2013年11月のアーカイブ

「花」第13回:花のうた+付録


20131129.JPGのサムネール画像

2013年11月24日(日)16:17
静岡県浜松市西区舘山寺町 はままつフラワーパークにて
フォックスフェイスを撮影
花言葉 「偽りの言葉」

 

 

花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう

花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く いつか恋する君のために

(NHK「明日へ」復興支援ソング『花は咲く』)

 

これは、東日本大震災の被災地・被災者の復興を応援するために制作されたチャリティーソングで、NHKが震災後の2011年から行っている震災支援プロジェクト「NHK東日本大震災プロジェクト」のテーマソングとして使用されている曲です。作詞は岩井俊二氏、作曲・編曲:菅野よう子氏です。

 

人は人生のさまざまな時期に、折に触れて、そばでそっと咲いていた花々の姿に、その時の幸福感、愛情、失意、悲しみ等のさまざまな想いを重ねます。白百合を見ると、亡妻孝子と亡娘真理子とのカトリック麻布教会での別れを思い出すと前回(11月1日「花」第12回:花ことば(2))のブログでもお話しましたが、人それぞれの想いを映し出す花は、美しく、そして人々をそっと励まします。

いまでは指輪も まわるほど
やせてやつれた おまえのうわさ
くちなしの花の 花のかおりが
旅路のはてまで ついてくる
くちなしの白い花
おまえのような 花だった

 

「くちなしの花」(作詞:水木かおる、作曲:遠藤実、1973年)は、離別した女性をくちなしの花にたとえ、遠く離れても、くちなしの花の香りによって、別れた女性を思わずにはいられない切ない男の心境が詠われています。

くちなしの花の香りは、「花」第4回:季節を彩る花々(2)(2013年3月1日付)の当ブログ記事でも触れたとおり、甘いジャスミンの香りよりも一層甘く、やや、ふくらみを持たせたような深い香りが印象的です。

くちなしの花の深く甘やかな香りが、女性と過ごした甘い日々と情を交わした相手への思いの深さとをたとえているようにも思えます。人は生きていくなかで、誰かを愛し、別れのときを迎えます。ともに過ごした日々が甘く幸せであればあるほど、その別れの切なさはいやますものです。死別の悲しみは、失った人が決して戻ってくることがないことから癒えがたいものですが、この「くちなしの花」の生きながらの別れもまた、いまは風の噂で痩せてやつれたときく女性を遠く離れて思うことしかできないやるせなさに、胸が締めつけられるような思いがいたします。

 

このように人の生きざまや心映えを花にたとえた歌はこれまでも数多くありました。たとえば、「花 ~すべての人の心に花を」(作詞・作曲:嘉納昌吉、1980年)という歌もあります。

花は花として わらいもできる
人は人として 涙も流す
それが自然の うたなのさ
心の中に 心の中に 花を咲かそうよ

 

花は、自然の中で強い風雨や日照りにあい、思うように咲けないこともあります。人もまた、自然の中で生きるものとして、ままならぬことに見舞われることがあります。しかし、それでもまた、芽吹き咲こうとするのが花なのです。

そのような自然の中で生きる花の姿に、人は自らを重ね合わせることによって大自然―宇宙と一体となり、大きな流れの中で生きる自らを見つめ、悲しみと向き合うことができるようになるのではないかと思うのです。

 

また、花は、種類によって咲く時期が様々であることから、歌詞の中に花を詠み込むことで、季節やその情景を効果的に表現することができるでしょう。

リンゴの花が咲くころに 帰ってくるよと約束してた
あなたの便りが風に飛ぶ あなたの便りが風に飛ぶ
 

「リンゴの花咲くころ」(作詞:橋本淳、作曲:すぎやまこういち、1967年)という歌は、リンゴの花が咲く時期である5月になっても恋人が帰ってこない哀しみを詠ったものですが、白く小さなリンゴの花が健気に咲くさまはより一層憐憫の情を誘います。

このように、人は、花の生きざまそのものあるいはそれを詠いこんだ歌に触れることで、ときに癒され、勇気をもらい、希望や夢を抱くことができるのだと思います。

 

少し前に日本でも「ガーデニング」ということばが一般名詞となり、多くの愛好家が生まれましたが、このように何気ない日常で私たちの目を引く花の多くは、個人宅のお庭やベランダで丹精込めて育てられている花々ではないでしょうか。

確かに首都圏に住む私たちのまわりでも、道路の中央分離帯には夾竹桃、歩道沿いにはツツジが咲き、大きな公園は管理事務所や自治体が協力して美しい花を咲かせています。春には河川に沿って桜が咲き誇るのも、関係者の日頃の努力の賜物かと思います。

