2016年8月のアーカイブ

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2016年7月31日(日)8:28 東京都千代田区五番町12にて百日紅を撮影
花言葉:「雄弁、愛嬌、不用意」

 

 

株式会社開倫塾
代表取締役社長 林 明夫

 

『「無用の用」(無の効用)を考える』

 

1.はじめに

高井伸夫先生がいつも口になさり、また、このブログの表題でもあるのが「無用の用」だ。そこで今回は「無用の用」について考える。

 

2.高井伸夫先生の愛読書、佐藤一斎著「言志四録」(全四巻)の第一巻「言志録」の「無用の用」は極めて示唆に富む。

 

『無用の用

1.

(1)世の中の物事は、自然のなりゆきでそうならざるを得ないものがある(皆、存在理由はあるのだ)。

(2)とかくすると、学問があると称する人は、あるいは人の行なう事を排斥し、「無用」物視する。

(3)そしてことに、「天下には無用の物もなければ、無用の事もない」ことを知らない。

(4)学人が排斥して、「無用」物視するものが、大いに役に立つことがある。

(5)もし、人間の衣食住に何ら役に立たないものは皆「無用」であると考えるならば、天の神は、なぜ「無用」の物を数多く作ったのだろう。

(6)用材にならない草木、食用にならない鳥獣や虫魚などがある。

(7)天が果して、如何なる用途を目してこれらのものを生ぜしめたのか、人間の考えが及ばない。

(8)易経に「あごのひげをのばして儀容を飾る」とある。

(9)其の鬚も何の役に立つものであろうか。

(10)我々はそう簡単に物を考えてはいけない。自然のなりゆきというものがあるのだ。

 

2.

(1)前条の理屈を人間の事に当てはめてみよう。

(2)一年中の仕事はさまざまであるが、これを算えてみれば十の中の七は「無用」である。

(3)ただ人は平和な時代にあって、心を寄せるところがないと、「大学」にいう「小人は閑居して不善をなす」ことも少なくない。

(4)今の世は、貴いも賤しいも、男も女も、「無用の用」が多くて、それに引きまわされて忙しく働いているから、悪い事をしようという気持の起こることが少ないのであろう。

(5)これも「無用の用」ということであろう。

(6)思うに、太平無事な世の中では、こうならざるを得ないのも、また、自然のなりゆきである。』

 

以上は、佐藤一斎著、川上正光全訳注「言志四録(一)全四巻」講談社学術文庫、講談社1978年8月10日刊、P128~131より引用

 

3.「老子」第11章、「無用の用(無の効用)」

佐藤一斎はおそらく「老子」第11章の「無用の用」から学び、「言志四録」を執筆したと思われる。

 

『無用の用(無の効用)

1.〔題意〕

(1)世人は形あるものの有用性は良く知っているが、形なきもの、空虚なるものの有用性を認識しているものは少ない。

(2)家の屋根・柱・床などは、人を居住せしめる室の空虚な部分を形づくるためのものである。

(3)ところが、それに気づいている者は少ない。

(4)かく空虚な部分が真に有用であることを説き、これより連想させて、無すなわち道の有用であることを読者に悟らしめようとするのがこの章の趣旨である。

(5)無の有用なるを説くという意味で、「無用」とこの章に題されているのは適切。

 

2.〔書き下し文〕

(1)三十の輻は一轂を共にす。

(2)其の無に當りて車の用有り。

(3)埴を挻して以て器を爲る。

(4)其の無に當りて器の用有り。

(5)戸牖を鑿ちて以て室を爲る。

(6)其の無に當りて室の用有り。

(7)故に有の以て利を爲すは、無の以て用を爲せばなり。

 

3.〔通釈〕

はじめに(道はその存在が知られない。いわば無の如きものであるが、その働きを譬えると次のようである。)

