2015年7月アーカイブ

第7回 高井先生言行手控え

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2015年6月28日(日)8:04
東京都千代田区三番町/東京家政学院中学校・高校前にて
キンギョソウを撮影
花言葉:『清純な心』

 

築地双六館館長
公益社団法人全国求人情報協会 常務理事
吉田 修

 

■髙井先生版「考えるヒント」

高井先生には四半世紀にわたって、種々のご指導をいただいて参りました。今回から、6回にわたって髙井先生が実際に話されたお言葉や著作の中から、名言・至言及び寸鉄・箴言を選りすぐってご紹介したいと思います。若い方はご存じないかもしれませんが、小林秀雄の昭和40年代のベストセラーに「考えるヒント」がありました。斬新な発想と徹底した思索で、多くの読者に新たな視点や発見を与えてきた永遠の名著です。広く深い洞察から地中に埋蔵された真理に焦点を当て、しなやかな感性と揺るぎない論理で掘削し、目的物に達する様は二人に共通するものではないかとかねてより思っていました。小林は、「当麻(たえま)」の中で世阿弥の美にふれて、こう書いています。「美しい『花』がある。『花』の美しさというものはない。」と。

 

髙井先生は、著書「企業経営と労務管理」の中で、こう書かれています。少し長いですが、引用いたします。

「労務担当者としての資質には、情感と精神のみずみずしさが求められる、情感とは心の青さを感ずると書くが、要するに他人のために本当に泣くことができるか否かということである。『感動』という言葉はあるが、『理動』とか『知動』という言葉は存在しない。言葉がないということはそのような事実が存在しないということなのである。これは人を動かす動因はロジックではなくしてセンシビリティであることを端的に示すものである。棟方志功は、『人が感動するのは青色ではなく青さである』 と言っている。まさに至言である。」と。

私は、誠に不遜ながら、先生の長年の言動を踏まえて、何とか髙井先生版「考えるヒント」を読者の皆様にお届けできないかと思いました。恥をさらしつつも、先生のブログに書き記すことが、先生の恩顧に報いる一つの方法になるのではないかという結論に達したわけです。

 

■美術鑑賞のコツ

先生は、美術についてご興味をお持ちで、かつて、「日経アート」にコラムを連載しておられました。抽象画、とりわけ、カンディンスキーを好んでおられます。その先生から、以前、このようなお話を伺いました。「多忙な中でも美術館に赴くことは大切なことです。時間のない中で、美を発見するにはコツがあります。館長から『あなたの最も好きな作品を差し上げます。』と言われたと仮定しましょう。先ずは、展示室の真ん中に立って、ピンと来た作品を一つ発見して下さい。そして、その作品の前に行って、じっくり鑑賞しましょう。他の作品は一切見てはいけません。そういう覚悟が必要です。こういう風にして、2、3の主だった作品が展示されている展示室をめぐり、その部屋ごとのお気に入りの作品を決め、その中から、今日のマイベストを選ぶのです。その作品はあなたの右脳に一生焼き付けられることでしょう。」まさに、名人技の鑑賞術です。小林秀雄は美の分析の無意味さを説きました。先生は美を比較検討するのではなく、感じ取ることの大切さを話しておられました。希代の文芸評論家と法律家の感性は、凡夫の及ぶところではないことがよくわかります。

 

■正々の旗 堂々の陣

15年前くらいのことです。私が仕事上の何かの案件について、先生に意見書をお願いしたことがあります。

その折の意見書の冒頭に、案件に臨む上での基本スタンスが述べられていました。それは「正正の旗、堂堂の陣の前では無理をするな」というものでした。孫子では、勝つことよりも、「どうしたら負けないか」を説いています。原文の現代語訳では「近きを以て遠きを待ち、万全を以て疲弊を待ち、自らを充足させて敵の不足を待つ、これを力を治むる者という。正正として旗の乱れざる敵を迎えること無く、堂堂として陣の崩れざる敵を撃つこと無し、これを変を治むる者という。」となっています。

「敵の体制に乱れがないうちは攻めてはいけない。」というご意見に従って事無きことを得たことは言うまでもありません。先生は種々の法律問題への対処にあたって、原理原則や基本スタンスを大切にされ、クライアントにそのことを最初に説明されます。技術論はその後のことです。大局観を得て、腹を据えることも相談者たるクライアント側のマナーでもあるわけです。

 

 

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2015年6月21日(日)7:14 東京都渋谷区・デンマーク大使館近くで撮影
ジャカランダ
花言葉:「名誉」「栄光」 

 

 

今回から、2011年5月~2012年4月にかけて、計12回、『月刊公論』(財界通信社)にて私が連載いたしました「高井伸夫のリーダーの条件」を転載します。

私の半世紀にわたる経営側の人事・労務問題の専門弁護士としての経験もふまえ、リーダーのあり方について述べた連載です。

これからは、自分一人の信念で周囲をひっぱっていくというリーダーの時代ではありません。優れたリーダーには必ず、”股肱(ここう)の臣、頼れる参謀”が付いているものです。もはや”孤高の人”では、リーダーにはなり得ないのです。