しかし郊外の小さな公園などは、土木事務所や公園管理事務所の委託を受けた地元の町内会が、ボランティアで美しい花壇を作っている例が多いのです。

また横浜市や名古屋市の公立小学校には、日頃お世話になっている子ども110番の家や地域の方にプランターに植えた花苗を贈る行事があります。校庭のまわりをコスモスが取り囲む小学校もあります。幼稚園・保育園や小学校に球根を送る運動をしている非営利団体もあります。おしなべて義務教育の現場では、花を身近に感じられるような努力が続けられています。

このように、日本ではまだまだ花に関しては民間の団体や教育現場、個人の努力に負うところが大きく、私見ながら環境省、観光庁といった、大きな影響力を持つ国や官公庁の働きかけは十分とは感じられません。

 

その時々で折々の花に支えられ、生かされてきた私だからこそ、家族、企業、特に地方公共団体、国には“花いっぱい運動”を広めて頂きたいと希うのです。

 

 

 

 

付録 朧谷 壽 先生との懇談

 

先日京都にて、同志社女子大学名誉教授・朧谷壽先生と懇談の機会を頂きました。その際ご一緒した積水ハウス株式会社の常任監査役・久保田芳郎様が、この懇談の様子をご寄稿くださいましたのでご紹介します。

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本年10月6日(日)、京都グランビアホテル・六本木楼外楼において、同志社女子大学名誉教授・朧谷壽先生と昼食をご一緒する機会を頂きました。

出席者は、朧谷先生、高井先生、私・久保田の3名です。

朧谷先生は、平安朝史、特に政治・文化・邸宅研究を専門とされています。午後1時より、3名でランチを頂きながらご専門のお話を交え、楽しく懇談いたしました。

 

先ずは、朧谷先生が2007年8月13日にご担当された、今上陛下へのご進講のお話が興味深いものでした。

時間はご進講が30分、ご質問をお受けするのが10分ほどとのことです。昔の天皇の院政(上皇政治)等についてお話されると大変熱心にお聴きになられ、天皇陛下からはご質問があったそうです。

 

現在、朧谷先生は「第73代・堀河天皇」についてご執筆中で、間もなく完成とのこと(ミネルヴァ書房からご出版の予定)。

堀河天皇(1079~1107)は8歳で即位されるも、父・白河上皇の院政下で苦労された方です。

堀河天皇は29歳(当時は数え年)の若さで崩御されたため、その子・鳥羽天皇が即位されたのはまだ5歳の時。それゆえ白河院政はなおも続き、次の75代崇徳天皇まで3代続いたそうです。

高井先生もこの本の出版が待ち遠しく、校正前に一読させてほしい、とお願いされたほどでした。

 

その高井先生が、「特にすぐれた天皇は?」と質問されると、詳細は伝わらないけれど「15代・応神天皇かと…」とお答えがありました。母上が神功皇后(ヤマトタケルの第2子である仲哀天皇の后)という説のある方で、さらには皇太子が後の仁徳天皇(16代)ゆえ、さぞかし崇高なかたであられたかと。

また髙井先生は、蘇我氏に滅ぼされた物部氏に関心を持っておられ、その延長で邪馬台国は二カ所あったのでは、という説をご披露されたところ、朧谷先生も、「大いにあり得ます。昔から夏と冬の二つの都を持つという事例は、いくつもあります。長安と洛陽、北京と承徳のように。ですから大和と九州にあっても不思議ではない」と。もちろん想像の域を出ない訳ですが…。

この話題に触発される形で、天照大神は男性では? 万世一系は天皇家だけか? 等々興味深いお話が次々と飛び出しました。

 

また、平安時代に宮家にお仕えした才女達、特に清少納言と紫式部の確執も面白いお話でした。感性の強い女性・清少納言は冷静に事実を見つめ描写するのには長けていたが、『源氏物語』のように多くの登場人物が複雑に入り込む内容のものは書けなかったのではというお話です。紫式部に『枕草子』は書けるが、清少納言に『源氏物語』は書けなかっただろうと。

王朝女流作家の共通点は、地方官吏の、それも教養のある家庭の子女であったということ。テレビもラジオもインターネットも無い時代に、宮中に入った彼女らは、さらにそこで情報を得て知識に磨きをかけたのです。

 

更に、高井先生からは、冷泉家(近衛中将に代々任官された羽林家と呼ばれる家柄の公家、藤原道長の子・藤原長家の子孫にあたる)の宝物の調査が終わったことについてのご質問が。

