2013年10月のアーカイブ

【歴訪記】5月26日(日)静岡(2)


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2013年10月21日(月)日本時間12:34
中国 上海市新天地の路地にてスプレー菊を撮影
花言葉:「私はあなたを愛する」

 

  10月4日(金)付記事に引き続き、5月26日(日)に静岡を訪問した際の歴訪記を掲載します。

 

<七八寿司~草薙球場>

 七八寿司を出て、車で、南幹線を清水に向け走りました。南幹線は、通称「カネボウ通り」とよばれ、昔は、鐘淵紡績の大きな工場があったのだそうです。

 

 清水に向かう途中、草薙球場(静岡県草薙総合運動場硬式野球場)に立ち寄りました。草薙球場は、温暖な気候のためか、日本で初めて野球のキャンプが行われた球場です。また、草薙球場では、日本のプロ野球が始まるより以前の1934年12月、「日米野球大会」が開催され、沢村栄治がベーブ・ルースを三振に抑える等、結果1-0で日本が敗れたものの、日本球史に残る熱い戦いを繰り広げた試合を記念して、沢村とベーブ・ルース両者の銅像が飾られていました。

 

静岡県草薙総合運動場硬式野球場にて撮影
左・沢村栄治の銅像 右・ベーブ・ルースの銅像

 

<草薙球場~草薙神社>

 草薙駅を左にみながら、草薙神社の鳥居を拝見しました。

 草薙神社では、毎年9月20日前後の吉日に「秋季例大祭日」が執り行われ、「龍勢花火」と呼ばれる花火が打ち上げられますが、これは重さ25キロもあります。上空300M以上まで打ち上げられ、ある高度に達すると落下傘が開き、それを関係者が落下地点まで追いかけるそうです。あるときは落下傘が開かず火事になったこともあるそうです。安政年間(1854年)から打ち上げられているとのことです。その龍勢花火の打ち上げられる前の実物が、日本武尊の祭られている草薙神社の神殿脇に飾られているそうです。

 

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草薙神社の鳥居

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 草薙球場や草薙神社等、草薙という地名の由縁は、古事記、日本書紀に出てきます。すなわち、三種の神器として知られる「草薙の剣」(天叢雲剣・あめのむらくものつるぎ)です。草薙の剣は、諸説ありますが、愛知県名古屋市熱田区にある熱田神社のご神体であり、日本武尊が伊勢神宮でこれを受け取り、東征の途上、この神剣によって野火の難を逃れたという地とされているのが草薙神社であるそうです。

 

 清水様の調査によれば、草薙神社の由緒によると、<御祭神 日本武尊 御創建 景行天皇53年 例祭日9月20日この地で逆賊に出会った 尊は佩用の剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやいの鎌の」と鎌で打ち払う様に唱え剣を振り草を薙ぎ払ひ火を逆賊の方へなびかせ尊は無事に難をのがれた地を草薙という。天叢雲の剣は、草薙の剣と名稱を変更され、草薙神社に神剣として奉られた。はるか1900年余近く前の事である。>とされているそうです。なお、神社入口正面の日本武尊の像は現代の少年程の大きさです。

 

 また、私が、戦前、小学2年生のときに疎開した、三重県桑名郡の多度町(旧古浜村)御衣野(みぞの)にある草薙神社は、日本武尊が東征からの帰路に、この地にあった一本松に太刀を置き忘れた、という伝承により、この地に草薙神社が建てられたのだそうです(なお、御衣野という地名は、日本武尊が伊吹山から難を逃れる途上、激しい雨に打たれて衣が濡れたため、これをこの地で干したことに由来しているのだそうです)。桑名郡、旧古浜村、御衣野と古代史との関連性については、いつかブログで発表できればと、調査を続けております。

 

<草薙神社~巴川製紙>

 

 南幹線を清水方面に進行し、江戸時代の旧東海道にでて、一里塚跡碑で写真を撮りました。一里塚跡碑は、清水銀行草薙支店の敷地内にあって、すぐそばに、大きな狸が鎮座しているのを見つけました。いわゆる狸八相縁起の説明板がありました。なぜ信楽の狸がこの地にあるのかは、わかりません。