(1)車輪の三十本の輻(や)は一つの轂(こしき)の空虚な部分に集中している。

(2)その轂の空間部が軸を通しているからこそ始めて車輪はその働きをなすことが出来るのである。

(3)粘土をまるめて器を作る。

(4)その器は中の空間部があればこそ物を容れるという器の働きが果たされるのである。

(5)また戸や窓をあけて室を作るが、

(6)室というものは人を容れる空間部があればこそ室としての働きをなすことが出来るのである。

(7)このような訳であるから、有すなわち存在するものが人々に利をもたらすのは、無すなわち存在しないもの隠れたるものが働きをなすからである。

おわりに(道あればこそ万物の働きも可能であり有用となってくるのである。)

 

4.〔語釈〕

(1)三十輻「輻」は車輪の矢。河上公注によると、昔は月の日数に法(のっと)って車輪には三十本の輻を用いたという。

(2)共一轂「共」は同じくするの意。「轂(こしき)」は車輪の中心にあって軸(じく)を通し、輻を集めている部分。

(3)挻埴「埴」は粘土。

 

5.〔余説〕

(1)老子や荘子には普通人の考えも及ばない物の見方や考え方が随所に見られる。

(2)この章の如きはその良い一例である。

(3)道という虚無なものの存在を、一般世人は普通意識していない。

(4)それに対して、実はこれこそ最も尊いもの有用なものであるとして、器や室の例を取って合点させる。

(5)その譬喩の巧みさ、着想の奇抜さは、ちょっと他に類を見いだせない。

(6)油絵の如く、画面一杯に絵の具を塗りつけ、いささかの余白をも残さない洋画に対して、中国の絵画は古来主材を簡潔に描くのみに留めて、余白を生かすことに苦心が払われていると聞く。

(7)こういう、いわゆる「無の芸術」の思想根拠も、かような老荘の「無の効用」の思想に由来するのではあるまいか。』

 

以上は、阿部吉雄・山本敏夫著「新釈漢文大系、第7巻、老子」明治書院1966年10月30日刊、P27~29より引用。

 

4.

(1)このように、言志四録を川上正光全訳注の講談社学術文庫で、「老子」を阿部吉雄・山本敏夫著の明治書院の新釈漢文大系でお読みになると、なぜ高井伸夫先生が「無用の用」の大切さを人々に訴えておられるのかがよくわかると思います。

(2)後者は極めて詳細でこの上なくわかりやすい作品ですが、少し高価なので、図書館で御覧頂くか、蜂屋邦夫訳注の「老子」ワイド版岩波文庫、岩波書店2012年4月17日刊でお読みになることをお勧めいたします。

 

5.最後に一言

(1)高井伸夫先生の素晴らしさは、佐藤一斎の「言志四録」はじめ様々な古典に絶えず親しまれ、現代社会に最も必要なテーマを、古典のことばを通して示されることにあります。

(2)高井先生は、「四書」、つまり「論語」「孟子」「大学」「中庸」など儒教だけでなく、「老子」など道教の考えにも精通し、人生にとり、また、リーダーを目指す人々にとり何が大切かを優しく示してくださいます。

(3)論語や孟子も大切ですが、「無用の用」、「無の効用」など道教はその教えの中で最も現代が必要とするものと確信します。

(4)最大の問題は、「言志四録」のような日本の古典や「老子」のような中国の古典を読み込むことなくリーダーを目指す人々が余りにも多いということです。

(5)日本や中国の古典の深い理解ほど役に立つ勉強はありませんので、今からでも大いに学んで参りましょう。

 

2016年8月24日(水) 

 

 

開倫塾のホームページ(www.kairin.co.jp)に林明夫のページがあります。

毎週、数回更新中です。

お時間のあるときに、是非、御高覧ください。


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2016年7月16日(土)7:27 中目黒公園にて韮を撮影
花言葉:「多幸、星への願い」 

 

 

第11回 管理監督者問題の本質(3)
(2008年7月28日転載)

 

 

前回、大井方子氏の論文「数字で見る管理職像の変化」を引用したように、スタッフ職の数はいわゆる管理監督者の数よりはるかに多い。ところが、スタッフ職を管理監督者並みに扱うべきであるという解釈は、行政通達(昭63・3・14基発150号)があるのみで、法文上の根拠はない。言わば鵺(ぬえ)的な存在であると言ってよい。