「明治4年に天皇が京都から東京(江戸城)へ移られる時、冷泉家はお留守居役を命じられたのです。当時は各宮家がこぞって東京へ移られたのに。和菓子の虎屋までが。

しかし、そのお陰で冷泉家は関東大震災にも、終戦間際の東京大空襲にも見舞われず、今のお宝が残っているのです。」というお答えが。

因みに、天皇家御所有のお宝は、現在皇居の三の丸尚蔵館に保存されていますが、これらは国宝級のものでも国宝には指定されず、御物(ぎょぶつ)と呼ぶのだそうです。

そして、明治時代の歴史認識としては足利氏はあくまで逆賊であり、それゆえ明治28年創建の平安神宮の祭り・時代祭に足利氏は登場しない、更には足利義満・義政、また利休という文化人も登場しない背景がそこにあるというお話を披露されました。

 

引き続き、高井先生からの「平安時代にわが世の春を謳歌した藤原家のその後は?」というご質問には、

「鎌倉時代以降、彼らは日常では氏名の藤原を名のらず家名で通したのです。例えば近衛、九条、一条、冷泉、烏丸のように。そして彼らは第二次世界大戦後に家名を氏名にしたのです。」とのことでした。

 

歴史の裏側を垣間見た楽しさで、あっという間に2時間が過ぎてしまいました。

 

 

――高井より――

なお、両3年のうちに、朧谷壽先生には弊所の年末講演会の講師をお願いしたいと存じます。

演題は“『紫式部』『清少納言』『伊勢』『赤染衛門』など、中世の女流作家について”、いきいきとしたお話を伺えればと願っております。

 

【歴訪記】10月1日(火)福島・会津若松


 

2013年11月10日(日)6:53
目黒区立中目黒公園内にて箒木(コキア)を撮影
花言葉:「恵まれた生活」「私はあなたに打ち明けます」 

 

 

<絵の贈呈式> 

本年10月1日(火)、私は絵の贈呈式のため、福島県会津若松市の一般財団法人竹田健康財団・竹田綜合病院を訪問しました。

その際ご一緒しました前福島県知事・佐藤栄佐久様より、ご寄稿をいただきましたのでご紹介します。

 

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10月1日(火)、高井伸夫先生のご縁で、福島県会津若松市にある竹田綜合病院への絵の贈呈式に参加してきました。

 

高井先生とは東京のある会合で同席し、桜の季節が話題になったので、「福島にも三春滝桜をはじめすばらしい桜がいっぱいありますよ」と、いつものふるさと自慢をしたのです。先生はその言葉を聞き流さないで、4月20日(土)に突然電話がかかり「佐藤さん、桜を見にきましたよ。」といらっしゃいました。「明日21日の朝食、ご一緒しませんか」というお誘いです。

私は正直感動しました。これまでたくさんの人に滝桜自慢をしましたが、真に受けて突然飛んできた人は多くありません。

私は郡山の書道家・鈴木瑞之先生をお誘いして宿(おとぎの宿米屋)に押しかけ、朝食と共に奥深い芸術談義など先生のお人柄を堪能しましたが、滝桜堪能のほうは余りの「4月のドカ雪」で果たせず、先生は真っ直ぐ雪の中東京にお帰りになりました。

 

さて、高井先生から、秋には新築と成った竹田綜合病院に絵を贈呈するので一緒にどうかというお誘いがあったのは夏だったでしょうか。

私は不勉強で存じ上げなかったのですが、高井先生がたいへん評価されている中国・上海市出身で現在シドニー在住の洋画家、蔡國華先生の絵をぜひ見てみたいという思いもあり、また知事時代から地域医療、とくに会津の地域医療の確立と充実には強い思いがありましたので、喜んで参加させていただくことになりました。

私の地域医療に対する考え方は、安岡正篤先生(1898年~1983年)の著された『童心残筆』に収められた随筆「杏林桃窓」にあるように、お医者さんが各々の病院で真剣な医療を行うことは勿論、医療の体制づくりが難しい広域をカバーすることです。特に会津はまるで小さい県にも匹敵するような広い面積をもつ地域で、まず会津と南会津の二つの生活圏をカバーする田島の県立病院を整備しました。そして今年、全会津の医療圏の完結を志向して、会津医療センターが完成したと聞いております。

(参照:「福島県地域医療再生計画」http://www.pref.fukushima.jp/imu/chiiki_iryou_saisei/sanji_niji.pdf)

 

これにもともと会津藩以来の「御薬園」、新鶴村の「朝鮮人参」活用の漢方など、有機的なネットワークを結んで、さらに高度な医療を提供できる体制がととのったわけです。新設成り、もともと筋のいい竹田綜合病院とどのような有機的な結合が為されるのか、現場を自分の目で見て実際に感じたいと思ったわけです。

 

蔡國華先生の絵は贈呈式の前夜に画集を拝見し、私のような門外漢があれこれ論評するまでもなくデッサン力もすばらしく感動しました。

 