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左・狸八相縁起の狸  右・一里塚跡碑

 

 なお、この狸が鎮座する交差点から国道一号線までの拡幅工事は50年も経っても完成していないそうです。

 

 国道一号線に面している「七ツ新屋」(地名)には、かつて7つの新屋があったと伝えられています。清水様の幼いころ(60年程前のことです)、その7つの新屋の一つであった叔母さんの家に遊びに行くと、その家の前の小川は飲めるほどきれいな水が流れていたそうです。また、当時の国道一号線は中央部のみ舗装され左右は砂利道だったそうです。

 

 間もなくすると、清水桜ケ丘高校(旧清水商業)を右手にみて、桜橋を通過、入江岡を左折すると、『ちびまる子ちゃん』の原作者である、さくらももこさんの生家が見えました。国民的漫画である『ちびまる子ちゃん』の生家を、国が買い上げればよかったと、清水様は残念がっていました。なお、この家は、すぐ近くに旧東海道があります。もともと旧東海道に面していたのだそうです。

 

 途中、東証一部上場企業の株式会社巴川製紙所の清水事業所前を通過しました。清水事業所の正面玄関の門柱には、駿府城の石垣と同じ石が使われています。というのも、1606年に、徳川家康公が駿府に隠居するにあたり西国諸大名に命じ、駿府城の大改修をすることになり、全国から巴川製紙の付近に石が集積されました。その集積された石を駿府に運ぶ為にいかだに移す際に、何らかの事情で巴川に沈んでしまった石もあったそうです。しかし、沈んでしまった石も江戸幕府の所有物であるとされ、それらの石は沈んだままでしたが、明治に入ると、石を引き上げる者もでてきたそうで、この門柱にも、巴川に沈んでいた石が使われているのです(もともと三個ありましたが、現在は二つになっているそうです)。

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巴川製紙の門柱と説明版

 

 次回も引き続き静岡での思い出をお話します。 

 

 

「花」第11回:花ことば(1)+付録


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2013年10月13日(日)10:35
ミャンマー・ネピドーにある
ミャンマー連邦共和国国家計画・経済開発省前にてプルメリアを撮影
花言葉:「気品」

 

 

2月1日(金)付記事より、私が撮影してきた花の写真とともに、花について私が思い・感じ・考えてきたさまざまなことをつづっています。

 

花にまつわる文化として「花ことば」があります。

ヨーロッパでは、花に想いを託して、花を贈り、同時に花ことばを相手に伝えるという習慣があったそうです。なかなか言いだせないような言葉を、あるいは、どんな言葉をもってしても伝えきれない愛しい人への想いを、花という存在に託して代弁してもらったのでしょう。

花ことばではないですが、日本においても、花に想いを代弁してもらう文化は和歌に多くみられます。「この花の一節(ひとよ)のうちに百種(ももくさ)の言ぞ隠れるおほろかにすな」(藤原広嗣、万葉集)という和歌がありますが、これは、ある男性が、桜の一枝を女性に渡して「この花(桜の花)の一枝には、私の想いがすべて秘されています。けっしておろそかにしないでください。」と詠んだ和歌だそうです。伝えたい想いを、ぐっと心の奥に秘めて、桜の花に置き換えて詠んだこの和歌は、まさに「秘すれば花なり」の世界でしょう。

 

フランスでは5月1日に、愛する人にスズラン(muguetミュゲ)を贈るという習慣があるそうです。この歴史は思いのほか古く、1561年5月1日に、シャルル9世が、幸福をもたらすとしてスズランの花束を贈られ、とてもお気に召し、それをきっかけに、毎年、宮廷のご婦人達に贈るようになったということです。

スズランを贈る習慣は19世紀末になると一般庶民にも広まり始め、20世紀にはパリ近郊の人々が森へスズランを探しに行くようになったということです。そして、摘んだスズランの花は、誰でも自由に販売して構わないというのですから驚きです。売るための特別な許可も要らず、さらに、所得の申請をせずとも大目に見られるのだそうです。

