2013年12月のアーカイブ

「花」最終回「花と宇宙」+付録


20131227.JPGのサムネール画像

2013年12月10日(火)7:25
目黒区立中目黒公園内にて石蕗(つわぶき)を撮影
花言葉:「謙譲」「困難に傷つけられない」

 

 

花はその種類や品種それぞれで開花時間が異なります。朝顔、昼顔、夕顔などがその代表例でしょう。花の開花時間の違いを利用して考案されたものにヨーロッパの博物学者、植物学者であるカール・フォン・リンネ(1707年~1778年)による花時計があります。リンネは、Wikipediaによると、動植物についての情報を整理して分類表を作り、その著書『自然の体系』(1735年)において、それぞれの種の特徴を記述し、類似する生物との相違点を記したことで、「分類学の父」と称されているそうです。

 

花の開花時間は、温度と光の条件で決まるため、天候によって多少のずれがあるそうですが、ほぼ一定しており、花時計は時計回りに開花時間が早いものから遅いものをぐるりと円周に植え込むことで作ることができます(公園や広場などにある文字盤に花を美しく植え込んだものも「花時計」と呼びますが、ここでの花時計は植物の開花時間の差を利用して作るものです)。

 

植物は、太陽の光、すなわち宇宙のエネルギーを使って生命活動を行います。たとえば、ヒマワリは「太陽の花」と呼ばれ、太陽の方を向いて咲くといわれますが、これは植物全般に共通することだそうです。また、午後8~9時くらいから咲き始め翌朝には萎むドラゴンフルーツの花は、夜咲きで、新月の日と満月の日に開花することが多いそうです。月下美人も同様です。これには科学的な根拠はないそうですが、月に関しても、植物が宇宙のエネルギーを感じて花を咲かせているようにも思います。「幸福の木」として知られるドラセナ属のドラセナ・フレグランスは、その強い生命力から、ハワイでは家の前に幸福の木を置いておくとよいことがある、と言い伝えられているそうです。ほんとうに幸運が訪れるかはわかりませんが、夢のある話です(なお、ドラセナ・フレグランスは、室内で育てても、あまり花を咲かせることはないそうですが、ある程度大きく育ったものは、名前のとおり甘く強く香る白い小さな花を咲かせるそうです)。

 

ひまわりといえば、私にとっては、2002年8月に、北京から、大同市の雲崗石窟を訪れた際、車窓から見た一面、ひまわりの咲いた景色がわすれられません。また、1965年(昭和40年)のアメリカ・イタリア合作の映画『ドクトル・ジバコ』(原作はロシアの作家・ボリス・パステルナーク)のなかの、第一次世界大戦中、戦場の病院で主人公の男女が心を寄せ合うも、それぞれのお互いの家族の元へと帰っていく別れ際、たくさんのヒマワリが病院の窓際に飾られているシーンが印象的です。

 

さて、2013年7月6日(土)午後9時に、NHKスペシャルにて「足元の小宇宙~生命を見つめる植物写真家」という番組が放送されました。植物写真家の埴沙萠(はに・しゃぼう)さんが、私たちのまわりの自然の中にひしめく数え切れないほどの小さな植物のいのちの躍動を、レンズを通して捉えていました。余分な水分を排出したり、湿度の変化によって踊りだしたり…かすかな気候の変化や宇宙の状態を、言葉を発さない植物がそれを感じ取り、美しい花を咲かせることは、植物が辿ってきた、長い地球、宇宙の歴史を私たちに伝えてくるようで、愛おしさとともに畏怖の感情すら湧いてきます。

 

街角の清楚ないろどりの花々からふと目を上げれば、愛しい人たちが還っていた果てしもなく遠く高く続く天、宇宙が広がっています。わたしたちが、花を愛でるとき、癒しを感じるのは、わたしたちが宇宙のなかに生きていることを自覚し、宇宙の調和を感じることができるからではないでしょうか。人間のいのちのエネルギーは、宇宙の調和のなかで、力を得たり、与えたりしながら、バランスをたもっているのでしょう。宮沢賢治が、動物や植物と会話をしていたという話がありますが、賢治の宇宙、自然描写にとくに優れていたあの筆力は、宇宙との交流でそのエネルギーを感じていたからではないでしょうか。

