高井伸夫の社長フォーラム100講座記念~1講1話・語録100選~
【第2回】「気がかりなことは何か」を3回聞け(1993年6月24日)
コミュニケーションを重要視しないといけない時代になった。心の時代においては、ことに若い人の心は千差万別だ。社長自らコミュニケーションをはかる努力が必要だ。相手が何かを言ってくるのを待つのではいけない。
現場に行って、できたら夜を徹してでも話し合う。車座がいい。あるいは膝詰めで幹部と1対1で話す。そのとき、ホンネで可たることが前提になる。
どうやってホンネを語らせるか。
まず、気がかりなこと、困っていることを聞く。「加藤君、いま一番気がかりなことは何か」「佐藤さん、いま心配なことは何か」と聞いて、その上で、30分ほど基本的なことを話し合って、再び「気がかりなことは」と聞く。話を発展させながらこのような手続きを3回繰り返すと「社長、先ほどは言い忘れましたが」と、さらに話は深まり発展する。
これが、ホンネを引き出す話し方である。
2番目に「次の一手は何ですか」と聞く。その中で、優先順位を聞く。「次の一手の中で何が一番大事ですか」と。
心をひとつにするには「人の意見を聞いて、自分の意見を違うところを確認する」ことから始めなければならない。
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第4回 AIと人事労務(1)「役割」を考えたキャリア形成を
18世紀の産業革命はいわば動力革命であり、人類を肉体の限界から解放したのに対し、今世紀のAI革命は、人類を頭脳の限界から解放しつつある。10~20年後には今の人間の職種の2分の1程度をAIが代行するとの予測もある。こうなるとおそらく人間の「仕事」という概念そのものが薄れていく。
産業革命における手工業者やエネルギー革命における炭鉱労働者の例に倣えば、AIに代替される仕事に今就いている人々は、転職、配置転換、自主退職、解雇といった道を辿ることになる。しかし、AIの発明が人事労務へ及ぼす影響は、蒸気機関車の発明とは比べ物にならない。蒸気機関車が人間にとって代わったのは移動能力に限られたが、AIが人間にとって代わる分野はありとあらゆる方面に拡がるからである。
配置転換や解雇にかかる必要性や合理性に関して言えば、企業におけるAI投入の決定は、人件費削減や生産性向上といった企業経営上必要かつ合理的理由があるからこそなされるはずだ。したがって、従来の配転・解雇問題とその法的論点は大きくは変わらないだろう。
しかし、過去の産業革命に伴う解雇問題と比較すると、「職を失った人々が新たな仕事に移動できるかどうか」に大きな違いがあるように思う。1980年代の工場の自動化で製造部門が減り、90年代のIT革命で経理や人事の省略化が進んだ一方で、システム開発やネットサービスといった雇用が生まれたように、AIに仕事を代替された人々が「AI時代ゆえに生まれる新たな仕事」あるいは「重要性を増す仕事」に移動できれば何ら問題はない。ところが、これらの仕事は万人が一朝一夕でこなせるものではない。
AIに代替される仕事に就いている人は、研究者ではなく研究結果をまとめる人、専門家ではなく専門家と消費者をつなぐ人(受付窓口)、設計者ではなく設計書に基づいて製品を作る人、小説を書くのではなく本を売る人など、創られたものを決められたルールに則って動かす役割を担っていることが多い。すなわち非創造の世界である。これに対し、「AIの発達によって生まれる仕事、重要性を増す仕事」には、AIに関する専門的な知見や技能、あるいは、AIが備えていない、人間だからこその創造力・発想力・判断力が求められる。こうした能力の獲得や醸成は容易ではない。とりわけITに疎く、加齢とともに柔軟性を欠きがちな中高年層にはより厳しい情勢になる。炭鉱労働者の転職では、労働のしきたりが異なり自信が持てない・合わないといった精神的問題が大きかったが、AI革命においては技術的・能力的理由による転職問題が多くなるであろう。
また、仮に人類がAI時代の労働者として相応しい形に進化したとしても、AIやロボットが代替した仕事量に匹敵するだけの雇用が生み出せるのか、という問題もある。日本は今後一層の人口減を控えているが、AIが進化し続ければ、将来的に労働人口に対して雇用枠が不足する可能性は否めない。
仕事の移動が難しい人が多ければ、整理解雇の4要件である「労働者への説明・協議」は滞るだろうし、社内で新たな仕事を創出する努力をしていないとして、「解雇回避の努力義務」を満たさないと判断される可能性も高まるのではないだろうか。
米国では、AI技術の導入が中間所得層の労働者の消滅、特に未熟練労働者の就労率低下を招くと懸念されている。人類の多くが「貧乏暇あり」になりかねない。政府が最低限の収入を保証する「ベーシックインカム」や、機械に仕事を奪われた人の所得を補う「生計保険」創設を提唱する有識者もいる。経済的保障がなされれば変化に対応する努力を怠る人も現れよう。一方で、これを後ろ盾に起業したり、学び直したり、子どもを作ったり、自己実現の活動を始めたりと新たな人生の可能性も広がる。
AIによる仕事の代替が話題になると、よく「人に残される仕事を考えろ」と言われるが、「仕事」という概念自体が崩れる日が来る。必要なのは自らの「役割」を考え、それを意識して、「仕事」に限らず人生全体の視点でキャリア形成を考え、そのために必要な能力を育むことである。
まとめ
・AIは人類を頭脳の限界から解放する
・AI革命による転職は技術的・能力的問題が多くなる
・自らの「役割」を考え、キャリア形成を考え、能力を育てよ
(第4回ここまで/担当 高井・團迫・宇津野)
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―石はしる 垂水の上の早蕨の 萌え出づる春になりにけるかも―
一昨年、私の80歳の誕生日に開催した出版記念パーティで、来場者の皆様にお配りする記念品の作成を、書家の中村鳳仙先生にお願いした。
先生が書いてくださったのは、青葉の薫る季節にぴったりの、冒頭の志貴皇子による万葉集の歌であった。
流れるような美しい文字と緑のグラデーションが配された和紙が黄金の色紙に映え、とても爽やか。いただいた人を喜ばせる素晴らしい作品であった。
80歳の誕生日に、以前から尊敬していた鳳仙先生に、このような作品を作っていただけたことが、とても嬉しかった。
私が、中村鳳仙先生と初めてお会いしたのは、先生が20代、私が30歳の頃であったが、先生はその後、めきめきと頭角を現していった。世界で7回の個展が開催され、高い人気を誇っている。その受賞歴の華々しさは圧巻である。
鳳仙先生の作品は、大胆な構図で生き生きとした力強さがありながら、女性らしいしなやかさや繊細さも併せ持ち、観る者の心を打つ。
先生ご自身も、押しも押されもせぬ大家でありながら、いつも柔和でにこやかで、お会いすると、ほっとすることのできる素敵な方である。
私が仲立ちをして、講談社野間記念館に、山部赤人の歌「田子の浦ゆ 打ち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」を書かれた鳳仙先生の作品を寄贈いただいたことは、一美術ファンとして非常に誇りに思っている。
先生が、お体に気を付けながら今後も精力的に活躍をし、素晴らしい作品を生み出し続けていかれることを願っている。
より多くの方々に鳳仙先生の作品を見ていただくため、私も陰ながら応援し続けていくつもりである。
中村鳳仙先生のHP「鳳仙花」 http://hosen-nakamura.com/index.html
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■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答(第36回)■ ■ ■
山手通り鍼灸院 院長 川口博司先生
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[山手通り鍼灸院 院長 川口博司先生 プロフィール]
1968年7月14日生まれ。地元名古屋の私立南山中学校・高等学校を経て、1987年4月、順天堂大学体育学部へ入学。卒業後、東急リバブル株式会社に入社し、トップセールスマンとして新人賞を獲得するも、2年で原点の名古屋へ戻る。
店舗設計やデザインという営業利益率の低い業界の営業を学び働く傍ら、鍼灸の見識を深め、中和鍼灸専門学校 (愛知県稲沢市、現・中和医療専門学校)へ入学。並行して治療院でインターンを経験し、2000年5月17日、中目黒に山手通り鍼灸院を開業。トレーニング関係に携わり30年、鍼灸師として20年。2009年10月にTBS特別番組「オールスター感謝祭」の駅伝・マラソン企画にゲスト出場した、五輪女子マラソン初代金メダリストのJoan Benoit-Samuelsonの治療にもあたるなど、海外でも鍼灸治療の第一人者として知られる。
