2016年4月のアーカイブ

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2016年4月9日(土)14:19 初狩PAにてシャガを撮影
花言葉:「反抗、友人が多い」



株式会社開倫塾
代表取締役 林 明夫

 

「数少ない統一ある刺激は、数多い散漫な刺激に勝る」

 

1.

(1)「企業は、原則、倒産。昨日のように今日があり、今日のように明日があると考える企業に、明後日は来ない。」

(2)この「企業は原則倒産」の高井先生のお教えに、勝るとも劣らないほど重要な高井先生のお教えが、「数少ない統一ある刺激は、数多い散漫な刺激に勝る」のお教えだ。

 

2.

(1)企業を取り巻く経営環境は、毎日毎日、目まぐるしく激しく動き続ける。

(2)テロや、原油価格の変動、株式相場や為替相場の変動に加え、熊本や大分の大地震のような大きな自然災害に見舞われることも多い。

(3)ほぼ完璧と思われていた自社の生産・販売体制も、製品の開発段階での検査担当者の手抜きでリコールや販売中止に襲われる。

(4)海外での営業担当者の同業他社との談合は、場合によっては100億円単位での課徴金で、会社全体の経常利益を吹き飛ばし赤字転落させる。担当者や監督責任者は数年間収監され、人生に汚点を残すと同時に、企業イメージを著しく失墜させるに至る。

 

3.

(1)今やらねばならないことを明確に決定し、優先順位を明確につけながら粛々と行動し続けるのが、経営最高責任者の役割だ。

(2)この時に大切なのは、目の前に生起する様々な経営課題にいちいち反応し、その場の思い付きで様々な指示命令を出し続けないことだ。

(3)明確な方針を決定し、関係する誰もが耳にした瞬間に理解できる物事の本質をわかりやすい表現で「ズバッ」と示すことだ。

 

4.

(1)あれもこれもと、次から次へと目まぐるしく出される指示ほど、現場を混乱させ、社員や経営幹部のやる気を阻害するものはない。トップの混乱が、売り上げ阻害要因にもなりかねない。

(2)これが「数少ない統一ある刺激は、数多い散漫な刺激に勝る」という高井先生のお教えの経営戦略的な意味だと私は考える。

(3)では、この「数少ない統一ある刺激」はどのように生み出せばよいのか。経営者としての感性をどのように練磨したらよいのか。

 

5.

(1)高井先生ほど、新しく生じるありとあらゆることへの強い関心をお持ちの方はいない。高井先生にお会いするたびに聞かれるのは、「何か新しいことはないかね、新しいニュースはないかね」というご質問だ。参考になると思ったことは、いちいち確認を取りながら、その場でメモをなさる。

(2)同時に、高井先生ほど、一度これと決めた評価の基準に基づき物事を判断なさる方はいない。景況の判断をするには人の動きがどうなっているかを知ることが重要で、そのために「タクシーの乗車率」を毎月ご覧になっておられたのも高井先生だ。

(3)新聞報道の基本に調査報道という手法があるが、高井先生の情報収集は新聞記者の調査報道そのものだ。真実は何かを自分の目で見、確かめ、物事の本質に迫る。メモをし続け、データを収集し、その結論を一言で言い表す。これが「数少ない統一ある刺激」を生み出す源泉だ。

 

6.

(1)高井先生ほど、美しいものをこよなく愛する方はいない。

(2)絵画、植物、小説、エッセイなどの美しい芸術作品、自然、文学作品は、感性を豊かにし、言語を研ぎ澄ます。

(3)特に、歴史小説や、日本や中国の古典を読み、親しむことは「数少ない統一ある刺激」を生み出すのに不可欠だ。

 

7.

(1)最後に、「あれもこれも」の「数多い散漫な刺激」を出し続けることに陥ることなく、物事に優先順位をつけるのに最も役に立つのが、高井先生おすすめの「想定問答集」だ。

(2)ありとあらゆる場合を想定し、最悪の事態に備えるときに最も役に立つのが「想定問答集」で、この作成は、法律の実務家だけではなく、経営者の基本動作でもある。

(3)私は、慶應義塾大学法学部法律学科2年生の時に、法思想史のゼミで、当時学部長をしていた峯村光郎先生から「法律を学ぶ法学徒は、いつも最悪の場合を予想して行動するように」と言われ続けた。

