2017年4月アーカイブ

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2017年3月24日8:02 中目黒公園にて椿を撮影
花言葉:「控えめな優しさ、誇り」

 

 

第4回 コミュニケーションの取り方


株式会社日本総合研究所
リサーチ・コンサルティング部門
青木 昌一 

 

1.きっかけは事件から

ビジネスマンに限らず日常生活においてもコミュニケーションを抜きにして人間関係は成り立ちません。

ビジネスにおいても様々な場面でコミュニケーションのとり方ひとつでその後の結果が変わってしまうことが往々にしてあります。

私自身は決してコミュケーションのとり方がうまい方とは思いませんが、高井先生にお世話になったある「事件」を通じてひとつのポイントを学びました。

前職の西洋環境開発時代に100名ほどの社員規模の会社の経営管理と売却先探しを、いわゆる親会社として担当していたことがあります。その会社は極めて優良な会社で毎年きちんと利益を出し、100%株主である西洋環境開発に配当を出している会社でした。

優良な会社ですので、親会社としては細かな指示を出すことは少なく、西洋環境開発から派遣されている取締役と社外取締役として経営ボードに名前を連ねている先輩等が月1回の取締役会で方針を決める程度の関与の仕方でした。

ところがある日、労働組合の委員長名でこの非常勤取締役である先輩のところに封書が届きます。

 

2.直訴

封を開けると、そこには現場の実質的な責任者で生え抜きのある課長(と言っても、課長はこの方ひとりで、プロパー社員として現場のことも一番よくわかっている方でした。)と意見が合わないケースがたびたびあり、その点を西洋環境開発から派遣されている取締役に調整してもらえるようにお願いしても、ほとんど取り合ってもらえない。挙句の果てにはこんこんと説教をされてしまう始末である。このままでは自分たちが労働組合として社員を守るために何かしらことを起こさざるを得ないところまで追い込まれている。という内容がつづられていました。

そこで先輩と私はすぐその会社がある関西に向かいました。労働組合の委員長と書記長は私とほぼ同世代の方々で、話しやすかったのも幸いでした。

二人と就業時間終了後、居酒屋で待ち合わせ、いろいろと話を聞きました。そこで出た話の細かい部分は割愛しますが、

(1) 課長の方針・指示は難しすぎて社員に徹底するのは厳しい部分があるのだが、命令として指示され、できなければ叱られるので社員としては我慢できない。

(2) そのことを取締役に話をしても、同じ調子で言われてしまい、しかも話をしているとさえぎられて、伝えたいことが伝えられない。

(3) 最後には、お前らがだらしないからだと説教をされてしまい、状況がまったく変わらない。

(4) 思い余って委員長と書記長が相談した結果、ダメ元で親会社である西洋環境開発でこの会社を担当する部署の部長で非常勤取締役を務めている先輩のところへ直訴状を送った。

といった、話しがありました。

とにかく、その場は一旦話を聞くにとどめ、翌日東京に戻り、先輩と私は市ヶ谷の事務所に高井先生を訪ねました。

なぜ高井先生か。

実は西洋環境開発には社員会があり、春闘は社員会と行うものの労働組合はありませんでした。したがって、その前年まで10年ほど人事部に所属していた私も労働組合との付き合い方などまったく分らず、すがれるのが高井先生だけだったのです。

 

3.コミュケーションのポイント

我々の報告を黙って聞かれていた高井先生はおっしゃいました。

「それはコミュケーションが成立していない。コミュケーションというのはお互いが意見をまず聞き、その意見に対して意見を伝える。この繰り返しの言葉のキャッチボールがなければコミュニケーションとは言えないんだ。」

さらに、「とにかくそれ以前に話をよく聞くことが重要だよ。単に話を聞くだけで問題が解決することもあるくらいなんだ。」ともおしゃいました。

この高井先生からの話を受け、先輩と私はふたたび関西に向かい、現地の常勤の取締役の方々、今回たまたま名前が出た課長、組合の委員長、書記長に別々に時間をとってもらいそれぞれ表現にだけ気を付けながら話をしました。

取締役の方々にはとにかく組合の話を聞くことに徹してほしいこと。課長には話を聞くことに加え社員の方々の様子を見極めながら指示出しをお願いしたいということ。

そして、組合の委員長、書記長には取締役等にこういうお願いをしてきたという話をし、一方で別の必要性もあったのですが、月一ではなく、もう少し頻度をあげてこちらに来るので、ざっくばらんに情報交換をして欲しいという話をしました。

その後、毎月2~3回、1泊~2泊くらいのスケジュールで関西を訪ね、高井先生に教えられたコミュケーションの方法を我々も守り、労働組合の幹部をはじめとする社員の方々とコミュニケーションを重ねていきました。

結果として、この会社は第1回目で申し上げたように西洋環境開発が特別清算になる前にある有名な企業に譲渡をすることができ、連鎖倒産を免れました。この譲渡の際に、社員の方々が大きく動揺することなく成功した背景にはこの労働組合の獅子奮迅の活躍がありました。

また、この課長さんは売却後、この会社の業容拡大に貢献され、今ではその会社の社長として活躍をされていらっしゃいます。

そして私は、、、今もこの高井先生からの教えを愚直に実践するよう心掛けています。

 

以上

 

 

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2017年1月25日(水)14:00より、アルカディア市ヶ谷にて三田証券株式会社 代表取締役社長 三田邦博様をお招きして、「データで読み解くアベノミクス~歴史的失政リスクにどう向き合うべきか」と題してセミナーを開催いたしました。様々なデータをもとに、アベノミクスの功罪について、今後私たちがどうすべきかについて、ご講演いただき、50名の方にご参加いただきました。

講演会の様子

セミナーの概要(項目のみ)を以下にご紹介いたします。

 

テーマ:「データで読み解くアベノミクス~歴史的失政リスクにどう向き合うべきか」

Part1 アベノミクスの功罪~アベノミクスは何も生み出していない?!

  • アベノミクスの概要
  • アベノミクスは始動時に大成功を収めた
  • アベノミクスのその他の実績
  • 空回りを始めるアベノミクス
  • 黒田日銀総裁 異次元緩和の功罪
  • 空回りを始める黒田総裁と日銀
  • 政府はアベノミクスの成果を誇示するが・・・
  • 政府・日銀の努力が生み出したものは・・・
  • 副作用を生む政策―将来のリスク増大
  • 金融緩和は資産インフレを導いているー格差を拡げ、庶民を苦しめる

Part2 問題の本質を考える

  • 日本は戦後最も成功した社会主義国家
  • モノ作り大国ニッポン
  • 日本型資本主義は既に破綻している
  • 日本の生産性は先進国最下位
  • モノ作り大国の幻影
  • 日本人は豊かという幻想―貧困は深刻化

Part3 どのように対処すべきか

「私が10歳の日本人ならただちにこの国を去るでしょう」by Jim Rogers

  • 夢と安心を持てる社会を再構築できるか
  • 未来を担う子供たちへ
  • 語学は最も基礎的能力
  • 日本人の英語力は世界最低水準

 

