時流を探る~高井伸夫の一問一答の最近のブログ記事

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第15回目です。
  • 第15回目は、TMI総合法律事務所パートナー弁護士・弁理士升永英俊先生です。

 

 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第15回)■ ■ ■ 

TMI総合法律事務所 パートナー
弁護士・弁理士 升永英俊 先生

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[升永英俊先生 プロフィール]

弁護士・弁理士。TMI総合法律事務所パートナー。1965年東京大学法学部卒業、1973年東京大学工学部卒業、1979年米国コロンビア大学ロースクール修士号(LLM)取得。米国ワシントンDC、ニューヨーク州に弁護士登録。「青色LED訴訟」を始め、数多くの特許権・税務訴訟を手掛ける。弁護士や文化人らの賛同を得て「一人一票実現国民会議」を立ち上げ、いわゆる「一票の格差」といわれる「1票価値の住所による差別」を撤廃すべく、自ら多くの違憲訴訟を提起している。

升永先生お写真

写真は、升永英俊先生(右)と高井伸夫(左)

 

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 宮本雅子(秘書)

取材日:2017年4月20日(木)11:45~  於:芝とうふ屋うかい

 


高井

升永先生が2017年5月3日の東京新聞に出される意見広告では、2013年7月29日に麻生財務大臣が都内で講演をされたときの憲法改正に係る発言が紹介されています。麻生大臣は、ドイツのワイマール憲法がいつのまにか誰も気がつかないうちにナチス憲法に変わっていたと述べられ、憲法改正に関しても「あの手口学んだらどうかね。」と発言されたとのことですが、「ナチスの手口」について教えて下さい。

 

 

升永先生

当時、この話が新聞に出たとき、麻生さんは何を言っているんだろうと思いました。誰も知らないうちに憲法が変わったはずはない、国民が圧倒的にナチスを支持したんだ、国民が何も知らないはずはないと。

つい1年半ぐらい前に、このナチスの当時の一日、一日を順に追っ掛けてみました。ナチスが政権を取る直前の一日、一日がとても大事です。驚くことが分かりました。

1932年11月6日に選挙がありましたが、ナチスの得票率が33%、この時点で67%も反対がいたわけです。ナチスは多数の政党の中の第一党ではあるけども、多数ではなかった、過半数は持っていなかったんです。

 

高井

ナチスが政権をとる直前の選挙で得票率が33%しかなかったのは意外です。そこからどのようにして支持を集めたのでしょうか。

 

升永先生

当時のドイツは日本と同じような議会制民主主義でしたので、過半数を連立でつくるより仕方ありません。そこで、第2政党と第3政党が連立を組んで過半数にしようとした。32年11月6日の選挙が終わってから2カ月半の間に2回連立を試みましたが、いずれも失敗しています。ナチス抜きでうまくいくと思ったらいかなかった、そこで結局、第1党のナチスと連立を組もうということになりました。12人の閣僚のうちのナチスから3人、残り9人はナチス以外で閣僚を確保することにして、当時は6カ月連立を組んでやってみて、経済が良くなったら、そこでナチスを閣議決定で追い出せばいいという予定だったんです。当初は、ヒトラーは副首相ということで連立の申し入れをしました。ここが、ヒトラーが天才と思うところです。

 

高井

ヒトラーが天才ということですが、具体的にはどういった点でしょうか。

 

升永先生

ヒトラーは、ナチスの閣僚は3人でいいが、その代わり首相は私がやりたいという提案をしました。提案された方は、閣僚12人中9人を握っていれば、閣議決定でヒトラーを辞めさせられるという考えがあり、ヒトラーの首相就任を承認しました。ナチスからは、ヒトラー以外2人しか閣僚を認めないということで連立ができたんです。

ナチス、ヒトラーが首相になったのは1933年1月30日です。ヒトラーは1932年11月の選挙の2カ月半後、選挙をしたばかりなのに1933年2月2日に(ヒンデンブルグ大統領に要請して)国会を解散させました。そして、解散の2日後、2月4日に言論の自由を停止する緊急事態命令を出したわけです。

 

高井

まず解散があって、2日後に、緊急事態命令を出した。言論の自由停止といいますが、命令というのは法的根拠とか議会の合意なく発せられるものでしょうか。

 

升永先生

議会なしで、大統領令でいいのです。大統領令なので連立があっても議会の他の議員が反対できない。

 

高井

ヒトラーは当然最初から独裁するつもりだったんですね。

 

升永先生

そうです。初めから独裁するつもりだった。天才ですよ。緊急事態命令で全て決まりです。その後、いろいろやるけれども、報道されないのです。1933年2月27日に国会が放火されます。国会を解散したのが1933年2月2日で、3月5日が選挙の投票日でした。投票日の1週間前の2月27日に国会を放火して、翌日、第2回目の緊急事態命令でナチス反対派を約5000人逮捕しています。問題は、こういう情報が国民に知らされていないんです。国民の大部分は何も知らないのです。

この2回目の緊急事態命令が1933年2月28日、約5000人逮捕した後の3月23日に全権委任法ができました。重要です。全権委任法というのは、国会は立法できるけども、国会だけじゃなくて、内閣総理大臣も立法できるという法律です。この法律をどうやって通したかというと、国会は2月27日に放火されていて使えません。ナチスは3月23日にベルリン市内のオペラ座を仮会場にするという指定をして国会議員を集めました。既に逮捕・拘束されている共産党議員(81名)、社会民主党議員(26名)と病欠者を除く、残りの国会議員538人が、国会の仮会場としてオペラ座に集められた。オペラ座の周囲は武装したナチスの私兵である突撃隊が包囲していました。その会議場の正面には、カギ十字のナチスのマークが大きく掲げられ、会議場には、武装したナチスの突撃隊が居た。とても国会の会議場といえるものではない。そこで、さあ投票しろって言うわけです。

32年の11月6日の選挙のときはナチ党の得票率は33%でしたが、問題の2回目の選挙(開票日は33年3月5日)では、ナチ党の得票率は44%まで上がりました。

それでもまだ過半数ではなく、ナチス反対派が56%いた。ところが、武装したナチスの突撃隊がいる会場で表決が取られ、全権委任法は、82%(=444人÷538人×100)の国会議員の賛成により、国会を通過しました。反対票を投じた社会民主党議員・97名を除くナチス反対派は、ナチスに恐怖した、ということです。

まさに、麻生さんの言うとおり、全権委任法は、国民が何も知らないうちに成立しました。緊急事態宣言により報道統制下におかれていたので、新聞、ラジオは、このような異様な国会の議事進行を報道しなかったのです。

 

高井

緊急事態宣言の脅威について教えて下さい。

 

升永先生

内閣総理大臣が、「緊急事態だ」と判断すれば、内閣総理大臣は緊急事態宣言を出せます。最近ではトルコ大統領が緊急事態宣言を出して強権政治を行っています。トルコ大統領は、緊急事態宣言を発し、1か月で3万5,022人を逮捕拘禁しました。新聞、テレビは、そのことを大きく報道しません。そのため、日本国民の大部分は、緊急事態宣言の恐さに気がついていません。ナチスは、緊急事態宣言で約5000人を逮捕しました。戦前の日本でも、1936年の二.二六事件で緊急事態宣言が出ました。二.二六事件以降、軍が日本を支配し、議会は機能しなくなりました。

 

高井

次に自民党憲法改正案21条2項。「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは認められない。」これについて教えてください。

 

升永先生

実は、自民党改憲案21条2項は、中国憲法51条と実質的に同じなんです。中国憲法35条では、言葉の上では、日本国憲法21条1項よりもっと強く言論の自由を保障しています。中華人民共和国 憲法35条「中華人民共和国市民は、言論、出版、集会、結社、行進、示威の自由を有する。」

言論、通信、思想の自由を保障すると書いてあります。では、実際そうなってないのはおかしいじゃないかと思いますが、51条というのがあります。それが自民党改憲案の21条の2項と同じようなものです。

中華人民共和国 憲法51条「中華人民共和国市民は、自由及び権利を行使する際、国・社会・集団の利益およびその他の市民の合法的自由および権利を害してはならない。」

この条文があるから結局、中国国民は、言論の自由の権利は持っているけども、言論の自由の権利を自由に行使できないのです。自民党改憲案21条2項はこれと同じです。

 

高井

自民党草案は言論の自由を形骸化するものであるにも拘らず、新聞はなぜ報道しないのでしょうか。

 

升永先生

当初は、新聞が報道しない理由が分からなかったんです。私は、新聞は大騒ぎすると思っていた。言論の自由っていうのは彼らの飯の種だと思ってた。実際に、3年前くらいまでは、言論の自由、報道の自由が飯の種でした。ところが、今は違うようです。広告収入というのがあります。広告収入が重要なわけです。広告主の一部は安倍政権をサポートしています。だから、新聞社は、安倍政権に批判的な記事を書くと広告を出さない企業が出てくることが起こり得る、と懸念しているのでしょう。

 

宮本

安倍政権に批判的なことをいうと広告しない、とは穏やかではありませんね。

 

升永先生

実際に、自民党の一部の議員が記者会見で言っています。マスコミをつぶすのは簡単だと。広告を出さなきゃいいんだと。自民党の国会議員が公開のテレビの記者会見で、沖縄の基地反対運動がうるさいのは、あれは沖縄の新聞やテレビが報道するからだ、だから、広告で締め上げりゃあいいのだというようなことを言っていました。そういったことは、沖縄の新聞社だけじゃなくて、東京の朝日新聞も日経新聞も同じことだろうと思います。

新聞は部数を売るだけでは経営が成り立たない、広告収入も増やさないといけない、広告を取らないといけない。自民党が、広告で締め上げると言いますが、本当にそうするかどうか分かりません、本当に断っているかどうかは分からんけども、やっぱり、新聞社の忖度(そんたく)ですよ。

 

宮本

広告主の意向を忖度するということですか。

 

升永先生

一部の企業が実際に広告を出さないと言っているかどうかは分かりませんが、新聞社は忖度する。これは有り得るでしょう。

 

宮本

先生は、憲法改正が実現するかどうかというのはどれぐらいの可能性があるとお考えでらっしゃいますか。

 

升永先生

100%です。

 

宮本

100%。では、もし日本で緊急事態命令が出されたとします。そうすると、何が起こるんですか。やはり反体制の人が逮捕されるんですか。

 

升永先生

それは分かりません。ただ、首相の意のままにやろうと思えばできるのが緊急事態命令です。最高裁も憲法違反だと言えない、国会も止められない。

そのときの首相次第です。日本で首相が独裁しようと思ったら、数千人を逮捕すれば、それは可能でしょう。

 

髙井

緊急事態命令で独裁ができてしまう。逮捕者がでる。恐ろしい話ですね。升永先生は、1人1票運動に私財を投げ打って活動されていますよね。

 

升永先生

言論の自由がなければ1人1票運動なんか吹き飛んじゃいます。1人1票運動なんて悠長なことはいってられない状況です。麻生大臣は、2013年7月29日の都内の公開の講演で、「憲法も、ある日気がついたら、ドイツのこともさっき話しましたけれども、ワイマール憲法がいつのまにか変わってて、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気がつかないで変わったんだ。あの手口学んだらどうかね。」と発言しました。麻生大臣は3日後に発言を撤回していますが。多くの国民は、この麻生発言の危険性に気付いていません。日本中の誰も首相が独裁するなんて思っていない。多くの国民は、緊急事態命令の危険性を知りません。

 

宮本

私のような一般のもの、それはどのようなところを意識していけばよいのでしょうか。

 

升永先生

「あの手口を学んだらどうかね。」の麻生発言の危険性を自分の回りの人々に伝えることしかないでしょう。あなたの周りにいるこの事実を知らない人々に伝える。ドイツでは、ナチスの時代に、緊急事態命令によって、ドイツ国民の誰も知らない間に、ドイツ憲法が実質的に変えられた。この事実を、1人1人が知らない人々に伝えるしかないでしょう。

 

 

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第14回目です。
  • 第14回目は、ジャーナリスト莫邦富様です。

 

 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第14回)■ ■ ■ 

ジャーナリスト 莫 邦富 様 

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[莫邦富様 プロフィール]莫邦富先生

作家・ジャーナリスト。1953年中国・上海生まれ。上海外国語大学卒業後、同大学講師を経て、85年に来日。日本にて修士、博士課程を修了。95年、莫邦富事務所を設立。知日派ジャーナリストとして、政治経済から社会文化にいたる幅広い分野で発言を続け、「新華僑」や「蛇頭」といった新語を日本に定着させた。また日本企業の中国進出と日本製品の中国販売に関して積極的にアドバイスやコンサルティングを行っており、日中の経済交流に精力的に取り組んでいる。

『蛇頭』、『「中国全省を読む」事典』、翻訳書『ノーと言える中国』がベストセラーとなり、話題作には『新華僑』、『鯛と羊』、自分自身の半生を綴った『これは私が愛した日本なのか』、『中国ビジネスはネーミングで決まる』などがある。2002年から2011年にかけて朝日新聞土曜版にて連載コラム「mo@china」が掲載された。

現在、ダイヤモンド・オンラインにて「莫邦富の中国ビジネスおどろき新発見」、時事通信社の時事速報にて「莫邦富の『以心伝心』講座」、プレジデント社『プレジデント』にて「本の時間」(新刊書評)などのコラムを連載中。

莫邦富事務所HP:http://www.mo-office.jp/

 

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 高島さつき(秘書)

取材日:2017年4月27日(木)14:30~  於:日本工業倶楽部会館2階ラウンジ

 


高井

さて、鄧小平先生は日本に来て、松下電機などを見学して日本を学べと言いました。鄧小平先生はなぜ日本に学べと言ったのですか?

 

莫邦富様

鄧小平先生は1978年に日本に来ました。78年以前の中国は言いかえれば、よくも悪くも、毛沢東時代の余韻がまだまだ残っていた時代です。当時、私の給料は45元(注:1978年当時の為替レート 1元=122.98円、45元=5534円程度)です。あの頃、クレジットカードのことも知りませんでした。外国人専門の友誼商店と呼ばれる店で、ある外国人がすごい買い物をしていたのを見ました。私の年収以上のものを買っていたのです。そこで小さい札みたいなものを出して会計をサインして済ませていたわけです。あれが噂のクレジットカードかと思い、その威力に目を見張りました。

ですから当時の中国にとって海外との認識の差は非常に大きかったものです。鄧小平先生は以前フランスに留学したこともあるので、とりあえず海外を見た経験を持っていた。これは非常に重要なことです。毛沢東自身と、毛沢東と共に革命をやっていた人たちは、ある意味で生活が厳しくてどうしようもなくて革命に参加したわけです。革命後は政府の高官になったりしていますが、海外のことは知りませんでした。鄧小平先生は少なくとも海外を知っているので、松下電器を訪問したり、新幹線に乗ったりして背中を押されたのを感じたという感想をもったことは、非常に当然でした。

鄧小平先生は海外について、ある意味で他の中国の指導者よりも敏感に反応しています。しかも謙虚に見ようという意識があったのでしょう。鄧小平先生の考えは非常にシンプルです。松下電器のような工場を中国にも作りたい。工場を作るには、人を派遣して工場の運営の仕方を学びたい。新日鉄製鉄所を見たら、それも中国に作りたいと言い出す。鉄イコール国の実力だと思ったからです。

新幹線は、さすがにそれに手をだすその実力は当時には、まだなかったと思います。しかし新幹線のスピードに対する彼なりの認識があったと思います。

私は比較的早い時期に日本を訪問しました。初めて日本を訪問したのは1981年です。大阪グランドホテル(注:2008年に閉館)に泊まりました。当時は自由行動が認められていなかったので、朝早く起きて、出発する前の時間を利用してホテルの周りを1人で回りました。ホテルを出たら地下街に入る入口があったので、降りてみました。誰もいなかった。地下道で自分の足音が響くほど静かでしたが、地下鉄が到着した途端に、たくさんの人が電車から降りてきました。出勤の時間が近づいてきて、女性のハイヒールの音、つまりハイヒールの踵が地面をたたく音がしますが、その音に陶酔しました。

 

高井

なぜ、ハイヒールの音に陶酔したのですか?