ブログ読者の皆さまに、現代におけるリーダーシップ論を考えていただく一助となれば幸いです。

 

 

「リーダーは明確な指針を そして迅速に実行に移すこと」
(『月刊公論』2011年5月号より転載)

 

 

私は、企業側の人事・労務問題を専門とする弁護士です。

労使の対峙、企業経営の問題、人材の見極め等々の業務に携わりながら、時代の流れのなかで変遷する社会を見つめて参りました。私が弁護士になったのは高度経済成長期の真っ直中、昭和三八年(一九六三年)のことですが、日本では、その頃から急速に時代の変化がみられるようになりました。簡単に言えば、「フットワーク」・「ハンドワーク」そして「ヘッドワーク」・「ハートワーク」へという労働の価値基準の変化の始まりです。さらに、今起こりつつあるのは「ヒューマンワーク」の時代です。これらの時代の流れを見つめて、社会の実相に即した仕事をしなければ、組織も個人も決して生き残ることはできません。さまざまな変化を踏まえて、それに対応できたものだけが勝ち残るのです。私はこうした意識をもって、半世紀にわたり、人事・労務の問題に取り組んで参りました。

 

「心の時代」「ヒューマンワークの時代」

 

まず、この度の大震災で被災された多くの方々に、心よりお見舞いを申し上げます。これからは、悲嘆を乗り越えて、復興の道筋をいかに描くかということが議論の中心となっていきます(地震については、ブログに思うところを書きましたので、ご一覧いただければと思います)。

人災とも言うべき福島第一原子力発電所の一連の重大事故はともかく、今回の地震・津波の災害で、自然の脅威はとても人智の及ぶところではないと改めて痛感させられました。

わが国の産業社会の歴史を顧みますと、明治初期頃までは、この自然を相手取り、自然からの恵みや収穫を生活の糧とする農業・漁業など第一次産業を中心とする社会でした。

こうした農業・漁業が中心の社会においては、土地という生産財のうえで足腰を武器にした産業が主流となりますから、畢竟、技術革新等の変化も非常に遅く、そして、個々の能力格差は足腰の能力差にすぎませんでした。

分かりやすいように、徒競走を例にとってみましょう。

私がこの原稿を書いている時点では、男子陸上一〇〇m走の世界記録は九・五八秒で、これはジャマイカのウサイン・ボルトが二〇〇九年八月一六日に出した記録です。一方で、特に運動が得意でない中年男性でも、三〇秒あれば、一〇〇メートルを走りきることはできることでしょう。ここには、単に秒数だけを比べると、世界のトップと凡人とのあいだには、たった三倍しか能力格差はないことになります。

つまり、肉体労働・足腰の働きを武器にする社会(フットワークの時代)は、優劣・格差が甚だしくなく、皆が仲良く夕涼みで将棋をさすような、横並びの社会なのです。その後、日本は、明治初期に軽工業社会(第二次産業)になりました。「手工業」という言葉があるとおり、それは手先の時代(=ハンドワークの時代)ということです。そして、その次の第三次産業、商業・サービス産業の時代は口先の時代となり、意思疎通・契約・取引が重要な世界になります。

これらが、人間の発達史と同じ変遷をたどっていることは、決して偶然ではないでしょう。

考古学によれば、人間の先祖は四四〇万年前には四本足で歩いていました。それが太陽の光に眼を射られて人は立ち上がり、前足が手になり始めました。そしてだんだん他者と対面するようになって言語が発達し、ついには第三次産業、口先産業・契約社会に至るわけです。人間は直立するにつれて脳が発達しました。それが第四次産業であるソフト化時代に至りました。第四次産業は、頭脳労働の時代、ソフト産業の時代(ヘッドワークの時代)ですから、考える・思う・感じるという能力がものをいう知的社会になりました。

この能力差は三倍でもなければ三千倍でもありません。「できる」か、「できない」かという質の格差、言わば絶対的格差になったのです。

そして、これからは「心の時代」「ハートワークの時代」(第五次産業)であり、心を武器にした経営でなければなりません。心の経営のポイントは、「良心」を中心にすえて、「自律心」「連帯心」「向上心」を刺激するということです。「良心」「自律心」「連帯心」「向上心」は、企業にも社員にもまた商品にも要求されてきます。

このように、人の労働の価値基軸は、社会の進歩や変化とともに変わってきています。

では、「ハートワークの時代」の先はどうなるのでしょう。私の考えでは、「ハートワーク」よりもなお一層人間性如何が問われ、さらに上位に位置付けられる「ヒューマンワーク」という概念を意識しなければならない時代が到来すると思います。私が提唱するこの「ヒューマンワーク」とは、マニュアル経営と対峙する概念であり、人間性の原点に立ち帰り、心身を限界まで尽くして、人として有する全機能をフルに働かせる労働を意味しています。人は、自分の限界ギリギリまで働くことで初めて自分の限界を知るものですし、またそれが自己の長所・短所と真正面から向き合う契機ともなり、人間としての成長にもつながります。言わば、全人教育の成果として為し得るのが、「ヒューマンワーク」なのです。

