『労働新聞』高井伸夫弁護士の四時評論の最近のブログ記事

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第38回 上司の教育的役割(下)
(2009年12月28日転載)

 

前回は、上司の教育的役割の具体的項目として、第1にコミュニケーション能力を挙げ、第2に部下に学び方を学ばせるることの重要性を説いた。

 

向上心を引き出す方法

上司の教育的役割としては、第3に、上司は部下の向上心を引き出す工夫をしなければならないことが挙げられる。

「平凡な教師はしゃべる。良い教師は説明する。優れた教師はやって見せる。偉大な教師はやる気を起こさせる(ハートに火をつける)」ことは、米国のコラムニストの言葉であるが、まさに上司も部下に自ら奮起させなければならないのである。

弁護士である私の場合、裁判書面等については、できるだけ部下の書いた文面・構成を尊重することを心掛けている。部下が作成した書面を全く無視して初めから書き直すというやり方では、部下は向上心を持ち得ず成長しない。書面の作成に関しても、上司は、自らやってみせるだけではなく、まさに、やらせてみる・任せてみることがなければ人は育たないのである。

さらに、部下の向上心を刺激することに加えて、そのキャリア形成にも上司は配慮しなければならない。例えば、社会の進展が早く、雇用形態も多様化している昨今において、一昔前のように十年一日の如く同じ仕事をし続けることが部下にとって良いかということについても、上司は考えなければならない。

「田舎の三年、京の三日」というように、知的な刺激はマンネリ脱却のカギとなる。部下の成長を願い、向上心を引き出そうとするのであれば、仕事の面で、できるだけ良い刺激を受けられる環境を与えるやることが需要となる。

また、部下の向上心を引き出すためには、注意の仕方にも工夫が必要となる。

私の事務所の客員弁護士のお1人は、2000年に高検検事を定年退官された方だが、教育的効果のある叱り方の極意として、①3回ほめて1回叱る、②後悪の叱り方を避けるという2点を実践されていたという。②の意味は例えば、「分析は良くできているが、文章は悪い」と言わずに、「文章は悪いが、分析は良くできている」と言って悪い情報を先に指摘し、ほめ言葉で締めくくることにより、部下のプライドを損なわず向上心に訴える方法である。

 

チャンスを与えて成長へ

第4に、上司は部下にチャンスを与えなければならない。

チャンスとは、チャレンジする心・自立心・向上心を練磨するチャンスを与えることである。それは未知の世界に突入させることでもある。それを克服したとき、自信が生まれる。最も分かりやすい例は、部下が直接会えそうもない有力者などに会う際に同行させることである。

もちろん先方の都合もあるため、必ず実現できるわけではないが、それに向けての努力をすることが必要である。

そして、チャンスを与えるということは、他流試合を行わせることでもある。そうした新しい体験の中に、成長への契機があると言って良い。

第5に、上司は部下が困難に直面しそれを克服することを敢えて体験させなければならない。

上司がこと細かに教育・指導するだけでなく、彼ら彼女ら自身が、自分の考え方・感じ方を生かして困難を克服していくことが、将来の成長のために必要なのである。

言わば“修羅場を体験する”ということであるが、それは大袈裟なものでなくてもよく、要するに、彼ら彼女らが自らのアイデアで困難を克服し、新しい境地に達することが必要なのである。修羅場を乗り切ることは、部下自身の精神的成長につながる。精神的成長を遂げた部下は迷いを克服し、不安感・恐怖心が少なくなり、あるいはこれらを抱かなくなる。

第6に、上司は常に真摯な態度で勉強し続けなければならない。

不真面目で享楽的な生活を送っている上司のもとでは、部下は上司を尊敬し得ないばかりか、結局は教育を受けられず部下もまた勉強をしなくなり成長できない。

私の場合、弁護士という職業柄もあろうが、文章を作成して発表することが、自分に勉強を課すための重要な方途となっている。自分の思い方・考え方・感じ方をまとめ上げる作業は、自分自身の成長の度合いを確認する作業でもある。日々の仕事に流されることなく体系性を持たせるためにも、部下たちに対してもまた、週報・月報に始まり論稿に至るまで、文章を書くことを勧めている。

「今後『教育ある人』とは、勉強し続けなければならないことを自覚している人間のことだということになる」とはドラッカーの言葉だが、上司は部下が勉強することを称揚していかなければならないのである。

 

嫉妬心は最大の障害に

では、上司として、してはならないことは何か。

上司の教育的役割を阻害する最大の要因は、上司自身の部下に対する嫉妬心である。

上司は、部下が成長することを妬んだり、成長を妨害しようとする意識にとらわれてはならない。

換言すれば、人事は、上司が部下の成長を喜べるほど両者に能力格差があるような人選をしなければならないのである。

同列の能力のものを上下に配すると、極めて猥雑な上下関係になってしまい、上司は教育的役割を果たせず、部下は成長できない。そして、悪くすると両者とも精神状態が屈折して不健全になるおそれがあるのである。

また、抜擢人事により先輩と後輩の立場が逆転することもあろうが、部下となった先輩が上司となった後輩をいびることも珍しくなく、その結果、上司となって後輩がいじけたりせず成長に励むことは非常に難しい。

こうした相克を超越させるような抜擢人事の巧みな経営者ほど、素晴らしい経営者ということになるのであろう。

また、複数の部下の中でえこひいきをしてはならない。誰しも自らの成長を願うものであるから、一部の者だけをひいきしてはならず、公明・公平・公正な評価に基づいた序列付けを行う必要がある。

しかし、たとえ適正に評価された成績優秀な者であったとしても、特定の者のみを称賛し続けることもよくない。他の者の士気が下がるだけではなく、特定の者が妙なプライドを持ち、自己反省力を失うことが往々にしてあるからである。そうなると優秀な者でも成長が止まり、むしろせっかくの能力が不勉強のために衰えてしまうことになる。

 

互いの「相性」にも配慮

自分の意見が功を奏して、部下が成果を上げられたときは上司としても本当にやりがいを感じるものだが、部下の指導は難しいと感じることのほうが多いだろう。私自身の経験でも、後輩弁護士が我見に囚われたり判断力にバランス感覚を欠いていて、大いに苦労した苦い体験がある。このような部下は、指導をはねつけ憤慨し、あるいは自分のプライドが傷つけられたという心理状態に陥ってしまっているので、成長できる余地はないとみてよい。

また、部下との相性が悪い場合も、大いに悩むところである。自分自身と相手とが絶えず対峙する関係になってしまっては終わりである。上司と部下との間は、“競争的解説”ではなく、“協調的解決”を図らなければならない。それゆえ、部下との見解の相違だけがめだつようなあ最悪の事態を回避するためには、第三者に調整に当たってもらい、相互の理解に基づく“協調的解決”をめざすことが必要になる。

なお、上司の教育的役割は、上司だけの姿勢の問題ではなく、上司の指導を受け入れる部下の姿勢もまた重要であることを最後に指摘したい。

上司が教育的役割を果たそうとしたとき、部下がこれを貴重な時間と体験であると認識して取り組み、精進する心が必要になってくる。精進する心とは、まずは自立し向上する意欲を本人自身が強く持ち、そのうえで連帯心を抱くことである。そうした姿勢で上司の指導を受容することが、成長を可能にするのである。

以上、上司が教育的役割を担う際に求められる器量や条件について述べてきたが、人を指導・教育することは確かに難しい。しかし、そこから学ぶことのほうがはるかに大きいというのが事実である。

 

「教うるは学びの半ば」

私は、『書経』にある「教うるは学ぶの半ばなり」という言葉が好きである。これは、人に教えることは自分にとっても半分は勉強になり、教えることによって自分の未熟さを知るという意味であるが、まさに、上司たるものが常日頃から自らに言ってきかせるべき言葉であろう。

人間は誰しも己を省みることによって欠点を自覚し、それを克服しようという意識を持つこと、進歩し成長する。

企業組織の中において、上司は部下の成長にも責任を負わなければならない立場にある以上、自分のためだけれなく、部下のためにもより一層精進し、自らを省みる必要に迫られるのである。上司が部下の教育的役割を果たそうとし、果たしている限りにおいて、上司は進化し、進歩し続ける。

そして、上司も部下の一人の人間として、互いに謙虚になり、相手への思いやりの気持ちと優しさと包容力を持たなければならない。心を通い合わせるには、お互い理解し合うという基本的な心理になって望まなればならない。

そうであればこそ、「我以外皆師なり」という言葉を、上司も部下も、ともにかみしめる必要があるのである。

 

※四時評論は今回で最終回となります。

 

 

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第36回 上司の教育的役割(上)
(2009年12月21日転載)


高井伸夫弁護士は、上司は部下の人生そのものに愛情と責任を持って教育・指導に当たらなければならないと強調する。良い上司との出会いは、その後の人生を左右することすらあるからだ。部下との間の報告・連絡・相談を密にするとともに、「学び方」の学習に力点を置く必要があると訴えている。

 

上司の能力著しく劣化

「やってみせ、言ってきかせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている姿勢を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」(山本五十六元帥・1884~1943)。世に知られるこの言葉には、理想の上司像の要件が集約されていると言っても過言ではないだろう。

ここから彷彿とされるのは、部下との強い信頼関係で結ばれ、人としてのピュアな使命感を抱き、部下を的確に教育・指導・育成して次の世代へのバトンタッチを行い、組織の成長に着実に貢献する頼もしい上司像である。

