『労働新聞』高井伸夫弁護士の愚考閑話録の最近のブログ記事

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2017年2月12日(日)7:21 港区六本木にてチューリップと牡丹を撮影
チューリップの花言葉:「思いやり」牡丹の花言葉:「富貴、恥じらい」

 

 

第21回 働き方改革(2)新しい成長主義
(平成28年9月26日) 

 

 

私は、人事・労務問題を専門とする弁護士として様ざまな経営者の方々と半世紀以上お付き合いをしてきた実感から、アベノミクスの繰り出す政策に違和感を抱き続けている。最近では、担当大臣まで新設した働き方改革だが、長時間労働を是正するとしても画一的に時間の長さにのみ着目することに合理性はあるのか。安倍首相は「働き方改革実現推進室」の開所式で、「モーレツ社員の考え方が否定される日本にしていきたい」「長時間労働を自慢する社会を変えていく」「世の中から非正規という言葉を一掃する」と訓示したというが、企業規模や業種によって事情は異なるし、どのような仕事であれ、その真髄を知るには寝食を忘れて没頭すべき時期が必ずある。労働時間規制が“ゆとり社員”を生み出し企業や組織の活動を阻害するようなことがあれば、本末転倒である。

ところで、アベノミクスの旧・第三の矢は「民間投資を喚起する成長戦略」であったが、未だ有効な施策が講じられたという話を聞いたことがない。

私は、日本ではもはや成長主義は成り立ち得ないと考えている。なぜなら、日本の総人口は2100年には5000万人を切ると予測され、国全体が急激に縮小しているからである。

具体的意は、農業は荒廃農地面積が高止まりし、私の知っている工業団地はいずれも活気を失い、さらにはシャッター通りが増加し、空き地も増加している。また、一般労働者の賃金は、2015年に持ち直したものの01年をピークにほぼ減少し続け(厚労省)、1年間を通じて勤務した給与所得者のうち年収300万円以下の層が、約40%を占めている(国税庁)。これでは消費や教育等に支出する余裕はなく、経済成長は見込めない。そして、海外に活路を見出そうとしても、最後のフロンティアであるアフリカを除いては、世界経済全体に伸びしろがなく(佐伯啓思京大名誉教授『週刊新潮』2016年9月8日号記事等)、外実を求めての投資は無駄な努力であり、内実を追求すべきなのである。

エコノミストの中前忠志先生は、「長期的に物価が下がる状態をデフレだとすれば、いったんその傾向が定着すると100年程度は持続するのが通例である」と以前より論じ(『目覚めよ!日本』より)、また斎藤一人氏は実業家の立場から、世界で同一労働同一賃金が実現しなければデフレは終わらないと指摘している(ユニクロが目指す世界同一賃金はこの先駆けであろう)。

少子化・人口減少社会での働き方改革は、量的成長を断念し、質の向上・内容の充実にシフトする覚悟を持つことである。そのひとつのヒントは、「匠の精神」にある。日本、スイス、ドイツなどの技術の精巧さや職人気質を念頭に置くこの言葉は中国で3年ほど前から流行し、この3月の全人代の政府活動報告(李克強首相)にも盛り込まれて話題となった。日本の労働生産性はOECD 34カ国中21位(2014年)である(日本生産性本部)。働き方改革では、労働生産性の低さを指摘する議論が必ず出てくるが、匠の精神により質の高い丁寧な仕事をすれば、統計上の生産性が下がるのは当然のことで、この点はあまり気にする必要はないと思う。むしろ、労働時間の規制に縛られて匠の精神を実現できないことのほうを危惧する。安倍政権には、新しい成長主義を真剣に検討し国民に説いてもらいたい。

 

 

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2017年1月21日(土)10:17 北区豊島8にてモミジハグマを撮影

 

 

第20回 働き方改革(1)誰のために働くのか
(平成28年8月29日) 

 


東京帝国大学において、1920(大正9)年に日本で初めての労働法の講義をされた末広厳太郎(すえひろ・いずたろう)博士は、1947年(昭和22)年、労働組合関係者、使用者側の者、学生等を対象とした労働法ゼミナールという講話をされ、速記録をもとにした本を出された。私は10年ほど前になじみの本郷の古書店でこれを入手したが、内容は濃く、活字もしっかりと組まれており、戦火が止み勉強できるようになったことへの人々の喜びを感じずにはいられない。