(4)弁護士をしながら司法試験の受験生を森圭司というペンネームで指導していた弟の故林俊夫も、いつも詳細極まる想定問答集を作成していたことを思い出す。

(5)この想定問答集こそが、高井先生が教えてくださった「数少ない統一ある刺激」を生み出すのに最も役に立つものの一つかもしれない。

 

以上、ご参考まで。

 

2016年4月26日(火)香港で記す

 

 

開倫塾のホームページ(www.kairin.co.jp)に林明夫のページがあります。

毎週、数回更新中です。

お時間のあるときに、是非、御高覧ください。

 

 

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2016年4月9日(土)14:19 長野県旧開智学校にて桜を撮影


 


第2回 格差問題の根本原因(下)
(2007年9月24日転載)


 

 

矛盾・軋轢を乗越えて

前号で指摘したとおり、自由主義社会はもち論およそどのような社会であっても、程度の差こそあれ「格差」は必ず存在する。そして、企業内における格差は、人の集団=組織につきものである矛盾・軋轢・相克・葛藤等を生み出す大きな要因となる。企業経営にとっては、これら“きしみ”を乗り越えて、いかに従業員全体に一体感を醸成し、企業理念・事業目的の実現に邁進する態勢を築くかが、人事労務上はもち論経営の最大のテーマであると言ってよい。それゆえ、企業は内なる「格差問題」に十分に意を用い、企業活力を削ぐような分裂を回避するシステムを構築しなければならないのである。

 

そこで、個々の「格差」の存在を前提とした上で、企業が活力を持ち続ける方策を探っていきたい。

 

企業組織の一体化を図るには、①「競争的解決」と②「協調的解決」という2つの対照的な選択肢がある。従来の日本企業の人事労務は、協調的解決を旨としてきた。その行き過ぎた現象が、年功序列主義やいわゆる護送船団方式である。これらは「協調」を重視する余り、競争を阻むこと自体をも目的化してしまい、組織に“ぬるま湯”状態を作り、日本社会の衰退の根本原因ともなった。その反動として、90年代半ば頃から、成果主義に代表される「競争的解決」が企業に導入されるようになった。成果主義は、個としての従業員らに仕事の成果を競わせ、積極的に格差をつけることで組織を活性化し、一体化を進めようとした。

 

しかし、企業活動には、従業員らが統一的意思のもとに団結して勝ち抜くことが必須であって、これは競争的解決である成果主義と必ずしも両立しない。組織が窮地に陥ったときに、「打って一丸となりこの難局を乗り切ろう!」と呼びかける経営者の言葉にこそ、企業の本質がある。つまり、「様ざまな対立の中で、肯定点を見出して前進し続けることが、新しい舞台に到達するための原点である」としたヘーゲルの言葉のように、競争的解決をとっても、結局は協調的解決を図らなければならないのだ。協調的解決を旨とした人事労務が破綻した今日、これからは競争的解決をも期さなければならないことは時代の必然であるとしても、双方の両立を目指す仕組みを実現しなければならない点に、特別の難しさがある。

 

その見直しのヒントは、日本の社会でかねて意識され発展してきた「どう道」の精神にあるように思う。武士道、柔道、剣道、華道、茶道等々に倣い、物事の在り方の本道を追究する姿勢を、企業における全ての分野に確立していくのである。この「どう道」という発想は、同質的かつ協調的な「和」を尊ぶ社会・組織に身を置きながらも、人間の成長の根源である「向上心」を存分に発揮させるための装置であると言える。そこには、同調性の中で道を究めるために技と精神性を磨き、他社とも競い切磋琢磨する姿がある。「どう道」とは、言わば「協調」と「競争」とが高次元で結ばれ一体となった世界である。そしてこの考え方は、競争的解決を旨とする現代社会でも十分通用するのである。企業においては、確固たる企業理念こそが、競争と協調を両立させる触媒となるであろう。

 

教育行政の無策が響く

さらに、いかなる職種・企業であれ、従業員各人に仕事に対する「誇り」と「志」を確立させなければならない。かつての日本人は、どのような職種に従事しようとも、自分の役割を立派に果たすことで企業や社会が成り立っているという誇りを持ち、自己実現していた。最澄の「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」という思想が、無意識のうちに人々の行動規範に取り込まれていたのである。ところが今は、「誇り」や「志」は失われ、仕事を遂行する態度にも「その場しのぎ」「事なかれ」「成り行き任せ」の姿勢が蔓延している。