いまのフランスでも、5月1日になると街中でスズランの花束が売られるそうですが、インターネットに書かれていたある記事によりますと、今は多少の規制があり、①森で摘んだ根のついていないスズランであること、②花屋から100メートル以上離れた場所であること、が条件になっているそうです。また、赤十字では、この日のスズランの売り上げが2番目に大きな収入源であるのそうですから、いかにポピュラーなイベントになっているかを物語るエピソードです。

 

日本でも春になると、時々花屋の店先にスズランのブーケを見かけますが、切花として扱う店は決して多くはないように思います。スズランの花言葉は「意識しない美しさ」、「純粋」、「幸福の再来」「幸福が帰る」などです。来年の5月頃に、朝の散歩でスズランを見かけたときにはその繊細な香りを確かめたいと思います。

 

また、米国のバレンタイン・デイでは、老若男女を問わず誰からでも好きな人、愛しい人に対し、一輪の真紅のバラの花などを贈るそうです。それは、たとえば、夫婦や恋人同士では愛情表現のひとつとして、片思いの男女であれば愛の告白に、子や孫は大好きな両親や祖父母へ、生徒は学校の担任教師や校長先生へ、それぞれの立場で愛情や日頃の感謝の意を表すことのできる日なのでしょう。

 

20131017-01.JPGのサムネール画像

2013年5月6日 朝7:01
東京都渋谷区代々木公園にてバラを撮影

 

このように、花は、古来より、世界各国で、人々の想い、愛を、人々のかわりに伝えてきました。男性から女性、女性から男性、親子、友人・同僚同士でも、お祝い事や送迎会などの、なにかの折に、ブーケ・花束を手渡すことは多いでしょう。母の日には子どもから母親に日頃の感謝の気持ちを表すためにカーネーションが贈られます。結婚式の披露宴では、両親への御礼として花を贈る新郎新婦も多いです。誕生日祝い、出産祝い、古希祝い、快気祝い等のパーソナルな祝い花もあれば、ビジネスの場では開店・開業祝い、昇進祝い、退官祝い、出版記念等に花が贈られます。

祝い花には、胡蝶蘭が贈られることが多いそうです。その理由はいろいろとあるそうですが、環境がよければ3~5カ月以上、ときには3年から5年以上も咲き続けるという花持ちのよさが理由のひとつであるそうです。また、胡蝶蘭のたたずまいは、気品があり、格調高い凛とした印象を受けますから、お祝いの花としてふさわしいと考えられてきたのでしょう(胡蝶蘭については、2013年6月7日付け記事でも述べましましたので、ご覧ください)。

 

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2013年3月9日(土)法政大学外濠校舎6階薩埵ホールにておこなわれた
諏訪康雄先生の最終講義に際して高井より諏訪先生にお贈りした胡蝶蘭

 

花の力を借りると、普段なかなか伝えにくい照れくさい言葉や思いを伝えられるものですし、受け取った人にパッと最高の笑顔がはじけるものです。花は、人と人との間の、心の壁を低くしたり、とりはらったりする力を持っていると思います。花は、花を受け取った人の心を明るく爽やかにし、人と人との交流に、潤いある彩りを添え、ぬくもりを与えてくれるように感じます。

さて、花ことばの発祥は、17世紀頃のトルコであるとされているそうです。花ことばについては、次回またお話します。

 

~今回の記事執筆にあたって、ホリスティックサロン Lily セラピスト 小田島 彩子様、冷泉流歌壇玉緒会 伊藤幸子様にご協力いただきました。ありがとうございました。

 

 

付録 竣工式
 

8月29日(木)に、長野県安曇野市にある株式会社安曇野ミネラルウォーター(http://azumino-mineralwater.jp/index.html)の工場を訪問しました。

今回の安曇野訪問は、同社の会長・新井喜源氏のご招待を受け、新工場の竣工式に参加するのが目的でした。

看板.JPGのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像

 