 

莫邦富様

足音が、速いんです。トトトトト、その後中国に戻り訪日のエッセイに書きました。これが先進国のスピードだと。朝、トトトトト、と。当時中国の歩く速度はゆっくりしていました。今はハイヒールの音にはもう感動はしませんが、当時はかなり感動しましたよ。鄧小平先生もおそらく同じ様に、このスピード感に、ある種の陶酔というか、刺激を受けたのではないかと思います。

当時の中国は、門戸を開放して、外国の文化や技術を受け容れる準備ができていなかったのです。だから、あの頃のスローガンは「窓を開けて世界を見よう」というものでした。窓です。ドアではありません。外を見ようということです。窓を開けて外を見ようとすると、アメリカやヨーロッパは遠くて見えてこない。一番見えやすいのは近くにある日本でした。

なぜ私が日本語を選んだのかと言いますと、外国語を覚えれば、将来、詩を訳せるという思いもありましたが、もう一つ別の理由もありました。ちょうど1972年に日中国交正常化、1973年に初めて上海でラジオ日本語講座が開設されたのです。そのテキストを取った時にひらめきました。英語、ロシア語は勉強する人がたくさんいた。これまで日本語を専攻した人は、いたとしても非常に少なかったはずですので、みんな0からのスタートだった。ですので、今から日本語を覚えていけば絶対メリットがあると思いました。

大学を卒業して1978年改革開放時代が訪れた時に、期待していたそのメリットがすぐに出てきました。「窓を開けて外を見よう」というスローガンですが、実際には、外国語の書物、新聞を通して、色々な情報を吸収するのです。しかし、当時の中国はあまりお金がなかったので、外国の新聞は、ニューヨークタイムズでも、ワシントンポストでも全部船便でした。

 

髙井

「窓を開けて外を見よう」として、得られるアメリカ、ヨーロッパの情報は船便だった。船では遅いですよね。

 

莫邦富様

新華社が使用する一部は航空便でしたが、他は船便でした。アメリカの新聞が中国に着くのに最低1か月以上かかりました。それに中国とアメリカとの間を行き来する船もそんなに多くはなかった。一方日本の新聞は10日間くらいで入ってきました。朝日新聞や日経新聞を読んで面白い記事を参考にしながら原稿に書いて、中国のメディアに送る。そのメディアに掲載される頃に、アメリカの新聞がようやく届くのです。時間差がかなりありました。

ですから、中国の最初に見ようと思っていたその外、つまり外国は日本でした。鄧小平先生はフランスを訪問して改革開放をやろうと決意したのではなくて、日本を訪問して改革開放路線に突入したのです。

 

高井

莫邦富先生は日中経済交流はハードからソフトへとおっしゃっていますが、ハードからソフトへ、そのソフトの次は何ですか。

 

莫邦富様

78年頃から、中国は外の世界をよく見るようになったわけです。日本人1千人と中国の1千人が持つものなどをよく比較していました。例えば、テレビは何台持っているのか、洗濯機はどれくらいか、車は何台かなど、全部羅列して中国のそれと比較して、そして中国がいかに遅れていたのをよく指摘していました。こうして家電の生産ラインなどを導入していきました。いつの間にかこういった比較はしなくなりました。ハードの比較はだんだん意味がなくなってきたからです。いまの中国では、ハード関連のものについては、質がよいかといった問題はさておき、とりあえず揃いました。

当時の中国では一回の海外の出張で持ち帰る家電に制限があり、大きいのが1つ、小さいのが2つと制限されていました。日本を訪問する中国人は帰国の際、カラーテレビ1台、ラジカセ1台、カメラ1台といった感じで中国へ持って帰った。

全部ハード関連の製品です。今は、日本を訪れた中国人の多くはドラックストアやスーパーで、日用品を買います。日本に来る目的も、だいぶ変わりました。当時は家電の生産ラインなどを導入するためといった商談でした。今は、技術を入手しよう、企業を買収しよう、あるいは日本の環境保護の政策を勉強しようとして、来ています。目的も旅行、医療、留学、あるいは住宅を買う、といったものに変わりました。全部ソフトのところに流れています。

ハードからソフトへだけではなく、もう一つ、大きいものから小さいものへ。こまごましたものになります。さらに外から中へ。以前服を買うとしたら、コートやオーバー、背広、とにかく人の目に触れるものを買いました。今は違います。保温機能のある下着など。外側から内側のものに変化しています。

さらに、日本の企業の対中ビジネスをみても、大きく変化しています。BtoCへ。以前BtoBでやっていた企業が中国のエンドユーザー向けに販売するようになりました。ユニクロや無印良品は、そういった企業の代表です。この流れはまだまだ続くと思います。

中国に対する人への講演のテーマもそういったものを求められるようになりました。東京駅周辺には、中国の視察団をよく連れて行きます。近くに東京駅の駅舎がありますが、八重洲にあった高いビルを数年前に解体して、左に200メートルくらい移して立て直しました。大丸デパートが入っているこのビルをなぜ200メートル動かして立て直したのか。実はこれは大勢の日本人も知らないことだと思いますが……。

東京湾からの風が隅田川を通ってくるわけです。風の道をたどってくると、ちょうど当時、このビルが風の邪魔になっていた。それをどけたのです。海からの風ですので、夏は温度が低い。この風が来ると東京の駅舎はそれほど高さがないので、駅舎を超えることができる。そして、その先に丸ビルと新丸ビルがあります。この2つの建物はそれぞれ高さが160メートルほどで、近接しています。物理の原理で言うと、二隻の船が近づくと、間に流れる水は早く流れます。これは空気も同じです。この建物の間を風がスピードを上げて通過します。つまり、東京湾から来た風が、この二つの建物で、加速させられるのです。25%~30%くらい加速する。この先に皇居があります。皇居は緑が多く、測定では、温度が2度ほど周辺より低いです。この涼しい空気を奪って、四谷、新宿に風が通ります。大都市にはヒートアイランド現象がありますが、建物を移動させて、巨大都市東京に電気代が1円もかからない巨大なエアコンをとりつけたようなものです。こういう話をすると、視察団は一様に驚いて目を輝かせます。こういうことに対してみんな感心するようになっています。

ハードのものも、日本に学ぶ必要がまだまだありますが、大きくいえば1段新しい階段を登る時期に来ていると思います。ですから中国国内で、78年と同じように、もう1度日本に学べと主張しているのもそのためです。1978年は、日本のハード面に目を向けていた。今はハードよりもむしろソフトに目をむけるべきだと私は思います。

 

髙井

日本に学ぶべきとおっしゃいますが、一方で日本のダメなところはどこですか。

 

莫邦富様

日本のダメなところは、日本は昔の成功に胡坐をかいているところです。それほど前進していない、というと語弊がありますが、少なくとも感心するほどの前進はなかなかないと思います。一言でいえば、ここ(注:日本工業倶楽部会館)にWi-Fiが入っていないことからもわかるように、問題はかなり深刻だと思います。ここを利用する人たちは、この国の工業に関わっているある程度の地位になっている人たちだろうと思います。Wi-Fiがないということは、たとえていうならば、このビルに電話が引かれてないのと同じことです。

 

髙井

日本工業倶楽部会館にWi-Fiが入っていないことに危機感や不便を感じる人がいないのでしょうね。

 

莫邦富様

日本工業倶楽部会館にいる方々は、年齢層が高いですが、そういう点も日本が直面しているもうひとつの深刻な問題です。今、電子決済を色々とやっています。ネットを通じてお金を払っている。日本工業倶楽部会館のような場所でも、中国ではネットを通じて利用代金などを払えます。しかし、Wi-Fiがないと払えなくなります。そうすると、誰もここは不便だと思い、いつの間にか、誰もが来なくなります。Wi-Fiは、世界の平均使用率43%、日本は10%、中国は86%です。

 

髙井

Wi-Fi以外で日本のダメなところはありますか?

 

莫邦富様

ほかにも、日本のサービスが低下している。中国人から見れば、日本のサービスはまだいいとみんなほめますが、長年日本に住んでいる私からすれば、日本のサービスは明らかに硬直化、低下しています。マニュアル化している。例えば、水をサービスする、夏ですから冷たい水を運んでくるのはサービスですが、この水を運んだことでサービスが終わったわけではなく運んだ時に、「暑いですね」と一言言う。この一言がサービスの質とレベルを2倍くらい倍増させることになる。

形の上では日本はサービスができています。例えば私のように咳をしている。冷たい水はあまり飲みたくない。数日前、私は上海のホリデイインホテルにあるWi-Fiが使えるコーヒーショップで、深夜まで仕事をしていました。紅茶を注文したとき、咳をしました。しばらくすると温かいレモン水を持ってきてくれました。「お客さん、この温かい水は喉にいいかもしれません」と女性の従業員は優しく声をかけてくれました。同じ水です。それを今、日本の従業員に求めるのは・・・

 

髙井

日本人にそういった付加価値のついたサービスを求めるのは難しいですね。

 

莫邦富様

お水を出すことは、一つの標準装備になっている。これは守っている。以前の築かれた栄光です。そこに心が入っていない。日本のサービスが低下していると私は感じていますが、多くの日本人は実はあまり感じていません。今まで通りやっているではないかと言うかもしれません。しかし、昔、サービスの“サ”もわからなかった中国は、追い上げてきています。お水を出すならば、同じ様にお水を出すと同時に、それ以上に何をやればいいのかという工夫をする。そうすると、温かいレモン水を持ってきたり、生姜のお湯を持ってくるということになる。そうして差が出てくる。こういうことは、よほどアンテナを張って敏感にならないと分からない。

 

髙井

日本は内向き内向きになっていて外向きに学ぶ心がないと思いますがいかがでしょうか。

 

莫邦富様

ある地方自治体の首長の方と対談をした際に、一生懸命日本の素晴らしさを語っておられました。対談中に日本から海外の農業に、あるいは中国、東南アジアの農業に学ぶことはないのか、と聞いた時に、きょとんとされました。実はその時に何かがずしっと落ちました。つまり、日本の良さをアピールするだけで、冷静に海外の何がいいのかを見ていなかった。あの時私は、ここまで多くの人を引っ張ってこられた人でも見方が偏ってしまうおそれもあるのだと思いました。

 

髙井

そういった内容で講演会をやっていただけないでしょうか。日本のダメなところを教えて欲しいと思います。本日はどうもありがとうございました。

以上

2017年7月5日(水)14:00~セミナーを開催いたします。詳細は以下より弊所HPご覧ください。

莫邦富が見た経済大国ニッポン 直面する厳しい課題セミナー

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第13回目です。
  • 第13回目は速水林業代表速水亨様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第13回)■ ■ ■ 

速水林業 
代表 速水 亨 様 

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[速水亨様 ご紹介・プロフィール]

速水様お写真速水林業代表。株式会社森林再生システム代表取締役。 

1953年生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、東京大学農学部林学科研究生を経て、家業の林業に従事。森林経営の機械化を行うと共に国内の林業機械の普及に努める。2000年2月には所有林1070haについて世界的な森林認証システムであるFSC認証を日本で初めて取得するなど、先進的な経営で知られる。2001年朝日新聞「明日への環境賞」森林文化特別賞受賞。2007年から株式会社森林再生システムで、トヨタ自動車所有のトヨタ宮川森林1700haを管理している。 

現在 の公職等:

日本林業経営者協会顧問、財団法人岡田文化財団理事、NPO法人日本森林管理協議会副理事長、FSCジャパン副代表、日本文化デザインフォーラム会員

著書:

日経出版「日本林業を再生する」、日本林業調査会「スギの新戦略2」共著、朝倉書店「森林の百科」共著、産業調査会「森林と木材を活かす事典」共著、林業改良普及双書「機械化林業への取組み」共著

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 高橋真希子(秘書) 

取材日:2016年10月4日 於:東京 芝 とうふ屋うかい

 


 

高井

学問としての林業に対するオーソリティは誰ですか。

 

速水様

そうですね。岩手大学にいらして今は富士大学学長をされておいでの岡田秀二先生もそのお一人です。もし、現在の林業の分析をお聞きになりたいのだったら、「日本木質バイオマス協会」の熊崎実という先生がおいでです。日本の森林に関する分析では、右に出るものはないです。彼の分析は以前から素晴らしいといつも思います。

私と熊崎先生が主催して筑波の森林総合研究所で若い人達を集めて「林業イノベーション研究会」という勉強会をやっているんですよ。

 

高井

今、学者は熊崎先生が分析としては一番とおっしゃいましたが、若手ではどうですか。

 

速水様

若手は、優秀な人は結構たくさんいます。私は東大にお世話になっていますが、若手と言えるかどうか、東京大学の白石則彦という教授は秀才肌で、例えば白書なんかを読むと見事な分析をされていますね。その分析をもとに解決策を提案するというのは中々難しいようですね。様々なアイディアを参考にさせていただいて、いろんなことやってみればいいと思っています。

 

高井

誰か提言している人はいるんですか。先程、なかなか難しいと言っていましたが。

 

速水様

私は林業経営者協会の時に2回ほど提言しました。日本林業経営者協会というHPの「提言集」という項目に掲示されています。時代が変わっているので、私の提言がそのまま今に適用できるかは分からないですが。

 

高井

ところで、今、日本の国有林はどれくらいあるのですか。

 

速水様

だいたい270万~300万haくらいですね。日本の森林は2500万~2700万haくらいかな。今の国有林の管理というのは、担当者が4年~7年くらいでみんなどんどん異動してしまうんですよ。そうすると山全体を見る機会がないです。その状況下で、伐採計画を立てたり、上から木をこの数量伐れという命令がきたり。これでは森林に適した伐採という配慮をする暇がないです。担当者個々は能力がある方々だと思います。ただし、その能力を森林の適切な管理に向かって発揮するチャンスがないですね。

同じ樹齢の木でも状態はそれぞれ違います。例えば「この木は70年だから、もう伐ってもいい時期だ」と言っても、実際見に行ってみれば、「これは全部伐るよりも、強めの間伐をして次に待った方がいい」とか「これはもう風に当たってしまって、これ以上おいても価値は出ないから今伐っちゃえ」とか。私たちならば状態を見てそういう判断をするんですね。そういった状態を考慮せずに、「これは70年だから」、「上から伐れと言われているから」と、意志なく作業せざるを得ないんですね。そういう意味で、国有林は本当に今のような組織の在り方でいいのかって思いはありますね。

 

高井

今、林野庁には人材はいないのですか?