 

 

以上

 

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株式会社ABC Cooking Studio元取締役安藤武久さんを偲んで

2017年2月28日に、株式会社ABC Cooking Studio元取締役安藤武久さん(81歳)がお亡くなりになられた。3月1日にお通夜、翌日2日に葬儀が名古屋で執り行われ、小生は出席できなかったが、葬儀には同社より大勢の社員が参列されたそうだ。葬儀はご家族中心で行われたとのことであり、喪主のご挨拶以外は特に弔辞もなくご家族や親しい人たちに見守られながらの旅立ちだったそうだ。

安藤さんは愛知県名古屋市出身、1935年4月3日生まれで、1995年頃にABC Cooking Studioに入社されたそうだ。前職は、新潟県三条市にある金物台所用品メーカーの役員としてABC Cooking Studioに対する製品販売を担当されていたが、そこで、横井啓之代表(当時)と出会い、人柄や経営能力に関し意気投合し、横井氏からの懇請もあって、ABC Cooking Studioへ入社されたそうだ。当初は同社の本部が静岡市にあり、安藤さんは静岡市の本社で総務部長として勤務され、後に取締役となり経営全般に携われたそうだ。同社はその後東京へ本社を移転しているが、安藤さんも静岡から東京へ引っ越しをし、単身赴任されていたそうだ。2010年に同社を退任されたが、退任後、カナダで一時期を過ごされた。日本に帰国されてからは、名古屋の自宅近くの熱田神宮でボランティア活動などをされていたそうだ。

小生は、2005年4月からABC Cooking Studioの法律顧問を務めているが、安藤さんとは、同社の法律顧問になった当初からのご縁であった。当時、同社の一部の社員が独立して同様の事業を展開し始めたことに関して相談があったのだが、安藤さんは、横井氏や同社の創業メンバーの一人である志村なる美氏をしっかりとサポートされ、縁の下の力持ちのような存在であった。この件は、小生が法律家としてアドバイスを行い無事に解決したが、以後、同社の労務管理体制の整備をお手伝いさせていただくこととなった。

横井氏と安藤さんとは二回り以上年が離れており、同社社員には若手が多く、安藤さんは父親のような存在でもあったそうだ。

安藤さんが亡くなった後に、横井氏に会ったが、当時横井氏と安藤さんが一緒にいると、安藤さんが社長に間違われることが多かったと笑っておっしゃっていた。同社が発展していく過程で、安藤さんによって社会的信頼を得られた、当時の同社にとって得難い方であったと語っていた。

(写真は、左から横井啓之様、安藤武久様:名鉄百貨店本店スタジオ リニューアル2015年4月1日オープン後に撮影)

横井さんと安藤さん

 

同社は女性専用料理教室を展開し(2014年4月から男性も受講できるサービスを展開している)、女性が多数活躍している企業であるが、2005年当時、3800人いた従業員のうち男性社員はたったの8名だけであった。安藤さんは面倒見がよく、ランチには必ず女性スタッフ数名を連れていったそうだ。バレンタインデーには、女性スタッフからたくさんチョコをもらい、お返しする相手を忘れないように、「みんな、自分の名前付箋貼っておけ」と机の上にチョコを並べていたという。羨まし限りであるが社員から慕われていた安藤さんらしい発言である。会社を辞めてからは、「立つ鳥跡を濁さず」のごとく、社員との交流をあえて断っていたとも伺った。小生は退職後にカナダに行く理由を、想い人がいるからと聞いたが、真偽の程は定かではない。

小生も安藤さんと同じ名古屋出身であるが、名古屋の大須にある芝居小屋近くで幼少期を過ごしたと聞いた。これは亡くなった後に安藤さんを知る方々に訪ねたが、誰一人として知らない事実であった。安藤さんとは世代も近く、戦中・戦後の混乱期を同じ名古屋で過ごしていた、同郷の士として交流があったと感じている。小生は仕事柄多くの人と出会ったが、安藤さんは、仕事熱心で勤勉実直の人として、また、おおらかで明るい魅力的な人として、印象に残っている。

2010年に退任される際にご挨拶したのが安藤さんとお会いした最後であったが、ABC Cooking Studioの成長を支えた立役者がひっそりとこの世を去ったことが寂しくてならない。

 以上

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第12回目です。
  • 第12回目は、大鵬薬品工業株式会社特別相談役・ニチバン株式会社名誉会長 小林幸雄様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第12回)■ ■ ■ 

大鵬薬品工業株式会社特別相談役・ニチバン株式会社

名誉会長 小林幸雄様  

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

 

[大鵬薬品工業株式会社 特別相談役・ニチバン株式会社  名誉会長

 小林幸雄様 プロフィール]

小林幸雄様のお写真

昭和38年6月大鵬薬品工業設立、代表取締役社長就任。ニチバン株式会社が倒産の危機に瀕した昭和51年より同社の再建に携わるニチバン再建の立役者。

昭和52年ニチバン株式会社取締役会長就任。現在、大鵬薬品工業株式会社特別相談役、ニチバン株式会社名誉会長。

 

 

 

[今回の同席者は以下の通りです]

  • 大鵬薬品工業株式会社 総務部副部長 兼 秘書室長 坂東康子様
  • 高井伸夫 

取材日:2017年1月31日(火) 於:東京 芝 とうふ屋うかい

 


 

高井

ニチバン株式会社再建に際して、会長には「販売即経営」というものを教えていただきました。この概念の意味について、今一度教えて下さい。

 

小林様

ニチバンに関わるようになった当時、ニチバンは組合が強く、ストライキがよく起こっていました。昭和51年、石油ショックが終わった後です。

メーカーであれば、販売即経営なんてものは唱えなくても販売するのが当たり前です。しかし、当時はストライキばかりで工場の稼働率が非常に悪く、数少ない商品を営業の連中に割り当てて売っているという、常識では考えられない状態でした。営業努力も何もありませんでした。ストライキが多いので、生産量も少ない。会社として立て直すには生産性を上げなければならないと思いました。当時ニチバンは7時間労働で土曜日は休みでした。そういうことで、まだまだ生産できるだろうと考え、営業時間延長をして、土曜日も稼働させました。これがまた組合との係争のもとになりましたが・・。

倒産の危機、会社の現状がそういうことでありましたので、販売しなければ会社そのものを維持できないんじゃないかという事情、背景があったということが、「販売即経営」ということになった次第です。

 

高井

ニチバンの再建を引き受けられた経緯について教えて下さい。

 

小林様

昭和47年以降の第一次石油ショックの時代、他の企業も色々と石油ショックの影響で経営が非常に苦しくなってきていました。ニチバンはもともと製薬会社で、我々(大鵬薬品工業)と同業ですので、業界の会合でお会いしており顔見知りでした。

昭和50年に、当時の歌橋均也社長からニチバンが苦しいということで、大阪工場を買ってくれないかという話がありました。詳しく聞けば、従業員500人を人員整理したとのことでその費用に10億円かかったそうです。10億円を銀行から借りて人員整理をしたものの、銀行から督促が厳しい。石油ショックで土地の値段が高騰していたこともあり、大阪工場は10億円近い価値がありましたので、これを売って返済したいということです。