同社の社長である新井泰憲氏は、2011年11月に、高井・岡芹法律事務所主催の「インド 社会・経済視察団」のメンバーとして、私と共にインドを訪問しました。

◎詳しくは、2011年12月20日 付【歴訪記その9】インドをご覧ください。/weblog/2011/12/9.html

同工場は、38,000平米という広大な敷地に建てられた第一工場で、現時点での生産能力は月産500万本(各2リットルボトル)だそうです。

同社の水ビジネスについては、私も構想段階からアドバイスをしています。構想から2年、生みの苦しみに悩まされたそうですが、この度、無事に竣工式を迎えました。

 

竣工式は、関係業者や販売先等、50名ほどの来賓を迎え行われました。竣工式での新井泰憲社長の挨拶を抜粋してご紹介いたします。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

弊社の親会社たる信州レジャー興業は、我がグループの創始者である新井清一が、旧穂高町の高山勇町長様の誘致を受け、穂高有明に50万平米の開発を請け負ったときに設立された会社でございます。当社グループでは、安曇野の恵まれた自然環境、美しい景観を守りながら、サンクラブ穂高を建設し、別荘・住宅地を造成するなど、秩序ある開発を進めて参りました。

この度も、安曇野市の宮澤宗弘(むねひろ)様をはじめとする市の担当者様のご指導を受けながら、「適正土地利用条例」「地下水保全涵養及び適正利用条例」を適切に順守しながら、開発を進めて参りました。

また、長野県の担当職員様とも入念な協議を重ねた結果、弊社事業は、県が承認する「経営革新計画」及び「企業立地計画促進」という2つの承認をいただくことが出来ました。

今後とも、地域の秩序ある発展のために、微力を尽くさせていただく所存でございます。工場竣工は、第1の関門であって、通過点であるととらえております。今、この瞬間から気持ちも新たに、次は初出荷に向けて、弊社社員一同、より一層の努力を重ねて業務に励んでまいる所存でございます。

販売の実現に向けては、まず、顧客の皆様が何を求められているのか、徹底的に考えることを最初の課題と考えております。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

数十年に渡り安曇野市で事業を展開出来たことの感謝の気持ちとして、安曇野ミネラルウォーター社から、安曇野市福祉課に金一封が贈呈されました。

 

 

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安曇野ミネラルウォーター工場より見える、有明山の風景
撮影:新井泰憲社長

 

聞くところによると、水を販売するにあたっては、背景の物語の良さも大きなポイントだそうです。その点、こちらの工場は、雄大かつ牧歌的な田園風景に恵まれているうえに、安曇野には安曇族(※)の言い伝えも人気があるそうで、物語には事欠かない立地であると感じました。

式の終了後には、新井泰憲社長自ら、来賓の皆様を工場内にお招きし、設備の説明をされました。

 

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今後は3~5ラインを増設予定とのこと。同社のますますのご発展を期待・祈念しつつ、会場を後にしました。

 

(※)安曇族とは 

安曇野市が海に面していない山国たる長野県の中央に位置しているにもかかわらず、この地に古くから伝わる山車の多くは、なんと船の形をしているそうです。このことから、安曇野に暮らす人々の祖先は、海人(あま)族(縄文から弥生時代にかけて、南方よりやってきた渡来人)であったとの言い伝えがあります。この祖先のルーツを巡る「安曇族サミット」という催し物も行われています。

安曇野の地を開拓したといわれている安曇氏(あづみし)について調べたところ、安曇氏はすぐれた航海術と稲作技術を持ち、海人族の中でも最も有力な氏族だったそうです。

そもそも安曇氏の発祥地は安曇野ではなく、安曇野から遠く離れた福岡県福岡市東区志賀島(同島はいわゆる金印が発見された所です)にある「志賀海神社(しかうみじんじゃ)」(=祭神は“大綿津見(おおわたつみ)神”つまり海神)とされているそうですが、代表的な定住の地は丹後、但馬、若狭であり、しだいに海岸だけでなく内陸へ勢力を広げ、その痕跡とも考えられる地名を各地に残しました。たとえば滋賀県の「安曇川」や愛知県の「渥美半島」、それにも増して明瞭なのが長野県の「安曇郡」となるわけです。(北上した目的は、おそらくは蝦夷(えぞ)族の征伐であったとのことです)。

