2014年5月のアーカイブ

2014年5月4日(日)7時15分 東京都港区芝公園にて赤花杤の木を撮影
花言葉:博愛

 

今回より数回にわたって、私がお世話になっている長生堂 院長 齊藤治道先生によるエッセイ「自然治癒力を生かす『重心七軸調整法』」を連載いたします。

 

齊藤 治道  略歴
1954年 宮城県生まれ。23歳から治療の道に入る。
長生学園で長生医学(整体療法)を学び、関東鍼灸専門学校で鍼灸治療を学ぶ。
厚生労働大臣認定(鍼師、灸師、指圧マッサージ師)の免許にて開業。これまで述べ15万人あまりの相談者を施術。
各種整体、カイロプラクティックやOリングテストをはじめ鍼灸等東洋医学の研究、研鑽の結果「重心七軸調整法」の治療体系を編み出す。

長生堂(東京オフィス、仙台オフィス)院長
健体康心の集い(自己整体法である導引法を指導)主宰
著書 「図説導引法」(非売品)
日本長生医学会会員。日本バイデジタルOリングテスト医学会会員。少林寺拳法五段。

 

 

1-1 自然治癒力を生かす「重心七軸調整法」について

 

背骨をはじめ全身の筋肉、骨格系のくるい(歪み)が多くの身体異常の基になっていることを現代医学は気づいていない。

 

病院を訪れる患者の70%は現代医学の粋を集めた機械を用いて検査をしても原因がつかめないといわれている。この医学的フィルターにひっかからなければ原因不明で、痛みがあれば「鎮痛剤」というようにすべてが対症療法である。更に不思議なことは、1人の人間を各科別に分け、かつ細分化されたシステムになっている。昨今の「専門医制度」という区分リストを見ると70あまりにも分けられているのである。そこには人間本来の統合性という基本的考えが全く見られず、ますますパーツ単位的な医療となっている。その結果、不用な多くの薬を出しすぎて、健康保険の無駄使いを招いていることはとても残念でならない。患者サイドもこのようなことに気づきもせず、処方された薬を素直に服用して、その副作用のために更に体調を崩すという悪循環を招いている現実を度々目の当りにする。

 

本来健康な体を創るためには「心 体 食」を正すという基本的法則がある。本当の健康の力は統合されているもので、身体内部に生まれながらに内在している「先天的知能」がしっかりそれを支えているのである。この根本原理を見失い、枝葉末節的思考で症状だけを叩いても、真の健康からはほど遠いものになってしまうのである。

 

人間の身体にはもっとダイナミックな「自然治癒力」という基本的なシステムがあり、「脳という発電所」と「脊髄という送電線」そして「全身へのエネルギーシステム」という流れを万全にすることで、かなりの不健康者が健康をとり戻せるのである。紙面の都合上、ここでは「心 体 食」という健康三原則の中の「体」の構造を自然法則に基づいて、正しく調整することで得られる健康回復のメカニズムについて解説していく。

 

 

1‐2 重心七軸調整法による自然治癒力の発動で完治した症例

 

私はこれ迄、述べ15万人あまりの患者さんの施術(治療)を行ってきた。

診断及び治療部位はOリングテスト(以下OT)によって、その人すなわち患者自身の「脳」から情報を導き出し、「手技」によって治療を行うという特殊な手法を用いている。

 

但しこの手法は超能力の類ではないことを前置きしておく。そしてこの技法はその背景にある論理を理解し、トレーニングを積めば誰にでも可能なことなのである。(OTの詳細は別途後述する。)

 

まず初めに、重心七軸調整法の手法によって驚異的治癒を示した実例を紹介する。

 

<症例>

H22年4月22日昼、生後3ヶ月の男の赤ちゃん(K.K君)の相談を受ける。

出産時、産道で頭がつかえ、8時間に及ぶ超難産で生まれた。産後、自力で排便出来ないため、浣腸に依存。専門医からこれ以上浣腸を続けるわけにはいかないので「人工肛門しか道はない」と通告を受ける。家族はその子の将来を考えると眠れない日々を過ごしているという。