しかし、現実にはこうした力量に恵まれた上司は少ない。このような上司であれば、パワハラ問題など起こるはずもないが、今の企業社会では、上司として当然の教育・指導を行ったとしても、上司と部下の間に確固たる信頼関係が築かれていなければ、パワハラと言われてしまうおそれがある。

日頃、私が人事労務問題を専門とする弁護士として企業のご相談に与る中で強く感じるのは、パワハラ問題に限らずあらゆる局面で、上司の上司としての能力が著しく劣化してきているということである。

 

あり得ない“全知全能”

上司の役割は多様であるが、本来的に果たすべき役割とは、ドラッガーが「何よりも経営管理者を他の人から区別するものは、教育的な役割の有無である」(ドラッガー著『現代の経営(下)』第27章参照)と喝破したように、およそ様ざまな局面で部下の教育をなし遂げるよう努めることである。

部下を人材として教育・育成し、企業の業績に資する働きを遂げさせ得る能力が上司になければ、企業の将来はない。ここに、終身雇用制が崩壊しつつある中で、企業のDNAをいかに伝承し企業の存続と成長を実現するかが重要な課題である今こそ、上司に求められる教育的役割について再認識すべきとなるのである。上司が教育的役割を果たすことは、部下の成長を促し、ひいては企業の力を強めることにつながるのである。

また、ここで言う教育的な役割とは、仕事のやり方だけに限らない。部下は上司の働きぶりを間近で見て仕事に対する姿勢や情熱を体感しながら自ずと教育を受けていることも考えると、上司は仕事だけではなく、人格や生き方全般において部下の見本となることで、教育的な役割を果たしていると言ってよい。

しかし、全知全能の神のような人間はあり得ない。著名企業のある女性管理職に、部下への指導で留意している点についてお尋ねしたところ、「①その場で叱る(後日では忘れてしまう。場所は選ぶ)、②くどくど言わない、③良いところをほめて伸ばす、④他の人からの評価を伝える、⑤常に言葉と笑顔をかける、⑥家族のことを気遣ってあげる、⑦自分の弱さも隠さず表し部下の成果を横取りしない」という極めて率直で有用なご回答を得たが、自分の弱点にも自覚的で正直な姿勢は、上司として持つべき大切な人間性であろう。

なお、部下の教育には時間を要するうえに忍耐力が必要であり、上司は教育のために自分自身の時間さえも犠牲にしなければならない。それは組織での仕事に伴うものであるから、何らかの「手当」で彼らを遇するべきであろう。例えば、税理士の小原靖夫先生が2001年から用いられている「役割貢献給」という名称は、組織における上司の教育的役割の意義を分かりやすく示す好例であると思われる。

良い上司との出会いは部下にとって一生の宝であり、若い頃上司に言われた教えが、その後の人生を左右することすらある。その意味で、上司は部下の人生そのものに愛情と責任を持ち、部下が職業人としてどのように歩んでいきたいのかをよく把握した上で指導しなければならない。

特に、専門資格者である弁護士は、一般的にセルフィッシュで功名心があり、排他的な傾向があることは否めない。私が日頃の業務の中で、どのようなことに留意して勤務弁護士を指導してきたかもご紹介しながら、上司の教育的役割について考察を進めよう。

 

基本的挨拶から始める

第1に、上司は部下に分かるように伝えるコミュニケーション能力を有していなければならない。そして、部下が技能や意識の面で上司の指導を受け入れる準備がどの程度できているかを考え、適切な量と質の指導を行うことを心掛けるべきである。

私は、この点を見極めるために、まず、「おはようございます」「お先に失礼します」「行ってきます」という基本的な挨拶をすることから始める。これに応答できない者は、そもそも上司の教育を受け入れにくい存在ということになろう。

また、限られた時間をやりくりして、私は30年以上にわたり部下から「報告・連絡・相談」を定期的に受ける場を設けてきた。毎週と毎月の始めに短時間でもヒザ詰めで話し、二言三言でも私が発言・助言をすること自体が、教育的役割を果たしてきたと確信している。「報告・連絡・相談」は、コミュニケーションの第1ステップであるだけでなく、互助と牽制と成長を実現する方法として最も簡便で分かりやすい方途である。

「報告・連絡・相談」を書面で受けた上司は、それに対してわずかでもコメントを書き込むことによって、部下に互助と牽制の意義を気付かせ、成長を促すきっかけを作ることになる。

私の場合、弁護士からの成果を上げた報告書等には「よかったネ!」「ご苦労さまでした!」「よろしく」等のコメントを直筆で書き込み戻すように心掛けている。こうしたプロセスを受け入れられない者は、組織の外にあるものとして評価せざるを得ない。

「報告・連絡・相談」は、組織におけるコミュニケーションの基礎であると同時に、マネジメントの要でもある。「企業は人なり」という言葉どおり、組織とは、人を組み合わせ、一体として存在し続けることに意義がある。コミュニケーションと「報告・連絡・相談」は、人と人との結束点としての役目を果たす方途に他ならない。その意味で、「報告・連絡・相談」を軽視する者は、組織の構成員たる資格がないと言っても過言ではないのである。

 

学び方の学習が必要に

第2に、上司は部下に学び方を学ばせなければならない。

私は部下の弁護士に対して、ひとつの案件ごとに判例・文献を十分に調査し、そのうえで少なくとも2~3種類の雛形を調べるように常々言っている。この指示は、先人や先輩の教えを学ばせることが眼目であるが、判例・文献等を模倣するだけでは進歩がない。より重要なのは、本人が疑問点を積極的に探究しようとする姿勢である。新しい考え方・感じ方をするためには、まず先人・先輩の考え方・感じ方を知り、その上で自分なりの新しさを生み出すことが必要になる。このプロセスでユニークさを持ちたいと強く思うことが、競争力をつける原点なのである。

学び方を学ばせるとは、自学自習で成果を上げる方法を教えることである。一番分かりやすい例はコーチングであろう。

コーチングの意義を端的に言えば、個人の特性を見極めて各々の性向に合った学び方を習得させるということになる。現に最近の学習塾は、クラス全体を指導する方式から個別指導の時代に移ったというが、これもまた、より効果的に学び方を学ばせるための実践策と言ってよいだろう。

努力家には努力家としての学び方、発想豊かな人には発想の仕方を学ばせるのである。これが最も効率的な学び方なのであり、学び方を学ばせるとは、千差万別の個性を把握しそれぞれに最適な導き方を実行することに他ならない。そして、ここにこそ“教師役”の難しさの真髄がある。

先生になる人は学問ができるよりも学問を青年に伝えることのできる人でなければならない。学問を伝えることは一つの技術であるという趣旨の言葉が内村鑑三の著作(『後世への最大の遺物』参照)

にあるというが、各自の個性を見極めてそれに応じた指導をする能力は極めて高度な辞技術と言えるだろう。

 

決して王道を外れない

こうして本人の資質に合った学び方を学ばせるに当たっては、何を学ぶべきかについても十分の吟味しなければならない。まず習得すべきは、どの分野であれ、“原理原則”的な事象であることが鉄則である。決して王道を外れてはならない。新しい発想は王道の上にこそ生まれるからである。

原理原則を学ぶとは、過去の実例を分析し、総括したものを確認することである。

何よりも重要なのは、本人自身が自分の頭で原理原則を追求することであるが、加えて、古典に親しみ古典に学ぶ姿勢を持たなければならない。古典は先人たちの思考の蓄積の産物であり、現代でも生命力のある原理原則を打ち立てたものだからである。

 

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第35回 人事・労務の未来(終)
(2009年10月26日転載)


人生のあり方そのもの

本稿第3回でも述べたとおり、日本は総人口も労働力も減少の一途を辿っている。そうした状況では、右肩上がりの成長を望めないことはもちろん、後述のとおり、むしろ下降するばかりであろう。

しかし、このようなマイナス成長経済環境下においてもなお、いかに“従業員満足モデル”を追求するかという新たなテーマが、人事・労務において重要性を増す。つまり企業は、労働者に対しては、賃金だけではなく、働きがいを与えることを通じて生きがいを体感せしめることが重要となってくるのである。この働きがいとは、単に金銭的に報われるだけではなく、手・脚・頭脳という人間の全ての能力を十分活用することで成果を生み出し、自らの労働に社会的意義があると実感できることである。

人材問題のスペシャリストから、今の時代は人生の喜怒哀楽の8割以上は仕事から発せられているとの意見を聞き、納得したことがある。とすれば、雇用者が就業者全体の「86.5%」(総務省「労働力調査」平成20年速報)を占める今日では、雇用の未来とは人生のあり方そのものであると言っても過言ではない。それゆえ、人事・労務管理は“雇用と未来と人生のあり方の礎”となろう。

ところで、現在の日本は広く社会構造の転換点を迎えている。先の衆議院選挙で民主党政権が誕生したことは、国民が日本全体の貧困化を無意識にせよ予見した上で、今までの大企業の中心の政治から中小企業をも包含した政治への転換を期待した結果であるとも言える。連合が支える民主党政権下においては、後述する賃金ダウンの実情と相俟って、経営者は厳しい状況に立たされるのである。

この状況下では、従業員に対して金銭的報酬の向上以外に、拠りどころや働く意義を提供していくことがますます必要となってくるのである。そのためには、まず会社の規模を問わずに、事業理念・経営理念と職場のミッションおよび自己の目標が直接つながり、自分の仕事が事業の発展を通じて社会に貢献していると実感できることが重要である。それには何よりも、トップは経営理念を実現するために必死に活動し、そうした姿を通して周りから信頼を集める存在でなければならない。そして、業界のリーディングカンパニーになれる可能性があり、将来の希望を語れる企業となって、目標の達成感と成功体験を共有できるようにすることが肝要である。さらに、上司・リーダーの役割も重要性を増していく。