写真左が川口博司先生、右が高井伸夫 取材日撮影
(取材日 2018年12月22日(土)於:山手通り鍼灸院)
順天堂大学で体育部を選ばれたのはなぜですか。
食育、運動、ケアまで全部みられるスポーツ指導者・トレーナーになろうと思って進学しました。しかし、当時の日本ではトレーナーという職業が重視されておらず、学ぶにはアメリカに行かなくてはならなかった。かといって、アメリカに行って日本に帰ってきても仕事がない状態でした。大学3年生になる前の春休みに語学留学でアメリカへ2か月半ホームステイして、アメリカと日本との状況の乖離を知りました。
日本でトレーナーという職に就くのは時期尚早のようで、時代もバブルだったので、将来の自分の行く道はさて置き、社会勉強も含めてサラリーマンかつ営業の道を選び、東急リバブルに入社しました。自分で最初から最後まで全部一人でできる営業職というと不動産業が一番早いと思ったからです。
鍼灸へチャレンジされ始めたのはいつですか。
バブル崩壊もあり、一度リセットしようと名古屋に戻りました。店舗設計やデザインの営業として働く傍ら、開業出来るような資格を得て元来の「身体に携わる仕事」をしようと色々調べて鍼灸に辿り着きました。会社に勤めながら鍼灸の学校へ伺ったり鍼灸に携わるエピソードを読んだりして、3年が経つ頃、中和鍼灸専門学校(愛知県稲沢市。現在は改称し、中和医療専門学校)に入学し、鍼灸を学び始めたのがこの道のスタートラインですね。
恩師について教えてください。
誰かについて修行した事がないので、師匠と呼べる人はいませんが、名古屋に「将来こんな鍼灸師になりたい」と思う親子ほど歳の離れた先生がいまして、よくその先生の主催した勉強会に参加していました。
自身の怪我や鍼灸師としての経験は勿論、医療従事者に限らず人生で出会った方々から多くの事を学ばせて頂き、あらゆることを自分の中に取り組み、撹拌してオリジナルを作り出すのが、私の基本スタイルです。「鍼リテラシー」とでもいうのでしょうか。多方面から鍼を通じた知識・理論等を自分の中に解放して、技術から、ありとあらゆるその鍼に関するものを自分なりに噛み砕いて飲み込んで取り入れて、自分なりのスタイルを築いていく。日々、精進していかなければならない思いです。
ご自身の怪我というのはどのようなものですか。
学生時代ラグビーをしていたので。順天堂大学に在学中の右肩の脱臼と、社会人になってから膝の関節のクリーニング(関節に溜まった破片の除去)で手術を受けました。不注意で転んだりして骨折も何箇所かしています。
色々な情報を仕入れて治療にあたっておられますが、一番の情報源は何ですか。
その分野に特化した患者さんの話が一番リアルかもしれません。例えば衣料業界の社長から直に聞いた、デパートにおける自分たちの立場や全国の売れ行き。宗教関係の方だと、宗教に関する中々表に出てこない裏話。高井先生でしたら法曹界の話をオフレコで聞いたりします。これらはリアルタイムな情報だと思います。
受付なども設けず、お一人で治療にあたられる理由を教えてください。
患者様の電話の声、喋り方、来院された時の表情、姿勢、歩き方、癖、帰られる時も同じで、少しでも多く患者様のことを観察していた方が情報を多く集められ、治療に有効なのです。ちょっとした言動にもヒントが多い。
治療の上での特別な技術はなく、ただ「勘はよく働く」と仰います。「勘がいい」というのは具体的にはどういうことですか。
独り善がりではないひらめきです。自分で先に理論で考えて、そこに無理やり結果を結びつけるひらめきもありますが、それはなるべく避けたいので、直観で感じたものですね。
例えば治療で患者様から症状やお話を聞いて、パッと頭に浮かんだ原因の場所や病因がよく当たります。医療業界では一般的に消去法、スクリーニングテストを用います。思い浮かぶ病名を一つずつ検査し、最後に残ったものを「おそらくこれでしょう」と表現します。「これだ」とは中々決めつけられません。ところが私の場合は「これだ」と決めつけてかかるところがあります。そこが上手く当たっていることが多いので、勘がいいのだな、と。
最近大当たりした例を教えてください。
先日、ボルダリング中に足を捻って動かなくなってしまった方が、普段通っている理学療法士に診せたら「おそらく足の靭帯が切れているから、治療には鍼が良い」と言われたそうで、久しぶりに当院に来られました。でも診たところ靭帯が切れている感じがしなくて。何も根拠はないのですが、触ってみた感じと…これがまさに勘なのですが、「おそらくどこも切れていない、半月板の損傷だと思う」とお伝えしました。混雑でMRIを撮るのに3か月くらいかかるということで、やむなく勘を信じて4回ほど治療したら随分良くなりました。いざMRIを撮ったら案の定半月板損傷でした。もうほとんど回復したので、手術もしなくて済みました。
施術の際は先生が患者さんとシンクロされるということですが、どのような効果が得られるのでしょうか。
病状を踏まえた上で、患者様をあらゆる面で見て全体像を理解し、その体内に入り込む感じでシンクロさせます。私が鍼を刺すと同時に、患者様として刺されている感じを受けるようにします。体に乗り移った感じで施術すると、患者様との間に一体感が出て治療効果が上がります。
先程「勘」と申し上げましたが、シンクロすれば患者様の痛みがリアルに伝わってきますので、自分の感じたものを患者様の感じているものとして捉え、共有していきます。
このようなことを伝承するのは大変ですので、後継者育成はサボっています。
1回の施術料金はおいくらですか。通常何回くらい施術されるのでしょうか。
3千円から8千円です。症状にもよりますが、急性のものですと短ければ1回、慢性的でも3カ月ぐらい。ただ老化による変形、劣化とかの場合完全に治すのは難しいので、悪くならないように、という類のものですと回数は制限できません。
1日の予約数はどのくらいでしょうか。また、どのような方が来院されますか。外国人比率やリピート率も教えてください。
元々15人程で、前日、当日に数名入ります。政財界が2割、芸能マスコミが1割、外国人が2割、その他が近所、遠方からの一般人です。外国人はかつて多い時には3割を超えましたが、昨今の経済状況、また税法上の問題で、expat(≒駐在者)がシンガポールや香港に流れたので減りました。金融系のオフィスが移転していますよね。これも先程の「情報」として知ったことですが。
リピート率は弾き出すのが難しいです。1年後、5年後のリピートもあるし、リピートの必要性がない場合もあるので…半数くらいでしょうか。
外国人というのはどこの国の方が多いのですか。
国籍はアメリカがダントツで、フランス、イギリス、スペインなどヨーロッパの順に多かったのですが、最近はヨーロッパの方が多いです。中でも白人だけではなく、アジア系アメリカ人やアジア系ヨーロッパの方も多くいらしています。
当院に来られる外国人は、まず東京アメリカンクラブのメンバー、東京ローンテニスクラスのメンバー、調布にあるASIJアメリカンスクール、それからブリティッシュスクールの生徒・親御さん・先生で、基本的に高額所得者、富裕層の外国人です。必然的に優良企業に勤めている方、もしくは外交官が多くなるので、それで欧米の方が多いのかもしれません。いつかフランスかドイツの城の主が来て、「この城をどうぞ」って言ってくれないかなと期待しているのですが、まだいらっしゃらないです(笑)
外国人患者の増加には何かきっかけがあったのでしょうか。
東京勤務から独立したわけでもないので、2000年5月の開院当初、3カ月程は1日の患者数が1~3人、時々0人という寂しい状態でした。診療時間後に夜間営業をしている他のマッサージ店でアルバイトをして食いつないでいたところへ、当院の裏にたまたま住んでいらした、スカッシュの日本でトップクラスの女性コーチが飛び込みで来院されました。丁寧に施術しましたら長年患っていた腰の痛みが初めてきれいに治ったと大層感動されたんです。
当時、千代田生命が経営し、中曽根元総理等の著名人が多くメンバーだった高級スポーツクラブがあったのですが、ここにスカッシュをされている方が何人かおられまして、「あのコーチが良いというのならば」と当院に来られるようになったのです。
その中に東京アメリカンクラブのメンバーが何人かいらしたので、そこのスタッフが来院されるようになり、同クラブのメンバーが東京ローンクラブのメンバーだったり、アメリカンスクールのPTAだったりして情報が広まり、今に至っています。正確な数字ではありませんが、この女性コーチを発端に500人以上の患者様が来院されています。もしもこの女性コーチに好印象を持たれていなかったら、とっくに閉院していたかも知れません。
