時流を探る~高井伸夫の一問一答の最近のブログ記事

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第12回目です。
  • 第12回目は、大鵬薬品工業株式会社特別相談役・ニチバン株式会社名誉会長 小林幸雄様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第12回)■ ■ ■ 

大鵬薬品工業株式会社特別相談役・ニチバン株式会社

名誉会長 小林幸雄様  

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

 

[大鵬薬品工業株式会社 特別相談役・ニチバン株式会社  名誉会長

 小林幸雄様 プロフィール]

小林幸雄様のお写真

昭和38年6月大鵬薬品工業設立、代表取締役社長就任。ニチバン株式会社が倒産の危機に瀕した昭和51年より同社の再建に携わるニチバン再建の立役者。

昭和52年ニチバン株式会社取締役会長就任。現在、大鵬薬品工業株式会社特別相談役、ニチバン株式会社名誉会長。

 

 

 

[今回の同席者は以下の通りです]

  • 大鵬薬品工業株式会社 総務部副部長 兼 秘書室長 坂東康子様
  • 高井伸夫 

取材日:2017年1月31日(火) 於:東京 芝 とうふ屋うかい

 


 

高井

ニチバン株式会社再建に際して、会長には「販売即経営」というものを教えていただきました。この概念の意味について、今一度教えて下さい。

 

小林様

ニチバンに関わるようになった当時、ニチバンは組合が強く、ストライキがよく起こっていました。昭和51年、石油ショックが終わった後です。

メーカーであれば、販売即経営なんてものは唱えなくても販売するのが当たり前です。しかし、当時はストライキばかりで工場の稼働率が非常に悪く、数少ない商品を営業の連中に割り当てて売っているという、常識では考えられない状態でした。営業努力も何もありませんでした。ストライキが多いので、生産量も少ない。会社として立て直すには生産性を上げなければならないと思いました。当時ニチバンは7時間労働で土曜日は休みでした。そういうことで、まだまだ生産できるだろうと考え、営業時間延長をして、土曜日も稼働させました。これがまた組合との係争のもとになりましたが・・。

倒産の危機、会社の現状がそういうことでありましたので、販売しなければ会社そのものを維持できないんじゃないかという事情、背景があったということが、「販売即経営」ということになった次第です。

 

高井

ニチバンの再建を引き受けられた経緯について教えて下さい。

 

小林様

昭和47年以降の第一次石油ショックの時代、他の企業も色々と石油ショックの影響で経営が非常に苦しくなってきていました。ニチバンはもともと製薬会社で、我々(大鵬薬品工業)と同業ですので、業界の会合でお会いしており顔見知りでした。

昭和50年に、当時の歌橋均也社長からニチバンが苦しいということで、大阪工場を買ってくれないかという話がありました。詳しく聞けば、従業員500人を人員整理したとのことでその費用に10億円かかったそうです。10億円を銀行から借りて人員整理をしたものの、銀行から督促が厳しい。石油ショックで土地の値段が高騰していたこともあり、大阪工場は10億円近い価値がありましたので、これを売って返済したいということです。

藤井寺にある大阪工場へ行くと、人員整理した後でもまだ社員が働いていました。工場を売ると言っても、大阪工場で働いている従業員はどうするのか?と聞いたら、従業員のことは考えられない、とにかくはやく工場を売って10億円を返済したい、との話でした。

それならばと思って増資を勧めました。第三者割当をして、我々が引き受けるという形にすれば工場を売らなくても10億円という金を用立てできるのではないか、と提案しました。歌橋社長が一旦会社に持ち帰って検討したそうですが、役員会で非上場会社のよくわからんところの話なんて、ということで、剣もほろろに断られたそうです。

昭和50年の暮れにそういった話を提案しましたが、役員会で断られて話は流れてしまいました。

 

ニチバン再建の話は、いったんは流れていたのですね。

 

小林様

当時、ニチバンは11月が決算、2月が総会でした。昭和51年2月の総会が終わったあとに歌橋社長と再度お会いしました。経営不振で従来の役員を全員リタイヤさせて役員の平均年齢が70歳になりました、と言われ大変驚きました。

 

高井

平均年齢70歳というのは若返ったということですか?

 

小林様

そうです。設立以来の80歳近い年齢の方々がそれまで残っていたそうです。当時私は44歳でしたので、本当に驚きました。3月になって今度は歌橋社長とニチバンの経理担当常務であった茂手木秀一氏にお会いしました。歌橋社長と話をしていたら、茂手木氏から「何の話をしているのですか。明日ニチバンは壊れますよ。倒産しますよ。」という訴えがありました。そこで、「以前申し上げたとおり第三者割当をしたらどうですか。」という話をして、急速に話が進んで行きました。半額時価発行増資を行い、第三者割当によって増資発行株数1200万株をすべて大鵬薬品工業で引き受けることになりました。当時1株89円ですから、1200万株で9億6000万円です。

 

高井

1株89円。正式に支援をされた当時、昭和51年ですね。銀行とのお付き合いは良好だったのでしょうか。

 

小林様

資本参加と同時にニチバンの最高顧問に就任しました。

当時、興銀から招聘した役員の方がああでもないこうでもないと役員会で発言してまあ簡単に言いますとやりにくいのです。思い切って興銀にこの人を引き取ってくれと言いました。そうしたら、興銀の支店長に怒られました。興銀から招聘したのは、ニチバンのオーナーから直々に申し入れがあって派遣したのだと言うのです。私は知りませんでした。その人物を引き取ってくれとは何事かと、当時の東京支店長に怒鳴りつけられました。その時に「興銀を鵺と思えと、ニチバンを壊す!」と言われたのです。私も経営者の端くれです。黙ってはいられません。

当時、ニチバンは設備資金を興銀から7億円を借り入れていました。丁度その時に大鵬薬品工業の取引先に大和銀行があったので、大和銀行に行って、7億円現金で用意してくれと言いました。かくかく云々で興銀の支店長からひどく言われて、こっちも意地があるから7億円を返す、といいました。7億円なんて風呂敷に包んで持っていけるものじゃないと諭されました。しかし、意地があったので、現金で持っていくんだと意気込んで、「ニチバンの従業員20人を動員して持っていくから、とにかく用意してくれ。」と言いました。そしたら「よし、面白いからやるか。」ということで話が付いたわけです。

 

高井

それで、その後興銀とはどうなったのですか。

 

小林様

7億円の話がついたので、すぐに興銀に「今までお世話になりました。ニチバンを壊すなどと言われて穏やかではいられませんので、借金してでも7億円返します。」と伝えました。そうしたら、興銀の支店長が驚いて、ニチバンに飛んできました。「本当に返すのか。」と聞かれたので「明日には届けます。7億円現金で、お宅に運びこみますので、よろしく。」と言いました。そうしたら「待て」と言うのです。聞くと、行内手続の関係で不在にしている副頭取に指示を仰ぐ必要があるから、しばらくこの件は延期してくれ、と言われました。そこまで言うなら仕方がないと思い待つことにしました。

そして1週間後に興銀から電話がかかってきて、副頭取から会いたいので本店まで来てくれというのです。銀行に行くときにはいつも経理担当を連れて行きますが、その時は1人で来てくれということで、変だなと思いました。1人で興銀の本店へ行きましたところ、役員室に通されました。副頭取以下、専務、東京支店長であった常務、役員が7~8人がずらーと並んでいました。そして、副頭取が私の顔を見て、「ニチバンの小林さんはあなたですか?」と言うのです。「東京支店長である上田が興銀に入社して、32年、色々な経営者に会ったが、すごい経営者だ、今まで見たことのないような経営者だと言う。ニチバンの小林さんはあなたですか。」ということで手を握られました。副頭取にそう言われて、私はのぼせ上ってしまいました。

後から思えば、鼻息の荒いのが来るだろうから、ということで色々と打ち合わせをしたのだと思います。副頭取に手を握られて役員食堂に案内されました。役員食堂にホテルオークラのケータリングが入っていたのです。ケータリングのフランス料理を昼間から御馳走になってワインを飲んで、お土産にホテルオークラのクッキーをもらっちゃった。「この件はまあまあ穏やかにして、従来通り興銀とニチバンでやりましょうよ。言葉の行き違いもあったと思うのですが。」ということでおだてられちゃって、ワイン飲んでいい気分になっちゃって。(笑)

 

高井

それで興銀、大和銀行とはその後どうしたのですか。

 

小林様

それで大和銀行に行って、やっぱりお金は要らないといったら今度は大和銀行に怒られました。笑。本当に漫画みたいな話ですが、そういうことがありました。私もまだ若かったので、怖い者知らずで、銀行とやりあったわけです。そういったことで銀行とやりあって興銀と仲良くなりました。

 

高井

そんなやり取りがある一方で、組合との関係はどうだったのですか。

 

小林様

51年の暮れから52年の正月にかけて組合がストライキをやりました。1ヶ月以上続くストライキです。対立が激しくて全然組合と話にならず、もうニチバンはダメだなと思いました。組合自身があまりにも激しくて、この時ばかりは再建は無理だと感じました。そして再建から手を引くとういことを宣言しました。52年の1月20日です。そう宣言したら、経営者にも組合にも必至になって止められました。それで、会社が軌道に乗るまではストライキを辞めてくれということで、なんとか組合と再建協定を締結するに至ったのです。

 

高井

再建協定によってストライキがおさまり、経営は上向いたのでしょうか。

 

小林様

ストライキを辞めたら、今度は在庫が増えてしまいました。そういうことは予測ができましたので、そのうち資金繰りが苦しくなると当時のメインだった富士銀行に夏頃から根回しをしていました。

実際に在庫が増えて資金繰りが苦しくなってきたので、いよいよ実際に話をしようということで、富士銀行の支店長に会いに行ったのですが、なかなか会っていただけませんでした。アポイントが取れず、銀行が開店する前の7時半とかに通用門が開く時間から立って待っていても会えない。支店長が会ってくれないので、ついに富士銀行にも見捨てられたのか・・・と。見捨てられたとなれば対処しなければなりませんので、融資担当の役員の方にご挨拶しなければと思って、常務にアポイントを取りました。

それで、常務にお会いする当日になったら、なかなか会えなかった支店長が出てきて「会うのを辞めてくれ」というわけです。

そうはいっても、役員の方にアポをとっており会わないわけにもいかないので役員の方にご挨拶しました。かくかく云々で・・・ということを話しましたら、常務が支店長を怒りました。「何を考えてるんだ、富士銀行はそんな銀行じゃありません」と。常務が私に頭を下げて「申し訳ない、そんな態度をとった支店長はとんでもない奴だ。従来通り、ニチバンと富士銀行とお付き合いをしてください。」と言うのです。その後、支店長は群馬県の会社に転籍されました。随分厳しかったです。銀行とは不思議なご縁がありました。

 

高井

他にもエピソードはありますか。

 

小林様

実は、三菱銀行でもあります。昔ニチバンの工場が品川にあり、三菱銀行品川支店が当時のメインバンクでした。ニチバンの再建をするに当たり、岩崎寛弥さん、岩崎弥太郎の玄孫に当たりますが、この方にご縁があってご挨拶にいきました。

当時、銀行とは株の持ち合いをしていました。三菱に限らず他の銀行とも株を持ち合っていました。それが、三菱はニチバンの株を全部売ってしまっていたのです。なんだ、三菱はニチバンをもう見捨ててしまっているじゃないかと思いました。三菱銀行の当時の頭取から、それは申し訳ないので本店に来てくれ、と言われて本店に行きました。

銀行には、いつも昼ごろ呼ばれます。役員食堂で、また、ホテルオークラのケータリングでした。当時銀行はみんなホテルオークラのケータリングでした。フレンチです。三菱銀行に御馳走になって、お詫びをされました。その後、三菱銀行はニチバンの株を買い戻しました。80円程度の株価が400円とか、500円になってしまっていたのに買い戻したのです。

 

高井

銀行との話は面白いですね。組合との話より銀行との話の方が面白いですね。

 

小林様

面白い話といえば、私がニチバンの再建をするといったら、銀行は反対をしたんです。興銀が最初に反対しました。再建は難しいからやめろと。大和銀行なんかは潰してから行け、あそこは組合が厳しいから潰してから行けと言いました。そうだった、高井先生だってやめろっておっしゃいましたよ。

 

高井

当時のニチバンは組合が激しくて、再建は難しい状況でした。小林様を奮い立たせたものは何なのでしょうか。

 

小林様

考えてみれば銀行全てにやめておけと言われました。苦労するだけだと。逆にそういわれたことが1つの反発心でした。そこまで言われたら、何とかしなければならないという気持ち、それが大きかったです。

 

高井

ニチバンが軌道に乗るまでにどのくらいかかりましたか。

 

小林様

6年かかりました。私が行ってから、6年赤字が続いて、昭和57年にはじめて復配が出来ました。昭和47年から10年間無配でした。役員賞与も出ていませんでした。復配で役員賞与を出すことになったら、経理担当者が10年間も出していなかったから役員賞与の計算方法が分からないと言いました。そんなこともありました。

 

高井

復配になってからは無配に陥ったことはありませんか?

 

小林様

それからずっと配当は続いています。

 

高井

現在のニチバンには内部留保はあるのですか。

 

小林様

まだまだ少ないですが、セロハンの主力工場の三河安城に移す大阪工場の移設投資も自己資金でやっていますし、子会社ですが、九州にあるニチバンメディカル株式会社も自己資金で作っています。ニチバンそのものは内容のいい会社になっていますよ。

私がニチバンの会長を辞める時に株価が280円から300円くらいになっていました。私が辞める時の株主総会で、それでも株価が安いという意見があったのですが、ニチバンの内容からするとすぐに500円くらいになりますと言いました。そういう内容の会社になったのです。実際に今は、500円を超えて900円になり、1000円を突破しました。私も86歳になりました。

 

高井

本日は、貴重なお話をありがとうございました。

以上

 

 

この記事にコメントをする
  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第11回目です。
  • 第11回目は 株式会社ワールド・リンク・ジャパン 代表取締役社長伊東淳一様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第11回)■ ■ ■ 

株式会社ワールド・リンク・ジャパン 

代表取締役社長 伊東淳一様 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


伊東淳一様[株式会社ワールド・リンク・ジャパン 
     代表取締役社長 伊東淳一様 プロフィール]


日商岩井株式会社(現:双日株式会社)在籍中よりアジアのビジネスに関わり、ベトナムのホーチミン駐在事務所及びハノイ事務所所長を歴任。

2003年に同社退職の後、 故丸目三雄氏により設立された株式会社ワールド・リンク・ジャパンに参画、現在に至る。

投資ファンドの企画・設立・運営やM&Aアドバイザリーサービス、環境、医療、教育、農業分野におけるコンサルタント等、多方面にてご活躍されています。

 

 

 

 

[今回の同席者は以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • スクーナー株式会社 代表取締役社長 樋口 信行 様
  • スクーナー株式会社 専務取締役 樋口 信高 様 

今回はベトナム事業を通じて伊東様と親交がございます水産物輸出入、販売事業を手掛けるスクーナー株式会社のご両名様もお招きいたしました。

取材日:2017年1月11日(水) 於:東京 芝 とうふ屋うかい

 


 

高井

まずは、伊東様の現況をうかがいましょう。

 

伊東様

おかげさまで健康診断も終えて、あと2~3年は頑張ろうかというところです。

今年で71歳になります。今はベトナムに3ヵ月滞在、日本に2週間滞在するというペースで行ったり来たりの生活ですが、元気である限りこのまま仕事を続けようと思っています。

 

高井

ベトナムにいかれて何年になりますか?