◎ 参考:農林水産省HP
http://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/chushin/rekishi/01_1.html)

◎ 参考:安曇野市HP「安曇野のお船祭り」
https://www.city.azumino.nagano.jp/mizu_monogatari/story/matsuri/index.html

◎ 安曇野市観光協会http://www.azumino-e-tabi.net/modules/xpressme/?p=776

 

◆◆海部氏の系図 ―安曇族に因んで 

私は最近、古代史の研究と称して古代史関連の書物を紐解く時間を持つようにしていますが、先日『古代海部氏の系図<新版>』(金久与一著、学生社)を読む機会があり、安曇氏と繋がる記述があったのでご紹介します。 

――「海部家では多年、皇室に遠慮して丹波降臨説を銘記した系図、天皇系と親戚になる系図を固く秘蔵し、公開しなかったのである。」

その海部氏の「勘注系図」(「本系図」に細かく注記を施したもの)によれば、『丹波国造本記』(『先代旧事本紀』巻十「国造本紀」:平安時代の編纂)には火闌命(ほのすせりのみこと=海幸彦)、彦火明命(ひこほあかりのみこと)、火明命(ほあかりのみこと=山幸彦)の3兄弟のことが記され、『古事記』上巻の最後では、火明命(山幸彦)の孫にあたる人物が神武天皇との記載があります。そして、「勘注系図」冒頭の記載に戻れば、海部氏の祖先は、古代の海洋系豪族の安曇氏と同一の祖先“建位起命(たけいたてのみこと)”なる人物をもつことが分かったのです。

 

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2013年10月6日(日)東京都港区赤坂8丁目にて
マリーゴールドを撮影
花言葉:「予言」「真心」

 

前回(2013年9月13日付ブログ)に続いて今回も「花」に関する話をしたい。花は花でも「菊の花」である。もう過ぎてしまったが、9月9日は五節句の一つである「重陽の節句」であるところの「菊の日」であり、とてもめでたい日、長寿を祈る日でもある。

 

古代中国では、菊は「翁草〔おきなくさ〕」「千代見草〔ちよみくさ〕」「齢草〔よわいくさ〕」と言われ、邪気を祓い長生きする効能があると信じられていた。その中国の影響を受けて日本でも、9月8日の夜に菊に綿をかぶせ、9日に露で湿ったその綿で体を拭いて長寿を祈っていた。また、「重陽」とは、陽(奇数)の中でも一番大きな数字「九」が重なることから「重陽」といわれるようになったそうである。

 

なるほど、菊は「長寿の花」、奇数は「陽」であったのか…そういえば、3月3日は女の子の節句で「ひな祭り」、5月5日は男の子の節句「鯉のぼり」、77歳の誕生日は「喜寿の祝い」。さらに「七・五・三」も奇数である。当コラムを執筆するためにネットで「菊」に関して調べたおかげで、これだけのことが学べた。すごいことだ。私は今まで偶数が好きだったのだが、今日を境に「奇数」に切り替えることにしよう。

 

日本では、法律で定められた国花はないが一般的に「キク」または「サクラ」が日本を象徴する花とされている。春の桜に対して秋は菊と昔から相場が決まっており、菊はヤマザクラとともに日本の国花、皇室の花でもある。1868年、日本の『太政官布告』195号は、菊花を最高権威の象徴として天皇のみがこれを独占し、皇室専用の紋章とすることを規定した。もし民間で菊の紋章をみだりに使えば、「不敬罪」で厳しく処罰された。

戦後、菊は皇室の独占ではなくなったが、菊を尊重する風習は今でも日本の至るところで見られる。皇室の「菊のご紋章」のほか、警視庁の徽章、国会議員たちが胸につけている議員バッジ、日本国のパスポートの表紙まで、みな菊の図柄である。