会津東山の名湯・向瀧では、豪雨と勘違いしながら滝の音を聞き朝を迎えました。100年は磨いたであろうトロトロの廊下の脇の小さいコケ庭で、番頭さんがかがみこみコケのために小さな葉をせっせと抜いています。その姿に感銘しつつ朝食の後、竹田綜合病院へ向かいました。

 

贈呈式は、竹田健康財団理事長・竹田秀さんのあいさつの後、贈呈者の高井先生が「医師や看護師等、治療にあたる方々には、精神性を大事にする必要があると、かねがね思っておりまして、絵は人間の精神世界の所産ですから、それにふさわしい絵を蔡國華先生にお願いし、竹田綜合病院にお贈りしました」との力強いあいさつがありました。

その通り、と私は同感しつつ、いつしか先に述べた安岡先生の「杏林桃窓」を思い出していました。江戸の海防を担った会津と関係の深い千葉・富津からお見えの金谷美術館理事長・鈴木裕士さんと私の祝辞の後、ホールに絵が飾られました。

150号はあるでしょうか。裏磐梯などに良く見られるような山のなかのくねった道に、黄色い花と赤い花がそれとなく配置され、静かな中に近くの五色沼からのせせらぎの音が聞こえてくるようなとても深い絵です。

蔡國華先生の絵は、患者さんだけでなく、竹田綜合病院で働くお医者さんや看護師さん、すべての人々に、心と体のやすらぎをまさしく与えるにちがいない、と私は確信しました。

 

昼食まで30分ぐらい時間が有ったので、先述の鈴木裕士さんご夫妻を鶴ヶ城に案内し、お城の復元技術を生かして建築屋さんが造り、経営しているティールームに案内しました。ご夫妻は、その建築物やお城の巨大な石垣に感心していらっしゃいます。その感じが通りいっぺんのものでないのでお聞きすると、もともと名主さんで石垣の仕事などとも関係していた方の子孫なのだそうです。

そこから充分時間をとって昼食会場へ向かったはずが、なんと案内役の私どもが道に迷ってしまい、遅れてしまいました(笑)。

城下町は地元の私どもさえ間違うように造ってあるのです。それも敵に攻められたときの備えのため、独特のカギの手構造になっています。(決して遅れた言い訳をするのではありませんが…。)

 

楽しい語らいの後、会津には伝統工芸の漆器業界があり、その芸術性を求めて活動している方も多いので、その長老の家(角田弘司さん、純一さんご父子)で漆芸の作品を皆さんに見ていただきました。言わずもがなですが、福島空港の壁をかざる一番大きな1間×2間、夕日に輝く磐梯山の漆芸の作品はお邪魔した角田弘司さんの作品であります。

 

その後、有意義な1日を惜しみつつ散会となりました。会津においでいただいた皆様、ありがとうございました。

 

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2013年11月3日(日)06:35
岐阜県高山市奥飛騨温泉郷平湯温泉
旅館「のりくら一休」にて秋明菊を撮影
 花言葉:「忍耐」「薄れゆく愛」「多感なとき」

 

高井事務所の“業務現場” 

 

月一回の掲載で始まった「百聞は一見に如かず」のコラム、いつも何を題材にすべきかと考え込んでしまうのだが、今回は、迷わずに「高井事務所の“業務現場”」というタイトルにした。「現場」との言葉を使ったのは、高井先生の指揮のもとで動いている高井・岡芹法律事務所の、その業務進行システムやスタッフの方たちの仕事ぶりをぜひ紹介したかったからである。

 

11月休日某日、高井先生にご一緒して岐阜の「奥飛騨」に行った。午前10時半、事務所の前から先生の車で出発、所要時間約4時間の旅である。

車が動き出して10分ぐらいした時、先生が事務所に電話をかけ業務を指示された。だが、この「高井流業務指示」は普通の業務指示といった生易しいものではない。高井事務所独特のシステム、やり方なのである。

 

まず、先生が考えたことや所員への指示内容等を口頭で所員に伝えるのだが、伝えるだけではない。先生から電話を受けた所員は即、電話の内容を録音に録り、それをテープ起こしで文章に作成して、移動中の先生にFAXする。だが、車にFAXはない。したがってFAX宅配便を利用する。移動中に見つけたコンビニに立ち寄り、事務所から送信されたFAXをピックアップするのである。

当日も、奥飛騨に着くまで2回、コンビニに立ち寄ってFAXをピックアップした。だが、これで終わりではない。先生は事務所から送信されたFAXを手にすると即、事務所に電話をかけて「読み合わせ」という確認作業を行う。つまり、文章に誤りはないか、ニュアンス的に不自然さはないか、誤字脱字は…などなど。一通りの確認が終わると「よし」との指示がくだされる。こうした一連の業務過程において、ときには現場が震えあがるぐらいの怒り・厳しき言葉が発せられる場合も少なくない。