 

伊東様

2006年からなので今年で11年目に入ります。その前に1993年から7年くらい滞在していたのでベトナムでの生活は合算すると17年くらいですね。

北は中国国境のラオカイから最南端のカマウまで行きました。出張には南部弁の話せる40代の男性スタッフ、北部弁(ハノイ弁)が話せる女性スタッフを連れていきます。いずれも日本人です。北で南部弁を話すと見下され、南で北部弁を話すと警戒されるといった雰囲気が今でもあります。戦争が終わって40年以上も経つのに南北に分かれて戦った時代の遺恨のようなものがベトナム国民の間には残っているようです。

 

高井

これまでベトナムでお過ごしになられて、一番楽しかったことは何ですか?

 

伊東様

投資ファンドを作ってもらったことですね。そのおかげで今の私があるといえます。日本政策投資銀行の担当者の方がアジアの可能性、ベトナムの可能性を認識しておられて投資ファンド設立を応援してくれたことがうれしかったですね。

アセアンの他国、フィリピン、タイ、インドネシアにも投資活動を広げようとしていますが、中国や韓国が台頭してきており、必ずしも日本の企業と仕事をすることがアジア諸国の皆さんにとって良いことだと思ってもらえない雰囲気があり、アジアで仕事をする日本人や日本企業にとってなかなか難しい時代に突入しているような気がします。

 

高井

これまで大変だったことは何ですか?

 

伊東様

大変だったのは丸目さんが亡くなった時ですね。2012年。もう5年くらい前ですね。(※故丸目三雄様は20代で裸一貫インドネシアに渡り、貿易を手がけながらインドネシア、ベトナム、カンボジアの政府要人をはじめとする幅広いネットワークを築き上げ、日本の東南アジア外交におけるアドバイザーとしてご活躍された方で、株式会社ワールド・リンク・ジャパンを設立された方です。)私自身も2000年に脳梗塞をわずらって、丸目さんに拾われたのですが、二人で会社を立ち上げたあの頃が一番大変でしたね。その大変な時期にスクーナーの樋口さん親子に助けてもらいました。このことは一生忘れません。その恩返しがなかなかできていませんが。

 

高井

ベトナムに進出している日本企業はどれくらいありますか。一般的に、大体成功するのですか?

 

伊東様

正式に計算していませんが、少し前のホーチミンでは、商工会のメンバーで600社くらいでしたね。ハノイも同じぐらいあるのではないでしょうか。

安い労賃を活用して、ものを作って日本へ送る、もしくは東南アジアへ出す、一部をベトナム国内で販売する、というビジネスモデルはうまくいっているようですけど、ベトナム人を相手に国内で物を売る、サービスを提供する、というビジネスモデルは短期間に収益を上げることはまだ難しい段階かと思います。

 

高井

それはなぜですか?

 

伊東様

ベトナムの街並み日本企業は日本の製品レベル、サービスレベルをそのまま持ち込もうとします。中国や韓国の企業はベトナム人の生活レベル、技術レベルに合わせた製品やサービスを提供します。その点で日本企業は後れを取っています。

もう一つは商習慣ですね。ベトナムのビジネスの世界は何でもありで、日本でいえば戦後の闇市があった時代に似ていて商道徳といった概念がない世界ですから、例えば物を売るにしてもキックバックなしでは買ってもらえない、日本のように消費者が何を求めているかといったことには関心が全くないですね。

ベトナム資本のスーパーにいっても、ほとんど棚に並んでいるものは同じ商品ばかり、つまりスーパーの購買担当者にとって実入りの良い商品は棚に並ぶ、そこには消費者のことなど念頭にないということです。もっとも外国人専用のスーパーマーケットにいけば全世界の一流の食品は手に入ります。

そういうことで日本企業が自らベトナム国内の商売に手を出すことは難しいと思います。日本企業はコンプライアンス問題には敏感で厳しいですから。あと、日本の商品は良すぎて、技術のレベルも高く、値段も高いからベトナム人の社会とか生活レベルに合わないですね。例えば、ベトナムのテレビは韓流ドラマが毎日放送されています。それも3-4チャンネルと多い。一般的なベトナム人は韓国のほうが日本より素敵な国と映っている。製品も質が良くて安いと思っている。今、ホーチミンは綺麗なビルは建っているし、髙島屋やイオンにいくと人がいっぱいいるので、お金持ちがいっぱいいるように日本からの旅行者は思うようですが、金持ちは残念ながらほんの一部ですね。ベトナム人の大半はまだ昔からある町中の市場にいって安いものを買っていますよ。あとは、日本企業が失敗する要因は市場調査にお金も時間をかけないことですね。トップダウンでベトナム進出を決めて、そのあとにベトナムを知らない駐在員が現場に来ていざ仕事を始めると日本で聞いてきた話と全然違うことがわかる、というパターンが結構ありますね。

写真は「昔からある町並と、高層ビル(写真中央)が立ち並ぶホーチミンの街並み」

 

高井

伊東様がご存知の企業のなかで、成功しているところはどういう特色があるのでしょう。

 

伊東様

例えばインスタントラーメン等を作っている某食品メーカーはうまくいっているようですね。 日本だと3~4番手かと思いますが、ベトナムではシェア6割、日本の本社の3倍の売り上げ、3倍の利益があるようですよ。90年代半ばに進出して日本式で売ろうとして最初はうまくいかなかったようですが、ベトナムの素材にして値段をさげて、それでもまだまだでしたが、パパさんママさんショップの零細な個人商店に商品をただで置かせてもらって、売れたらお金を支払ってもらうという、富山の薬局方式にしたら急激に売れ始めたようですよ。あとは、某調味料関連メーカー、この人たちは他の開発途上国での経験がありますので非常に上手にベトナム国内市場に入り込めている。某自動車メーカーは世界を席巻する技術とブランドがあるので競争がほとんどない、競争するとすればベトナム人の購買能力だけですから自動車やオートバイという産業は別格ですね。

 

高井

人々のくらしは良くなりましたか?

 

伊東様

20年前にくらべたらはるかによくなっています。でも、相対的には所得格差が広がってきている。特に若い人々の間から、不満がでているのが心配ですね。あと共産党に入る人がいない。共産党はお爺さんお婆さんばかりで、自然消滅する可能性もありますね。政府もそれを心配してなんとか若者に魅力のある政策を打ち出して共産党離れを防ごうと努力を始めています。

 

高井

海外に留学する若者は多いですか?

 

伊東様

お金持ちの息子、娘はアメリカ、カナダ、シンガポールそしてオーストラリアに留学するのが多いですね。日本もかなり留学生が多くなってきているようですが、実態は出稼ぎ留学生であって、純粋な留学生はあまり増えていないような気がします。残念ながら、日本に留学しても米国に留学しなおすという事例がかなり多いです。たぶん、これは日本に留学しても日本企業に正社員として採用されるケースが極めて少なく、また、ベトナムに帰ってきても結局は英語ができないと良い就職先が見つからないからでしょう、日本企業は今でも現地採用の「使い捨て」的な雇い方で、高い経費のかかる日本人を相変わらずベトナムに送り込んでくるので、ベトナムの若者にとって日本企業への就職は必ずしも魅力的ではない、という事情があるように思います。

日本語を話すベトナム人は多くなりましたが、ベトナム人の若い人たちは地味なものづくりに対する取組姿勢がやや欠けている気がします。これは上の世代がそうだからなのかもしれませんけれども、金融やIT業界のような華やかな職業に憧れがあって、地道に油まみれになってものをつくることに生きがいを感じる若者が少ないです。それがベトナムの将来を考えた時に心配ですね。ベトナム人はものづくりに対する素質があると思うんですよね。日本、中国、朝鮮半島の人たちと同様にベトナム人は箸をつかう民族ですし、大乗仏教、儒教と日本と似たような文化が根付いていますから、他の東南アジアの国民と少し異なります。生来的にものづくりに向いている人々だと思うのですが、しかし手っ取り早く金持ちになりたいという気持ちが先行してITや金融に走りますね。

 

高井

ベトナムの今後の発展性はいかがですか?

 

伊東様

私がみてきてこの20年間ですごく進化しましたね。

基本的にベトナム人は植民地の経験があるから外国人を信用しません。その後のベトナム戦争、これはアメリカとの戦争ではなくて、北の人間と南の人間の戦いでした。だから未だにお互いに不信感があるので「信用経済」がなかなかうまれません。これは他のアジアでも同じような例はありますけど、タイの場合、植民地の経験もなく、深刻な民族対立の話もない、華僑がうまいことタイ族と同化しているので、今日のようにかなりの程度まで経済発展しました。しかし、最近、タイもマレーシアもこれ以上の経済発展は期待できない、つまり「中所得国の罠」にはまっている、と言われ始めています。日本は80%内需で生きている国ですが、タイもマレーシアも外需に依存しており、内需がなかなか大きくならない。つまり「信用経済」がなかなか膨らまないので商業が発展しないのです。

その点日本は幕末のころから信用経済が発展していて、東北の田舎から京都に出稼ぎにきて新選組に入隊した侍は、給与を京都の両替商から東北の実家に送金できていました。それは武士道と同じように石門心学、石田梅岩や鈴木正三らが唱えた、商人はつましく、真面目に正直に生きるという、「商人道」が根付いていたんですね。ヨーロッパでは資本主義が発達したのはプロテスタントの興隆と軌を一にしているといわれますが、しかし、残念ながら他のアジア諸国には「武士道」もなければ「商人道」も生まれなかった。経済活動の準備運動もないままにいきなり植民地にされてしまった。これはその後のアジア諸国の経済発展に大きな影を落としているように思います。日本のように8割を内需に依存している国はアジアには一つもないです。アセアン諸国がこれ以上の経済発展を望むならば内需をどのようにして大きくしていくかその仕組みを考えなければいつまでも外需に頼るような「植民地経済」から脱皮できない。もちろんベトナムにも同様なことが言えます。

 

高井

ベトナムの発展に影響を及ぼしているのは植民地が1つ、南北の対立が1つ、あと1つは何でしょうか?

 

伊東様

共産主義ですね。共産主義の亡霊が生きていて、できるだけ国民は平等にしようという意思が働き、伸びるところを抑えつけようとします。それでいて共産党や行政府の幹部の子弟をアメリカなどに留学に行かせて、ベトナムの教育レベルは低く抑えたままにしている、という矛盾がいろいろなところであります。今の首相や大臣クラスはまだ戦争を知っている世代ですが、戦争をしらない世代が次官クラスに就きはじめています。彼らが大臣になるころには、3つの亡霊(植民地支配の過去、南北の対立、共産主義)はかすんでしまい、新しいベトナムが生まれると期待しています。

 

高井

70歳になった伊東さんは今後どうされるのですか?

 

伊東様

社会主義の国は医療、教育、環境そして農業といった分野がとくに遅れている。ベトナムもそうです。日本はこれらの分野では先生になれるかなと思いますね。住環境についても、金持ちや外国人相手の高級マンションはたくさん作られますが、若者たちは一生かかっても家が持てないという現実に直面しています。日本の住宅公団や住宅金融公庫のような仕組みをベトナムに導入して、住宅事情を変えてみたいですね。

それと、ベトナム政府上層部では「日本との関係を1990年代のようにもっと緊密にしたい」という希望があります。中国や米国の動きをみているとベトナムは大きな流れの中に飲み込まれそうな気がしているのかもしれません。故渡辺美智雄さんがベトナムの門戸を開き日本のODAを再開しましたが、その時お手伝いしたのが先代社長の丸目さんと当時日商岩井に勤務していた私でした。その経験を生かしてもう一度日本とベトナムの緊密な関係作りに貢献できればと考えています。あとは会社の後継者を育てることですね。

ベトナムの川岸

写真は「ベトナムでお手軽なシクロ(自転車タクシー)」

以上

 

 

この記事にコメントをする
  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第10回目です。
  • 第10回目は、富士大学学長岡田秀二先生です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第10回)■ ■ ■ 

富士大学 学長 岡田秀二先生

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


[富士大学 学長 岡田秀二先生 プロフィール]

岡田秀二先生画像

 

1951年北海道生まれ。農学博士。専門は森林政策学、山村経済論。岩手大学農学部を卒業後、北海道立総合経済研究所研究員を経て、岩手大学へ。1994年から岩手大学農学部教授。

現在、富士大学学長。著書に『地域開発と山村・林業の再生』(1988)、『山村の第三セクター』(1996)、『現代森林政策学』(2008)、『世界の林業―欧米諸国の私有林経営―』(2010)、『「森林・林業再生プラン」を読み解く』(2012)等がある。

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 株式会社ことば未来研究所 代表取締役 鮒谷周史 様 

取材日:2016年11月5日(土)日本料理 対い鶴(ホテルメトロポリタン盛岡 NEW WING 1F)

 


 

高井

林業が少し持ち直したという情報があるのですが。

 

岡田先生

はい。基本的には持ち直しつつあると思います。我が国は、可能性ですけれども、森林資源という意味では資源大国です。具体的に資源化するためには、それなりの生産基盤投資をしていかなければならないのですが。

 

高井

現実に森林が「よみがえる」のは、どういう分野でよみがえるのですか。具体的に住宅問題なのか、あるいはバイオマスなのか。

 

岡田先生

住宅に関しては、日本の木材を使って生活様式に合った住宅を建築したいという需要が依然としてあると思います。一番木材を使ってほしいのは、実は公共等建築物です。木質できちんとしたケアをしていく、そういう施設化というのは、日本みたいな先進国家には絶対と言っていいくらい求められるし、当然の要求として出てきていると思っています。木質材料の使い道は依然としてあるし、木質は大変ありがたいことに劣化して腐ります。すなわち、一定の期間の後には、新しい材料で置き換えていくということが当然のように出てきますから、限りなくこの材料に対する需要というのは続いていくということです。

