。全く同じ産地のヒノキで、全く同じ工法で、直した箇所が明確に分かる、というのが木造の世界遺産の条件の一つなんです。同じ産地というのは日本国内であればいいとしても、同じような材質となるとそれを目標に木を育てないといけません。

300年先、次の世代がどうするかなんてわからないですが、誰かが最初に始めなければと思ったんですよ。

 以上

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第12回目です。
  • 第12回目は、大鵬薬品工業株式会社特別相談役・ニチバン株式会社名誉会長 小林幸雄様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第12回)■ ■ ■ 

大鵬薬品工業株式会社特別相談役・ニチバン株式会社

名誉会長 小林幸雄様  

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[大鵬薬品工業株式会社 特別相談役・ニチバン株式会社  名誉会長

 小林幸雄様 プロフィール]

小林幸雄様のお写真

昭和38年6月大鵬薬品工業設立、代表取締役社長就任。ニチバン株式会社が倒産の危機に瀕した昭和51年より同社の再建に携わるニチバン再建の立役者。

昭和52年ニチバン株式会社取締役会長就任。現在、大鵬薬品工業株式会社特別相談役、ニチバン株式会社名誉会長。

 

 

 

[今回の同席者は以下の通りです]

  • 大鵬薬品工業株式会社 総務部副部長 兼 秘書室長 坂東康子様
  • 高井伸夫 

取材日:2017年1月31日(火) 於:東京 芝 とうふ屋うかい

 


 

高井

ニチバン株式会社再建に際して、会長には「販売即経営」というものを教えていただきました。この概念の意味について、今一度教えて下さい。

 

小林様

ニチバンに関わるようになった当時、ニチバンは組合が強く、ストライキがよく起こっていました。昭和51年、石油ショックが終わった後です。

メーカーであれば、販売即経営なんてものは唱えなくても販売するのが当たり前です。しかし、当時はストライキばかりで工場の稼働率が非常に悪く、数少ない商品を営業の連中に割り当てて売っているという、常識では考えられない状態でした。営業努力も何もありませんでした。ストライキが多いので、生産量も少ない。会社として立て直すには生産性を上げなければならないと思いました。当時ニチバンは7時間労働で土曜日は休みでした。そういうことで、まだまだ生産できるだろうと考え、営業時間延長をして、土曜日も稼働させました。これがまた組合との係争のもとになりましたが・・。

倒産の危機、会社の現状がそういうことでありましたので、販売しなければ会社そのものを維持できないんじゃないかという事情、背景があったということが、「販売即経営」ということになった次第です。

 

高井

ニチバンの再建を引き受けられた経緯について教えて下さい。

 

小林様

昭和47年以降の第一次石油ショックの時代、他の企業も色々と石油ショックの影響で経営が非常に苦しくなってきていました。ニチバンはもともと製薬会社で、我々(大鵬薬品工業)と同業ですので、業界の会合でお会いしており顔見知りでした。

昭和50年に、当時の歌橋均也社長からニチバンが苦しいということで、大阪工場を買ってくれないかという話がありました。詳しく聞けば、従業員500人を人員整理したとのことでその費用に10億円かかったそうです。10億円を銀行から借りて人員整理をしたものの、銀行から督促が厳しい。石油ショックで土地の値段が高騰していたこともあり、大阪工場は10億円近い価値がありましたので、これを売って返済したいということです。

藤井寺にある大阪工場へ行くと、人員整理した後でもまだ社員が働いていました。工場を売ると言っても、大阪工場で働いている従業員はどうするのか?と聞いたら、従業員のことは考えられない、とにかくはやく工場を売って10億円を返済したい、との話でした。

それならばと思って増資を勧めました。第三者割当をして、我々が引き受けるという形にすれば工場を売らなくても10億円という金を用立てできるのではないか、と提案しました。歌橋社長が一旦会社に持ち帰って検討したそうですが、役員会で非上場会社のよくわからんところの話なんて、ということで、剣もほろろに断られたそうです。

昭和50年の暮れにそういった話を提案しましたが、役員会で断られて話は流れてしまいました。

 

ニチバン再建の話は、いったんは流れていたのですね。

 

小林様

当時、ニチバンは11月が決算、2月が総会でした。昭和51年2月の総会が終わったあとに歌橋社長と再度お会いしました。経営不振で従来の役員を全員リタイヤさせて役員の平均年齢が70歳になりました、と言われ大変驚きました。

 

高井

平均年齢70歳というのは若返ったということですか?

 

小林様

そうです。設立以来の80歳近い年齢の方々がそれまで残っていたそうです。当時私は44歳でしたので、本当に驚きました。3月になって今度は歌橋社長とニチバンの経理担当常務であった茂手木秀一氏にお会いしました。歌橋社長と話をしていたら、茂手木氏から「何の話をしているのですか。明日ニチバンは壊れますよ。倒産しますよ。」という訴えがありました。そこで、「以前申し上げたとおり第三者割当をしたらどうですか。」という話をして、急速に話が進んで行きました。半額時価発行増資を行い、第三者割当によって増資発行株数1200万株をすべて大鵬薬品工業で引き受けることになりました。当時1株89円ですから、1200万株で9億6000万円です。

 

高井

1株89円。正式に支援をされた当時、昭和51年ですね。銀行とのお付き合いは良好だったのでしょうか。

 

小林様

資本参加と同時にニチバンの最高顧問に就任しました。

当時、興銀から招聘した役員の方がああでもないこうでもないと役員会で発言してまあ簡単に言いますとやりにくいのです。思い切って興銀にこの人を引き取ってくれと言いました。そうしたら、興銀の支店長に怒られました。興銀から招聘したのは、ニチバンのオーナーから直々に申し入れがあって派遣したのだと言うのです。私は知りませんでした。その人物を引き取ってくれとは何事かと、当時の東京支店長に怒鳴りつけられました。その時に「興銀を鵺と思えと、ニチバンを壊す!」と言われたのです。私も経営者の端くれです。黙ってはいられません。

当時、ニチバンは設備資金を興銀から7億円を借り入れていました。丁度その時に大鵬薬品工業の取引先に大和銀行があったので、大和銀行に行って、7億円現金で用意してくれと言いました。かくかく云々で興銀の支店長からひどく言われて、こっちも意地があるから7億円を返す、といいました。7億円なんて風呂敷に包んで持っていけるものじゃないと諭されました。しかし、意地があったので、現金で持っていくんだと意気込んで、「ニチバンの従業員20人を動員して持っていくから、とにかく用意してくれ。」と言いました。そしたら「よし、面白いからやるか。」ということで話が付いたわけです。