 

午後3時頃に奥飛騨に着いた。目的地の山林を30分ほど見て回り、宿には4時過ぎに到着した。フロントに行くと仲居さんが「FAXが届いています」と言って渡してくれた。私が車中で眠っている間に指示されたようであった。所員の方たちは、先生が出張される際は海外であろうと国内であろうと、事前に行き先々の宿あるいは訪問先をチェックし、先生の到着をもってFAXが受け取れるようにしている。ドラえもんではないが「どこでもFAX」である。

 

宿のルームキーとFAXを受け取った先生は部屋に入るやいなや、事務所に電話をかけてFAXの「確認作業」にとりかかった。そして、そこに追加するものがあればさらなる指示を下し、所員たちはそれに対応して再度のFAXとなる。

 

事務所を出発してから10時間あまりの間、コンビニでのFAXもあわせて相当の枚数を受け取った。でも、今回は少ない方だ。先生はそれまで忘れていたことでも旅先で何か見、誰かと会って交わすちょっとした会話がきっかけで忘れていたことを急に思い出す場合が少なくないが、思いだすと即、事務所に電話し、それに関連する資料作成等を指示される。

そして、新たな指示が下されたら「リアルタイム」で対応しなければならない。ましてや先生は、類まれなる記憶力の持ち主ゆえ、過去に気にとめていたことが次から次へと出てくる。それだけに、指示をうける所員の方たちは「全方位」にて対応しなければならず、所員の方たちの緊張、精神力たるや、並では務まらない。みなさん実によく頑張っていると感心している。

こうした経験はいつかきっと、所員の方たちのキャリアにおいて「貴重な経験」「尊き学び」となるはずだ。今日の生ぬるい日本社会にあって、こうした厳しき現場にて教え、教えられる職場がどれだけあろうか。そういう意味では、高井・岡芹法律事務所に入所した「縁」もまた、人生における尊き導きであろう。

 

高井・岡芹法律事務所における「業務のリアルタイム進行システム」は、高井先生の仕事術…仕事術というより、先生の理念、仕事に対する価値観、ひいては「人生観」にて確立されたものであろう。先生は、常日頃から「何事も敏速に」「やるべきことは即やる」「仕事を持ちこさない」など、それらを自ら実践している。そこに加えて「完璧さ」「縁」を大切にされることから、クライアントや出会った人たちとのコミュニケーションや連絡には手を抜かない。手を抜かない分、業務は増え、所員たちの「リアルタイム対応」での業務が増えていくのである。

 

高井先生と行動を一日共にして、業務遂行においてこれほどまでに妥協を許さない徹底さは、半世紀のキャリアにて磨かれた「匠」の境地、といった方があっているかもしれない。

【歴訪記】5月26日(日)静岡(3)


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2013年10月13日(日)10:37
ミャンマー・ネピドーにある
ミャンマー連邦共和国国家計画・経済開発省前にてデンファレを撮影
花言葉:「わがままな美人」

 

 10月4日付け10月25日付けブログに引き続き、5月26日(日)に静岡を訪問した際の歴訪記を掲載します。

  

<江淨寺>

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 徳川家康の長男(嫡男)・松平信康(1559年~1579年)の遺髪を葬った墓がある江浄寺を訪れました。信康は、徳川氏を継ぐことなく死去したため、松平信康と名乗っていたといわれていますが、現在では徳川信康といわれることも多いようです。

 

 

 信康は、弱冠9歳にして1567年に、織田信長の娘である徳姫と結婚し、元服時には信長から「信」を与えられ信康と名乗った人物です。徳姫は、信康と不仲であり、また、姑である信康の母(徳川家康の正室)の築山殿とも折り合いが悪かったそうで、ある日、信長に、信康と不仲であること、築山殿が武田勝頼と内通している等と記した手紙を徳姫が信長に送ったところ、信長は家康に信康の切腹を強硬に要求し、信康は満20歳にしてその生涯の幕を閉じたのだそうです。

 

 信康の切腹については、いろいろな説があるそうですが、晩年、家康は度々この江浄寺を訪れたといいますから、家康が信長に忠誠を誓ったとはいえ、将来を嘱望された若武者である息子に切腹を命じたことは、家康の本心ではなく、家康の心に、深い悲しみを残したのではないでしょうか。

 

 

<清水駅~アラジン清水店>

 

 江浄寺を出て、清水駅に向かいました。清水駅ロータリーには、清水重雄様も所属しておられる「清水ロータリークラブ」が寄贈したサッカーモニメントを見ました。清水ロータリークラブは、1952年(昭和27年)に正式承認を受け、静岡県内で4番目、日本で83番目のクラブとして誕生したロータリークラブだそうです。