平成23年度以降の「森林・林業基本計画」では、自給率を2030年までに50%に上げるということになっています。公共建築で大きく増やそうということを考えています。また、オリンピックはで木質の施設、木造の施設を使うということで、流れが木材に向かっており、期待しています。

 

鮒谷様

林業においては、後継者というかそれに携わる人間というのは見立てとしては、どうなっていくのですか。

 

岡田先生

端的に言うと、林業経営の実態を有する林家や会社の経営者、あるいはその子どもたちや孫たち、その人たちがどんな意向を持っているか、それ次第です。私自身は、農山村の奥地の集落でも人が住まうようになることが、この国土空間を丸ごと循環型の国土空間にしていくうえでは絶対に必要だし、これからは展望があると思っています。森林資源の持っている可能性というものは、ものすごく大きいですから。

 

鮒谷様

農業に行く人間というのは、最近ちょっと意欲のあるというか志を持った人が行くというのはあるのですけれども、林業のほうにそういう動きというのはあるんですか。

 

岡田先生

間違いなくあります。

 

鮒谷様

もう今、現にそういう人も現れているんですか。

 

岡田先生

はい。その助け舟になったのは、バイオマス発電です。バイオマス発電では、どんな木材からでも発電することができるため、どんな木材でも売ることができます。

 

鮒谷様

じゃあそういうことを意識して、もう入ってきている人間も現に現れつつあると。

 

岡田先生

間違いなくいます。真庭市(岡山県)は、その例です。木材を100%利用できる、そういうサイエンスはもう出来上がっているんです。あとは、誰がそれに金を出して操業化していくかという、そういうレベルに入っています。森林業革命とか、緑の産業革命という言葉を使っているのですが、森林業すなわち森林そのものを内部経済化(注1)すること、これからは地域化という方向性を持つ局面も出てくる可能性が高いということを一生懸命に言っています。すなわち、森林空間そのものが経済地域化していく可能性を持つ、それが我が国なのです。

注1「内部経済化」:企業自体の設備投資や経営能力の向上によって生産費が低下し利益を得る状態にすること。

 

高井

岩手県全体の農政としては、林業を含めて優れているのですか。

 

岡田先生

どの角度からどの視点で評価するかによって、ずいぶん変わってきますが。トータルに考えて、全部が良い方向に行っています。満点だとは言えませんが、いろいろなチャンネルを出しながら、市民に県民にできるだけ森林の公益性、多様な機能をお返しすることができています。

農のところでは、我が国の農業は米一辺倒でやってきたわけです。そうではなくて、これだけ山がちで傾斜地農業ですから、そこは土地にふさわしい食品、土地にふさわしい作目、これを上手に田畑輪換あるいは森林と畑地輪換、そういうことをしながら忌地(いやち)(注2)現象も起こさずに、生産力的に許してくれる範囲で作目構成をする。そして、できるだけそこの耕土の豊かさを肥沃度を保ちながら、我々が享受可能な生産レベルを土地に聞きながらやる。そういう回路も出しています。一方で、農業の「業」の中身は何かというと、売ることが目的であり、商品化することが目的です。「業」は、単なる「農」ではない。「業」と「農」には違いがある。そうすると、平場地域は、それなりの生産性をきちんと高めることです。田んぼは、忌地なしでやれるわけですから、そこを上手に実現しながら国民そしてそれをも超えるところに、製品を提供することが大事だと思っています。

注2「忌地」:連作障害ともいう。同一作物の連作によって生育がはなはだしく不良、あるいは生育不能となる現象。忌地を起こしやすい作目はえんどう、トマト、なす、亜麻、里芋、すいか、メロン、大麦、桃、いちじくなどが知られている。

 

鮒谷様

林業というのは、人が相当程度に関わらなければ、機械化というのは難しいのですか。

 

岡田先生

今は完全に高性能機械です。

 

鮒谷様

日本は林業において先進国のようなイメージがあるんですけれども、実際のところはどうなんですか。

 

岡田先生

育てることと、木の性質を把握すること、人間が使い勝手が良い木の樹種の多様さ。南北に長いですし、雨が多いですし、季節がありますから、自然を理解し、木を適利用に据えること、そのことについては確かにスキルは高いと思います。しかし、工業化のところについては遅れています。

 

鮒谷様

相当大きく工業的にやるのでなければ、相変わらずチェーンソーですか。

 

岡田先生

そこが重要です。規模と稼働率、これで経営的には機械化をしていいのかどうか、あるいはどのレベルでするのがいいのか。そして、機械化で上手にサプライチェーン(注3)をつないでいくことができているかどうか、そこが経営としては、いわば「みそ」のところです。

注3「サプライチェーン」:サプライは供給、チェーンは連鎖の意味。製品の原材料が生産されてから消費者に届くまでの一連の工程。

 

高井

「政府がこういうことをやったほうがいい」というのは何ですか。

 

岡田先生

1つ目は、今日非常に大事な点です。森林は温暖化を食い止めると同時に、出してしまったものを吸収する唯一の資源ですから、森林をきちんと整備していかなければいけません。IPCC(注4)にカウントされる条件が決められていますから、少なくともそこに対しては、当初予算で予算措置をすべきと強く思っています。

2つ目ですが、森林が森林としてあるだけでなく、使いながら管理するということです。生命体ですから成長しますが、ピークがあって衰退を必ずしていきます。それを刻々と見ることができて、そして「今が使い時だ」、「これからあとは、むしろ更新をさせるべきだ」と、こういうことがきちんとわかることが大事です。しかし、森林はものすごく大切な公益財産であり、また、経済財でもあって、生産と財の提供が出来るにもかかわらず、個人財産でみんな自分の意のままにしたいという、そういうレベルでとどめているわけです。だから、ここを打破していくことが大事です。地球環境問題一つを取ってもそうですし、地域経済の活性化を考えても、そこが打破できるかできないかというのが決定的に大きい問題としてあります。

3つ目は、森林が具体的に資源となるための生産手段が足りません。具体的には林道が足りない、作業道が足りない、道路密度が足りない。日本は、依然として路網密度が足りておらず、ヘクタール当たり10メートルを超えたところです。道路網に関しては、公の投資として急いでやるべきだと、強く思っています。

4つ目は、1999年の地方分権一括法によって、だいたい400近くの法律が首長権限に移ってきました。実は、森林マターのところが多く移っているのです。担当の職員がやるわけですが、森林・林業について知識がない職員が圧倒的に多いのです。国家責任、地方自治責任、公責任でもって専門性を持つ行政職員をしっかりと専門のわかる職員の育成を急いでやってほしいと思います。日本では森林計画制度というんですけれども、要するに国家のレイヤー(注5)と、都道府県のレイヤーと、市町村のレイヤーと、所有者のレイヤーで「それぞれ責任をきちんと果たしてください」という仕組みを作っているんですが、全体として制度が機能するためには、市町村部分に梃子入れしていかなければならないと思います。

注4「IPCC」:気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change)の略。国際的な専門家でつくる、地球温暖化についての科学的な研究の収集、整理のための国連の組織。

注5「レイヤー」:層。階層。

 

高井

機能していないね。

 

岡田先生

市町村の森林整備計画制度というのがあるんですけれども、そこが機能していません。職員が足りないです。市町村の森林整備計画制度を作るにあたっては、「きちっとした専門性のある人の意見を聞いてください」、「アドバイザリーボード(注6)をつくって、意見をきちんと聞いてください」ということを、今回、法律でもきちんと書き込んでいます。それもできていません。

注6「アドバイザリーボード」:諮問委員会

 

高井

だから空理空論になっているわけですね。本日はありがとうございました。

 

以上

 

 

この記事にコメントをする
  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第9回目です。
  • 第9回目は メルコスール観光局 池谷光代様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第9回)■ ■ ■ 

メルコスール観光局 池谷光代  様

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

 

【池谷光代様プロフィール・ご紹介】池谷光代様お写真

東洋大学短期大学にて、観光学を学び、卒業後一貫して、観光業に従事。全日空商事株式会社を経て、サンフランシスコにて日系旅行会社に勤務。1997年に、ある偶然の出会いがきっかけで、アルゼンチンに渡る。その後、約10年間、アルゼンチン・ブエノスアイレスに滞在し、旅行会社勤務を経て、ブエノスアイレス市公認観光ガイド、各種コーディネーター等の仕事に携わる。

アルゼンチン観光省との縁より、現職であるメルコスール観光局〔※説明はブログ本文ご参照ください〕にて、メルコスール加盟国の観光のプロモーション業務の為、2007年に帰国。

現在、南米とひとくくりには出来ない、国柄も文化も違う5カ国の観光省とのコーディネート、観光PRイベントの企画、手配、運営、観光セミナー講師等を担い、2012年には、一般社団法人日本旅行業協会より、4カ国(当時)観光省とのコーディネート力、日本の旅行業界への貢献を評価され、「ツーリズム大賞2012観光局部門」を受賞。

日本、米国、アルゼンチンと国内外の民間企業勤務の経験と、現在アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ5カ国の観光省という外国公的機関とのコーディネート経験、国柄も文化も違う5カ国をコーディネートするコーディネート力、そのユニークなキャリアが業界から評価されている。

日本と海外の旅行社勤務の経験を経て、現在観光局で観光PR に従事するという、観光を学ぶ学生から憧れられるキャリアを持つ女性として、またユニークな経験談が評価され、大学や専門学校から、観光学科学生向けの講義依頼等も受けている。

【今回の同席者は以下の通りです】

  • 久佐賀義光様
  • 三井物産株式会社(1955年4月-1992年6月)にてアルゼンチン(ブエノスアイレス)化学品課長、ドイツ(デュッセルドルフ)化学品部長、中国(北京):初代中国総代表を歴任。アルゼンチン勤務は1962年12月~1968年1月の5年に亘る。

  • 高井伸夫

今回は、アルゼンチン勤務経験のある久佐賀義光様をもお招きして、お話をお伺いいたしました。
(取材日:2016年12月1日(木)中国飯店市ヶ谷店)

 

 

----------------------

高井

南米とかかわるようになって何年ですか?

 

池谷様

来年(2017年)で20年になります。

 

高井

南米に関するお仕事ですが、19年間どのようなことをされてきているのですか?

 

池谷様

アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで旅行会社に勤務したのをきっかけに、一般旅行業務、ブエノスアイレス市公認ガイド、イベントのコーディネーター等をしていました。その後、アルゼンチン観光省と縁に恵まれ、現職の観光局に関わるようになりました。ずっと、観光業に携わっています。

 

高井

池谷様が日本に戻られてまもなく10年ですが、日本に戻られてから他の南米の国とも関わるようになったのですね?それが、メルコスールの国々だったのですね?

 

池谷様

そうですね。メルコスールというのは、日本では聞きなれない言葉かと思いますが、アルゼンチンとブラジルとパラグアイ、ウルグアイとベネズエラの関税同盟の名称です。

それまでは、アルゼンチンの観光だけに関わっていましたが、日本に帰国後、その周辺諸国にも関わることになりました。日本では南米というとまるで同じ国のようにひとくくりで見られる方が多いように感じますが、日本とその周辺のアジア諸国が異なるように、南米大陸の各国はそれぞれ異なります。それぞれに独自の文化があり、異なる面もありますが、お隣通しの国が手を組んで一緒に観光促進をするプロジェクトは、とても興味深いと思います。

 

高井

アルゼンチンの魅力は何ですか。

 

池谷様ペリトモレノ氷河

まず、アルゼンチンの最大の魅力は大自然ですね。アルゼンチンの国土は日本の約7.5倍です。

観光で特に人気なのは、南部のパタゴニア地方にある世界自然遺産ロス・グラシアレス国立公園の「ペリト・モレノ氷河」です。

アンデス山脈から30KMの距離を、氷河の名の通り、氷の河が湖に流れていて圧巻です。そして、遊歩道からその氷河を目の前に見ることができます。もし、東京の中心部にそれがあったとしたら、その氷の壁は、日本橋から浜松町まで続き、上を見上げるとその高さはビルの20階ぐらいと同じ。

そんな大きな真っ青な巨大な氷河があるんです。すごいと思いませんか?

(写真;ペリト・モレノ氷河・手前に遊歩道あり)

また北東部にいくとアルゼンチンとブラジルの国境に、イグアスの滝と呼ばれる世界遺産に登録されている滝があります。この滝は、なんと275本の滝が連なって、幅が2.7KMにもなるんです。日本橋から新橋ぐらいの距離!(笑)イグアスというのは、この辺りに住んでいた先住民グアラニー族の言葉で、「大いなる水」という意味ですが、訪れた人はその言葉の意味を、思う存分体感することができると思います。日本にはない景色です。

北部に行きますと、190KM続くウマワカ渓谷のある村に7色の丘を持つ村があったりします。

 

高井

丘の色が7色なのですか?

 

池谷様

ウマワカ渓谷

そうです。地層の色が7色です。この丘は、世界遺産ウマワカ渓谷のプルママルカ村というところにあります。自然の作った素晴らしいグラデーションです。さらにアルゼンチンの自然の魅力を語りだしたら、今のこのお時間では足りないぐらいです。

他にもちろん、まだまだたくさんありますが、お時間もありますし、もしもうひとつしか選べなかったら、それは間違いなく「人の温かさ」と言いたいです。例えば、地下鉄に乗っていて、妊婦さんやお年寄りが乗ってくると、どなたか一瞬で席を立ちます。日本のように寝たふりをしている人なんて皆無です。そして、家族や友人をとても大切にするアルゼンチン人。例えば、もし、あなたが年末年始などの人が集まる季節に一人だったら?そんな時は、こんな声が聞こえます。「ひとりでいるもんじゃない、うちに来なさい!一緒に楽しもう!」日本では、家族の集まりに他人が加わるといった習慣は、あまりないかもしれませんが、アルゼンチンの人達は、あなたが誰だからというわけでなく、ただ人とのつながりをとても大事にしてくれる人々だと思います。

(写真;ウマワカ渓谷7色の丘)

 

高井

治安はどうなのでしょうか。

 

池谷様

南米の中では、比較的良いと思います。首都のブエノスアイレスには、東京にもあるような、バス停で乗り降りできる2階建て観光バスが走っています。治安が悪いところでは、バス車内強盗などがあったりしますが、乗り降り自由な観光バスが運行しているということは、比較的治安がいいといえるかと思います。

また、治安が悪い国ではお勧めできない長距離バスも、アルゼンチンでは全く問題ございません。

 

久佐賀様

アルゼンチンは南米で一番安全な国ではないでしょうか。私がいた当時は夜中の1時2時に町の中を1人で歩いていても、全然怖さを感じませんでした。

 

高井

観光業のお仕事で一番のやりがい、醍醐味は何ですか。

 

池谷様

やりがいは、仕事に限界、リミットがないことです。

 

久佐賀様

何でもできるということでしょうか。

 

池谷様

例えば、今観光地でないところがあったとします。その場所は、未来にはお客さんが来てくれるような場所に、育てることができます。創造性には、リミットはありません。

観光業は、代金を支払う時は、商品を手に取って品定めして買える商品でなく、その観光地にいる時、もしくは家に戻ってきてから、その価値がわかるものです。

同じ代金でも、同じ観光地でも、まあまあだったという人もいれば、一生忘れない思い出になる人もいればさまざまです。そんなひとりひとりの違う人生の一部に関われると思うと、ロマンを感じます。多様性があり、そういった面にもくくり(リミット)がありません。

また、お勧めしたところへ行ったお客さんに「楽しかった!いい思い出になった。」と言われること、その方の喜びが私の喜びになるときは、観光業に携わって、本当に良かったなと思います。

 

高井

池谷様が開発された観光地はありますか?