これは、労働の意義を考えるにあたって「手足(フットワーク)」「頭(ヘッドワーク)」「心(ハートワーク)」というような細分化した発想ではなく、労働はまさにそれらを統合したうえでの完全なる人間性の発揮の場であるとして、私が命名した造語です。全人格・全人間性をかけて全身全霊で「血と汗と涙の結晶」を育くむべく、無我夢中・一心不乱に人間の理想である「夢・愛・誠」を求め続ける働きです。これこそが、民族や国籍を超越する普遍的な「ワーク」であると言えるでしょう。どんなに些細なことでも相手のことを考え一生懸命に尽くし、努力の「結晶」を見せることができれば、どんなに頑なになった相手の心でさえも和らげるのです。また、クライアントに対しては、幸せを実感させることができます。これが実はヒューマンワークの行き着くところです。

私が今、「ヒューマンワーク」という概念が敢えて必要であると考えるひとつの理由は、企業のグローバル化現象が急速に進んでいることです。グローバル化が進めば、各企業は多様な人材を抱え、多様な価値観、多様な民族性や国民性を統率したうえで、より大きな成果を生み出さなければならなくなります。各企業において、リーダーシップを発揮しマネジメントを円滑に行なうためには、「ワーク」について何らかのグローバルな共通認識が必要となってくるのです。そのときの理解の基盤となるものこそが、「ヒューマンワーク」なのです。

ただ、ここで特に付言すべきは、「ハートワークの時代」「ヒューマンワークの時代」の、病的側面です。心のありようや人間性そのものの働きが重視されると、それに対応できない者は心を病む可能性が大きくなります。心や人間性が重視されればされるほど、企業においては、メンタルヘルスについての労働者の自己保健義務及び労働者に対する使用者の配慮がともに重要になるという相関関係があるのです。そして、「ヒューマンワークの時代」は、メンタルヘルスの危機よりもなお一層深刻な「ライフ・クライシスの時代」であり、たとえば、自殺者が増加するということも強く意識すべきです。

 

社長の最大の仕事は「方向性を示す」ことにある

 

哲学者ニーチェが語ったさまざまな原理原則のなかで、私の記憶に残っているのはただひとつ。「偉大とは方向性を指示することなり」です。今の日本の社会には、大物がいなくなりました。傑物も怪物も、ましてや大御所など聞いたこともありません。これらは既に死語になっています。こうした時代状況で、日本の政治家も経済人も、方向性を示すことができないのです。これは、指導者自身の資質に問題があることはもちろんですが、指導者がリーダーシップを発揮できる環境にないこともまた事実です。なぜなら、日本経済全体が斜陽化してしまい、これを立ち直らせようという意気込みが国民全体に生まれてこないからです。その意味で、国民全体の意気込みや精神改革から始めなければならないという側面も、おおいにあると思います。

経営者の最大かつ重要な仕事は、ビジョン・方向性を示すことです。

今はことさらに経営力、さらには事業力が問われる時代になりました。そのとき重要なことは明確な方向性を打ち出すことです。経営トップは、ビジョンを提示しないといけませんが、ビジョンとは、分かりやすく言えば、「お金の落ちているところ」を指し示すことです。それには 経営者自身が、絶えず新商品・新事業・新拠点づくりに関心を持ち続け、絶えざるチャレンジ精神をもって取り組み、拡大拡張を意識しないといけない。今の萎縮経営の中でこそ、自社がどのような方向を進むのかをきちっと語らなければならないのです。ビジョンを明確にし、方向性を明示する企業が伸びていきます。

二番目に大事なことは、頭で考えるだけでなく、必ず明文化・文章化する作業を行い、推敲を重ねながら、さらに考えを整理整頓することです。これは非常に大切な作業です。

三番目に大事なことは、方向性を明示するだけでなく、迅速にこれを実現しなければならないということです。変化とスピードの時代には、実現していくことにこそ価値があります。

課題は「お金の落ちているところ」を発見できる嗅覚があるかどうかにかかっています。東日本は大震災の影響で電力もままならず、復興へのグランド・デザインも容易には描けない状態です。しかし、こうしたなかでも市場を発見し、商品を創造し、人材の見定めができる経営者が勝ち残るということを、忘れないでいただきたいのです。

そして、東日本の企業の多くが傷つき、立ち直りが遅れるのであれば、今回の災害に遭わなかった西日本の企業の経営トップの方々は、我こそは日本の命運をにぎる者であるとの強い覚悟で、全力で経営に取り組んでください。

 

推進力とバランス感覚~安定を求めるな 今こそ求められる「称賛の哲学」

 