この講話の導入部分の「労働法の史的概観」には、「マルクスは、現代資本主義社会の労働者を賃銀(ママ)奴隷と呼んだが、歴史的にみると今日の労働者の職能上の祖先は奴隷である。かくの如く古代の奴隷と今日の労働者とは一貫して一つのものとして理解される共通の要素がある。」(末広厳太郎述『労働法のはなし』一洋社1947年11月刊)というくだりがある。戦後間もない時期のこの指摘は、いまを生きる私たちにも響くものがあるのではないか。従属労働の担い手である限りは、働く者の本質は、自立・自律し得ない存在である奴隷と同じものなのだ。

時代の変遷とともに人の労働観は「国家のため」から「企業のため」に変わり、近年は「個人のため」「自分のため」へと変わりつつある。こうした潮流は立法にも反映され、2007年11月には労働契約法が成立した。同法は、雇用形態が多様化し個別的な人事管理が進展してきた社会の実情のもと、労働関係は基本的に労働者と使用者との個別的な合意(約束)によって成立、展開、終了することを法文上明らかにしたものである(弘文堂『詳説労働契約法』等参照)。

労働契約関係は一般の債権契約とは異なり、人格的結合性と組織性に特色が求められるとしても、「個人のため」「自分のため」に働くという考え方が主流になってきた以上、企業は個人の多種多様な生き方を尊重していかざるを得ないのであって、様ざまな雇用形態を採用し、働く者の選択肢を増やす努力が求められる。統一的かつ画一的な雇用では魅力に欠け、優秀な人材は集まらず、組織の充実はあり得ない。企業は多種多様な働き方を希望する従業員に対して、マッチングする制度を採用していかなければ、真の働き方改革たり得ない。自分のために働くという目的意識に配慮し、労働者側からみた理想の働き方概念を打ち立てなくてはならない。いうまでもなく、いまや優秀人材は国境を越えて移動する時代である。彼ら彼女らにとっては、好きなこと得意なことについて、好きな時間に好きな人と働き、自分が納得できる報酬を得られることが理想であり、人種、性別、学歴、宗教、キャリア等に関係なく、こうした動きは世界レベルで進行している。企業はこれらの事象を念頭に、新たな人事制度、雇用制度を確立しなくてはならないと思うのである。

そして、働く者を賃金奴隷の労働から解放すべく従属労働から自立労働へと促し、自己責任に基づく自己実現を果たし得る労働法体系を構築することが、厚生労働省のいまの役割なのである。個人のために働くとなれば、雇用契約は必然的に請負契約的な働き方に転換され、労働の成果による格差は広がっていくであろうが、やむを得ない。財源問題はあるにせよ、救済策としてのベーシックインカム等のシステムの導入も、真剣に議論されるべきときなのである。

 

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2016年12月25日(日)8:15 須賀神社にて撮影


 

 

第18回「評価の真髄」
(平成28年6月20日)

 

 

かつて大宅壮一が一億層評論家時代と揶揄したように、当事者意識に欠ける第三者的発言をする者を「彼は所詮、評論家にすぎない」という場面は、よくみられるものだ。これらは評論家を名乗る人には失礼な言辞だろうが、一面の真理である。自分自身には経験も技量もないのに上から物をいうように論評を展開しても、説得力はなく、概ね共感を得られない。

あらゆる分野に評論家はたくさん存在する。しかし、実際に経験した者でなければ物事の真髄は分からない。プロ野球の例でいえば、野村克也氏は自分自身が秀でた捕手であり監督であったからこそ、優れた野球評論ができ、視聴者や読者を唸らせるのである。また野村氏は、愛のある非難・叱責であれば選手に愛が伝わるという発言をしているが、選手の成長を旨とするこうした視点も、評論に深みを与えているに違いない。

評論と似て非なる概念に、「評価」がある。私なりの理解では、評論とは対象物の世界を研究して丹念に論じながら本質に迫る努力であるのに対し、評価は一定の理由付け・基準の下に対象物の価値を相対的に定める行為である。いずれも、対象物の成長と社会の進歩に裨益するものでなければならないという使命を負う点では共通である。つまり、評論・評価される側が、第三者の見解を受け入れ、克服し、挑戦する意気込みを持ち得る内容であることが求められているのである。