これを直視し法律上どのように扱うべきかを考えることが、管理監督者問題の改革への出発点となるのである。スタッフ職と同心円上のものとして専門職概念があるが、それは今日的に「プロ人材」と呼ばれている。スタッフ職の論を進めるにあたり、企業における「プロ人材」の増加および需要の高まりについて、まずは論ずる。

 

経営者を動かす役割も

「プロ人材」とは、並みの一般人には到達し得ないひときわ優れた専門的能力・技術を身につけた者を指す。その域を目指す並みの人材は大勢いるが、真のプロ人材は実際問題として極めて少数の人間に限られる。スタッフ職との関連で言っても、スタッフ職の中でプロ人材と呼べるものは極く僅かにすぎない。

このような有能な人材を輩出するためには、企業は候補者としての人材を多数擁していなければならない。真のプロ人材は、まさに時間を超越した自己啓発・切磋琢磨の中から生まれるのが真実だからである。しかし、有効な組織体を構成するための人員確保の必要性から、企業はプロ人材たらんとする中程度レベルの人材をも数多く抱え込む必要がある。

リクルートワークス研究所の「ワーキングパーソン調査2004」をもとに、リクルート社はプロフェッショナル人材の規模推計を行っている。推計によれば、言わば「自称」も含めたプロ人材は2002年において合計568万人で、その比率は雇用者の11.6%を占め、産業別ではサービス業が最も多く、プロ人材の約4割の(216万人)に及ぶ。そしてビジネス・プロフェッショナル(=ホワイトカラー系プロフェッショナル)人材は380万人でプロ人材の67%を占める。2015年には、プロ人材は612万人と2002年より44万人増加し、割合は12.6%に上昇すると予測されている。

サービス経済化・ソフト経済化・グローバル化・産業の高度化・競争の激化等に伴って、ますますプロフェッショナルな人材が産業界から渇望されることがこの調査から分かる。これまでは専門的職業人とは医師・弁護士のような特別な資格を有し専門知識を駆使して仕事をする者を指すのが一般であったが、今では特に資格が要求されないビジネスの世界でもプロ人材が要求され、一部がスタッフ職として活躍するようになった。

ところで、スタッフ(staff)とは元々は軍用語であり、staffには参謀・幕僚という語訳があてられている。軍における参謀とは、自らは上司部下のラインから外れ指揮官の補佐をするstaffであり指揮官にのみ責任を負う。参謀もスタッフ職も、上役になり代わり戦略構築や行動計画等の立案をして貢献するという点では、組織において同様の役割を担っている。しかし、企業におけるスタッフ職は、助言のみならず、それぞれの役割に伴う機能を果たす責任をも担う点で、軍の参謀より幅広い概念と言えよう。

高度情報化・グローバル化・競争激化等が甚だしく進行する今の社会では、現場からの情報がこれまでより遥かに重要になっているので、企業経営には参謀、参謀補佐、そしてその補佐…等々の役割が必要になり、スタッフ職が増えてきているという実態があると言ってよい。

フットワークの時代にはヘッドワークやハートワークの機能等を重視する必要がなかったから、経営は経営者の専門領域であり、その意を受けた経営補助者としての管理監督者が多数の一般社員を統率し社員を単一的な価値観で労働せしめていた。

ところが、ヘッドワークそしてハートワークの時代には、経営者は、個々の従業員がハートワーク等を十分に発揮しながら職業倫理・企業理念に叶う言動を自ずと取るような状況・環境を創り出し、社員それぞれの個性を活かした「考え方・思い方・感じ方」を発揮させることこそが重要になってくる。したがって、経営者のリーダシップ・マネジメント力は労働者を拘束する方向ではなく、労働者に個性を発揮させる方向に向けて、ハートワークがよく機能する「多様性が尊ばれる世界」にしていかなければならないのである。その結果として、経営者個人の発想による経営判断の重みはフットワークの時代に比べて相対的に低下するが、その結果、トップダウン方式ではなく、末端社員個々人の自律的な活動を一体化してこそ、企業としての体を成すことになる。

