2013年2月のアーカイブ

「花」第3回:季節を彩る花々(1)


IMGP3363.JPG2013年2月20日(水)15:11
静岡県伊東市岡広町付近にてブルーデイジーを撮影
花言葉:純粋

 

 2月1日(金)付記事から、私が撮影してきた花の写真とともに、花について私が思い・感じ・考えてきたさまざまなことをつづっています。今回の記事から2回に分けて、四季折々の花々を思うとき、よみがえる私の懐かしい思い出話も織り交ぜながら、季節ごとの花々を紹介します。

 

 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えて 冷(すず)しかりけり」   (道元禅師)

 

 これは、川端康成がノーベル文学賞の受賞記念講演「美しい日本の私」の冒頭で紹介した、あまりにも有名な歌です。日本の自然、四季の移り変わりの美しさを、世界に向けて端的に表現した名歌であると思います。なお、旧暦の春夏秋冬を新暦に直すと、春は2月~4月、夏は5月~7月、秋は8月~10月、冬は11月~1月頃となります。

 

 花鳥風月という言葉があるとおり、日本では、古来より花がある美しい自然の風情を重んじてきました。また、いけばなの世界では、たとえば桜の花であれば、開花前に生産者が枝を切り、温室に入れて温め、桜に春が来たと思わせて咲かせて、年明け早々の新春にその桜を活ける等、季節を少し先取りするそうです。これは、四季のある日本だからこその美意識でしょう。

 

 四季折々に、それぞれの魅力的な香りを放つ花々が咲きますが、なかでも厳しい冬を乗り越え、春、美しさを競うかのように匂い立たせながら咲く花々は、人々の心を躍らせるという点で格別でしょう。これは、数々の和歌にも詠まれており、たとえば、「霞立つ 春の山辺は 遠けれど 吹きくる風は 花の香ぞする(在原元方・古今和歌集103)」「冬ながら 空より花の ちりくるは 雲のあなたは 春にやあるらむ(清原深養父・古今和歌集330)」などがあります。

 

 前回の記事のとおり、早春に咲く淡紅色の沈丁花の強い香りには、私は愛着と懐かしさを感じます。私が幼いころ、敗戦を迎え、翌年に疎開先の三重県から名古屋に戻ったとき、庭に植えられていたのが沈丁花でした。戦争が終わって社会の様子が大きく変化するなかで、幼心にも不安と喜びが交錯する複雑な思いがありました。春先、街角でふとその沈丁花の匂いに出逢うとき、当時の遠い記憶が瞬時によみがえることがあります。

 

 そして、春の花といえば、梅の花でしょう。桃、杏子、桜などの花々に先駆けて、凛とした美しい花と、かぐわしい香をただよわせる梅の花は、いにしえより「花の兄」と称され、尊ばれてきました。

 

小石原植物園の梅.JPG

2013年2月11日(月)東京都文京区 
小石川後楽園にて撮影

 

梅は、よく知られているように中国原産で、奈良時代の遣唐使が中国から持ち帰ったのだそうです。「花見」といえば、いまは桜の花を愛でるものですが、奈良時代には中国から伝来したばかりの梅が観賞されていたそうです。

 

平安京の頃より御所の紫宸殿前に「右近の橘」と「左近の桜」が左右対称に植え置かれていることは広く知られているところです。しかし、実は当初、「左近」には「桜」ではなく「梅」が植えられ、当時は「花」といえば「梅の花」を指したのです。あらゆる面で国造りの手本としていた唐(中国)から伝わった、ぽうっと咲いて、ほのかに匂う梅のその楚々とした佇まいと香りを、大宮人はどれほど愛でたことでしょう。「万葉集」や「古今和歌集」の中で、「花」の和歌として「梅の花」が多く詠まれていることからも、そのことがうかがえます。

 