私は、この時の教訓「いつでも誰にでも全力で施術にあたる。」を肝に銘じています。そして、私はこういう方を「ビジネスキーパーソン」と呼んでいます。ビジネスに限らず人生において、多大な影響を与える「キーパーソン」は少なくとも3人には出くわすと考えています。それは身近な人かも、ずっと年下の人かも、また通りすがりの人かも知れません。キーパーソンかどうかは後で判明するので、先入観は捨て、いつも真剣に人と向き合わなくてはなりません。
鍼灸院の営業活動はどのようなものがありますか。実際にされている営業活動を教えてください。
インターネットの口コミサイトに掲載して、キャンペーンクーポンや、初回格安といった広告。あとはポスティング、駅前でのビラ配りでしょうか。
私の営業活動は開業日に新聞広告を1回入れたきりです。大手3紙の朝刊に3万部くらい。これを見て3人来院されました。ビラ配りなどは、私はかえって「苦労している」と見られて逆効果だと思っているのでやりませんでした。最初からは難しいですが、「広告しなくても十分混んでいる」というイメージに持っていくのが一番の営業方法です。営業活動をせずに営業できていること見せる。
実際は地道に実績を上げ続けるだけです。実績とは、患者満足度の向上です。患者様が期待していた以上の結果でなければ感動は生まれません。感動して頂けたら、その感動を誰かに伝えたくなるものです。良さを伝えるのは言葉ではなく感情なので、いかにその喜びと感動を多くの方に伝えて頂けるかが鍵です。期待していた以上の結果とは『こんなに早く良くなるとは思わなかった!』『こんなに楽になるとは思わなかった!』の2つです。それが達成出来たら、宣伝活動しないのが宣伝という風になるかなと思います。
目立った営業活動をせずに経営する秘訣は、誠心誠意患者様と向き合い、治癒という目的に真剣に立ち向かう事です。一般にはサービス業ですから顧客の満足を第一に考える事です。
2番目には、経営していかなくてはならないので、国内外の経済、政治、自然、科学、そしてエンターテインメント、スポーツまで多岐に渡って情報を仕入れ、トレンドから未来まで予想しながら、早め早めに心構えと対応を取っていくのが大切だと考えています。
最後に、人生の目標は何ですか。
治療において、勘と結果の整合性をもっと高めたいですね。イメージと結果を合致させたい。それが治療の正確性を高めますし、治療時間の短縮にもつながりますので。
ありがとうございました。
以上
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今年、高井伸夫先生のブログ「無用の用」に寄稿する機会をいただくことになりました。
「あすか人事コンサルティング」代表の太田正孝と申します。どうぞよろしくお願い致します。
第1回 ご縁
高井先生とは15年ほど前に、とある係争問題で出会いご縁を得ました。ご高名はかねてより伺っていましたので躊躇なく事務所にお願いに行きましたが、第一印象は結構せっかちな先生、というのを覚えています。書類の書き方など、場面状況が目に浮かぶように書くとか、裁判は書類の整え方で決まるとかキーワード重視の指摘があり、当時私は民事法廷では弁護人同士が口頭で戦うと思っていたので「書類司法」に目からウロコでした。あのときの出会い以来何回もお会いするうちに「波長がとても合う大先生」で、事ある毎にご厚誼とご指導を得てきました。
先生にご縁のある方達に向けて拙いものを披露するのはすごく気がひけますが、これもご縁の一端として許容いただければ幸いです。この「無用の用」では月に一回の寄稿で12回、今は何を書くべきかわかりません。時に応じてテーマを決めて自分なりの知的冒険をさせてもらえれば有難いと思っております。
「無計画」には厳しい高井先生ですので今のはやり言葉でいえば「ボーっと生きてんじゃねーよ」と叱られそうですが、臨機応変ということでいきたいと思います。
平成も今年4月で終わり5月から新元号になります。歴史の一つの節目なのでいい時代の到来を願うのは当然ですが、地球上では自然災害や人的災害など多くの懸念材料があふれています。人類が爆発的に増えて人智では解決できない位に問題が深刻で複雑になりすぎたのかもしれません。IOTやAIも進むでしょうがこれが問題をより複雑にしたり制御不能になったりしてより深刻な社会問題を引き起こす可能性もあります。
そんな時流と将来予想のなかで、高井先生には「時代の処方箋」を書いてもらいたいという思いです。その参考材料のきっかけになればいいな、と考えています。
さて、初回ですので自己紹介をしながら「ご縁」ということから書きはじめます。
私は宇宙からきたのではないかと時に空想していますが、どうやら日本列島にある大阪市で生まれたようです。全く記憶がないので本当のことはわかりません。大阪大空襲の直前に家の地下に掘った防空壕で生まれたと聞かされて育ちました。その後、父の影響もあり、好きな山登りや、当時は夢だった海外渡航の可能性が大きい人文地理学を専攻しました。とりわけ歴史地理学に興味がありました。学者になって世界を股にかけるような研究活動を夢見ていました。
高井先生の専門である法学分野は食わず嫌い状態でした。法学部の空気や条文など難解な文章を学ぶのは大変だし六法全書の分厚さにも圧倒されたのでしょう、サラリーマンになるつもりがなかったので強い動機につながらなかったわけです。ただ、歴史地理学では律令制を支える「延喜式」(900年頃)は大事な歴史資料としてみていましたので、法との接点といえばそれくらいでした。高井先生と知己を得た今では法は学んでおくべきだったという悔いが残りますが。
ところが、あるきっかけで学者への道から会社勤めへとキャリアの方向転換をすることになりました。
当時、家庭教師先の父兄から飛行機が好きで海外に行くなら今後大きな飛躍が期待される航空会社はどう、と強く薦められ、結果として日本航空(JAL)に就職しました。
教え子の高校生にたびたび地球儀を見せて大きな視野から物をみるように話したり、模型飛行機を一緒に作って飛ばしていたのが親の耳に入っていたようです。修士課程へ進むのもほぼ決まっていたので大学の恩師から「お前はアホか」と厳しく怒られたのも当然です。
JAL入社後は現場の接客から始まりましたが、20才代後半から7年間社長秘書を勤めました。役目柄、様々なことが起こり心身ともしんどい仕事でした。日々多くの人達との出会いがありましたが、良いご縁を得たと思う方達のことは強く思い出に残っています。この時期の得がたい経験や人脈がその後の人生のベースになって多方面で活躍されている人達と更なるご縁を得ることが出来たと深く思います。
31年間お世話になったJALでは10回異動し転居は7回、海外は3カ所延べ8年でした。平均して3年に1回です。最後の方のキャリアでは、人事部次長、羽田の空港支店総務部長、情報システム開発部長、シカゴ支店長でした。人事部時代には採用と人事制度企画担当として成果主義人事制度導入を、羽田空港では昭和天皇の大喪の礼の際の海外からの超VIP機の受け入れをやりました。官民上げて一つのチームを作り万全の策を講じて無事完了したときは感無量でした。情報システム部では技術者とともに大規模システムの更新やお守りなどで実に多くを学び、今の情報時代に取り残されずにすんでいる?のかもしれません。
シカゴを最後に53才の時にJALを早期退職しました。きっかけは人事部時代に成果主義型人事制度導入にお願いしたヘイグループジャパンの社長から誘いを受けたからですが、これも良いご縁を得ていたからでしょう。ヘイグループでほぼ9年、最後は副社長の役員定年で退職、今は個人で人事コンサルティング業をしています。以来11年になりますが、独立時からずっと心配してくださり、顧客紹介など何かと支援をいただいている高井先生には感謝の念で一杯です。
高井先生によると縁を大事にする根底には、好奇心が前提にあると言われています。私も全く同感です。霊長類はおおむね好奇心を持っていて、とりわけ人類はこれで文明を築いてきたといっていいのでしょう。
「袖ふれあうも多生の縁」という言葉がありますが、輪廻転生の仏教の教えからすると人は何回も人生を繰り返すので、今のご縁は前の人生の縁が元になっているのだ、ということでしょうか。ということを敷衍するとこの宇宙はユニバースではなくマルチバースではないか、などと思考は膨らんでいきます。学問分野で言えば天文学、物理学、量子力学、生物学、哲学、心理学、社会学、法学、経済学などすべてに関係性がでてきます。理系文系などと簡単に分けることは思考を狭めるものかもしれません。
今の私は宇宙とUFOの勉強が趣味の一つですが、世の中多彩な情報が満ちあふれて好奇心をもって調べるには好都合な環境にあるのを実感しています。
好奇心を持っていることが人生を豊かにし、道を開く原動力であるとして、次回からこれらを元に「無用の用」らしく掘り下げて書いてみたいと思っています。
終わり