 

 そして、清水重雄様の経営されるスポーツショップ「アラジン」清水店に到着しました。駐車場の脇には、PL教団の教祖 御木徳一様が、第一声を唱えたとされる場所を記念するモニメントがありました。これは、アラジンがPL教団からこの駐車場の土地を購入し造成した際に出てきたレリーフを飾ったものだそうです。

 

 また、アラジンの第一駐車場を横切る「旧しみず道」を徳川家康公が晩年信康のお墓参りの際に通過したといわれているそうです。

 

 アラジン清水店は、清水区浜田町にあります。「清水」の地名の由来は、アラジン近くの浜で、旅の高僧が倒れ村人が介抱し、そのお礼にお経を唱えたところ「しみず」が沸き出たことに由来するそうです。また、その井戸は現在も存在し「ちゃんちゃん井戸」と呼ばれているとのことです。旅のお坊さんが情念を込めて「チャンチャン」と打ちならしたに違いないと、清水様が語っていました。また、「浜田町」の由来は、800年頃前にはこの地が海岸線であった「はま」だったから浜田になったに違いないとのことでした。また、近くに入江があり、その入江の小高い丘が「入江岡」という地名になっています。

 

 「アラジン」清水店の4階は、清水様のご自宅になっており、4階の正面出入り口には「高井伸夫先生歓迎」とある大きなバナーがあり嬉しく感じました。昼食のおもてなしを頂戴しましたが、空輸したチーズ、お肉、パスタ等々、どれも大変美味しくいただきました。臥龍梅という清水区にある三和酒造株式会社が醸造している吟醸酒もいただきました。臥龍梅という酒名は、三和酒造の近くにある清見寺の梅「臥龍梅」に由来します。徳川家康は、幼少期に、今川家の人質として清見寺に暮らし、寺の庭の一隅に一枝の梅を接木したそうです。この梅は、大木に成長し、龍が臥したような見事な枝をもつことから臥龍梅と呼ばれるようになったそうです。

 

 4階のベランダからは、生憎富士山は顔を見せてくれませんでした。富士山といえば、本年6月22日に、世界文化遺産へ登録が確定しました。ここ静岡県静岡市清水区の景勝地である三保の松原が指定地域にふくまれるかが話題になりました。日本新三景・日本三大松原のひとつとされてきましたが、なぜ三保の松原が世界遺産候補地とされないかといえば三保の松原を守るために、点在するそのテトラポッドにより美観が崩れているから、と清水様の御令室様清水典代様がおっしゃっていました。

 

 今回の訪問後の、2013年6月に、奇跡の逆転の末に世界文化遺産に登録された三保の松原は、日本の高度成長期である1960年代に、安倍川から流れてきた土砂を大量に採掘したことなどを原因として、波の浸食により消失しかけているのだそうです。それを食い止めるために、テトラポッド等を設置しているのですが、要するに日本の高度経済成長の弊害であるといえるでしょう。また、天女が羽衣をかけたとされる樹齢650年の「羽衣の松」を含む老松たちも、この影響で徐々に枯死しているのだそうです。

 

 

<アラジン清水店~少年サッカー発祥の地>

 

 「アラジン」を後にし、清水駅から少し西に行ったところにある「少年サッカー発祥の地」を徳川家康公が初めて巴川に橋を架けたと伝えられている稚児橋を通過しながら訪れました。これは、大型の石でできたサッカーボールのレリーフで、1956年(昭和31年)に、清水市立江尻小学校に新任教師として着任した堀田哲爾先生が、全国に先駆けてサッカー少年団を結成したそうです。堀田先生の教え子である綾部美知枝先生は、日本初の女性サッカー指導者と呼ばれる人物で、日本サッカー協会特任理事として活躍されています。綾部様とは、7月3日(水)に、清水重雄様のご紹介でお会いしました。

 

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「少年サッカー発祥の地」にてサッカーボールのレリーフと説明版

 

 最後に、清水様に彼の夢を尋ねたところ、サッカーの地であるここ清水に、日本では例をみないスタジアムの建設をみんなの手で作ってみたいとのことでした。具体的には、富士山が見える清水駅近くに、地上5階建(1階から4階までは駐車場、5階を国際Aマッチができるようなタッチライン105Mゴールライン68Mのサッカー専用スタジアム)のスタジアムを建設し、それを取り巻くように商業施設を集約し、津波対策万全を期し、一部を富士山が見える場所をマンションにしたいとのことです。「フットサル」の言葉すらサッカー関係者、保険会社に通じない20年前に、清水駅近くに作ったフットサル場のように、夢をかなえてみたい、と熱く語られていました。