企業における人事考課は、「評価」の代表例の1つである。成果主義人事制度・賃金制度は、従前の終身雇用に基づく年功給を見直し、仕事の「成果」をいかに評価して賃金に反映させるかに腐心してきた。裁判例は大要、基本的には使用者の総合的裁量的判断が尊重されるとして、当該制度の手続き・基準等が合理的であるか、これら手続き・基準による評価が適切に行われているかを判断している。つまり、公明・公正・公平が保たれ、恣意性が排除されているかということになるだろう。評価者は一定基準の下で判断するという点において裁量が認められ、また、格付けが念頭に置かれる以上、多かれ少なかれ評価は主観に基づかざるを得ない。

そもそも人間社会における「評価」の起源は、原始の動物としての人間の営みに求められるのではないか。生きるか死ぬかの食料をめぐる生存競争を繰り広げていた人間が、独力では勝てないときに信頼できる者・能力のある者を選んで仲間を形成し始めた。その過程で、協力し合えるか、信頼できるか、能力があるか等について判断し、「主観」による真剣な選別がなされた。ここに人間社会での「評価」が始まり、私たちのDNAに刷り込まれているのではないか。しかし、仲間が増えると、評価について皆を納得させる客観性も必要になってくる。そこで評価の「基準」が生まれたのではないか。つまり、組織を秩序立てるために評価という手法が生まれ、主観に加えて客観性を担保する基準が採用されたのであろう。

近未来はAIの発達もあって一層無機質なハイテクの時代になる。評価システムにもAIが活用されるだろう。だからこそ、私たちは、相手を尊重し愛情をもって互いに見つめ合い、謙虚な姿勢でハイタッチで評価することの意義を重視しなければならない。血の通った評価こそが、人間味のある付き合いを活性化させ、社会に落ち着きをもたらす。これこそが、これからの評価の真髄なのである。

 

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2016年11月23日(水)11:30 にてストック・ベイビーを撮影
花言葉:「愛情の絆」

 

 

第17回「貧困問題の克服」
(平成28年5月30日) 

 

 

「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」(古代ローマの哲学者セネカ)。

世界で一番貧しい大統領と呼ばれたホセ・ムヒカ氏(前ウルグアイ大統領)が講演でよく引用するこの言葉は、老子の「足ることを知る者は富めり」(知足者富)と同じ思想に立つものであろう。物質的な欲望を肥大させて欲しがり続けることの愚かさと不幸を説いていると思う。

しかし、物欲を批判し、精神の豊かさを称揚するだけでは解決できない厳しい現実が、いまの日本にはあるのではないか。子どもの貧困、下流老人、老後破産などという言葉がごく普通に使われ、足るを知るどころか、改善の見込みのない貧困に陥る人が大いに増えている。

これは、日本全体が貧しくなっている実情の反映でもあろう。民間給与実態統計調査(国税庁)によれば、正規・非正規を合わせて1年を通じて勤務した給与所得者1人当たりの年間平均給与額(男女計)は415万円(2014年)だが、ピークだった1997年に比べて52万3000円も減少している。そして、エンゲル係数(消費支出に占める食料品の割合)は、2005年に総世帯ベースで最低値22・7%だったところ15年には25%と上昇している(総務省)。また、生活保護受給者数についてみると、最低だった1995年度の約88万2000人からほぼ増加し続け、2011年度に過去最高を更新、今年2月分概数で2・5倍近くの約216万1300人となっている(厚労省)。給与所得が下がり、家計は苦しく、困窮者が増え続けているのである。

この4月に発表されたユニセフの報告書によると、子ども(0~17歳)のいる世帯の所得格差は、OECDやEU加盟の41カ国中、日本は8番目に大きく、最も所得の低い層の所得は中程度の所得層の4割ほどにすぎないという(各国所得のデータは主に13年)。親の貧困がストレートに投影される子どもの貧困問題の深刻さを思わずにいられない状況である。衣食足りて礼節を知るという言葉のとおり、貧困になればなるほどモラルは低下し、育児放棄のみならず親が子どものアルバイト代を奪う例まであると聞く。年老いた親の年金をあてにする無職成人と同じ“たかり”の発想である。

日本の15歳未満の人口は1982年以来35年連続で減少し、社会の活気が失われているが、これに子どもの貧困問題が加わると、日本全体を覆う沈滞ムードは倍増する。将来を担うべき子どもたちが、厳しい環境にあってもなお未来を信じて夢や希望や目標を持てる社会にしなければ、日本は消滅の危機に瀕するだろう。