藤井寺にある大阪工場へ行くと、人員整理した後でもまだ社員が働いていました。工場を売ると言っても、大阪工場で働いている従業員はどうするのか?と聞いたら、従業員のことは考えられない、とにかくはやく工場を売って10億円を返済したい、との話でした。

それならばと思って増資を勧めました。第三者割当をして、我々が引き受けるという形にすれば工場を売らなくても10億円という金を用立てできるのではないか、と提案しました。歌橋社長が一旦会社に持ち帰って検討したそうですが、役員会で非上場会社のよくわからんところの話なんて、ということで、剣もほろろに断られたそうです。

昭和50年の暮れにそういった話を提案しましたが、役員会で断られて話は流れてしまいました。

 

ニチバン再建の話は、いったんは流れていたのですね。

 

小林様

当時、ニチバンは11月が決算、2月が総会でした。昭和51年2月の総会が終わったあとに歌橋社長と再度お会いしました。経営不振で従来の役員を全員リタイヤさせて役員の平均年齢が70歳になりました、と言われ大変驚きました。

 

高井

平均年齢70歳というのは若返ったということですか?

 

小林様

そうです。設立以来の80歳近い年齢の方々がそれまで残っていたそうです。当時私は44歳でしたので、本当に驚きました。3月になって今度は歌橋社長とニチバンの経理担当常務であった茂手木秀一氏にお会いしました。歌橋社長と話をしていたら、茂手木氏から「何の話をしているのですか。明日ニチバンは壊れますよ。倒産しますよ。」という訴えがありました。そこで、「以前申し上げたとおり第三者割当をしたらどうですか。」という話をして、急速に話が進んで行きました。半額時価発行増資を行い、第三者割当によって増資発行株数1200万株をすべて大鵬薬品工業で引き受けることになりました。当時1株89円ですから、1200万株で9億6000万円です。

 

高井

1株89円。正式に支援をされた当時、昭和51年ですね。銀行とのお付き合いは良好だったのでしょうか。

 

小林様

資本参加と同時にニチバンの最高顧問に就任しました。

当時、興銀から招聘した役員の方がああでもないこうでもないと役員会で発言してまあ簡単に言いますとやりにくいのです。思い切って興銀にこの人を引き取ってくれと言いました。そうしたら、興銀の支店長に怒られました。興銀から招聘したのは、ニチバンのオーナーから直々に申し入れがあって派遣したのだと言うのです。私は知りませんでした。その人物を引き取ってくれとは何事かと、当時の東京支店長に怒鳴りつけられました。その時に「興銀を鵺と思えと、ニチバンを壊す!」と言われたのです。私も経営者の端くれです。黙ってはいられません。

当時、ニチバンは設備資金を興銀から7億円を借り入れていました。丁度その時に大鵬薬品工業の取引先に大和銀行があったので、大和銀行に行って、7億円現金で用意してくれと言いました。かくかく云々で興銀の支店長からひどく言われて、こっちも意地があるから7億円を返す、といいました。7億円なんて風呂敷に包んで持っていけるものじゃないと諭されました。しかし、意地があったので、現金で持っていくんだと意気込んで、「ニチバンの従業員20人を動員して持っていくから、とにかく用意してくれ。」と言いました。そしたら「よし、面白いからやるか。」ということで話が付いたわけです。

 

高井

それで、その後興銀とはどうなったのですか。

 

小林様

7億円の話がついたので、すぐに興銀に「今までお世話になりました。ニチバンを壊すなどと言われて穏やかではいられませんので、借金してでも7億円返します。」と伝えました。そうしたら、興銀の支店長が驚いて、ニチバンに飛んできました。「本当に返すのか。」と聞かれたので「明日には届けます。7億円現金で、お宅に運びこみますので、よろしく。」と言いました。そうしたら「待て」と言うのです。聞くと、行内手続の関係で不在にしている副頭取に指示を仰ぐ必要があるから、しばらくこの件は延期してくれ、と言われました。そこまで言うなら仕方がないと思い待つことにしました。

そして1週間後に興銀から電話がかかってきて、副頭取から会いたいので本店まで来てくれというのです。銀行に行くときにはいつも経理担当を連れて行きますが、その時は1人で来てくれということで、変だなと思いました。1人で興銀の本店へ行きましたところ、役員室に通されました。副頭取以下、専務、東京支店長であった常務、役員が7~8人がずらーと並んでいました。そして、副頭取が私の顔を見て、「ニチバンの小林さんはあなたですか?」と言うのです。「東京支店長である上田が興銀に入社して、32年、色々な経営者に会ったが、すごい経営者だ、今まで見たことのないような経営者だと言う。ニチバンの小林さんはあなたですか。」ということで手を握られました。副頭取にそう言われて、私はのぼせ上ってしまいました。

後から思えば、鼻息の荒いのが来るだろうから、ということで色々と打ち合わせをしたのだと思います。副頭取に手を握られて役員食堂に案内されました。役員食堂にホテルオークラのケータリングが入っていたのです。ケータリングのフランス料理を昼間から御馳走になってワインを飲んで、お土産にホテルオークラのクッキーをもらっちゃった。「この件はまあまあ穏やかにして、従来通り興銀とニチバンでやりましょうよ。言葉の行き違いもあったと思うのですが。」ということでおだてられちゃって、ワイン飲んでいい気分になっちゃって。(笑)

 

高井

それで興銀、大和銀行とはその後どうしたのですか。

 

小林様

それで大和銀行に行って、やっぱりお金は要らないといったら今度は大和銀行に怒られました。笑。本当に漫画みたいな話ですが、そういうことがありました。私もまだ若かったので、怖い者知らずで、銀行とやりあったわけです。そういったことで銀行とやりあって興銀と仲良くなりました。

 

高井

そんなやり取りがある一方で、組合との関係はどうだったのですか。

 

小林様

51年の暮れから52年の正月にかけて組合がストライキをやりました。1ヶ月以上続くストライキです。対立が激しくて全然組合と話にならず、もうニチバンはダメだなと思いました。組合自身があまりにも激しくて、この時ばかりは再建は無理だと感じました。そして再建から手を引くとういことを宣言しました。52年の1月20日です。そう宣言したら、経営者にも組合にも必至になって止められました。それで、会社が軌道に乗るまではストライキを辞めてくれということで、なんとか組合と再建協定を締結するに至ったのです。

 

高井

再建協定によってストライキがおさまり、経営は上向いたのでしょうか。

 

小林様

ストライキを辞めたら、今度は在庫が増えてしまいました。そういうことは予測ができましたので、そのうち資金繰りが苦しくなると当時のメインだった富士銀行に夏頃から根回しをしていました。