徳富蘆花は一九一一年に旧制第一高等学校で行った講演「謀反論」で「自ら謀反人となることを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である」と風発した。…(中略)…時代の進化や価値観の変容とともに、かつての「正義」がいつの間にか「不正義」に堕落していることもあり得る。その状況を黙認せず、誠実かつ真摯にみずからの正義感を訴え、世間を説得し、新たな正義を打ち立てようとする姿勢こそ、多くの社会的支持を獲得する。既成概念の上に胡座をかく「不正義」に敢然と立ち向かう“謀反”は、敢えて言えば“正義の謀反”なのである。(髙井・岡芹法律事務所事務所報「Management Law Letter」七四号・二〇〇七年新緑号・髙井伸夫筆・巻頭言「『謀反』をあたたかく見つめる社会へ」より抜粋)

法学部の学生の頃、「法律とは、命令と禁止を定めたものだ」と教えられました。「しなければならない」と「してはならない」が法律だというわけです。ここから発展させて、マネジメントと法律はどう違うかを考えてみましょう。これに対して、マネジメントは、「したほうがいい」あるいは「しないほうがいい」という世界で、「したほうがいい」のごく一部に「しなければならない」があり、「しないほうがいい」のごく一部に「してはならない」があるというものです。つまり、法律よりマネジメントの概念のほうが広く、難しいのです。

マネジメントにおいては、「したほうがよい」か「しないほうがよい」か、そのバランス感覚が一番大切です。そして、それに推進力をつけるのが経営なのです。推進力がつくほどバランスは崩れそうになりますが、その舵取りを巧みに行っていくのが名経営者であるといえます。

この推進力とバランス感覚は、およそ逆のものです。推進力があればバランス感覚に欠け、バランス感覚があれば推進力が乏しいのが普通です。しかし、この両方をとことん追求し、一度は突き抜け、その結果として両方を統合させ、さらなる推進力・バランス感覚を有しているような人物が、今の時代には求められています。

さらに、私は、「何が何でも原理原則に立ち戻って、そのうえで例外があるかどうかを吟味するのが法律家の役割である」ということも教わりました。これは、安定性を求める世界です。一方、マネジメントの世界は、シェアの拡大を目指すものであり、停滞を許しません。特に、経済規模が縮小している今は、まさに死に物狂いの努力をして初めて素敵な発想も実現でき、成長させることができます。厳しい戦いの連続です。マネジメントにとって、安定とは戦いを止めることと同じです。人間の原理原則は競争であり戦いであり、安定を求めてはならないのです。

最後に、「称賛の哲学」「称賛の文化」を、日本の社会に根づかせることを提言します。

リーダーシップをとれる人やボスになる人は個性が強く、世間でたたかれやすく、「出る杭」とも言うべき存在になることが多いでしょう。残念ながら、日本には、そうした目立つ者や脚光を浴びる者に対して、「妬み」「嫉み」「ひがみ」「うらみ」「つらみ」を感じて、皆で足を引っ張りにかかるという「嫉妬の文化」があります。それでは、能力のある者でも萎縮してしまい、真の実力を発揮できなくなります。成功者への嫉妬をやめて、秀でた者の力を認めて称賛し、自ら一段と努力するという「称賛の文化」「称賛の哲学」を旨としなければ、人間は決して前向きになれません。

元経団連会長奥田碩氏が、二〇〇六年四月七日付日本経済新聞に掲載された「嫉妬から称賛の経済へ」と題するインタビューで、「問題は成功者に嫉妬し、引きずり降ろす力が日本社会に強いことだ。それでは経済全体が沈滞する。成功者を尊敬し、それを目標にして自分も頑張ろうという『称賛の経済学』に転換すれば、今以上に社会が活気づくだろう」と語られていたのは、非常に印象的でした。また、二〇一〇年一〇月三日付日経新聞に掲載された「新興国台頭 変わる企業競争 経営革新の精神今こそ」と対するインタビューで、ジャック・ウェルチ氏(米GE会長兼CEO)はこう答えています。「イノベーションの創造に報いなければならない。報酬制度はもちろん、『彼らがヒーローなのだ』と称賛する企業文化を生み出さなくてはならない。もっと機会を与え、社員を奮い立たせることが、今の経営者の大切な仕事だ」

人は、気持ちに支配される存在です。企業経営者もそこで働く者も、「称賛」により士気が高まってはじめて、今以上の力を発揮し得る存在になるのです。

 

 

 

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2015年6月15日(月)東京都目黒区中目黒公園にて撮影
チョコレートコスモス
花言葉:「恋の終わり」 

 

 (5)証人尋問

証人尋問の準備は大変である。相手側の書面も証拠資料も読み、もちろん当方の書面、証拠資料も読むのだが、大事なことは相手の答弁を予測することである。もちろん、予測した内容通りに証言が行われるわけではない。だからこそ、相手側の証人の内容をいくつも考えることが必要となる。そのためには、複眼的な視点から検討する必要がある。加えて、決定的証拠をもって、すなわち書証をもって粉砕する準備も必要である。となると、予め想定問答を作り、それも2通り、3通りと準備しておくことが大切である。