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「仕事人のための接待学」第8回 高井伸夫
ゲストの居心地配慮
日本経済新聞(夕刊)連載 1998年6月1日掲載
女性を接待するくらい難しいものはない。なんといっても、ゲストである女性に居心地の悪い思いをさせないことが必要である。
女性の接待は、相手を褒(ほ)めて相手の気分を良くさせるような雰囲気があったほうがいいだろう。相手に苦言を呈したり、何らかの関係がある事項について批評するような言葉は禁句だ。繁盛している店の大将や女将(おかみ)に聞けば、その営業の秘けつは女性に好かれることだと必ず答える。
実際の接待では、まず、メンバーの組み合わせが重要である。一対一での夜の席は気まずい。三、四人となれば、お互いに気楽である。時間帯も、夕食時より昼食時の方がよいだろう。昼食時の方が仕事の一部というイメージがあり、女性に好ましい印象を与えるからである。
やむを得ず夜の会食となった場合も、会社の終わる時間、会社からの距離、自宅への道程といったことを念頭に置く必要がある。
また、お酒が入ると仕事の話をしにくい雰囲気になりがちである。仕事の話がある場合は、食事前の三十分くらいをそれにあてることが望ましい。店の選び方も、靴を脱ぐ場所を避けるなど、配慮が必要だ。
女性だけ、または男性だけに通じるような話題は避けた方がよい。また、女性の身上について質問するのは、セクハラとして嫌われる可能性さえある。
例えば、男性がよく用いる「お若いですね」という言葉があるが、それは決して褒め言葉ではない。「お若いですね」と言われると「いいえ、若作りなんですよ」と答える女性が多い。本当に若い人には言わない言葉なのだということを分かっていない男性が実は多いのである。
砕けた話になる場だからこそ、話題の選択には心しなければならない。こうした場面ではやはり、企業の問題、公の問題が無難だ。
女性の接待にあたって用意する効果的なプレゼントとしては、花、ワイン、ケーキなどがある。例えば花を贈る時にメッセージを添えるなど、いずれもセンスがあってお洒落(しゃれ)なものである。
しかし、女性への接待は男性以上に効果があるものではない。女性は正直なのである。このスピードの時代に接待してもらって、単におだてられてよい気持ちになるだけに時間を費やす女性は少なくなった。
女性にとって意味ある接待は用件があってのものだという。単に「飲んで・食べて・騒いで」という接待は好まれず、違和感を抱かれるケースすら多い。
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※発行当時のまま掲載しておりますので、現状と異なる場合がございますがご了承ください。
明治初期までの農業社会(第1次産業)では、土地という生産財のうえで足腰を武器にした産業が主流であった。だから、変化は非常に遅かった。そして、その時代は人間の足腰の能力格差があまりなかったのである。
男子陸上100m競争の世界記録は9.8秒台。ここ10年変わっていない。私は56歳の今でも30秒で走れるだろう。世界のトップと3倍しか能力格差はない。だから農業の時代は優劣・格差があまり激しくなく、仲良く夕涼みで将棋をさしていたのだ。
明治初期に軽工業社会(第2次産業)になったが、「手工業」という言葉があるとおり、それは手先の時代ということだ。その次の第3次産業、商業・サービス産業の時代は口先の時代となる。意思疎通、契約、取引きという世界。
これは偶然ではなく人間の発達史と同じである。考古学によれば人間の先祖は440万年前には4本足で歩いていた。それが太陽の光が眼を射て人は立ち上がり前足が手になり始めた。そしてだんだん対面するようになって言語が発達し、遂には第3次産業、口先産業・契約社会に至るわけだ。
そして人間に直立するにつれて脳が発達した。それが第4次産業・ソフト化時代に至る。今これが花咲こうとしているわけだ。第4次産業は、頭脳労働の時代、ソフト産業の時代になった。考える、思う、感じるという知的社会になった。
この能力格差は3倍でもなければ3,000倍でもない。「できる、できない」という格差、質の格差、絶対的格差の世界になったわけだ。
そしてこれからは「心の時代」である。第5次産業は、心を武器にした経営でなければならない。心の経営のポイントは、良心を中心に据えて、自律心、連帯心、向上心を刺激する必要がある。良心、自律心、連帯心、向上心は、企業にも社員にも、また商品にも要求されてくる。
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第3回 AI人材不足と育成の課題
経済産業省が2016年6月に発表した「IT人材の最新動向と将来推計に関する調査結果」によると、IT人材の中でもAIなどの開発を担う「先端IT人材」は2015年時点で1万5千人が不足。2020年には4.8万人にまで拡大する。少子高齢化による労働人口減少により、IT人材の供給力が低下する一方でそのニーズは拡大するだろうから、人材不足は今後ますます深刻化するとみられる。
人材不足の原因はいくつかある。まず、前回述べたように国内報酬の低さ、その背景にある経営層の理解・認識不足である。AIやビッグデータ、それらを扱う人材の価値が分からないから、なすべき投資がなされない。また、AIやIT、ICT等、新技術の用語はバズワード(一見説得力があるように見えるが、具体性がなく明確な合意や定義のないキーワード)化し、必要な人材の定義が明確化されにくくなっている。政府文書などでも何かと「IT専門家」を目にするが、具体的にどのような技術を持っていて何をする人材を指すのかよく分からない。その結果、雇用者側にとって被雇用者が期待する人材であるか不明瞭になり、スキルセットの不一致を招いたり、スキルに見合う待遇を検討しづらくなったりするのである。さらに、年功序列制度が未だに色濃く残る日本企業では人事制度や給与体系が硬直的で例外が認められないことも一因であろう。シリコンバレー近郊でのAI人材の給与は全米平均より4割以上高いという。これでは海外への人材流出は避けられまい。
急務かつ不足が著しいAI人材の育成には、即戦力となる社会人教育と、長期的な視点での学生教育の両輪が必要である。
国内IT企業や研究機関は社内配置転換や研修制度を設けるなど内部育成に努めているが、これまでITと縁遠かった企業で突然そうした施策を講ずることは難しい。しかし、そうした企業に勤めながら「AIを学びたい」と思っている潜在的人材は少なからず存在する。日本ディープラーニング協会がエンジニアの資格試験を実施するほか、東大や大阪大学などでは社会人向けのAI講座を開いている。企業はこうした場に積極的に社員を投入し、他を投げ打ってでもAI人材の育成に投資すべきである。AI時代において、AIを使いこなせない人間はAIに使われることになる。
滋賀大学や東京工科大学など、AI関連学部の開設は進みつつあるが、「AIブームがいつまで続くか分からず、AIの学部や学科は新設しにくい」との声もある。これが大きな読み違えである。今の「AIブーム」は既に日常になりつつある。英語を学ばずにはいられなくなったように、AIを学ばずにはいられなくなる。学部や学科新設への躊躇いは、AI人材の報酬が高まらないことと同じ問題を孕んでいる。すなわち、我が国のトップや経営層には、これだけAIが身の回りに溢れかえるようになってなお、「AIとの共存」という未来が見えていないのである。
AIの学部や専攻を開設し、学生の卒業までに4年以上。その間に世界との差はますます開く。そうして、今打開策を講じなかった大人が表舞台から去った後、世界で戦う武器を持つ機会を奪われた次世代は、AIに使われる人間として生きていくほかなくなるのだ。
経済制裁の影響で国外の人材は集めにくいイランでは、AI産業において女性が活躍している。極論ではあるが、AI人材の育成には専門プログラムさえあれば足りるため、参入障壁が低く、誰もが「教育者」になりうるのだという。近年、国内では、人口減少に伴う労働力不足に対し女性の活用が期待されているが、日本国内における女性のAI人材というのは圧倒的に少ない印象である。小学生からパソコンに親しむ現代、AIについての授業が必修化され、大卒者は全員AIの基礎知識を備えているくらいにできないものだろうか。ただでさえ生産人口が減り続ける中、国を挙げて取り組まなければ、AI人材不足は到底解消しない。
まとめ
・少子高齢化による人口減で需要が増し、AI人材はより不足
・AI人材の育成には社会人教育と学生教育の二輪が必要
・国を挙げて次世代を「AIを使う」人間に育てよ
(第3回ここまで/担当 高井・團迫・宇津野)
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第12回 感謝
こんにちは!