実際に在庫が増えて資金繰りが苦しくなってきたので、いよいよ実際に話をしようということで、富士銀行の支店長に会いに行ったのですが、なかなか会っていただけませんでした。アポイントが取れず、銀行が開店する前の7時半とかに通用門が開く時間から立って待っていても会えない。支店長が会ってくれないので、ついに富士銀行にも見捨てられたのか・・・と。見捨てられたとなれば対処しなければなりませんので、融資担当の役員の方にご挨拶しなければと思って、常務にアポイントを取りました。

それで、常務にお会いする当日になったら、なかなか会えなかった支店長が出てきて「会うのを辞めてくれ」というわけです。

そうはいっても、役員の方にアポをとっており会わないわけにもいかないので役員の方にご挨拶しました。かくかく云々で・・・ということを話しましたら、常務が支店長を怒りました。「何を考えてるんだ、富士銀行はそんな銀行じゃありません」と。常務が私に頭を下げて「申し訳ない、そんな態度をとった支店長はとんでもない奴だ。従来通り、ニチバンと富士銀行とお付き合いをしてください。」と言うのです。その後、支店長は群馬県の会社に転籍されました。随分厳しかったです。銀行とは不思議なご縁がありました。

 

高井

他にもエピソードはありますか。

 

小林様

実は、三菱銀行でもあります。昔ニチバンの工場が品川にあり、三菱銀行品川支店が当時のメインバンクでした。ニチバンの再建をするに当たり、岩崎寛弥さん、岩崎弥太郎の玄孫に当たりますが、この方にご縁があってご挨拶にいきました。

当時、銀行とは株の持ち合いをしていました。三菱に限らず他の銀行とも株を持ち合っていました。それが、三菱はニチバンの株を全部売ってしまっていたのです。なんだ、三菱はニチバンをもう見捨ててしまっているじゃないかと思いました。三菱銀行の当時の頭取から、それは申し訳ないので本店に来てくれ、と言われて本店に行きました。

銀行には、いつも昼ごろ呼ばれます。役員食堂で、また、ホテルオークラのケータリングでした。当時銀行はみんなホテルオークラのケータリングでした。フレンチです。三菱銀行に御馳走になって、お詫びをされました。その後、三菱銀行はニチバンの株を買い戻しました。80円程度の株価が400円とか、500円になってしまっていたのに買い戻したのです。

 

高井

銀行との話は面白いですね。組合との話より銀行との話の方が面白いですね。

 

小林様

面白い話といえば、私がニチバンの再建をするといったら、銀行は反対をしたんです。興銀が最初に反対しました。再建は難しいからやめろと。大和銀行なんかは潰してから行け、あそこは組合が厳しいから潰してから行けと言いました。そうだった、高井先生だってやめろっておっしゃいましたよ。

 

高井

当時のニチバンは組合が激しくて、再建は難しい状況でした。小林様を奮い立たせたものは何なのでしょうか。

 

小林様

考えてみれば銀行全てにやめておけと言われました。苦労するだけだと。逆にそういわれたことが1つの反発心でした。そこまで言われたら、何とかしなければならないという気持ち、それが大きかったです。

 

高井

ニチバンが軌道に乗るまでにどのくらいかかりましたか。

 

小林様

6年かかりました。私が行ってから、6年赤字が続いて、昭和57年にはじめて復配が出来ました。昭和47年から10年間無配でした。役員賞与も出ていませんでした。復配で役員賞与を出すことになったら、経理担当者が10年間も出していなかったから役員賞与の計算方法が分からないと言いました。そんなこともありました。

 

高井

復配になってからは無配に陥ったことはありませんか?

 

小林様

それからずっと配当は続いています。

 

高井

現在のニチバンには内部留保はあるのですか。

 

小林様

まだまだ少ないですが、セロハンの主力工場の三河安城に移す大阪工場の移設投資も自己資金でやっていますし、子会社ですが、九州にあるニチバンメディカル株式会社も自己資金で作っています。ニチバンそのものは内容のいい会社になっていますよ。

私がニチバンの会長を辞める時に株価が280円から300円くらいになっていました。私が辞める時の株主総会で、それでも株価が安いという意見があったのですが、ニチバンの内容からするとすぐに500円くらいになりますと言いました。そういう内容の会社になったのです。実際に今は、500円を超えて900円になり、1000円を突破しました。私も86歳になりました。

 

高井

本日は、貴重なお話をありがとうございました。

以上

 

 

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平成29年4月7日(金)11:30 埼玉県日高市高麗神社にて桜を撮影 

 

 

第26回リストラの本質と手法―恐慌下における諸現象を踏まえてー(2)
(2009年5月4日転載) 

 


経営悪化した企業がリストラを断行する本来の目的は、雇用調整によるコストダウンそれ自体ではなく、あくまでも事業経営システムの再構築(リストラクチュアリング)にあることを忘れてはならない。リストラを行う際の留意事項として、リストラ後の業務維持・再興が掲げられる所以もこの点にある。

 

雇用解消の具体的手順

とすれば、企業のリストラに当たり最も重要なミッションとは、「企業戦略は人事戦略に宿る」との理念のもと、組織のあり方を次代の事業戦略に合うように見直し、必要な人材を見極めて内部に留めることである。そして人材の選別は正規・非正規という雇用上の身分に関係なく、労働者自身の資質・能力・技能、技術を公明・公平・公正に判断した結果に基づいて行わなければならない。

経営悪化に陥った企業の雇用調整の手順は具体的には、①企業戦略に基づき今後の組織像を明確にする、②組織を活性化できる優秀人材の引き留め策を実行する、③正規・非正規の区別なく「ロー・パフォーマー」の雇用を解消する、④その上で全社的に早期退職者の募集を行う、⑤それでも雇用調整が進まない場合には非正規労働者を雇止めする―ということになろう。

翻って企業のリストラの現状をみると、非正規労働者が雇用の安全弁とされ、不況になると彼らが真っ先に切り捨てられているし、古い裁判例ではあるが最高裁判所もそれを「合理的な差異」として是認している(日立メディコ事件=最判昭61・12・4)。しかし、リストラの本質が事業の再構築・再興にあるという根本に立ち返れば、非正規という身分のみを理由とする雇用関係の解消は不合理にして悪であるという法思想が生まれ、新しい判例が登場するのは必然であろう。優秀人材の見極めは身分を問わず事業再興に資する能力の有無でのみなされるべきことを忘れてはならない。

 

「含み損社員」から着手

ところで、雇用差別見直しの歴史を顧みると、まず男女差別の解消に始まっている。1985年に制定され数度の改正を経たいわゆる男女雇用機会均等法は、既に差別的取扱いを禁止していた募集・採用、配置・昇進・教育訓練、福利厚生、定年・解雇に加えて、2006年の改正で降格・雇用形態の変更・労働契約の更新・退職勧奨等も差別禁止とした(同法6条)。

次に禁止されたのは年齢差別である。雇用対策法は、2007年の改正で募集および採用における年齢制限の禁止を事業主の努力義務から義務規定とした(同法10条。但し例外事由あり)。