 

池谷様

テレレ茶器

そんな大それたものはありませんが、アイディアを採用していただいたことはあります。パラグアイでの話ですが、テレレというマテ茶を冷たくしたものを、飲む習慣があります。このテレレは(アイスマテ茶)、ポットに注いで飲むのではなくて、特別な容器に入ったお茶を、銀のストローのようなもので飲むという、独特の飲み方をします。パラグアイでは家庭で飲むもので喫茶店等では飲むことが出来ません。しかし、街中では小脇にポットを抱え、日本人には見たこともない専用容器で飲んでいるのを見かけるのです。そんな姿をみたら、観光客は益々味わってみたいものです。でも、喫茶店やレストランでは飲めない。そこで、こんな提案をしてみました。旅行会社のツアーでは、お客さんに1日1本ミネラルウォーターを付けていたりします。パラグアイ滞在中は、ミネラルウォーターの代わりにテレレセットを用意し、テレレ体験をしていただき、その入れ物はお土産として持って帰れることにすればお客さんが喜ぶのではないでしょうか?ということを提案しました。現地の旅行社は、灯台下暗しとでもいいましょうか、自分たちの毎日の当たり前のような習慣が観光客にはとても興味深いということに、今までは気が付かなかったそうです。そして、思った通りそれを実行したら、お客さんにとても喜んでもらえたという例がありました。

(写真:パラグアイ、テレレの茶器)

 

高井

観光業のお仕事で一番苦労されるのはどのようなことですか。また、日本人がアルゼンチンに観光で行って一番苦労することは何ですか?

 

池谷様

現職では、文化の違いから価値観の違いもあることを、理解するよう心がけています。

日本人がアルゼンチン観光に行って一番苦労すること?なんでしょう?(考え込む)スペイン語の文字が飛び込んでくることでしょうか?(笑)観光地は、英語は通じますし、身振り手振りでも相手を理解しようという人がたくさんいるし、食事も素材を使ったお料理ばかりで日本人の口に合うし、苦労ではなく逆にたくさんの楽しみが待っているはずです。

 

高井

価値観とおっしゃいましたが、どのような価値観ですか。

 

池谷様

例えば、簡単な例だと、日本ではメールを受けとったら、それに対しての回答がすぐ出せなくても、受け取りましたという受信メールを返信する方が多いかと思いますが、私が一緒に仕事をしている人たちは、回答が出てから連絡がくることが多いです。ですから、数日間は、メールを受け取ったのか受け取っていないか分からない時間があります。

彼らたちにとっては、聞かれたことの回答がわからないから、確認してから書こうとただ思ったということだそうです。自分の価値観だけで考えてしまうと、その数日間はイライラするかもしれません。しかし、どちらがいいか悪いかではなく、お互いのやり方を尊重し、確認しながらミスコミュニケーションがないようにしています。また、各国間とは、メールのみで、ほぼやり取りするのですが、些細なことでも全てをちゃんとシェアしていくことを心がけています。これをとても大切にしています。5か国で仕事のリズム、文化が違うので、アルゼンチンもブラジルもウルグアイもパラグアイもベネズエラも南米大陸にありますが、国が違うわけです。日本だってアジアの1つだけども、お隣の中国とも違うし、韓国とも違う。それと同じです。

南米は、大陸でつながっているけれど、違う国同士、考え方の違いも生まれますし、そういうことを理解しながら、バランスを取りながら仕事を進めるというのが、一番、難しいと言うか、気を付けていることです。

 

 

高井

ところで池谷様はボランティア活動も積極的に行っていらっしゃると伺いました。どのような活動をされていますか?

 

池谷様

最近は行っていませんが、東日本大震災と広島の土砂災害でのボランティアの経験が印象に残っています。東日本大震災では、震災後に岩手の釜石と宮古へ行きました。

 

高井

ボランティアに行って、感じたことを教えて下さい。

 

池谷様

災害の現場に際して一番感じたことは、自分がテレビを見た時の想像と、実際の被害の大きさの違い、自然災害の恐ろしさは、テレビだけでは表現できないと感じました。そして、被災された方について、東北の場合は、何もなくなってしまって、更地になってしまっていて、平地になってしまって、それでも人は立ち直ろうとする、東北の人の強さを感じました。何にもない道を釜石から宮古まで走った時に、ただの更地といっても、平原ではありません。アルゼンチンの大自然の平原とは違います。町があった場所です。全く何もなくなってしまった、こんな状態になっても、立ち直ろうとする人のすごさを肌で感じました。

広島の土砂災害は、「横の家は大丈夫だったけど、うちはダメだった、というように、間一髪の差で全てがなくなっている、それを認めるまでは時間がかかったけれども、これからがんばっていく、復興していく」とお話を伺い、人間の強さというのは、すごいなと本当に思いました。

 

高井

本日は貴重なお話をありがとうございました。

 

以上

 

 

この記事にコメントをする
  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第8回目です。
  • 第8回目は アタックス税理士法人 酒井悟史様、株式会社リクルートキャリア藤井薫様(50音順)です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第8回)■ ■ ■ 

 

アタックス税理士法人 公認会計士・税理士  酒井 悟史 様

株式会社リクルートキャリア リクナビNEXT  編集長 藤井 薫  様

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

昨今テレビや新聞を毎日賑わせている「人工知能(AI)」。人工知能が私たちの生活に及ぼす影響は甚大であり、今まさに大きな注目点です。より多くの方々にこの問題を身近に感じ、また考えていただく機会となることを願い、昨年4月~6月、「週刊 労働新聞」において連載「人工知能が拓く未来~人事労務分野への影響~(全12回)」を企画し、私を含め5名で執筆させて頂きました。

また同年10月には、ユカイ工学株式会社 代表 青木俊介氏と、株式会社リクルートキャリア リクナビNEXT編集長 藤井薫氏の2名を講師にお招きし、特別セミナー「AI(人工知能)が拓く未来 ~人事労務分野への影響を探り可能性を考える~」を開催し、企業におけるAIの活用状況や人間とAIのこれからの付き合い方についてお話しいただきました。

今回の一問一答は平素より小生が「AI」や「ビックデータ」についてご教示頂いている、アタックス税理士法人酒井悟史様、また上述のセミナーで講師をお願いした株式会社リクルートキャリア藤井薫様にお話しを伺いました。

 

酒井悟史様写真

[アタックス税理士法人 酒井悟史様プロフィール]

 

アタックス税理士法人 公認会計士・税理士 慶應義塾大学経済学部卒。

 
有限責任監査法人トーマツ・トータルサービス事業部を経て、2014年アタックス税理士法人に参画。トーマツでは、監査業務の他、株式公開支援、業務プロセス効率化支援、連結財務諸表作成支援等に従事。現在は、主に上場中堅企業の法人税務業務の他、相続対策や資本政策等に従事している。

 

 

 

藤井薫様写真

[株式会社リクルートキャリア 藤井薫様プロフィール]

 

株式会社リクルートキャリア   リクナビNEXT編集長 兼 株式会社リクルートホールディングス リクルートワークス研究所 編集委員 兼 リクルート経営コンピタンス研究所 エバンジェリスト 
リクルートキャリアリクナビNEXT編集長。


88年、リクルート入社。TECHB-ing編集長、Tech総研編集長、アントレ編集長を歴任。リクルートワークス研究所、リクルート経営コンピタンス研究所兼務。16年4月、現職に就任。

 

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫

(取材日:2016年11月15日(火)場所:中国飯店市ヶ谷店にて)

 


 

高井

本日はお集まりいただきありがとうございました。まずは皆様の近況をお伺いしたいと思います。まずは酒井さん、近況を教えてください。

 

酒井様

フィンテック企業(注1)のサービス等により、一次データの収集を通じて顧客行動を可視化したり、収拾したデータを後工程に転用して経理作業を効率化する支援をしています。また収集データの分析結果に基づいて、経営のアドバイスをしています。例えば、担当している美容業界の会社で言うと、店舗別スタイリスト別・曜日別時間別のデータを活用し、再来店率の向上に向けた取組みを会社と一緒になって検討しています。またクリーニング業界の会社では、店舗別のデータを収集するための仕組み作りや、一次データの後工程転用による経理処理の自動化する仕組み作りを支援しています。そもそもクリーニング店でのお客様データは、店舗での接点でしか収集ができなかったため、アナログなレジだとお会計が済んだら完結してしまい、そのデータを後工程で活用しようという発想がありませんでした。今まで見えなかった店舗別の顧客動線を可視化することで、洗濯物の収集ルートや回収先の工場を見直すことで、業務の平準化に活かす仕組みづくりの支援をしています。

注1 フィンテック企業:「フィンテック」とはファイナンスとテクノロジーの2つを併せた造語。「フィンテック企業」とは金融IT分野のベンチャー企業(新興企業)を呼ぶことがある。


高井

大手企業はどのような仕組み作りをしているのですか。

 

酒井様

大手企業は独自の基幹システムやPOSレジ(注2)を導入し、一次データの収集・活用をしているケースが多いです。中堅中小企業は業務の中にデータを収集する仕組みを組み込んでいない場合が多いため、業績に変化が生じた場合、原因の特定ができない、あるいは非常に時間がかかるため、効果的な改善策を実行できない、または実行が遅れることがしばしばあります。

 注2 POSレジ:売上が発生する時点で、その買上げ商品の値札に付与されているバーコード情報をスキャナーで瞬時に読み取り、その商品の部門、品名、値段などを画面に表示しレシートに印刷。それと同時にレジ本体の記憶部(メモリー)に各種情報を記録するレジのこと。


高井

藤井さんの近況はいかがでしょうか。


藤井様

リクルートグループでも美容業界への経営支援を展開していますね。ホットペッパービューティーという、ヘアサロンやネイルサロンの検索・予約サービス(BtoC)がありますが、経営支援ということで言いますと、『SALON BOARD』という顧客管理システムもサロン向けに展開しております。 また飲食店の予約サービスである、ホットペッパーグルメでは、Airレジ(注3)を使い、会計などの業務プロセスと販売促進を組み合わせて、より広範に経営を支援するお手伝いをしています。そうした意味では、リクルートは個人向けサービスに加え、企業向けサービスまで含めた、経営並びに業界全体の支援にチャレンジしています。

注3 Airレジ:0円でカンタンに使えるPOSレジアプリ。会計の際伝票を作成せずに、ipadを使用することで、30分後の空席状況を把握でき、リアルタイムでホットペッパーグルメのサイトに反映できる。


高井

美容室は、リピーターを増やす事、また売上を増やすために、シャンプーなど物販販売をして顧客単価を上げることが重要だと思います。


藤井様

そうですね。物販販売や、ECサイト(注4)を持っている美容室もありますね。顧客単価の向上以外に、経営課題としてますます重要になるのが、人的資本の最適化も含めた生産性の向上です。これは美容業界だけに限らず、飲食業界、介護業界など、全てのサービス産業の企業に当てはまります。パート・アルバイトのシフトの最適化、長時間労働の是正、従業員の離職率の改善、さらに定着率の向上と能力の開花。そして生産性の向上。これらは、人口減少社会の中で経営を行う、全ての企業の重要な経営命題だと思います。そうした社会構造的な課題解決にリクルートグループはお手伝いをしていこうとチャレンジしています。

注4 ECサイト:自社の商品やサービスを、インターネット上に置いた独自運営のウェブサイトで販売するサイト


高井

リクルートとしてビジネスになっているのですか。


藤井様

はい。今後日本の人口は減少していきますので、採用に加えて活躍にもビジネスの力点をシフトしてゆく。これからは人口知能やピープル・アナリティクス(注5)など利活用して、希少な人的資本の最適化を支援する。時期は明言できませんが、そうしたような方向により進んでいくと思っています。

注5 ピープル・アナリティクス:人材・組織に関するデータを活用することで、生産性を高めて従業員に合った部署に配属したりすること。


高井

酒井さんは様々なデータ収集をしているとのことですが、今後そのデータをどう活用していきますか。


酒井様

我々のようなコンサルティング業務の一番の付加価値は、クライアントと対話を重ねて課題を正確に抽出し、改善策を提案し、実行を伴走することだと思っています。そのためには、課題を正確にえぐるための感度の高いデータが必要になります。従来は会計データに基づく分析から課題にあたりをつけて掘り下げていくことが主流でしたが、IoTの発達等もあり、非会計データが容易に収集できる時代になりました。先ほどの美容業界の会社のように、来店頻度等の非会計データの方が課題に対して分析感度が高く、より効果的な改善行動を計画しやすいのです。昨今、AI(人口知能)は士業の仕事を奪うと言われることが多いですが、クライアントと対話を重ねて、KPI(注6)を設定し、何をキーとして向き合っていくか。そのためにはどんなデータが必要で、どのように収集する仕組みを構築するか。一部の分析作業はAIに置き換えることが可能ですが、これら一連のファシリテート(注7)プロセスは人間にしかのできないと考えています。したがって、データを適宜活用しながら、高品質なファシリテートを実行していきたいと思ってます。