 

速水様

私は基本的にはチャンスと能力を発揮する場さえあれば、活躍していただける方々は多いと信じています。


高井

先程の話ですが、日本は70年たったら伐るんですか。150年とか100年といった期限はないですか。

 

速水様

そんなわけではありませんが、今だったら70年くらいの木だったら伐ろうかなと思ってもおかしくないです。私自身は80年から100年で伐っています。一部は150年とか200年にしているんですけど。既に日本の森林を形成している木の樹齢はだいたい60年くらいになってきています。国は、白書などでも「成熟した」という表現を使っていて、この20年程の間に概ね伐ってしまう計画なんです。

ただし、私どもの考えでいうならば、そういう樹齢になってきた今だからこそ、生物の多様性や、人工林であっても環境負荷が非常に少ない、環境の多様性が高い森林に変質させるチャンスなんです。それに、伐ることができる樹齢になってきた、ということは間違いないですが、それを「成熟した」と表わすのは誤解が生じると思っています。例えば、ヒノキや杉の場合、概ね数百年から1000年ぐらいが、もうそろそろいつ枯れてもおかしくないという樹齢なんですね。もちろん土壌や気候の違いで、200年とか500年で枯れてしまう木もありますけれど。だから300年とか500年とかいう森林を管理していても、おかしくはないんですね。それなのに、たかだか60年くらいの木に「成熟した」という表現を使うのは、生物的には問題だと思います。

 

高井

話が変わりますが、原始林とか自然林などと言いますが、日本にはどのくらいあるんですか。

 

速水様

原始林という言葉よりは、もし使うなら「原生林」ですね。原生林の定義というのが色々難しいですが、簡単に言ってしまえば「商業的にその森林を切ったことのない森林」だと個人的には思います。どういうことかと言えば、シベリアやアラスカの原生林や東南アジアに広がる原生林など、どこも先住民が住んでいれば必ず木は伐っています。船を作る為とか、家を建てる為とか。それについては私は「原生林」としていいだろうと思っているんですね。ただそこに商業資本が入って、森林全体を見て太い木だけ伐ってしまうとする。それは、もう手を付けた森林だと判断してもいいと思います。そういう違いで見るならば、日本は本当の意味での原生林はほとんどないのではないかと。白神も一回伐っているようですね。

 

高井

白神原生林と言うでしょ。木曽はないんですか。それこそ三重県は。

 

速水様

三重県もないですね。一部あまり手を付けてないような森林はありますが、日本で「原生林」と位置づけるのは難しいような気がします。原生林に近い状態の森林というのは、白神も含めて沖縄のヤンバルなどありますが。

私は実は原生林好きでして。2年に一回、ヨーロッパの原生林を訪ねています。ヨーロッパって原生林はほとんどないんですよ。ましてや立ち入り禁止なので貴重なんです。それをコネを使って入れてもらっています。(笑)この2回はスロバキアの森林を訪ねました。原生林に入ると空気が変わるんです。雰囲気というか、木の一本一本の姿もなんとなく違いますし、太さも違いますし。

 

高井

速水さんの所で、一番いい木はどこで採れるんですか。

 

速水様

どこもきちんと管理すればきれいな木が採れます。私が育てているヒノキも、いろいろありますが平均すれば、世の中に流通しているヒノキのベスト10くらいには常に入っているんです。例えば、厳島神社は全部朱に塗ってしまいますよね。ところが能舞台だけは「あらわし」なんですね。塗っていない。そこは全部私のところの木なんですよ。

 

高井

高く売れるんですか?

 

速水様

安くはないですね。直径1mくらいの特別な木ですから。昔は、10mの丸太で、細い所が直径70cmくらいで節の無い真っ直ぐな木を、ちょうど立方数でいうと5立方くらいありますが、それを立方200万円、1本分を1000万円で売ったことがあります。これが私の人生で一番高く売った木ですね。今は同じ木でも100万円いかないかな。今、もう大規模な林業家はみんな赤字ですよ。

 

高井

もともとは林業は豊かだったけど、今は全然ダメだと。林業を放棄する人もたくさんいるのですか。

 

速水様

います。私の知り合いにもいます。やっぱり森林を持ち続けられなくなってしまうんですよ。他の商売をしているのならともかく、林業だけだったらフローが無くなっちゃったらもう資産は増えていかないです。だいたい日本で4大林業森林所有会社が全部赤字だっていうのが問題なんです。彼らがビジネスマタ―で森林を見ないから、政府も同じく見ないんです。ましてや一番大きな国有林も延々赤字です。

 

高井

速水さんの所は何haなのですか。

 

速水様

私の所は概ね1000haです。1000haの面積というのは、全国的に見ても森林所有面積としては大きいです。ただし、林業経営という視点で見ていくと小の上か中の下くらいですね。

 

高井

出口は何があるんですか。アイディアとして。

 

速水様

1998年に京都議定書で、日本は90年度に比べて温暖化ガスの6%削減を約束した。6%というのは先進国の中で比較的大きな数字でした。ところが日本は既にいろいろな配慮をしていたので、その時点でかなり減少していたんですね。物の単位生産あたりのCO2の排出量は世界最小でしたから。そこで、議長国の日本が小さな数字というわけにもいかず6%としたのですが、結果的にその6%の内の3.8%は森林が担うことにしたんですね。この数字は平方キロという森林の面積単位での二酸化炭素吸収量では52.0炭素トンとなり、ロシアの4.1、カナダの3.9、ドイツの11.3などと比べると如何に多くの量が認められたかがわかります。あえて言うなら科学というより、政治的な数字でしょう。

この森林吸収は、過去50年間森林ではなかった土地への植林、1990年時点で森林でなかった土地に対する再植林、1990年以降持続可能な方法で管理されている「森林経営」。これらの3つの条件のいずれかを達成している森林を吸収対象森林としたのですが、この時点で前者の2つの植林は日本ではほとんど可能性が無く、林業経営の1点だけで、3.8%の吸収を担うこととなったのです。

「森林経営」は森林を適切な状態に保つために1990年以降に行われる森林施業(更新(地拵え、地表かきおこし、植栽等)、保育(下刈、除伐等)、間伐、主伐)が行われている森林としたのです。つまり一般的な森林の手入れは全て含まれていたのですが、林野庁は「間伐」のみに光をあてたのです。その後、2001年に森林法を改正しまして、森林管理の目標を、木材生産から多面的機能の発揮に変えたんです。それは実際には3.8%を確保するためのCO2の吸収源としての森林という視点が強かったのです。

この結果、間伐作業に多額の補助金が投入され、世間に「間伐は環境維持に必要な作業だ」と日本独自の理屈で説明をして、間伐材を使うことは良いことだと思わせたのです。それ自体は決して間違いではなかったのですが、市場は木の需要が減っている時に国内の間伐量が増えて、供給過多になり市場が暴落したんです。極端に影響が出てきたのは2003年くらいです。

今は様々な国産の木材利用が始まっていますが、あくまでも安い材価が前提で、少しでも価格が上がる動きがあっても、補助金が作業自体に出て木材価格が安くても伐採を担う森林組合などは労働対価は受け取れますから積極的に伐採します。すぐ木材価格は下がり始めるという山側にとっては悪循環、使う側にとっては国産の木材を使うことがこれほど良い時代はないでしょう。

だからここで、木材を使いやすくするような、例えば木造住宅の固定資産税の評価方法だとか、税制の面で木材を使いやすくする仕組みだとか、あるいは伐ったら必ず植えるサポートとか、そういう面で国が補助をしてくれたらと思いますね。あるいは環境管理に努める森林経営をサポートする補助などが大事です。

間伐や皆抜に今後も補助が出続けると思うんですが、木材流通はある程度は市場経済に任せないと、木を伐ることに関してどんどんとお金を入れている限り、つまり国が関与している限り、木材価格は高くならないと思うんですね。

それから、森林組合っていうのが全国にありますが、私は森林組合の改革を唱えていた1人だったんですよ。森林組合は作業するための作業員を持っているんですね。私は、森林組合が事業計画を立案して、発注するのは間違いではない、そうすべきだと思いますが、作業をするのは民間に任せるべきだと思っているんです。だから作業班を持つのを禁止したらどうかと。そして森林組合の作業員が独立するときに、地方創生の予算を少し使わせて頂いてサポートしていけたらと。大事なのは森林組合から独立していく過程で、作業員だけでなく、そこに必ず安全管理や営業、経理といった専門職が一緒について行けるような資金繰りですね。そういう仕組みを作って作業班が独立していけば、そこに継続的に仕事がつくでしょう。

森林組合は、来年一年はこのくらいの仕事を出しますよ、という仕事量を提示する。すると独立した作業班はその何割を自分達が仕事として取れば、事業が成り立つんだという計算ができる。入札の時に一円でも安く取り合ってくる、という状態になれば地域も仕事も活性化もしてくる。

 

高井

速水さんの夢は何ですか。

 

速水様

小さな森林所有者も、一生懸命育てれば、最終的にはいくばくかの収入がきっちりあって「ああ、木を植えて育てて良かったな」と思える状況を作り出したいですね。大きな森林所有者も、努力しない人は利益が出なくても構いませんが、一生懸命やった人はそれなりに利益を出せるという状況を目標の一つとして、補助金等も含めて、政策をもう一回練り直したいですね。

 

 

髙橋

新聞記事の中で夢で「法隆寺の修正にうちの木を使ってくれたらな」とありましたけど。

 

速水様

法隆寺を世界遺産にするのに、非常に尽力された伊藤延男という先生がいらっしゃったんですよ。イコモス(国際記念物遺跡会議)の副会長を務めていらっしゃいました。法隆寺は1300年の間に1/3の木を取り変えている訳ですが、最初、海外では世界遺産として、それでは真実性が確保できていないという評価になりました。日本の木造建築物は世界遺産に値しない、と。それを伊藤延男先生が木造建築物の維持補修に関しての論文を発表されて、その内容が認められて、そのまま木造の世界遺産の基準になったんです。その先生が私に、「法隆寺は1000年で1/3の木を取り替えているんだけど、このままの割合で行くと今後2000年かかって全部取り替えることになる。君、2000年先までヒノキをちゃんと供給できるかい?」っておっしゃるのですよ。2000年先に日本があろうが無かろうが、世界遺産というのは未来の子供達に人類が残すって約束したんだから、と。

法隆寺であれば300年とか400年の木でしょう。新聞記事にあった夢の記述は別に法隆寺に限った事ではなく、文化財としてそういう木が必要ならば提供できるようにしたいという思いです。

法隆寺の場合は1cmに7本の年輪が入っている等、やはり世界遺産の補修に求める木材の条件が厳しいですね。全く同じ産地のヒノキで、全く同じ工法で、直した箇所が明確に分かる、というのが木造の世界遺産の条件の一つなんです。同じ産地というのは日本国内であればいいとしても、同じような材質となるとそれを目標に木を育てないといけません。

300年先、次の世代がどうするかなんてわからないですが、誰かが最初に始めなければと思ったんですよ。

 以上

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第12回目です。
  • 第12回目は、大鵬薬品工業株式会社特別相談役・ニチバン株式会社名誉会長 小林幸雄様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第12回)■ ■ ■ 

大鵬薬品工業株式会社特別相談役・ニチバン株式会社

名誉会長 小林幸雄様  

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[大鵬薬品工業株式会社 特別相談役・ニチバン株式会社  名誉会長

 小林幸雄様 プロフィール]

小林幸雄様のお写真

昭和38年6月大鵬薬品工業設立、代表取締役社長就任。ニチバン株式会社が倒産の危機に瀕した昭和51年より同社の再建に携わるニチバン再建の立役者。

昭和52年ニチバン株式会社取締役会長就任。現在、大鵬薬品工業株式会社特別相談役、ニチバン株式会社名誉会長。

 

 

 

[今回の同席者は以下の通りです]

  • 大鵬薬品工業株式会社 総務部副部長 兼 秘書室長 坂東康子様
  • 高井伸夫 

取材日:2017年1月31日(火) 於:東京 芝 とうふ屋うかい

 


 

高井

ニチバン株式会社再建に際して、会長には「販売即経営」というものを教えていただきました。この概念の意味について、今一度教えて下さい。

 

小林様

ニチバンに関わるようになった当時、ニチバンは組合が強く、ストライキがよく起こっていました。昭和51年、石油ショックが終わった後です。

メーカーであれば、販売即経営なんてものは唱えなくても販売するのが当たり前です。しかし、当時はストライキばかりで工場の稼働率が非常に悪く、数少ない商品を営業の連中に割り当てて売っているという、常識では考えられない状態でした。営業努力も何もありませんでした。ストライキが多いので、生産量も少ない。会社として立て直すには生産性を上げなければならないと思いました。当時ニチバンは7時間労働で土曜日は休みでした。そういうことで、まだまだ生産できるだろうと考え、営業時間延長をして、土曜日も稼働させました。これがまた組合との係争のもとになりましたが・・。

倒産の危機、会社の現状がそういうことでありましたので、販売しなければ会社そのものを維持できないんじゃないかという事情、背景があったということが、「販売即経営」ということになった次第です。

 

高井

ニチバンの再建を引き受けられた経緯について教えて下さい。

 

小林様

昭和47年以降の第一次石油ショックの時代、他の企業も色々と石油ショックの影響で経営が非常に苦しくなってきていました。ニチバンはもともと製薬会社で、我々(大鵬薬品工業)と同業ですので、業界の会合でお会いしており顔見知りでした。

昭和50年に、当時の歌橋均也社長からニチバンが苦しいということで、大阪工場を買ってくれないかという話がありました。詳しく聞けば、従業員500人を人員整理したとのことでその費用に10億円かかったそうです。10億円を銀行から借りて人員整理をしたものの、銀行から督促が厳しい。石油ショックで土地の値段が高騰していたこともあり、大阪工場は10億円近い価値がありましたので、これを売って返済したいということです。

藤井寺にある大阪工場へ行くと、人員整理した後でもまだ社員が働いていました。工場を売ると言っても、大阪工場で働いている従業員はどうするのか?と聞いたら、従業員のことは考えられない、とにかくはやく工場を売って10億円を返済したい、との話でした。

それならばと思って増資を勧めました。第三者割当をして、我々が引き受けるという形にすれば工場を売らなくても10億円という金を用立てできるのではないか、と提案しました。歌橋社長が一旦会社に持ち帰って検討したそうですが、役員会で非上場会社のよくわからんところの話なんて、ということで、剣もほろろに断られたそうです。

昭和50年の暮れにそういった話を提案しましたが、役員会で断られて話は流れてしまいました。

 

ニチバン再建の話は、いったんは流れていたのですね。

 

小林様

当時、ニチバンは11月が決算、2月が総会でした。昭和51年2月の総会が終わったあとに歌橋社長と再度お会いしました。経営不振で従来の役員を全員リタイヤさせて役員の平均年齢が70歳になりました、と言われ大変驚きました。

 

高井

平均年齢70歳というのは若返ったということですか?