 

 「ベランダから富士山が見えなかったのは、『再度お越しやす』の富士山からの歓迎の声かも知れませんね。」とは清水様の弁ですが、必ずまた訪問することをお約束し、午後3時50分頃、辞去いたしました。

「花」第12回:花ことば(2)+付録


 

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2013年10月21日(月)日本時間12:05
中国 上海市新天地の路地にて日々草を撮影
花言葉:「楽しい思い出」

 

花々が芽吹き始める早春の2月1日(金)から「花」をテーマに連載してまいりましたが、気づけば季節はめぐり、秋風に花々がゆらぎ、散りゆく花々や木々の葉の姿が、まもなく訪れる冬を感じさせる頃となりました。

 

前回10月17日(金)付け記事に引き続き花ことばについてお話します。

 

花ことばの発祥は、17世紀頃のトルコであるとされているそうです。これが、ヨーロッパ中に広がり、各国それぞれが、その花のイメージなどから花ことばを作り出してきたそうです。現在行われているような花ことばの慣行は、とりわけ19世紀の西欧社会で盛んになったということです。

 

花ことばは、日本には、明治初期頃、イギリスを中心に西洋から伝わったとされており、日本では、花に携わる人々が、その花に合った言葉を考えるなどして広がっていったそうです(参考:NHKホームページ「ことばの宝箱」より)。華やかな大輪の花、つつましくひかえめな花は、それぞれの個性にあった花ことばを持っています。

 

また、目にする機会が少ないためにすぐには思い浮びにくい、高山に咲く花たちにも花ことばはつけられているそうです。たとえば「コマクサ」は、標高2000m~3000m付近、他の植物が生育できないような厳しい環境に生きることから「高山植物の女王」と称されており、その花ことばは「高嶺の花」です。過酷な条件の高山で生き、それゆえに、万人が目にすることの少ない、この花ならではの花ことばといえましょう。

 

コマクサは、まるで小さなシャンデリアのような独特の形をした花で、名前の由来はその形が「駒(馬)」の顔に似ていることから来ているそうです。学名の「Makino」は、多数の新種を発見し命名した、日本の植物学者の父ともいわれる牧野富太郎氏(1862年~1957年)が命名したものです。コマクサは、主に大雪山系(北海道)、白馬岳、蓮華岳(ともに長野県と富山県にまたがる)、燕岳(長野県)にて群落が見られるとのことです。

 

 

さて、ヨーロッパから伝わった花ことばという文化が、日本に伝わり、東西問わず人々がそれを受け入れられたという歴史は、人々が花に対して共通の感情を持っている証左でもあると思います。この点については、私が出会った『花ことば-起原と歴史を探る』〔八坂書房、2004〕という本の中で熊本県立大学文学部教授 樋口康夫先生が「ある民族の直感の集合が世界共通の認識となる場合もあろう。現在、世界に見られる『花ことば』はそうして得られた人々の努力と知識の集積の結果ではないのだろうか」と述べられています。

 

たとえば、私は、紅のバラからは、燃えあがる情熱を感じますが、調べてみると、「死ぬほど恋いこがれています」という激しい愛の花ことばが付けられています。ある花の花ことばを知ると、妙な納得感を得るのは、民族を問わず、世界各国の人々が、ある花のイメージを霊感的に共有しているのではないでしょうか。これは、花と人との対話であり、自然との交流であり、宇宙との共鳴であると思います。

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2013年5月6日(月)朝7:12

東京都渋谷区代々木公園にて撮影

 

私は白百合を見ると、亡妻孝子と亡娘真理子とのカトリック麻布教会での別れを思い出します。白百合は聖母マリアの象徴、「マリアの花」とよばれ、純潔や美徳のシンボルとされているそうです(花ことばも「純潔」「無垢」等です)。また、「ゆり」は、ゆらゆら揺れるその様から「揺る」に由来があるともいいます。細い茎に大きな花がついており、香り高く、清楚であるだけでなく、その姿が風になびく姿も、なにか神々しさを感じます。

 

あの日、白百合が一本、また一本と、献花に訪れた方々の手から棺に乗せられるとき、人々の彼女らへの愛が、白百合をとおして宇宙へと立ち上っていく思いがいたしました。実際に、亡娘真理子のカトリック麻布教会での告別式の日に空には、虹が出ていました。

 

彼女らをうしなった悲しみは、どれほどの時が流れても癒えることがありません。しかし、一方で、あの別れの日の純白の百合が、私のまっ暗闇の心の奥深くで光を束ねるように凛と咲き、虚空の世界、宇宙に旅立った彼女らと、たしかにつながっているようにも思えるのです。

 