注6 KPI:企業目標の達成度を評価するための主要業績評価指標のこと。

注7 ファシリテート:会議やプロジェクトなどの集団活動がスムーズに進むように、また成果が上がるように支援することをいう。


高井

藤井さんの今後の目標をお聞かせください。


藤井様

日本だけの問題で言うと、急速に労働人口が減っています。今までの人材ビジネスは、良い人が採用できるかが鍵でしたが、それは人口が多くいた時のパラダイム。働き手が少なくなっている今は、入社後にどう活躍するかに軸足が移っています。しかし一人では活躍できませんので、どのようにして人を組み合わせるかが問われます。経営戦略との組み合わせ、業務との組み合わせ、組織との組み合わせ、生活との組み合わせなど、組み合わせをするポイントはかなり多くなってきました。一方で、AIテクノロジーの登場で、そうした無限の組み合わせに、きめ細かく向き合える機会も広がっています。利器を上手く使いこなし、一人一人が輝き活躍できる組み合わせを提供する。そんな社会になると良いと思っています。

 

高井

本日は色々なお話をありがとうございました。   

---------------------------------------------------------------------

本年10月に開催いたしました特別セミナー「AI(人工知能)が拓く未来 ~人事労務分野への影響を探り可能性を考える~」の開催報告はこちらをご覧ください⇒AIセミナー開催報告

 

以上

 

この記事にコメントをする
  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第7回目です。
  • 第7回目は トッパン・フォームズ株式会社元代表取締役社長福田泰弘様です。
■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第7回)■ ■ ■ 
福田泰弘様 
(トッパン・フォームズ株式会社 元代表取締役社長)
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

[福田泰弘様のご紹介]

1935年兵庫県生まれ。神戸商科大学(現兵庫県立大学)卒業後、凸版印刷株式会社入社。1990年同社取締役就任。1993年常務取締役関西支社長就任(兼パッケージ事業本部副事業本部長兼関西商印事業部担当)、1995年トッパン・ムーア株式会社(現・トッパン・フォームズ株式会社)代表取締役社長就任。2004年代表取締役会長就任。2012年同社退職後に一般社団法人ユニバーサルコミュニケーションデザイン協会理事長、eBASE株式会社取締役(現任)等歴任。神戸在住。

小生が、開催していた「社長フォーラム」に熱心に参加いただいたのがご縁で、お付き合いいただいております。現在は引退され、チャーチル会に所属して絵を描いたり、囲碁を楽しまれたり、旅行、ゴルフと、なお精力的に活動されています。今回は、同じく「社長フォーラム」第30期から最終回まで参加されていた株式会社ことば未来研究所代表取締役 鮒谷周史様、神戸在住の学校法人塩原学園 元学園本部長塩原一正様、石草流いけばな 奥平清祥様とともに、福田様に「老いの楽しみ」の極意についてお伺いいたしました。

 

[今回のインタビュアー・同席者は以下の通りです]

  • 奥平清祥様(石草流いけばな)
  • 塩原一正様(学校法人塩原学園 元学園本部長)
  • 鮒谷周史様(株式会社ことば未来研究所 代表取締役)
  • 高井伸夫

5人写真

左から鮒谷周史様、塩原一正様、高井伸夫、奥平清祥様、福田泰弘様 
神戸ポートタワーを背景に
取材日 2016年9月30日 
(場所)神戸メリケンパークオリエンタルホテル 14階 中国料理「桃花春」

 

高井

お久しぶりです。引退されて、「老いの楽しみ」は何ですか?

 

福田様

趣味でしょうか。絵やゴルフ、碁などです。絵ではチャーチル会(日曜画家の集まり)に所属しています。私が凸版印刷に入った時の最初の社長が、チャーチル会の創立者の1人でした。そんな縁で、チャーチル会に所属し、定期的に開催される展覧会等に出品したりしています。趣味とは童心にかえる事と思います。家から徒歩10分圏内のところにアトリエと称した部屋があります。そこで童心にかえり楽しんでいます。

 

高井

絵画について、自慢話をお聞かせ下さい。

 

福田様

何年も前の話ですが、アメリカの経済紙「フォーブス」の顧問をやっていた、アメリカの元国防長官が日本にやってきた際に野村証券の人と3人で食事をしました。その時に、私が絵を書くという話をしましたら、「ちょうどよかった。NYにあるフォーブスの美術館でビジネスマネージャーの集まりの展覧会をやるから、絵を出品しないか」と言われて、せっかくだから出しましょうと約束をしました。ところが、大変なことになってしまいました。というのも、上手でも下手でも、30号の大きさの絵を運送するということは、美術品の運送になりますので・・・。

 

高井

運送料がとんでもなく高いと思います。いかがでしたか?

 

福田様

そうなんです。保険料がむちゃくちゃ高くて、何十万円もする。僕の絵はそんな高いものではありませんから・・・。やっぱり出品しなくていいよと言いましたが、そういうわけにはいかないということで運ばなければなりませんでした。それでアメリカに転勤する若い社員がいたので持っていかせることにしました。ANAに頼んだら引き受けてくれました。若い社員をビジネスクラスに乗せまして、絵画を手荷物として機内に持ち込みました。そしたらそのANAのスチュワーデスがえらく親切にしてくれたようで、その後結婚、ゴールインしてしまいました。

 

奥平様

キューピットですね!

 

福田様

それからうちの会社で、私は縁結びの神様になっちゃいました。私の荷物を持ちたいと言うやつが増えて・・・(笑)。本当に不思議なものですよ。こんなこと夢にも思いませんでした。

 

高井

それで、展覧会は成功したのですか?

 

福田様

薬師寺を描いたのですが、みんな見に行ってくれました。ただ、見に行っても写真撮影はダメで、撮影した写真は全部没収でした。フォーブス美術館のVIPルームに通されて、そこでフォーブスの社長に会ったのですが、大変でした。あんな赤っ恥をかいたのは始めてです。フォーブスですから、雑誌の記者が10人くらい、ずらーっと並んでいまして、私はてっきり絵の話が出るのかと思ったら、日本経済の状況について聞かれて・・・そもそも美術の話だと思っていたので、インタビューの回答は、もう全然ダメでした・・・。

絵葉書

当時描かれた絵ですが、上記絵葉書になったとのことです。

 

高井

インタビュー記事はフォーブスに載ったのですか。

 

福田様

僕のアホみたいな経済の話は載りませんでした。いやあ、本当にあれはすごい思い出になりました。

招待状

当時のカクテルパーティ招待状、美術展出展者リスト

高井

絵以外の趣味は何ですか。

 

福田様

やっぱり碁でしょうか。ボケ防止です。アマチュア8段です。ただ、8段というと連敗しますので、あまり人には言いません(笑)。碁というのは、一度段を取ると落ちることがありませんが、年々実力は落ちています。

 

鮒谷様

囲碁はハマってしまうと、面白すぎて仕事どころではなくなってしまいそう、という印象がありますが、現役時代はどのくらい碁をされていましたか。そもそもいつから碁をやっていたのですか。

 

福田様

私は中学1年で碁を覚えまして、学生のときは「語学」は英語ではなくて、「碁学」でした。学校行って、碁を打って、時間になると帰って・・・。もう、その頃に5段くらいになっていました。英語は全然できない。職員室で先生と碁を打っていた。お前は受験勉強をしなくてもいいのか、と言われて、いやいや碁学をやっていますと言いました。

それ以外に、ゴルフもけっこうやっていますし、旅行にもよく行っています。

 

高井

「老後の苦しみ」はありますか?

 

福田様

そうですねえ・・今まで、どこに行っても大御所、大先輩という人がたくさんいました。今はどこに行っても、長老と言われます。乾杯の音頭をとれとか、なんやかんや言われて、俺はまだ若造なのになあと思います(笑)。

 

高井

81歳というともう長老ですが、福田さんは好奇心の塊なんですね。ところで、一番の失敗は何ですか?

 

福田様

やっぱり僕は、“忘れんぼ”です。海外で、パスポートを2回取られました。そういう時に限って普段は少ないのに財布に大金が入っている。旅行の初日に、全部なくしてしまいました。1回目はハワイです。15年前です。その次が香港です。ハワイで、最初に取られたときは、社員が一緒でした。皆に笑われました。まず再発行の時、パスポートの再発行の際には、写真を撮りますが写真屋のおっさんにバカにされて・・・(笑) こんどは領事館に行くと、領事館のおばちゃんにバカにされて・・・こんな日本人いるんだなと、それからJALのおっさんにバカにされて・・・。散々でした。

香港の時は嫁さんと一緒でした。盗まれる5分前に、あなた、財布は私が持つと言われて、財布は渡していました。

 

高井

それはよかったですね。

 

福田様

それが、セカンド財布を持っていたのです。日本円を入れているお財布を渡して、香港のお金を入れた財布を取られまして。パスポートも。それが、この時はついていまして、お金は戻ってこなかったのですが、パスポートだけはかえってきました。ついていたんでしょうね。

 

高井

仕事での失敗話はありますか。

 

福田様

印刷屋というのは、ミスがよくおきます。印刷屋はミスをおこす産業であると言われていますから。その中でもよく覚えているのは、お酒の容器としてビンに変わり紙容器がはじまった頃です。そこからお酒が漏れちゃいまして、それが、全国の酒屋さんに配送した後だったのです。全国から回収するのに、めちゃくちゃお金がかかります。

 

高井

どのくらいの損害だったのでしょうか。

 

福田様

数億円くらいです。原因は、結局は、”経験不足“でした。

 

高井

印刷屋はミスの連続、そして経験こそ、成功のもとですね。

 

福田様

本当にそう思います。基本を忠実に守ることが大切です。漏れてしまった酒造会社の社長さんがとても良い方で、とにかく何年かかってもいいから償却しろと言って値段を上げてくれたり、全部印刷の仕事をいただいたりしまして、なんとか、損害を少なくすることができました。温かい心に感激したことを思い出します。

 

高井

では、「よくやった、神様はいたんだ!」という出来事はありますか?

 

福田様

私は、振り返ってみて一番よくやったというのは、私が社長になったことです。私が社長になった、これがやっぱり不思議なこと、ツキですよね。私はトッパンで社長に一番縁のない存在でしたが、ドンと指定されました。麻雀のパイと一緒じゃないでしょうか。たまたまめくってみたら福田って書いてあったからというように。それから、人生やビジネスでツキが大きなウェートをもち、そのツキを呼びこむ努力をしていくことが大切と考えるようになったんです。

 

高井

人生の中で、神様がいるなと思った瞬間はありますか?

 

福田様

私がトッパン印刷から、トッパンムーア(現:トッパン・フォームズ(株))に転勤するという任務がありまして、ちょうどそのころ電通で年賀会がありました。その年賀会で占い師が何人か来ていまして、20人くらい列をなしていたのですが、1人だけ空いている占い師がいました。サイコロ占いです。サイコロ転がすだけ。こんなの当たるわけないと思いつつも、試しにみてもらいました。私が3個のサイコロをころがすと、その結果をじっくりながめて、「あなたは職を変えますね」と開口一番に言われました。驚きました。それで「あなたは東の方向へ行きます」と。当時、大阪にいたのですが、トッパンムーアは東京でしたから東へ行くというのは当たっていました。「東へ行く。あなたは数年間素晴らしい運勢だ」「あなたはそれを信用して、こちらの職に変わりなさい」と言われたのです。それでトッパンムーアに着任した日の挨拶で「この会社のスタッフはいりません。1人だけ占い師を雇います。」と言いましたら、従業員にえらく恨まれました・・・。そんなこともあって、トッパンムーアでどんなにピンチになっても、俺の運勢はついているんだから、俺の言うことを信じろと言い続けることができました。

 

高井

話は変わりますが、福田さんは現在はどんな方と親しくされていますか。

 

福田様

中学の時の友達で常時会っているのが1人、高等学校で常時会っているのが2人、大学で常時会っているのが5人、凸版系の会社で会っているのが10人前後、あとは、圧倒的に、この学校友達、会社友達以外です。1つは、お客さんとしてお付き合いしているなかで、いつの間にか、家族同士でお付き合いしている方。なんとなく意気投合しちゃう、こういう方が意外と結構います。もう1つは、旅に出て、たまたま行程が一緒になった人、そういう偶然の人が結構あります。それから、もう一つは絵、囲碁、ゴルフなど共通の趣味を通して、又、その先生を通しての知り合い、これは結構、国際的な感じで海外の方も多いです。親しい方は一番の財産です。

 

高井

幅広い人脈をお持ちなんですね。今日は色々な話を聞かせていただきありがとうございました。

 

---------

福田様は、関西人らしく、笑顔と笑いの絶えない快活、愉快な方です。81歳という年齢にもかかわらず、大変お元気で、多芸多趣味でいらっしゃって、久しぶりにお会いしましたが、あっという間に時間が過ぎてしまいました。福田様は年に10回ほど旅行をするというほどで、絵画や囲碁、ゴルフなど趣味に超多忙な日々を過ごされていましたが、また2年後にメンバーを1~2名増やして会合を開催する約束をしました。

以上

 

 

この記事にコメントをする
  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第6回目です。
  • 第6回目は 遠藤拓郎先生、大野裕先生、山岡昌之先生(50音順)です。

 

■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第6回) ■ ■ ■

 

  • スリープクリニック調布 院長 遠藤拓郎先生
  • 一般社団法人 認知行動療法研修開発センター
    理事長 ストレスマネジメントネットワーク 代表 大野裕先生
  • 日本摂食障害治療研究所 所長 山岡昌之先生


■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

 

先生方と高井のお写真

左より、大野裕先生、高井伸夫(列後ろ)、遠藤拓郎先生、山岡昌之先生
取材日 2016年7月24日京懐石みのきち新宿住友ビル店


[先生方のご紹介] (50音順)

(スリープクリニック調布 院長 遠藤拓郎先生)

東京慈恵会医科大学卒業、医学博士 睡眠学会認定医師 日本精神神経学会 精神科専門医

スリープクリニック調布、スリープクリニック銀座、スリープクリニック青山を開院し、現在は調布院長。祖父は小説「楡家の人びと」のモデルとなった青山脳病院で不眠症の治療を開始し、父は日本で初めて時差ぼけの研究を行った。祖父の代から三代で、九十年以上睡眠研究を続ける睡眠医療の専門家。

 

(一般社団法人 認知行動療法研修開発センター 理事長 ストレスマネジメントネットワーク 代表 大野裕先生) 

1978年慶應義塾大学医学部卒、2011年6月より国立精神・神経医療研究センター認知行動療法センター所長。日本認知療法学会理事長。日本ストレス学会副理事長。うつ病などに対する認知療法の権威であり、専門書や一般向けの著書を多く執筆している。

 

(日本摂食障害治療研究所  所長 山岡昌之先生)