 

フリーターやニートと呼ばれる層が増えたのは、仕事に対する誇りを教えずに放置したわが国の教育行政の無策の結果であるといってよい。幼少期から、「一隅を照らす」の思想を実践し、仕事に対する誇りを持たせることこそが教育の原点であり、そうした教育カリキュラムを実施することが、絶対的に必要なのである。

 

また、マニュアル経営やシステム経営に偏った日本の企業研修の方法では、矛盾発券能力はもち論、問題発見能力・問題解決能力・実行力がない人物ばかりが生まれる。これは、「どう道」のレベルとは程遠い。それぞれの従業員に誇りと志を育成するとともに、それぞれの独自性と総体としての企業文化を育成していかなければ格差問題は到底解決できないであろう。

 

個々の能力に応じて格差が生じるのは当然であることは、「公平・公正な評価」の重要性が一層高まることを意味する。「公平」とは企業内の秩序として適切であるということであり、「公正」とは社会的秩序において合理性を失わないということである。もし評価が正しく行われないのであれば、格差に対する怨嗟の念が生じて、従業員らはやる気・意欲を失うであろう。これまでの日本は、年齢や勤続年数という安易な基準を用いて納得感を得ようとしてきた。しかし、グローバル化が進み、知的労働の比重が高まるにつれて、年功序列的な基準は日本の発展を妨げる問題として認識されてきている。

 

では、評価の在り方を再分析し、公平かつ公正な評価システムを構築するためにはどうすればよいのか。それには、①まず評価は主観であると割り切り、客観的な評価など有り得ないということを明確に意識する。②そのうえで、その主観が恣意に亘らない公平・公正なものであるための方途を考える。主観から恣意性を排除し、判断の公平さ・公正さを担保するためには、司法制度が大いに参考になるだろう。ⅰ「法治主義」に倣い、「就業規則」等の規定類の内容を整備し、遵守する、ⅱ裁判の「合議制」に倣い、複数の人間が評価を行う制度にする、ⅲ裁判の「三審制」に倣い、不服申し立ての制度を作る、ⅳ裁判の「公開原則」に倣い、評価の透明性を確保する。

 

こうした工夫によって公平・公正な評価が得られれば、格差があってもそれを納得して受け容れ、働き甲斐・生き甲斐を感じながら、より生き生きと働くことができるのである。また、評価を通じて仕事に対する誇りや自分の技能・技術に対する独自性や優位性を確立していくことは、個人の努力のみに依拠してはならない。企業内でも、キャリア教育を熱心に実践して、職業人としての誇りや、これを支える独自の企業文化を形成するために、仕事の上(on the job)で教え込む必要がある。企業経営に携わる者は、「教育」と「評価」に時間を割き、費用と手間を惜しまないことが従来以上に重大なテーマであるという意識を持つ必要がある。

 

競争的解決か協調的解決かということに始まり、職業に対する誇りと技能と技術を究める「どう道」の視点や、評価の問題、キャリア教育の重要性について述べてきたが、これらの精神を貫徹することを通じて、格差問題を克服できる方途が初めて緒につくことになるだろう。

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2016年3月27日(日)9:56 千葉県香取市佐原にてクリスマスローズを撮影
花言葉:「追憶、慰め」

 

 

 

第1回 格差問題の根本原因(上)
(2007年9月17日より転載) 

 

 

 

結婚の自由がある限り

ワーキングプアという新しい社会問題やこれまでは馴染みの薄かった「ジニ係数」なる専門用語がマスコミを賑わすなど、先進諸国のみならずわが国でも所得格差・教育格差・医療格差・情報格差・地域格差等をめぐる議論が盛んになってきた。その中には格差是正の必要性を強く唱える論調もあるが、格差とはそれほど忌避すべき現象なのか。今の議論は感情論に偏っていないか。そして、格差問題の本質とは何か。これらについて、小生なりの視点から2回にわたり問題提起を試みたい。

 

誤解を恐れずに言えば、結婚の自由がある限り、格差は絶対になくならないというのが小生の持論である。性の結合において絶対的選別(自由)を許容する社会では、格差は拡大するのみである。憲法24条1項は「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」と定め、また民法の婚姻に関する規定もこの趣旨を前提とするものである。そして、これはおよそ現代国家の常識となっている。

 