 

「菊」について執筆している途中、ふと高井先生の誕生日が「1937年5月9日」であることを思い出した。そして、すべての数が「奇数」であることに気付いたのである。すごい“発見”である。多分、今までこのことに気付いた人は、高井先生の周囲…いや、過去においてもいなかったはずだ。奇数である9が二つ重なることで「重陽の節句」と言われるぐらいだから、先生の誕生日が「1・9・3・7・5・9」すべて奇数とは、「陽」を束ねたような日に生まれたことになる。もちろん偶然であろうが、偶然ではないような思いもよぎる。

なぜなら、高井先生の個性・行動力に接していると、奇数である「陽」が塊となって飛び跳ねているように感じることが少なくないからである。そういう意味では「重陽」ではなく「重々々々々々陽」である。まあ、強い運命の星の下に生まれたのだけは、たしかなようだ。

 

最後に、当コラムが「弁護士事務所にリンクしたブログ」に掲載されることから、弁護士先生方が胸に付けている「弁護士記章(バッチ)」についても簡単に触れておきたい。弁護士バッチは一見、菊の模様にみえるが、あれは「ひまわり」である。ひまわりは「自由と正義」を象徴し、その中に「平等と公正」を象徴する天秤が描かれている。

【歴訪記】5月26日(日)静岡


20131009.JPG2013年9月28日(土)東京都大田区南馬込にてネムノキを撮影
花言葉「歓喜」

 

 少し前のお話ですが、5月26日(日)に静岡を訪問いたしました。

  同日午前10時50分頃、静岡駅に到着しました。熱海発の「こだま」から降り、株式会社スポーツショップアラジン代表取締役 清水重雄様にお出迎えいただき、改札口でお会いしました。

  静岡駅南口近くの有料駐車場に止めてあったフォルクスワーゲンの「ゴルフ」に搭乗し(小さな車ですが、清水様の経営されているスポーツショップ等の小売業を経営する者は、大きな車には乗ってはいけないとの先輩の教えに基づき、小さな車に乗り続けているのだそうです)、ホテルセンチュリーを右手に見ながら、静岡駅の北にある清水様が経営されているスポーツショップ「アラジン静岡店」に向かいました。

 東海道本線を境に、北が葵区、南が駿河区で、旧清水が清水区だそうです。

  

<静岡のいま>

 さて、清水様に静岡の経済についてお尋ねしたところ、興味深いお話をお聞きしました。1609年から、徳川家康公は、内政を江戸の秀忠公に行わせ、自身は外交を駿府城で行うといういわゆる二元政治体制をとり、朝鮮国との国交回復、拉致されてきた朝鮮の人々のうち帰国を希望する人々の送還等を行ったそうです。この頃(いまから約400年前)は、静岡(駿府)には10万人が住んでいたそうです(静岡商工会議所報『Sing』2013年6月号「駿府静岡と私〔第15回〕」徳川宗家十八代当主徳川恒孝様のエッセイより)。当時の江戸には15万人の人が住んでおり、海外と比較すると、ロンドン、パリが7万人程度という時代であったそうですから、世界でも有数な大都市であったのです。

  しかし、そのような華やかな歴史があるにもかかわらず、いまの静岡は停滞しています。静岡県の西部地区にはホンダ、ヤマハ、スズキ等の大企業を擁しているものの、東部の衰退ははなはだしく、東部は農村地帯、あるいはそれに近い状態にあるのだそうです。国を治める中心地が、時の為政者によって激しく動く典型ともいえるでしょう。私は、5月12日(日)に伊豆半島の戸田を訪問しましたが、戸田はひどく寂れていました。戸田は東海道本線から離れてしまっており交通の便も悪いですから、開発の可能性は一層少なくなっているのではないでしょうか。

 