そして2008年4月に施行されたいわゆる改正パートタイム労働法では、「同一労働同一処遇」の理念のもと、短時間労働者の待遇はその働きや貢献に応じて決定することが求められた。特に、通常の労働者と同じ働きをしている者の待遇について差別的取扱いが禁止され、均等待遇の確保が明示された(同法1条、8条等)。

今後は、正規・非正規の身分差別がなお一層見直され実力本位となり、将来的には雇用解消の場面でも差別が禁止されるに至ると思われる。

なお、直接雇用ではない派遣労働はそもそも雇用調整の安全弁として機能することを企図された雇用形態であるから、今回のような恐慌時にまず契約関係が解消されるのは理論上当然である。今回の「派遣切り」問題は、Just in time方式で一挙に行われた雇用調整の様相が余りに鮮烈であったために、派遣労働の実態が社会問題としてクローズアップされたのである。マスコミ等で、彼らの契約を真っ先に打ち切ることが社会的弱者への仕打ちの如く非難されたのは、労働者派遣法を含む労働法全般が労働者の人間としての尊厳を最低限確保するための社会法であるという認識が、立法・行政に希薄だったためであろう。今後、単純労働は次第に直接雇用へと移行せざるを得ず、派遣労働は制定当初のように専門性の高い職種に限定されていくのではないだろうか。

このように雇用差別の見直しが進む結果、雇用関係の解消に当たっては正規・非正規という雇用上の身分に拘泥せず、ロー・パフォーマーか否かを基準とすべきであるという法思想が生まれ、人材の賞味期限切れへの対応が意識されるようになる。そして雇用調整のルールとなる新たな最高裁判例および立法措置も生まれ、実力主義のもとでの雇用調整が行われるようになるだろう。

ところで、非違行為はないがロー・パフォーマーである者を勇退に導くプロセスの具体例は次のとおりである。①まず、含み損社員のワーストを選ぶ。実際には様ざまなしがらみなどから本当のワーストを除外する傾向が強いが、これらを乗り越えて選定する。ここで留意すべきはあくまで現在の実力によって判断することであり、過去の実績を勘案してはならない。②次に、2回ほど配置換えを行いこの間指導・注意・警告を繰り返して「誰もが当該労働者に往生した」という実績(例えば人事考課が3回連続最低ランクであるなど)を記録する。この点、裁判所も「勤務評定という客観的な評価に基づいて最も低い評価を受けた者を解雇するという人選がされたものであるから」、「被解雇者(3回連続最低ランクのDを受けた者)の人選は妥当であった」としている(東京都土木建築健康保険組合事件=東京地判平14・10・7)。③その後、「残念だが勇退をお願いする」というプロセスを経て勇退に導く。その際、企業各々のカラー・社風に副った表現で、「勇退を求める」「淘汰する」という趣旨を明確に伝える。この時、然るべき退職金を支払うことが重要である。④当該労働者の勇退後は、それが前例となりその後の淘汰は容易に進むだろう。

 

正社員でも躊躇は無用

さて、前述のとおりいわゆる改正パートタイム労働法の「同一労働同一処遇」の理念は、雇用関係の“出口”=雇用関係の解消においても、十分に留意されるべきである。その結果、これからは正社員の既得権である雇用保障と賃金にメスを入れることが、リストラのメーンテーマとして不可避となってくる。

正社員の雇用保障を打破する最も合理的で現実に即した方法は、先に述べたように「含み損社員」の解雇規制を緩和することである。なぜなら、成果主義的な人事制度と賃金体系が浸透した今日の状況にあっては、貢献と雇用保障とのバランスを失する従業員は解雇されてもやむを得ないとする法的思想が生まれ、その結果として正社員の単純一律的な雇用保障は不適当と理解されるに違いないからである。

経営悪化に陥ってしまった企業の果たすべき社会的責任の根本は、事業再興に向けて本当に必要な人材を見極めたうえで、人員削減をしてでも企業の存続を図り雇用の場を確保することにある。そのためには、経営者は正社員のリストラを躊躇してはならないのである。

 

 

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2017年3月17日(金)7:37 芝公園にてデージーを撮影
花言葉:「平和、希望」 

 

 

第22回 内部通報のあり方
(平成28年10月31日)

 

 

“blow the whistle”(警笛を吹く)とは、内部告発をするという意味で用いられることがあるという。2000年頃より国民生活の安全を脅かすような企業不祥事が内部からの通報を契機として相次いで明らかになったわが国では、06年4月1日に公益通報者保護法が施行され、公益通報が企業・組織におけるコンプライアンスの一翼を担う制度と位置付けられている。一方で、事実の反する不適切な笛を吹く通報者の存在も否めない。しかもこの問題は、消費者保護、労働者保護、企業機密の保護、企業の名誉、企業秩序の問題(懲戒権)、働く者の真理・感情の問題、経営者の統率力、グローバル社会において企業に求められるシステム等々、多面的に論じられるべきものなのである。法改正を視野に入れた消費者庁の有識者検討会が、公益通報者をより保護する方向での改正案の取りまとめを指向したものの成らず、専門家ワーキンググループでなお議論が続いている旨の報道があるが、これは真剣な討議が重ねられている証左である。

一般に、企業における内部通報等の動機としては、主に社会正義などもあろうが、私的怨恨によるものが多いのではないか。そして、企業・組織にとって、一度出回った風評被害を払拭することは難しい。仮に、通報者が法律によって不利益取扱いを受けないことを奇貨として通報すれば、企業は大きな損害を受ける。その意味で、要件を緩和して通報しやすくする方向の法改正等を是とする見解については、私も懸念を抱いている。公益通報者保護法は通報者保護を図る法律であるから、現行法でも、公益通報され企業の社会的信用が損なわれた場合であっても、当該通報が一定の要件を満たしていれば、公益通報を理由とする通報者の解雇等は無効であり、不利益取扱いをしてはならない(3条、4条、5条)。

企業としては同法とガイドラインを十分理解したうえで社内通報制度を構築し、不正を自律的に未然に防ぎ、あるいは早期に対応することで、損害を最小限に抑える自浄作用を働かせる以外に、通報に伴うリスクを減らす方途はない。

法も、報道機関等の外部への公益通報には、書面による内部通報後20日以内に調査を行う旨の通知がないこと等の要件を求めており(3条3号)、内部通報はまさに「予防医学」に通ずる性質のものであるといって良い。生活習慣の改善や健康教育等によって病を遠ざけ(一次予防)、疾病等に罹患しても検診等により早期発見し、対策を講じて重症化を防ぐ(二次予防)。予防医学になぞらえるなら、患者(通報者)、担当医(通報窓口)、院長(経営者)の三者が誠実でなくてはならない。そして、患者から申告を受けて病状を判断して対処する担当医の役割が最も重要であり、社内通報制度でいえば、通報先がより実効的なものでなければならない。社内窓口ではたとえば、正義感の強い従業員代表1名、心理カウンセラー1名という3名の構成で、ファーストオピニオンからサードオピニオンの合議を経た結論を出せば、経営者はこれに真摯に対応せざるを得ない。