 

私の実感としては、反対尋問よりも主尋問の方がはるかに難しい。主尋問は、相手側の反対尋問を予測しなくてはいけない、すなわち攻撃が相手に移るので、よほど準備をしていないと対処できない。準備の大切さは証人尋問において一番意識されなければいけないことである。客観的資料、物証、書証の収集が大切である。証言内容に直接関連した事柄だけでなく、間接的に関連する事柄、背景事情の検証もすべきである。些末な事項も手を緩めると、それが証拠となって思わぬ結果を招くこともあるので、適宜当方の証人で潰しておくなどの気配りが必要である。大局観と事実を踏まえた緻密な構想がマッチングしなければ、証人尋問は成功しない。

 

そして、当該事件の核心について、簡明直截に反対尋問することが大切であり、事実を詳細に語ること、論理的に構成すること、情感をこめる技術も要求される。

 

(6)詞は飛び、書は残る

裁判では、弁護士は自分の証拠を裏付ける証拠を提出しなければ勝訴できず、責任を果たすことはできない。証拠は主に証言と書証(書面になった証拠)であるが、証拠価値は書証が証言に勝ると評価される。

古来のヨーロッパの格言「詞は飛び、書は残る」にある通り、書面の効果は抜群である。特に、事実が発生した時点で作成された書面の証拠価値が最も高い。そうであるからこそ、弁護士はお客様の主張を鵜呑みにしてはならず、自らも証拠集めに熱心でなければならない。あらゆる資料を点検し、有用な資料を探し出すのである。弁護士に取って、関係書面を見つけ出した時の嬉しさは何にも代えがたい。そしてこの過程は、お客様その他関係者の主張の真意を検証する過程でもある。裁判は、「書証で勝ち、書証に負ける」ものであることを忘れてはならない。

 

(7)下見

下見とは、ある事をする前に予め見ておくことを言う。例えば、集団で登山をするとき、リーダーたる者は下見をしなければならないと言われる。これは、安全を確認し、登山を成功させるためである。弁護士も同様である。証人尋問があれば、事前に実際の流れを想定してロールプレイングを行うことで、成功の確率を高めることができる。講演であれば、リハーサルが必要となる。ロールプレイングとは、実際の仕事上の場面を設定し、そこでの役割を演じることで実務上のポイントを体得する訓練法であるが、実際の流れを想定して疑似体験をすることで、ある事が実際に起こったときに適切に対応できるような経験を積むことと近い効果があると言われる。このように、実際に目で見たり、体を動かしてみたりすることは、物事を成功させるための必須条件なのである。

必要最大限に準備することが必要である。お客様の意向に沿って事案を解決するためには、時間が許す限りの必要最大限の準備が欠かせない。なぜ、必要十分ではなく必要最大限の準備が必要かといえば、必要十分では想定外の事態が起こった時に対応し切れないからである。必要最大限とは、あらゆる事態を想定して、それぞれの対応を寝ても覚めても考え続けるということだ。これで十分だろうと考えることは、自らの限界を設けていることに他ならない。予想は時として裏切られるものであり、お客様の利益を第一に優先するのであれば、弁護士は、書面にしても、尋問や答弁の準備にしても、必要最大限の準備を目指さなければならないのである。

 

(8)人を見て法を説け

弁護士が、お客様、裁判官、相手方、相手方の弁護士と対するときに、性善説あるいは性悪説のどちらをもって、即ち人の本性を善・悪どちらと捉えて対すべきであろうか。

まず、お客様に対しては、弁護士はお客様と信頼関係を築くことが何より重要なことである。しかし、お客様には各々事情があり、正直な胸の内全てを弁護士に話しているとは限らない。弁護士には、何が事実で何が事実ではないかを見極める力が求められる。要するに、性善説、性悪説を超えたところでお客様を見つめなければならない。

次に、裁判官に対してであるが、憲法76条3項「裁判官は、その良心に従ひ」という文言に表される通り、良心をもって法廷で判断を下す存在である。だからといって、裁判官の「善」の部分が、生来生まれ持ったものなのか、努力によって後天的に身に付けたものかを一概に判断することは困難だが、裁判官の「良心」は善であると考えて、裁判官の人間性に訴えかけるような主張を心がけるべきであろう。

最後に、相手方および相手方弁護士は、当方を打ち負かそうとしている存在であるため、性悪説的に捉え、相応の準備と対応を心がけるべきであろう。

弁護士としては、相手によって善・悪の前提をかえ、事実を見極めていくことが大切である。それが、人を見て法を説け!ということである。

 