私や私の親の世代は社会全体が貧しく、皆が必死で働き、家庭や近隣社会には温かさと愛情があった。子どもの貧困に関する法律が施行されたり、貧困対策が様ざまに議論されているが、実効性は未知数である。すべてが精神から始まるべしという摂理に照らせば、親や大人の心の貧困こそが貧困問題の根本であることを直視し、たとえ迂遠であろうとも、親や大人が自立心・自律心と責任感を持って働くための心の教育と、時代に合った仕事力を身につけるキャリア教育を施すしかない。

子どもは社会の宝である。子どもの貧困問題は国を挙げて取り組むべき最優先のテーマであることを、私たちは決して忘れてはならないのである。

 

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上から時計回りに
2016年10月16日(日)8:13 千代田区永田町2にて浜菊を撮影 花言葉:「逆境に立ち向かう」
2016年10月15日(土)16:15 上総中野駅にてブーゲンビリアを撮影 花言葉:「情熱」
2016年10月26日(水)14:04 千代田区二番町4にてパンジーを撮影 花言葉:「物思い」

 

 

第16回「エリートの抜擢とAI」
(平成28年4月25日) 

 

 

 

非正規労働者が雇用者の約4割を占める現状では、格差問題解消への取組みが叫ばれるのは当然である。しかし、社会の健全な発展のためには、格差問題だけに着目しては不十分であり、エリートの抜擢・育成が極めて重要であることを忘れてはならない。人間は競争社会に生きているのであり、競争こそが個人を磨き、組織の質を高めていくといっても過言ではない。

「人事の本質」とは、優秀な者を引き立てて、無能な者を排除するシステムということになるだろう。つまり、競争のなかでの抜擢と淘汰を繰り返し、ひとりで3人分の仕事をする人物への切替えを進めるのである。

本来、正社員は非正規社員と異なり、管理職候補・役員候補として採用された存在だが、有名大学出身者でも役員になれない者が多数いる。正社員は、抜擢の対象となるエリート社員と一般社員に二分され、年次を経るごとにその差異が明確になる。このプロセスでエリート社員はますます才能を開花させ、能力を高めていくのである。これが、人事のヒエラルキーの中で公然となっているのが官庁や裁判所の人事であるが、すべての職域でも行われていることである。

抜擢の基準は、まず人望を集める人間性があるかをみる。そして、知恵があるか、情感が豊かであるか、意思が明確かという「知・情・意」が基本となる。その上で、良心に従った先見性・判断力と勇気を発揮し、リーダーシップに溢れた人物かということになる。時代のリーダーを育成するには、なるべく早い時期から対象者の能力を見極め、選抜・抜擢を行う必要がある。リーダーシップは能力開発が難しい行動特性とされているため、若い頃からリーダーとして頭角を現している者を選抜・抜擢して、その中から候補者を選び出すのが効果的である。

ところで、リーダーシップとマネジメントの違いは何か。前者は未来を指向し、後者は現実を直視する力である。リーダーは組織の方向性と目標を創造し、果敢に実行する。マネージャーは与えられた目標を達成するために行動する。私の経験でいうと、マネジメント力だけの者は経営者にはなれず、リーダーシップを発揮できる者はマネジメント力も備え、経営者としての資質も有している。

抜擢された者が能力を発揮するには、働きやすい環境に置く配慮も重要である。先輩社員に指示しなければならない場面は非常に難しいが、前任者が補佐し、リーダーを先輩が邪魔しないような体制を構築しなければならない。

さて、新しい問題がある。近未来の社会ではAI(人工知能)が仕事の担い手として存在感を持ち、多くの職域で人間に勝るようになる。AIが人間を負かす現象が様ざまな場面で展開されていくのであるから、人間はAIに負けないよう精進することが求められる。とすれば、社会における競争はさらに激化せざるを得ない。

近未来のエリートは、AIとの協調を絶えず考えなければならず、エリートやリーダーに求められる「知・情・意」の質も、AIの存在を前提とするものに自ずと変化する。新たなエリート像・リーダー像の誕生である。これまで私は、企業・組織には同業他社から引き抜かれるような価値ある優秀人材が100人規模当たり3人はほしいと皆さんに話してきた。近未来には、この3人のなかにヒトが何人入るのか、働く者はまさに正念場を迎えるのである。

 

 

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2016年10月3日(月)11:45 北京龍熙温泉度假酒店にて撮影

 

 

 

第15回「実現不可能な一億総活躍社会」
(平成28年3月28日)

 

 

今年の春闘はベアが縮小し、一部では非正規の賃金が底上げされたというが、雇用者全体の約4割を占める非正規労働者の多くは組合に入らず(パートタイム労働者の推定組織率は7%)、春闘の熱気の埒外にいる。