赤ちゃんは言葉の意味も理解できないため、OTは母親が行う。K.K君をOTによって読みとると、悪い場所は大腸の「下行結腸、S状結腸、直腸、肛門」と判明。エネルギーを通す配線(神経系)は設計図通りできているが、これを活動させるための神経エネルギーが超難産に際し、死ぬ思いをしながら生まれたショックで、流れなくなってしまったのが原因と分かった。

ここにエネルギーを流すためのスイッチは第一頚椎の左(OT)。吸引分娩のため、左頭頂骨はいびつに盛り上がっているが、脳の機能は異常なしとOTで出るも、頭頂骨付近のエネルギー低下がある。ここへの対応部位は左手首の月状骨である(OT)。これら2ヶ所への微細な圧で瞬間調整。診断治療に要した時間は15分弱。その日の夕方よりお腹がグルグルと音を出して動き出し、大量の黒色便(宿便)を排泄。1回の施術で完治してしまった。

1ヵ月後再診するも、頭頂骨も普通に戻り排便も全く異常なし。自力排便不可の状況では、母乳の飲み方も弱く、発育不良であったがその後、急速に馬力アップし体重も順調に増えた。

 

自然治癒力の働きは偉大であることに驚かされた症例である。

(長生堂 院長 齊藤治道)

 

次回は、重心七軸調整法を正しく知って頂くために、まずその根底にある自然観や生命観について、「大宇宙と小宇宙」をテーマにお話いただきます。

 

 

2014年5月4日(日)7:22 東京都港区芝公園にてマーガレット(白)を撮影

花言葉:心に秘めた愛

 

前回に引き続き、昨年11月8日(金)に、愛知県豊橋市にある愛知県立時習館高等学校を訪問し、また、同じく豊橋市にある合名会社小田商店を訪問した時のお話をします。

 

時習館高等学校を辞去し、同じく愛知県豊橋市にある合名会社小田商店を訪問しました。

小田商店 http://www.oda-shouten.com/

 

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小田商店は、今も昔ながらの伝統醸造法で、よい商品はよい原材料から安心安全をモットーに豆みそ、たまりしょうゆ造りを営んでいます。10時15分頃に到着し、私と同年代の店主・小田晃一様のご案内で、蔵の中を見学させていただきました。大きな杉の桶があり、そこにはしごを掛けて、私も登ってみました。3段か4段ほどのぼると、樽の上部を覗き見ることができて、そこには、大きな石、長良川か揖斐川、木曽三川の河原に転がっているような丸い石(7キロから8キロ)が積み上がって置いてありました。この杉の桶は、100つもあるそうです。この杉の桶は7トンのみそが仕込んであるそうで、これを1年半くらいを目途に木桶の中で発酵させるのだそうです。また、第三工場では、「たまりしょうゆ」を作っていましたが、空気を抜くようにしながら圧力をかけて仕込んでいる工程をみました。一般のしょうゆの原料は大豆と小麦の割合がほぼ同じですが、「たまりしょうゆ」は大豆が大半ですので濃厚な味の商品に仕上がるという違いがあるそうです。

 

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いまは、小田商店のような、天然の、昔ながらの製法が一大ブームになっているそうです。そのブームを受けて、小田商店では最近、通販を始めましたがこれが大好評とのことで、全国に販売しており、私も、昨年のお歳暮で使わせていただきました。

 

小田商店のみそは、愛知県の名産である「豆みそ」です。大豆と食塩、水だけを原料に、蒸した大豆を玉にして、全量を「豆麹」とし、伝統的な技法で長期間熟成させてつくられるものです。東海地方の夏は高温多湿でみその酸敗(脂肪類が酸化してすっぱくなること)が起こりやすいため、大豆に麹菌を直接に安全に生育させる「味噌玉製麹」という伝統的な技法で造られる豆みそは、夏場の高温多湿に耐え、長期保存できるみそという長所があるそうです(参考:「愛知の豆みそ公式サイト」http://aichimiso.jp/index.html)。