株式会社新規開拓 朝倉千恵子です。
今年は高井先生のこのブログで月に一度、連載で書かせていただき、
大変お世話になりました。
早いものでこれが最後の投稿となります。
連載を書かせていただきありがとうございました。
12月といえば、「師走」。
師走の由来には様々な説がありますが、
その中にも、「師が走り回るほど忙しいから」というものがあります。
忙しく走り回る師、というと
私はやはり真っ先に高井先生のお顔が浮かびます。
高井先生とご縁を頂いて、14年。
先生は実際に走っているわけではありませんが、
常に頭を高速回転させていらっしゃり、パワフルに働いています。
とにかく1分1秒を無駄にしません。
この高井先生のブログでも書かせていただきましたが
砂漠のラクダの上では、
二台の携帯電話を使って日本にいるスタッフの方々に指示を出し、
面談の途中でも、思いついたことやひらめきがあると
すぐにテープレコーダに録音します。
先生の仕事の速さを語るエピソードは尽きません。
また、ずっと以前に話したことを覚えていてくださり、
「○○の件について」
と、突然秘書の方からメールが代理で届いたりすることもあります。
我が社の営業について率直に物申すだけでなく、
どうすれば結果成果につながるか、顧客満足につながるか、
ということへの具体的なアドバイスや意見を下さるのです。
顔を合わせていないときでも、
私たちのことを真摯に考えてくださっているのだと実感し
とてもありがたく感じています。
高井先生からのアドバイスは、
私たちのことを考えてくださっているからこそ、
耳が痛いものもあります。
でしゃばるな、聞きなさい!!
自分が自分がではなく、
お陰様での謙虚さを持ちなさい!!
無用の用を勉強しなさい!
経営者は年に数回は海外に行き、
見聞を広げ刺激をもらいなさい!
などなど・・・
時にはお叱り覚悟で、
高井先生に失礼なことを言ったこともあります。
父と同じ年の先生に物申すことは
とっても非礼なことかもしれませんが、
どうしても「ここは違う!」と譲れない部分に関しては、
高井先生にも生意気ながらご意見させていただいたこともございます。
高井先生はそれでも私の手を離さず、
それまでと変わらぬ温かい目で
14年間見守り続けてくださっています。
厳しさと同じくらい、いやそれ以上に
いつも気にかけてくださる高井先生の優しさに、
今だからこそ気づけることもたくさんあります。
「オタクの社員は無能」
と言われた初年度。
それから、
先生の書籍の原稿に対して意見を求めてくださったり、
定期発行されている通信で私のことを紹介してくださったり、
記念イベントでの司会を任せていただいたり、
と数々のチャンスを頂き、
少しずつ高井先生が認めてくださっていることが実感でき
何よりも嬉しかったです。
実は私の両親が初めて東京に来た時には、
両親と共に高井先生にご挨拶をさせていただきました。
当時、高井先生は体調を崩されており、
私の両親も高井先生の健康状態をとても心配していました。
その時、「なにがなんでも高井先生の病気を治す!」と心に誓い、
私は素人ながら気功を勉強しました。
初めての気功治療をさせていただいたとき、
高井先生がぽつりと、
「気のせいか、効いている気がする・・・」
と仰いました。
その後、本当に有難いことに
高井先生の状況はどんどん良くなりました。
以前と同じように携帯電話を使えるようになった時には
心の底から泣けてきました。
もちろん私は専門家ではない為、
臨床データがあるわけでもありません。
もしかすると私の気功治療以外の治療が
効果を発揮したのかもしれません。
しかしながら、私は「気の成果」だと確信しております。
思いの強さなら誰にも負けないと自負しております。
高井先生のご回復された姿を見て、
私の強い思いが通じたような、叶ったような気がして
とても嬉しくなりました。
様々なお話や経験、また普段の姿勢などから
高井先生にはいつもたくさんのことを教えていただいています。
その学びをいかに生かすか、
これからが本当の意味での勝負であると思っています。
年の瀬を迎え1年を振り返ってみますと、
今年は、私自身にも大きな変化があった1年でした。
起業してから今まで、
前だけを向いて、ただひたすらに走ってきました。
決めたことは絶対にやる!
誰がなんと言おうと前に進める!