1973年東京医科歯科大学医学部医学科卒。1977年より、国家公務員共済組合連合会九段坂病院内科に勤務。

日本心身医学会や日本摂食障害学会の理事、日本心療内科学会の副理事長などを務め、摂食障害治療をリードしてきました。診療の際には全人的医療を心がけ、特に母子の信頼関係の確立を目指す再養育療法(注1)に力を入れている。2013年3月で九段坂病院を定年退職し、日本摂食障害治療研究所所長に就任。専門機関での研究と診療に従事する。

また、摂食障害の支援・啓発・予防を目指して、2016年3月に設立された、日本摂食障害協会の理事も務めている。

注1 再養育療法:摂食障害の患者さんには、しばしば「退行」(子供・幼児返り)現象が見られる。退行する心を受け止め、親子関係(特に母子関係)をもう一度構築しなおし、育てなおす治療法を「再養育療法」という。

 

【今回のインタビュアーは以下の通りです】

  • 弁護士 髙井伸夫

 

 


 

高井

本日はお集まりいただきありがとうございました。先生方の近況をお伺いしたいと思います。まずは大野先生、近況を教えてください。

 

大野先生

私は5年前に、国立精神・神経医療研究センターにできた認知行動療法センターへ慶應大学病院から移りました。去年の3月に定年になり飯田橋に事務所(ストレスマネジメントネットワーク、大野研究所)を作りました。現在は、基本的には研修や講演が中心で、企業内診療所での診療なども行っています。ストレスチェックが始まったので、その関係の講演もよくあります。

 

高井

ストレスチェック制度の導入には企業の研修が必要ですか。

 

大野先生

研修は必要ありませんが、現在のストレスチェック制度には3つの課題があると私は考えています。それは、高ストレス者でも手を挙げる人がほとんどいないという課題、高ストレス者の面談が1回では終わらず継続的なフォローが必要になるという問題、そして、手を挙げなかった高ストレス者に対する保健指導をきちんと行うという課題の3つです。

高ストレス者の医師面談をEAP(注2)などの外部機関に委託する企業も少なくありませんが、外部の医師では企業の実状がわからず、現実に即さないアドバイスをされるリスクもあります。そうしたリスクを避けるためには、企業の中で実施できる人材を育てる必要があります。私が事務所を立ち上げたのは、そうした人材を育てるための研修を実施するためです。最近は、(株)リクルートスタッフィングと一緒に、保健師さんや看護師さんにストレスチェック後の相談に乗れる「ウェルネスアドバイザー」の研修をして派遣するという事業に取り組んでいます。私が監修しているウェブサイト『こころのスキルアップトレーニング』を企業でのメンタルヘルス不調の予防に活用する実証研究にも取り組んでいます。

注2:EAPとは Employee Assistance Program の略であり、従業員支援プログラムのこと

 

遠藤先生

ストレスチェックは労働者のためですか。それとも企業のためですか。

 

大野先生

もともとは労働者のためですが、メンタルヘルス不調による経済損失の大きさを考えると企業のためでもあります。

 

高井

次に遠藤先生の近況を教えて下さい。

 

遠藤先生

実は僕のキャリアの半分くらいは基礎医学です。北大の講師をしていましたが、実家の病院へ戻りまして、実家が古くからの精神病院だったのですが、自身のキャリアを拡げようと思いまして、スリープクリニックというのを作りました。そうしたらありがたいことに全国から患者さんが来て、銀座と青山にもスリープクリニックを作りました。北大から東京へ帰ってきた時に、もう学問はやめようと思い全部投げ捨てて帰って来たのですが、縁あって最近は女子栄養大学の客員教授になり、慶應大学でも睡眠外来をやるということになりました。どんどん睡眠のフィールドが広がってきているというのが現状です。

 

高井

具体的にはどういった治療を行うのですか。

 

遠藤先生

実際には僕らは患者さんが眠れないといってもその人の話を聞くことはありません。睡眠計を患者さんに付けてもらいます。昼も夜もずっとつけてもらいます。この睡眠計は昔は100万円くらいしましたが、今はおそらく数千円です。腰につけてもらいます。

 

高井

それはどうやって分析するのですか。

 

遠藤先生

コンピューターで一瞬で分析できます。JRの運転手さんがちゃんと寝ているのかとか、眠れないと言う不眠症の患者さんが実は昼間に5時間寝ていることも分かります。実際に本当に眠れていないと言う人はほとんどいません。どこかで眠れています。診察で、眠れる、眠れないという押し問答のような患者さんとのやり取りは一切しません。データではこうですよと言って、治療の方針を決めます。

 

高井

山岡先生の近況を教えて下さい。

 

山岡先生

2013年3月まで九段坂病院で副院長をしておりました。65歳になり九段坂病院を辞めて、私の孫弟子が池袋で開業したので、同年4月より、私はそこを助ける形でやっています。私は摂食障害をずっと専門にしていますから、九段から200名くらい摂食障害の患者さんを連れてきて、原則新患を取らない形で診ています。

母校では今でも医学部学生に対し、「心身症と摂食障害」の講義を頼まれてやっております。その他心療内科医として、いろんなことをやっています。

摂食障害の治療との関係で、最近はオキシトシンにはまっています。近年オキシトシンに関する研究は活発で、すごい勢いで世界中から論文が出ています。摂食障害に関しては、オーストラリアと韓国で拒食症に対し、オキシトシンの鼻粘膜投与に関する治験が始まっています。

摂食障害の治療に携わっているなかで再養育療法という治療法を開発して母子関係のところにどんどん入りこんでいきました。ピュアな摂食障害というのは母親を強く求めます。他の障害との併存がないようなケースでは、再養育するだけで、ほとんどがよくなってしまいます。再養育療法でどうしてよくなっていくのか理由がわからなかったのです。そこで、はたと気が付いたのがオキシトシンでした。

オキシトシンの研究者によると、オキシトシンは母子間に相互的な強い絆を形成する、すなわち愛着を引き起こすホルモンということで脚光を浴びましたが、もともとは、分娩や、乳汁分泌の場面で見つかった物質です。今は心の領域にも非常に関係しているということが分かってきて、アメリカでは統合失調症とか、自閉症に投与が始まっています。

他のホルモンはネガティブフィードバックでコントロールされるのに対し、オキシトシンはポジティブフィードバックで分泌されており、オキシトシンの分泌は、更なる分泌に通じる面白い機序(注3)でコントロールされているホルモンです。

注3 機序:しくみ、機構、メカニズム

だいたい2歳、いわゆる臨界期と言われている1歳半から2歳くらいまでの間に、人間の心の基盤は作られるようです。このオキシトシンを分泌するシステムが十分に機能するようなものを持っている人は、ストレス耐性があるということがわかってきました。

オキシトシンはどういう仕組みで分泌されるかというと、皮膚への適度な圧によるマッサージや、関節や筋肉が動かされることによって感覚神経が活性化されると、オキシトシンが脳内で分泌されるということが全ての哺乳動物で分かっています。したがって理学療法の効果の一部はオキシトシンの効果だと言われています。論文も多く出ています。オキシトシンとエンドルフィンが関係するというのも分かってきました。今までエクセサイズでランナーズハイというとエンドルフィンしか分かっていなかったですが、実は運動することによって関節・筋肉が動かされてオキシトシンが分泌されて、さらにエンドルフィンが分泌される。これが1つのサイクルになっているというのが分かってきました。

つまり、このオキシトシンがエンドルフィンの放出を促すので、オキシトシンは運動とエンドルフィンをつなぐ生理学的なリンクのひとつと言えましょう。

 

高井

山岡先生もおっしゃいましたが言葉で語るより体を触った方がよいということがあります。古代医学、原始医学では、三つの方法で治したといいます。1つ目は愉気、祈り、2つ目は手当、3つ目は看護。ある動物は、病気になった個体の周りに座るんだそうです。そしてじっと病気の個体を見つめ、病気になった個体は見つめられていると治っていくと聞いたことがあります。看護の世界、愉気というのは祈りをささげることです。これは脳が一定レベルに発達した動物にみられる現象と何かの本で読んだことがあります。

 

大野先生

原始的、瞬間的な反応の1つに「パニック発作」があります。何かのきっかけで急に不安が強まり、心臓の鼓動が高まる。顔は青ざめ、手のひらや足の裏にじっとりと汗がしみ出してくる。体の反応にこころが反応してますます不安が強くなり、そのために体の反応も強まっていく。こうしたこころと体の悪循環が急激に起きるのです。原始時代の体の反応だと思います。

私達の祖先は、例えば天敵に襲われそうになって危険を感じるとき、緊張して戦闘態勢に入りますが、こうした心身の変化は、原始時代には必要でしたが、動物と闘う必要のない現代社会ではかえって負担でしかないでしょう。パニック発作が現れたときには、そう考えて冷静になれると不安はやわらぐのではないでしょうか。

 

山岡先生

瞑想はオキシトシンの分泌を高めるというデータもあるようです。

 

遠藤先生

オキシトシンはタブレットで補充するのですか。

 

山岡先生

胃液で消化・分解されてしまうので、ダメです。注射か、鼻粘膜投与、その2つしかありません。

 

高井

話は変わりますが、認知症は、インド医学によると冬瓜を食べるといいそうです。冬瓜を食べると認知症にならないと聞きました。

 

山岡先生

米ぬかも良いと聞きます。実際に使われているようです。すでに栄養食品として売られております。精神科と神経内科の中で認知症を専門にしている先生たちがその知見の広報に努めておられます。ただの米ぬかではありません。それから抽出されたフェルラ酸という成分が有効とされております。

 

高井

ところで遠藤先生は日経によく出ますね。

 

遠藤先生

新聞もラジオも、睡眠というと、根拠がよくわからない内容の発言をする人も多いので、医者、学者がちゃんとしたことを言わなければならないと思い活動しています。睡眠はまだ体系化されていません。でもすごく大事な分野ですし、医学としてもちゃんと確立されるべき分野ですし、商品として、寝具、寝方などはちゃんとしていかなければならない。世の中によくわからないものが多すぎるので、医者である僕が出て行って、たとえば生理学的にいうと、人間にはこういう特性があるので、こういうふうな寝具を選びなさい、こういうふうな寝方をしなさいということをちゃんと言わないと、この業界全体がいかがわしい業界になってしまうという危機感があります。

 

山岡先生

遠藤先生の睡眠ですが、私はよく患者さんに、「治療において睡眠が一番大事」「体の病気も心の病気も睡眠がとれていることが一番自然治癒を促進するとお話しています」これは真実だと思います。

 

遠藤先生

間違いないです。

 

山岡先生

眠りが、一番害がなく一番確実に治せます。

 

遠藤先生

基本的には僕の場合は眠りが定量化できているので、その人がいい睡眠がとれているのかどうかがすごくよくわかります。もともと僕は精神科医です。メンタルとスリープ両方に問題がある場合、私は意図的に、メンタルは治しません、睡眠しか見ません、と言っています。睡眠しか見ないと言うのは、睡眠計しか見ないということです。それは意図的にやっています。睡眠を治すとメンタルも自然に治ってしまう場合があるからです。ですから、患者さんでメンタルに複雑なものを持っているなと思いながらもわざわざ聞きません。

 

山岡先生

ところでアルツハイマー病の治療とオキシトシンのことですが、アルツハイマー病の人は、記憶がなくなってしまう不安の世界にいます。高井先生はユマニチュードをご存知ですか。

 

高井

知りません。

 

山岡先生

ユマニチュードとは、フランス発祥の認知症ケアの方法です。「ちゃんと目を見る」「積極的に話しかける」「優しく触れる」「自分の足で立つ」というコミュニケーションの4つの基本手法があり、フランス、ドイツ、カナダなどで盛んにおこなわれております。要するに、人としてアルツハイマーの人に対応すると不安が取れる。NHKテレビでも取り上げられていました。このユマニチュードの効果はオキシトシンによるものだと私は考えております。要するに、アルツハイマー型認知症の患者さんにきちんと対応すること。認知症のせいで他の人から、なかなかきちんと対応された経験がなくなっている人に、動物的にはおそらく、自分は大切にされているとか、この人は危害を加えない人だとか、そういう安心感が与えられると、そこに、心の交流を含めた安心感ができてオキシトシンがさらに分泌されると思います。理学療法では、患者さんばかりでなく施術者もオキシトシンが分泌されることが分かっています。ユマニチュードでも同様の現象がアルツハイマー病の患者さんと治療者に起きていると思われます。ユマニチュードを行うと、うつ状態や暴力的になったりする人も、穏やかになり、「魔法のよう」とその効果が紹介されることもあります。

 

高井

アルツハイマーが治るの?

 

山岡先生

治るわけではありません。ただドタバタしている症状が起こらなくなる。ユマニチュードは国際的にも有名です。ユマニチュードを実施している人たちは、オキシトシンが関与しているとは話されておりませんが、私はオキシトシンが深く関わっていると思っております。

 

高井

今日は色々なお話をありがとうございました。

 

以上

 

 

この記事にコメントをする
  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第5回目です。
  • 今回のゲストは、諸戸林業株式会社 環境林業部 取締役 御代川彰徳 様です。

 

■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第5回) ■ ■ ■
諸戸林業株式会社
環境林業部 取締役 御代川彰徳 様
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


[諸戸林業株式会社 環境林業部取締役 御代川彰徳 様とのご縁について]

昭和31年(1956年)に父に連れられて渋谷の南平台の諸戸精文氏を訪ねたことがある。山林王の1人であったが、その時からすでに木材の将来性をおおいに危惧されていた。小生の父は三重県桑名郡古浜村の生まれだが、諸戸精文氏は三重県桑名市において山林業を営んでいたので面識を得て、仕事を父が頂いていたのではないかと思う。そんな縁があってか、小生は父に連れられて南平台のお屋敷にお邪魔したのだろう。

その後、修習時代に弁護士修習の指導教官であった小川保男先生に師事したことによって林業への理解を深めた。小川保男先生はかつて林野庁に勤務されていて山林のことにも詳しかったのである。そして小川先生は山林に関するエッセイを書いておられて、それを本にまとめられていた。小川先生によって小生も山林のことについてさらにいささかの知識を得たのである。その後、小生は農業に関してエッセイ等を書いたが、山林については全く触れることができなかった。ところが、今年になって、ひょんなことから諸戸精文氏のことを思い出して諸戸林業を訪れることになったのである。諸戸精文氏はすでに鬼籍の人であったが、現在は諸戸清光氏が5代目社長であった。諸戸精文氏は2代前の社長で、諸戸林業3代目社長であったのである。

山林の実情を聞こうと思い会社に手紙を出したところ、御代川彰徳様が指名されて私の対談に応じてくださったのである。御代川氏との対談は諸戸林業の丹沢の山林事務所で1時間ほど行ったが、大変すばらしい人柄の良い方で闊達に話してくださった。

最後に話が終わってから「BOSCO」という名のキャンプ場を見せてもらった。そこはまさに千客万来であって、諸戸林業にとっては、利用されたお客様に金銭的に山林の手入れを支えて頂いていることになる重要な部門だということだった。

 

諸戸林業:三重県亀山市、津市、名張市、神奈川県秦野市、静岡県加茂郡南伊豆町、松崎町に山林を保有
http://www.moroto.co.jp/group_list/moroto_forest.html 

諸戸林業丹沢事務所

写真は、諸戸林業丹沢の山林事務所2016年9月11日撮影

【今回のインタビュアーは以下の通りです】

  • 弁護士 髙井伸夫
  • 高木光彦庶務・ドライバー

(取材日 2016年9月11日10時~11時 於:諸戸林業丹沢の山林事務所)

 


 

高井

丹沢の諸戸山林は今、従業員は御代川さんを入れて3名だそうです。山から木を切り出す場合も含めて総員何名ですか?