以上のような前提の下に、生きがいを生み出し、自己の仕事に働きがいと誇りが持てる職場をめざすには、具体策としてどのようなものがあるだろうか。

第1には、本稿第2回で述べたように、単に職位を与えるだけでなく、正しい評価による認知・称賛を形にして報いる方法を検討すべきであろう。これは、マズローの自己実現に関する欲求段階の5段階のうち、人間の本質的欲求の一つである「尊厳・認知欲求」を充足させる手段とも言える。

第2に、これからの経営者・管理監督者は、人事・労務の重要性を十分に理解しているのみならず、IQの高さに加え、EQ(心の知能指数)も高く、人間性も優れ気働きもできる人物でなければならないであろう。IQとEQが共に和音を奏でないと、良い人間関係を構成する基礎ができず、論理的に正しくても相手にうまく伝わらずに、仕事の成果も十分得られないからである。このように新たなリーダーシップスタイルで日常的な指揮命令ができる体制を作るのが、人事・労務の適正な運用の基礎となるであろう。

第3に、これからは“真性”成果主義型の人事制度導入が考えられる。真性成果主義型とは、日本的な長所(真面目に仕事に取り組む・チームワークを大事にする等)を残しつつ、自主独立・自己責任を涵養する施策を採り入れることである。

具体的には、売上げなど数値のみの結果主義や人件費カット・人員整理が見え隠れしたような成果主義制度ではなく、数値では測れないような複数のプロセスの進展度、あるいは複数名で分担したチームとしての成績などを加味した、本来の意味での成果主義の人事賃金制度をいう。このような真性成果主義を導入することにより、仕事の成果・業績と、人の能力・行動特性を分けて両面から評価でき、適材適所の人事ができるように制度と運用の仕方を決めるのがこれからの時代に必要であろう。この場合、企業が社員に求める仕事能力を再確認し、それを社員全体が共有できる仕組み作りが肝要であると言える。

したがって、①年度ごと(より短期にするなら四半期ごと)の成果実績については単年度の賞与等で社員に報い、②将来の貢献度も含め中長期的に判断すべき能力や行動特性については、昇進や年度の昇給・配置で報いることが考えられる。

 

致し方ない賃金ダウン

以上のように、働きがいと誇りが持てる職場づくりに向けて様ざまな施策を採る中でも、冒頭で述べたマイナス成長下においては、今後も賃金ダウンに至るという大筋に変わりはない。

民間企業の08年平均給与(429万6000円)は、前年より1.7%(7万6000円)減と減少率が過去最大となったし(国税庁「民間給与実態統計」)、また、月額所定内給与の面では、2001年に最高額(30万5800円)を記録したが、08年は10年前の98年と同額(29万9100円、01年より約0.2%減少)であった。こうした状況は今後も継続すると思われるから、10年後の2018年には1988年と同水準の23万1900円(08年より約22%減少)へと近付いていくであろう。

この賃金ダウンという従業員の士気・やる気を損なう人事・労務施策を採らざるを得ない日本では、働きがいと誇りが持てる職場づくりの施策を通して、従業員に人間としての尊厳を実感させるとともに、社会思想全体を変革する必要がある。

2005年のヒット作、映画『ALWAYS三丁目の夕日』には、建設中の東京タワーが映る印象的な場面があり、昭和30~40年代当時の高度経済成長期の雰囲気をよく表している。しかし、こうした東京タワー的な新しい建造物は斜陽化する日本にあっては、今後永久に建設されないのではあるまいか。そして、社会構造の面でも、例えば企業トップと一般社員の賃金格差が縮小していくのではないか。こうした事態に備えるために必要なのは、いかに貧しくとも「清く美しく」生きるという日本人本来の姿を大切にしながら、労働者さらには国民全体を根本的に育成し直すことである。それには、教育やマスコミ等世論の形成が大きな役割を果たすのである。

いずれにしろ、人事・労務制度は曲がり角に来ており、これをどのように改めて行いくべきか、各企業それぞれ真剣に検討し、今後の在り方を決めなければならない時期にさしかかっている。

 

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第34回 人事・労務の未来(3)
(2009年10月19日)

 

人事・労務を軽視すると、後に述べる労働力人口の急激な減少と相俟って、企業にはどのような弊害が生じるのだろうか。

 

崩壊する労使協調路線

人事・労務の軽視は、人を大事にしないということであり、その結果、従業員の勤労意欲の減退・士気の低下を招き、社員・従業員のロイヤリティーが徐々に薄れていくことは言うまでもない。そして、社員の能力が発揮されず組織のパフォーマンスが落ちることにより、創造性(製品開発力)、生産性(営業力・品質・コスト管理力)も当然に低下し、労務対応のコストが増大する。その代表的な事象として、訴訟が提起されるなど経営の求心力が失われ、労働側の意見を集約しづらくなることが挙げられる。さらに、労使関係が悪化し、日本の良き風土として利点であった経営と労働側の協調路線も崩れていくだろう。

そして、企業は人なりという本筋が失われ、優秀で貢献度の高い社員は退職し、他の企業へ流出する。また、社員の育成も進まず、人事労務の責任者や管理監督者も育たなくなり、他社と違ったユニークで戦略的なポジションをとるためのマネジメント層も不足し、組織の存続が一層脅かされる。こうして企業競争力は劣化し、最終的には淘汰されてしまうのである。

このように、人事・労務を軽視することにより様ざまな弊害が起こり得るが、最も大きな弊害の一つに、風評被害(レピュテーションリスク)が挙げられる。

従来、企業はヒト・モノ・カネの三資源でできていると言われていたが、本稿第1回で述べたとおり、私は数年前から信用と組織がそれらに追加されるべきであると説いている。企業間競争が激しくなればなるほど、信用の重要性が高まり、その反作用として、レピュテーションリスクが顕在化するのである。つまり「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」(『潜夫論』より)という故事成語のように、まさに噂が噂を呼び、悪評が企業の負荷になるのである。その対象は、マスメディアのみならず、ネット上の数多くの情報(書き込み・掲示板・ブログ・SNSなど)まで及ぶ。情報量の急増により、利用者が個々の情報の真偽を判断することは難しく、間違った情報でも情報量が多ければ、人間の心理として信用する傾向がある。リスクが顕在化した場合の顧客離れ・売上減少・株価下落・訴訟等によるブランドおよび信用の失墜・損失は計り知れず、会社の存亡に大きな影響を与えかねない。

ところで、こうしたレピュテーションリスクの問題はコンプライアンスとも大いに関連がある。そして、コンプライアンスは企業倫理のごく一部を把握しているものにすぎず、例えて言うならば、“企業倫理の浮島”とも言うべきなのである。それゆえ、企業経営においては人事・労務の面でも、法令遵守義務を果たすだけではなく、企業倫理を極めようとする姿勢が必要不可欠となる。そして、前述のような風評被害のリスクが蔓延する社会状況であっても、経営陣以下全員が、わが社は倫理上も誤った対応をしていないという確信を持てるように、人事・労務の仕組みの中で、従業員らに企業倫理・コンプライアンスの重要性を徹底的に叩き込まなければならないのである。

 

後継育成が大きな使命

さて、日本の総人口は減少の一途を辿っており、このままでは労働力不足による経済の縮小は避けられない。日本の現在の人口は約1億2770万人であるが、2055年には8993万人となり、50年もしないうちに3割もの日本人が姿を消し、さらに2105年には、4459万人にまで激減すると予測されている(国立社会保障・人口問題研究所)。また、厚生労働省の推計によれば、2030年の労働力人口は、女性や高齢者などの就労が進まない限り、現在より約1070万人減の5584万人(約16%減少)まで落ち込むという。これは「生産性の伸びによって補える人口減少規模でなく、労働力人口の減少は、確実に経済成長を抑制する」と指摘されている(日本経済団体連合会「少子化対策についての提言」より)。この人口激減リスクに対する抜本的な処方箋の一つとして、移民法制も視野に入れなければならなくなるであろう。

さて本稿第2回でも述べたとおり企業の成長に資する能力を持つ者は限られた割合でしか存在しない以上、人口減によって企業に有用な人材の絶対数が減少し、社内人材の衰退・対価が急速に進行すると予測される。

そのような状況下で、必要となってくるのが、若年労働力の確保と活性化である。

ドラッガーも「若年人口の減少が国内市場を根本的に変える」「人口構造の変化こそ、ネクスト・ソサエティーにおいてもっとも重要な要因である」と述べているとおり、それを実現するための教育等の諸施策が必要となってくるであろう。各企業は生涯にわたり教育を施し、特に若年労働者に向上心を持たせ続ける努力を行うとともに、企業が仕事を通じ、従業員の知的能力・体力・精神力を鍛えることができるようなプログラムを実施すべきである。企業の指名は利益の追求にあるのは当然だが、人材を育てて初めて企業は継続する価値があると言えるのである。

具体的には、企業が給与以外の恩恵ももたらしてくれると考え、仕事そのものにやりがいと生きがいを感じる従業員を育て上げ、人間としてのレベルアップを継続させることが必要である。そして経営者は一人でも多くの良き後継者を育てるべく、自ら率先して一生勉強を怠らない姿を見せるとともに、一緒になって勉強することである。