その思いで、全ての決断を押し進めてきました。
「あぁ、また社長走っているな」
「言ったら絶対に社長はやるからな・・・」
と、社員も半ば呆れていたかもしれません。
やらない後悔よりやった経験。
迷ったら困難な道を選べ。
向き不向きより前向き。
その信条の元、常に挑戦をし続け、
アクセル全開で走ってきたものです。
そんな私が、初めてブレーキを踏む勇気と、
その大切さを学ばせていただいた年でした。
詳しいことはまだ書けませんが、
未来の大きな一歩のために、ときには一度止まることも必要だと
学ぶことができました。
まだまだ学ぶことがたくさんあると気づいたと同時に、
自分自身の未知なる可能性を再発見できた一年になりました。
この度は高井先生のブログに1年間も
連載ブログを書かせていただくという栄誉を頂き
本当に心から感謝申し上げます。
どうか、これからもお元気で、
パワフルにご活躍してくださることを切に願います。
そしてこれからも厳しくも愛のあるお言葉で、
ご指導いただきければ幸いです。
ご縁に感謝です。
2018年12月吉日
株式会社新規開拓
代表取締役社長 朝倉千恵子
]]>「仕事人のための接待学」第7回 高井伸夫
ホームパーティー一番
日本経済新聞(夕刊)連載 1998年5月25日掲載
外国人の接待について、特に気をつけなければならないのは、好みがはっきりしていることだ。
かつて日本が輝いていた時代、銀座松坂屋の近くに超高級クラブ「アポロン」があった。ジョージ川口氏が毎日のように出演し、バンド演奏の幕あいにバイオリン弾きが登場するなど、しゃれた趣向が凝らされていた。
そのクラブでは、ロンドン、ニューヨークから欧米人が数多く楽しんでいた。彼らは日本に出張するに際し、「アポロン」を指定し、そこで接待を受けることを半ば目的にしていた。「アポロン」社長の清水昭氏から「外国人は極めてはっきりしている」というお話をうかがったことがある。
また、新橋「京味」の大将、西健一郎氏からも同じようなことを聞いた。花柄プリントで著名なブランド「レオナール」社長のダニエル・トリニアール氏は日本へ出発するに先立って、わざわざ「京味で食事を」と指定してくるという。
いずれにしろ、外国人はそれぞれ固有の価値観を持ち、価値判断が明確なのである。日本の社会では、接待先に「どこで接待申し上げましょうか」とお伺いをたてると、大抵「おたくに任せた」とか「どこでもいいよ」といったあいまいな答えが返ってくる。これもまさに国民性を物語っている。外国人の接待の前には必ず相手側の意向を確認して臨まなければ、満足してもらえず、百の準備も無意味になってしまう。
さて、例えば私が外国人を接待するときは、日本精神の神髄に触れることのできる神社仏閣に案内する。歌舞伎、相撲にはもう慣れている外国人が多いから、西芳寺(苔寺=こけでら)に案内して写経してもらうのが一番。
それが時間的に無理なら明治神宮に案内し、さらには浅草寺にお連れして、その隣で蕎麦(そば)屋十和田のママであり、かつ「浅草かみさん会」理事長の富永照子さんにお願いして「振りそでさん」を配置してもらう。これがことのほか評判がよい。
外国人の接待で最も有効なのはホームパーティーである。私は、八年前、モスクワ大学で講演したことがあるが、そのお礼にログノフ総長を自宅に招待した。ログノフ総長持参のウオッカと我が家で用意した日本酒を酌み交わしながら談笑したが、それ以来極めて親しくさせていただいた。
要するに、自宅に招いてアルコールをいただきながら談笑することは、言語の障壁を超え、民族を超えて親近感を抱く最たる術と言ってよい。
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事務所の近く、靖国神社南側の路地にある蕎麦の名店「大川や」でこの酒に出会った。
もちろん、蕎麦を楽しみに行ったのである。とはいえ差向き蕎麦前で何気なく一口、
しかし、その一口に驚いた。
洗練された含み香と、広がるやさしい甘み。しかしさらりと後味が切れ、食事の味を全く邪魔しない。なんと上品な余韻だろう。スパッとした辛口だが、風味も香りも豊かな酒はそうそうないと感じ入る。
聞けば、江戸安永年間の創業より約250年、辛口一筋、甘口全盛の時代にも方針を曲げず、かたくなに「理想の辛口- 旨味と切れ味の両立した酒」を求める姿勢を守り抜いてきた蔵元なのだという。
雑味なく水のように喉元を通り抜けて酔い覚めのよい、しかし酒独特の旨味が溶け込んでいるその味は、作家の永井龍男氏をも魅了したそうだ。
「岐阜に旨い酒あり、先祖伝来の辛口を守って、まやかしのない、正直一途の商売を通してきた酒造りである。この頃、いろいろな品に『手づくりのよさ』というが、この酒こそ手づくりの味だよ。」とは、氏の残した談話である。
辛口党のファンを魅了し続け、「辛口といえば三千盛」と知られるようになったその酒は、そうした一途な情熱こそが作り上げてきたものなのだろう。
感動した酒の話をしたところ、実は、小生の知人にも「三千盛」の愛飲家がいた。JPアセット証券株式会社 代表取締役社長の志村仁氏、元東京12チャンネル人事部長の武井良夫氏である。
お二人は大の愛好家らしく、「吟醸酒はもちろんだが普通酒もなかなか。燗でもきれいな味わいそのままに、甘みが膨らむ。」と口を揃え、「三千盛」愛を語ってくれた。特に御年83歳になられる武井氏は、40年ほど前、この普通酒に巡り合ったとき、「やっと恋人を探し出した」ような気持ちになったそうだ。今も365日、燗で愛飲されており、氏の長寿の源、百薬の長、だそうである。
お二人のような通をもうならせる、伝統の技でつくられたイッピンの日本酒。
「毎年、同じことを繰り返す。緻密に厳格に、同じことを繰り返す行為のすごさ・むつかしさ」とは、杜氏の方の言だが、その中で技術が磨かれ、また新たな「三千盛」が育まれていくのだろう。
岐阜多治見、山々に囲まれた水清らかな盆地で生まれた酒は、今や、イギリスをはじめとしたヨーロッパやアジアへも羽ばたいているそうだ。
「イッピン」に出会うたび、その伝統を守り続け、また、そこから新たな創造を生む努力をされていることに尊敬の念を抱く。「三千盛」も、まさにそうした「イッピン」であった。皆様も、迎える新春に一献、いかがでしょうか。
「三千盛HP」http://www.michisakari.com/
※なお、お写真の掲載、上記HPアドレスの掲載に際しましては、株式会社三千盛様よりご許可をいただきました。ありがとうございました。
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第2回 AIの飛躍と日本の遅れ―研究・投資・認識―
1980年代のコンピューターは、医療診断や定理の証明などを実現する一方で、画像に写るものが猫か犬かを判定したり、積み木を上手に積んだりといった、子供でもできることが何十年もできなかった。
それが2000年代に入り、AI自身が人間のように、与えられたデータから学習する技術「機械学習」が登場。さらに発展した「ディープラーニング(深層学習)」技術は、コンピューター上に人間の脳の構造・働きを再現し、特に言語処理を革新させた。AIの歴史を決定的に変えたディープラーニングは、登場から10年を超えて今なお最も熱い技術である。
ディープラーニングと「画像センサー」が組み合わさることで、AIによる画像認識の精度は急激に向上した。すなわちAIの眼の獲得である。人間の脳を再現する上で、五感の一つである視覚は非常に重要であることは言うまでもない。今そこにある映像や画像を見てデータとして取り込めるようになったことで、カンブリア紀の生物に眼が生まれ爆発的な進化を遂げたように、AIも進化・多様化し、活躍の場を飛躍的に拡げている。