 <静岡駅~アラジン静岡店>

 さて、駿府城を過ぎ、安倍街道を北上したのち、間もなく土手通りを通過しました。これは、徳川家康が薩摩藩に命じて、駿府平野を安倍川の洪水から守らせるために作らせた防波堤だそうです。家康が薩摩藩の財政を苦しめるために命じて作らせたものでもあるそうですので、明治維新の際、どうして薩摩藩が討幕の中心藩になったのか、うなずけるものがあります。

  右手に浅間山を見ながら、アラジン静岡店に到着しました。静岡では、平地にもイノシシが出没するそうです。また、今回は浅間山付近には訪問しませんでしたが、浅間山のふもとの旧家は、2000年程の歴史が証明されているものもあるそうです。

 20131003.JPG

アラジン静岡店前にて記念撮影

 

<アラジン静岡店~七八(なや)寿司>

 途中、日本でも有数な商店街である呉服町に入り、伊勢丹の角を右折するとすぐ、札の辻跡(ふだのつじあと)の碑がありました。ここで停車し、その碑を見ました。幕府の政策や法令、禁制等をかかげた高札場があった場所であったことが「札の辻」の地名の由来とされているそうです。しかし、呉服町も、旧家が家業継続に見切りをつけ不動産業に方向転換したそうで、ドラッグストアーが幅を利かせ、呼び込みまで現れる始末で、呉服町のDNAが消滅しつつあるのだそうです。

  また、徳川家康が全国に設けた「金座・銀座」は、ここ静岡にもありましたが、その名残を「静岡市葵区金座町」(金座)、静岡市葵区両替町(銀座)という地名に残しています。近くには金座稲荷神社という神社があるそうで、ここは金座の守護神として、お金の神様として崇敬されてきたそうです。

  その後、昭和30年代繁栄を極めたシネマ通りを通過し、日本を代表するサッカー選手である「カズ」「キング・カズ」の愛称で親しまれている三浦和良さん、のお父様・納谷(なや)宣雄様が経営していた(現在はカズの叔父様が経営しているそうです)日本で一番古いとされているサッカー専門ショップ「goal」を右手に見ながら、再度、呉服町を通過し両替町に出て15代将軍・徳川慶喜公が明治初期20年あまり過ごした2000坪の庭園、浮月楼を右手に通り過ぎました。清水様によれば、徳川慶喜公は自転車に乗り、清水の次郎長に会いに行ったそうです。

  そして、納谷宣雄様が経営されている「七八(なや)寿司」へと向かいました。

 

 

<七八寿司で納谷宣雄様と懇談>

 七八寿司の店内に入り、納谷宣雄様と初めてお会いし、カウンターで短時間ご懇談させていただきました。納谷様という珍しい姓についてお聞きしたところ、元大相撲力士で本年1月に他界された大鵬(本名・納谷幸喜)と同じで、いずれも北海道石狩の出身であるとのことでした。

 

さて、弁護士間の競争が激しさを増しているいまの時代において、当事務所として、常に新しい変化にも即応できる態勢をとらなければと考えています。そのひとつとして「スポーツ分野」への進出が考えられますが、納谷様にスポーツ分野の弁護士業についてお尋ねしたところ、いまの日本ではスポーツ関係を志す弁護士は非常に少なく、また、依頼者側も、自分の会社の顧問弁護士を使うのが常であり、専門弁護士は使わないとのことでした。このお話をお聞きし、チャレンジしてみる価値は十分あるのではないかと思いました。

 

 七八寿司では、静岡名産である生シラスと金目鯛のお寿司を一貫ずついただきました。なお、静岡にうなぎ屋はたくさんありますが、うなぎは本年2月に環境省が、絶滅の恐れがある野生生物を分類した「レッドリスト」のなかで、極度の不漁が続くニホンウナギを絶滅危惧種に指定したそうです。レッドリスト自体は法的拘束力はないそうですが、今後、漁獲量規制がかかる可能性があり、そうなるとうなぎの商売が成り立たなくなってしまうでしょう。うなぎ屋は、苦肉の策で、あなごを利用してうなぎ風のどんぶりを提供しているところもあるとのことでした。

 

 次回も引き続き静岡での思い出をお話します。

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