 

高井

それで、その後興銀とはどうなったのですか。

 

小林様

7億円の話がついたので、すぐに興銀に「今までお世話になりました。ニチバンを壊すなどと言われて穏やかではいられませんので、借金してでも7億円返します。」と伝えました。そうしたら、興銀の支店長が驚いて、ニチバンに飛んできました。「本当に返すのか。」と聞かれたので「明日には届けます。7億円現金で、お宅に運びこみますので、よろしく。」と言いました。そうしたら「待て」と言うのです。聞くと、行内手続の関係で不在にしている副頭取に指示を仰ぐ必要があるから、しばらくこの件は延期してくれ、と言われました。そこまで言うなら仕方がないと思い待つことにしました。

そして1週間後に興銀から電話がかかってきて、副頭取から会いたいので本店まで来てくれというのです。銀行に行くときにはいつも経理担当を連れて行きますが、その時は1人で来てくれということで、変だなと思いました。1人で興銀の本店へ行きましたところ、役員室に通されました。副頭取以下、専務、東京支店長であった常務、役員が7~8人がずらーと並んでいました。そして、副頭取が私の顔を見て、「ニチバンの小林さんはあなたですか?」と言うのです。「東京支店長である上田が興銀に入社して、32年、色々な経営者に会ったが、すごい経営者だ、今まで見たことのないような経営者だと言う。ニチバンの小林さんはあなたですか。」ということで手を握られました。副頭取にそう言われて、私はのぼせ上ってしまいました。

後から思えば、鼻息の荒いのが来るだろうから、ということで色々と打ち合わせをしたのだと思います。副頭取に手を握られて役員食堂に案内されました。役員食堂にホテルオークラのケータリングが入っていたのです。ケータリングのフランス料理を昼間から御馳走になってワインを飲んで、お土産にホテルオークラのクッキーをもらっちゃった。「この件はまあまあ穏やかにして、従来通り興銀とニチバンでやりましょうよ。言葉の行き違いもあったと思うのですが。」ということでおだてられちゃって、ワイン飲んでいい気分になっちゃって。(笑)

 

高井

それで興銀、大和銀行とはその後どうしたのですか。

 

小林様

それで大和銀行に行って、やっぱりお金は要らないといったら今度は大和銀行に怒られました。笑。本当に漫画みたいな話ですが、そういうことがありました。私もまだ若かったので、怖い者知らずで、銀行とやりあったわけです。そういったことで銀行とやりあって興銀と仲良くなりました。

 

高井

そんなやり取りがある一方で、組合との関係はどうだったのですか。

 

小林様

51年の暮れから52年の正月にかけて組合がストライキをやりました。1ヶ月以上続くストライキです。対立が激しくて全然組合と話にならず、もうニチバンはダメだなと思いました。組合自身があまりにも激しくて、この時ばかりは再建は無理だと感じました。そして再建から手を引くとういことを宣言しました。52年の1月20日です。そう宣言したら、経営者にも組合にも必至になって止められました。それで、会社が軌道に乗るまではストライキを辞めてくれということで、なんとか組合と再建協定を締結するに至ったのです。

 

高井

再建協定によってストライキがおさまり、経営は上向いたのでしょうか。

 

小林様

ストライキを辞めたら、今度は在庫が増えてしまいました。そういうことは予測ができましたので、そのうち資金繰りが苦しくなると当時のメインだった富士銀行に夏頃から根回しをしていました。

実際に在庫が増えて資金繰りが苦しくなってきたので、いよいよ実際に話をしようということで、富士銀行の支店長に会いに行ったのですが、なかなか会っていただけませんでした。アポイントが取れず、銀行が開店する前の7時半とかに通用門が開く時間から立って待っていても会えない。支店長が会ってくれないので、ついに富士銀行にも見捨てられたのか・・・と。見捨てられたとなれば対処しなければなりませんので、融資担当の役員の方にご挨拶しなければと思って、常務にアポイントを取りました。

それで、常務にお会いする当日になったら、なかなか会えなかった支店長が出てきて「会うのを辞めてくれ」というわけです。

そうはいっても、役員の方にアポをとっており会わないわけにもいかないので役員の方にご挨拶しました。かくかく云々で・・・ということを話しましたら、常務が支店長を怒りました。「何を考えてるんだ、富士銀行はそんな銀行じゃありません」と。常務が私に頭を下げて「申し訳ない、そんな態度をとった支店長はとんでもない奴だ。従来通り、ニチバンと富士銀行とお付き合いをしてください。」と言うのです。その後、支店長は群馬県の会社に転籍されました。随分厳しかったです。銀行とは不思議なご縁がありました。

 

高井

他にもエピソードはありますか。

 

小林様

実は、三菱銀行でもあります。昔ニチバンの工場が品川にあり、三菱銀行品川支店が当時のメインバンクでした。ニチバンの再建をするに当たり、岩崎寛弥さん、岩崎弥太郎の玄孫に当たりますが、この方にご縁があってご挨拶にいきました。

当時、銀行とは株の持ち合いをしていました。三菱に限らず他の銀行とも株を持ち合っていました。それが、三菱はニチバンの株を全部売ってしまっていたのです。なんだ、三菱はニチバンをもう見捨ててしまっているじゃないかと思いました。三菱銀行の当時の頭取から、それは申し訳ないので本店に来てくれ、と言われて本店に行きました。

銀行には、いつも昼ごろ呼ばれます。役員食堂で、また、ホテルオークラのケータリングでした。当時銀行はみんなホテルオークラのケータリングでした。フレンチです。三菱銀行に御馳走になって、お詫びをされました。その後、三菱銀行はニチバンの株を買い戻しました。80円程度の株価が400円とか、500円になってしまっていたのに買い戻したのです。

 

高井

銀行との話は面白いですね。組合との話より銀行との話の方が面白いですね。

 

小林様

面白い話といえば、私がニチバンの再建をするといったら、銀行は反対をしたんです。興銀が最初に反対しました。再建は難しいからやめろと。大和銀行なんかは潰してから行け、あそこは組合が厳しいから潰してから行けと言いました。そうだった、高井先生だってやめろっておっしゃいましたよ。

 

高井

当時のニチバンは組合が激しくて、再建は難しい状況でした。小林様を奮い立たせたものは何なのでしょうか。

 

小林様

考えてみれば銀行全てにやめておけと言われました。苦労するだけだと。逆にそういわれたことが1つの反発心でした。そこまで言われたら、何とかしなければならないという気持ち、それが大きかったです。

 

高井

ニチバンが軌道に乗るまでにどのくらいかかりましたか。

 

小林様

6年かかりました。私が行ってから、6年赤字が続いて、昭和57年にはじめて復配が出来ました。昭和47年から10年間無配でした。役員賞与も出ていませんでした。復配で役員賞与を出すことになったら、経理担当者が10年間も出していなかったから役員賞与の計算方法が分からないと言いました。そんなこともありました。

 

高井

復配になってからは無配に陥ったことはありませんか?