 

最新の民間給与実態統計調査(国税庁2014年)をみると、年間平均給与額は正規478万円、非正規170万円で、非正規は正規の3割強にすぎず、両者間には甚だしい格差がある。このように低収入の非正規労働者は経済的な自立が難しい状況にある。同じような仕事をしても、雇用形態の違いだけで賃金に著しい格差が生じるのは、法理論の範疇を超えて人道的に許されないといわざるを得ない。経済的に自立できなければ誇りを捨てて働く存在とならざるを得ず、仕事を通じて自己実現を図ったり、達成感や喜びを得たりする機会も極めて少なくなる。

 

非正規労働者は経済不況の深刻化とともに90年代後半から急増し始めた。2003年には雇用者に占める割合が30%を超え、15年には37.5%に達している(総務省「労働力調査」)。非正規労働比率が5割を超え、現状に大きな不満を持つ層が多数派になると、社会不安がより強くなるであろう。おそらくこうした危惧感から、安倍政権は「同一労働同一賃金の実現」「一億総活躍社会」というスローガンを唐突に掲げざるを得なくなったと私はみている。しかし、人件費の総額が決まっている以上、正社員の待遇を下げて非正規の待遇を上げることでしか両者の格差を解消することができないことから、既得権を持つ正社員側の拒絶は強硬であろう。

 

労働運動の総本山である連合は同一労働同一賃金の採用に消極的であり、報道によれば「正社員は残業や転勤のリスクもある。そうした負担も考え合わせて賃金を払うべきだ」という趣旨の発言をしている。

 

政治家も経済界も、連合に脅かされてひるんでいる。政治家は日本の行くべき道を誤ってはならないし、経団連は組合との対決を避けてはならない。格差の解消をめざすのはいまや国是であり、日本に活力を戻す重要な施策なのである。

 

いまから70年前、戦火で廃墟となった日本は国全体が貧しかった。しかし、日本全体が熱気をもって取り組み立派な復興を遂げた。だが、低収入の非正規社員が4割もいる社会では、希望も活力も熱気も望むべくもない。このような状態では「一億総活躍社会」の実現は不可能なのである。

 

論語には「寡(すく)なきを患(うれ)えずして均(ひと)しからざるを患(うれ)う」「貧しきを患(うれ)えずして安からざるを患(うれ)う」という言葉がある。

 

これを格差問題の解消への構図に当てはめてみると次のようになるだろう。つまり、正規と非正規の処遇格差がある(=「均しからざる」)ことを憂うべきで、正社員の賃金をダウンさせることが憂いを解消することにつながるのであり、また、非正規の増大により社会不安が招来することこそが憂うべき事態であり、正社員の賃金が下がり今より貧しくなったとしてもそれを憂うことはないのである。

 

こうした筋道を作るために、政界のトップも経済界のトップも決しても挫けず、真剣勝負であると覚悟してやらなければならない。格差問題を解消し、同一労働同一賃金を真の意味で実現しなければ、日本は生き延びることはできないだろう。

 

 

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2016年9月11日(日)丹沢大山国定公園にて撮影




第14回「メンタルヘルスとトレーナー」
(平成28年2月29日)

 

 

2015年のラグビーW杯での日本代表チーム大健闘の立役者のひとりとして、メンタルコーチ荒木香織氏(兵庫県立大学准教授)の存在に注目が集まったことは、心の問題が大きなテーマとなっている社会全体の状況にも符合するものだろう。

 

私が本紙に「精神健康管理入門」(全33回)を連載したのは32年ほど前、1984年のことである。89年8月にはこの連載に一部加筆し、『判例からみた企業における精神健康管理』という本にまとめた。当時はメンタルヘルスという言葉は一般には使われておらず、同書まえがきで私は「精神障害者が企業において大きな問題として最近クローズアップされてきた。」「(精神障害者に対する)暖かみのある態度が企業にも要求され、それには雇用の場にも強く意識される時代が来つつある」と書いたが、当時は働く者の心の病はさほど広がりのある深刻な論点とされていなかった。

 