しかし、結婚とは人間の社会的営みであると同時に、DNAの追求という生物学的な意味に本質があることは否定できない。したがって、優秀な者同士が結婚すれば優秀な子孫が生まれ、結婚と次世代の育成を通じて格差は拡大再生産されていく傾向がある。DNAの重要性は、競走馬や盲導犬等、特別な能力を求められる動物を見れば歴然としている。一夫一婦制の婚姻形式が確立した今日では、格差は必然的な現象であると言ってよいのである。生殖の相手を自由に選別できる限り、より質の高い相手を伴侶にしたいと願う人間の本能的な向上心と相俟って、格差の拡大は決定的となる。そして、その格差は、さらに次世代の教育格差等へとつながっていくのである。

 

結婚問題に加えてさらに身分関係における格差を拡大させるのは、相続問題である。相続によって親から受け継ぐ資産の有無で格差が生じる法律制度は、格差を当然視しなければならない基盤であろう。相続税率を高くすれば格差はある程度緩和されるかもしれないが、それでは努力して財産を築こうとする人間のやる気を失わせ、チャレンジ精神を減退させることに気を配る必要がある。

 

拡大しつつある能力差

結婚と相続が格差を生み出す社会的仕組みであることに加えて、格差を増幅させていく根本原因は、人間としての自立心・向上心の有無に他ならない。向上心には競争心が内在するものであるから、この自立心・向上心を目的に向かって強く発揮する者のみが困難を乗り越えて成功を勝ち獲る。格差拡大はもはや紛れもない事実であり、自由主義社会における必然である。格差問題は、是非論ではなくこうした事実認識から始めなければならない。そのうえで国として企業として個々人として、どのような対策を講じるべきか十分に検討することが必要なのである。

 

格差現象は何も今突然に始まったことではない。人間の文明は、「フットワーク」(足)から「ヘッドワーク」(頭脳)へ、そして更に「ハートワーク」(心)へという過程を辿ってきており、この価値基準の変遷は、まさに個々人の能力差や資質の格差を拡大させる方向での移行であると言える。人間の機能の中では、その進化の前身であった動物としての”四本足の時代”から備わる原始的機能=「足腰」が最もよく発達しており、その次は前足が進化した「手」、その次は直立することによって発達した「頭脳」である。

 

こうした発達の順序から見て、「頭脳」は強靭さという点において他の機能と比べて未熟で、発達の伸びしろが大きい機能であると言える。そうであるがゆえに、頭脳が未熟でない者と未熟である者の格差は、「足腰」や「手」の使い方レベルとは比較できないほど甚大になるのである。これが「心」のレベルとなれば、心は頭脳以上に未発達であるがゆえに、もたらされる格差は測り知れず、心の時代・ハートの時代になってくると、人間の格差はいよいよ如何ともし難いほど拡大する。

 

上質な人との上質でない人との差は量的な格差ではなく、まさに、”神に近い存在”と”動物的な存在”との違いとも言うべき”質的格差”として意識されるからである。格差は人間の向上心の産物であるがゆえに不可避であり、これはハートワークの時代になればなおさらのことであって、より神に近い存在が尊ばれ、またそれが社会的に尊敬され、人間の高尚さへの憧れは限りないものになっていく。そして、経済的な格差も、人間としての高尚さによって一層増幅されるようになるであろう。

 

現在は主にヘッドワークの時代であり「頭脳」の働きという価値基準によって格差が生じているが、来るべきハートの時代には、上質な個人・企業等がますます尊ばれ、そこに富が集中することになるからである。こうした厳しい現実を踏まえて、個人も個別企業も、独自性と独創性を以って成長していかなければならないが、これはまさにハート(良心・善意・成長への意欲)の機能をいかに発揮するかにかかっている。

 

自分を見限り絶望感も

今後も格差は拡大し続ける。それはハート・心のレベルの違いは各人間で極めて著しいからである。その格差に打ちひしがれて希望を持てなくなり、自分を見限り絶望感を抱く者すらいる。そうなると人間としての存在意義も失いかねない事態となり、ここに国としての「底上げ策」が必要となってくる。格差を是認せざるを得ない中において、格差社会から取り残される者にチャレンジ精神を植え付けるのが底上げ策である。教育機会の平等、税制改定、セーフティネットの整備等々各分野で底上げ政策が求められるが、それらは格差の縮小にある程度寄与しても、格差拡大の潮流を解消することはできない。底上げ策は、格差の底打ちを可能にする道を模索して、”底なし沼”に陥らせないための保全の手続きであり、成長の意欲を喚起するものでなければならない。