そして従来は経営者に強く求められていた具体的な指示命令が次第に抽象化され、より幅広く従業員にも自律的・自覚的な言動が求められるため、このプロセスにおいて、経営者を動かすスタッフ職が重要視される。かくして、スタッフ職にはその資質や発想や言動において経営者的かつ事業家的感覚を有し、逞しく新しいアイデアを産み出す人材が求められるのであり、企業はそうした人材が多ければ多いほど活性化し、競争に勝ち抜いていけることになる。

経営者はそうした人材を見出す“目利き”でなければならない。と同時に、スタッフ職の成果を的確に取捨選択するために、彼ら個々の様々な思いや意見をも洞察する能力と包容力ある姿勢が求められるのである。

 

立法的解決以外になし

スタッフ職の急増という背景で、今の社会では労働基準法の管理監督者の規定では如何ともし難くなっているが、それにも拘らず、学者はもとより弁護士もまた判例もスタッフ職について詳しく論じていない。スタッフ職の問題は、立法的に解釈する以外に道はない。

従来の企業組織はピラミッド型で、一定の上位層にある者は管理監督の役割を担うという認識があった。しかし、組織そのものがフラット化し、またグローバル化してきたことで、会社の機能スパンも広がりトップ以外の経営者もスタッフ(staff)化した。即ち、経営者は、現場に下りて独自の発想をすることを行動の基盤にしなければならなくなったのである。この状況下では一握りの経営者だけでは、多種多様な情報を集めそれを解析するというのが実質的に不可能になってきている。それが執行役員(スタッフオフィサー職)の存在理由でもあろう。

スタッフ職のようにマネジメントに関与せず、経営につながる職務に専念する役割の者を、今の労基法は全く想定していない。用語はともかく、「経営者」・「スタッフオフィサー職(上位のスタッフ職)」・「スタッフ職(一般のスタッフ職)」・「管理監督者」・「一般職」等々という区分で、法律を再構築して規定しなおすことを、具体的一案として提言するものである。

 

 

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2016年7月16日(土)7:22 中目黒公園にてクロコスミアを撮影
花言葉:「楽しい思い出、陽気」

 

 

第10回 管理監督者問題の本質(2)
(2008年7月21日転載) 

 

 

スタッフ職増加の背景

労働基準法が制定されたのは、今から60年も前の1947年(昭和22年)のことである。したがって、元々は当時主流であった肉体労働・フットワークを前提とする価値観に基づく規定であったことは言うまでもない。そのため、時代の変化に応じた度重なる法改正も弥縫策に過ぎず、フットワークからヘッドワークへ、そしてハートワークへと激しく移行していた産業社会・社会の質的変化(例えば製造業の著しい衰退)に対応しきれなかったというのが実情であり、事態と法理との乖離は必然の結果である。

このことは、管理監督者問題についても同様である。元来、労基法41条2号が労働時間規制の適用除外者として定める管理監督者は、ライン管理職が想定されていたが、事業構造の変化および事業内容の高度化・専門化に伴って、今では本社の企画・調査等に携わるいわゆる「スタッフ職」「スタッフ管理職」が急増してきていることは、周知のとおりである。

こうした変化に対応して、スタッフ職でも処遇如何で同規定の該当者である旨の行政通達をやむなく出さざるを得なくなっている(昭63・3・14基発150号)。

スタッフ職の問題は、特に自律的な労働時間制度(いわゆるホワイトカラー・エグゼンプション)につながる重要な議論であるが、この通達をめぐっての裁判例は今のところ見受けられない。ここに、スタッフ職に関する考察を展開したい。

いささか古い数字になるが、1979年から2004年にかけての期間、わが国におけるライン管理職の人数はほぼ50万人と一定であったが、スタッフ職を含む広義の管理職の人数は同じ期間で1・5倍増え、340万人に達したという(大井方子氏「数字で見る管理職の変化」『日本労働研究雑誌』2005年12月№545掲載)。