 

小林様

そうです。設立以来の80歳近い年齢の方々がそれまで残っていたそうです。当時私は44歳でしたので、本当に驚きました。3月になって今度は歌橋社長とニチバンの経理担当常務であった茂手木秀一氏にお会いしました。歌橋社長と話をしていたら、茂手木氏から「何の話をしているのですか。明日ニチバンは壊れますよ。倒産しますよ。」という訴えがありました。そこで、「以前申し上げたとおり第三者割当をしたらどうですか。」という話をして、急速に話が進んで行きました。半額時価発行増資を行い、第三者割当によって増資発行株数1200万株をすべて大鵬薬品工業で引き受けることになりました。当時1株89円ですから、1200万株で9億6000万円です。

 

高井

1株89円。正式に支援をされた当時、昭和51年ですね。銀行とのお付き合いは良好だったのでしょうか。

 

小林様

資本参加と同時にニチバンの最高顧問に就任しました。

当時、興銀から招聘した役員の方がああでもないこうでもないと役員会で発言してまあ簡単に言いますとやりにくいのです。思い切って興銀にこの人を引き取ってくれと言いました。そうしたら、興銀の支店長に怒られました。興銀から招聘したのは、ニチバンのオーナーから直々に申し入れがあって派遣したのだと言うのです。私は知りませんでした。その人物を引き取ってくれとは何事かと、当時の東京支店長に怒鳴りつけられました。その時に「興銀を鵺と思えと、ニチバンを壊す!」と言われたのです。私も経営者の端くれです。黙ってはいられません。

当時、ニチバンは設備資金を興銀から7億円を借り入れていました。丁度その時に大鵬薬品工業の取引先に大和銀行があったので、大和銀行に行って、7億円現金で用意してくれと言いました。かくかく云々で興銀の支店長からひどく言われて、こっちも意地があるから7億円を返す、といいました。7億円なんて風呂敷に包んで持っていけるものじゃないと諭されました。しかし、意地があったので、現金で持っていくんだと意気込んで、「ニチバンの従業員20人を動員して持っていくから、とにかく用意してくれ。」と言いました。そしたら「よし、面白いからやるか。」ということで話が付いたわけです。

 

高井

それで、その後興銀とはどうなったのですか。

 

小林様

7億円の話がついたので、すぐに興銀に「今までお世話になりました。ニチバンを壊すなどと言われて穏やかではいられませんので、借金してでも7億円返します。」と伝えました。そうしたら、興銀の支店長が驚いて、ニチバンに飛んできました。「本当に返すのか。」と聞かれたので「明日には届けます。7億円現金で、お宅に運びこみますので、よろしく。」と言いました。そうしたら「待て」と言うのです。聞くと、行内手続の関係で不在にしている副頭取に指示を仰ぐ必要があるから、しばらくこの件は延期してくれ、と言われました。そこまで言うなら仕方がないと思い待つことにしました。

そして1週間後に興銀から電話がかかってきて、副頭取から会いたいので本店まで来てくれというのです。銀行に行くときにはいつも経理担当を連れて行きますが、その時は1人で来てくれということで、変だなと思いました。1人で興銀の本店へ行きましたところ、役員室に通されました。副頭取以下、専務、東京支店長であった常務、役員が7~8人がずらーと並んでいました。そして、副頭取が私の顔を見て、「ニチバンの小林さんはあなたですか?」と言うのです。「東京支店長である上田が興銀に入社して、32年、色々な経営者に会ったが、すごい経営者だ、今まで見たことのないような経営者だと言う。ニチバンの小林さんはあなたですか。」ということで手を握られました。副頭取にそう言われて、私はのぼせ上ってしまいました。

後から思えば、鼻息の荒いのが来るだろうから、ということで色々と打ち合わせをしたのだと思います。副頭取に手を握られて役員食堂に案内されました。役員食堂にホテルオークラのケータリングが入っていたのです。ケータリングのフランス料理を昼間から御馳走になってワインを飲んで、お土産にホテルオークラのクッキーをもらっちゃった。「この件はまあまあ穏やかにして、従来通り興銀とニチバンでやりましょうよ。言葉の行き違いもあったと思うのですが。」ということでおだてられちゃって、ワイン飲んでいい気分になっちゃって。(笑)

 

高井

それで興銀、大和銀行とはその後どうしたのですか。

 

小林様

それで大和銀行に行って、やっぱりお金は要らないといったら今度は大和銀行に怒られました。笑。本当に漫画みたいな話ですが、そういうことがありました。私もまだ若かったので、怖い者知らずで、銀行とやりあったわけです。そういったことで銀行とやりあって興銀と仲良くなりました。

 

高井

そんなやり取りがある一方で、組合との関係はどうだったのですか。

 

小林様

51年の暮れから52年の正月にかけて組合がストライキをやりました。1ヶ月以上続くストライキです。対立が激しくて全然組合と話にならず、もうニチバンはダメだなと思いました。組合自身があまりにも激しくて、この時ばかりは再建は無理だと感じました。そして再建から手を引くとういことを宣言しました。52年の1月20日です。そう宣言したら、経営者にも組合にも必至になって止められました。それで、会社が軌道に乗るまではストライキを辞めてくれということで、なんとか組合と再建協定を締結するに至ったのです。

 

高井

再建協定によってストライキがおさまり、経営は上向いたのでしょうか。

 

小林様

ストライキを辞めたら、今度は在庫が増えてしまいました。そういうことは予測ができましたので、そのうち資金繰りが苦しくなると当時のメインだった富士銀行に夏頃から根回しをしていました。

実際に在庫が増えて資金繰りが苦しくなってきたので、いよいよ実際に話をしようということで、富士銀行の支店長に会いに行ったのですが、なかなか会っていただけませんでした。アポイントが取れず、銀行が開店する前の7時半とかに通用門が開く時間から立って待っていても会えない。支店長が会ってくれないので、ついに富士銀行にも見捨てられたのか・・・と。見捨てられたとなれば対処しなければなりませんので、融資担当の役員の方にご挨拶しなければと思って、常務にアポイントを取りました。

それで、常務にお会いする当日になったら、なかなか会えなかった支店長が出てきて「会うのを辞めてくれ」というわけです。

そうはいっても、役員の方にアポをとっており会わないわけにもいかないので役員の方にご挨拶しました。かくかく云々で・・・ということを話しましたら、常務が支店長を怒りました。「何を考えてるんだ、富士銀行はそんな銀行じゃありません」と。常務が私に頭を下げて「申し訳ない、そんな態度をとった支店長はとんでもない奴だ。従来通り、ニチバンと富士銀行とお付き合いをしてください。」と言うのです。その後、支店長は群馬県の会社に転籍されました。随分厳しかったです。銀行とは不思議なご縁がありました。

 

高井

他にもエピソードはありますか。

 

小林様

実は、三菱銀行でもあります。昔ニチバンの工場が品川にあり、三菱銀行品川支店が当時のメインバンクでした。ニチバンの再建をするに当たり、岩崎寛弥さん、岩崎弥太郎の玄孫に当たりますが、この方にご縁があってご挨拶にいきました。

当時、銀行とは株の持ち合いをしていました。三菱に限らず他の銀行とも株を持ち合っていました。それが、三菱はニチバンの株を全部売ってしまっていたのです。なんだ、三菱はニチバンをもう見捨ててしまっているじゃないかと思いました。三菱銀行の当時の頭取から、それは申し訳ないので本店に来てくれ、と言われて本店に行きました。

銀行には、いつも昼ごろ呼ばれます。役員食堂で、また、ホテルオークラのケータリングでした。当時銀行はみんなホテルオークラのケータリングでした。フレンチです。三菱銀行に御馳走になって、お詫びをされました。その後、三菱銀行はニチバンの株を買い戻しました。80円程度の株価が400円とか、500円になってしまっていたのに買い戻したのです。

 

高井

銀行との話は面白いですね。組合との話より銀行との話の方が面白いですね。

 

小林様

面白い話といえば、私がニチバンの再建をするといったら、銀行は反対をしたんです。興銀が最初に反対しました。再建は難しいからやめろと。大和銀行なんかは潰してから行け、あそこは組合が厳しいから潰してから行けと言いました。そうだった、高井先生だってやめろっておっしゃいましたよ。

 

高井

当時のニチバンは組合が激しくて、再建は難しい状況でした。小林様を奮い立たせたものは何なのでしょうか。

 

小林様

考えてみれば銀行全てにやめておけと言われました。苦労するだけだと。逆にそういわれたことが1つの反発心でした。そこまで言われたら、何とかしなければならないという気持ち、それが大きかったです。

 

高井

ニチバンが軌道に乗るまでにどのくらいかかりましたか。

 

小林様

6年かかりました。私が行ってから、6年赤字が続いて、昭和57年にはじめて復配が出来ました。昭和47年から10年間無配でした。役員賞与も出ていませんでした。復配で役員賞与を出すことになったら、経理担当者が10年間も出していなかったから役員賞与の計算方法が分からないと言いました。そんなこともありました。

 

高井

復配になってからは無配に陥ったことはありませんか?

 

小林様

それからずっと配当は続いています。

 

高井

現在のニチバンには内部留保はあるのですか。

 

小林様

まだまだ少ないですが、セロハンの主力工場の三河安城に移す大阪工場の移設投資も自己資金でやっていますし、子会社ですが、九州にあるニチバンメディカル株式会社も自己資金で作っています。ニチバンそのものは内容のいい会社になっていますよ。

私がニチバンの会長を辞める時に株価が280円から300円くらいになっていました。私が辞める時の株主総会で、それでも株価が安いという意見があったのですが、ニチバンの内容からするとすぐに500円くらいになりますと言いました。そういう内容の会社になったのです。実際に今は、500円を超えて900円になり、1000円を突破しました。私も86歳になりました。

 

高井

本日は、貴重なお話をありがとうございました。

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第11回目です。
  • 第11回目は 株式会社ワールド・リンク・ジャパン 代表取締役社長伊東淳一様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第11回)■ ■ ■ 

株式会社ワールド・リンク・ジャパン 

代表取締役社長 伊東淳一様 

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伊東淳一様[株式会社ワールド・リンク・ジャパン 
     代表取締役社長 伊東淳一様 プロフィール]


日商岩井株式会社(現:双日株式会社)在籍中よりアジアのビジネスに関わり、ベトナムのホーチミン駐在事務所及びハノイ事務所所長を歴任。

2003年に同社退職の後、 故丸目三雄氏により設立された株式会社ワールド・リンク・ジャパンに参画、現在に至る。

投資ファンドの企画・設立・運営やM&Aアドバイザリーサービス、環境、医療、教育、農業分野におけるコンサルタント等、多方面にてご活躍されています。

 

 

 

 

[今回の同席者は以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • スクーナー株式会社 代表取締役社長 樋口 信行 様
  • スクーナー株式会社 専務取締役 樋口 信高 様 

今回はベトナム事業を通じて伊東様と親交がございます水産物輸出入、販売事業を手掛けるスクーナー株式会社のご両名様もお招きいたしました。

取材日:2017年1月11日(水) 於:東京 芝 とうふ屋うかい

 


 

高井

まずは、伊東様の現況をうかがいましょう。

 

伊東様

おかげさまで健康診断も終えて、あと2~3年は頑張ろうかというところです。

今年で71歳になります。今はベトナムに3ヵ月滞在、日本に2週間滞在するというペースで行ったり来たりの生活ですが、元気である限りこのまま仕事を続けようと思っています。

 

高井

ベトナムにいかれて何年になりますか?

 

伊東様

2006年からなので今年で11年目に入ります。その前に1993年から7年くらい滞在していたのでベトナムでの生活は合算すると17年くらいですね。

北は中国国境のラオカイから最南端のカマウまで行きました。出張には南部弁の話せる40代の男性スタッフ、北部弁(ハノイ弁)が話せる女性スタッフを連れていきます。いずれも日本人です。北で南部弁を話すと見下され、南で北部弁を話すと警戒されるといった雰囲気が今でもあります。戦争が終わって40年以上も経つのに南北に分かれて戦った時代の遺恨のようなものがベトナム国民の間には残っているようです。

 

高井

これまでベトナムでお過ごしになられて、一番楽しかったことは何ですか?

 

伊東様

投資ファンドを作ってもらったことですね。そのおかげで今の私があるといえます。日本政策投資銀行の担当者の方がアジアの可能性、ベトナムの可能性を認識しておられて投資ファンド設立を応援してくれたことがうれしかったですね。

アセアンの他国、フィリピン、タイ、インドネシアにも投資活動を広げようとしていますが、中国や韓国が台頭してきており、必ずしも日本の企業と仕事をすることがアジア諸国の皆さんにとって良いことだと思ってもらえない雰囲気があり、アジアで仕事をする日本人や日本企業にとってなかなか難しい時代に突入しているような気がします。

 

高井

これまで大変だったことは何ですか?

 

伊東様

大変だったのは丸目さんが亡くなった時ですね。2012年。もう5年くらい前ですね。(※故丸目三雄様は20代で裸一貫インドネシアに渡り、貿易を手がけながらインドネシア、ベトナム、カンボジアの政府要人をはじめとする幅広いネットワークを築き上げ、日本の東南アジア外交におけるアドバイザーとしてご活躍された方で、株式会社ワールド・リンク・ジャパンを設立された方です。)私自身も2000年に脳梗塞をわずらって、丸目さんに拾われたのですが、二人で会社を立ち上げたあの頃が一番大変でしたね。その大変な時期にスクーナーの樋口さん親子に助けてもらいました。このことは一生忘れません。その恩返しがなかなかできていませんが。

 

高井

ベトナムに進出している日本企業はどれくらいありますか。一般的に、大体成功するのですか?

 

伊東様

正式に計算していませんが、少し前のホーチミンでは、商工会のメンバーで600社くらいでしたね。ハノイも同じぐらいあるのではないでしょうか。

安い労賃を活用して、ものを作って日本へ送る、もしくは東南アジアへ出す、一部をベトナム国内で販売する、というビジネスモデルはうまくいっているようですけど、ベトナム人を相手に国内で物を売る、サービスを提供する、というビジネスモデルは短期間に収益を上げることはまだ難しい段階かと思います。

 

高井

それはなぜですか?

 

伊東様

ベトナムの街並み日本企業は日本の製品レベル、サービスレベルをそのまま持ち込もうとします。中国や韓国の企業はベトナム人の生活レベル、技術レベルに合わせた製品やサービスを提供します。その点で日本企業は後れを取っています。

もう一つは商習慣ですね。ベトナムのビジネスの世界は何でもありで、日本でいえば戦後の闇市があった時代に似ていて商道徳といった概念がない世界ですから、例えば物を売るにしてもキックバックなしでは買ってもらえない、日本のように消費者が何を求めているかといったことには関心が全くないですね。

ベトナム資本のスーパーにいっても、ほとんど棚に並んでいるものは同じ商品ばかり、つまりスーパーの購買担当者にとって実入りの良い商品は棚に並ぶ、そこには消費者のことなど念頭にないということです。もっとも外国人専用のスーパーマーケットにいけば全世界の一流の食品は手に入ります。

そういうことで日本企業が自らベトナム国内の商売に手を出すことは難しいと思います。日本企業はコンプライアンス問題には敏感で厳しいですから。あと、日本の商品は良すぎて、技術のレベルも高く、値段も高いからベトナム人の社会とか生活レベルに合わないですね。例えば、ベトナムのテレビは韓流ドラマが毎日放送されています。それも3-4チャンネルと多い。一般的なベトナム人は韓国のほうが日本より素敵な国と映っている。製品も質が良くて安いと思っている。今、ホーチミンは綺麗なビルは建っているし、髙島屋やイオンにいくと人がいっぱいいるので、お金持ちがいっぱいいるように日本からの旅行者は思うようですが、金持ちは残念ながらほんの一部ですね。ベトナム人の大半はまだ昔からある町中の市場にいって安いものを買っていますよ。あとは、日本企業が失敗する要因は市場調査にお金も時間をかけないことですね。トップダウンでベトナム進出を決めて、そのあとにベトナムを知らない駐在員が現場に来ていざ仕事を始めると日本で聞いてきた話と全然違うことがわかる、というパターンが結構ありますね。

写真は「昔からある町並と、高層ビル(写真中央)が立ち並ぶホーチミンの街並み」

 

高井

伊東様がご存知の企業のなかで、成功しているところはどういう特色があるのでしょう。

 

伊東様

例えばインスタントラーメン等を作っている某食品メーカーはうまくいっているようですね。 日本だと3~4番手かと思いますが、ベトナムではシェア6割、日本の本社の3倍の売り上げ、3倍の利益があるようですよ。90年代半ばに進出して日本式で売ろうとして最初はうまくいかなかったようですが、ベトナムの素材にして値段をさげて、それでもまだまだでしたが、パパさんママさんショップの零細な個人商店に商品をただで置かせてもらって、売れたらお金を支払ってもらうという、富山の薬局方式にしたら急激に売れ始めたようですよ。あとは、某調味料関連メーカー、この人たちは他の開発途上国での経験がありますので非常に上手にベトナム国内市場に入り込めている。某自動車メーカーは世界を席巻する技術とブランドがあるので競争がほとんどない、競争するとすればベトナム人の購買能力だけですから自動車やオートバイという産業は別格ですね。

 

高井

人々のくらしは良くなりましたか?

 

伊東様

20年前にくらべたらはるかによくなっています。でも、相対的には所得格差が広がってきている。特に若い人々の間から、不満がでているのが心配ですね。あと共産党に入る人がいない。共産党はお爺さんお婆さんばかりで、自然消滅する可能性もありますね。政府もそれを心配してなんとか若者に魅力のある政策を打ち出して共産党離れを防ごうと努力を始めています。

 

高井

海外に留学する若者は多いですか?