 

修正すべき年功型賃金

さらに、若年労働力の確保と活性化についての施策として、年功型賃金制度を見直し、職務や成果を適切に反映した報酬体系に組み直すことが考えられよう。労働力不足になれば、需給のバランスが崩れるのであるから、初任給を含む年功給的体系から今以上の能力給あるいは成果給体系に移行せざるを得ないだろう。従って、現在ほぼ新卒共通の初任給水準も、会社の事情に応じて個別に設定することになろう。

一般的に年功型賃金制度のもとでは、業務に習熟する入社数年後から、職位を与えられる30代半ばくらいまでが、業績への貢献度に対して報酬水準が比較的低い年代と位置付けられる。一方で、40代以上の社員のなかには、貢献度に対して報酬水準が高すぎる者が一定量発生する。コストパフォーマンスの高い若年労働者が不足し、その業務を割高な中高年労働者でカバーしようとした場合、人件費負担が増大し、これまでの収益モデルは破綻に向かい深刻な問題となるのは明白である。そこで、貢献度に対して報酬水準が高すぎる中高年社員のそれを適正化し、雇用を維持しながら若年労働者に代替していくことが考えられるのである。

 

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第33回 人事・労務の未来(2)
(2009年10月12日転載)

 

「平準化」した人間関係

本稿第1回では、これからの企業では個別人事管理を強く意識せざるを得ないがゆえに、集団労務管理がより一層難しくなることを述べた。

今回はまず、上下関係を忌避しがちな平準化した今の社会の人間関係の中で、いかにして秩序立った円滑な人事・労務の仕組みを築くかということが、これからの人事・労務管理の課題であることについて述べたい。

一般に今の時代は、親子関係も師弟関係も本来の上下の秩序を前提としたあり方ではなく、尊敬の念が薄れ、友人や兄弟のような関係に変化している。例えば、学校で教師が生徒に気を遣い、生徒は教師と対等な口をきくゆゆしき現状がある。こうした環境で成長し社会人となった若手社員と先輩社員との関係は、かつてとは異質なものに変化していることは、必然と言えよう。仕事も大学のサークル活動の延長線上にあることを望む若手社員に、上司に対する尊敬・畏敬の念を抱かせること自体が、そもそも難しいのである。

こうした状況では、労働者の権利義務をどのように位置付けるかという従来からの課題が、より重要かつ困難なテーマとしてクローズアップされる。

それには、まず新入社員に企業のあり方を徹底して教え込み、甘えを排除することから始めなければならない。企業には優勝劣敗という決定的な判断基準があり、勝ち残ることが最終的な目標となる。その目標達成のためには企業の構成員が心を一つにして他企業との戦いに挑むことが最も重要であるが、それは単なる友達付き合いのような甘い人間関係では果たせない。構成員の絆は、互いが切磋琢磨し高め合う中で得られる連帯感でなければならないのだ。

また、企業は階層社会であって、その階層があるがゆえに統一性や秩序を保てるという事実がある。しかし閉鎖的な階層社会になってしまっては、今の社員・従業員・労働者を活性化させることはできず、さらには優秀人材を当該企業に引き留め、定着させることはできない。

さらに、企業間の競争が激化した結果、利益・成果をあげるために閉塞的な環境で非常にきめ細かい社員マネジメントを行うと、社員にハラスメントやメンタルヘルスの問題が生じかねない点にも大いに留意しなければならないのである。

ハラスメント問題の背景には、上司に心理的余裕がなくなり、相手の立場に配慮して指揮命令するセルフコントロール、自己統制力が乏しくなっていることがある。部下の教育・指導に当たり、業務外のコミュニケーション促進による適切な職場人間関係の形成を併せて行っていくことが効果的であろう。

その意味で、今後は企業には開かれた階層社会であること、つまり、実力に応じて昇格を果たし、誰もが管理監督者・経営者になり得る組織であることが求められているのである。ここに実は、公正・公明・公平な評価が求められる所以がある。

ところで、評価とよく似た言葉に査定があるが、査定と評価の根本的な違いは、公開性の有無である。即ち査定には公開性がないが評価には公開性がある。しかし、日本人は「公開」について非常に消極的である。公開すれば日本人の民族性である集団主義が瓦解するのではないかということを恐れ、評点を公表することを忌み嫌う傾向がある。例えば、最近の事象では、いわゆる全国学力テスト(文部科学省)の市町村・学校別のテスト結果を公表するという自治体側の判断が、市民的運動として猛反対を受けた事実がある。

それゆえに、人事考課は査定が一般的であって、評価という意識があまりない。しかし、個別的人事管理と人材育成が重視される時代となれば、当然、公開の方向で人事管理をしていかなければならないであろう。即ち、先に述べた企業における開かれた階層社会を作り、その結果を社員の指導に用いるためには、公開を旨とする「評価」の方向が模索され具体化されなければならないのである。

一般に査定は密室で行われるがゆえに、社員・従業員・労働者に不安感・恐怖感が伴い、対象者の人格を否定することにもつながりかねない。そこで、日本人にとって、評点を公表することに耐えられるかが今後の大きな課題となってくる。

その際、個人情報保護の法理が公開の大きな障害となるが、人事考課の公開の重要性が意識されるならば、まずは各考課の対象者個人にその評価を告知することが必要となる。これにより、人事労務の公明・公平・公正という原則に一歩でも近づくことになるのである。

しかし、何度も述べたように人事考課を評価として公開すると、公正さ・公平性を一層担保しなければならないが、これは容易なことではない。なぜならば、人事考課はデジタル数値によってのみ行われているのではなく、その要素にはアナログ要素をも加味されているからである。アナログ要素を取り入れて、より公正・公平な人事考課を行おうとする努力の一環として、各企業で評価項目と基準の明確化の努力や人事考課の調整作業が行われているのはそのためである。昇格の折には、業績だけではなく、人格や人望についても評価の対象とすることは言うまでもない。

 

裁判も総合判定を是認

しかし何はともあれ、査定ではなく評価としての考課となれば、公正・公平性を担保する困難さという隘路を克服しなければならないのが、今後の人事労務の大きな課題となっている。

また、労働組合側が、組合員から人事考課の公開を委ねられて公開を要求し、それに使用者は応ずべきかという課題がある。この要求は正当性があるように思われるが、当然それには様ざまな弊害がある。その一つとして、デジタルな数字だけではなく、アナログの数字をも斟酌して人事考課を行っていくことを、使用者は率直に明言しなければならないのである。

この点、裁判所は、会社に査定義務違反があるかどうか争われた事案で、「人事評価は、使用者が企業経営のための効率的な価値配分を目指して行うものであるから、基本的には使用者の総合的裁量的判断が尊重されるべきであり、それは社会通念上著しく不合理である場合に限り、労働契約上与えられた評価権限を濫用したものとして無効となる」として、アナログ的な評価要素をも十分に念頭に置いた判決を下している(東日本電信電話事件=東京地判平16・2・23)。また、含み損社員の解雇の効力が争われた事案では、「勤務実績」「性格」「適性」等の項目を基に総合判定された勤務評定について、それぞれの項目に属するアナログ的な諸要素(仕事の結果・仕事の仕方・仕事に対する態度・部下の統率の仕方・誠実さ・積極性・意志の強さ・慎重さ・機敏さ・辛抱強さ・几帳面さ・協調性・明朗さ等)を前提とする勤務評定を是認している(東京都土木建築健康保険組合事件=東京地判平14・10・7)。裁判所は、デジタルな客観評価だけではなく、アナログ要素の評価も加味してこそ正しくなされるとしている。

 

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2017年8月24日(水)13:02 ベロペロネを撮影
花言葉:「ひょうきん、おてんば」

 

 

第32回 人事・労務の未来(1)
(2009年10月5日転載)

 


高井伸夫弁護士は、企業構成員が「個」としての能力を十分に発揮できるよう条件を整えるのが、人事・労務管理の役割と位置付けている。いまや利益追求のみで通用する時代ではなく、心身の健康と人間性重視の姿勢で臨むべきであると提言した。

 

「個別人事管理」に重心

企業におけるこうした人の獲得競争が激化した根本原因は、①日本の人口が減少局面に入り“人材の市場”も縮小し、優秀人材の獲得競争がますます激しくなっていること、②グローバル化により企業は外国企業との競争を強いられていること、③日本の国内市場が縮小し、右肩上がりの成長路線を描けなくなったこと等であり、手をこまねいていればジリ貧になるという恐怖感が、潜在的にせよ強く意識されてきたからであろう。

10年ほど前に日本に成果主義が浸透し始める以前から、私は、「事業戦略・企業戦略は、人事採用戦略に宿る」と述べてきた。近年この人的資源獲得競争の中で、特に経営能力・管理能力・専門知識を備えた稀少人材を確保・維持・育成することの重要性は増し、今後もますます増加するのは必然で、それに伴い人事・労務の重要性がさらに高まっているのである。

そして、成果主義的な人事・賃金制度の定着と社会的な個人主義の風潮の高まりが相俟って、企業では集団管理よりも個別人事管理に重点が置かれるようになってきている。成長という右肩上がりのビジョン・価値観によって従業員に対する求心力を保つことは不可能になっており、その一例として、組合の組織率が低下し続けているのは当然の現象であり(2008年労働組合推定組織率=18.1%)、かつての団体交渉を中心とした組合・社員会対策は下火となっている。それゆえ、人事・労務管理の面でも、これからは個々人を対象として丁寧な対応を行う必要に迫られるだろう。