こうしたスタッフ職の増加は、実際には、ホワイトカラー人口および高学歴者数の増加やIT等の発達に伴う仕事内容の激変によって、管理職ポストが総じて不足してきたという背景があった(総務省統計局「労働局調査」、厚生労働省白書「労働経済の分析」昭和56年版ほか参照)。

つまり、人数に比して管理職ポストが減少したとしても、企業は雇用に当たり従業員に対して年齢にふさわしい処遇をせざるを得ない実際上の大きな要請もあって、30~40歳でも平社員のまま留まらせると社会的評価が極端に下がり、その結果働きがいを失わせることになる。このため管理監督者のみならずスタッフ職の著しい乱造の必要性が生まれ、真にそれらに相応しい者に限らず管理監督者の扱いをしていかなければならなくなったのである。

その結果、当然のことながら管理監督者等の賃金の低下をもたらした。石を投げれば全てがスタッフ職も含めたいわゆる管理監督者であるというような企業組織も存在するが、それにはこうした背景があると言ってよい。

これは平等社会の帰結でもあるし、そうしてこそ企業にとっては、生きがい・働きがいを見つける労務管理の真の目的を実現することができる。

こうした実情はあったが、ますます進行する業務の専門化に対応するために、スタッフ職を名実ともに充実させなければ企業の存続・発展はあり得ないという厳然たる事実が、スタッフ職の肥大化が進行してきたことの主要な理由である。

 

構造変化と「心の時代」

業務が専門化する中では、企業は、「専門職概念」を通常の管理監督者に比してより上位の概念として構想・構築しなければ、優秀人材を集めることはできず、企業としての生命すら失われてしまう。そして、この専門職は、単に人を管理監督する能力に長けた能力だけでは不十分で、本人が現場に身を置き現場の情報を収集したうえで、これに応え得る専門知識と技能に長けたプレーイング・マネージャーでなければならなくなったのである。

前回紹介したように、P・F・ドラッカーは管理監督者の備えるべき重要な要素として「人間としての真摯さ」と「教育的役割」を指摘したが、これはライン管理職を念頭に置くものであった。とすれば、スタッフ職には、この教育的役割を超越する“プロフェッショナルとしてのスキル”“専門知識・専門技能”が求められることになるのは当然のことである。

フットワークを中心とする産業が基軸であった時代にできた労働基準法は、ヘッドワークの時代に移り産業構造と相容れない法律になったが、ハートワークの時代にはこの乖離はいよいよ甚だしくなる。

ヘッドワークの時代には頭脳労働・ソフト産業が中心となり、研究・開発・企画等の仕事が重視されてきた。その結果として、労働時間制は「みなし労働時間制」や「裁量労働制」という新しい法制度を弥縫策として作らざるを得なくなった。

そして、社会のIT化・ソフト化により個々人の考える・思う・感ずる能力が重要になるがゆえに、人間としての自立と成長が求められ、その行き着く結果として、「ハート化」「心の時代」が招来・到来するのである。

そして、この「ハート化」の目標は「真・善・美」「人間としての良心」等々の世界にあるから、個々人が良心に目覚め、善意で気働きをし、それらを通じて成長への希求を一層強く求めることが、企業経営の根幹を支える要素となるのである。

 

確立されない評価基準

実は、企業においては既にこれらを念頭に置く組織が芽生え始めたどころか急速に成長し続けている。例えば、コンプライアンス部門の設立、職業倫理・企業倫理の重視を実現する組織、さらには企業による社会貢献・顧客満足度の向上を目指す組織の組成等々、それぞれの部署・担当者の定着等である。

さらに、人材競争・人材難の時代を迎えて、持てる人材の成長に大きな責任を課せられる人材開発部も企業において重要な地位を占めつつある。

ヘッドワークの所産は才能・能力によるが、その才能・能力は偏差値等その他諸々の測定概念でかなり明確になり得るが、ハートワークはその能力格差を捉える基準がなく、それを基盤にした確固たる評価基準が未だに確立されていない。つまり、ハートワーク時代には、心の在り方・持ち様という流動的で絶えざる変化に的確に対応できる能力、即ち捉え難い人間性を前提とするものなのである。