 

麹は、日本人の食生活に欠かせないもので、小田商店でつくっているみそや醤油のほかにも、焼酎や日本酒も、麹がないと作れません。麹とは一体何かというと、蒸した穀物(豆みそでいえば大豆)に、こうじ菌という一種のカビが繁殖できてできた発酵食品を指すとのことです。麹のような発酵食品は免疫力を高めると言われており、なかでも麹をつかった発酵食品であるみそは、「味噌汁を飲む頻度が高くなるほど、胃がんの死亡率は低くなる」(1981年当時・国立がんセンター研究所平山雄疫学部長調査)、「みそは放射線被曝から身体を守ってくれる働きがある」(広島名誉教授・渡辺敦先生著書『味噌力』)等の効果があるといわれているそうです。ロシアのチェルノブイリ事故のときは、ロシアへの豆みその輸出が大幅に増えたそうです。

 

 

さて、小田商店の店主・小田晃一様とは、みそやたまりの話以外にもいろいろとお話をしていましたところ、私が訪問してきた時習館高等学校をご卒業されている方で、先に述べた通販も、もともと時習館高等学校の同窓会名簿を元に始めたそうです。ここ豊橋の地を離れて各地で活躍してきた同級生たちに、慣れ親しんだ豆みそやたまりしょうゆの案内を出したところ、大流行になったとのことでした。

 

小田晃一様はとても謙虚な素敵なお人柄で、ほかにもいろいろとお話いたしました。話に華がさき、10時50分ころ辞去しました。

 

 

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2014年5月9日(金)私の77歳(喜寿)によせて
奥田久仁夫先生(奥田税務会計事務所)からいただいた胡蝶蘭を撮影
花言葉:「あなたを愛します」 

 

前回に引き続き、昨年11月8日(金)に、愛知県豊橋市にある愛知県立時習館高等学校を訪問し、また、同じく豊橋市にある合名会社小田商店を訪問した時のお話をします。

 

時習館高等学校は、古くさかのぼれば吉田藩(藩主松平伊豆信復)の藩校を前身とし(創設1752年)、その「時習」という校名は孔子『論語』の「学びて時にこれを習う(学而時習之)…」の一節から来ているという非常に歴史のある高等学校です。一度藩校が途絶えた時期があり、復活したのが明治26年ですので、そこから数えれば120年の歴史を誇ります。

 

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校長の林誉樹先生、教頭の木藤政美先生に詳しく時習館高等学校の特色を聞きしたところ、公立高校としては全国で2番目に広い学校であるということでした。一番大きい学校は北海道にあるとのことですが、これは農業高校ということですので、普通科の高等学校としては全国で一番広いということになります。もともと軍用地であった場所だそうです。

 

その他の特色としては、海外に姉妹校が3校あり、セント・ポールズ校(イギリス)、セント・ポールズ女子校(同)、オットー・フォン・タウベ・ギムナジウム校(ドイツ)です。セント・ポールズ校は、男子私立校で、イギリスのパブリックスクール伝統校The Nineのひとつに数えられる、英国屈指の名門校です。平成21年度より、交流がはじまって、毎年3名から4名ほどの相互の学生が短期間のホームステイや学生生活を楽しむそうです。また、平成20年度からは文部科学省が同校を「スーパーサイエンスハイスクール」(文部科学省が科学技術や理科・数学教育を重点的に行う高校を指定する制度)に指定しており、木曜日を除き週4日7限授業を行い、週34単位時間の授業を確保する体制とのことです。同校は、地域で各中学校のトップクラスの学生が集まる県内有数の進学校です。