国立社会保障・人口問題研究所によれば、自殺やうつ病による社会的損失(単年)は2009年の例で約2兆7000万円と推計されている。また、WHOは今から30年後の予測として、世界全体の疾病負荷(疾病により失われる生命や生活の質の総合計)が一番大きくなるのはうつ病であるとしている。このように心の病が世界共通の重大問題であるという実情をみれば、昨年12月1日施行の改正労働安全衛生法66条の10により新設されたストレスチェック制度は、「『うつ』などのメンタルヘルス不調を未然に防止するための仕組み」とされているが、働く者への配慮だけでなく、心の病によって生じる社会的損失を防ぐために、労働者の自己保健義務をあえて国が補完しようとするものと捉えることもできるだろう。そして、こうした予防の観点から、メンタルヘルストレーナー・メンタルコーチに日頃の指導を求める気運が社会全体で高まってゆくのは必然であろう。

 

ところで、メンタルヘルス不調に陥る原因は何であろうか。人事・労務問題を長年手掛けてきた立場からすると、真実発見と発展・成長を欲する人間の本能が一因ではないかと思う。

 

人間は、真・善・美を尊び、真実発見に向けた本能を有するがゆえにこれまで進化を遂げてきた。そして20年ほど前から急激にIT化によるスピード時代となり、働く者に高度な処理速度と処理能力が求められるようになると、自分の限界を超えてまでも激しい競争に耐え、真実に近づこうとする者は、脳と身体を疲弊させストレスをためこみ心の病となり、身体にも変調をきたしてしまうのではないか。あるいは、身体の不調がもたらすストレスが原因で心を病むこともあるだろう。ストレスの感じ方は千差万別で、適度な好ましいストレスは仕事の責任感と覚悟を醸成し、人を成長させる側面もある。その意味でストレスの良否の見極めが重要になってくる。

 

日常的にコンピューターやIT機器に囲まれて生きる私たちは、人間もまた自然界に身を置く生き物であるといった意識をほとんど失っている。心の健康を保つには、自然と一体となる時間を持ち、適度に身体を動かし、他者との良好なコミュニケーションで心を解放し、ストレスを外に吐き出す工夫をして、脳と身体の疲弊を予防するしかないだろう。しかし、こうした方途を自力で為し遂げられない人も多いはずだ。今後は、一人ひとりがメンターあるいはメンタルトレーナーを持つ時代が到来するのではないだろうか。

 

9月15日(金)から、新連載「時流を探る~高井伸夫の一問一答」がスタートしました。
話題のテーマについて、各界でご活躍されている方々と高井等の対談を一問一答形式で掲載しますので、ぜひご覧ください。

 

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上から時計回りに
2016年7月10日(日)7:34 中目黒公園にて芍薬を撮影 花言葉:「恥じらい、謙遜」
2016年7月16日(土)11:10 パソナビルにてベゴニアを撮影 花言葉:「片思い、親切」
同日時同場所にてペチュニアを撮影 花言葉:「心の安らぎ」 

 

 

第12回「知性・考えぬく」
(平成27年12月28日より転載) 

 


「初めに言葉ありき。言葉は神とともにあった。言葉は神であった」―新約聖書にある有名な辞句である。宗教的意味は分からないが、言葉こそが相手に想いを伝え得る道具であり最大の武器であると、諭しているように感じられる。私たちは、言葉なしには決して考えることはできない。哲学者パスカルは、「考えが人間の偉大さを作る」「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかでも最も弱いものである。…だが、それは考える葦である」などと述べ、考えることの重要性を説いた。私たちは言葉によって考え、思索を深め論理を構築し、議論を重ねることができるのである。

 

先日、「AI(人工知能)の発達により弁護士の仕事も代替されるようになるか?」と問われたとき、私は「情報処理能力では凌駕されていくが、AIは考え“ぬく”ことはできない。その意味で弁護士の仕事をAIが完全に行うことはできない」と答えた。これはすべての職業に当てはまることであり、これからは考えぬく力を持ち、秀でた成果を出せる者しか生き残れない。樹木が栄養を得ながら成長するのと同様に、人間も考え続け、考え尽くすことで頭脳に栄養を得て、いろいろな知恵が生まれ、花が咲き、実がなるのである。

 

私がなぜ「考えぬく」というテーマに関心を持ったかといえば、マスメディアで「反知性主義」という言葉を度々目にしたことによる。おそらくこれは、知性を振りかざして行動の伴わない人々を揶揄した表現であろう。しかし考えぬいた末に得られる知性を身に付けることは、人間によって極めて重要な所為である。努力を重ね知性という実を得た者だけが、知性主義の弊害を論ずる資格がある、と思うのは私だけではないだろう。

 