外部機関への通報の要件を緩和する等の法改正がめざされるのであればなおのこと、消費者庁は、リスクを知らせる笛を経営者が的確に聞き分けて経営の糧とできるよう、専門家の導入をより促す方向での社内通報制度づくりのガイドラインを整備しなければならないのである。

 

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2017年3月12日(日)13:09 東京大学医学部付属病院付近で沈丁花を撮影
花言葉:「不滅、永遠」



一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問 熱田貴さんとのご縁

 

先日2月3日に久しぶりに、一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問である熱田貴さんにお会いした。同氏の経営する「レストラン東京グリンツィング」が本年2月末日で閉店になるとのことでなんとも残念な話である。

 

熱田貴さんは昭和13年7月千葉県佐原市に生まれ、海外に憧れて船乗りになろうと思い、愛知県の国立高浜海員学校に入学されたそうだ。その後、株式会社日之出汽船に入社され、昭和32年から昭和38年まで客室乗務員として、南米・北米を回られた。ワインとの出会いは、先輩に連れられて行った南米チリのバルパライソの港町だそうだ。今から40年以上前、まだ日本人にとってワインは馴染みがなく、高級フランス料理と一緒に飲む憧れの飲み物であった時代である。南米チリで、初めてワインを飲みその魅力に魅かれた熱田さんは以後、訪れる港町でおいしいワインを飲み、ワインについて勉強されたという。

 

昭和39年からは船を降り、ホテルニューオータニ料飲部に勤務されたが、同ホテルでボルドーのサンテミリオン地区にある、シャトー・ドゥ・レスクールのオーナーであるピエール・シャリオール氏と運命的な出会いをし、シャリオール氏の勧めもあって、熱田さんはワイン修行の旅に出ることとなる。昭和44年から47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーンでワインについて研鑽をつまれ、イギリス・エジンバラではスコッチウィスキーについても学ばれたそうだ。帰国後、再びホテルニューオータニに勤務され、日本でワインをポピュラーにすることを目指してソムリエとして活躍され、平成3年に「レストラン東京グリンツィング」( 東京都千代田区麹町2丁目5−3)をオープンさせた。レストランの名前は、オーストリアで最も有名なホイリゲ(葡萄栽培農家が自家製ワインを飲ませてくれる居酒屋街)のグリンツィング村に由来するという。熱田さんのワインの原点である、ジョッキにワインを注ぎ、好きな食べ物を取り分けてワイワイ騒ぎながらごくごくとワインを飲む。そんな居酒屋のようなお店をやりたいとの思いが込められているそうだ。

 

小生と熱田さんとのご縁は、神戸にあった学校法人塩原学園の塩原一正さんが契機となっている。小生は学校法人塩原学園の法律顧問をしていた時期があり、塩原さんとは、事務所の記録によると昭和59年1月からご縁をいただいている。少々話がそれるが、塩原さんとは、昨年9月30日に神戸で久しぶりに再会しており、その様子は、「時流を探る~高井伸夫の一問一答(第7回)元トッパン・フォームズ代表取締役社長福田泰弘様」をご参照いただきたい。

 

塩原さんは神戸で学校法人塩原学園のほか、日本ソムリエスクールの校長を務められていた。熱田さんと初めてお会いしたのは、塩原さんに連れられて「レストラン東京グリンツィング」へ行った平成4年9月のことである。その後熱田さんとは2~3度お会いしたが、塩原さんと一緒に上海のホテルのエレベーターの中で偶然お会いしたこともあった。

 

レストラン東京グリンツィングを閉めた後はどうされるのか、熱田さんに伺ったところ、まだまだ日本にワインを広めるため活動されるという。直木賞命名の由来の直木三十五さんの孫の植村鞆音さんと一緒に東京でレストランを開業する準備をされ、北海道余市ではワイン作りにチャレンジされるというから驚いた。聞けば、熱田さんは余市にある、2015年1月設立の一般農業法人 株式会社NIKI Hillsヴィレッジの監査役を務められているが、同農業法人は、「余市・仁木地区を余市川ワインバレーと呼べるような土壌をつくること」を目指しているという。同法人は、2015年夏から、すでに葡萄の栽培に着手しており、白ワインは2016年秋に初出荷され、赤ワインは2018年の夏頃に初出荷を目指しているそうだ

 

余市といえば、小生は画家中村善策氏の小さな絵画「余市川の畔」を持っているが、青々とした草木に包まれた余市川と河畔の街並みを描いた鮮やかな絵画である。同地はニッカウヰスキーの創業地として名が知られているが、古くからリンゴをはじめ果樹栽培が盛んだったそうだ。小生は絵画に描かれたような同地へ、気候の良い時期に訪問したいと思っている。

 

熱田さんは日本ソムリエ協会の2代目の会長を務められ、日本にソムリエ文化を根付かせた方と言えるだろう。余市でのワインバレーを作る構想は壮大な事業だが、日本のワイン文化発展のため熱田さんのさらなる活躍に期待したい。

 

以上

 

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CONEX ECO-Freiends株式会社様発行の『¿Como le va ?{コモ・レ・バ?} Vol.31』「シリーズ 生きがいを発見! 第3回」に私のインタビュー記事が掲載されましたので、ご紹介いたします。

 

コモレバ誌面.jpg

 

花を追い、花を撮る、手にはCASIOを携えて。
―デジタルカメラで季節の移ろいをとらえる喜びに浸る―

 

千代田区・北の丸公園。春まだ浅い凛とした冷気の中、高井伸夫さん(79)の早朝散歩が始まっていた。手に携えているのはCASIOのコンパクトデジタルカメラだ。狙い定めたように足は吉田茂像が建つ一角へ。そこには早朝の晴天の群青に向かって鮮やかなピンクの寒桜が咲き誇っていた。「ここに寒桜を発見したときは嬉しかった」と、ひと言。

 

実は、高井さんは現役の弁護士。人事・労務問題の権威として知られ、多くの企業の経営相談役を引き受けている。2011年4月、「無用の用―高井伸夫の交友万華鏡」と題したブログを開設した折、文字だらけのコラムでは殺風景になると、自ら撮影した花の写真を掲載することにした。幼い頃の疎開先のレンゲやアザミが咲き誇る田園の記憶が、高井さんの原風景にある。それかあらぬか武蔵野や南麻布の旧宅には百日紅、連翹、大手毬などを植えて、仕事に忙殺される日々でも可憐に咲く花の美しさに癒されてきた。

 

かくて、美しい花や珍しい花を追って、デジタルカメラを携えて外出することが日課になった。たとえば、撮影の日時を明記し、「北区豊島にてモミジハグマ」、「中央区築地にてリナリア」「東京工業大学周辺にてプリムラ」などといった具合で、「東京にもこんな珍しい花が咲くのか」という驚きの声も届く。文字通りブログに花を添えることになったのである。

 

「プロ並みの一眼レフは操作に手間取るし、写真の腕を自慢するわけではないので、持ち運ぶにもコンパクトなデジタルカメラが一番。これで十分、花の美しさをとらえられ、季節の移ろいも表現できる」