 

伊東様

お金持ちの息子、娘はアメリカ、カナダ、シンガポールそしてオーストラリアに留学するのが多いですね。日本もかなり留学生が多くなってきているようですが、実態は出稼ぎ留学生であって、純粋な留学生はあまり増えていないような気がします。残念ながら、日本に留学しても米国に留学しなおすという事例がかなり多いです。たぶん、これは日本に留学しても日本企業に正社員として採用されるケースが極めて少なく、また、ベトナムに帰ってきても結局は英語ができないと良い就職先が見つからないからでしょう、日本企業は今でも現地採用の「使い捨て」的な雇い方で、高い経費のかかる日本人を相変わらずベトナムに送り込んでくるので、ベトナムの若者にとって日本企業への就職は必ずしも魅力的ではない、という事情があるように思います。

日本語を話すベトナム人は多くなりましたが、ベトナム人の若い人たちは地味なものづくりに対する取組姿勢がやや欠けている気がします。これは上の世代がそうだからなのかもしれませんけれども、金融やIT業界のような華やかな職業に憧れがあって、地道に油まみれになってものをつくることに生きがいを感じる若者が少ないです。それがベトナムの将来を考えた時に心配ですね。ベトナム人はものづくりに対する素質があると思うんですよね。日本、中国、朝鮮半島の人たちと同様にベトナム人は箸をつかう民族ですし、大乗仏教、儒教と日本と似たような文化が根付いていますから、他の東南アジアの国民と少し異なります。生来的にものづくりに向いている人々だと思うのですが、しかし手っ取り早く金持ちになりたいという気持ちが先行してITや金融に走りますね。

 

高井

ベトナムの今後の発展性はいかがですか?

 

伊東様

私がみてきてこの20年間ですごく進化しましたね。

基本的にベトナム人は植民地の経験があるから外国人を信用しません。その後のベトナム戦争、これはアメリカとの戦争ではなくて、北の人間と南の人間の戦いでした。だから未だにお互いに不信感があるので「信用経済」がなかなかうまれません。これは他のアジアでも同じような例はありますけど、タイの場合、植民地の経験もなく、深刻な民族対立の話もない、華僑がうまいことタイ族と同化しているので、今日のようにかなりの程度まで経済発展しました。しかし、最近、タイもマレーシアもこれ以上の経済発展は期待できない、つまり「中所得国の罠」にはまっている、と言われ始めています。日本は80%内需で生きている国ですが、タイもマレーシアも外需に依存しており、内需がなかなか大きくならない。つまり「信用経済」がなかなか膨らまないので商業が発展しないのです。

その点日本は幕末のころから信用経済が発展していて、東北の田舎から京都に出稼ぎにきて新選組に入隊した侍は、給与を京都の両替商から東北の実家に送金できていました。それは武士道と同じように石門心学、石田梅岩や鈴木正三らが唱えた、商人はつましく、真面目に正直に生きるという、「商人道」が根付いていたんですね。ヨーロッパでは資本主義が発達したのはプロテスタントの興隆と軌を一にしているといわれますが、しかし、残念ながら他のアジア諸国には「武士道」もなければ「商人道」も生まれなかった。経済活動の準備運動もないままにいきなり植民地にされてしまった。これはその後のアジア諸国の経済発展に大きな影を落としているように思います。日本のように8割を内需に依存している国はアジアには一つもないです。アセアン諸国がこれ以上の経済発展を望むならば内需をどのようにして大きくしていくかその仕組みを考えなければいつまでも外需に頼るような「植民地経済」から脱皮できない。もちろんベトナムにも同様なことが言えます。

 

高井

ベトナムの発展に影響を及ぼしているのは植民地が1つ、南北の対立が1つ、あと1つは何でしょうか?

 

伊東様

共産主義ですね。共産主義の亡霊が生きていて、できるだけ国民は平等にしようという意思が働き、伸びるところを抑えつけようとします。それでいて共産党や行政府の幹部の子弟をアメリカなどに留学に行かせて、ベトナムの教育レベルは低く抑えたままにしている、という矛盾がいろいろなところであります。今の首相や大臣クラスはまだ戦争を知っている世代ですが、戦争をしらない世代が次官クラスに就きはじめています。彼らが大臣になるころには、3つの亡霊(植民地支配の過去、南北の対立、共産主義)はかすんでしまい、新しいベトナムが生まれると期待しています。

 

高井

70歳になった伊東さんは今後どうされるのですか?

 

伊東様

社会主義の国は医療、教育、環境そして農業といった分野がとくに遅れている。ベトナムもそうです。日本はこれらの分野では先生になれるかなと思いますね。住環境についても、金持ちや外国人相手の高級マンションはたくさん作られますが、若者たちは一生かかっても家が持てないという現実に直面しています。日本の住宅公団や住宅金融公庫のような仕組みをベトナムに導入して、住宅事情を変えてみたいですね。

それと、ベトナム政府上層部では「日本との関係を1990年代のようにもっと緊密にしたい」という希望があります。中国や米国の動きをみているとベトナムは大きな流れの中に飲み込まれそうな気がしているのかもしれません。故渡辺美智雄さんがベトナムの門戸を開き日本のODAを再開しましたが、その時お手伝いしたのが先代社長の丸目さんと当時日商岩井に勤務していた私でした。その経験を生かしてもう一度日本とベトナムの緊密な関係作りに貢献できればと考えています。あとは会社の後継者を育てることですね。

ベトナムの川岸

写真は「ベトナムでお手軽なシクロ(自転車タクシー)」

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第10回目です。
  • 第10回目は、富士大学学長岡田秀二先生です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第10回)■ ■ ■ 

富士大学 学長 岡田秀二先生

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[富士大学 学長 岡田秀二先生 プロフィール]

岡田秀二先生画像

 

1951年北海道生まれ。農学博士。専門は森林政策学、山村経済論。岩手大学農学部を卒業後、北海道立総合経済研究所研究員を経て、岩手大学へ。1994年から岩手大学農学部教授。

現在、富士大学学長。著書に『地域開発と山村・林業の再生』(1988)、『山村の第三セクター』(1996)、『現代森林政策学』(2008)、『世界の林業―欧米諸国の私有林経営―』(2010)、『「森林・林業再生プラン」を読み解く』(2012)等がある。

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 株式会社ことば未来研究所 代表取締役 鮒谷周史 様 

取材日:2016年11月5日(土)日本料理 対い鶴(ホテルメトロポリタン盛岡 NEW WING 1F)

 


 

高井

林業が少し持ち直したという情報があるのですが。

 

岡田先生

はい。基本的には持ち直しつつあると思います。我が国は、可能性ですけれども、森林資源という意味では資源大国です。具体的に資源化するためには、それなりの生産基盤投資をしていかなければならないのですが。

 

高井

現実に森林が「よみがえる」のは、どういう分野でよみがえるのですか。具体的に住宅問題なのか、あるいはバイオマスなのか。

 

岡田先生

住宅に関しては、日本の木材を使って生活様式に合った住宅を建築したいという需要が依然としてあると思います。一番木材を使ってほしいのは、実は公共等建築物です。木質できちんとしたケアをしていく、そういう施設化というのは、日本みたいな先進国家には絶対と言っていいくらい求められるし、当然の要求として出てきていると思っています。木質材料の使い道は依然としてあるし、木質は大変ありがたいことに劣化して腐ります。すなわち、一定の期間の後には、新しい材料で置き換えていくということが当然のように出てきますから、限りなくこの材料に対する需要というのは続いていくということです。

平成23年度以降の「森林・林業基本計画」では、自給率を2030年までに50%に上げるということになっています。公共建築で大きく増やそうということを考えています。また、オリンピックはで木質の施設、木造の施設を使うということで、流れが木材に向かっており、期待しています。

 

鮒谷様

林業においては、後継者というかそれに携わる人間というのは見立てとしては、どうなっていくのですか。

 

岡田先生

端的に言うと、林業経営の実態を有する林家や会社の経営者、あるいはその子どもたちや孫たち、その人たちがどんな意向を持っているか、それ次第です。私自身は、農山村の奥地の集落でも人が住まうようになることが、この国土空間を丸ごと循環型の国土空間にしていくうえでは絶対に必要だし、これからは展望があると思っています。森林資源の持っている可能性というものは、ものすごく大きいですから。

 

鮒谷様

農業に行く人間というのは、最近ちょっと意欲のあるというか志を持った人が行くというのはあるのですけれども、林業のほうにそういう動きというのはあるんですか。

 

岡田先生

間違いなくあります。

 

鮒谷様

もう今、現にそういう人も現れているんですか。

 

岡田先生

はい。その助け舟になったのは、バイオマス発電です。バイオマス発電では、どんな木材からでも発電することができるため、どんな木材でも売ることができます。

 

鮒谷様

じゃあそういうことを意識して、もう入ってきている人間も現に現れつつあると。

 

岡田先生

間違いなくいます。真庭市(岡山県)は、その例です。木材を100%利用できる、そういうサイエンスはもう出来上がっているんです。あとは、誰がそれに金を出して操業化していくかという、そういうレベルに入っています。森林業革命とか、緑の産業革命という言葉を使っているのですが、森林業すなわち森林そのものを内部経済化(注1)すること、これからは地域化という方向性を持つ局面も出てくる可能性が高いということを一生懸命に言っています。すなわち、森林空間そのものが経済地域化していく可能性を持つ、それが我が国なのです。

注1「内部経済化」:企業自体の設備投資や経営能力の向上によって生産費が低下し利益を得る状態にすること。

 

高井

岩手県全体の農政としては、林業を含めて優れているのですか。

 

岡田先生

どの角度からどの視点で評価するかによって、ずいぶん変わってきますが。トータルに考えて、全部が良い方向に行っています。満点だとは言えませんが、いろいろなチャンネルを出しながら、市民に県民にできるだけ森林の公益性、多様な機能をお返しすることができています。

農のところでは、我が国の農業は米一辺倒でやってきたわけです。そうではなくて、これだけ山がちで傾斜地農業ですから、そこは土地にふさわしい食品、土地にふさわしい作目、これを上手に田畑輪換あるいは森林と畑地輪換、そういうことをしながら忌地(いやち)(注2)現象も起こさずに、生産力的に許してくれる範囲で作目構成をする。そして、できるだけそこの耕土の豊かさを肥沃度を保ちながら、我々が享受可能な生産レベルを土地に聞きながらやる。そういう回路も出しています。一方で、農業の「業」の中身は何かというと、売ることが目的であり、商品化することが目的です。「業」は、単なる「農」ではない。「業」と「農」には違いがある。そうすると、平場地域は、それなりの生産性をきちんと高めることです。田んぼは、忌地なしでやれるわけですから、そこを上手に実現しながら国民そしてそれをも超えるところに、製品を提供することが大事だと思っています。

注2「忌地」:連作障害ともいう。同一作物の連作によって生育がはなはだしく不良、あるいは生育不能となる現象。忌地を起こしやすい作目はえんどう、トマト、なす、亜麻、里芋、すいか、メロン、大麦、桃、いちじくなどが知られている。

 

鮒谷様

林業というのは、人が相当程度に関わらなければ、機械化というのは難しいのですか。

 

岡田先生

今は完全に高性能機械です。

 

鮒谷様

日本は林業において先進国のようなイメージがあるんですけれども、実際のところはどうなんですか。

 

岡田先生

育てることと、木の性質を把握すること、人間が使い勝手が良い木の樹種の多様さ。南北に長いですし、雨が多いですし、季節がありますから、自然を理解し、木を適利用に据えること、そのことについては確かにスキルは高いと思います。しかし、工業化のところについては遅れています。

 

鮒谷様

相当大きく工業的にやるのでなければ、相変わらずチェーンソーですか。

 

岡田先生

そこが重要です。規模と稼働率、これで経営的には機械化をしていいのかどうか、あるいはどのレベルでするのがいいのか。そして、機械化で上手にサプライチェーン(注3)をつないでいくことができているかどうか、そこが経営としては、いわば「みそ」のところです。

注3「サプライチェーン」:サプライは供給、チェーンは連鎖の意味。製品の原材料が生産されてから消費者に届くまでの一連の工程。

 

高井

「政府がこういうことをやったほうがいい」というのは何ですか。

 

岡田先生

1つ目は、今日非常に大事な点です。森林は温暖化を食い止めると同時に、出してしまったものを吸収する唯一の資源ですから、森林をきちんと整備していかなければいけません。IPCC(注4)にカウントされる条件が決められていますから、少なくともそこに対しては、当初予算で予算措置をすべきと強く思っています。

2つ目ですが、森林が森林としてあるだけでなく、使いながら管理するということです。生命体ですから成長しますが、ピークがあって衰退を必ずしていきます。それを刻々と見ることができて、そして「今が使い時だ」、「これからあとは、むしろ更新をさせるべきだ」と、こういうことがきちんとわかることが大事です。しかし、森林はものすごく大切な公益財産であり、また、経済財でもあって、生産と財の提供が出来るにもかかわらず、個人財産でみんな自分の意のままにしたいという、そういうレベルでとどめているわけです。だから、ここを打破していくことが大事です。地球環境問題一つを取ってもそうですし、地域経済の活性化を考えても、そこが打破できるかできないかというのが決定的に大きい問題としてあります。

3つ目は、森林が具体的に資源となるための生産手段が足りません。具体的には林道が足りない、作業道が足りない、道路密度が足りない。日本は、依然として路網密度が足りておらず、ヘクタール当たり10メートルを超えたところです。道路網に関しては、公の投資として急いでやるべきだと、強く思っています。

4つ目は、1999年の地方分権一括法によって、だいたい400近くの法律が首長権限に移ってきました。実は、森林マターのところが多く移っているのです。担当の職員がやるわけですが、森林・林業について知識がない職員が圧倒的に多いのです。国家責任、地方自治責任、公責任でもって専門性を持つ行政職員をしっかりと専門のわかる職員の育成を急いでやってほしいと思います。日本では森林計画制度というんですけれども、要するに国家のレイヤー(注5)と、都道府県のレイヤーと、市町村のレイヤーと、所有者のレイヤーで「それぞれ責任をきちんと果たしてください」という仕組みを作っているんですが、全体として制度が機能するためには、市町村部分に梃子入れしていかなければならないと思います。

注4「IPCC」:気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change)の略。国際的な専門家でつくる、地球温暖化についての科学的な研究の収集、整理のための国連の組織。

注5「レイヤー」:層。階層。

 

高井

機能していないね。

 

岡田先生

市町村の森林整備計画制度というのがあるんですけれども、そこが機能していません。職員が足りないです。市町村の森林整備計画制度を作るにあたっては、「きちっとした専門性のある人の意見を聞いてください」、「アドバイザリーボード(注6)をつくって、意見をきちんと聞いてください」ということを、今回、法律でもきちんと書き込んでいます。それもできていません。

注6「アドバイザリーボード」:諮問委員会

 

高井

だから空理空論になっているわけですね。本日はありがとうございました。

 

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第9回目です。
  • 第9回目は メルコスール観光局 池谷光代様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第9回)■ ■ ■ 

メルコスール観光局 池谷光代  様

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【池谷光代様プロフィール・ご紹介】池谷光代様お写真

東洋大学短期大学にて、観光学を学び、卒業後一貫して、観光業に従事。全日空商事株式会社を経て、サンフランシスコにて日系旅行会社に勤務。1997年に、ある偶然の出会いがきっかけで、アルゼンチンに渡る。その後、約10年間、アルゼンチン・ブエノスアイレスに滞在し、旅行会社勤務を経て、ブエノスアイレス市公認観光ガイド、各種コーディネーター等の仕事に携わる。

アルゼンチン観光省との縁より、現職であるメルコスール観光局〔※説明はブログ本文ご参照ください〕にて、メルコスール加盟国の観光のプロモーション業務の為、2007年に帰国。

現在、南米とひとくくりには出来ない、国柄も文化も違う5カ国の観光省とのコーディネート、観光PRイベントの企画、手配、運営、観光セミナー講師等を担い、2012年には、一般社団法人日本旅行業協会より、4カ国(当時)観光省とのコーディネート力、日本の旅行業界への貢献を評価され、「ツーリズム大賞2012観光局部門」を受賞。

日本、米国、アルゼンチンと国内外の民間企業勤務の経験と、現在アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ5カ国の観光省という外国公的機関とのコーディネート経験、国柄も文化も違う5カ国をコーディネートするコーディネート力、そのユニークなキャリアが業界から評価されている。

日本と海外の旅行社勤務の経験を経て、現在観光局で観光PR に従事するという、観光を学ぶ学生から憧れられるキャリアを持つ女性として、またユニークな経験談が評価され、大学や専門学校から、観光学科学生向けの講義依頼等も受けている。

【今回の同席者は以下の通りです】

  • 久佐賀義光様
  • 三井物産株式会社(1955年4月-1992年6月)にてアルゼンチン(ブエノスアイレス)化学品課長、ドイツ(デュッセルドルフ)化学品部長、中国(北京):初代中国総代表を歴任。アルゼンチン勤務は1962年12月~1968年1月の5年に亘る。

  • 高井伸夫

今回は、アルゼンチン勤務経験のある久佐賀義光様をもお招きして、お話をお伺いいたしました。
(取材日:2016年12月1日(木)中国飯店市ヶ谷店)

 

 

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高井

南米とかかわるようになって何年ですか?