 

宇宙が織りなす永遠の循環の時のなかで、わたしも、この循環を意識し、宇宙にいのちをゆだねると、宇宙とわたしとは、一体になり、走り続けてきた人生のなかで、わたしに積もり重なった疲れや悲しみが、ふと癒されるのです。

 

天にありては星。地にありては花。人にありては愛。
これ世に美しきものの最たらずや
高山樗牛(1871年~1902年)

 

 

~計19回にわたって掲載してまいりました「花」も今回をもっていったん終了し、来年1月16日(金)からは「弁護士の営業」をテーマに連載を開始します。連載では、私の50年間にわたる弁護士生活を振り返りながら、私の考える営業のコツを提示し、営業のあり方を検討していきたいと思います。これは、弁護士の方に読んでいただくだけではなく、一般企業に勤められている方、あるいは営業に直接携わっておられない方にもぜひ読んでいただきたいと思っております。ご期待ください。

なお、「花」のブログは、今後いつかまた再開することもあります。その際には、皆さまからのご意見を反映し、より良いブログを作りたいと思っております。この度の計19回の「花」ブログについて、ご意見、ご感想をお寄せいただきますようお願い申し上げます。

 

本年も1年間、当ブログをお読みいただきありがとうございました
輝かしい新春をお迎えくださいますよう、心よりお祈り申し上げます。

 

 

 

 

付録 草月流 師範 栗生紗世先生より

 

「いけばな」は一般的には室町時代の立花(たてばな)が起源とされています。立花とは、神が降りてくると言われている常緑樹の枝を高く立て、花を添えるいけ方です。その後、立花は安土桃山から江戸時代へ、よりダイナミックに豪華に発展していきます。

一方、それとは対照的に茶道の「茶花」もこの時代にわび・さびの世界の中で発展していきます。明治以降、政府が婦女子教育の一環として「いけばな」を推奨するようになると、今までの男性中心だった「いけばな」の担い手が一般の女性に移ることになりました。そして現在「いけばな」は「IKEBANA」として、国際語にもなっていて、日本の伝統文化のひとつとして世界中で注目されています。

ここで少しヨーロッパのフラワーアレンジ(お花屋さんで売っているカゴなどに入ったアレンジ)と「いけばな」の違いをお話ししたいと思います。まずは西洋庭園と日本庭園の違いを思って頂ければわかりやすいと思います。前者の多くは、はっきりしたフォルムの木や花をシンメトリーに配しています。一方、日本庭園はどこから見ても、全て違う表情になるよう、木も枝ぶりを活かし、石などもアンシンメトリーに配しています。「いけばな」も同じく、その枝の線の流れを活かし、大きく空間を取り、そこに風を感じさせるようにいけます。空間を埋めていくフラワーアレンジとは全く異なものと言えます。つまりそこには「風情」「風流」という日本独特の美意識が盛り込まれているわけです。

また、日本の場合、花と言えば梅・桃・桜など花木を指すことが多く、ヨーロッパでは花と言えば花の顔そのものを指すのも、不思議な違いです。そのことからも、枝ぶりを活かす「いけばな」と、花の顔をたくさん前面に見せるフラワーアレンジとの美意識の違いがわかります。

私が「いけばな」を始めて、今年で40年になります。ここ20年は「いけばな」を仕事(「教える仕事」と「いける仕事」)としてきました。

 

◎ 「教える仕事」

市ヶ谷教室と麻布十番教室、企業の華道部、単発の講習会などで指導しています。

教室運営も、時代とともに、月謝制からワンレッスン制(1回\3400)へ。開講時間も22時までに延長し、できるだけ出席しやすいよう考慮しています。習い事をする時間が減少している昨今、なかなか厳しい状況ですが、海外に出る機会も増え、改めて日本の文化を学んでみたいというニーズの手応えも感じています。「花のある暮らし」を実現するためにも、是非気軽に入門して頂きたいと願っています。

 

◎ 「いける仕事」

レストランや企業の受付などに定期的にいけています。「いけばな」があると、その空間が実にイキイキと輝きます。レストランではお客様への最高のおもてなしになります。企業では、その企業の格が間違いなく上がります。ご依頼頂けましたら幸いに存じます。