しかし、企業は秩序ある協働体・組織として活動し、成果を上げ続けなければならない存在であることに変わりはない。即ち、企業においては、社会的変化によっていかに組織の集団的な堅固さが脆弱化する状況にあっても、個別人事管理だけでは経営組織は成り立たず、集団管理も当然に必要とされるのである。したがって個別管理と集団管理の両立という点にこそ、これからの人事・労務管理の難しさの根本があると言ってよい。

さて、人事管理と労務管理の違いとは何か。人事管理とは、企業経営のために従業員の個々の処遇を決定すること、つまり、配置・賃金等の報酬の決定をすることである。配置の決定とは、各人が取り組む仕事の内容を決めることであり、賃金等の報酬の決定とは、単に賃金額の決定だけではなく、序列付けをし、どの地位の職位・職制に就かせるかにも関連してくる。そこで、配置と賃金は互いに大きく関係してくるのである。

これに対して、労務管理とは、多数の労働者を使用するに当たって公明・公平・公正に処遇していくことである。

 

実効性ある労務管理へ

要するに、人事管理が一人ひとりの個人を対象とするのに対し、労務管理は多数の労働者を対象とし、集団的に秩序付けるべく取り組むことである。

この意味において、人事管理と集団管理を旨とする労務管理とは根本的に異なるようにみえるが、集団も個人によって成り立つがゆえに両者は密接な相関関係にあり、一体感あるものでなければならない。そしてそのバランスは、個別企業ごとに経営理念によって異なってくると思われる。

現在では、前述のとおり個別人事管理の重要性が増してきているが、その背景には、従業員・社員が、使用者に対して個別に発言するようになったこともあるだろう。それゆえに、企業の対応は複雑にならざるを得ず、公明・公平・公正を期する労務管理自体が、難しくなってきたことを意味する。

また、労務管理は日々の積み重ねが重要であるが、労務管理にとっての日常的な指導・教育の意義を改めて考えさせられる近時の裁判例がある。

「T社事件」(甲府地判平21・3・17)では、営業職にある従業員が、社有車を子どもの保育園への送迎に使用していたこと、早退が多い等合計15項目の解雇理由により普通解雇されたことの有効性が争われたが、裁判では解雇は無効とされた。裁判所は、不適切な言動を繰り返す従業員に対して会社が指導を行ったことを示すメモは、記載が断片的で不自然であるため、公平かつ公正な立場から記載された物とは認められないとして、メモ自体の信用性を否定した。そして、会社が主張した解雇理由15項目中14項目について「事実を認めるに足りる証拠はない」としたのである。

「詞は飛び書は残る」という法諺を紹介するまでもなく、裁判における証拠としての書面の存在は極めて重要である。そして、裁判対策だけの意味ではなく、労務管理の実効性をあげるためには、会社が自らを律するとともに、日頃から就業に関する的確な指導・教育を行う体制を作っておく必要があるのである。

 

アナログ的能力を活用

さて、企業間競争が激しくなるにしたがって、「企業を活かし、人を活かす」ことがなお一層必要となる。「企業を活かす」とは、集団管理の視点に立つことであり、経営者・管理職者のリーダーシップ・マネジメント力等々が要素となる。「人を活かす」とは個性を大切にされてこそ人は最大限の力を発揮できるとの個別人事管理の視点に立つものであり、個別管理の基本である「人を見て法を説く」ことが重要な要素となる。

こうして、個性に主眼を置く個別人事管理の強化という視点に立つと、集団管理の困難さが一層際立つことに気づくだろう。これからの人事・労務管理は、集団管理と個別管理の一層の統合を図らなければならないが、結局、両者の架け橋は評価にあり、その公明さ・公平さ・公正さと、適切な経営理念の推進を実現することにあると言えるだろう。

人の労働の価値基軸は、主に手足を使う肉体労働がメーンであったフットワーク・ハンドワークから、頭脳労働・知的労働がメーンであるヘッドワークに移行し、社会の進歩や変化とともに変わってきた。そして今まさに、主に心を用いることが重要な要素であるハートワークの時代(心の時代)となっており、そして、近い将来はハートワークよりもなお一層人間性全体を活性化する時代(ヒューマンワークの時代)になるだろう。

私が提唱するこの「ヒューマンワーク」とは、マニュアル経営と対峙する概念であり、人間性の原点に立ち帰り、心身の限界を尽くして、人として有する全機能をフルに働かせる労働を意味している。言わば、全人教育の成果としてなし得るものである。

グローバル化が進めば進むほど、民族の考え方の違い、価値観の違いを超えて機能する、人類に普遍的な「ワーク」であるヒューマンワークが必要とされるだろう。

つまり、人事管理・労務管理においても心・精神性、さらには多様な価値観を前提とした上で、個人の人間性を念頭において構築なければならない。

先に、経営能力・管理能力・専門知識を備えた稀少人材の必要性について触れたが、そこで重視される人間の資質・能力はデジタル的な能力(数値上明確化することのできない能力)にあると言える。現代のように誰もがITを仕事に活用するのが当然の時代となればなるほど、勝負はIT化できない能力、数値化できない能力の優劣にかかってくる。例えば、話す能力・意思伝達能力・問題発見能力・協調性・営業力・交渉力・プレゼンテーション能力・リーダーシップなどは、いわばその代表例である。これらは、成果を数字で示すような頭脳労働だけではなく、人の感情や思いに訴えかける能力を必要とする。そして、ITはこれらの能力を増幅させる「てこ」の役割を果たす。だからこそ、ヒューマンワーク社会ではわずかな違いが大きな成果の差につながるのである。

 

利益追求のみでは限界

さて、このヒューマンワークの時代においては、健全な肉体はもとより、心の健全性も当然意識されなければならず、健全な心身と人間性との統合があって初めて、人としての存在意義と機能が十分発揮できるのである。この点、人事・労務管理においても人間性の尊重は当然意識されるべき視点であり、経営者や管理職者についても、また企業の精神である経営理念や事業活動自体についても、さらたには就業規則等の規定類の運等に当たっても、心身の健康と人間性を重視する態度で臨む必要がある。そして、こうした姿勢は企業構成員の意思統一を図るためにも極めて重要である。

人事労務管理の目的は、「企業の活性化を図る」「事業経営の成功を期する」ことに尽きるが、これは利益のみを追求するだけでは不可能であり、個々の企業構成員が「個」としての能力を十分に発揮することが必要不可欠となるであろう。即ち社員・従業員・労働者を、尊厳ある存在として扱うべく人事・労務が重要視される時代となってきたということなのである。

 

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2017年8月6日(水)13:21 麻布十番2にてペチュニアを撮影
花言葉:「心のやすらぎ」

 

 

第31回 経営理念と賃金ダウン(下)
(2009年7月27日転載)

 

 

今回の全世界的な不況に限らず、グローバル化が一層進むこれからの社会には、予測不可能な変化が起こり続けるであろう。企業としては、経営手法も人事制度も賃金体系も、諸事情の変化に応じて迅速かつ適切に変更できるものにしておかなければならない。それと同時に、働く者の側も家計の面において心配りをしてく必要がある。

日本の家計の貯蓄率は1970年代半ばには20%を超えていたが、下降の一途をたどり、07年度は2.2%と過去最低を記録したという(09年6月28日付日経新聞等参照)。今の深刻な不況下では、この率はさらに悪化していくに違いない。

賃金ダウンを実施した企業で従業員からとったアンケート資料に接する機会があったが、それによると、家計に関して次のような回答があった。―①教育費の捻出が特に問題で、家計の縮小・見直しについて家族で真剣な討議をした、②様ざまな節約をする中で、本を買わない・新聞購読をとりやめるなど自分自身への投資を減らした、③とにかく生活を根本から見直してこれからの厳しい社会を生きる覚悟をした―。

このように、賃金を引き下げられた従業員等の心理を分析すると、まず「不平」「不満」「非難」が噴出し、「反発」となり、その後事態を「甘受」するようになり、やがてやむを得ないという「諦め」「諦念」の心境に至る。しかし「諦念」だけでなく、その後賃金ダウンを積極的に「承認」するということにならないと、「発奮」にはつながらない。

賃金ダウンされた従業員等が最終的には「発奮」し、前向きに業務に取り組むようになるためには、経営者に愛情がなければならない。では、愛情をもって賃金ダウンを行うとはどういう意味だろうか。

 

「愛情」と「慈悲」の心で

人間はもともと共同体・協働体の中で生きるように作られた存在であり、自分達は社会のために働いているのだという大義名分が人にも企業にも潜在的にしろ存在している。しかも、日本人労働者は、環境の改善提案等を自主的かつ積極的に行うなど、自らの労働を意義あるものにすることに熱心であるということを念頭において、賃金ダウンを実行することが必要である。即ち、彼らの働きを認め、冷酷なやり方ではなく「愛情」と「慈悲」の心で、決して機械的ではない情理にかなった進め方をしなくてはならない。

二宮尊徳が「慈悲」とは「強と柔と二つ合わせて唱うなり」、「人を治め、国家を治むるにも、よく両面(強と柔のこと)を見ること肝要なり」と述べているように、企業経営も、優しさあるいは強さだけでは立ち行かず、優しさと強さの両方が必要なのである。尊徳の言う「強」は企業経営において経営者側から見れば慈悲の「悲」であり、「柔」とは慈悲の「慈」である。賃金を引き下げることは「悲」であることは間違いなく、その「悲」に対する「慈」の施策も同時に行うことが必要なのである。