(9)弁論

次に弁論の重要性を指摘していこうと思う。日本の裁判所では、従来、書面の提出で弁論をすることが圧倒的に多かった。しかし最近では弁論が大変重要な役割を訴訟において果たすようになった。そうなると弁護士は当意即妙な表現で対応しなければならない。要するにこれは、弁論の直前の状況を踏まえて、臨機応変に弁論をしなければならないということだ。それは弁護士の日常的な知識や知恵によっても生まれるものだ。書面によって弁論に代えるということは実は易しいことである。なぜならばいろいろな参考書籍を見ながら、そして資料を見ながら書けば足りるからだ。しかし、先程話したように弁論が重要視されると、直前までの状況を十分反映した、当該訴訟等の終結にあたってふさわしい話をしなければならなくなるのだ。

 

最後に、いかなる訴訟であれ、精神・原理といったものを正面から語らずして、即ち錦の御旗を掲げずして、決定的な勝利を得ることはあり得ないのである。小手先の技術論ばかりでなく、企業のよって立つ精神・原理・方針といったものを、大胆かつ率直に語るべきであるということを、念頭において裁判に臨むことが弁護士に要求される。

 

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2015年6月11日(木)18:34 東京都文京区・ホテル椿山荘にて撮影
カランコエ・ブロスフェルディアナ
花言葉:「幸福を告げる、貴女を守る」

 

 

 

6月12日(金)より、『Lawyer’s MAGAZINE(ロイヤーズマガジン)』2011年7月号に掲載された私のインタビュー記事<巻頭特集「Human History 弁護士の肖像」>を転載しています。

このインタビュー記事のなかで、私は、これまでの弁護士人生を振り返り、二人の恩師、新人時代からの血沸き肉躍る労使紛争を経て学び取った信条、現代リーダーシップ論、そして、若手法曹への助言などの一端について述べております。

この記事をお読みいただければ、各位の中には、同時代人として生きられた当時の喜びや悩みを感慨深く思い出される方、あるいは、これから待ち受ける極めて困難な時代への心構えとして活かしていただける方がいらっしゃるのではないかと考えています。6月12日(金)分6月19日(金)分よりお読みいただければと思います。

 

 

 

書き、伝えることで生きることの意味を問い続ける

 

高井氏を語るにあたり、その意欲的な執筆活動を忘れてはならない。これまで出版された著書(※15)は40冊、新聞や雑誌の連載はこれまでの総数が50本に及ぶ。そもそも物を書き始めたのは、勤務弁護士だったころ(※16)。40代から本格的に取り組み始め、50代以降その勢いが加速、74歳となった現在も執筆意欲と筆力は衰えない。労使関係が会社運営の肝であった時代から多くの経営者と接してきた高井氏ならでは、その経験から独特の経営者哲学を生み出してきた。「いまや高井先生は、法律家というより、経営学者のようだ」と評する弁護士仲間もいるほどだ。


※15 専門書や実務書の、単著・共著・監修を含め40冊。連載は、エッセイも含めて通算50本。単発の論稿は82年以降に限っても53本(2011年7月現在)
※16 『労働経済判例速報』に「団体交渉覚書」という連載を開始。「会社側弁護士としての立場から、多くの団体交渉に関わった。当時、労働紛争の解決のほとんどは団体交渉ないし労使の話し合いによってなされたのが実情。しかしそうした状況にもかかわらず団体交渉・労使間の話し合いそのものについて十分な検討はなされていないと感じていた。それによって労使間の紛争が長期化し、守勢に立ちがちな経営者側は無用な譲歩を強いられるということも多くみられた。私は、交渉技術と労働法、具体的には不当労働行為との関連を明確にしないまま経営側が現実の団体交渉に臨んでいることに一つ原因があると考え、”交渉担当者の法律知識習得の一助になれば”と執筆を始めた」(高井氏)

 

高井氏は、”この1年ほどでまとめあげたいテーマ”として、「現代リーダーシップ論(※17)」を掲げる。

※17 2011年5月号より「月刊公論」(財界通信社)に「リーダーの条件」として連載が開始されている。他に「労働新聞」連載「人事労務 散歩道」(2010年4月~6月「リーダーシップ」・各全3回)、および2009年に連載されていた同紙「四時評論」に詳しい。

 

「今の日本には”絶対的なリーダー”があまりに少ない。ゆえに、それを追究し、論じてみたいと思っている。到達点はまだ見えていませんが、現段階で言えるのは「リーダーシップがある人とは、合意の形成をうまく行える人である」ということ。そして合意の形成の幅を広げている人こそが、真のリーダーであろうと考えます。『合意の形成ができる』とは、『大義名分をきちんと作れる』ということ。これからは、”自分一人の信念で周囲をひっぱっていく"というリーダーの時代ではありません。例えば今の日本を見れば、優れたリーダーには必ず、”股肱(ここう)の臣、頼れる参謀”が付いているもの。もはや”孤高の人”では、リーダーにはなり得ないのです」

 

「書きたいし、伝えたい。弁護士として得てきた知見や考えを広く世の中に広めたい」から、執筆を続ける。特別な戦略や目的を持って臨むわけではなく、「”直感力”で書き進めるだけだ」と高井氏は言う。

 