 

と、写した花のプレビューを確認しながら、愛おしむように目を細める。手のひらのコンパクトなカメラが高井さんの日々を充実させているようだ。

 

「仕事一筋だった私でも、花の撮影を通して自分の世界が広がり、今までとは違った視点から物事を見ることができるようになった」

 

間もなく80歳。なお人生の真理を求める、高井さんである。

 

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  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第11回目です。
  • 第11回目は 株式会社ワールド・リンク・ジャパン 代表取締役社長伊東淳一様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第11回)■ ■ ■ 

株式会社ワールド・リンク・ジャパン 

代表取締役社長 伊東淳一様 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


伊東淳一様[株式会社ワールド・リンク・ジャパン 
     代表取締役社長 伊東淳一様 プロフィール]


日商岩井株式会社(現:双日株式会社)在籍中よりアジアのビジネスに関わり、ベトナムのホーチミン駐在事務所及びハノイ事務所所長を歴任。

2003年に同社退職の後、 故丸目三雄氏により設立された株式会社ワールド・リンク・ジャパンに参画、現在に至る。

投資ファンドの企画・設立・運営やM&Aアドバイザリーサービス、環境、医療、教育、農業分野におけるコンサルタント等、多方面にてご活躍されています。

 

 

 

 

[今回の同席者は以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • スクーナー株式会社 代表取締役社長 樋口 信行 様
  • スクーナー株式会社 専務取締役 樋口 信高 様 

今回はベトナム事業を通じて伊東様と親交がございます水産物輸出入、販売事業を手掛けるスクーナー株式会社のご両名様もお招きいたしました。

取材日:2017年1月11日(水) 於:東京 芝 とうふ屋うかい

 


 

高井

まずは、伊東様の現況をうかがいましょう。

 

伊東様

おかげさまで健康診断も終えて、あと2~3年は頑張ろうかというところです。

今年で71歳になります。今はベトナムに3ヵ月滞在、日本に2週間滞在するというペースで行ったり来たりの生活ですが、元気である限りこのまま仕事を続けようと思っています。

 

高井

ベトナムにいかれて何年になりますか?

 

伊東様

2006年からなので今年で11年目に入ります。その前に1993年から7年くらい滞在していたのでベトナムでの生活は合算すると17年くらいですね。

北は中国国境のラオカイから最南端のカマウまで行きました。出張には南部弁の話せる40代の男性スタッフ、北部弁(ハノイ弁)が話せる女性スタッフを連れていきます。いずれも日本人です。北で南部弁を話すと見下され、南で北部弁を話すと警戒されるといった雰囲気が今でもあります。戦争が終わって40年以上も経つのに南北に分かれて戦った時代の遺恨のようなものがベトナム国民の間には残っているようです。

 

高井

これまでベトナムでお過ごしになられて、一番楽しかったことは何ですか?

 

伊東様

投資ファンドを作ってもらったことですね。そのおかげで今の私があるといえます。日本政策投資銀行の担当者の方がアジアの可能性、ベトナムの可能性を認識しておられて投資ファンド設立を応援してくれたことがうれしかったですね。

アセアンの他国、フィリピン、タイ、インドネシアにも投資活動を広げようとしていますが、中国や韓国が台頭してきており、必ずしも日本の企業と仕事をすることがアジア諸国の皆さんにとって良いことだと思ってもらえない雰囲気があり、アジアで仕事をする日本人や日本企業にとってなかなか難しい時代に突入しているような気がします。

 

高井

これまで大変だったことは何ですか?

 

伊東様

大変だったのは丸目さんが亡くなった時ですね。2012年。もう5年くらい前ですね。(※故丸目三雄様は20代で裸一貫インドネシアに渡り、貿易を手がけながらインドネシア、ベトナム、カンボジアの政府要人をはじめとする幅広いネットワークを築き上げ、日本の東南アジア外交におけるアドバイザーとしてご活躍された方で、株式会社ワールド・リンク・ジャパンを設立された方です。)私自身も2000年に脳梗塞をわずらって、丸目さんに拾われたのですが、二人で会社を立ち上げたあの頃が一番大変でしたね。その大変な時期にスクーナーの樋口さん親子に助けてもらいました。このことは一生忘れません。その恩返しがなかなかできていませんが。

 

高井

ベトナムに進出している日本企業はどれくらいありますか。一般的に、大体成功するのですか?

 

伊東様

正式に計算していませんが、少し前のホーチミンでは、商工会のメンバーで600社くらいでしたね。ハノイも同じぐらいあるのではないでしょうか。

安い労賃を活用して、ものを作って日本へ送る、もしくは東南アジアへ出す、一部をベトナム国内で販売する、というビジネスモデルはうまくいっているようですけど、ベトナム人を相手に国内で物を売る、サービスを提供する、というビジネスモデルは短期間に収益を上げることはまだ難しい段階かと思います。

 

高井

それはなぜですか?

 

伊東様

ベトナムの街並み日本企業は日本の製品レベル、サービスレベルをそのまま持ち込もうとします。中国や韓国の企業はベトナム人の生活レベル、技術レベルに合わせた製品やサービスを提供します。その点で日本企業は後れを取っています。

もう一つは商習慣ですね。ベトナムのビジネスの世界は何でもありで、日本でいえば戦後の闇市があった時代に似ていて商道徳といった概念がない世界ですから、例えば物を売るにしてもキックバックなしでは買ってもらえない、日本のように消費者が何を求めているかといったことには関心が全くないですね。

ベトナム資本のスーパーにいっても、ほとんど棚に並んでいるものは同じ商品ばかり、つまりスーパーの購買担当者にとって実入りの良い商品は棚に並ぶ、そこには消費者のことなど念頭にないということです。もっとも外国人専用のスーパーマーケットにいけば全世界の一流の食品は手に入ります。

そういうことで日本企業が自らベトナム国内の商売に手を出すことは難しいと思います。日本企業はコンプライアンス問題には敏感で厳しいですから。あと、日本の商品は良すぎて、技術のレベルも高く、値段も高いからベトナム人の社会とか生活レベルに合わないですね。例えば、ベトナムのテレビは韓流ドラマが毎日放送されています。それも3-4チャンネルと多い。一般的なベトナム人は韓国のほうが日本より素敵な国と映っている。製品も質が良くて安いと思っている。今、ホーチミンは綺麗なビルは建っているし、髙島屋やイオンにいくと人がいっぱいいるので、お金持ちがいっぱいいるように日本からの旅行者は思うようですが、金持ちは残念ながらほんの一部ですね。ベトナム人の大半はまだ昔からある町中の市場にいって安いものを買っていますよ。あとは、日本企業が失敗する要因は市場調査にお金も時間をかけないことですね。トップダウンでベトナム進出を決めて、そのあとにベトナムを知らない駐在員が現場に来ていざ仕事を始めると日本で聞いてきた話と全然違うことがわかる、というパターンが結構ありますね。

写真は「昔からある町並と、高層ビル(写真中央)が立ち並ぶホーチミンの街並み」

 