 

小林様

それからずっと配当は続いています。

 

高井

現在のニチバンには内部留保はあるのですか。

 

小林様

まだまだ少ないですが、セロハンの主力工場の三河安城に移す大阪工場の移設投資も自己資金でやっていますし、子会社ですが、九州にあるニチバンメディカル株式会社も自己資金で作っています。ニチバンそのものは内容のいい会社になっていますよ。

私がニチバンの会長を辞める時に株価が280円から300円くらいになっていました。私が辞める時の株主総会で、それでも株価が安いという意見があったのですが、ニチバンの内容からするとすぐに500円くらいになりますと言いました。そういう内容の会社になったのです。実際に今は、500円を超えて900円になり、1000円を突破しました。私も86歳になりました。

 

高井

本日は、貴重なお話をありがとうございました。

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第11回目です。
  • 第11回目は 株式会社ワールド・リンク・ジャパン 代表取締役社長伊東淳一様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第11回)■ ■ ■ 

株式会社ワールド・リンク・ジャパン 

代表取締役社長 伊東淳一様 

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伊東淳一様[株式会社ワールド・リンク・ジャパン 
     代表取締役社長 伊東淳一様 プロフィール]


日商岩井株式会社(現:双日株式会社)在籍中よりアジアのビジネスに関わり、ベトナムのホーチミン駐在事務所及びハノイ事務所所長を歴任。

2003年に同社退職の後、 故丸目三雄氏により設立された株式会社ワールド・リンク・ジャパンに参画、現在に至る。

投資ファンドの企画・設立・運営やM&Aアドバイザリーサービス、環境、医療、教育、農業分野におけるコンサルタント等、多方面にてご活躍されています。

 

 

 

 

[今回の同席者は以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • スクーナー株式会社 代表取締役社長 樋口 信行 様
  • スクーナー株式会社 専務取締役 樋口 信高 様 

今回はベトナム事業を通じて伊東様と親交がございます水産物輸出入、販売事業を手掛けるスクーナー株式会社のご両名様もお招きいたしました。

取材日:2017年1月11日(水) 於:東京 芝 とうふ屋うかい

 


 

高井

まずは、伊東様の現況をうかがいましょう。

 

伊東様

おかげさまで健康診断も終えて、あと2~3年は頑張ろうかというところです。

今年で71歳になります。今はベトナムに3ヵ月滞在、日本に2週間滞在するというペースで行ったり来たりの生活ですが、元気である限りこのまま仕事を続けようと思っています。

 

高井

ベトナムにいかれて何年になりますか?

 

伊東様

2006年からなので今年で11年目に入ります。その前に1993年から7年くらい滞在していたのでベトナムでの生活は合算すると17年くらいですね。

北は中国国境のラオカイから最南端のカマウまで行きました。出張には南部弁の話せる40代の男性スタッフ、北部弁(ハノイ弁)が話せる女性スタッフを連れていきます。いずれも日本人です。北で南部弁を話すと見下され、南で北部弁を話すと警戒されるといった雰囲気が今でもあります。戦争が終わって40年以上も経つのに南北に分かれて戦った時代の遺恨のようなものがベトナム国民の間には残っているようです。

 

高井

これまでベトナムでお過ごしになられて、一番楽しかったことは何ですか?

 

伊東様

投資ファンドを作ってもらったことですね。そのおかげで今の私があるといえます。日本政策投資銀行の担当者の方がアジアの可能性、ベトナムの可能性を認識しておられて投資ファンド設立を応援してくれたことがうれしかったですね。

アセアンの他国、フィリピン、タイ、インドネシアにも投資活動を広げようとしていますが、中国や韓国が台頭してきており、必ずしも日本の企業と仕事をすることがアジア諸国の皆さんにとって良いことだと思ってもらえない雰囲気があり、アジアで仕事をする日本人や日本企業にとってなかなか難しい時代に突入しているような気がします。

 

高井

これまで大変だったことは何ですか?

 

伊東様

大変だったのは丸目さんが亡くなった時ですね。2012年。もう5年くらい前ですね。(※故丸目三雄様は20代で裸一貫インドネシアに渡り、貿易を手がけながらインドネシア、ベトナム、カンボジアの政府要人をはじめとする幅広いネットワークを築き上げ、日本の東南アジア外交におけるアドバイザーとしてご活躍された方で、株式会社ワールド・リンク・ジャパンを設立された方です。)私自身も2000年に脳梗塞をわずらって、丸目さんに拾われたのですが、二人で会社を立ち上げたあの頃が一番大変でしたね。その大変な時期にスクーナーの樋口さん親子に助けてもらいました。このことは一生忘れません。その恩返しがなかなかできていませんが。

 

高井

ベトナムに進出している日本企業はどれくらいありますか。一般的に、大体成功するのですか?

 

伊東様

正式に計算していませんが、少し前のホーチミンでは、商工会のメンバーで600社くらいでしたね。ハノイも同じぐらいあるのではないでしょうか。

安い労賃を活用して、ものを作って日本へ送る、もしくは東南アジアへ出す、一部をベトナム国内で販売する、というビジネスモデルはうまくいっているようですけど、ベトナム人を相手に国内で物を売る、サービスを提供する、というビジネスモデルは短期間に収益を上げることはまだ難しい段階かと思います。

 

高井

それはなぜですか?