スタッフ職に求められる専門職としての能力も、まさにこうした社会と産業構造の変化に応じて変容し、需要が高まると言ってよいが、そこでは労働時間の長さ如何によって能力と成果の良し悪しを測定する基準とすることが、決定的にできなくなっているのである。

 

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上から時計回りに
2016年7月10日(日)7:34 中目黒公園にて芍薬を撮影 花言葉:「恥じらい、謙遜」
2016年7月16日(土)11:10 パソナビルにてベゴニアを撮影 花言葉:「片思い、親切」
同日時同場所にてペチュニアを撮影 花言葉:「心の安らぎ」 

 

 

第12回「知性・考えぬく」
(平成27年12月28日より転載) 

 


「初めに言葉ありき。言葉は神とともにあった。言葉は神であった」―新約聖書にある有名な辞句である。宗教的意味は分からないが、言葉こそが相手に想いを伝え得る道具であり最大の武器であると、諭しているように感じられる。私たちは、言葉なしには決して考えることはできない。哲学者パスカルは、「考えが人間の偉大さを作る」「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかでも最も弱いものである。…だが、それは考える葦である」などと述べ、考えることの重要性を説いた。私たちは言葉によって考え、思索を深め論理を構築し、議論を重ねることができるのである。

 

先日、「AI(人工知能)の発達により弁護士の仕事も代替されるようになるか?」と問われたとき、私は「情報処理能力では凌駕されていくが、AIは考え“ぬく”ことはできない。その意味で弁護士の仕事をAIが完全に行うことはできない」と答えた。これはすべての職業に当てはまることであり、これからは考えぬく力を持ち、秀でた成果を出せる者しか生き残れない。樹木が栄養を得ながら成長するのと同様に、人間も考え続け、考え尽くすことで頭脳に栄養を得て、いろいろな知恵が生まれ、花が咲き、実がなるのである。

 

私がなぜ「考えぬく」というテーマに関心を持ったかといえば、マスメディアで「反知性主義」という言葉を度々目にしたことによる。おそらくこれは、知性を振りかざして行動の伴わない人々を揶揄した表現であろう。しかし考えぬいた末に得られる知性を身に付けることは、人間によって極めて重要な所為である。努力を重ね知性という実を得た者だけが、知性主義の弊害を論ずる資格がある、と思うのは私だけではないだろう。

 

知性の第1ステージは、徹底的な準備と調査に始まる。方向性を定め、物事を客観的に証明し実証するための裏付け資料を、収集する。多くの書物や資料にあたるだけでなく、各方面の賢者たちに教えを乞い、その知見を素直に学ぶことにより、多様な角度から考えをめぐらせることが可能になる。

 

第2ステージでは、自分の考えを文章化し、ひとつのテーマについて考えぬいて論考をまとめる。文章にすることで思考が固まり、次なる発想の土台となる。本質に迫る努力が肝要であり、大義名分、想定問答、さらには討論技術をも念頭に置く。反論内容をも考えぬいて、考え方・思い方・感じ方を統一し強固にする過程は、まさに知性の塊であろう。

 

第3ステージでは、身に付けた知恵・知性を常に見直し、スピード感と時代の流れを意識した自己革新を重ね続ける。

 

ただ、こうしたプロセスによって考えぬくことを旨とする知性主義には、主に2つの欠陥がある。ひとつは思考を重視するあまり、大胆さを失い慎重になりすぎることで、もうひとつは考えぬくことに没頭しすぎて脳に緊張の連続を強いて疲労させると、メンタルヘルスに不調を来すおそれがあることである。適度な休憩・休暇・休日・休養を取り、リフレッシュしなければ、健全な知性は育まれない。

 

孔子は、「中庸の徳たるや、其れ至れるかな」(どちらにも片寄らない中庸の道は徳目の最高指標である)といった。それほどに物事のバランスをとるのは難しい。人事労務の分野においても、考えぬく能力のある優秀な人材が心の健康を害さないよう、緩急のバランスを取る配慮が何より求められる。

 

 

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