 

御代川様

10名です。丹沢に3名、キャンプ場に1名、後はアルバイト5~6名で、他に三重県中津の山に1名です。

他に製材所が在りそこに3名、販売メインの担当者が1名です。確かに、人を多く採用し、生産力を上げればそれだけ売り上げは上がるかもしれません。しかし、木材が値下がりしている今の状況で、多量の木を切り出してしまっていいのか、先代が植えた大切な木をそのような売り方でいいのかという考えのもとに、できるだけ人員を最低限に配置しています。

 

高井

御社の本社はどこですか?

 

御代川様

三重県桑名市です。東京支社は丸の内です。弊社は森林認証制度を取得しています。SGECはきちんと管理されている山という事の認証機関です。

※SGECとは
一定の基準等を基に適切な森林経営や持続可能な森林経営が行われている森林及び経営組織などを認証している機関です。

 

高井

僕は3代目の諸戸精文さんにお会いしたことがあります。諸戸氏はその時はもう60歳か70歳くらいでした。

 

御代川様

後ろに写真があります。今の社長は5代目で清光氏です。4代目は現在会長の精孝氏です。

 

高井

江戸時代の写真もありますね。こちらは丹沢事務所の写真ですね。

 

御代川様

この丹沢山林を取得したのが明治29年です。当時は荒廃した雑木林だったそうです。その時代は木を燃やして燃料にしていたから、それを切りながら、一気に木を植えるように地(じ)拵(ごしら)えしていきました。

植林に着手したのは明治31年です。植林にあたり紀州産の檜(ひのき)の苗木を採用しました。

船で大磯港か二宮港まで、そこから馬車あるいは馬の背に乗せて運び、更に山道は馬の背に乗せたり、人が持ったりしながらヤビツ峠を越えて運搬したと言われています。植林も結構山の上の方まで植えられています。

植える場所も考えられています。杉と言うのは水を好むので沢沿いに植えているんです。広葉樹は養分が下に落ちていくということで、欅(けやき)などを尾根沿いに残したようです。中間部に檜を植えて、沢沿いに杉を植えているというわけです。

 

高井

『諸戸百年檜』とはどういう木ですか?

 

御代川様

この丹沢山林は900haで、樹種はだいたい檜が80%、杉が20%です。実は諸戸の100年の木はそんなに太くなくて、直径40cm弱くらいです。

木を植えるところから密度管理をしています。木の成長を抑えることで、年輪の密に詰まった高品質な木が育つからです。今は1haあたり2500本くらいの密度ですね。2500本は密植とは言いません。諸戸は通常8000本で間引きするのですが、それもあまりしませんでした。

もうひとつの理由は木が真っ直ぐに伸びることです。空間があいてしまうと木が光のある方へ伸びてしまいます。だから、真上の方にだけ光が当たるように適度な密度に調整しているのです。

 

高井

どこに卸しているのですか。直接販売もしているのですか?

 

御代川様

うちは販売経路も持っています。建築材料としては、住宅から公共施設、寺社仏閣など幅広くご使用いただいています。販売先は有名なところも多いです。直接、消費者に販売するようにしていますが、実際は原木市場や工務店、問屋にも出しています。

寺社仏閣に使用されていると言いましたが、実は有名な文化財になると、110年の木でもまだ若いと言われてしまいます。最低でも150年の木が求められます。

 

高井

将来性のある事業所はどこになるのですか?

 

御代川様

将来性と言いますか、実は林業は今なかなか厳しくて、本業だけですと成り立たないのが現状です。キャンプ場事業や別部門でゴルフ場事業も行っています。林業部門はキャンプ場事業で補っている部分もあります。

もちろん補助金もあります。しかし、補助金には将来性がありません。私たちの目指しているのは補助金がなくなっても、山を維持できる体制を作ることです。

 

高井

キャンプ場はいかがですか?

 

御代川様

はい、順調です。しかし、キャンプ場運営は黒字を追うためだけではありません。山をより良くしていくためという目的もあります。

キャンプ場のご利用を通して、お客様に自然や山のすばらしさを感じてリフレッシュして頂き、その対価として利用料を頂いて、その収益をもとに山を更に良くしていく。間接的にお客様に山林の手入れを支えて頂いている、山へ投資して頂いている、というように考えています。

キャンプ場はこの丹沢山林の諸戸の森内にあります。これからお連れする「BOSCOオートキャンプ場」は、なるべく地形をそのまま活かすよう作られていて、都心近郊にありながら自然が豊かなエリアです。BOSCOはイタリア語で「小さい森」という意味です。

お客様には食材だけ用意して頂いて、後はレンタルでバーベキューなどを楽しんで頂けます。キッチンは温水が出ますし、トイレはウォシュレットが完備されていて女性にも人気です。昆虫採集もできますよ。カブトムシは標高が高いので無理ですが、ミヤマクワガタが採れます。

今、キャンプブームでお客様も大勢いらっしゃっていますし、CM撮影などに使って頂いています。最近の某カレーのCMの背景はここなんですよ。

 

高井

林業は、木の値段はどんどん下がってしまっているのに、人件費は逆に上がっているのが厳しいところですね。

 

御代川様

そうなんですよね。諸戸の木は高い評価を頂いており、いくらか高価ではあります。ただ、高いと言っても、やはり市場の動向に引きずられて価格は落ちてきています。

 

高井

次にね、宮大工はどれくらいいるんですか?

 

御代川様

実はそんなにはいないです。私たちは社寺への販売もしているので、その繋がりで何名かはお付き合いさせて頂いています。

それから、地元の方々、ここでしたら秦野市近辺の棟梁達を大切にしています。以前、テレビ東京の番組「TVチャンピオン」の大工部門でチャンピオンになった方もいますよ。今、製材に関わる方も技術の継承に苦しんでいるようです。

 

高木

木を植えるというのは、何年先まで考えて計画立てているんですか?

 

御代川様

先代の方々の考え方がすばらしく、当時は皆さん、あまりそういうことは考えてなかったと思うのですが。100年先を見据えて、どういう作業をしたらよいか、など考えて完成図のようなものを描かれていたと思います。

諸戸家は初代から代々、山を売るなと言われてきていますので、それを守っていきたいと思っております。そのためにも、未来へ山を残すような設計をするべきで、私たちも模索中です。

 

以上

 

 

この記事にコメントをする

IMG_2421.JPG

2016年10月26日(月)8:28 千代田区三番町にてナデシコを撮影
花言葉:「大胆、純愛」

 

 

  • 話題のテーマについて各界で活躍されている人と対談をする一問一答形式のブログの第4回です。
  • 今回は、福山大学名誉教授大久保勲先生にお話をお伺いいたしました。

 


 

■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第4回)■ ■ ■

福山大学 名誉教授  
大久保 勲 先生 
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


[福山大学名誉教授 大久保勲先生 ご紹介プロフィール]

 
東京外国語大学中国語科卒。1961年東京銀行入行。1971年4月から3年1ヶ月日本日中覚書事務所駐北京事務所へ出向、1983年5月から3年2ヶ月東京銀行北京事務所長、1994年2月から再度東京銀行北京事務所長として赴任し、1996年4月の三菱銀行との合併で東京三菱銀行駐華総代表となり、1998年3月まで4年2ヶ月北京で勤務、合計10年5ヶ月の中国勤務をされた。2001年4月から2014年3月まで福山大学経済学部教授(09年から客員教授)をされ、その間2010年4月から4年間福山大学孔子学院長を兼務、現在は福山大学名誉教授、中国経済経営学会その他の日中関係学会、団体の顧問をされている。

大久保勲先生お写真

[今回のインタビュアーは 以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 久佐賀義光様  

(対談は2016年8月16日に行いました。於:露山会館)

 

~大久保勲先生に聞く中国経済関係について~

 

高井

初めまして。大久保先生は福山大学の先生をされていたそうですね。今日は中国経済についていろいろとお話を聞きたいと思いますので宜しくお願いします。

 

大久保先生

初めまして、どうぞ宜しくお願いします。私は現在の三菱東京UFJ銀行の前身である東京銀行へ入行し、最初の10年間は全く普通の銀行マンでしたが、その後の30年間は中国関係一本で仕事をし、北京で通算3回、10年余の勤務をしました。その後は福山大学経済学部教授、客員教授として13年間中国経済等を担当し、経済学部長も4年間務めました。最後の4年間は、福山大学孔子学院長を兼務して、たいへんよい経験をしました。

 

高井

孔子学院とはどんな学校ですか。

 

大久保先生

孔子学院は中国の教育部(日本の文科省に相当)傘下の国家漢弁(HANBAN:教育部直属の事業単位のこと、HANBANとは漢弁の中国語読み)、孔子学院総部の指導の下、外国の大学が中国の大学の協力を得て運営する、海外への中国語教育の普及び中国文化のPRを行なっているもので、日本には14の孔子学院があります。最近の嫌中感の影響もあり、残念なことに日本の若者で中国語を学ぶ人が減少しており、中国への留学生が現在世界7位にまで落ち込んでいます。アメリカは中国と対立しつつも、毎年、劉延東副総理をトップに、米中人文交流ハイレベル協議を行い、長期的見地から双方の協力を強化しており、例えば、現在100万人の学生に中国語を学ばせたり、中国へ10万人の留学生を送り出す計画を進めています。

 

高井

大久保先生はどんな本を出されましたか。

 

大久保先生

1993年にジェトロの研究仲間で後に愛知大学教授となった今井理之氏と共編で亜紀書房から『中国経済Q&A100』を出版しました。これは台湾と韓国で翻訳も出されました。2004年に蒼蒼社から『人民元切り上げと中国経済』を、2005年に元中国大使館員の馬成三氏と共著で蒼蒼社から『2010年の中国経済』を出しました。その後は本を出していませんが、“21世紀中国総研”(www.21ccs.jp))という蒼蒼社の運営しているサイトに「大久保勲の人民元論壇」というコラムを持ち、51回ほど書いています。最近「”8・11相場改革“から一年――人民元対米ドル相場は上下に大きく変動して水準を徐々に下げる」と題して書きました。また、霞山会の「東亜」8月号に「人民元の問題点と今後の展望」と題する論文を書きました。

 

高井

大久保先生の中国経済のニュース・ソースは何処ですか。

 

大久保先生

いくつかの勉強会、定例講演会、シンポジウム等のほか、定期的なニュース・ソースは航空便で中国から取り寄せている「経済日報」と中国人民銀行サイト(www.pbc.gov.cn)及び「経済日報」のサイト「中国経済網」(www.ce.cn)です。

 

高井

私は3兆2千億米ドルの外貨準備を持つ金持ちの中国では経済崩壊など起こらないと思っています。大久保先生のご見解は如何ですか。

 

大久保先生

私は中国の状況を判断するのに、机の上の知識だけでなく、自ら中国を訪問し、また中国の役人や学者の話を出来るだけ多く直接聞くように努めています。私が初めて中国に駐在したのは1971年のことでした。日中覚書貿易事務所代表の岡崎嘉平太先生は、「君たちを北京に派遣するのは事務を執るためではない。中国の歴史を学び、中国の実情を知り、これから日本と中国はどのようにつき合ったらよいか、自分でよく考えなさい」と言われました。私たちは、何回も中国各地に出張しました。

中国は対外開放してからも、多くの困難に直面してきました。例えば、銀行の不良債権問題等です。そうした問題の解決に中国自身も努力しましたが、多くの外国の経済界の人たちや学者等も協力を惜しみませんでした。

まだまだ中国は、本当に多くの困難を抱えています。しかし、一年も欠かさず50年近く中国を見てきて、中国はどんな困難も克服できると確信するようになりました。

 

高井

IMFが建議した中国の企業債務と中国に債務危機が存在していないという理由を教えて下さい。

 

大久保先生

社会科学院学部委員で国家金融・発展実験室の理事長である李楊氏によれば、2015年末現在、中国の債務総額は168.48兆元で、全社会『レバレッジ率』(債務のGDPに対する比率)が249%となっています。住民部門が39.9%、金融部門が21%、政府部門が57.1%(地方融資の融資平台の債務17.7%を含む)、非金融企業131%で、国際比較すると非金融企業のレバレッジ率が高すぎる点が中国債務の問題です。この企業債務で国有企業部分の比率が65%に達しており、この国有企業の高い債務比率の解消が、中国債務問題のカギとなっています。

IMFは、いわゆる「第四条協議(※)」を終えて、中国の非金融企業の債務問題解決の重要性を提起しました。これは中国も十分認識していることであり、そのため特に年初来、鉄鋼業界と石炭採掘業界の過剰生産設備を減らすことに重点的に取り組んでいます。また、国有企業改革と債務処理問題は表裏一体をなすものです。

しかし、李揚氏も指摘するように、経済成長を促進しようとすれば、貸出増加が避けられず、レバレッジを減らすことと経済の安定成長保持の間の相応しい均衡点を探すことが重要になり、レバレッジを減らすためには、持久戦の構えが必要ということになります。実際に、過剰生産設備を減らすことについて、一部地方では鋼材価格が上昇しつつある中で、GDP成長をある程度犠牲にしてまで、設備解消をすることに逡巡したとのことです。

中国ではまだ債務危機は存在しないという理由として、流動性の高い資産で構成された主権資産(国の資産)の存在のほかに、中国の50%近い高い貯蓄率や外貨による対外債務が債務総額の3%以下であること、非金融企業の債務は、銀行融資が主体であること等が挙げられています。しかし、企業債務が銀行融資中心であることは、企業のリスクを銀行が主として負うことです。特に最近は、銀行の要注意先債権が増えている点が指摘されています。