ここで企業がなすべき「慈」の施策とは、賃金ダウンを実施している間にも経営改革が確実に一歩一歩進み、企業としても競争力がいくらかでも強まっていることを従業員等に見せることである。透明性を確保して、経営が少しずつでも上向いている様子が分かるようにするのである。例えば、不況で取引先が急減したとしても、営業努力によって新規の取引先が少しずつでも開拓され得ている状況が見えるようにするのである。

そして、賃金ダウンにおける「柔」の施策としては、雇用の維持を明示貫徹し、企業の再生を図ることである。賃金ダウンには、この見通しがなければならない。「悲」の施策(=賃金ダウン)を実施するが、近い将来は企業にとって確実に明るいものがあり、社会への貢献につながることを現実化することである。賃金ダウンにあたっての大義名分書でそれを約束し、実現していくことが「柔」の施策ということになる。

そうは言っても、愛情をもって賃金ダウンを行うことは大変難しい命題である。それゆえに、経営者としては、たとえ一時期賃金がダウンしても、企業に将来再起の目処があり、賃金が元に戻る可能性があるということを現実の問題として検討したうえで、賃金ダウンを行うべきである。つまり、一時しのぎの意味での賃金ダウンは、愛情ある賃金ダウンではない。それゆえ、単に賃金が復元し得るだけではなく、将来企業が再興し成長していくという確信が経営者になければ、賃金ダウンをしてはならない。

賃金ダウンを行うのは経営者としてもイヤなものだが、企業の存続そして将来への展望に向けて必要であれば、断行せざるを得ない。そして、賃金ダウンを断行しても経営改善の見通しが得られないならば、事業の大幅な縮小をして、人員整理を行い、あるいは企業の自主廃業を検討すべきことになる。

さて、企業で評価が必要とされるのは、多数の労働者の組織体である企業においては序列付けが不可欠だからであり、また、この序列付けなくして、企業の秩序は確立し得ない。

人間には、自立心・連帯心とともに向上心があり、下位の者は上位をめざし、上位の者はさらに上位をめざすといった向上心に支えられている。評価制度は人間の刺激剤という役割を担っているのである。そのため、人間の成長は競争的解決の手法によって促されると言えるが、単なる競争的解決だけではなく、協調的解決も必要であり、それゆえに連帯心を刺激することも必要になってくる。そのためには、評価システムとしての様ざまな規則や規定に基づいて「公明・公平・公正」を旨とした評価を行い、連帯心を刺激していくほかない。

また、評価をするのは、人間が個性ある存在であるからでもある。個性は、優秀かどうかという違いにとどまらず、優秀さにおいてもそれぞれ格差があることを前提としている。即ち、人間は適切に評価されなければ、優秀さを発揮できない存在なのである。この格差による個々の分裂を埋めるものは、人間的な精神の絆しかない。共感し共鳴し合う状態を形成することが、職場において必要不可欠である所以は、この点にある。

ところで、経営は目的をもった組織、即ちゲゼルシャフトであり、成果をあげるための組織であって、仲良しクラブのようなゲマインシャフトとは違う。問題は「成果」として何を掲げるかということになるが、収益だけを掲げてはならない。企業は公共的存在であるがゆえに、社会的貢献活動・社会責任も大きな課題として念頭に置かなければならないし、成果の目的としての組織理念・経営理念も、評価の根本基準としなければならない。そうしてこそ、より適切な評価が得られることとなる。

評価においては、企業を取り巻く現在の社会情勢に適合するように「成果」を定義づけなければならない。従業員が組織の頂上に登りつめることをめざす“エベレストクライマー”ではなくなってしまった現在においては、従業員が評価の基準をそれぞれの“個性”に求めていることは言うまでもない。誰しも社長をめざす時代ではなくなり、各々が各々の場で活躍する場所を与えられなければならない時代となったからである。

こうした今の時代に合うように、評価の在り方も根本的に変換する必要がある。そのため、評価制度は総合的・網羅的なものではなく、専門性の向上に資するものではなければならず、それぞれの分野における判断力・実行力・企画力が問われる。賃金ダウンに当たって多くは賃金体系を変更するが、その意図するところに沿って再格付けを実現すべきなのである。

賞与や退職金と異なり、月額で支給される基本賃金の減額に手をつけるということは、労働者の生活のための保障を奪うことである。そうなると、経営者は責任を問われてもやむを得ないと言うことになる。

 

トップの交代も視野に

経営者の責任問題の端的な表れは経営者の交代であろう。企業を売却せざるを得ない状況を迎えるということもあり得るだろう。つまり、賃金ダウンをするのは万策が尽きた結果であるが、その万策には経営者の交代も含まれる。企業の再建・再生に新しい視点・新しいビジネスモデルで取り組むためにも、賃金ダウンされた従業員等に展望を与えるためにも、経営者の交代が必要である。これは、今後の賃金ダウンの施策において、特に意識していかなければならない課題と言えるであろう。

経営理念といえども、人が策定するものであり、人の所産である。賃金もまた人が人に給するものであろう。そうなれば、経営理念と賃金との間に、連動性があるとされる所以も明確になる。“給する人”が経営理念を確立して行くため、当然ながら賃金もまた、経営理念を踏まえたものでなければならない。

ところで、ドラッガーが「若年人口の減少が国内市場を根本的に変える」「人口構造の変化こそ、ネクスト・ソサエティにおいてもっとも重要な要因である」(ドラッカー著『ネクスト・ソサエティ』1章・2章参照)と言うように、人口動態は今後の社会のあり方を決めるものである。既に05年から人口減少社会に突入した日本は、出生率がこのまま推移すると、50年度には総人口が現在の約1億2770万人から3割減り、100年後には6割5分減り、900年後には日本人が消失するという推計があるという。

日本企業は労働力の確保が極めて困難になり内需も望めず、成長はおろかしだいに衰退していかざるを得ない。凋落し勢いを失った根源的な衰退状況にあっては賃金ダウン策さえ意味を持たなくなってしまうだろう。

経済評論家としても活躍された故神崎倫一氏は、今から10年以上も前、「週刊新潮」1997年12月18日号で「私は常々、日本は美しく老いるべきだと考えているんです。それが最も大切なことだと思っています」と述べられた。もはや日本には老いて朽ち果てていく以外道がないとすれば、国家のみならず企業も雇用者も、貧しくとも世界に尊敬される存在をめざし、それを実現するための教育等諸施策が必要になってくるのである。

 

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第31回 経営理念と賃金ダウン(中)
(2009年7月20日転載)

 

将来の考え方を修正へ

「企業においては、社会情勢や当該企業を取り巻く経営環境等の変化に伴い、企業体質の改善や経営の一層の効率化、合理化をする必要に迫られ、その結果、賃金の低下を含む労働条件の変更をせざるを得ない事態となることがあることはいうまでもなく、そのような就業規則の変更も、やむを得ない合理的なものとしてその効力を認めるべきときもあり得るところである。特に、当該企業の存続自体が危ぶまれたり、経営危機による雇用調整が予想されるなどといった状況にあるときは、都道条件の変更による人件費抑制の必要性が極端に高い上、労働者の被る不利益という観点からみても、失職したときのことを思えばなお受忍すべきものと判断せざるを得ないことがあるので、各事情の総合考慮の結果次第では、変更の合理性があると評価することができる場合があるといわなければならない」(傍線は筆者)これは、「みちのく銀行事件」最高裁判決(平12・9・7)の判示するところである。

かつては、今よりも雇用の場の確保が容易であったため、経営合理化・リストラ策としては、賃金ダウンよりも整理解雇を先行しなければ従業員等の納得は得られないと一般に考えられていたし、また、裁判例も同様の立場であったと言ってよい。例えば、整理解雇が不可避の状況下で、犠牲の大きい人員整理を回避する手段として賃金減額を実施した旨の会社の主張に対して、裁判所は「賃金調整を有効とすることの根拠とすることはできない」と判示し、賃金ダウンの効力を否定したのである(チェース・マンハッタン銀行事件=東京地判平6・9・14)。

これに対して、「みちのく銀行事件」最高裁判決は、就業規則による労働条件の不利益変更について、基本的に「秋北バス事件」(最大判昭43・12・5)以降の最高裁判例の流れを汲みつつも、右に引用したように、社会情勢や経営環境等によっては、整理解雇をせずに、労働契約の最も基本的要素である賃金の引き下げをも容認せざるを得ないことを、最高裁として明確に指摘したのであり、この点大きな意義がある。これは、労働条件の不利益変更という一般論にとどまらず、従業員等が賃金ダウンを受忍すべきものと判断せざるを得ない場合があることを最高裁が明言した初めての例である。

 

人員整理と同一線上で

最高裁が、「賃金の低下」は「失職したときのことを思えばなお受忍すべき」ことがあると敢えて指摘したように、現在は雇用の場の確保が極めて困難になっている以上、賃金ダウンも人員整理と同一に論じなければならなくなったのである。

かかる最高裁判決が2000年(平成12年)の時点で出された理由は、日本経済が、高度成長時代から1973年のオイルショック以降突入した低成長時代を経て、さらには衰退期を迎え、賃金ダウンの時代となることを、日本における賢者の組織である最高裁が予感していたからにほかならない。そして、前回俯瞰したとおり、この時期に始まった賃金ダウンの社会的状況をみれば、まさに最高裁の卓見と言うべきなのである。