 

伊東様

ベトナムの街並み日本企業は日本の製品レベル、サービスレベルをそのまま持ち込もうとします。中国や韓国の企業はベトナム人の生活レベル、技術レベルに合わせた製品やサービスを提供します。その点で日本企業は後れを取っています。

もう一つは商習慣ですね。ベトナムのビジネスの世界は何でもありで、日本でいえば戦後の闇市があった時代に似ていて商道徳といった概念がない世界ですから、例えば物を売るにしてもキックバックなしでは買ってもらえない、日本のように消費者が何を求めているかといったことには関心が全くないですね。

ベトナム資本のスーパーにいっても、ほとんど棚に並んでいるものは同じ商品ばかり、つまりスーパーの購買担当者にとって実入りの良い商品は棚に並ぶ、そこには消費者のことなど念頭にないということです。もっとも外国人専用のスーパーマーケットにいけば全世界の一流の食品は手に入ります。

そういうことで日本企業が自らベトナム国内の商売に手を出すことは難しいと思います。日本企業はコンプライアンス問題には敏感で厳しいですから。あと、日本の商品は良すぎて、技術のレベルも高く、値段も高いからベトナム人の社会とか生活レベルに合わないですね。例えば、ベトナムのテレビは韓流ドラマが毎日放送されています。それも3-4チャンネルと多い。一般的なベトナム人は韓国のほうが日本より素敵な国と映っている。製品も質が良くて安いと思っている。今、ホーチミンは綺麗なビルは建っているし、髙島屋やイオンにいくと人がいっぱいいるので、お金持ちがいっぱいいるように日本からの旅行者は思うようですが、金持ちは残念ながらほんの一部ですね。ベトナム人の大半はまだ昔からある町中の市場にいって安いものを買っていますよ。あとは、日本企業が失敗する要因は市場調査にお金も時間をかけないことですね。トップダウンでベトナム進出を決めて、そのあとにベトナムを知らない駐在員が現場に来ていざ仕事を始めると日本で聞いてきた話と全然違うことがわかる、というパターンが結構ありますね。

写真は「昔からある町並と、高層ビル(写真中央)が立ち並ぶホーチミンの街並み」

 

高井

伊東様がご存知の企業のなかで、成功しているところはどういう特色があるのでしょう。

 

伊東様

例えばインスタントラーメン等を作っている某食品メーカーはうまくいっているようですね。 日本だと3~4番手かと思いますが、ベトナムではシェア6割、日本の本社の3倍の売り上げ、3倍の利益があるようですよ。90年代半ばに進出して日本式で売ろうとして最初はうまくいかなかったようですが、ベトナムの素材にして値段をさげて、それでもまだまだでしたが、パパさんママさんショップの零細な個人商店に商品をただで置かせてもらって、売れたらお金を支払ってもらうという、富山の薬局方式にしたら急激に売れ始めたようですよ。あとは、某調味料関連メーカー、この人たちは他の開発途上国での経験がありますので非常に上手にベトナム国内市場に入り込めている。某自動車メーカーは世界を席巻する技術とブランドがあるので競争がほとんどない、競争するとすればベトナム人の購買能力だけですから自動車やオートバイという産業は別格ですね。

 

高井

人々のくらしは良くなりましたか?

 

伊東様

20年前にくらべたらはるかによくなっています。でも、相対的には所得格差が広がってきている。特に若い人々の間から、不満がでているのが心配ですね。あと共産党に入る人がいない。共産党はお爺さんお婆さんばかりで、自然消滅する可能性もありますね。政府もそれを心配してなんとか若者に魅力のある政策を打ち出して共産党離れを防ごうと努力を始めています。

 

高井

海外に留学する若者は多いですか?

 

伊東様

お金持ちの息子、娘はアメリカ、カナダ、シンガポールそしてオーストラリアに留学するのが多いですね。日本もかなり留学生が多くなってきているようですが、実態は出稼ぎ留学生であって、純粋な留学生はあまり増えていないような気がします。残念ながら、日本に留学しても米国に留学しなおすという事例がかなり多いです。たぶん、これは日本に留学しても日本企業に正社員として採用されるケースが極めて少なく、また、ベトナムに帰ってきても結局は英語ができないと良い就職先が見つからないからでしょう、日本企業は今でも現地採用の「使い捨て」的な雇い方で、高い経費のかかる日本人を相変わらずベトナムに送り込んでくるので、ベトナムの若者にとって日本企業への就職は必ずしも魅力的ではない、という事情があるように思います。

日本語を話すベトナム人は多くなりましたが、ベトナム人の若い人たちは地味なものづくりに対する取組姿勢がやや欠けている気がします。これは上の世代がそうだからなのかもしれませんけれども、金融やIT業界のような華やかな職業に憧れがあって、地道に油まみれになってものをつくることに生きがいを感じる若者が少ないです。それがベトナムの将来を考えた時に心配ですね。ベトナム人はものづくりに対する素質があると思うんですよね。日本、中国、朝鮮半島の人たちと同様にベトナム人は箸をつかう民族ですし、大乗仏教、儒教と日本と似たような文化が根付いていますから、他の東南アジアの国民と少し異なります。生来的にものづくりに向いている人々だと思うのですが、しかし手っ取り早く金持ちになりたいという気持ちが先行してITや金融に走りますね。

 

高井

ベトナムの今後の発展性はいかがですか?

 

伊東様

私がみてきてこの20年間ですごく進化しましたね。

基本的にベトナム人は植民地の経験があるから外国人を信用しません。その後のベトナム戦争、これはアメリカとの戦争ではなくて、北の人間と南の人間の戦いでした。だから未だにお互いに不信感があるので「信用経済」がなかなかうまれません。これは他のアジアでも同じような例はありますけど、タイの場合、植民地の経験もなく、深刻な民族対立の話もない、華僑がうまいことタイ族と同化しているので、今日のようにかなりの程度まで経済発展しました。しかし、最近、タイもマレーシアもこれ以上の経済発展は期待できない、つまり「中所得国の罠」にはまっている、と言われ始めています。日本は80%内需で生きている国ですが、タイもマレーシアも外需に依存しており、内需がなかなか大きくならない。つまり「信用経済」がなかなか膨らまないので商業が発展しないのです。

その点日本は幕末のころから信用経済が発展していて、東北の田舎から京都に出稼ぎにきて新選組に入隊した侍は、給与を京都の両替商から東北の実家に送金できていました。それは武士道と同じように石門心学、石田梅岩や鈴木正三らが唱えた、商人はつましく、真面目に正直に生きるという、「商人道」が根付いていたんですね。ヨーロッパでは資本主義が発達したのはプロテスタントの興隆と軌を一にしているといわれますが、しかし、残念ながら他のアジア諸国には「武士道」もなければ「商人道」も生まれなかった。経済活動の準備運動もないままにいきなり植民地にされてしまった。これはその後のアジア諸国の経済発展に大きな影を落としているように思います。日本のように8割を内需に依存している国はアジアには一つもないです。アセアン諸国がこれ以上の経済発展を望むならば内需をどのようにして大きくしていくかその仕組みを考えなければいつまでも外需に頼るような「植民地経済」から脱皮できない。もちろんベトナムにも同様なことが言えます。

 

高井

ベトナムの発展に影響を及ぼしているのは植民地が1つ、南北の対立が1つ、あと1つは何でしょうか?