 

◎ 世界に誇る日本の「いけばな」

私の夢は、色々な所でIKEBNAに出会える日本(少なくとも東京)にすることです。

ほとんど毎日どこかでいけていますが、不思議にも飽きることが全くなく、毎回新鮮なのです。数ある流派の中でも草月流は古典を伝承していくと言うよりも、「いけばな」で自分を表現するという流派ですので、私に合っているのでしょう。皆さまが思い描く「いけばな」のイメージとは、かなり違うのではないでしようか?とてもダイナミックでクリエイティブでエキサイティングな世界なのです。

 

草月流  栗生紗世

栗生先生への各種お問い合せ(市ヶ谷教室、麻布教室、出張いけばな、単発の講習会等々)は下記のとおりです。

電話  03-3366-2078   メール  sayo@marronborn.com

 

 

 


IMG_3091.JPG

2013年12月10日(火)7:25
目黒区立中目黒公園内にて石蕗(つわぶき)を撮影
花言葉:「謙譲」「困難に傷つけられない」

 

 

前回に引き続き、8月10日(土)~12日(月)にかけて訪れた内モンゴルでの思い出をお話しします。

 

(1) 8月11日(日)


IMG_1715 ジンギスカン廟.JPG

ジンギスカン廟にて

<ジンギスカン廟>

朝8:30には、高い階段を登って「ジンギスカン廟」に行きました。公園にも行き、9:20頃まで過ごし、最後にはモンゴル人の衣装を着て写真を撮りました。

花はここにもいくらか咲いていましたが、これから向かう阿尓山(アルシャン)への行程には咲き競っていると言われています。

IMG_1723 ジンギスカン廟へ続く回廊.JPG

ジンギスカン廟へと続く長い回廊

 

<阿尓山へ>

9:30にはウランホトを発ち、いよいよ阿尓山に向けて車で移動しました。ウランホトから阿尓山まで約250キロの高速道路の道のりを、ノンストップで走りました。

心地よい日差しの中で草原を見ながら、ウランホトを発ってから170キロを越えたところくらいから、所々林が見え始め、灌木・森林が増え始めました。まさに土壌も水資源も豊かな国であると感じました。草原は緑一色でしたが、やがて阿尓山までのこり残り50キロ近くになると、畑が現れ始めました。畑と言っても機械栽培ですから、広大な草原の中で所々黄色っぽくなっていたりする土地があって、それが畑だったわけです。

阿尓山の村につくと、いずれも素朴な近代的な建物で、大半の屋根は赤でした。モンゴル人は赤と青が大好きなので時々青の屋根もありましたが、ほとんどの屋根が赤でした。草原には小さな花がたくさんありましたが、被写体とするにはあまりにも小さく、草原の緑に圧倒されているようでした。

阿尓山の飲料水は地下3000メートルから噴出している泉だそうです。常温1.5度だそうです。阿尓山の人々の中には癌患者は全くおらず、血圧が高い人も低い人もいないそうです。奇跡の水と言われるようになるでしょうと、ガイドの人が話していました。

 

<ホテル・「海神温泉ホテル」(Hai Shen Wen Quan Da Jiu Dian)>

14:00頃、ホテルにチェックインしました。ウランホトを出発し3時間弱が経過していました。

阿尓山のホテルは五つ星のホテルで、ウランホトのホテル(長豊国際ホテル)よりもはるかに立派でした。ホテルに入ってひんやりと感じたのは、大理石を沢山利用して作った建物で石の冷たさが空気に反映してのことでしょう。

 

<国家自然公園>

ホテルにチェックインした後、郊外にある国家自然公園へ片道70キロの道のりを進みました。郊外へ行くと、道の左側に太陽光と風力を利用した柱が次々と現れました。草原には牛、馬、羊がところどころいて、たまにラクダもいました。

 

<天池>

15:30から天池(山頂に湖のあるところを言います)を目指して籠で999段の階段を登りました。灌木の中を涼しい風に吹かれながら登りました。その灌木の正体は山陽(サンヤン)という木でした。天池は決して広くない湖ですがそれでも広く感じました。写真を何枚も撮り、1時間程して籠で下りました。