知性の第1ステージは、徹底的な準備と調査に始まる。方向性を定め、物事を客観的に証明し実証するための裏付け資料を、収集する。多くの書物や資料にあたるだけでなく、各方面の賢者たちに教えを乞い、その知見を素直に学ぶことにより、多様な角度から考えをめぐらせることが可能になる。

 

第2ステージでは、自分の考えを文章化し、ひとつのテーマについて考えぬいて論考をまとめる。文章にすることで思考が固まり、次なる発想の土台となる。本質に迫る努力が肝要であり、大義名分、想定問答、さらには討論技術をも念頭に置く。反論内容をも考えぬいて、考え方・思い方・感じ方を統一し強固にする過程は、まさに知性の塊であろう。

 

第3ステージでは、身に付けた知恵・知性を常に見直し、スピード感と時代の流れを意識した自己革新を重ね続ける。

 

ただ、こうしたプロセスによって考えぬくことを旨とする知性主義には、主に2つの欠陥がある。ひとつは思考を重視するあまり、大胆さを失い慎重になりすぎることで、もうひとつは考えぬくことに没頭しすぎて脳に緊張の連続を強いて疲労させると、メンタルヘルスに不調を来すおそれがあることである。適度な休憩・休暇・休日・休養を取り、リフレッシュしなければ、健全な知性は育まれない。

 

孔子は、「中庸の徳たるや、其れ至れるかな」(どちらにも片寄らない中庸の道は徳目の最高指標である)といった。それほどに物事のバランスをとるのは難しい。人事労務の分野においても、考えぬく能力のある優秀な人材が心の健康を害さないよう、緩急のバランスを取る配慮が何より求められる。

 

 

 

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2016年6月19日(日)8:15 東京家政学院付近でネビキミヤコグサを撮影
花言葉:「きまぐれな心」

 

 

第11回「教員の淘汰こそ必要」
(2015年11月23日より転載)

 

私は、青山学院大学の非常勤講師として1972年4月より13年間ほど手形小切手および工業所有権法の講座を持ち、曲がりなりにも大学で教える立場を経験した。また、新人弁護士時代に、のちに私立大学の総長となった方が、「自分の人生において大学と銀行の設立をめざしたい」と語られる場に立ち会い、教育の強い関心を持った。2000年4月からは日本私立大学協会(加盟大学411校/2015年10月現在)の法律顧問を務め、加盟各大学の理事長・学長らに向けて度々講演をしてきた。教育の現場に接する機会に多く恵まれた結果、自分なりの教育観を持つようになったといえる。

 

教育の目的は、大学・大学院での高度に専門的な研究者養成の領域は別として、心技体を鍛え、感性・理性・知性・心性(品性)を磨き続ける術を教えるのに加え、「夢・愛・誠」「真・善・美」等々、人としての価値基準を理解させ、より良き人生を歩むための基盤となる未来志向の力を身に付けさせることにあるだろう。つまり、教育者は、自立・自律した社会人として良き社会を形成し得る基礎力を教え子に育む使命を負っているのである。

 

教育現場には、教員、児童・生徒・学生、児童らの親、そして学校の運営管理者という様ざまな立場の者がいるが、もっとも重視すべきは、教育の質を上げることである。

 

教育の議論のなかで「先生が変われば生徒も変わる」「改革にはお金がかかる」という2つの命題をよく耳にする。スポーツや合唱の分野でも同様にいわれるこれらの指摘は、教員養成システムを改善して教員の質を上げるには多くの人員と予算を要するものの、教員の質が向上すれば生徒・学生らに必ず好影響があるという経験則である。私は機会あるごとに指摘しているが、「教員に教え方を教える」システムがわが国では未だに十分に構築されず、真の意味での「教育」の専門家の養成がおろそかにされているのであろう。

 

教育者に関する名言としてよく知られる「凡庸な教師はただしゃべる。よい教師は説明する。優れた教師は自らやってみせる。偉大な教師は心に火を点ける」―の例に倣えば、日本の教員は、ただしゃべるだけのレベルにとどまっている者が多過ぎるのではないか。一般に教員は、自らは生徒・学生らを評価するにもかかわらず自らが評価されることは拒む傾向が強く、また、仄聞することによれば、一般に日本の大学では、能力不足の教員も優秀な教員も同じように評価・処遇され、特段格差は付けられていないという。

 

今後、日本の経済状況が今より上向く可能性はまったくない。特に大学は少子高齢社会の下、経営の悪化は火をみるより明らかだ。とすれば、教員にも優勝劣敗の競争原理を適用し、大学には、企業間のM&Aの如く統廃合も含む「廃校の自由」が認められるべきであろう。