 

さて、時習館高等学校訪問中には、内藤貴美子先生の在りし日のご活躍ぶりについてお聞きしました。古いアルバムのお写真なども拝見させていただきました。先生は、名物教師として有名で、非常に優秀な教師であり、合唱の指導がお得意だったとのことですが、小柄な背丈でいらしたのにもかかわらず、生徒を叱り飛ばす厳しい教育で有名だったそうです。いまの時代では珍しいことになりましたが、一生転勤せずに、定年退職後も、時習館高等学校で講師としてご活躍されました。昭和23年5月から平成3年3月まで約51年間、半世紀以上、御奉職されたとのことです。その後、平成14年4月に85歳で他界されました。翌年の平成15年5月24日には、内藤先生を偲ぶ追悼コンサートが、豊橋市市民会館で開かれる等、教え子のみならず多くの市民に親しまれ慕われた方であったとのことです(参考:平成15年5月25日付東日新聞)。

 

次回に続く

 

 

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5月11日(日)の母の日に寄せて カーネーションを撮影
花言葉:「母の愛」 

 

母の日に思う

 

5月の第二日曜日は「母の日」である。母の日は、世界中の子どもたちが日頃の母の苦労を労い、母への感謝を捧げる。

 

アメリカ南北戦争終結直後の1870年、女性参政権運動家「ジュリア・ウォード・ハウ」が、夫や子どもを戦場に送るのを拒否しようと立ち上がり「母の日」を宣言(Mother's Day Proclamation)した。ハウの「母の日」は、南北戦争中にバージニア州で、「母の仕事の日」(Mother's Work Days)と称して、敵味方問わず負傷兵の衛生状態を改善するために地域の女性を結束させた「アン・ジャービス女史」の活動にヒントを得たものだが、結局普及することはなかった。ジャービスの死後2年経った1907年5月12日、その娘のアンナが、亡き母を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会を開き、白いカーネーションを贈ったことから、白いカーネーションが母の日のシンボルとなり、5月の第二日曜日が「母の日」となったそうである。

 

 

世界には、母にまつわる故事やエピソードが数えきれないほどある。子の将来を案じて住居を三度も移した孟子の母の故事、「孟母三遷の教え」。人間社会だけではない。「四鳥別離」という故事もある。孔子が早朝に悲鳴のような泣き声を聞き、高弟の顔回に尋ねたところ、顔回は『桓山で鳥が四羽のヒナ鳥を育て、ヒナ鳥が巣立つとき母鳥は別れの悲しさに声をあげて鳴き送ると申しますが、あの声もその母鳥の鳴き声と同じです』と答えたという。

アフリカに生息する母猿は、子猿が死んで枯枝のようになっても子猿の死骸を離そうとせず、次の子猿が産まれるまで背負い続けるそうである。子のことを思う母性は、人間も動物も同じだ。それは、神様が地上の生物に植え付けた本能、聖なるプログラム、かもしれない。

 

 

子の死骸を背負い続ける母猿の姿も痛々しいが、巣立つヒナ鳥を見送る母鳥の鳴き声も悲しく、我が子を戦場に送る母親たちの悲しみに重なる。

子を戦場に送る母親たちの悲しみ…高井・岡芹法律事務所は「九段下」にあるが、戦時下につくられた「九段の母」という歌は今なお、戦争を知らない世代である私の中にも強く焼き付いており、我が子を戦争で亡くした母親の、痛いまでの悲しみが伝わってくる。とくに、「♪上野駅から九段まで 勝手しらないじれったさ 杖をたよりに一日がかり 母はきました会いに来た♪」「♪両手合わせて膝まずき 拝むつもりのお念仏 はっと気付いてうろたえました せがれゆるせよ田舎もの♪」…の歌詞に胸が疼いてしまう。この母親は、靖国神社に“英霊”として祀られている我が子を“国家の方針”としては拝まなければならないのだが、知らないうちにお念仏を唱えてしまったことで“はっと気付いて”うろたえてしまった。この悲しい心情こそ、当時の、軍国主義の空気に覆われた日本であったのだろう。親子の絆よりも国策が優先された時代、子が死路に向かう機に及んで「万歳・おめでとう」で見送らなければならなかった母親たちの悲しすぎる現実は、矛盾で塗り固められた悲惨な時代でもあった。こんなことを記すと、やれ右だの左だのと騒ぐ輩たちがいるが、親子の絆や情に右も左もあろうはずがない。