IMG_1057 天池.JPG

天池にて

 

かつて弊所の事務所報(2006年新春号)にも書きましたが、世界遺産にもなっている有名な景勝地・黄山について、鄧小平先生が6万段もの階段を歩いて登り、後に江沢民先生がこれを籠で登ったといういわれが残っています。私が黄山に登った2005年11月にはロープウェーができており、歩く階段の数は3万段に減っていましたが、それでも命がけで上り下りしました。

それに比べて10年後のこの日は、私がこの999段を上り下りしたのは籠でした。所要時間も50分程度でした。月日の流れを感じずにはいられませんでした。

 

(2) 8月12日(月)

 

午前7時にホテルの朝食会場に行きましたが、のんびりしたモンゴル人のことでもあり、朝食の準備はまだ整っていませんでした。北京で宿泊したホテル(長富宮飯店)のそれに比べ質素なものでしたが、それなりに美味しく頂きました。

モンゴル人は漢人に比べてのんびりしていますが、それも数年経てばスピードの早い国民性になっていくことでしょう。近代化、現代化というのはスピード化ということを意味しているからです。

日本人はまだまだスピード化が遅いが、それでもモンゴル人に比べれば速いことは言うまでもありません。漢人に比べればスピードの点では日本人は疑問が残ります。要するにスピードで負けないように社会の競争に伍していかなければならないことを痛感しました。「拙速は巧遅に勝る」という孫子の兵法の名言を、中国人は実践しているのだろうと思い至った旅でした。

 

次回は、今回の旅にご同行いただいた弊所北京代表処カウンセル 包香玉先生の手記をご紹介いたします。

 

 

 

付録

 

12月8日(日)に、千葉県若葉区小間子町にある風戸農園にて、収穫祭が開催されました(風戸農園については、下記ブログをご覧ください)。その様子を、同農園を運営されている風戸章様にご寄稿いただきましたので、掲載します。

<風戸農園について述べた本ブログ記事>

・ 2011年10月18日付【交友録その14】

・ 2013年6月28日付 第1回「野菜を愛する風戸農園の会」のご報告(前編)

中編後編もあります。

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12月8日(日)この時期にしては穏やかな絶好の収穫祭日和に恵まれ、高井先生はじめ大人12名と子供4名が風戸農園にお見えになった。

遠くは八戸から八戸工業大学名誉教授 杉田修一先生におみえいただいた。杉田先生には、前に「貴水」をいろいろな作物に使わせていただき、その効果の程をレポートさせていただいたご縁のある方だ。今回親しくお話でき、実際に私の畑をご覧いただき、実験の方法などについてご説明させていただいた。さらに話はすすみ、「貴水」を新たに送っていただき、さらに実験を深めていくことになった。

当日は高井先生の秘書の渡辺順子さんがJR千葉駅まで来て下さり、私と妻と3人で畑に10時に到着した。そして炭をおこしたり、猫にさかなや肉を食べられないよう、見張りをお願いした。どういうわけか、私の庭には猫が住み着き、ここ十数年猫が絶えない。いまは雄1匹、メス1匹、子猫2匹の所帯だ。多い時は、10匹以上の猫に仲良しの鶏がいた時期もある。猫と鶏が同じエサ箱に首を突っ込んで仲良く食べているのを見るのは、なんとも面白い光景だった。今でも時々思い出す。

高井先生はいつものことだがとてもお忙しく、この日も11時半にみえて13時にはお帰りの予定。こちらの作戦は11時半からすぐBBQをはじめ、できるだけ速くすすめること。渡辺さんのお手伝いは本当にありがたかった。BBQのやりかたも、グループにより様々。食材、飲み物一切を自分たちで調達し、炭起こしの名人もいる。焼きそば係もいる。サンマ焼きの名手もいる。なかには釣りの名人が、その時、その時に釣れた高級魚を大量に持ってきてくれたりする。

今回のグループは、高井先生と、ミス日本コンテスト事務局 和田優子様以外は、はじめてなので、どんな展開になるか見当がつかない。どなたが仕切るのか、どなたが飲むのか、私は、どんな酒でも出せるよう、一般的な酒は、全部用意した。子供にはどんな子が。畑に来ると子供の個性がすぐ出る。