高いレバレッジは必然的に高いリスクをもたらします。企業のレバレッジ率はとりわけ重視しなければならない。債務危機が存在しないと安心していることは出来ないと思います。

もし、企業の経済効率を高めることが出来なければ、そのレバレッジ率を引き下げることは出来ないわけです。レバレッジ率が高いのは主に国有企業であり、国有企業改革は待ったなしです。今年4月28日付けの英フィナンシャルタイムズ社説は、「最も衝撃の小さいシナリオでも、債務負担の軽減にまだ10年近くはかかるだろう」と書いています。

日本では概して中国経済に対して厳しい見方がされていますが、過剰設備の解消が進んでいること、第三次産業が発展していること、更に中国経済の量的質的発展が進んでいること等を見落としてはならないと思います。

 

※第4条協議:IMFが通常1年に1回、専門家でつくる代表団を各国に派遣し、現地の政府や中央銀行、ビジネス関係者から情報を収集して分析・審査し政策や経済運営等について助言を行っているが、IMF協定4条に基づくため「4条協議」と呼ばれる。

 

高井

ところで最近習近平総書記と李克強総理の不仲が取り上げられています。全人代の李克強の経済報告後に、習近平が拍手をせず、握手もしなかったことが日本のテレビで放映されましたが、実際はどうなのでしょうか。

 

大久保先生

先ず全人代の直前に習近平の辞任を求める公開書簡がネット上に出て、習近平が李克強を疑ったのでは、との見方があります。5月9日付け「人民日報」に、“権威人士中国経済を語る”が出ており、李克強首相批判が狙い、との見方もあります。

経済路線をめぐり対立激化、といえば大事に聞こえますが、いま中国経済は難しい時期にあり、習近平が中心の中央財経領導小組の主流派が考えるようには政策が必ずしも順調には実施されていないとの苛立ち、不満があるかもしれません。最近は、習近平は独裁批判を回避し、集団指導制を意識しているのではないか、毛沢東志向から鄧小平志向に回帰しているのではないか、との見方もあるようです。今後、十九回党大会の人事がどうなるかは、誰もが注目している点だと思います。

 

高井

いろいろとご説明をありがとうございました。ところで大久保先生は10年余、3度に渉って北京で勤務されましたが、一番思い出に残るお仕事は何でしょうか。

 

大久保先生

1971年12月20日に、元全日空社長で日中覚書貿易事務所代表の岡崎嘉平太先生を団長とする日中覚書貿易代表団が人民大会堂で周恩来総理にお会いした時、周総理は予め、どのような人が会見に出席するか承知しておられたようで、「この中に、銀行の人がおられますね」と言われました。私は最後列の席から恐る恐る手をあげました。「そんな末席にいないで、前にいらっしゃい」と言われ、中国側がすぐに私の座る席を作って下さったので、前に進み出ました。丁度スミソニアンの多角的通貨調整の直後でしたので、周総理は、人民元がいかに安定した通貨であるかを説明され、日中貿易を日本円と人民元で直接決済することを提案されました。覚書事務所職員として、私の重要なアサイメントの一つは日中貿易決済の円滑化であり、周総理のご提案は本当に願ってもないことでした。周総理から直接、財政金融関係のご質問をいただきましたが、勉強不足を痛感した会見でもありました。

当初、覚書事務所が中心になって準備しましたが、中国側が頭取の訪中を提案し、住友銀行浅井頭取、次に三和銀行の村野頭取を団長とするミッションが訪中して交渉を行い、そうした基礎の上に、1972年8月に東京銀行の原純夫頭取を団長とするミッションが訪中して合意に達し、円元決済が実施されることになりました。

 

高井

周恩来総理と直接お話をされたこと、そして円・元の固定相場を設定されたお仕事は真に素晴らしいことと感じ入りました。今後中国経済がどのように動いて行くかは日本にとっても非常に重要であり、今回のお話を参考としてウオッチして行きたいと存じます。今日はいろいろと貴重なお話を賜りありがとうございました.

以上

 

この記事にコメントをする
IMG_2334.JPG

2016年10月1日(土)10:36 一橋大学にてベゴニアを撮影
花言葉:「愛の告白、幸福な日々」

 

 

  • 話題のテーマについて各界で活躍されている人と対談をする一問一答形式のブログの第3回です。
  • 今回は、プロ登山家竹内洋岳様にお話をお伺いいたしました。

 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第3回)■ ■ ■ 

プロ登山家  竹内 洋岳 様 
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


[プロ登山家 竹内洋岳様ご紹介・プロフィール]

1971年東京生まれ。プロ登山家、立正大学客員教授。ICI石井スポーツ所属。日本人初の8000メートル峰全14座の登頂者 第17回植村直己冒険賞受賞。

1995年に日本山岳会隊に参加して、マカルー(8,463m)東稜下部より登頂し、初めて8000m峰を登頂する。各国の登山家と少人数の国際隊を組み、酸素やシェルパを使用しない軽量装備でスピーディに高峰への登頂を行う速攻登山で複数の8000m峰を登頂している。2007年にパキスタンのガッシャーブルムII峰(8,035m)で雪崩に巻き込まれ、腰椎破裂骨折の重傷を負う。2012年5月26日(日本時間)に最後の1座となっていたダウラギリへの登頂に成功し、全14座の登頂を成し遂げた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今回は、小生が長年お付き合いをさせていただいている、エベレストにもチャレンジしたことがあるUTグループ株式会社代表取締役社長兼CEO若山陽一様のご紹介で、同じく小生の長年の親しい友人で、穂高や八ヶ岳で強力をしていた小松茂生様に同席いただき、お話を伺った。(対談は2016年8月29日に行いました。於:西麻布「香宮」)

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです(順不同)]

  • 高井伸夫 
  • 医療法人社団成扶会馬見塚デンタルクリニック 相談役 小松茂生 様
  • UTグループ株式会社 代表取締役社長兼CEO 若山陽一 様

 

 


 

高井

今年の9月末から山に入ると伺いましたが、次はどこの山に登るのですか。

 

竹内様

2年前にネパールの未踏峰マランフランという山へ行きました。残念ながら登りきれなくて帰ってきてしまったので、9月にマランフランへ行きます。ここは政治的な理由で未踏峰になっていました。1年かけてネパール政府と交渉して解放してもらったので、私には思い入れのある山で、ぜひ登りたいんです。

 

高井

マランフランという山は標高は何メートルですか?

 

竹内様

6700メートルくらいです。

 

髙井

初登頂になるんですよね?

 

竹内様

私が登れば初登頂です、人類初登頂です。登れたらいいのですが・・・。

 

高井

なぜ未踏峰へ登るのですか。

 

竹内様

いま人類が宇宙に出ていく時代において、地球上には未踏の山がたくさんあります。私はそれを非常に面白いことだと思っています。今から100年以上前に探検家たちが地図の空白地帯をさまよっていた。未踏峰はその様子を現代の私たちが再現できる可能性を秘めています。難しくて登れないのではなくて、政治的な理由で登れないエリアがたくさんあります。パキスタンの方に行ったり、アフガニスタンに行ったりすると、紛争地ゆえにまだ未踏峰の山が残されています。そこがいずれ平和になって、解放されたときにそこに人類が最初に到達する可能性というのはまだ残されています。

ネパールにも未踏峰がたくさんありますし、いずれパキスタンやアフガニスタンの未踏峰にも行ってみたいです。もしかしてアフガニスタンであれば現地のゲリラと交渉してこの山登らせてくれと言わなければならない日が来るのかなと思うのですが、そういうことを考えるとちょっとわくわくしたりします。

 

 

高井

話は変わりますが、山で不思議な現象に遭遇したことはありますか。

 

竹内様

過去には、あまりそういった経験をしたことはありません。海外のクライマーと話をしているとサードマン現象が話題に出ます。もう一人の自分がどこかから見ているような感覚がするんだというようなことを言われる人がいます。何か限界的なスポーツをしている人が時々見るものだと言いますが、私は見たことがありません。

ただ、これはあんまり人には話をしていませんが、今思えば不思議な経験だったのが、パキスタンのナンガ・パルバットという8000メートル峰に登った際のことです。2001年に国際公募隊で登ったのですが、私が先頭でずっとルートファインディングをしていて、ファイナルキャンプから頂上に登っていく時に、結構複雑な雪の斜面をルートを選んで頂上に到達しました。私は1時間も早く登って降りてきてしまったのですが、あとからついてきたメンバーに「ヒロ、お前が選んだラインは美しいラインだった。一番合理的で一番安全で、一番美しいラインだった」とすごくほめてくれました。実は、私はそこを登った時にそこに何かが通った跡を感じました。何かが雪の上を通ったような・・・。

 

高井

何かが通った?

 

竹内様

雪と氷と岩の斜面で、岩がごちゃごちゃなっているところも、そこだけ不自然に誰か歩いたように岩がずれたように見えたのです。でもそのシーズンは私たちが一番最初の登山隊で、山は一冬経つと、過去の登山の痕跡はまずなくなってしまいます。残されているわけがない。しかし、私には何かが通ったような跡を感じました。

 

高井

霊感があったのでしょうか。

 

竹内

他でそんなことを感じたことはありません。誰かに言おうか言うまいかと思っていたのですが、ある時ずっと一緒に登っていたガリンダというオーストリアの女性クライマーに「ヒロ、今まで不思議な経験をしたことはある?」と聞かれた時に、そういえば・・・と、このエピソードを話題にしたら、彼女は、「それはね、ナンガパルバットが登って欲しかったんだよ」と。それはそれで、女性らしい詩的なことを言ってくれました。彼女はいうには、「山があなたを選んだんだ」と。

 

高井

簡単にいうと山が待っていたということでしょうね。

 

 

高井

14座登頂されて、麓の村に滞在することもあると思いますが、一番よかったのはどこですか。

 

竹内様

どこも面白いです。8000メートルの山があるエリアというのは、チベットとネパール、パキスタンですが、どこも非常に面白いです。いいところかと言われるとちょっと分かりませんが、面白いのは間違いないです。どこも面白いのですが、ネパールの方が楽しいです。ネパール人の方が親切ですし日本人に少し近い部分があるように思います。

 

高井

ところで、動物には予知能力があって、人間にも本来予知能力があったのが人間は予知能力が退化してしまったと思いますが、いかがですか。

 

竹内様

私もそう思います。ただ、人間は、予知能力を発揮する場がないのだと思います。私達はきびしい環境におかれたらおのずと取り戻す可能性があると思っています。

 

高井

竹内さんの夢は何ですか?

 

竹内様

プロ登山家となる前の、趣味として登山をしていたときの私にとって、将来、登山を続けていくことは、夢だったかもしれませんが、プロ登山家と名乗って以来、それは、夢ではなく目標として、登山に取り組んできました。 プロ登山家として、あるのは、夢ではなく、目標です。 14座完全登頂という目標の先に、新たな目標を見いだし、その先に、また新たな目標を見いだし、いかにプロ登山家として、登山を続けていけるか?新たな目標を見つけ続けられるか?が私の目標であり、挑戦です。

 

高井

プロ登山家という肩書を使っていますが、どうしてですか?

 

竹内様

「○○家」という肩書は、世の中にたくさんあります。そこで作家、画家、音楽家、芸術家、建築家、格闘家、評論家など思いつく限り書き出してみました。それらをじっと眺めていたときに、ある共通点に気が付きました。中には例外もありますが、多くの「○○家」には資格が必要ない。つまり、「自称」でいい。名乗るための資格も認定機関もない、要するに自分は今日から○○家だと、なりたいときに、名乗れば「○○家」になれるのです。

ということは、自分の都合のいいときになれるのが「○○家」ならば、都合が悪いときに簡単にやめられるのも「○○家」だと思ったわけです。私は、14座登頂は最後まで絶対にやりぬく覚悟をもって挑む目標なので、都合が悪くなってやめられる「登山家」としては宣言できないと思いました。

プロとして最後までやり抜くかどうか、その強い遺志、覚悟があるかどうかだと思うんです。だから私にとってプロとは覚悟。「絶対に14座を登り切る覚悟がある」という意思表示をするために「登山家」に「プロ」とつけて「プロ登山家」と名乗ったわけです。また、それをやっていくことで今は稼げないけどこれから稼いでいくんだと言い切れることもプロの定義のひとつなので、プロ登山家と名乗ったのは「今日からプロとして登山の世界で生きていってみせます」という意思表示でもあったのです。

 

高井

プロ登山家の育成をすることにどんな意味がありますか。

 

竹内様

プロ登山家が存在することで、登山がプロスポーツに成長、発展する可能性が生まれます。必ずしも、プロ登山家だけがプロではなく、登山の世界に、プロフェッショナルを誕生させることが目的です。登山を専門にした、プロガイド、プロカメラマン、プロジャーナリスト、プロトレーナー、プロモーターなど。登山がスポーツとして、成長、発展、洗練されることで、他のスポーツと同様に、そこに、プロフェッショナルが誕生するはずです。

登山に、職業と雇用、そして、自立した経済活動が生まれることで、登山が、スポーツとして、そして、文化となって、次の世代に受け継がれていくことになります。

これは、登山の先輩たち(小松さんなど)が、私たちに手渡してくれた登山を、次の世代に受け渡す、私たちの役割です。

 

以上

 

日本人初の14サミッターであり、今現在も未踏峰にチャレンジされていると聞くと、ギラギラした汗臭い山男を想像されるかもしれませんが、インタビューでお会いした竹内様ご本人は物腰が柔らかで謙虚な印象を受けました。14座登頂という経験に奢ることなく、一つ一つ誠意をもって丁寧に対応される方なのだと思います。

ご自身の未踏峰へのチャレンジに留まらず、プロ登山家を育成したいと語る彼の夢にご協力、ご賛同いただける方を募集しております。竹内洋岳様の講演等に関心がある方、あるいはスポンサーとしてご支援いただける方は当事務所までご連絡ください。

連絡先 高井・岡芹法律事務所 takai-okazeri☆law-pro.jp  ☆を@に変換してメールをお送り下さい

 

この記事にコメントをする

ご利用案内

内容につきましては、私の雑感等も含まれますので、真実性や正確性を保証するものではない旨ご了解下さい。

コメント欄に法律相談を書き込まないようお願い致します。

私のブログへのご意見・ご批評をお待ちしております。コメントは承認制とさせて頂いておりますが、基本的に掲載させて頂きたく存じますので、ご記名のうえご記入下さい。掲載不可の方はその旨ご記入下さい。

→ リンクポリシー・著作権

カレンダー

<   2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

カテゴリ

プロフィール

高井・岡芹法律事務所会長
弁護士 高井伸夫
http://www.law-pro.jp/

Nobuo Takai

バナーを作成