 

池谷様

来年(2017年)で20年になります。

 

高井

南米に関するお仕事ですが、19年間どのようなことをされてきているのですか?

 

池谷様

アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで旅行会社に勤務したのをきっかけに、一般旅行業務、ブエノスアイレス市公認ガイド、イベントのコーディネーター等をしていました。その後、アルゼンチン観光省と縁に恵まれ、現職の観光局に関わるようになりました。ずっと、観光業に携わっています。

 

高井

池谷様が日本に戻られてまもなく10年ですが、日本に戻られてから他の南米の国とも関わるようになったのですね?それが、メルコスールの国々だったのですね?

 

池谷様

そうですね。メルコスールというのは、日本では聞きなれない言葉かと思いますが、アルゼンチンとブラジルとパラグアイ、ウルグアイとベネズエラの関税同盟の名称です。

それまでは、アルゼンチンの観光だけに関わっていましたが、日本に帰国後、その周辺諸国にも関わることになりました。日本では南米というとまるで同じ国のようにひとくくりで見られる方が多いように感じますが、日本とその周辺のアジア諸国が異なるように、南米大陸の各国はそれぞれ異なります。それぞれに独自の文化があり、異なる面もありますが、お隣通しの国が手を組んで一緒に観光促進をするプロジェクトは、とても興味深いと思います。

 

高井

アルゼンチンの魅力は何ですか。

 

池谷様ペリトモレノ氷河

まず、アルゼンチンの最大の魅力は大自然ですね。アルゼンチンの国土は日本の約7.5倍です。

観光で特に人気なのは、南部のパタゴニア地方にある世界自然遺産ロス・グラシアレス国立公園の「ペリト・モレノ氷河」です。

アンデス山脈から30KMの距離を、氷河の名の通り、氷の河が湖に流れていて圧巻です。そして、遊歩道からその氷河を目の前に見ることができます。もし、東京の中心部にそれがあったとしたら、その氷の壁は、日本橋から浜松町まで続き、上を見上げるとその高さはビルの20階ぐらいと同じ。

そんな大きな真っ青な巨大な氷河があるんです。すごいと思いませんか?

(写真;ペリト・モレノ氷河・手前に遊歩道あり)

また北東部にいくとアルゼンチンとブラジルの国境に、イグアスの滝と呼ばれる世界遺産に登録されている滝があります。この滝は、なんと275本の滝が連なって、幅が2.7KMにもなるんです。日本橋から新橋ぐらいの距離!(笑)イグアスというのは、この辺りに住んでいた先住民グアラニー族の言葉で、「大いなる水」という意味ですが、訪れた人はその言葉の意味を、思う存分体感することができると思います。日本にはない景色です。

北部に行きますと、190KM続くウマワカ渓谷のある村に7色の丘を持つ村があったりします。

 

高井

丘の色が7色なのですか?

 

池谷様

ウマワカ渓谷

そうです。地層の色が7色です。この丘は、世界遺産ウマワカ渓谷のプルママルカ村というところにあります。自然の作った素晴らしいグラデーションです。さらにアルゼンチンの自然の魅力を語りだしたら、今のこのお時間では足りないぐらいです。

他にもちろん、まだまだたくさんありますが、お時間もありますし、もしもうひとつしか選べなかったら、それは間違いなく「人の温かさ」と言いたいです。例えば、地下鉄に乗っていて、妊婦さんやお年寄りが乗ってくると、どなたか一瞬で席を立ちます。日本のように寝たふりをしている人なんて皆無です。そして、家族や友人をとても大切にするアルゼンチン人。例えば、もし、あなたが年末年始などの人が集まる季節に一人だったら?そんな時は、こんな声が聞こえます。「ひとりでいるもんじゃない、うちに来なさい!一緒に楽しもう!」日本では、家族の集まりに他人が加わるといった習慣は、あまりないかもしれませんが、アルゼンチンの人達は、あなたが誰だからというわけでなく、ただ人とのつながりをとても大事にしてくれる人々だと思います。

(写真;ウマワカ渓谷7色の丘)

 

高井

治安はどうなのでしょうか。

 

池谷様

南米の中では、比較的良いと思います。首都のブエノスアイレスには、東京にもあるような、バス停で乗り降りできる2階建て観光バスが走っています。治安が悪いところでは、バス車内強盗などがあったりしますが、乗り降り自由な観光バスが運行しているということは、比較的治安がいいといえるかと思います。

また、治安が悪い国ではお勧めできない長距離バスも、アルゼンチンでは全く問題ございません。

 

久佐賀様

アルゼンチンは南米で一番安全な国ではないでしょうか。私がいた当時は夜中の1時2時に町の中を1人で歩いていても、全然怖さを感じませんでした。

 

高井

観光業のお仕事で一番のやりがい、醍醐味は何ですか。

 

池谷様

やりがいは、仕事に限界、リミットがないことです。

 

久佐賀様

何でもできるということでしょうか。

 

池谷様

例えば、今観光地でないところがあったとします。その場所は、未来にはお客さんが来てくれるような場所に、育てることができます。創造性には、リミットはありません。

観光業は、代金を支払う時は、商品を手に取って品定めして買える商品でなく、その観光地にいる時、もしくは家に戻ってきてから、その価値がわかるものです。

同じ代金でも、同じ観光地でも、まあまあだったという人もいれば、一生忘れない思い出になる人もいればさまざまです。そんなひとりひとりの違う人生の一部に関われると思うと、ロマンを感じます。多様性があり、そういった面にもくくり(リミット)がありません。

また、お勧めしたところへ行ったお客さんに「楽しかった!いい思い出になった。」と言われること、その方の喜びが私の喜びになるときは、観光業に携わって、本当に良かったなと思います。

 

高井

池谷様が開発された観光地はありますか?

 

池谷様

テレレ茶器

そんな大それたものはありませんが、アイディアを採用していただいたことはあります。パラグアイでの話ですが、テレレというマテ茶を冷たくしたものを、飲む習慣があります。このテレレは(アイスマテ茶)、ポットに注いで飲むのではなくて、特別な容器に入ったお茶を、銀のストローのようなもので飲むという、独特の飲み方をします。パラグアイでは家庭で飲むもので喫茶店等では飲むことが出来ません。しかし、街中では小脇にポットを抱え、日本人には見たこともない専用容器で飲んでいるのを見かけるのです。そんな姿をみたら、観光客は益々味わってみたいものです。でも、喫茶店やレストランでは飲めない。そこで、こんな提案をしてみました。旅行会社のツアーでは、お客さんに1日1本ミネラルウォーターを付けていたりします。パラグアイ滞在中は、ミネラルウォーターの代わりにテレレセットを用意し、テレレ体験をしていただき、その入れ物はお土産として持って帰れることにすればお客さんが喜ぶのではないでしょうか?ということを提案しました。現地の旅行社は、灯台下暗しとでもいいましょうか、自分たちの毎日の当たり前のような習慣が観光客にはとても興味深いということに、今までは気が付かなかったそうです。そして、思った通りそれを実行したら、お客さんにとても喜んでもらえたという例がありました。

(写真:パラグアイ、テレレの茶器)

 

高井

観光業のお仕事で一番苦労されるのはどのようなことですか。また、日本人がアルゼンチンに観光で行って一番苦労することは何ですか?

 

池谷様

現職では、文化の違いから価値観の違いもあることを、理解するよう心がけています。

日本人がアルゼンチン観光に行って一番苦労すること?なんでしょう?(考え込む)スペイン語の文字が飛び込んでくることでしょうか?(笑)観光地は、英語は通じますし、身振り手振りでも相手を理解しようという人がたくさんいるし、食事も素材を使ったお料理ばかりで日本人の口に合うし、苦労ではなく逆にたくさんの楽しみが待っているはずです。

 

高井

価値観とおっしゃいましたが、どのような価値観ですか。

 

池谷様

例えば、簡単な例だと、日本ではメールを受けとったら、それに対しての回答がすぐ出せなくても、受け取りましたという受信メールを返信する方が多いかと思いますが、私が一緒に仕事をしている人たちは、回答が出てから連絡がくることが多いです。ですから、数日間は、メールを受け取ったのか受け取っていないか分からない時間があります。

彼らたちにとっては、聞かれたことの回答がわからないから、確認してから書こうとただ思ったということだそうです。自分の価値観だけで考えてしまうと、その数日間はイライラするかもしれません。しかし、どちらがいいか悪いかではなく、お互いのやり方を尊重し、確認しながらミスコミュニケーションがないようにしています。また、各国間とは、メールのみで、ほぼやり取りするのですが、些細なことでも全てをちゃんとシェアしていくことを心がけています。これをとても大切にしています。5か国で仕事のリズム、文化が違うので、アルゼンチンもブラジルもウルグアイもパラグアイもベネズエラも南米大陸にありますが、国が違うわけです。日本だってアジアの1つだけども、お隣の中国とも違うし、韓国とも違う。それと同じです。

南米は、大陸でつながっているけれど、違う国同士、考え方の違いも生まれますし、そういうことを理解しながら、バランスを取りながら仕事を進めるというのが、一番、難しいと言うか、気を付けていることです。

 

 

高井

ところで池谷様はボランティア活動も積極的に行っていらっしゃると伺いました。どのような活動をされていますか?

 

池谷様

最近は行っていませんが、東日本大震災と広島の土砂災害でのボランティアの経験が印象に残っています。東日本大震災では、震災後に岩手の釜石と宮古へ行きました。

 

高井

ボランティアに行って、感じたことを教えて下さい。

 

池谷様

災害の現場に際して一番感じたことは、自分がテレビを見た時の想像と、実際の被害の大きさの違い、自然災害の恐ろしさは、テレビだけでは表現できないと感じました。そして、被災された方について、東北の場合は、何もなくなってしまって、更地になってしまっていて、平地になってしまって、それでも人は立ち直ろうとする、東北の人の強さを感じました。何にもない道を釜石から宮古まで走った時に、ただの更地といっても、平原ではありません。アルゼンチンの大自然の平原とは違います。町があった場所です。全く何もなくなってしまった、こんな状態になっても、立ち直ろうとする人のすごさを肌で感じました。

広島の土砂災害は、「横の家は大丈夫だったけど、うちはダメだった、というように、間一髪の差で全てがなくなっている、それを認めるまでは時間がかかったけれども、これからがんばっていく、復興していく」とお話を伺い、人間の強さというのは、すごいなと本当に思いました。

 

高井

本日は貴重なお話をありがとうございました。

 

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第8回目です。
  • 第8回目は アタックス税理士法人 酒井悟史様、株式会社リクルートキャリア藤井薫様(50音順)です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第8回)■ ■ ■ 

 

アタックス税理士法人 公認会計士・税理士  酒井 悟史 様

株式会社リクルートキャリア リクナビNEXT  編集長 藤井 薫  様

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昨今テレビや新聞を毎日賑わせている「人工知能(AI)」。人工知能が私たちの生活に及ぼす影響は甚大であり、今まさに大きな注目点です。より多くの方々にこの問題を身近に感じ、また考えていただく機会となることを願い、昨年4月~6月、「週刊 労働新聞」において連載「人工知能が拓く未来~人事労務分野への影響~(全12回)」を企画し、私を含め5名で執筆させて頂きました。

また同年10月には、ユカイ工学株式会社 代表 青木俊介氏と、株式会社リクルートキャリア リクナビNEXT編集長 藤井薫氏の2名を講師にお招きし、特別セミナー「AI(人工知能)が拓く未来 ~人事労務分野への影響を探り可能性を考える~」を開催し、企業におけるAIの活用状況や人間とAIのこれからの付き合い方についてお話しいただきました。

今回の一問一答は平素より小生が「AI」や「ビックデータ」についてご教示頂いている、アタックス税理士法人酒井悟史様、また上述のセミナーで講師をお願いした株式会社リクルートキャリア藤井薫様にお話しを伺いました。

 

酒井悟史様写真

[アタックス税理士法人 酒井悟史様プロフィール]

 

アタックス税理士法人 公認会計士・税理士 慶應義塾大学経済学部卒。

 
有限責任監査法人トーマツ・トータルサービス事業部を経て、2014年アタックス税理士法人に参画。トーマツでは、監査業務の他、株式公開支援、業務プロセス効率化支援、連結財務諸表作成支援等に従事。現在は、主に上場中堅企業の法人税務業務の他、相続対策や資本政策等に従事している。

 

 

 

藤井薫様写真

[株式会社リクルートキャリア 藤井薫様プロフィール]

 

株式会社リクルートキャリア   リクナビNEXT編集長 兼 株式会社リクルートホールディングス リクルートワークス研究所 編集委員 兼 リクルート経営コンピタンス研究所 エバンジェリスト 
リクルートキャリアリクナビNEXT編集長。


88年、リクルート入社。TECHB-ing編集長、Tech総研編集長、アントレ編集長を歴任。リクルートワークス研究所、リクルート経営コンピタンス研究所兼務。16年4月、現職に就任。

 

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫

(取材日:2016年11月15日(火)場所:中国飯店市ヶ谷店にて)

 


 

高井

本日はお集まりいただきありがとうございました。まずは皆様の近況をお伺いしたいと思います。まずは酒井さん、近況を教えてください。

 

酒井様

フィンテック企業(注1)のサービス等により、一次データの収集を通じて顧客行動を可視化したり、収拾したデータを後工程に転用して経理作業を効率化する支援をしています。また収集データの分析結果に基づいて、経営のアドバイスをしています。例えば、担当している美容業界の会社で言うと、店舗別スタイリスト別・曜日別時間別のデータを活用し、再来店率の向上に向けた取組みを会社と一緒になって検討しています。またクリーニング業界の会社では、店舗別のデータを収集するための仕組み作りや、一次データの後工程転用による経理処理の自動化する仕組み作りを支援しています。そもそもクリーニング店でのお客様データは、店舗での接点でしか収集ができなかったため、アナログなレジだとお会計が済んだら完結してしまい、そのデータを後工程で活用しようという発想がありませんでした。今まで見えなかった店舗別の顧客動線を可視化することで、洗濯物の収集ルートや回収先の工場を見直すことで、業務の平準化に活かす仕組みづくりの支援をしています。

注1 フィンテック企業:「フィンテック」とはファイナンスとテクノロジーの2つを併せた造語。「フィンテック企業」とは金融IT分野のベンチャー企業(新興企業)を呼ぶことがある。


高井

大手企業はどのような仕組み作りをしているのですか。

 