 

私は春と秋に2回BBQをする。ワンシーズン200名。さつまいもは普通の芋100本、紫芋100本、ひとり一株の割だ。先生のグループには25名分残した。その芋は子供4人ですべて掘りとってくれた。収穫野菜も好みがある。5年ほど前、わたしの畑にきた女性が「ああ、長崎赤かぶだ」と叫んだ。「よくわかりましたね」というと、「私長崎出身なの」と。それ以来ずっとその女性は長崎赤かぶ目当てだ。また、福岡出身の男性から、かつお菜を作って欲しいといわれたことがある。福岡ではお雑煮に入れるそうだ、ところが種子がない。やっと手に入れて、その後は自家採取し毎年作っている。高井先生からは、ペカンというナッツの木を所望され、2年たった。順調に育っているが、あと5年くらい収穫には掛かりそうだ。真夏の暑い時期にトマト、ブルーベリー目当てに来る方もいる。ルバーブをみつけて、ジャムにすると大張り切りの女性もいる。

私はできるだけスーパーやデパートでは売っていない品種を育てている。今秋は、イタリアの青いカリフラワー(ブロッコリーと菜の花の合いの子の品種)、チコリなどに挑戦してみた。夏のオランダのトマトは、収量は多かったが、味はいまいち。フランスのナスは大きく、緻密でうまかった。いろいろ試して畑にあった野菜を育てていきたい。

私の目指す農業は循環型。家庭の生ごみ、雑草、木の枝等、一切無駄にしない。すべて野菜の肥料にする。野菜も穏やかに育つ。私のキャベツは、7月7日に種子をまいて今収穫。野菜づくりには農家の倍以上の時間をかける。じっくり旨味を引き出したいと思っている。

 

さて、当日は寒いと思ったので、畑の空き地に焚き火を用意した。大人も、子供も夢中になって楽しんでいた。たぶん石器時代からのDNAが脈々と流れているのだろう。掘った芋で焼き芋にしている子もいた。高井先生のグループが今後どのように進化していくか、楽しみである。全員参加型の収穫祭に育てていきたい。次回が楽しみだ。次回はそら豆だ。

(風戸農園 風戸 章 様よりご寄稿)

【歴訪記】北京~内モンゴル(1)


IMG_3012ブロッコリーの花.JPG

2013年12月8日(日)11:35
風戸農園にてブロッコリーの花を撮影
花言葉:「小さな幸せ」

 

少し前の話になりますが、今夏、8月9日(金)から14日(水)にかけて、中国・北京、内モンゴル、上海を訪れました。この度の訪問のなかから、特に印象深かった、9日(金)の北京での思い出と、10日(土)~12日(月)にかけて訪れた内モンゴルでの思い出を、今回の歴訪記でお話したいと思います。

 

(1) 8月9日(金)


9日(金)日本時間の9:10発の飛行機で羽田空港をたち、現地時間の午後12時過ぎに北京空港に到着し、弊所の北京事務所のパラリーガル、何云さんが車で迎えに来てくれました。

<新世界百貨店>

まず、翌10日(土)から訪れる予定の内モンゴルが、この季節は日中30度くらいになり、日差しが強いとのことで、帽子を買った方がよいと勧められ、新世界百貨店に立ち寄りました。男性用の帽子がよいものがなかったので、優しげな印象の女性用の帽子を180元で購入しました。

<世界花卉大鑑園>

当事務所の北京代表処に立ち寄ったあと、現地時間3時半頃に、世界花卉大鑑園(北京市豊台区)を訪れました。

 

IMG_1653カート.JPG

小さな2人乗りカートに乗って、園内を4時半まで周回しました。そこには色とりどりの花が咲いており、いずれも花は日本より鮮やかで華やかな色合いでした。たくさん写真を撮って回りましたが、金曜の午後だったせいか公園にきている中国人はほとんどおらず、本当に稀に見かける程度でした。

page.jpg

(左)矢車草[奥]とコスモス / (右)アンスリューム

 

世界花卉大鑑園でとりわけ印象的だったのは、園内の広場で、新婚の夫婦かあるいは婚約したばかりの男女が2,3組写真を撮っていたことでした。うち1組には専門のカメラマンが付き、もう1組には照明係がついて、色々なポーズをとっていました。