 

豊かで魅力的な国とは

その意味で、格差の真の底上げ策は、新しいフィールドを絶えず構築する以外にない。新しい分野・地域・テリトリーを打ち立てて、そこで活躍する場を与えるのである。日本には「土俵を変える」という言葉がある。土俵とは自分が拠って立つ場所であり、稼ぐ場所でもある。今の土俵でうまくいかなければ、別の土俵へ行ってみよう。競争の少ない土俵を探してみよう、自分で土俵を作ってみよう、左脳ではなく右脳の活かせる土俵、ルールの違う土俵、自分を必要としている土俵を見つけよう等々、土俵を変える方法が多い国ほど豊かで魅力的な国と言えまいか。

 

既存の社会では、格差はどうしても固定してしまう。ここに実は、グローバル化の波に乗って、日本が世界に羽ばたかなければならない所以がある。国が世界の地理的・経済的状況を眼下に納め、日本国内では上昇できず格差に喘いでいる人たちに新天地での経済的成長と精神的成長を求めさせ、希望を抱かせる施策を取ることこそが、確実な底上げ策につながると言えるだろう。

 

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2016年4月3日(日)18:43 港区赤坂1桜坂にて撮影
花言葉:「純潔、優れた美人」

 

 

 

第8回 専門的職業人
(2015年8月24日より転載) 


このところの憲法9条と安保法制をめぐる議論に接し、自分が初めて憲法を学んだ学生時代に思いをはせた。私は1956年に東京大学に入学し、法学部の学生として宮沢俊義先生の講義を受けた。その後は試験勉強以外に深く学んだことがないから、憲法について解説する能力はない。どの分野でも、専門的に研鑽を重ね思索を深めた人の見解に敬意を表するべきであり、素人が我見を通すのは極めて危険なことである。

 

今年7月発行の東大法学部「NEWS LETTER」№16の巻頭言では、東京大空襲直後の1945年4月1日、当時の学部長南原繁先生が新入生に与えた訓示が紹介されており、胸を打つ。そこには、厳しい状況に置かれても信念を貫く専門職の矜持がみえる。すなわち、「政治・法律にはそれぞれ固有の科学的真理が横たわるのである。それを無視し、あるいは軽視して事を行うときに、いつかは真理自身によって報復される日が来るであろう。…政治・法律のそれぞれの専門の科学的真理の探究に冷静に従事せんことを、まず勧告するものである」。

 

professionalという語は、宗教に入信する際の宣誓を意味するprofessに由来するという。中世ヨーロッパに存在した唯一のprofessional=専門職は聖職者であり、彼らは学者、法律家、医者でもあった。当時のprofessionalの仕事の根底には、次の3つの基準があったという。①正式な技術的訓練とその訓練を裏付ける認定制度があり、訓練を通じて特有の文化を継承している、②専門的技能を身に付けている、③専門的仕事が社会的に責任のある用いられ方をし、かつ専門職に就く者が倫理的に仕事をすることを保証する団体機関がある(参考=ジョアン・キウーラ著『仕事の裏切り~なぜ、私たちは働くのか~』翔泳社)。

 

「餅は餅屋」の言葉どおり、物事にはそれぞれ専門家があり、素人はその技量にはかなわない。まして知の時代ともいえる現代は、科学技術が飛躍的に高度化し、ITは利便性の向上と同時に複雑化し、経済・文化・技術等のグローバル化が急展開している。国や民間企業での施策の立案・実行の場面でも科学的知見と根拠が必要となり、求められる専門的知識の量も質も格段に高まった。ここにこそ、現代における専門職の重要性を謙虚に再認識すべき所以がある。

 

専門的職業人としての責任を果たすには、訓練を重ねて高度な技量を身に付け、常に新しい知識や情報を習得し、顧客を満足させる結果を出さなければならない。賞味期限切れの能力では好結果を出せるはずもなく、常に勉強をし続けなければならない宿命を背負っている。かのマックス・ヴェーバーは、「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である」(『職業としての政治』岩波文庫)と述べ、専門職が知識や技能の以前に備えるべき人間性の問題を指摘した。

 