 

伊東様

共産主義ですね。共産主義の亡霊が生きていて、できるだけ国民は平等にしようという意思が働き、伸びるところを抑えつけようとします。それでいて共産党や行政府の幹部の子弟をアメリカなどに留学に行かせて、ベトナムの教育レベルは低く抑えたままにしている、という矛盾がいろいろなところであります。今の首相や大臣クラスはまだ戦争を知っている世代ですが、戦争をしらない世代が次官クラスに就きはじめています。彼らが大臣になるころには、3つの亡霊(植民地支配の過去、南北の対立、共産主義)はかすんでしまい、新しいベトナムが生まれると期待しています。

 

高井

70歳になった伊東さんは今後どうされるのですか?

 

伊東様

社会主義の国は医療、教育、環境そして農業といった分野がとくに遅れている。ベトナムもそうです。日本はこれらの分野では先生になれるかなと思いますね。住環境についても、金持ちや外国人相手の高級マンションはたくさん作られますが、若者たちは一生かかっても家が持てないという現実に直面しています。日本の住宅公団や住宅金融公庫のような仕組みをベトナムに導入して、住宅事情を変えてみたいですね。

それと、ベトナム政府上層部では「日本との関係を1990年代のようにもっと緊密にしたい」という希望があります。中国や米国の動きをみているとベトナムは大きな流れの中に飲み込まれそうな気がしているのかもしれません。故渡辺美智雄さんがベトナムの門戸を開き日本のODAを再開しましたが、その時お手伝いしたのが先代社長の丸目さんと当時日商岩井に勤務していた私でした。その経験を生かしてもう一度日本とベトナムの緊密な関係作りに貢献できればと考えています。あとは会社の後継者を育てることですね。

ベトナムの川岸

写真は「ベトナムでお手軽なシクロ(自転車タクシー)」

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第10回目です。
  • 第10回目は、富士大学学長岡田秀二先生です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第10回)■ ■ ■ 

富士大学 学長 岡田秀二先生

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[富士大学 学長 岡田秀二先生 プロフィール]

岡田秀二先生画像

 

1951年北海道生まれ。農学博士。専門は森林政策学、山村経済論。岩手大学農学部を卒業後、北海道立総合経済研究所研究員を経て、岩手大学へ。1994年から岩手大学農学部教授。

現在、富士大学学長。著書に『地域開発と山村・林業の再生』(1988)、『山村の第三セクター』(1996)、『現代森林政策学』(2008)、『世界の林業―欧米諸国の私有林経営―』(2010)、『「森林・林業再生プラン」を読み解く』(2012)等がある。

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 株式会社ことば未来研究所 代表取締役 鮒谷周史 様 

取材日:2016年11月5日(土)日本料理 対い鶴(ホテルメトロポリタン盛岡 NEW WING 1F)

 


 

高井

林業が少し持ち直したという情報があるのですが。

 

岡田先生

はい。基本的には持ち直しつつあると思います。我が国は、可能性ですけれども、森林資源という意味では資源大国です。具体的に資源化するためには、それなりの生産基盤投資をしていかなければならないのですが。

 

高井

現実に森林が「よみがえる」のは、どういう分野でよみがえるのですか。具体的に住宅問題なのか、あるいはバイオマスなのか。

 

岡田先生

住宅に関しては、日本の木材を使って生活様式に合った住宅を建築したいという需要が依然としてあると思います。一番木材を使ってほしいのは、実は公共等建築物です。木質できちんとしたケアをしていく、そういう施設化というのは、日本みたいな先進国家には絶対と言っていいくらい求められるし、当然の要求として出てきていると思っています。木質材料の使い道は依然としてあるし、木質は大変ありがたいことに劣化して腐ります。すなわち、一定の期間の後には、新しい材料で置き換えていくということが当然のように出てきますから、限りなくこの材料に対する需要というのは続いていくということです。

平成23年度以降の「森林・林業基本計画」では、自給率を2030年までに50%に上げるということになっています。公共建築で大きく増やそうということを考えています。また、オリンピックはで木質の施設、木造の施設を使うということで、流れが木材に向かっており、期待しています。

 

鮒谷様

林業においては、後継者というかそれに携わる人間というのは見立てとしては、どうなっていくのですか。

 

岡田先生

端的に言うと、林業経営の実態を有する林家や会社の経営者、あるいはその子どもたちや孫たち、その人たちがどんな意向を持っているか、それ次第です。私自身は、農山村の奥地の集落でも人が住まうようになることが、この国土空間を丸ごと循環型の国土空間にしていくうえでは絶対に必要だし、これからは展望があると思っています。森林資源の持っている可能性というものは、ものすごく大きいですから。

 

鮒谷様

農業に行く人間というのは、最近ちょっと意欲のあるというか志を持った人が行くというのはあるのですけれども、林業のほうにそういう動きというのはあるんですか。

 

岡田先生

間違いなくあります。

 

鮒谷様

もう今、現にそういう人も現れているんですか。

 

岡田先生

はい。その助け舟になったのは、バイオマス発電です。バイオマス発電では、どんな木材からでも発電することができるため、どんな木材でも売ることができます。

 

鮒谷様

じゃあそういうことを意識して、もう入ってきている人間も現に現れつつあると。

 

岡田先生

間違いなくいます。真庭市(岡山県)は、その例です。木材を100%利用できる、そういうサイエンスはもう出来上がっているんです。あとは、誰がそれに金を出して操業化していくかという、そういうレベルに入っています。森林業革命とか、緑の産業革命という言葉を使っているのですが、森林業すなわち森林そのものを内部経済化(注1)すること、これからは地域化という方向性を持つ局面も出てくる可能性が高いということを一生懸命に言っています。すなわち、森林空間そのものが経済地域化していく可能性を持つ、それが我が国なのです。