それは、15年前の上海でワタベウェディング縫製工場とお店を見学した際に見せて頂いた、アルバム資料の光景に良く似ていました。文化大革命当時に記念写真を撮れなかった老夫婦が、青春時代に戻った若づくりな出で立ちで20数枚の写真に納まりアルバムになったその姿は、しかし今では全く若いペアになり変わっていました。

 

次に印象に残ったのは、公園の東屋のもとでトランペットを熱心に練習している中年の男性がいたことでした。

私は2002年12月に催して頂いた事務所設立30周年記念のパーティーで、ヤマハ株式会社から高井の名前が刻印されたトランペットを頂きましたが、事務所に置いたままで全く演奏をしたことがありません。しかし公園でトランペットの音色を聴くと、自分でもぜひ吹いてみたくなりました。ただ耳の故障があって、残念ながら今後も自分では演奏できないであろうことに気づき、一抹の寂しさが心をよぎりました。

 

 

(2) 8月10日(土)

翌10日(土)、午前中はいろいろと当事務所に関する執務をこなして、北京空港を発ち、16:45に烏藍浩特(ウランホト)空港に着きました。

※ 本来は14:30に北京空港を発つ便のはずでしたが、いつもながら中国の飛行機は定時性に著しく欠けますから、1時間以上の遅れでした。定時性の競争においては日本航空が世界第1位であり、中国は最下位と言われています。残念ながらその通りでした。

IMG_1671ウランホト空港.JPG

ウランホト空港から出て空を見れば、真っ青な天にも抜けるような見事な晴れ空で、そして緑の美しい町が眼前に広がりました。PM2.5の問題もないし、さらには工場というものがないから、空は光輝いていたのでしょう。PM2.5についてはモンゴルでは関心はほとんどないと言っていいと思います。気温は30度で、日差しは強烈でした。

17:30頃ホテルに着きました。その後、佟广エンさんが迎えに来てくれました。これは、日本とモンゴルの架け橋を目指すPHPの櫛原吉男氏にご紹介頂いた、旧知の木曽路物産株式会社・鹿野正春社長によるお心遣いでした。

 

そして18時半過ぎからしゃぶしゃぶ料理店「大世界肥牛府」で夕食会が開かれました。しゃぶしゃぶ料理の主流は牛と羊と豚のお肉が中心でしたが、豊富な野菜にも心打たれました。

木曽路物産が開発を進めている数々の商品はオーガニックを目指していて、佟さんの同僚である周加信さんは、広東からウランホトに赴いてオーガニックの指導を農家にしているとのことでした。このような動きが中国全体に広がることを期待しつつ、とても美味しくしゃぶしゃぶを頂きました。

食事会では、他にも色々なお話を伺いました。まず、内モンゴルでは漢民族が圧倒的に多く、モンゴル人は30%です。その他には、朝鮮族と満族、そしてオロチョン(鄂倫春)族もいるとのことです。 また、タオール族という民族もいるそうで、オロチョン族とタオール族はモンゴル人の亜流であって、いずれもモンゴル語でコミュニケーションを図っているとのことです。

 

次回は8月11日(日)の内モンゴルでの思い出をお話します。

IMG_2926.JPG

2013年12月1日(日)8:10
目黒区立中目黒公園内にてダリアを撮影
花言葉:「華麗」「優雅」「威厳」「移り気」「不安定」

 

 

縁で紡がれる人生


高井先生の旅行に何度か同行させてもらった。それに伴い、行き先々で多くの体験をすることが出来た。また、先生に何度か同行するうち、旅先での先生の言動をして「先生独特のパターン」に気付いた。


まず、どこに行こうと、現地にて出会い、接し、見たものすべてに、重度の好奇心を発揮されるということだ。ちょうど、探検家が未知なる世界に好奇心をたぎらせるようなとでも言おうか、いやそんな言葉では足りないほどの強烈な好奇心である。