高井

伊東様がご存知の企業のなかで、成功しているところはどういう特色があるのでしょう。

 

伊東様

例えばインスタントラーメン等を作っている某食品メーカーはうまくいっているようですね。 日本だと3~4番手かと思いますが、ベトナムではシェア6割、日本の本社の3倍の売り上げ、3倍の利益があるようですよ。90年代半ばに進出して日本式で売ろうとして最初はうまくいかなかったようですが、ベトナムの素材にして値段をさげて、それでもまだまだでしたが、パパさんママさんショップの零細な個人商店に商品をただで置かせてもらって、売れたらお金を支払ってもらうという、富山の薬局方式にしたら急激に売れ始めたようですよ。あとは、某調味料関連メーカー、この人たちは他の開発途上国での経験がありますので非常に上手にベトナム国内市場に入り込めている。某自動車メーカーは世界を席巻する技術とブランドがあるので競争がほとんどない、競争するとすればベトナム人の購買能力だけですから自動車やオートバイという産業は別格ですね。

 

高井

人々のくらしは良くなりましたか?

 

伊東様

20年前にくらべたらはるかによくなっています。でも、相対的には所得格差が広がってきている。特に若い人々の間から、不満がでているのが心配ですね。あと共産党に入る人がいない。共産党はお爺さんお婆さんばかりで、自然消滅する可能性もありますね。政府もそれを心配してなんとか若者に魅力のある政策を打ち出して共産党離れを防ごうと努力を始めています。

 

高井

海外に留学する若者は多いですか?

 

伊東様

お金持ちの息子、娘はアメリカ、カナダ、シンガポールそしてオーストラリアに留学するのが多いですね。日本もかなり留学生が多くなってきているようですが、実態は出稼ぎ留学生であって、純粋な留学生はあまり増えていないような気がします。残念ながら、日本に留学しても米国に留学しなおすという事例がかなり多いです。たぶん、これは日本に留学しても日本企業に正社員として採用されるケースが極めて少なく、また、ベトナムに帰ってきても結局は英語ができないと良い就職先が見つからないからでしょう、日本企業は今でも現地採用の「使い捨て」的な雇い方で、高い経費のかかる日本人を相変わらずベトナムに送り込んでくるので、ベトナムの若者にとって日本企業への就職は必ずしも魅力的ではない、という事情があるように思います。

日本語を話すベトナム人は多くなりましたが、ベトナム人の若い人たちは地味なものづくりに対する取組姿勢がやや欠けている気がします。これは上の世代がそうだからなのかもしれませんけれども、金融やIT業界のような華やかな職業に憧れがあって、地道に油まみれになってものをつくることに生きがいを感じる若者が少ないです。それがベトナムの将来を考えた時に心配ですね。ベトナム人はものづくりに対する素質があると思うんですよね。日本、中国、朝鮮半島の人たちと同様にベトナム人は箸をつかう民族ですし、大乗仏教、儒教と日本と似たような文化が根付いていますから、他の東南アジアの国民と少し異なります。生来的にものづくりに向いている人々だと思うのですが、しかし手っ取り早く金持ちになりたいという気持ちが先行してITや金融に走りますね。

 

高井

ベトナムの今後の発展性はいかがですか?

 

伊東様

私がみてきてこの20年間ですごく進化しましたね。

基本的にベトナム人は植民地の経験があるから外国人を信用しません。その後のベトナム戦争、これはアメリカとの戦争ではなくて、北の人間と南の人間の戦いでした。だから未だにお互いに不信感があるので「信用経済」がなかなかうまれません。これは他のアジアでも同じような例はありますけど、タイの場合、植民地の経験もなく、深刻な民族対立の話もない、華僑がうまいことタイ族と同化しているので、今日のようにかなりの程度まで経済発展しました。しかし、最近、タイもマレーシアもこれ以上の経済発展は期待できない、つまり「中所得国の罠」にはまっている、と言われ始めています。日本は80%内需で生きている国ですが、タイもマレーシアも外需に依存しており、内需がなかなか大きくならない。つまり「信用経済」がなかなか膨らまないので商業が発展しないのです。

その点日本は幕末のころから信用経済が発展していて、東北の田舎から京都に出稼ぎにきて新選組に入隊した侍は、給与を京都の両替商から東北の実家に送金できていました。それは武士道と同じように石門心学、石田梅岩や鈴木正三らが唱えた、商人はつましく、真面目に正直に生きるという、「商人道」が根付いていたんですね。ヨーロッパでは資本主義が発達したのはプロテスタントの興隆と軌を一にしているといわれますが、しかし、残念ながら他のアジア諸国には「武士道」もなければ「商人道」も生まれなかった。経済活動の準備運動もないままにいきなり植民地にされてしまった。これはその後のアジア諸国の経済発展に大きな影を落としているように思います。日本のように8割を内需に依存している国はアジアには一つもないです。アセアン諸国がこれ以上の経済発展を望むならば内需をどのようにして大きくしていくかその仕組みを考えなければいつまでも外需に頼るような「植民地経済」から脱皮できない。もちろんベトナムにも同様なことが言えます。

 

高井

ベトナムの発展に影響を及ぼしているのは植民地が1つ、南北の対立が1つ、あと1つは何でしょうか?

 

伊東様

共産主義ですね。共産主義の亡霊が生きていて、できるだけ国民は平等にしようという意思が働き、伸びるところを抑えつけようとします。それでいて共産党や行政府の幹部の子弟をアメリカなどに留学に行かせて、ベトナムの教育レベルは低く抑えたままにしている、という矛盾がいろいろなところであります。今の首相や大臣クラスはまだ戦争を知っている世代ですが、戦争をしらない世代が次官クラスに就きはじめています。彼らが大臣になるころには、3つの亡霊(植民地支配の過去、南北の対立、共産主義)はかすんでしまい、新しいベトナムが生まれると期待しています。

 

高井

70歳になった伊東さんは今後どうされるのですか?

 

伊東様

社会主義の国は医療、教育、環境そして農業といった分野がとくに遅れている。ベトナムもそうです。日本はこれらの分野では先生になれるかなと思いますね。住環境についても、金持ちや外国人相手の高級マンションはたくさん作られますが、若者たちは一生かかっても家が持てないという現実に直面しています。日本の住宅公団や住宅金融公庫のような仕組みをベトナムに導入して、住宅事情を変えてみたいですね。

それと、ベトナム政府上層部では「日本との関係を1990年代のようにもっと緊密にしたい」という希望があります。中国や米国の動きをみているとベトナムは大きな流れの中に飲み込まれそうな気がしているのかもしれません。故渡辺美智雄さんがベトナムの門戸を開き日本のODAを再開しましたが、その時お手伝いしたのが先代社長の丸目さんと当時日商岩井に勤務していた私でした。その経験を生かしてもう一度日本とベトナムの緊密な関係作りに貢献できればと考えています。あとは会社の後継者を育てることですね。

ベトナムの川岸

写真は「ベトナムでお手軽なシクロ(自転車タクシー)」

以上

 

 

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