酒井様

大手企業は独自の基幹システムやPOSレジ(注2)を導入し、一次データの収集・活用をしているケースが多いです。中堅中小企業は業務の中にデータを収集する仕組みを組み込んでいない場合が多いため、業績に変化が生じた場合、原因の特定ができない、あるいは非常に時間がかかるため、効果的な改善策を実行できない、または実行が遅れることがしばしばあります。

 注2 POSレジ:売上が発生する時点で、その買上げ商品の値札に付与されているバーコード情報をスキャナーで瞬時に読み取り、その商品の部門、品名、値段などを画面に表示しレシートに印刷。それと同時にレジ本体の記憶部(メモリー)に各種情報を記録するレジのこと。


高井

藤井さんの近況はいかがでしょうか。


藤井様

リクルートグループでも美容業界への経営支援を展開していますね。ホットペッパービューティーという、ヘアサロンやネイルサロンの検索・予約サービス(BtoC)がありますが、経営支援ということで言いますと、『SALON BOARD』という顧客管理システムもサロン向けに展開しております。 また飲食店の予約サービスである、ホットペッパーグルメでは、Airレジ(注3)を使い、会計などの業務プロセスと販売促進を組み合わせて、より広範に経営を支援するお手伝いをしています。そうした意味では、リクルートは個人向けサービスに加え、企業向けサービスまで含めた、経営並びに業界全体の支援にチャレンジしています。

注3 Airレジ:0円でカンタンに使えるPOSレジアプリ。会計の際伝票を作成せずに、ipadを使用することで、30分後の空席状況を把握でき、リアルタイムでホットペッパーグルメのサイトに反映できる。


高井

美容室は、リピーターを増やす事、また売上を増やすために、シャンプーなど物販販売をして顧客単価を上げることが重要だと思います。


藤井様

そうですね。物販販売や、ECサイト(注4)を持っている美容室もありますね。顧客単価の向上以外に、経営課題としてますます重要になるのが、人的資本の最適化も含めた生産性の向上です。これは美容業界だけに限らず、飲食業界、介護業界など、全てのサービス産業の企業に当てはまります。パート・アルバイトのシフトの最適化、長時間労働の是正、従業員の離職率の改善、さらに定着率の向上と能力の開花。そして生産性の向上。これらは、人口減少社会の中で経営を行う、全ての企業の重要な経営命題だと思います。そうした社会構造的な課題解決にリクルートグループはお手伝いをしていこうとチャレンジしています。

注4 ECサイト:自社の商品やサービスを、インターネット上に置いた独自運営のウェブサイトで販売するサイト


高井

リクルートとしてビジネスになっているのですか。


藤井様

はい。今後日本の人口は減少していきますので、採用に加えて活躍にもビジネスの力点をシフトしてゆく。これからは人口知能やピープル・アナリティクス(注5)など利活用して、希少な人的資本の最適化を支援する。時期は明言できませんが、そうしたような方向により進んでいくと思っています。

注5 ピープル・アナリティクス:人材・組織に関するデータを活用することで、生産性を高めて従業員に合った部署に配属したりすること。


高井

酒井さんは様々なデータ収集をしているとのことですが、今後そのデータをどう活用していきますか。


酒井様

我々のようなコンサルティング業務の一番の付加価値は、クライアントと対話を重ねて課題を正確に抽出し、改善策を提案し、実行を伴走することだと思っています。そのためには、課題を正確にえぐるための感度の高いデータが必要になります。従来は会計データに基づく分析から課題にあたりをつけて掘り下げていくことが主流でしたが、IoTの発達等もあり、非会計データが容易に収集できる時代になりました。先ほどの美容業界の会社のように、来店頻度等の非会計データの方が課題に対して分析感度が高く、より効果的な改善行動を計画しやすいのです。昨今、AI(人口知能)は士業の仕事を奪うと言われることが多いですが、クライアントと対話を重ねて、KPI(注6)を設定し、何をキーとして向き合っていくか。そのためにはどんなデータが必要で、どのように収集する仕組みを構築するか。一部の分析作業はAIに置き換えることが可能ですが、これら一連のファシリテート(注7)プロセスは人間にしかのできないと考えています。したがって、データを適宜活用しながら、高品質なファシリテートを実行していきたいと思ってます。

注6 KPI:企業目標の達成度を評価するための主要業績評価指標のこと。

注7 ファシリテート:会議やプロジェクトなどの集団活動がスムーズに進むように、また成果が上がるように支援することをいう。


高井

藤井さんの今後の目標をお聞かせください。


藤井様

日本だけの問題で言うと、急速に労働人口が減っています。今までの人材ビジネスは、良い人が採用できるかが鍵でしたが、それは人口が多くいた時のパラダイム。働き手が少なくなっている今は、入社後にどう活躍するかに軸足が移っています。しかし一人では活躍できませんので、どのようにして人を組み合わせるかが問われます。経営戦略との組み合わせ、業務との組み合わせ、組織との組み合わせ、生活との組み合わせなど、組み合わせをするポイントはかなり多くなってきました。一方で、AIテクノロジーの登場で、そうした無限の組み合わせに、きめ細かく向き合える機会も広がっています。利器を上手く使いこなし、一人一人が輝き活躍できる組み合わせを提供する。そんな社会になると良いと思っています。

 

高井

本日は色々なお話をありがとうございました。   

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本年10月に開催いたしました特別セミナー「AI(人工知能)が拓く未来 ~人事労務分野への影響を探り可能性を考える~」の開催報告はこちらをご覧ください⇒AIセミナー開催報告

 

以上

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第7回目です。
  • 第7回目は トッパン・フォームズ株式会社元代表取締役社長福田泰弘様です。
■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第7回)■ ■ ■ 
福田泰弘様 
(トッパン・フォームズ株式会社 元代表取締役社長)
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[福田泰弘様のご紹介]

1935年兵庫県生まれ。神戸商科大学(現兵庫県立大学)卒業後、凸版印刷株式会社入社。1990年同社取締役就任。1993年常務取締役関西支社長就任(兼パッケージ事業本部副事業本部長兼関西商印事業部担当)、1995年トッパン・ムーア株式会社(現・トッパン・フォームズ株式会社)代表取締役社長就任。2004年代表取締役会長就任。2012年同社退職後に一般社団法人ユニバーサルコミュニケーションデザイン協会理事長、eBASE株式会社取締役(現任)等歴任。神戸在住。

小生が、開催していた「社長フォーラム」に熱心に参加いただいたのがご縁で、お付き合いいただいております。現在は引退され、チャーチル会に所属して絵を描いたり、囲碁を楽しまれたり、旅行、ゴルフと、なお精力的に活動されています。今回は、同じく「社長フォーラム」第30期から最終回まで参加されていた株式会社ことば未来研究所代表取締役 鮒谷周史様、神戸在住の学校法人塩原学園 元学園本部長塩原一正様、石草流いけばな 奥平清祥様とともに、福田様に「老いの楽しみ」の極意についてお伺いいたしました。

 

[今回のインタビュアー・同席者は以下の通りです]

  • 奥平清祥様(石草流いけばな)
  • 塩原一正様(学校法人塩原学園 元学園本部長)
  • 鮒谷周史様(株式会社ことば未来研究所 代表取締役)
  • 高井伸夫

5人写真

左から鮒谷周史様、塩原一正様、高井伸夫、奥平清祥様、福田泰弘様 
神戸ポートタワーを背景に
取材日 2016年9月30日 
(場所)神戸メリケンパークオリエンタルホテル 14階 中国料理「桃花春」

 

高井

お久しぶりです。引退されて、「老いの楽しみ」は何ですか?

 

福田様

趣味でしょうか。絵やゴルフ、碁などです。絵ではチャーチル会(日曜画家の集まり)に所属しています。私が凸版印刷に入った時の最初の社長が、チャーチル会の創立者の1人でした。そんな縁で、チャーチル会に所属し、定期的に開催される展覧会等に出品したりしています。趣味とは童心にかえる事と思います。家から徒歩10分圏内のところにアトリエと称した部屋があります。そこで童心にかえり楽しんでいます。

 

高井

絵画について、自慢話をお聞かせ下さい。

 

福田様

何年も前の話ですが、アメリカの経済紙「フォーブス」の顧問をやっていた、アメリカの元国防長官が日本にやってきた際に野村証券の人と3人で食事をしました。その時に、私が絵を書くという話をしましたら、「ちょうどよかった。NYにあるフォーブスの美術館でビジネスマネージャーの集まりの展覧会をやるから、絵を出品しないか」と言われて、せっかくだから出しましょうと約束をしました。ところが、大変なことになってしまいました。というのも、上手でも下手でも、30号の大きさの絵を運送するということは、美術品の運送になりますので・・・。

 

高井

運送料がとんでもなく高いと思います。いかがでしたか?

 

福田様

そうなんです。保険料がむちゃくちゃ高くて、何十万円もする。僕の絵はそんな高いものではありませんから・・・。やっぱり出品しなくていいよと言いましたが、そういうわけにはいかないということで運ばなければなりませんでした。それでアメリカに転勤する若い社員がいたので持っていかせることにしました。ANAに頼んだら引き受けてくれました。若い社員をビジネスクラスに乗せまして、絵画を手荷物として機内に持ち込みました。そしたらそのANAのスチュワーデスがえらく親切にしてくれたようで、その後結婚、ゴールインしてしまいました。

 

奥平様

キューピットですね!

 

福田様

それからうちの会社で、私は縁結びの神様になっちゃいました。私の荷物を持ちたいと言うやつが増えて・・・(笑)。本当に不思議なものですよ。こんなこと夢にも思いませんでした。

 

高井

それで、展覧会は成功したのですか?

 

福田様

薬師寺を描いたのですが、みんな見に行ってくれました。ただ、見に行っても写真撮影はダメで、撮影した写真は全部没収でした。フォーブス美術館のVIPルームに通されて、そこでフォーブスの社長に会ったのですが、大変でした。あんな赤っ恥をかいたのは始めてです。フォーブスですから、雑誌の記者が10人くらい、ずらーっと並んでいまして、私はてっきり絵の話が出るのかと思ったら、日本経済の状況について聞かれて・・・そもそも美術の話だと思っていたので、インタビューの回答は、もう全然ダメでした・・・。

絵葉書

当時描かれた絵ですが、上記絵葉書になったとのことです。

 

高井

インタビュー記事はフォーブスに載ったのですか。

 

福田様

僕のアホみたいな経済の話は載りませんでした。いやあ、本当にあれはすごい思い出になりました。

招待状

当時のカクテルパーティ招待状、美術展出展者リスト

高井

絵以外の趣味は何ですか。

 

福田様

やっぱり碁でしょうか。ボケ防止です。アマチュア8段です。ただ、8段というと連敗しますので、あまり人には言いません(笑)。碁というのは、一度段を取ると落ちることがありませんが、年々実力は落ちています。

 

鮒谷様

囲碁はハマってしまうと、面白すぎて仕事どころではなくなってしまいそう、という印象がありますが、現役時代はどのくらい碁をされていましたか。そもそもいつから碁をやっていたのですか。

 

福田様

私は中学1年で碁を覚えまして、学生のときは「語学」は英語ではなくて、「碁学」でした。学校行って、碁を打って、時間になると帰って・・・。もう、その頃に5段くらいになっていました。英語は全然できない。職員室で先生と碁を打っていた。お前は受験勉強をしなくてもいいのか、と言われて、いやいや碁学をやっていますと言いました。

それ以外に、ゴルフもけっこうやっていますし、旅行にもよく行っています。

 

高井

「老後の苦しみ」はありますか?

 

福田様

そうですねえ・・今まで、どこに行っても大御所、大先輩という人がたくさんいました。今はどこに行っても、長老と言われます。乾杯の音頭をとれとか、なんやかんや言われて、俺はまだ若造なのになあと思います(笑)。

 

高井

81歳というともう長老ですが、福田さんは好奇心の塊なんですね。ところで、一番の失敗は何ですか?

 

福田様

やっぱり僕は、“忘れんぼ”です。海外で、パスポートを2回取られました。そういう時に限って普段は少ないのに財布に大金が入っている。旅行の初日に、全部なくしてしまいました。1回目はハワイです。15年前です。その次が香港です。ハワイで、最初に取られたときは、社員が一緒でした。皆に笑われました。まず再発行の時、パスポートの再発行の際には、写真を撮りますが写真屋のおっさんにバカにされて・・・(笑) こんどは領事館に行くと、領事館のおばちゃんにバカにされて・・・こんな日本人いるんだなと、それからJALのおっさんにバカにされて・・・。散々でした。

香港の時は嫁さんと一緒でした。盗まれる5分前に、あなた、財布は私が持つと言われて、財布は渡していました。

 

高井

それはよかったですね。

 

福田様

それが、セカンド財布を持っていたのです。日本円を入れているお財布を渡して、香港のお金を入れた財布を取られまして。パスポートも。それが、この時はついていまして、お金は戻ってこなかったのですが、パスポートだけはかえってきました。ついていたんでしょうね。

 

高井

仕事での失敗話はありますか。

 

福田様

印刷屋というのは、ミスがよくおきます。印刷屋はミスをおこす産業であると言われていますから。その中でもよく覚えているのは、お酒の容器としてビンに変わり紙容器がはじまった頃です。そこからお酒が漏れちゃいまして、それが、全国の酒屋さんに配送した後だったのです。全国から回収するのに、めちゃくちゃお金がかかります。

 

高井

どのくらいの損害だったのでしょうか。

 

福田様

数億円くらいです。原因は、結局は、”経験不足“でした。

 

高井

印刷屋はミスの連続、そして経験こそ、成功のもとですね。

 

福田様

本当にそう思います。基本を忠実に守ることが大切です。漏れてしまった酒造会社の社長さんがとても良い方で、とにかく何年かかってもいいから償却しろと言って値段を上げてくれたり、全部印刷の仕事をいただいたりしまして、なんとか、損害を少なくすることができました。温かい心に感激したことを思い出します。

 

高井

では、「よくやった、神様はいたんだ!」という出来事はありますか?

 

福田様

私は、振り返ってみて一番よくやったというのは、私が社長になったことです。私が社長になった、これがやっぱり不思議なこと、ツキですよね。私はトッパンで社長に一番縁のない存在でしたが、ドンと指定されました。麻雀のパイと一緒じゃないでしょうか。たまたまめくってみたら福田って書いてあったからというように。それから、人生やビジネスでツキが大きなウェートをもち、そのツキを呼びこむ努力をしていくことが大切と考えるようになったんです。

 

高井

人生の中で、神様がいるなと思った瞬間はありますか?