「人が生きるということ、そして仕事というものは、『いかに思い、感じ、考えるか』に尽きる。弁護士の仕事では、そうした経験を積み重ねたうえでの感じ方、すなわち直感力が特に重要です。私は弁護士となってからずっと、相談案件・事件そして社会の諸事象を”一瞥(べつ)して直感する力”を涵養(かんよう)してきたといえるのかもしれません」

 

高井氏は、約半世紀に及ぶ弁護士人生を、次のように振り返る。

 

「20代はがむしゃらに勉強する。30代は方向性を見極める。40代は深みをつける……と、自身がその通りにできたか否かは別として、それを意識してきました。たくさんの本を読み、丁寧に資料を点検することを継続し、わからないことはすぐにその分野の詳しい方へご教授をお願いして、理解を深める努力もしてきました。常に学ぶ心を忘れず、『無用の用』を信条として、専門分野外のことも積極的に習得してきたのです。そして当然のことながら、これからは特に、若い人の成長を促すことが自分の務めであると思います」

 

氏が実践してきたこれらの事柄は、若手法曹人にとって示唆に富む。「これからを生きるためのヒント」がいくつも提示されているからだ。

 

「私がしてきたことを踏まえ、これからの弁護士に必要なことを挙げていけばキリがありませんが……。一つめは『無用の用』ともいうべき心理学の勉強でしょう。法律知識だけでなく心理学によって、人の心をさまざまな角度から理解すること、理解しようとすることが弁護士には大切です。二つめは、物を書く習慣を身に付けること。物を書くというのは、つまり思索することです。これも”軽い弁護士”にならないために、大切。三つめは”三現主義”。現場、現物、現実を重視するということです。何か問題が発生したときは必ず現場に足を運び、現実を確認し、考え得る最善の施策を提示すること。コンピューターに頼り切って仕事を終えてはいけません。この三つを実践し、あなたの成功への道を、見つけてくださることを願います」

 

 

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(1)2015年5月20日(水)東京タワー下にてペチュニアを撮影(花言葉:心の安らぎ)
(2)2015年5月22日(金)芝公園にてセイヨウキンシバイを撮影(花言葉:悲しみを止める)
(3)2015年6月6日(土)東京都北区豊島7丁目にてガクアジサイを撮影(花言葉:謙虚)

 

(1)大義名分

訴訟等を受任した場合、ことに相談案件を受任した場合、大義名分書を作成することが勝ち抜く基礎である。これを、企業のリストラのケースで説明してみよう。

私は1963年に弁護士になって間もない頃から企業のリストラ問題に取り組んできており、正確な数は不明だが既に1,000件以上担当したと言う者もいる。こうした中で私が必要に迫られ独自に編み出した知恵と工夫の産物が、リストラにあたっての「大義名分」を確立するという手法である。裁判所は、整理解雇が解雇権の濫用とならないか判断する基準のひとつとして「整理解雇の必要性」を挙げるが、私が考案した「大義名分」は、必要性のみならず企業の存続と再興をも重視する点において、一段と質が高くオリジナリティがあると言ってよいだろう。なぜなら、「必要性」は単に現下の人員削減の必要性を示せば足るが、「大義名分」とは、リストラをしても従業員らの士気を極力損なわないよう、具体的に企業の再生・再興を図るにはリストラしかないことを強調し、そのうえで未来志向の理念を確立することだからである

そこで、「大義名分書」の作成にあたっては、リストラの断行が経営者としての義務であるという強い意識を持ちながら、人員削減の必要性をデジタルな資料により説得的に論じたうえで、加えて、企業が「未来に生きる」ための目的意識をも明示し、リストラによって社会的ニーズに応える企業として存続・再興し得ることを明らかすることに重点を置く。このように「大義名分」はリストラが企業の未来を切り拓く手法であることを明らかにし、大方の従業員の納得を得る手続を進めることであるから、「大義名分」を構築できない経営者では企業再建は不可能と断じても過言ではない。

理想を言えば、企業の将来を考えるこうした作業は経営悪化に陥って初めて行なうのではなく、折に触れ経営に関する情報公開を行い、従業員の意識を共有させる機会を適宜与える必要がある。そして、事業の発展のために何をすべきか、仕事の仕方を変えることで売上げを伸ばせるのではないか、自らの技能・技術を磨くために何をすべきか等々について常に上司と部下がコミュニケーションを取り続ける手法を編み出すのである。

こうした考え方の基本は、あらゆる事案に応用できるのである。

 

(2)敗訴確実な事件を引き受けない

顧問会社等を除いては、極力、敗訴確実な事件を引き受けないことである。また、勝訴の可能性のあった事件において敗訴したときは、すすんで依頼者に代理人辞任を申し出ることである。もちろん、これはそれなりに勇気がいることであるが、しかし自分自身の責任感を全うする上において、極めて重要なことである。辞任すればよいという安易な態度で訴訟に臨めば、弁護士としての評価などは初めから得られるものではない。一方、精一杯行ったが敗訴し、辞任を申し出たとき、依頼者から再任されれば、これに勝る喜びはなく、弁護士として、依頼者から真の信頼を得たこととなる。