 

 

せっかくの「母の日」のコラムを戦争の話で汚してはいけないので軌道修正するが、今年の高井先生の誕生日は5月の第二金曜日(5月9日)、母の日の二日前である。日本では昔から「5月に生まれた男の子は大成する」と言われ、5月5日は子どもの日、男の子の節句となっている。

 

私は3歳の時に母を亡くしたことで母の顔をしらない。ところが、10歳の時に祖母から教えてもらった母の誕生日(5月22日)は今でも、大切に覚えており、母の誕生日に重なる「5と2」の数字は最も重要な数字となってしまった。その5という数字が母の日と高井先生に重なっている偶然に、たまたまの偶然かそれとも、あの世にいる母が私のために導いてくれた縁・出会いなのか、と考えたことがある。でも実際は、99・99%は偶然であろうが、私は、幼くして別れた母が私のために導いてくれた縁だと信じている。そう信じることで「あの世から母が常に私を見守ってくれている」と自分に言い聞かせられるからだ。人生は、すべて“移ろいでいく”ことからして、人間が死ぬという物質的な死は一時的な悲しみをもたらすが、心の中に生き続ける精神的絆は、自分を見つめ直す機会を与えてくれ、慰め、癒し、新たな決意、希望をもたらしてくれる。そういう見地から、すでに母親が他界された方も、あの世にいる母に『私を産んでくれてありがとう』の、感謝の気持を捧げてほしい…今日の自分があるのは、母がいたからであることを尊く刻むためにも。

 

 

このブログにおけるトレードマークは花の写真だが、5月に限っては、何がなんでも母の日の花である「カーネーション」である。

 

 

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2014年4月22日(火)7:00 東京都港区芝公園にてハナミズキを撮影
花言葉:華やかな恋

 

 

昨年11月8日(金)に、愛知県豊橋市にある愛知県立時習館高等学校を訪問し、また、同じく豊橋市にある合名会社小田商店を訪問しました。ほかにもいくつか訪問したのですが、今回の歴訪記ではこの2箇所に絞ってお話します。

 

豊橋駅に7時58分にひかり501号で到着し、朝8時15分頃、時習館高等学校を訪問しました。朝のお忙しい時間帯ではありましたが、校長の林誉樹先生、教頭の木藤政美先生にお迎えいただきました。

 

そもそも、なぜ私が時習館高等学校を訪問することになったのか、まずはその経緯を説明しましょう。

 

昨年4月7日(日)に、愛知県の渥美半島を訪問しました。渥美半島先端には、常光寺というお寺があります。私は1956年(昭和31年)の夏休み、約1ヵ月間ここで生活しました。これは、亡き父の勧めでありました。

 

あの頃、なぜ父が東本願寺系の寺院である法泉寺(三重県桑名市多度町香取180)に先祖の墓所があるにもかかわらず、曹洞宗の常光寺に1ヵ月間私をあずけたのかその理由はわかりません。もしかすると「洞岳達禅大和尚」という常光寺の先代(34世)住職の法階から、大いなる勉強家の住職より良い刺激を受けるのではないかと期待していたのではないでしょうか。なお、現住職(35世)の山下幹雄様も、大和尚の法階をお持ちです。

 