 

ただ、日本の教育には長所もある。貧富の差を問わず読み・書き・算盤の最低限の教育を必ず受けられる点だ。また、「音楽」「図工」と「給食」がすばらしいと教えてくれた米国人もいる。感受性の重視と食育への取組みに対する評価であろうか。

 

教育と知性の頂点にある大学および大学院の先生方には、日本の将来を担う若者たちが良き教育を受けて能力を最大限に発揮できるよう、率先垂範して他者からの評価に耐え得る強さを持ってほしいと願っている。

 

 

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右上から時計回りに
2016年5月14日(土)10:50上信越道横川SAにてラベンダーを撮影 花言葉:「繊細」
同じく横川SAにてユリオプスデージーを撮影 花言葉:「円満な関係」
2016年5月20日(金)8:01芝公園にてヤマボウシ撮影 花言葉 :「友情」


 

第10回 美術の価値
(2015年10月26日より転載) 

 

秋といえば文化であり、とりわけ美術に親しみたくなる。

 

自らには備わっていないもの=美を求めて、人は美しいものに憧れを抱くのである。それが高じて美術収集家になる人もいる。私の場合、単に展覧会で鑑賞するだけではなく、世界各国旅した折に、その土地で気に入った絵画を100~150ドルほどの手頃な値段で購入することを楽しんでいる。

 

私が最初に絵に興味を持ったのは40年ほど前に池袋にあった古道具屋をある企業人から紹介されたことがきっかけだった。

 

その後、1989年に伊勢彦信氏らとともに日米美術協会を設立して活動したり、月刊誌『にっけいあーと』(現在は廃刊)に43回におよぶ連載「法律税金相談」を書いたりして(1990年4月~1993年10月)、自分なりのやり方で美と交わってきた。虚心坦懐に絵と向き合い、画家の世界にひたる楽しみは、何ものにも代え難い。芸術家の真骨頂は、魂を込めて何らかのメッセージを鑑賞者・大衆・社会に伝えることにこそある。風景画でも人物画でも抽象画でも変わりはない。画家の魂とメッセージが見る側にズシンと届き、受け止めた側の魂がこれに呼応したとき、両者の間で幸福なコラボレーションが成立したといえるだろう。

 

芸術家の表現活動が命がけである以上、見る側もそれを意識して鑑賞したいものだ。芸術家の命は果てても、すぐれた作品は残り続けるのである。

 

今年、没後15年を迎えた久住三郎(くずみ・さぶろう)君(1946~2000年)との思い出はたくさんある。私が孫田・高梨法律事務所のイソ弁時代に担当した顧問先企業が彼の実家で、まだ学生だった彼と面識を得た。優しく礼儀正しい青年だった。

 

彼は、慶應義塾大学法学部を中退して東京藝術大学美術部日本画家専攻に入学したという珍しい経歴を持つ。私は彼の人柄も作品も好きで、学生の頃から応援していた。彼は藝大で大学院、助手を経て、43歳でニューヨークに渡った。日本画家としてニューヨーク体験を持つ者は当時ほかにはいなかった。彼の作品は美しく静謐さをたたえるものだが、自身の内側からわき出る、やむにやまれぬ思いが形になったと感じさせる凛とした迫力を持っている。私は彼の魂とメッセージを私なりに受け止めたと思う。彼が初めての個展を開いたニューヨークの画廊「Vorpal Gallery」の主人は、彼の作品をボッティチェリの画風になぞらえたりもしていた。

 

現在私の手許にある作品「燃ゆ」(1998年)は、彼の絶筆だという。まさにこれからというときの、早すぎる別れだった。上野の森美術館・別館ギャラリーで催される「没後15年久住三郎」(11月17日~23日)で彼の作品にまた会えることは、この秋のうれしい再会である。

 

ところで、仕事で会社を訪問した折に、素敵な絵にふと気付くことがある。また逆に、私どもの事務所の絵の入替えに気付いてくださる方もいる。仕事の場であっても自然に絵画に接する機会を作るのは、メンタルヘルスのうえでも大切なことである。美とは均衡・バランスのとれたものであり、働く環境でも仕事自体でも、バランスを心がけることが総じて好結果をもたらす。緊張感とリラックス、厳しさと優しさ、競争的解決と協調的解決というように、相反する事象のバランスをとることが、私たちの日常で求められる仕事の美学なのかもしれない。

 

 

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