注1「内部経済化」:企業自体の設備投資や経営能力の向上によって生産費が低下し利益を得る状態にすること。

 

高井

岩手県全体の農政としては、林業を含めて優れているのですか。

 

岡田先生

どの角度からどの視点で評価するかによって、ずいぶん変わってきますが。トータルに考えて、全部が良い方向に行っています。満点だとは言えませんが、いろいろなチャンネルを出しながら、市民に県民にできるだけ森林の公益性、多様な機能をお返しすることができています。

農のところでは、我が国の農業は米一辺倒でやってきたわけです。そうではなくて、これだけ山がちで傾斜地農業ですから、そこは土地にふさわしい食品、土地にふさわしい作目、これを上手に田畑輪換あるいは森林と畑地輪換、そういうことをしながら忌地(いやち)(注2)現象も起こさずに、生産力的に許してくれる範囲で作目構成をする。そして、できるだけそこの耕土の豊かさを肥沃度を保ちながら、我々が享受可能な生産レベルを土地に聞きながらやる。そういう回路も出しています。一方で、農業の「業」の中身は何かというと、売ることが目的であり、商品化することが目的です。「業」は、単なる「農」ではない。「業」と「農」には違いがある。そうすると、平場地域は、それなりの生産性をきちんと高めることです。田んぼは、忌地なしでやれるわけですから、そこを上手に実現しながら国民そしてそれをも超えるところに、製品を提供することが大事だと思っています。

注2「忌地」:連作障害ともいう。同一作物の連作によって生育がはなはだしく不良、あるいは生育不能となる現象。忌地を起こしやすい作目はえんどう、トマト、なす、亜麻、里芋、すいか、メロン、大麦、桃、いちじくなどが知られている。

 

鮒谷様

林業というのは、人が相当程度に関わらなければ、機械化というのは難しいのですか。

 

岡田先生

今は完全に高性能機械です。

 

鮒谷様

日本は林業において先進国のようなイメージがあるんですけれども、実際のところはどうなんですか。

 

岡田先生

育てることと、木の性質を把握すること、人間が使い勝手が良い木の樹種の多様さ。南北に長いですし、雨が多いですし、季節がありますから、自然を理解し、木を適利用に据えること、そのことについては確かにスキルは高いと思います。しかし、工業化のところについては遅れています。

 

鮒谷様

相当大きく工業的にやるのでなければ、相変わらずチェーンソーですか。

 

岡田先生

そこが重要です。規模と稼働率、これで経営的には機械化をしていいのかどうか、あるいはどのレベルでするのがいいのか。そして、機械化で上手にサプライチェーン(注3)をつないでいくことができているかどうか、そこが経営としては、いわば「みそ」のところです。

注3「サプライチェーン」:サプライは供給、チェーンは連鎖の意味。製品の原材料が生産されてから消費者に届くまでの一連の工程。

 

高井

「政府がこういうことをやったほうがいい」というのは何ですか。

 

岡田先生

1つ目は、今日非常に大事な点です。森林は温暖化を食い止めると同時に、出してしまったものを吸収する唯一の資源ですから、森林をきちんと整備していかなければいけません。IPCC(注4)にカウントされる条件が決められていますから、少なくともそこに対しては、当初予算で予算措置をすべきと強く思っています。

2つ目ですが、森林が森林としてあるだけでなく、使いながら管理するということです。生命体ですから成長しますが、ピークがあって衰退を必ずしていきます。それを刻々と見ることができて、そして「今が使い時だ」、「これからあとは、むしろ更新をさせるべきだ」と、こういうことがきちんとわかることが大事です。しかし、森林はものすごく大切な公益財産であり、また、経済財でもあって、生産と財の提供が出来るにもかかわらず、個人財産でみんな自分の意のままにしたいという、そういうレベルでとどめているわけです。だから、ここを打破していくことが大事です。地球環境問題一つを取ってもそうですし、地域経済の活性化を考えても、そこが打破できるかできないかというのが決定的に大きい問題としてあります。

3つ目は、森林が具体的に資源となるための生産手段が足りません。具体的には林道が足りない、作業道が足りない、道路密度が足りない。日本は、依然として路網密度が足りておらず、ヘクタール当たり10メートルを超えたところです。道路網に関しては、公の投資として急いでやるべきだと、強く思っています。

4つ目は、1999年の地方分権一括法によって、だいたい400近くの法律が首長権限に移ってきました。実は、森林マターのところが多く移っているのです。担当の職員がやるわけですが、森林・林業について知識がない職員が圧倒的に多いのです。国家責任、地方自治責任、公責任でもって専門性を持つ行政職員をしっかりと専門のわかる職員の育成を急いでやってほしいと思います。日本では森林計画制度というんですけれども、要するに国家のレイヤー(注5)と、都道府県のレイヤーと、市町村のレイヤーと、所有者のレイヤーで「それぞれ責任をきちんと果たしてください」という仕組みを作っているんですが、全体として制度が機能するためには、市町村部分に梃子入れしていかなければならないと思います。

注4「IPCC」:気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change)の略。国際的な専門家でつくる、地球温暖化についての科学的な研究の収集、整理のための国連の組織。

注5「レイヤー」:層。階層。

 

高井

機能していないね。

 

岡田先生

市町村の森林整備計画制度というのがあるんですけれども、そこが機能していません。職員が足りないです。市町村の森林整備計画制度を作るにあたっては、「きちっとした専門性のある人の意見を聞いてください」、「アドバイザリーボード(注6)をつくって、意見をきちんと聞いてください」ということを、今回、法律でもきちんと書き込んでいます。それもできていません。

注6「アドバイザリーボード」:諮問委員会

 

高井

だから空理空論になっているわけですね。本日はありがとうございました。

 

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第9回目です。
  • 第9回目は メルコスール観光局 池谷光代様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第9回)■ ■ ■ 