専門職の端くれとして私が心掛けてきたのは、知識と技能の研鑽はもとより、鳥の眼=俯瞰、虫の眼=細部の探究、魚の眼=全体の流れの把握、を適宜発揮することである。そして、心眼(しんがん)こそが求められると肝に銘じてきた。心の眼を大きく見開き、「夢・愛・誠」「真・善・美」「道義・道理・道徳」「良心・私心・邪心」の基準のもと自律的に任務を果たしてこそ、信頼される真の専門職なのである。

 

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上から時計回りに
2016年3月12日(土)7:02 青葉台1にてマメザクラを撮影 花言葉:「優れた美人」
2016年3月12日(土)7:59 飯田橋2にて木蓮を撮影 花言葉:「自然への愛、崇高」
2016年3月22日(火)7:58 中目黒公園にてイチハツを撮影 花言葉:「知恵、つきあい上手」

 

 

第7回 団体交渉
(2015年7月27日より転載) 

 

弁護士になって50年余、依頼者に満足してもらえる結果を出すため、私は寝食を忘れてがむしゃらに勉強してきた。ただ、初めは本を読んでも分からないことばかりで、拙著『人事権の法的展開』(有斐閣1987年)、『企業経営と労務管理』(第一法規1993年)などは、若いころの体験を念頭に、分からないことをいかに理解するかという探求のプロセスを書いたものでもある。あえて独自の境地を開拓したテーマを挙げるとすれば、「団体交渉」「リストラ」「精神障害の問題」の3分野だろう。

 

新人弁護士時代の1960年代は労働組合の争議活動が非常に盛んで、団体交渉、ストライキ、ピケ等、労使の激しい衝突の現場に私は常に身を置いた。団交を担当するようになった大きな契機は新人2年生の1964年、東映の京都太秦撮影所を担当した際、撮影所長だった故岡田茂氏(のちに社長・会長等歴任)が私の働きぶりをみて、米国の映画会社13社の使用者団体の弁護士に推してくださったことである。

 

最初は右も左も分からぬ状態だったが、厳しい団交の現場で身体を張り、机上の学問だけでは分からない要素を発見して体得した。現場での様ざまな言動から自分も含むすべての関係者の人間性を見極め、人間のあるべき資質としての「真・善・美」「夢・愛・誠」等々、人間のありようを見抜く眼力の重要性を肌で学んだのだ。それを通じ、苦しくとも労使の厳しい対立場面をびくつかずに乗り切り、成功体験を積み重ねて団体交渉はいつしか得意分野になった。

 

その過程で、『労働経済判例速報』に連載「団体交渉覚書」(1970年3月~72年11月・全15回)を書いた経験は、さらに自分の考えをまとめて依頼者に分かりやすく伝える力を養うことにつながり、この連載を読まれた長野県経営者協会専務理事故西原三郎氏が、思いがけず連載途中で『団体交渉の円滑な運営のための手引~交渉担当者の法律知識』(72年4月刊行)という小冊子にまとめてくださったのが、私の最初の著作といってよい。

 

団交権は、団結権および団体行動権と並ぶ憲法で保障された労働三権の一つであり、あるときは使用者と労働者の取引の場として、あるときは説得の場として機能する。つまり、労組は争議権を背景とする実力行使と使用者側の譲歩との取引きを試み、使用者側は争議権の回避に向け、労組の要求に対し一定の譲歩や説得を試みるのだ。「様ざまな対立のなかで肯定点を見出して前進し続けることが、新しい舞台に到達するための原点である」(ヘーゲルの哲学)とあるように、団交でも、競争的解決に限らず協調的解決による共存共栄をめざすことが重要である。立場こそ違うが労使は相容れぬ不倶戴天の敵ではない。包容力をもって接すれば、遺恨と執着は次第に薄れ、相手の気持ちも氷塊し諦念の境地に至るものである。

 

ところで、交渉担当を定めず多数の労働者(組合員)が交渉を行う大衆団交という方式がある。特に、労組側が健康被害による損害賠償を企業に求めるような案件では、加害者たる企業側は防戦一方になりがちだが、私が交渉の場に立った際は、それなりにイニシアチブを発揮した。これも多くの現場体験を重ねた結果であろう。

 

弁護士は社会正義のために働く存在である。無私の心で絶えず顧客のために一生懸命に対応することが、専門的職業人として社会に生き、社会正義に生きる証なのである。

 

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