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2013年7月18日(木)午前6:55 東京都目黒区中目黒公園にて撮影

 

~今回の記事執筆にあたって、ホリスティックサロン Lily セラピスト 小田島 彩子様石草流生け花 家元後継 奥平清祥様にご協力いただきました。ありがとうございました。

 

 

付録 佐賀・武雄市図書館を訪問

 

私は本年9月5日(木)、佐賀・武雄市図書館を訪問しました。その際ご同行頂いた橋口電機株式会社の代表取締役副社長・橋口佳代子さまに、この度の訪問についてご寄稿いただきましたのでご紹介します。

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武雄市図書館(佐賀県武雄市武雄町大字武雄5304番地1)に髙井先生をご案内しました。

 

この図書館は、佐賀県武雄市が運営をカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)に委託して本年4月に改装オープンしました。

日本広しといえども、100頁近いガイドブックを出版している図書館は、そう多くはないと思います(『たけお散歩 武雄市図書館公式ガイドブック』2013.7.31発行、定価500円)。髙井先生をお連れした当日も、行政視察を含め混み合っており、千客万来、約300台の駐車場も満杯でした。本年4月のリニューアル開館から3ヵ月で26万人の入館者数を記録しており、1日当たりの平均来館者数は約2900人(前年度比4倍)、図書貸し出し数も平均で1644冊(同約2倍)に達しています。年単位で見れば、毎年11月上旬に開催される、あの有名な佐賀のバルーンフェスタを超す勢いだと思います。

 

武雄市図書館には現図書館長の杉原豊秋様と、前図書館長で武雄市教育委員会の中野優様がいらっしゃって、このお二人からも詳細な説明を頂きました。

武雄市とCCCが手を取り、両者の費用負担を軽減するためのモデルを共創しているとのこと。武雄市図書館のセールスポイントは、20万冊以上の蔵書に加え、雑誌や本を“買える”コーナーがあることです。レンタルショップ「TSUTAYA(ツタヤ)」が組み込まれており、購入もできるのです。またカフェダイニング「スターバックスコーヒー」も併設され、図書館カードに代わるポイントカード(Tポイントが貯まる)も利用できます。開館時間は従来よりも3時間延ばし、午前9時~午後9時までに。年間約30日あった休館日も「年中無休」になりました。図書館の年間運営コストも、指定管理で総額約1億2000万円から約1000万円削減する見込みとのことです。

 

確かにスターバックスコーヒーからの眺めは抜群で、心が洗われます。カフェは楽しさや人と語れる雰囲気をかもし出し、若者や子連れの母親達が集まりやすくなりました。店内でワイワイガヤガヤと語らっていても、館内に流れる大きめのBGMで打ち消され、気にならないような工夫がされています。また、読書専用スペースや学習室に入ると途端に音が聞こえなくなります。これらを設計だけで達成しているといいますから驚きです。

総じて来館者の利便性にワンストップで応えたことが、飛躍的な集客数につながっているようです。

加えて、そもそも武雄は元々鍋島藩だったが、代々の藩主が勉強好きで、この図書館にふさわしい地盤を備えていたのでしょうというお話が印象的でした。

 

併せて、武雄市図書館を囲むロケーションについてお話しようと思います。

図書館のある武雄市は、佐賀県の西部にある人口5万人の市です。市の中心地の街には開湯以来1300年経つ武雄温泉があり、今でも古い大衆浴場や格式のある温泉旅館があります。

伝説によると、神功皇后(ヤマトタケルの第2子である仲哀天皇の后)が凱旋の途、太刀の柄(つか)で岩を一突きしたところ、たちどころに湯が湧き出たと言われており、よって昔は柄崎温泉、また、蓬莱山の麓に湧くことから蓬莱泉とも呼ばれていたそうです。

いま一つ、動物による開湯のいいつたえもあり、足を痛めた一羽の白鷺が米守の谷あいの岩間から湧き出ている温泉を見つけ、毎日その温泉に足を浸しているうちに傷が癒えたのが始まりとも伝えられます。

 

温泉街から車で5分ほどの場所には御船山という特徴的な小山があります。

かつては自然の要塞として城が築かれ、また、江戸時代には第28代武雄領主の鍋島茂義(1800~1862)の別荘として、敷地15万坪の御船山楽園が作られました。御船山は、今も、武雄のシンボルとして地元から愛され、春は桜が咲き誇り、観光客で賑わいます。武雄市図書館はその御船山を背景にゆったりとたたずんでいます。

近隣には有田焼の有田町、美肌の湯の嬉野温泉もあります。

 

武雄市図書館にご興味がおありの方、ぜひ武雄市にお越しください。

図書館はもちろんのこと、”図書館以上の魅力”を味わっていただけることと思います。

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