メルコスール観光局 池谷光代  様

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【池谷光代様プロフィール・ご紹介】池谷光代様お写真

東洋大学短期大学にて、観光学を学び、卒業後一貫して、観光業に従事。全日空商事株式会社を経て、サンフランシスコにて日系旅行会社に勤務。1997年に、ある偶然の出会いがきっかけで、アルゼンチンに渡る。その後、約10年間、アルゼンチン・ブエノスアイレスに滞在し、旅行会社勤務を経て、ブエノスアイレス市公認観光ガイド、各種コーディネーター等の仕事に携わる。

アルゼンチン観光省との縁より、現職であるメルコスール観光局〔※説明はブログ本文ご参照ください〕にて、メルコスール加盟国の観光のプロモーション業務の為、2007年に帰国。

現在、南米とひとくくりには出来ない、国柄も文化も違う5カ国の観光省とのコーディネート、観光PRイベントの企画、手配、運営、観光セミナー講師等を担い、2012年には、一般社団法人日本旅行業協会より、4カ国(当時)観光省とのコーディネート力、日本の旅行業界への貢献を評価され、「ツーリズム大賞2012観光局部門」を受賞。

日本、米国、アルゼンチンと国内外の民間企業勤務の経験と、現在アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ5カ国の観光省という外国公的機関とのコーディネート経験、国柄も文化も違う5カ国をコーディネートするコーディネート力、そのユニークなキャリアが業界から評価されている。

日本と海外の旅行社勤務の経験を経て、現在観光局で観光PR に従事するという、観光を学ぶ学生から憧れられるキャリアを持つ女性として、またユニークな経験談が評価され、大学や専門学校から、観光学科学生向けの講義依頼等も受けている。

【今回の同席者は以下の通りです】

  • 久佐賀義光様
  • 三井物産株式会社(1955年4月-1992年6月)にてアルゼンチン(ブエノスアイレス)化学品課長、ドイツ(デュッセルドルフ)化学品部長、中国(北京):初代中国総代表を歴任。アルゼンチン勤務は1962年12月~1968年1月の5年に亘る。

  • 高井伸夫

今回は、アルゼンチン勤務経験のある久佐賀義光様をもお招きして、お話をお伺いいたしました。
(取材日:2016年12月1日(木)中国飯店市ヶ谷店)

 

 

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高井

南米とかかわるようになって何年ですか?

 

池谷様

来年(2017年)で20年になります。

 

高井

南米に関するお仕事ですが、19年間どのようなことをされてきているのですか?

 

池谷様

アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで旅行会社に勤務したのをきっかけに、一般旅行業務、ブエノスアイレス市公認ガイド、イベントのコーディネーター等をしていました。その後、アルゼンチン観光省と縁に恵まれ、現職の観光局に関わるようになりました。ずっと、観光業に携わっています。

 

高井

池谷様が日本に戻られてまもなく10年ですが、日本に戻られてから他の南米の国とも関わるようになったのですね?それが、メルコスールの国々だったのですね?

 

池谷様

そうですね。メルコスールというのは、日本では聞きなれない言葉かと思いますが、アルゼンチンとブラジルとパラグアイ、ウルグアイとベネズエラの関税同盟の名称です。

それまでは、アルゼンチンの観光だけに関わっていましたが、日本に帰国後、その周辺諸国にも関わることになりました。日本では南米というとまるで同じ国のようにひとくくりで見られる方が多いように感じますが、日本とその周辺のアジア諸国が異なるように、南米大陸の各国はそれぞれ異なります。それぞれに独自の文化があり、異なる面もありますが、お隣通しの国が手を組んで一緒に観光促進をするプロジェクトは、とても興味深いと思います。

 

高井

アルゼンチンの魅力は何ですか。

 

池谷様ペリトモレノ氷河

まず、アルゼンチンの最大の魅力は大自然ですね。アルゼンチンの国土は日本の約7.5倍です。

観光で特に人気なのは、南部のパタゴニア地方にある世界自然遺産ロス・グラシアレス国立公園の「ペリト・モレノ氷河」です。

アンデス山脈から30KMの距離を、氷河の名の通り、氷の河が湖に流れていて圧巻です。そして、遊歩道からその氷河を目の前に見ることができます。もし、東京の中心部にそれがあったとしたら、その氷の壁は、日本橋から浜松町まで続き、上を見上げるとその高さはビルの20階ぐらいと同じ。

そんな大きな真っ青な巨大な氷河があるんです。すごいと思いませんか?

(写真;ペリト・モレノ氷河・手前に遊歩道あり)

また北東部にいくとアルゼンチンとブラジルの国境に、イグアスの滝と呼ばれる世界遺産に登録されている滝があります。この滝は、なんと275本の滝が連なって、幅が2.7KMにもなるんです。日本橋から新橋ぐらいの距離!(笑)イグアスというのは、この辺りに住んでいた先住民グアラニー族の言葉で、「大いなる水」という意味ですが、訪れた人はその言葉の意味を、思う存分体感することができると思います。日本にはない景色です。

北部に行きますと、190KM続くウマワカ渓谷のある村に7色の丘を持つ村があったりします。

 

高井

丘の色が7色なのですか?

 

池谷様

ウマワカ渓谷

そうです。地層の色が7色です。この丘は、世界遺産ウマワカ渓谷のプルママルカ村というところにあります。自然の作った素晴らしいグラデーションです。さらにアルゼンチンの自然の魅力を語りだしたら、今のこのお時間では足りないぐらいです。

他にもちろん、まだまだたくさんありますが、お時間もありますし、もしもうひとつしか選べなかったら、それは間違いなく「人の温かさ」と言いたいです。例えば、地下鉄に乗っていて、妊婦さんやお年寄りが乗ってくると、どなたか一瞬で席を立ちます。日本のように寝たふりをしている人なんて皆無です。そして、家族や友人をとても大切にするアルゼンチン人。例えば、もし、あなたが年末年始などの人が集まる季節に一人だったら?そんな時は、こんな声が聞こえます。「ひとりでいるもんじゃない、うちに来なさい!一緒に楽しもう!」日本では、家族の集まりに他人が加わるといった習慣は、あまりないかもしれませんが、アルゼンチンの人達は、あなたが誰だからというわけでなく、ただ人とのつながりをとても大事にしてくれる人々だと思います。

(写真;ウマワカ渓谷7色の丘)

 

高井

治安はどうなのでしょうか。

 

池谷様

南米の中では、比較的良いと思います。首都のブエノスアイレスには、東京にもあるような、バス停で乗り降りできる2階建て観光バスが走っています。治安が悪いところでは、バス車内強盗などがあったりしますが、乗り降り自由な観光バスが運行しているということは、比較的治安がいいといえるかと思います。