もう一つは、「袖すりあうも多生の縁」である。


いつだったか、徳島で「眉山ケーブルカー」に乗った時である。平日ということで乗客は先生と私、そして40代と思える男性の観光客、3人だけであった。

先生は、ケーブルカーが動き出すとすぐにその男性に「観光ですか。どこから来たのですか」と声をかけた、すると男性は、一瞬戸惑ったような表情で「東京からです・・・」と答えた。その言葉には、旅先で出会った観光客どうしの「旅は道連れ」的な空気は感じられなかった。無理もない。初老の男性2人がわけのわからない笑顔を振りまいて馴れ馴れしく話しかけてきたのだ。“得体の知れない人たち”ということで構えてしまったかもしれない。

それでも先生は、ケーブルカーが中間あたりに差し掛かった頃、一方的に「私も東京からです」と言って名刺を出した。名刺をみて相手は、目前にいる初老の人が「弁護士」ということで一先ず安心したか、或いは気を取り直したようであった。男性は、筑波にある研究所に勤務していると言い、会話らしきものが行き交った。


だが、ここからが高井先生の、高井先生たる所以である。男性に「名刺があったらください」と言った。男性は「あいにく名刺は持ってないのですが・・・」と言うと、「それじゃ携帯電話番号を教えてください、ああ、名前と住所も書いてください」と言い放った。

出会って5分もたっていない相手に「電話番号・住所」を教えろとは、「袖すり合うのも多少の縁」どころか、「縁と思って俺の袖に触れろ!」と言わんばかりである。ところが意外にも、その男性は先生の要求に応えて住所と名前、携帯番号を書いてくれた。先生の積極的な声かけと人懐こさに、その男性は拒むことができなかったのかもしれない。きっとそうであろう。
それにしても、頂上までの6分間で、半ば強引に縁を取りまとめてしまったのだから、すごいセンセイである。


エピソードが長くなってしまったが、先生は常日頃から「縁」や「出会い」を重要視している。そればかりか、先生は現在、「縁」に関する本を発刊する準備をされているぐらいだ。つまり、これほど縁を大切に・・・いや本当にどんなところへ行っても、隣り合った人、触れ合った人にはすぐ話しかけて、縁をスタートさせてしまうのである。

高井先生が「縁」をそれほどまでに大切にされる理由も、なんとなく分かるような気がする。

人生におけるすべては「縁」にて紡がれる。そればかりか、宇宙を司っている何かの存在が、我々人間を、我々を導くために「縁」という手段を施しているような、そんな気がしなくもない。人には偶然としか思えない縁も、その実、それは必然的なものであるように思える。

 

縁といえば、米作家アーネスト・ヘミングウェイ(1899~1961)の人生が思い出される。彼の作品『老人と海』は、世界で最も多く読まれた小説であり、多くの国で教科書としても使われている。

米イリノイ州で生まれたヘミングウェイは18歳の時、新聞記者からスタート、世界大戦の勃発とともにヨーロッパに渡り、義勇兵としてイタリア戦線に加わった。戦後、通信記者としてパリに住み、作家活動をはじめる。

ヘミングウェイが文壇にデビューしたのは1926年にパリで発行した『日はまた昇る』であった。その後、『武器よさらば』『誰が為に鐘が鳴る』等の名作を発表した。

『老人と海』にはモデルとなった一人の老人がいた。キューバ籍のグレゴリア・フェンテスさんがその人である。彼はスペイン領アナリア諸島に生まれ、6歳のとき家出してキューバにわたった。そして31歳のときにヘミングウェイと出会い、ヘミングウェイの船の船長兼コックとして働いた。1952年、ヘミングウェイはフェンテスさんの日常生活や漁民たちの様子をもとに『老人と海』を書き上げ、ノーベル賞を受賞した。一方、フェンテスさんは2002年1月、ハバナから15キロほど行ったコヒマル村で104歳の生涯を閉じた。

ヘミングウェイにとって、フェンテスさんと出会った「縁」がなかったら『老人と海』、“ノーベル賞”は存在しなかったはずだ。ヘミングウェイだけではない。人間が織りなす人生は、こうした名も無き人たちとの出会いによって紡がれる。

 

高井先生はこれからも、海外や国内を問わず、出張される地で様々な「縁」を手繰り寄せることだろう。そういえば、私が今、この原稿を執筆しているのも、高井先生と出会った「縁」からである。

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