また、近年のAI躍進の一助を担っているのがIoT(Internet of Things)の発達である。家電、自動車、電気メーターまで、ありとあらゆる機器がインターネットと接続できるようになり、様々かつ膨大なデータが得られるようになった。例えば、外出先からスマートフォンで自宅のテレビの録画予約をしたり、自宅で測った血圧などの健康状態を自動的にかつ瞬時に医師に送信したりすることが可能になっている。機器を使用することで得られたビッグデータは瞬時に企業へ送られ、AIで分析される。産業機器やインフラ設備など、取得できるデータ種類が多様化したことで、作業効率や生産性の向上、売上の拡大、人件費削減など、様々な業界でAIの活用が有効となった。
さらに、ここ数年でデータ収集や情報通信技術のコストは格段に下がっているから、資金力の乏しい中小企業や零細企業でもAIを導入できる可能性が広がっている。
AIやビッグデータ、IoTの利用は世界的に急拡大しており、「第4次産業革命」とも呼ばれている。18世紀の産業革命を経て人類の技術は手工業から機械工業へと転換した。技術革新のたびに人類は生産性を高めてきたが、ITによる変革はこれにとどまらず、企業や業界の垣根、国境を消し去り、世界中の人材が入り乱れる大競争を生んでいる。それがさらなる技術革新を促し、IT産業が異業種を飲み込み、産業構造をも大きく変えているのである。
世界におけるAIの研究と活用は米IT大手が主導してきた。近年は世界一の人口を誇り、国主導でそのデータを吸い上げる中国の台頭が目覚ましい。
他方、我が国のAI研究は世界に遅れをとっていると言わざるを得ない。関連する特許件数や論文投稿数、投資額のいずれをとっても大きく水をあけられており、年々その差は開いてすらいる。
さらには人材不足も深刻である。これは国人口や近年の人口減だけでなく、海外に比べ報酬面で魅力を欠くことも一因とされている。企業経営層のAIへの理解度が投資を含め研究環境に大きく影響するところ、日本の企業経営層がAIを熟知している割合は米国5割、ドイツ3割に対し、日本は7%台に止まっている(MM総研17年調査)。AIやITを他人事と思ってやまない人間がいかに多いかが見て取れる。実際、我が国のサイバーセキュリティー戦略を担当する大臣が「PCを使ったことがない」と答弁したばかりである。
AIやビッグデータ、IoTといった関連市場は専門家の予測をはるかに上回る超驚異的な速度で拡大している。AIと無縁でいられる人などもはや存在しない。早急に認識を改めなければ土俵にすら上がれず、ただ苦杯を嘗めることになろう。AI時代はデータ化によってあらゆる仕事がスピード化されている。生き残るためにはより一層、早期の判断と実行が必要不可欠である。
まとめ
・ディープラーニングと眼を得てAIは発展、多様化
・第4次産業革命は産業の垣根を撤廃
・経営層はAI時代を早急かつ主体的に認識せよ
(第2回ここまで/担当 高井・團迫・宇津野)
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第11回 初めての上海講演会
こんにちは。
株式会社新規開拓 朝倉千恵子です。
今年も残すところあと1か月ですね。
毎年この時期になると、月日が流れる速さにびっくりします。
流れる川のごとく、歳月は私達を待ってはくれませんね。
悔いの無い時間を過ごしましょう。
オフィスのある丸の内界隈は、クリスマスイルミネーションで、
毎日キラキラロマンティックな夜を演出してくれます。
ときにはゆっくり夜空を見上げ、綺麗なお月様・お星様・素敵なツリーを
鑑賞したいものですね。
2011年11月3日、
初めて上海で講演会をさせていただくことができました。
発起人は「トップセールスレディ育成塾」の卒業生であり、
上海を拠点にマナー講師として活躍している岩野晶子さんでした。
※「トップセールスレディ育成塾」とは
私が主宰をしている女性のための仕事塾です。
今年で開講から15年を迎え、約2500人の卒業生がいます。
https://www.asakurachieko.com/
岩野さんが日本に帰国した際に、
「朝倉先生の講演会をぜひ上海でやりたい!」と言ってくださり、
この企画が立ち上がったのです。
「さて、どこからどうやって進めていこうか?」
と考えたとき、まず一番に高井先生のお顔が頭に浮かびました。
髙井先生はいち早く中国進出を果たされ、
北京や上海に事務所を構えており、
当時から中国事情に精通してらっしゃったからです。
まずは高井先生にご相談してみよう!
とさっそく先生の元に伺いました。
上海講演の話をするやいなや、
「どんな講演会なの?」
「誰を対象にするの?」
「どこでやるの?」
「誰が企画するの?」
「何人集客するつもりなの?」
「何を話すの?」
と矢継ぎ早に色々と質問を受けました。
会場は、上海オークラ「花園飯店」で
集客目標200名です!
と私は胸を張って答えたのですが…
「花園飯店で200名?ムリムリムリ!!!!!」
髙井先生にはハッキリと即答で
「無理!」と言われてしまいました。
「どうやって集めるの?200名?
前の席だけ座って後ろ入ってなくて、みたいになるんじゃないの?」
と、私の目標がいかに無謀で、
無理なものなのかという根拠を色々と並べて仰いました。
髙井先生からの貴重なアドバイスを頂いている身でありながら、
私の心の中では髙井先生の言葉に対する
内なる闘志がメラメラと燃え始めました。
「そんなやる前から無理、無理言うな!!!
絶対200名集めるから!みてろよぉ~~」
と…。
もちろん声をかけてくれた岩野さんも
「絶対、何がなんでも200名集める!」と、
上海で現地スタッフの皆さんと一緒に、PR、集客活動を行ってくださいました。
また、この上海講演会には力強い応援団が付いてきてくれました。
その名も「上海シスターズ!」
この企画は「トップセールスレディ育成塾」(以下、TSL)の卒業生の企画。
そのことを知らせるとTSLの仲間が頑張っているならば、と
8名のTSL卒業生が、当日の講演会のお手伝いをしてくれました。
集合場所は上海。
それぞれ仕事や予定のある中、
前日から参加、公演当日合流、1日だけ参加しすぐ日本へ帰国したり…
皆忙しい中、上海へ駆けつけてくれました。
さて、「ムリムリムリ!」と仰っていた髙井先生も、
実は初めての上海講演をとても応援してくださいました。
集客に繋がればとたくさんの方をご紹介くださっただけでなく、
この塾生が企画した上海講演会の前日に、
別の講演会まで企画してくださいました。
「上海高井・岡芹倶楽部特別講演会」
~勝ち残る企業・人材の条件~
@上海国際機場賓館
当日は高井先生のお声がけでたくさんの方々にお越しいただきました。
通訳の方もいらっしゃり、日本語と中国語での講演会だったのですが、
途中から翻訳の間がもどかしくなり、ジェスチャーとロールプレイで、
日本語でダイレクトに伝えていくことに…
それでも十分に伝わっているのがわかりました。
強い思いは言葉が通じなくても伝わると確信した瞬間です。
講演終了後は懇親会もあり、上海に同行した弊社社員も一緒に、
皆様と楽しい時間を過ごさせて頂きました。
初めての上海講演会、
正直うまくいくだろうかと不安な気持ちもありました。
しかし熱心に応援してくださる髙井先生に支えられ、
無事に上海国際機場賓館での講演を終えることができました。
ありがとうございます。
そして翌日、TSL塾生の岩野晶子さんが企画してくれた上海講演が、
花園飯店で開催されました。
最終的に何名集客できたのかと言うと…
なんと!
目標の200名以上の方々にお集まりいただくことができました!!
ホテルの中でも一番大きな会場。
果たして本当に200名も来るのか?
誰もが内心は
「やっぱりムリかも。当日は席が空くんじゃないか?」
と少なからず思っておりました。
そんな考えを吹き飛ばし
結果は満席!