本判決が踏襲した「第四銀行事件」(最判平9・2・28)および本判決によれば、労働条件の不利益変更に関する最高裁判例の判断の枠組みは次のとおりである。

(1)就業規則による一方的な労働条件の不利益変更は原則としてできないが、労働条件の集合的処理、特にその統一的かつ画一的な決定を建前とする就業規則の性質からいって、当該条項に合理性がある場合には個々の労働者においてこれに同意しないことを理由として適用を拒むことはできない(企業の組織法性が雇用関係という債権契約性を凌駕する場面である:筆者注)、(2)特に賃金・退職金など労働者にとって重要な権利・労働条件に関し実質的な不利益を及ぼす就業規則の作成または変更については、当該条項がそのような不利益を労働者に法的に受任させるだけの高度の必要性に基づいた合理的な内容である場合において効力を生ずる、(3)その合理性の有無の判断は、①就業規則の変更によって労働者が被る不利益の程度、②使用者側の変更の必要性の内容・程度、③変更後の就業規則の内容自体の相当性、④代償措置その他関連する他の労働条件の改善状況、⑤労働組合等との交渉の経緯、⑥他の労働組合または他の従業員の対応、⑦同種事項に関するわが国社会における一般状況―等を総合考慮して判断すべきであるとされている。

 

労使の対立を統合する

右判例理論が、不利益変更の合理性の有無を判断する具体的基準として①~⑦の項目を掲げた所以は、賃金を引き下げざるを得ない状況で企業の組織性を維持すべく「公明・公平・公正」を期するためには、どのような基準を念頭に置くべきかを説示したものである。

この点、いみじくもドラッカーが、(イ)賃金とは生産性や競争状況等の経済的な要因によって客観的に決定されるべきものであり、賃金の決定は本来は団体交渉・労使関係に馴染まない、(ロ)賃金を団体交渉の俎上に乗せるなら、労使に共通の価値基準が存在しない限り交渉は非難と反目に終わる―等と指摘するとおりであり(ドラッカー著『企業とは何か』参照)、まさに賃金の支給・需給の場面において利害が対立する労使を統合するためには、「総合考慮」という手法を用いるしかないことを、最高裁は判断基準の項目を詳細に示すことで明らかにしたと言ってよいだろう。

そして、この判例理論は、08年3月1日に施行された労働契約法10条に、基準となる項目を「労働者の受ける不利益の程度」「労働条件の変更の必要性」「変更後の就業規則の内容の相当性」「労働組合等との交渉の状況」の4点に整理した形で受け継がれているのである。

なお、判例は、前述のとおり賃金・退職金などの不利益変更については「高度の必要性」が要求されるとしており、賃金ダウンに当たっていかなる場合に経営上の高度の必要性が認められるかという問題がある。この点、当該企業が倒産の危機に直面していることおよび人員整理の必要性に迫られていることが「高度の必要性」の認められる典型例であるが、この他に、いわゆる成果主義型賃金体系の導入に伴って一部の者の賃金が下がることについて、東京高裁と大阪高裁が、労働生産性を高め当該企業の競争力を強化するための制度改定に「高度の必要性」があると認めていることに留意したい(ノイズ研究所事件=東京高判兵士18・6・22、ハクスイテック事件=大阪高判平13・8・30)。

 

大義名分書と想定問答

苦渋の選択として最後の最後に賃金ダウンを実行するに当たっては、窮状打破のために賃金ダウンが経営上高度に必要な施策であり、賃金ダウンの先に拓けるべき企業の将来像を、説得力ある「大義名分」で示すことが何よりも重要になってくる。

「大義名分」には企業の存続を図ることに向けた経営理念が十分に示され、精緻でかつ情感がこもっていなければならず、また前述のとおり判例上賃金ダウンには「高度の必要性」が求められることから、賃金ダウンの大義名分書は一般の労働条件の変更の場合より、一層緻密で説得的でなければならないといえる。

具体例を示すと、まず、(a)当該企業の沿革的背景、(b)現在の経営の窮状、(c)窮状打開に向けた諸施策の実行による経営努力の経緯と状況、(d)同業他社の状況、(e)労使交渉の経緯等を詳述したうえで、実行しようとしている賃金ダウンを含む人事制度改定が当該企業の存続を約束する施策であることを強く謳い、前述の最高裁判例が掲げる7つの基準にも適う「合理的な内容」であることを、デジタルな資料も駆使しながら説得的に論じるのである。さらに、そこに驕りがあってはならない。あくまで、従業員の「諦念」「納得」がなければ企業存続は叶わないという姿勢を貫かなければ、従業員の理解を得ることはできないからである。

賃金ダウンに当たっては、こうして大義名分書を明示することこそが書面による重要なコミュニケーションであり、さらには、想定問答の作成こそが高騰による必須のコミュニケーションの素材ということになる。賃金ダウンの大義名分書は、想定問答を作成することによってより内容が補完されるし、また、想定問答の作成は、従業員等を説得する立場である経営側自らの納得感を強め、自信を生むことにつながるのである。

想定問答としては、例えば、「10%賃金カットの根拠を示して欲しい」「経営責任はどうなるのか」「経営悪化は分かるが人件費以外に切り込むべきところがあるのではないか」「暫定的な施策ではなく賃金制度の改革により賃金が下がるのはなぜか」「賃金の引き下げで職場の士気がさらに削がれ、経営不振に陥ることについて社長はどのように考えているのか」―等々の設問を想定して、回答例を構築するのである。

しかし、賃金ダウンという逼迫した経営状況の中では、十分に練られた大義名分書や想定問答であったとしても、経営者が将来に向けての実績を示すことは極めて難しい。

そのため、本欄前回でも論じたとおり、経営者は日頃から豪奢に流れず、自らが経営活動において重視する姿勢・価値観・目的等(=経営理念)を従業員等に明確に示し、賃金の問題や評価基準にも経営理念を落とし込んでおく必要がある。さらには人間性の面においても信頼される存在となっていることが、最も重要な課題となってくるのである。

 

 

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2017年7月29日(土)7:26 中目黒公園にてカワラナデシコを撮影
花言葉:「大胆、可憐」

 

 

第30回 経営理念と賃金ダウン(上)
(2009年7月13日転載)

 


賃金ダウンは、細心の注意を払い、思いやりと愛情を持って―高井伸夫弁護士は、日本経済が長期停滞期に突入し、賃金ダウンもやむなしの状況にあると訴えている。説得力のある大義名分を掲げ、従業員から共感を得る努力がその前提である。

 

「我というその大元を尋ぬれば、食うと着るとの二つなりけり」、人間世界のことは政治も教法(物事を教える方法)も、みなこの2つの安全を図るためのものであって、その他は枝葉である潤色にすぎない(『二宮翁夜話』参照)。

江戸時代後期の農政家・思想家二宮尊徳(1787~1856)は、こう説いて「衣食足りて礼節を知る」の道理を明らかにした。

仕事を持つ者の約8割強が雇用者(正規・非正規・派遣・契約等を含む。役員を除く)として就業する雇用社会であるわが国において、衣食を支える生活の糧は何よりもまず賃金である。そこで、フルタイム労働者の平均月額賃金(男女計・残業代除く)の推移をみると、2001年に最高額30万5800円となったあと翌02年から前年を下回り始め、05年にほんの僅か持ち直したものの再び下落し、賃金ダウンの時代が続いている。

また、消費者物価指数を勘案した実質賃金も98年から下がる傾向がみられる。00年・05年を除き01年以降下落基調にあり、日本人が統計的にも01~02年頃から貧しくなっていることが窺える。加えて、確かな統計はないものの退職金や企業年金もこの時期減額されたはずである。衣食の確保が危うくなりつつある貧困化の状況は長引く不況のもとますます進行すると予想される。ちなみに08年の平均月額賃金は29万9100円(男女計)で、10年ほど前の98年当時の水準に戻っている。またこの夏の賞与は、近来にない激しい落ち込みをみせるだろう。賞与を全く支給できない企業も相当数に上るはずであり、賞与時に増額する住宅ローン返済では特に支払いが滞り、自宅を手放す人が増えることも危惧される。

 

重要性増す「経営理念」

日本を含む世界経済は「L字」型の長期停滞時代に入ったという分析もあり(『エコノミスト』平成21年6月16日号)、各企業は「社会情勢や当該企業を取り巻く経営環境等の変化に伴い、企業体質の改善や経営の一層の効率化、合理化をする必要に迫られ」(みちのく銀行事件=最判平12・9・7)ており、引き続き賃金ダウンやむなしの状況に直面している。

そこで本欄「夏号」では、不況下における賃金ダウンのあり方について、主に経営理念との関係を念頭に置いて論じたい。

経営とは、事業・企業を運営していくことであり、経営理念とは、経営者が「どのような会社にしたいか」「どのような会社として社会に貢献したいか」を明らかにし、同時に日々の経営活動において重視する姿勢・価値観・目的等を表すものである。とすれば、経営者による評価の結果である賃金は、「株主に対する配当」「内部保留」等とのバランスにおいて経営理念が反映される重要な一場面であり、従業員等に対する最も分かりやすい経営者の意思表示である(この点、企業の将来のための経営判断事項である内部留保はともかく、生活の糧である賃金には株主への配当以上に重きが置かれて然るべきである)。

それゆえに、経営者には賃金の決定について大きな責任と覚悟が求められることは言うまでもない。事業体を運営する経営者が、ある局面では自らと対峙する立場にある従業員等に支給する賃金額は、経営理念即ち経営体の選択する価値観等によって大いに左右されるのである。