 

福田様

私がトッパン印刷から、トッパンムーア(現:トッパン・フォームズ(株))に転勤するという任務がありまして、ちょうどそのころ電通で年賀会がありました。その年賀会で占い師が何人か来ていまして、20人くらい列をなしていたのですが、1人だけ空いている占い師がいました。サイコロ占いです。サイコロ転がすだけ。こんなの当たるわけないと思いつつも、試しにみてもらいました。私が3個のサイコロをころがすと、その結果をじっくりながめて、「あなたは職を変えますね」と開口一番に言われました。驚きました。それで「あなたは東の方向へ行きます」と。当時、大阪にいたのですが、トッパンムーアは東京でしたから東へ行くというのは当たっていました。「東へ行く。あなたは数年間素晴らしい運勢だ」「あなたはそれを信用して、こちらの職に変わりなさい」と言われたのです。それでトッパンムーアに着任した日の挨拶で「この会社のスタッフはいりません。1人だけ占い師を雇います。」と言いましたら、従業員にえらく恨まれました・・・。そんなこともあって、トッパンムーアでどんなにピンチになっても、俺の運勢はついているんだから、俺の言うことを信じろと言い続けることができました。

 

高井

話は変わりますが、福田さんは現在はどんな方と親しくされていますか。

 

福田様

中学の時の友達で常時会っているのが1人、高等学校で常時会っているのが2人、大学で常時会っているのが5人、凸版系の会社で会っているのが10人前後、あとは、圧倒的に、この学校友達、会社友達以外です。1つは、お客さんとしてお付き合いしているなかで、いつの間にか、家族同士でお付き合いしている方。なんとなく意気投合しちゃう、こういう方が意外と結構います。もう1つは、旅に出て、たまたま行程が一緒になった人、そういう偶然の人が結構あります。それから、もう一つは絵、囲碁、ゴルフなど共通の趣味を通して、又、その先生を通しての知り合い、これは結構、国際的な感じで海外の方も多いです。親しい方は一番の財産です。

 

高井

幅広い人脈をお持ちなんですね。今日は色々な話を聞かせていただきありがとうございました。

 

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福田様は、関西人らしく、笑顔と笑いの絶えない快活、愉快な方です。81歳という年齢にもかかわらず、大変お元気で、多芸多趣味でいらっしゃって、久しぶりにお会いしましたが、あっという間に時間が過ぎてしまいました。福田様は年に10回ほど旅行をするというほどで、絵画や囲碁、ゴルフなど趣味に超多忙な日々を過ごされていましたが、また2年後にメンバーを1~2名増やして会合を開催する約束をしました。

以上

 

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第6回目です。
  • 第6回目は 遠藤拓郎先生、大野裕先生、山岡昌之先生(50音順)です。

 

■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第6回) ■ ■ ■

 

  • スリープクリニック調布 院長 遠藤拓郎先生
  • 一般社団法人 認知行動療法研修開発センター
    理事長 ストレスマネジメントネットワーク 代表 大野裕先生
  • 日本摂食障害治療研究所 所長 山岡昌之先生


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先生方と高井のお写真

左より、大野裕先生、高井伸夫(列後ろ)、遠藤拓郎先生、山岡昌之先生
取材日 2016年7月24日京懐石みのきち新宿住友ビル店


[先生方のご紹介] (50音順)

(スリープクリニック調布 院長 遠藤拓郎先生)

東京慈恵会医科大学卒業、医学博士 睡眠学会認定医師 日本精神神経学会 精神科専門医

スリープクリニック調布、スリープクリニック銀座、スリープクリニック青山を開院し、現在は調布院長。祖父は小説「楡家の人びと」のモデルとなった青山脳病院で不眠症の治療を開始し、父は日本で初めて時差ぼけの研究を行った。祖父の代から三代で、九十年以上睡眠研究を続ける睡眠医療の専門家。

 

(一般社団法人 認知行動療法研修開発センター 理事長 ストレスマネジメントネットワーク 代表 大野裕先生) 

1978年慶應義塾大学医学部卒、2011年6月より国立精神・神経医療研究センター認知行動療法センター所長。日本認知療法学会理事長。日本ストレス学会副理事長。うつ病などに対する認知療法の権威であり、専門書や一般向けの著書を多く執筆している。

 

(日本摂食障害治療研究所  所長 山岡昌之先生)

1973年東京医科歯科大学医学部医学科卒。1977年より、国家公務員共済組合連合会九段坂病院内科に勤務。

日本心身医学会や日本摂食障害学会の理事、日本心療内科学会の副理事長などを務め、摂食障害治療をリードしてきました。診療の際には全人的医療を心がけ、特に母子の信頼関係の確立を目指す再養育療法(注1)に力を入れている。2013年3月で九段坂病院を定年退職し、日本摂食障害治療研究所所長に就任。専門機関での研究と診療に従事する。

また、摂食障害の支援・啓発・予防を目指して、2016年3月に設立された、日本摂食障害協会の理事も務めている。

注1 再養育療法:摂食障害の患者さんには、しばしば「退行」(子供・幼児返り)現象が見られる。退行する心を受け止め、親子関係(特に母子関係)をもう一度構築しなおし、育てなおす治療法を「再養育療法」という。

 

【今回のインタビュアーは以下の通りです】

  • 弁護士 髙井伸夫

 

 


 

高井

本日はお集まりいただきありがとうございました。先生方の近況をお伺いしたいと思います。まずは大野先生、近況を教えてください。

 

大野先生

私は5年前に、国立精神・神経医療研究センターにできた認知行動療法センターへ慶應大学病院から移りました。去年の3月に定年になり飯田橋に事務所(ストレスマネジメントネットワーク、大野研究所)を作りました。現在は、基本的には研修や講演が中心で、企業内診療所での診療なども行っています。ストレスチェックが始まったので、その関係の講演もよくあります。

 

高井

ストレスチェック制度の導入には企業の研修が必要ですか。

 

大野先生

研修は必要ありませんが、現在のストレスチェック制度には3つの課題があると私は考えています。それは、高ストレス者でも手を挙げる人がほとんどいないという課題、高ストレス者の面談が1回では終わらず継続的なフォローが必要になるという問題、そして、手を挙げなかった高ストレス者に対する保健指導をきちんと行うという課題の3つです。

高ストレス者の医師面談をEAP(注2)などの外部機関に委託する企業も少なくありませんが、外部の医師では企業の実状がわからず、現実に即さないアドバイスをされるリスクもあります。そうしたリスクを避けるためには、企業の中で実施できる人材を育てる必要があります。私が事務所を立ち上げたのは、そうした人材を育てるための研修を実施するためです。最近は、(株)リクルートスタッフィングと一緒に、保健師さんや看護師さんにストレスチェック後の相談に乗れる「ウェルネスアドバイザー」の研修をして派遣するという事業に取り組んでいます。私が監修しているウェブサイト『こころのスキルアップトレーニング』を企業でのメンタルヘルス不調の予防に活用する実証研究にも取り組んでいます。

注2:EAPとは Employee Assistance Program の略であり、従業員支援プログラムのこと

 

遠藤先生

ストレスチェックは労働者のためですか。それとも企業のためですか。

 

大野先生

もともとは労働者のためですが、メンタルヘルス不調による経済損失の大きさを考えると企業のためでもあります。

 

高井

次に遠藤先生の近況を教えて下さい。

 

遠藤先生

実は僕のキャリアの半分くらいは基礎医学です。北大の講師をしていましたが、実家の病院へ戻りまして、実家が古くからの精神病院だったのですが、自身のキャリアを拡げようと思いまして、スリープクリニックというのを作りました。そうしたらありがたいことに全国から患者さんが来て、銀座と青山にもスリープクリニックを作りました。北大から東京へ帰ってきた時に、もう学問はやめようと思い全部投げ捨てて帰って来たのですが、縁あって最近は女子栄養大学の客員教授になり、慶應大学でも睡眠外来をやるということになりました。どんどん睡眠のフィールドが広がってきているというのが現状です。

 

高井

具体的にはどういった治療を行うのですか。

 

遠藤先生

実際には僕らは患者さんが眠れないといってもその人の話を聞くことはありません。睡眠計を患者さんに付けてもらいます。昼も夜もずっとつけてもらいます。この睡眠計は昔は100万円くらいしましたが、今はおそらく数千円です。腰につけてもらいます。

 

高井

それはどうやって分析するのですか。

 

遠藤先生

コンピューターで一瞬で分析できます。JRの運転手さんがちゃんと寝ているのかとか、眠れないと言う不眠症の患者さんが実は昼間に5時間寝ていることも分かります。実際に本当に眠れていないと言う人はほとんどいません。どこかで眠れています。診察で、眠れる、眠れないという押し問答のような患者さんとのやり取りは一切しません。データではこうですよと言って、治療の方針を決めます。

 

高井

山岡先生の近況を教えて下さい。

 

山岡先生

2013年3月まで九段坂病院で副院長をしておりました。65歳になり九段坂病院を辞めて、私の孫弟子が池袋で開業したので、同年4月より、私はそこを助ける形でやっています。私は摂食障害をずっと専門にしていますから、九段から200名くらい摂食障害の患者さんを連れてきて、原則新患を取らない形で診ています。

母校では今でも医学部学生に対し、「心身症と摂食障害」の講義を頼まれてやっております。その他心療内科医として、いろんなことをやっています。

摂食障害の治療との関係で、最近はオキシトシンにはまっています。近年オキシトシンに関する研究は活発で、すごい勢いで世界中から論文が出ています。摂食障害に関しては、オーストラリアと韓国で拒食症に対し、オキシトシンの鼻粘膜投与に関する治験が始まっています。

摂食障害の治療に携わっているなかで再養育療法という治療法を開発して母子関係のところにどんどん入りこんでいきました。ピュアな摂食障害というのは母親を強く求めます。他の障害との併存がないようなケースでは、再養育するだけで、ほとんどがよくなってしまいます。再養育療法でどうしてよくなっていくのか理由がわからなかったのです。そこで、はたと気が付いたのがオキシトシンでした。

オキシトシンの研究者によると、オキシトシンは母子間に相互的な強い絆を形成する、すなわち愛着を引き起こすホルモンということで脚光を浴びましたが、もともとは、分娩や、乳汁分泌の場面で見つかった物質です。今は心の領域にも非常に関係しているということが分かってきて、アメリカでは統合失調症とか、自閉症に投与が始まっています。

他のホルモンはネガティブフィードバックでコントロールされるのに対し、オキシトシンはポジティブフィードバックで分泌されており、オキシトシンの分泌は、更なる分泌に通じる面白い機序(注3)でコントロールされているホルモンです。

注3 機序:しくみ、機構、メカニズム

だいたい2歳、いわゆる臨界期と言われている1歳半から2歳くらいまでの間に、人間の心の基盤は作られるようです。このオキシトシンを分泌するシステムが十分に機能するようなものを持っている人は、ストレス耐性があるということがわかってきました。

オキシトシンはどういう仕組みで分泌されるかというと、皮膚への適度な圧によるマッサージや、関節や筋肉が動かされることによって感覚神経が活性化されると、オキシトシンが脳内で分泌されるということが全ての哺乳動物で分かっています。したがって理学療法の効果の一部はオキシトシンの効果だと言われています。論文も多く出ています。オキシトシンとエンドルフィンが関係するというのも分かってきました。今までエクセサイズでランナーズハイというとエンドルフィンしか分かっていなかったですが、実は運動することによって関節・筋肉が動かされてオキシトシンが分泌されて、さらにエンドルフィンが分泌される。これが1つのサイクルになっているというのが分かってきました。

つまり、このオキシトシンがエンドルフィンの放出を促すので、オキシトシンは運動とエンドルフィンをつなぐ生理学的なリンクのひとつと言えましょう。

 

高井

山岡先生もおっしゃいましたが言葉で語るより体を触った方がよいということがあります。古代医学、原始医学では、三つの方法で治したといいます。1つ目は愉気、祈り、2つ目は手当、3つ目は看護。ある動物は、病気になった個体の周りに座るんだそうです。そしてじっと病気の個体を見つめ、病気になった個体は見つめられていると治っていくと聞いたことがあります。看護の世界、愉気というのは祈りをささげることです。これは脳が一定レベルに発達した動物にみられる現象と何かの本で読んだことがあります。

 

大野先生

原始的、瞬間的な反応の1つに「パニック発作」があります。何かのきっかけで急に不安が強まり、心臓の鼓動が高まる。顔は青ざめ、手のひらや足の裏にじっとりと汗がしみ出してくる。体の反応にこころが反応してますます不安が強くなり、そのために体の反応も強まっていく。こうしたこころと体の悪循環が急激に起きるのです。原始時代の体の反応だと思います。

私達の祖先は、例えば天敵に襲われそうになって危険を感じるとき、緊張して戦闘態勢に入りますが、こうした心身の変化は、原始時代には必要でしたが、動物と闘う必要のない現代社会ではかえって負担でしかないでしょう。パニック発作が現れたときには、そう考えて冷静になれると不安はやわらぐのではないでしょうか。

 

山岡先生

瞑想はオキシトシンの分泌を高めるというデータもあるようです。

 

遠藤先生

オキシトシンはタブレットで補充するのですか。

 

山岡先生

胃液で消化・分解されてしまうので、ダメです。注射か、鼻粘膜投与、その2つしかありません。

 

高井

話は変わりますが、認知症は、インド医学によると冬瓜を食べるといいそうです。冬瓜を食べると認知症にならないと聞きました。

 

山岡先生

米ぬかも良いと聞きます。実際に使われているようです。すでに栄養食品として売られております。精神科と神経内科の中で認知症を専門にしている先生たちがその知見の広報に努めておられます。ただの米ぬかではありません。それから抽出されたフェルラ酸という成分が有効とされております。

 

高井

ところで遠藤先生は日経によく出ますね。

 

遠藤先生

新聞もラジオも、睡眠というと、根拠がよくわからない内容の発言をする人も多いので、医者、学者がちゃんとしたことを言わなければならないと思い活動しています。睡眠はまだ体系化されていません。でもすごく大事な分野ですし、医学としてもちゃんと確立されるべき分野ですし、商品として、寝具、寝方などはちゃんとしていかなければならない。世の中によくわからないものが多すぎるので、医者である僕が出て行って、たとえば生理学的にいうと、人間にはこういう特性があるので、こういうふうな寝具を選びなさい、こういうふうな寝方をしなさいということをちゃんと言わないと、この業界全体がいかがわしい業界になってしまうという危機感があります。

 

山岡先生

遠藤先生の睡眠ですが、私はよく患者さんに、「治療において睡眠が一番大事」「体の病気も心の病気も睡眠がとれていることが一番自然治癒を促進するとお話しています」これは真実だと思います。

 

遠藤先生

間違いないです。

 

山岡先生

眠りが、一番害がなく一番確実に治せます。

 

遠藤先生

基本的には僕の場合は眠りが定量化できているので、その人がいい睡眠がとれているのかどうかがすごくよくわかります。もともと僕は精神科医です。メンタルとスリープ両方に問題がある場合、私は意図的に、メンタルは治しません、睡眠しか見ません、と言っています。睡眠しか見ないと言うのは、睡眠計しか見ないということです。それは意図的にやっています。睡眠を治すとメンタルも自然に治ってしまう場合があるからです。ですから、患者さんでメンタルに複雑なものを持っているなと思いながらもわざわざ聞きません。

 

山岡先生

ところでアルツハイマー病の治療とオキシトシンのことですが、アルツハイマー病の人は、記憶がなくなってしまう不安の世界にいます。高井先生はユマニチュードをご存知ですか。

 

高井

知りません。

 

山岡先生

ユマニチュードとは、フランス発祥の認知症ケアの方法です。「ちゃんと目を見る」「積極的に話しかける」「優しく触れる」「自分の足で立つ」というコミュニケーションの4つの基本手法があり、フランス、ドイツ、カナダなどで盛んにおこなわれております。要するに、人としてアルツハイマーの人に対応すると不安が取れる。NHKテレビでも取り上げられていました。このユマニチュードの効果はオキシトシンによるものだと私は考えております。要するに、アルツハイマー型認知症の患者さんにきちんと対応すること。認知症のせいで他の人から、なかなかきちんと対応された経験がなくなっている人に、動物的にはおそらく、自分は大切にされているとか、この人は危害を加えない人だとか、そういう安心感が与えられると、そこに、心の交流を含めた安心感ができてオキシトシンがさらに分泌されると思います。理学療法では、患者さんばかりでなく施術者もオキシトシンが分泌されることが分かっています。ユマニチュードでも同様の現象がアルツハイマー病の患者さんと治療者に起きていると思われます。ユマニチュードを行うと、うつ状態や暴力的になったりする人も、穏やかになり、「魔法のよう」とその効果が紹介されることもあります。

 

高井

アルツハイマーが治るの?

 

山岡先生

治るわけではありません。ただドタバタしている症状が起こらなくなる。ユマニチュードは国際的にも有名です。ユマニチュードを実施している人たちは、オキシトシンが関与しているとは話されておりませんが、私はオキシトシンが深く関わっていると思っております。

 

高井

今日は色々なお話をありがとうございました。

 

以上

 

 

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