また、法廷の傍聴は、弁護士としてできるだけお客様に求めるべきである。弁護士のなかには、法廷の傍聴を断ったり拒んだりする弁護士もいる。しかし、お客様が傍聴を望むのは当然であり、ここに弁護士とお客様の間に不信が生まれる所以がある。お客様は傍聴を拒否されれば、「自分の前では大言壮語しているが、裁判官や相手側の弁護士の前では小さくなっているのではないか…。」と疑うのである。私は、お客様にはできるだけ傍聴してほしいとお願いしている。傍聴結果につき、お客様に、裁判官に、あるいは相手方の弁護士にどういう影響を与えたのかも説明する。それを分かりやすく展開できれば、お客様は納得し、弁護士も評価されるだろう。

 

(3)コミットメント(必達目標)

明確なコミットメントが提示できる弁護士は、優秀な弁護士である。

弁護士である以上、お客様に「勝ち筋ですか?負け筋ですか?」とよく聞かれるが、そのときに一定の見通しを語ることができると言うことは重要である。事件を引き受けた当初は、「お話を聞いた限りでは勝ち筋でしょう」と言うことができるし、負け筋の時は「まあまあ難しい」と言うことができる。

そして、何回か相手の意見を聞いているうちに、勝ち筋か負け筋かがはっきりと分かるようになる。だから、勝ち筋なら「勝ち筋である」と言わざるを得なくなるし、負け筋であると判明すれば「努力してみるが、難しい」とはっきり伝えることになる。これが、コミットメントということである。

ところが、暗に相違して勝ち筋だと思っていたが、負けるという結果になってしまうことがある。そのとき、裁判官を非難したりして取り繕うのが弁護士の一般的な手口であるが、それはあまり誉められたものではない。お客様に約束したこと、コミットメントが実現しなかったときは、率直に弁護士は謝るべきであるだろうし、辞意を表明すべきであろう。そういう弁護士が、潔い弁護士として評価されていくのである。

 

(4)駆け引き

駆け引きとは、辞典では「相手の出方や状況に応じて、自分に有利になるように事を運ぶこと」と解釈されているが、さらに言えば、相手に勝利感を与えることである。要するに、当方の妥結点を意識しつつ、それ以外の箇所を相手に譲ることを通じて、上手く和解に持っていくという手段である。

ところが、お客様が駆け引きは不要だといって断るケースが多々ある。そうなると、弁護士の腕が発揮できない場合が多い。だから、妥決点を予めお客様に教えておくことが大切である。優秀な弁護士とは、妥決点をできるだけ早く見極める才能がある弁護士である。裁判は80%が和解で終わることが現実である。そもそも、交渉ごとは話し合いだから、裁判が和解で終わることは普通である。だからこそ、駆け引きはどのような場合でも交渉の基本なのである。駆け引きは、相手方に和解に対する満足感を与える手段としても必要である。引き出す、勝ち取るといったところに、満足感が生まれてくるのである。

また、ある時は、相手方の出方を見るために駆け引きをする。例えば、和解の時に相手方の考えを探るため、当方が相手方にとって妥決点と考えているところを切り下げたうえで提案する。そして、相手方がそれに反論してくれば、相手方の出方が分かるということである。ところが、相手方の求める妥決点を読み違えると、相手方は当方の提案を見てあまりにも掛け離れているということで和解を断念しかねない。こう見てくると、和解においては自分の妥決点を考えるとともに相手方の妥決点を的確に予測しなければならない。そうしてこそ、駆け引きが成功するのである。そして、タイミングが肝要である。具体的には裁判長の顔色を見て「和解をしてはどうか」と言い出しそうなときが好機である。このタイミングを逸すれば、まとまるべき和解も不調に終わる。

裁判においては、例えば決定的証拠を持っている時は、それが当方の手の内にあることを示唆しないで主張するのである。相手方はそれを読み切れないまま自分の一方的な主張のみを展開することになるが、そういう時は決定的証拠を持っているから、相手方の主張を徹底的に粉砕することができる。これも駆け引きの1つである。反対に、当方に有利な証拠がなく不利な証拠ばかりの時には、駆け引きはどうしたら良いのだろうか。不利な証拠ばかりの時は、とぼけて強気の主張ばかりすることがある。しかし、結局は証拠がないから敗訴してしまう。相手方がこちらの状況を的確に把握せず、こちらの強気の主張に幻惑されて後退する時もあるが、それは非常に稀なケースで、一種の博打である。だから、そういった時は強気の主張をしないで、有体にいえば、早く和解を勧めることである。もちろん、当方に不利ではあるが、敗訴するよりましである。それが駆け引きというものである。ある程度までは譲歩をしても、予め決めておいた枠を超えて譲歩をしてはならないのである。和解条件は、多角的な検討を経た上で提示し、和解を契機として、その延長線上にお客様に資する諸施策を、たゆみなく着実に打ち出していくことが肝要である。

以上

 

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