回を改めて論じる「みちのく銀行事件」等最高裁判決および労働契約法9条・10条によると、必要性・相当性・合理性等が然るべく備わっていれば、従業員等の個別の同意がなくとも就業規則による賃金の不利益変更は認容されるので、これに反対する従業員に対しても就業規則の変更によって賃金を引き下げることは可能である。このように企業の人事労務の基本である就業規則・賃金規程には経営理念のエッセンスが反映されるべきことに鑑み、経営理念と賃金制度・賃金ダウンは直結していると言ってよいことになる。

 

説得力ある大義名分

本欄「09年春号」でリストラ問題を論じた際にも指摘したとおり、企業の社会的責任とは、まずは企業が存在し続け雇用の場を提供し続けることであって、存亡の危機に万策尽きた場合には、まがりなりにも企業を存続せしめて従業員等に賃金を払い続けるために、賞与・手当等を含む賃金の額を削減することはやむを得ないことになるのである。

そしてそれと同時に、「企業は人なり」という至言のとおり、正に企業は人によって成り立つ集合体・協働体であることを忘れてはならず、賃金は労働の対価であることはもとより、従業員等の「人」としての生活と生存を保障するものでなければならない。彼らにとっては、一家の収入源としての賃金の総額が何より重要な問題なのである(ドラッカー著『企業とは何か』参照)。もし、賃金の引き下げにより従業員等の生活保障が危うくなれば、衣食が満たされなくなり、生活もその家族をも含む人生そのものが毀損されてしまう。そうなると彼らから大きな反発を受けるのは必然であり経営も成り立たなくなる。こうした事態にならないよう、賃金ダウンには細心の注意を払い、思いやりと愛情をもって行わなければならない。

賃金ダウンを実施すると、①優秀人材が退職するリスク、②とかく“含み損社員”が組合に加入ないし結成するリスクが生じるが、前者のリスクを回避するためには、賃金ダウンの状況を従業員等に納得させ、少なくともそれを納得させるための努力を尽くさなければならない。

加えて、賃金ダウンを実行する経営者には、「以って範を示す」態度と、万策尽きて人件費に手を付けるという悩み抜いた姿勢が求められる。そのためにも、従業員等に先んじて経営者自身が大幅な報酬カットを甘受し、痛みを伴わなければならない。そうした共感を形成してこそ初めて、従業員等の諦念、納得を得られるからである。

そして、優秀人材を引き留めて、彼らが将来展望があることを確信し当該企業で活躍し続けるためには、賃金ダウンを選択せざるを得なかった経営者自身が、自らの経営力の衰えと陳腐化という事実を十分に自覚し、経営の現場から退場するという覚悟をもって、強く省みかければならない。それには、経営陣の交替や他社との合併・統合をも視野に入れた様ざまな経営刷新を断行することが必要となることは言うまでもない。

このように、企業の将来を見通しながら、説得力ある「大義名分」をいかに従業員等に示すかが、賃金ダウンを成功させる大きなカギとなるのである。

 

 

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2017年6月9日(金)9:34 上海市内の公園にて撮影

 

 

第29回 リストラの本質と手法ー恐慌下における諸現象を踏まえてー(5)
(2009年5月25日転載)

 

 

勉強は一生続けるもの

経営不振に陥った企業への公的資金注入制度を新設した改正産業活力再生法が4月22日に成立した。既にいくつもの企業が同制度の活用を検討している。本改正法は3年間で企業価値を向上させる事業計画の策定を要件とするが、適正な人員削減の実行や経営責任を厳しく問わない点で企業の根本的な再生策としては不十分であろう。

さて、企業のリストラ(再建・再興・経営体制の再構築)を実現するためには、組織改革などのハード面の施策のみならず、個々人の意思・行動というソフト面の施策も極めて重要である。今回は、リストラ問題における労働者側のテーマの主に光を当ててこの連載を締めくくりたい。

個々の労働者は、優れた専門家・技術者・技能者として常に学び続け、雇用されるに値する能力(エンプロイアビリティー)を養っていかなければならない。そして、そのための基盤としては、収入の範囲内で生活する能力を身につけた上で、清く正しく貧しくとも生きる姿勢を身につける必要があろう。

それには、今この大変な不況の中、学校教育だけでなく、社会人となってもさらなるキャリア確立のために勉強を続けていくべきである。つまり、より高度な教育を受けるべく、大学卒業後も不足する知識や技術を身につけるためにコミュニティースクールや専門学校・大学・大学院に一生涯を通じて何回でも再入学する必要性が増すだろう。ドラッカーも「人を雇うのは、強みのゆえであり、能力のゆえである。何度も言うように、組織の機能は、人の強みを生産に結びつけ、人の弱みを中和することである」(『マネジメント』第23章参照)と述べているように、個々の労働者が勉強することは、労働者と企業の双方の利益となるのである。

そこで、これからはキャリアコンサルタントの重要性が高まることが予測される。学生に対してのみならず企業内でも、メンタルヘルスをも踏まえた心理学的手法を用いて、相談を求める者の心理面を重視しつつ、自らの力で解決できるように援助するメンター・助言者としてのキャリアコンサルタントの教育・育成が、ますます必要となってくるであろう。

ところで今は一般に企業では副業を禁止しているが、景気悪化による賃金目減り補填のために、副業を容認する動きがあるという(例「富士通」2009年2月4日付産経新聞等)。これはリストラに関連するテーマとしても、重要な側面を持っている。なぜなら本連載第3回でも述べたとおり、これからはリストラの激化に伴い、判例法上のいわゆる「整理解雇の4要件」が厳格化されると予測されるが、賃金ダウン分補填のために副業を容認したとなれば、企業は「4要件」のうち「解雇回避努力義務」を一部履行したとされ、裁判になっても人員削減策が容認される方向に働くのではないかと思われるからである。

経営悪化によりやむを得ず副業を容認するのは窮余の策であるが、本来は、個人の能力の多様な開花を支援すべく、そして産業社会の活性化のためにも、全企業が前向きに副業の容認をすべきだと思われる。企業に勤める者が副業を視野に置くことは、個人の収入の幅を広げるだけにとどまらず、個人の職業選択の自由度を高め、自らの将来性や次の人生ステージを意識することにもつながるだろう。それゆえ「副業」という言葉よりも、「マルチ・ジョブ」等のような表現で前向きに捉える必要があろう。

 

個人の教育投資を優遇

そして、マルチ・ジョブ実現のためには①労働契約法の制定過程で検討された「副業禁止規定の禁止」を再検討し、法改正で条文化を実現する。②個人の能力開発にかかわる教育研修費を非課税とし、個人向け能力開発資金の貸与制度を設けるなどの実際的な取組みが必須となる。また、企業にも社員の全人生は背負いきれない旨の方針を明示する決断が迫られることになる。これは経営理念の大転換とも言えよう。

なお、マルチ・ジョブの容認には、社外秘情報の漏洩等の恐れがあることも留意しなければならない。企業秘密の管理状況が甘いケースも散見され、企業側の就業規則等の整備、社員への研修も必要である。

リストラクチャリングは、何度も述べた通り、本来企業再興のための経営体制再構築という意味であるが、わが国では人員削減策の実施という意味で用いられるのが一般的である。人員削減策は企業経営にとって、本来質と量の双方にかかわる問題である。しかし経営困難という緊急事態に陥った場合、質の向上を期する時間的余裕がないために、量の減少を図るという方向に行かざるを得ず、リストラを行う企業の再興は人員削減となって登場してくるのである。

ところが、企業が経営の限界に陥り、倒産含みの状況に陥ると、優秀人材は会社を見限り転職するため、企業の再興は不可能になってしまう。そこで、本連載第3回でも述べたとおり、正規・非正規の身分に関係なく優秀人材のリテンション策を講じなくてはならないのであり、将来的な課題として、どこの企業でも通用する職業能力を社会的に認定し、正規・非正規の「均衡処遇」を実現すべきである。

その点を踏まえて、職種別労働市場の定着を期待する向きもあるが、一部の専門的職業を除いては、職種別の労働市場は定着しないと思われる。なぜなら、企業に寿命があるように職種にも寿命があるからである。例えば、江戸時代の職業で今日残存しているのは3分の1程度であるという。時代の進化とは、職種が「多産多死」を迎えることでもあるから、今後ますます残存率が低くなるであろう。

 

賃金ダウンし投資余力

そこで、今までのように例えば営業職であればその職種を前提に自動車・化粧品等の業種を選択するのではなく、これからは、職種よりも個人の一生涯のキャリアプラン(家族構成・地域・子育て等々)を前提とした上で、職種・業種を柔軟に選択できるような“キャリア志向別”の労働市場の形成が重要になると思われる。そして将来的には、前述のキャリアコンサルタントが、求職者側の視点から長期的スパンに立った上で、当人にとっての最適な“売り時”を判断し指導していく社会になることが望ましいのではないだろうか。

さて、現下のような恐慌状態にあっては、無暗に人員削減を行うのではなく、残された従業員全員が一丸となって全力で取り組まなければ業務を維持できず、事業・企業として生き残れない現実がある。限られた投資余力を“選択と集中”により焦点を絞って活用しなければならない。そして、資金収支を確保し、でき得るならば投資余力をいくらかでも強めるために、総体としての人件費削減策つまり賃金ダウンを実施する必要性が日に日に強まっている。そこで、賃金ダウンについては本連載「09夏号」(注:本ブログに8月11日に掲載予定です)にて詳述したい。

 

 

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