また、治安が悪い国ではお勧めできない長距離バスも、アルゼンチンでは全く問題ございません。

 

久佐賀様

アルゼンチンは南米で一番安全な国ではないでしょうか。私がいた当時は夜中の1時2時に町の中を1人で歩いていても、全然怖さを感じませんでした。

 

高井

観光業のお仕事で一番のやりがい、醍醐味は何ですか。

 

池谷様

やりがいは、仕事に限界、リミットがないことです。

 

久佐賀様

何でもできるということでしょうか。

 

池谷様

例えば、今観光地でないところがあったとします。その場所は、未来にはお客さんが来てくれるような場所に、育てることができます。創造性には、リミットはありません。

観光業は、代金を支払う時は、商品を手に取って品定めして買える商品でなく、その観光地にいる時、もしくは家に戻ってきてから、その価値がわかるものです。

同じ代金でも、同じ観光地でも、まあまあだったという人もいれば、一生忘れない思い出になる人もいればさまざまです。そんなひとりひとりの違う人生の一部に関われると思うと、ロマンを感じます。多様性があり、そういった面にもくくり(リミット)がありません。

また、お勧めしたところへ行ったお客さんに「楽しかった!いい思い出になった。」と言われること、その方の喜びが私の喜びになるときは、観光業に携わって、本当に良かったなと思います。

 

高井

池谷様が開発された観光地はありますか?

 

池谷様

テレレ茶器

そんな大それたものはありませんが、アイディアを採用していただいたことはあります。パラグアイでの話ですが、テレレというマテ茶を冷たくしたものを、飲む習慣があります。このテレレは(アイスマテ茶)、ポットに注いで飲むのではなくて、特別な容器に入ったお茶を、銀のストローのようなもので飲むという、独特の飲み方をします。パラグアイでは家庭で飲むもので喫茶店等では飲むことが出来ません。しかし、街中では小脇にポットを抱え、日本人には見たこともない専用容器で飲んでいるのを見かけるのです。そんな姿をみたら、観光客は益々味わってみたいものです。でも、喫茶店やレストランでは飲めない。そこで、こんな提案をしてみました。旅行会社のツアーでは、お客さんに1日1本ミネラルウォーターを付けていたりします。パラグアイ滞在中は、ミネラルウォーターの代わりにテレレセットを用意し、テレレ体験をしていただき、その入れ物はお土産として持って帰れることにすればお客さんが喜ぶのではないでしょうか?ということを提案しました。現地の旅行社は、灯台下暗しとでもいいましょうか、自分たちの毎日の当たり前のような習慣が観光客にはとても興味深いということに、今までは気が付かなかったそうです。そして、思った通りそれを実行したら、お客さんにとても喜んでもらえたという例がありました。

(写真:パラグアイ、テレレの茶器)

 

高井

観光業のお仕事で一番苦労されるのはどのようなことですか。また、日本人がアルゼンチンに観光で行って一番苦労することは何ですか?

 

池谷様

現職では、文化の違いから価値観の違いもあることを、理解するよう心がけています。

日本人がアルゼンチン観光に行って一番苦労すること?なんでしょう?(考え込む)スペイン語の文字が飛び込んでくることでしょうか?(笑)観光地は、英語は通じますし、身振り手振りでも相手を理解しようという人がたくさんいるし、食事も素材を使ったお料理ばかりで日本人の口に合うし、苦労ではなく逆にたくさんの楽しみが待っているはずです。

 

高井

価値観とおっしゃいましたが、どのような価値観ですか。

 

池谷様

例えば、簡単な例だと、日本ではメールを受けとったら、それに対しての回答がすぐ出せなくても、受け取りましたという受信メールを返信する方が多いかと思いますが、私が一緒に仕事をしている人たちは、回答が出てから連絡がくることが多いです。ですから、数日間は、メールを受け取ったのか受け取っていないか分からない時間があります。

彼らたちにとっては、聞かれたことの回答がわからないから、確認してから書こうとただ思ったということだそうです。自分の価値観だけで考えてしまうと、その数日間はイライラするかもしれません。しかし、どちらがいいか悪いかではなく、お互いのやり方を尊重し、確認しながらミスコミュニケーションがないようにしています。また、各国間とは、メールのみで、ほぼやり取りするのですが、些細なことでも全てをちゃんとシェアしていくことを心がけています。これをとても大切にしています。5か国で仕事のリズム、文化が違うので、アルゼンチンもブラジルもウルグアイもパラグアイもベネズエラも南米大陸にありますが、国が違うわけです。日本だってアジアの1つだけども、お隣の中国とも違うし、韓国とも違う。それと同じです。

南米は、大陸でつながっているけれど、違う国同士、考え方の違いも生まれますし、そういうことを理解しながら、バランスを取りながら仕事を進めるというのが、一番、難しいと言うか、気を付けていることです。

 

 

高井

ところで池谷様はボランティア活動も積極的に行っていらっしゃると伺いました。どのような活動をされていますか?

 

池谷様

最近は行っていませんが、東日本大震災と広島の土砂災害でのボランティアの経験が印象に残っています。東日本大震災では、震災後に岩手の釜石と宮古へ行きました。

 

高井

ボランティアに行って、感じたことを教えて下さい。

 

池谷様

災害の現場に際して一番感じたことは、自分がテレビを見た時の想像と、実際の被害の大きさの違い、自然災害の恐ろしさは、テレビだけでは表現できないと感じました。そして、被災された方について、東北の場合は、何もなくなってしまって、更地になってしまっていて、平地になってしまって、それでも人は立ち直ろうとする、東北の人の強さを感じました。何にもない道を釜石から宮古まで走った時に、ただの更地といっても、平原ではありません。アルゼンチンの大自然の平原とは違います。町があった場所です。全く何もなくなってしまった、こんな状態になっても、立ち直ろうとする人のすごさを肌で感じました。

広島の土砂災害は、「横の家は大丈夫だったけど、うちはダメだった、というように、間一髪の差で全てがなくなっている、それを認めるまでは時間がかかったけれども、これからがんばっていく、復興していく」とお話を伺い、人間の強さというのは、すごいなと本当に思いました。

 

高井

本日は貴重なお話をありがとうございました。

 

以上

 

 

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