盛大な講演会となりました。
岩野さんはプレッシャーを感じながらも、
宣言したからには絶対に200名集める!と腹をくくって、
最後の最後まで駆け回ってくださいました。
講演の最後に現地スタッフの皆さんとステージにあがり
挨拶をしてくださった際には、感極まり泣いていました。
集客に魔法なし―
日ごろ集客をする側である私たちには
岩野さんが最後まで諦めずにどれだけ努力してくださったかが
とてもよく分かりました。
私も胸がいっぱいになり、
感謝の気持ちで涙があふれました。
また最後にもう一つ
とても嬉しい出来事がありました。
実はこの日帰り際、
ホテルの支配人自ら出てきてくださり、
たくさんのスタッフの方々と総出でお見送りをしてくださいました。
岩野さんも私たちも何だか嬉しく、
誇らしい気持ちになりました。
TSLの塾生たちが、
海外での私の講演会を企画してくれたこと。
そして、「応援したい!」問い本から上海に駆けつけてくれたこと。
TSL塾生たちの並々ならぬ努力と、
一緒に共有した時間、思い出。
忘れられない経験・体験をさせていただきました。
上海講演会のレポートを、
同行した弊社社員がブログに書いております。
私も久しぶりに読みましたが、
あの日の出来事が熱気とともに蘇ってきました。
お時間のあるときにお読みいただけると嬉しいです。
上海レポート①
https://ameblo.jp/shinki-yuri/entry-11071799452.html
上海レポート②
https://ameblo.jp/shinki-yuri/entry-11071920920.html
上海レポート③
https://ameblo.jp/shinki-yuri/entry-11072510669.html
上海レポート④
https://ameblo.jp/shinki-yuri/entry-11072605909.html
上海レポート⑤
https://ameblo.jp/shinki-yuri/entry-11073458839.html
上海レポート⑥
https://ameblo.jp/shinki-yuri/entry-11074059355.html
上海レポート⑦
https://ameblo.jp/shinki-yuri/entry-11075639851.html
高井先生に何かをご相談すると、
毎回と言っていいほど「ムリムリ!」と言われます。
しかし、「ムリムリ!」と髙井先生がおっしゃる度に
私はむしろ「絶対にやってやる!」と気合いが入るのです。
髙井先生は、私の性格をよくご存じだからこそ、
そのように仰るのかもしれません。
そう言えば2009年にイベントで1000人以上集めると決めた時も、
先生には、まず「無理!」と言われてしまいました。
しかしその言葉がきっかけで私の内なる闘志に火がつき
結果として1500名という、目標を大幅に超える集客ができたのです。
いえいえもしかすると、
何を言われてもこうと決めたら突っ走る私に
髙井先生もすっかり呆れているのかもしれません。
それでも必ず陰ながら応援してくださる高井先生の存在は
とても心強く、いつも私を支えてくださっています。
ありがとうございます。
ご縁を頂いてあっという間の14年の歳月が流れました。
髙井先生は経営の節目節目でいつも見守ってくださっています。
この先、まだまだ未知の世界にチャレンジしようとする私ですが
どうか末永くよろしくお願いします。
健康管理にはくれぐれも気をつけてくださいませ。
髙井先生のブログでの連載も、次回で最後となります。
最後までお付き合いの程よろしくお願いします。
株式会社新規開拓
代表取締役社長 朝倉 千恵子
よほど親しくない限り、いきなり「○月×日にお食事はいかがですか」とお誘いするのは、少し品がないばかりか、時に相手に戸惑いを与える。上手な誘い方は、「捨て石」を置くことから始めることだ。
捨て石とは、何かのお話し合いの別れ際に「いつかご懇談の機会を……」といったご挨拶(あいさつ)をし、あるいはお会いした後の礼状に「改めて夜分にでもご懇談の機会をいただければ幸いです」という一節を付け加えることなどをいう。
しばらくたってから、電話などで懇談を正式に申し入れるのである。直近の日を希望するのはあまりよくない。一般に、急いでいるという雰囲気を与えるのは適切ではないからである。
捨て石を置いたまま、放置してはならない。懇談、すなわち接待を期待している人もいるから、それを裏切ることになる。リップサービスで「いずれご懇談の機会を」などと言うのも控えるべきである。
「おいしいお店があるので、今度お連れ致します」といった誘い方もある。それには、まず相手の趣味・趣向を知ることが大切である。人間だれしも好きなものに誘われれば、興味・関心を持つものである。
そして、「折り入ってご相談申し上げたいことがございます」と続けることになるが、この種の口上を述べると、何かオブリゲーションが生ずるのではないかと不安がる相手もいよう。
そのとき「もちろんあなた様にご迷惑をお掛けするようなことは致しません」と安心させることを忘れてはならない。内容については「あなた様にはあまり負担にならないところで参考意見をお聞かせ頂きたい」とするのもよかろう。
接待の設営もクロージング(商談の最終場面で商談そのものをまとめあげること)の一つである。営業力というのは、結局のところクロージングにかかっているが、接待の場の設営すらできないようでは、営業力があるとは言えない。
この忙しく、またとかく接待が色眼鏡で見られる時代には、大義名分が極めて大切である。それは勉強させていただく、教えていただくという姿勢である。例えば私は様々なテーマで執筆するが、「取材をお願いしたい、教えて頂きたい」とお話をすれば、ほとんどの方が懇談、すなわち接待にも快く応じて下さる。
執筆するとは、社会に問うことであり、それが公益性につながるから、皆様も協力して下さるのである。接待の目的をいかに社会性ないしは公益性につなげることができるかが肝要なのである。
]]>第1回 AIの歴史~フィクションから現実へ~
今やすっかり日常に浸透した「AI(人工知能)」。街ですれ違う人がごく自然に「AI」と口にしているのを耳にする。
私が本格的に(といっても素人の域を出ないが)AIについて勉強を始めたのは2015年の春頃。研究者を除けば日本でAIに関心を持つ人間は限られていた。しかしそれでも日々、新聞各紙面の後ろの方に小さな関連記事を見つけられており、「AI時代」の到来を感じた私は、より早く、多くの方にAIを身近に感じ、考えていただく機会となることを願い、各所のお力を借りながら幾度もセミナーを開催し、自らの論稿や著作でも取り上げてきた。
多くの人々にとってAIが別世界のことではなくなった今、ひとまずのものとして、自らの学んだ足跡を発信していく。
2016年3月、我が国におけるAIの一般認知度が急激に上がった。Google DeepMindのAI「アルファ碁」が韓国のトッププロ棋士・李世乭(イ・セドル)を打ち破り、「AIが人間を超えた」とメディアが連日大々的に取り上げたためである。「AIとは」という特集が各所で組まれ、家電、スマートフォン、会計・経理ソフト、コミュニケーションロボットなど、実はすでにごく身近に浸透していたAIが、ついに日の目を浴びることとなった。
「コンピューター」「ロボット」「AI」の三者、特に昨今「ロボット」と「AI」は混同されがちだが、コンピューターは人間の操作を受けて処理を行う電子計算機にすぎない。代表例がパソコンだ。このコンピューターに人間同様の知能を実現させたものがAI(artificial intelligence)である。これに対し、ロボットとは、人間がコンピューターを操作して行うような処理を、自身で自動的に実行できる機械である。簡単にいえば、人間の心や頭脳(ソフトウェア)を機械化したコンピューターがAI、コンピューターを操作する身体(ハードウェア)を機械化したものがロボットと言えよう。
今の日本人の多くは幼少期から鉄腕アトム(手塚治虫)やドラえもん(藤子・F・不二雄)といった「心を持ち人間を助けるロボット」と共に育った。「ロボット」と聞けば彼らを思い浮かべる人が少なくないはずだ。では現実のロボットはどうであろうか。一昔前までは製造業における産業用ロボットが主流であり、日本は長年「ロボット大国」としてその技術力を世界に誇ってきた。しかし、昨今の高齢化や人口減少に伴い、医療や介護、サービス業といった非製造業でのロボット需要が高まり、搬送作業や介護の負担を減らす装着型ロボット、コミュニケーション型ロボットなどその種類は多岐にわたるようになった。それはAIの発達と共にあったと言っても過言ではない。AIとロボットが組み合わさったことで、フィクションの中のロボットが次々と現実化しているのが今の世界である。
さて、AIの歴史は意外にも長い。古代の神話や伝説などに起源し、中世の錬金術やホムンクルス、ゴーレムを経て、19世紀には人造人間や思考機械というアイデアに発展。メアリー・シェリーの小説「フランケンシュタイン」やカレル・チャペックの戯曲「R.U.R.(ロッサム万能ロボット会社)」が発表された。
AIが「科学」として研究され始めたのは1940年代。以来、AI研究はブームと「冬」の繰り返しだった。1956年に学問分野として確立された際は第1次AIブームが巻き起こったものの、高まりすぎた期待に応えられず、1970年代には一転「冬の時代」となり、批判と資金縮小に晒された。1980年代になると第2次AIブームが到来、日本政府や企業も500億円以上の資金をAI研究に注ぎ込んだが、80年代末には再び投資が撤収された。
こうした中、1997年に米IBMが開発したスーパーコンピュータ「ディープ・ブルー」が、当時のチェスの世界チャンピオンに勝利した。これが現在の第3次AIブームのきっかけとなり、世界は本格的なAI時代へと向かうのである。
・AIは人間の心と頭脳を機械化したコンピューター ・AIとロボットの融合がフィクションを現実化 ・ブームと冬を繰り返し、ついに「AI時代」へ |
(第1回ここまで/担当 高井・團迫・宇津野)
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