4月7日(日)に、ほぼ60年ぶりにこの常光寺を尋ねたのです。私より2つ年上の山下幹雄様とは、この時初めてお会いしました。昭和31年当時、私が常光寺にいた時には、現住職は駒澤大学を卒業されて(同大学は曹洞宗が1592年に設立した吉祥寺(東京都文京区本駒込)境内にあった学寮(「栴檀林(せんだんりん)」と呼ばれます)を前身としています)、すぐに福井県永平寺に勉学に赴いていたため、私と一回も顔を合わせないままであったのです。

 

常光寺には、「七難即滅・七福招来(すべての災いは直ちに去り、すべての福はくる)」そして天下泰平を願う庶民の信仰が始まりといわれる七福神の神布袋尊天(布袋様の像)が祭られています。創建は応仁2年(1468年)であり、末寺は30ヶ寺にも及ぶそうです。750年以上前に開かれた曹洞宗にあって、500有余年前に創建された常光寺は、曹洞宗寺院の中でも古い歴史を有しているでしょう。歴史の浅い寺院には末寺が多くありませんが、常光寺には末寺が30ヶ所もあることからも、歴史の長さをうかがうことができるでしょう。そのような長い歴史を有する常光寺には、60年前と同じたたずまいの本堂がありました。昭和50年代に鐘つき堂と庫裡は新しくなったそうですが、本堂と総門は60年前のままであるとのことでした。今後も法灯(※)は、護持(ごじ)していきたいと、山下様はにこやかにおっしゃっていました。

(※)法灯…仏法がこの世の闇(やみ)を照らすことを灯火にたとえていう語。

 

さて、常光寺に居候中の当時の私は、勉強もせずに無聊をかこっていたので、折々、恋路ヶ浜を雪駄履きで歩きました。

 

当然のことながら、真夏の強い日差しの中で海風に浸りながら、寺から伊良湖岬先端までほぼ毎日5キロ程度歩いた記憶があります。私は歩きながら和歌山が生んだ南方熊楠(1867年~1941年)のことを思いました。恋路ヶ浜と和歌山県白浜町は、海に面していて温暖の地であったことから、イメージが重なっていたのであります。

 

ほとんどの人は知らない熊楠は明治以降で一番の知識人だと私は評価しています。彼はまさに歩く人だったのです。珍しい粘菌を求めて世界各地を旅し、日本各地の山中で、厳冬でも、空腹でも、ただただ歩き回り植物採集に打ちこんだのだといいます。それゆえに、昭和天皇も南方熊楠を敬愛していたのでしょう(参考:『別冊太陽 日本のこころ192 南方熊楠 森羅万象に挑んだ巨人』平凡社、2012)。「才子は馬車に乗り、天才は歩く」というフランスの格言があります。近代科学の産物とは一定の距離をおいて、自分の身体を使うことで初めて人間としての才能がフル回転するという意味でしょう。

 

さて、昭和31年、当時は私は大学1年生でありましたが、その夏休み、約1ヵ月間、この常光寺で生活したのですが、住職のお話では、当時は周辺にホテルや民宿等の宿泊施設がなかったため、合宿場所として本堂を提供し、方々より大学生等を受け入れていたといいます。60年前の私も、その一員であったのでありましょう。

 

私がお世話になっていた同時期にも、20人ほどの愛知県立時習館高等学校(豊橋市)の男女学生が、1週間程度合宿生活をしていたことを記憶しています。引率の先生は男女1人ずつでしたが、特に女性の先生が素敵だったとの記憶があったのです。そんなことを思い出して、時習館高等学校に問い合わせましたところ、その女性の先生は、音楽教師で、もう10年以上前にご逝去された、内藤貴美子先生とおっしゃる、いわゆる「名物教師」として人気の高かった先生だったと分かりました。内藤貴美子先生について、いろいろとお話をお聞きしたいと、この度訪問を申し入れて、昨年11月8日(金)に時習館高等学校を訪問したのです。

 

次回に続く

 

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