その後時代は移り、平安時代末期から鎌倉時代になると、「左近」には「梅」に変わり「桜」が植えられ、「花」イコール「桜」となっていき、「新古今和歌集」の頃には、王朝貴族たちは競って桜の花を詠みはじめました。そして、仁明天皇(810年~850年)が、御所には左近の桜と命じて以降、都人の間では桜が花の主座を占めるようになります。

  IMGP3359.JPG

2013年2月20日(水)15:01
静岡県伊東市岡広町付近にて撮影

 

 さて、梅の花の香りについては、「馥郁(ふくいく)たる梅の香り」という言葉があるとおり(馥郁とは「とてもよい香り」の意味)、ほんのりとしたその香りは多くの和歌で詠まれています。「大空は 梅のにほひに かすみつゝ 曇りも果てぬ 春の夜の月」(藤原定家・新古今集・40)等があります。梅の花の香りはほのかで淡いですが、菅原道真の有名な、「こちふかば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ(拾遺・1006)」という歌が、そのかぐわしさをよくあらわしています。「梅の花よ、東風が吹いたら、その匂いを配所〔罪を得た人が流された土地の意〕の私のもとまで届けてください。主人がいないからといって、春であることを忘れないで。」といった意味の歌ですが、これは、菅原道真が、901年に大宰府へ左遷され、出立時に詠んだ歌であるとされています。私がこの歌を知ったのは中学校に入学した1950年(昭和25年)の古文の授業でしたが、自らの不遇を嘆く思いが、梅の香という優美さを主役として控えめに表現されているからこそ、品のある余韻があり、詠み手の心中にあるものが強く伝わってくるように感じます。詩歌の才に恵まれた道真ならではの作品だと思います。

 

 また、「鶯宿梅」という故事があるとおり、昔から梅花と鶯はよい取り合わせのたとえ、仲のよい間柄のたとえとして対のようにいわれています。

 

 ※ 「鴬宿梅」:『大鏡』によれば、村上天皇(926年~967年)の御代に御所の清涼殿の梅が枯死したため、村上天皇が代わりの梅を探されていたところ、西ノ京の紀貫之の娘(むすめ)・紀内侍(きのないし)の屋敷の庭に名梅が植えられていることを知り、村上天皇はその梅を所望しました。勅命により梅は御所に移されることとなり、紀内侍はその梅との別れを惜しみながら、「勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問わば いかが答へむ」と詠みしたため、梅の枝に結びました。その和歌が村上天皇の目にとまり、紀内侍を憐れまれた村上天皇はその梅を元の庭にお返しになられました。この故事、あるいは、この梅のことを「鶯宿梅」と称するようになりました。

 

 なぜ鶯かというと、梅の開花と同じ早春に人里で鳴き始める習性があるからであり、鶯には、春告鳥という別名もあるそうです(鶯は、春の深まりとともに山へ帰って、巣造りを行うそうです)。また、「雪月花」と並称される、月の美しい夜に、まっ白い雪が紅梅や白梅の枝に降り積もった姿も、実に美しいものです。冒頭の川端康成がノーベル文学賞の受賞記念講演で、彼が、中唐の詩人 白居易(772年~846年)の歌「雪月花時最憶君」をもじった「雪月花の時、最も友を思う」という言葉を紹介しましたが、森羅万象、自然のすべての表情に感動を抱く日本人の美意識を表わした麗しい表現であると思います。

 

 雪の上に 照れる月夜に 梅の花 折りて贈らむ 愛しき児もがも  (大伴家持、万葉集)

 芝東照宮.JPG

2013年2月16日(土)8:16 東京都港区芝公園
芝東照宮にて撮影

 さて、梅は、花の観賞を目的とする「花梅」と、実の採取を目的とする「実梅」に分類されるそうですが、白、濃淡色のピンク、赤など色とりどりの梅の花の愛らしさ、美しさは、人々に憧れを抱かせます。

 

 熱海梅園の梅.JPG

2013年2月7日(木)12:48 静岡県熱海市
熱海梅園にて撮影

 

梅といえば、日本一早咲きといわれる熱海の梅花が思い出されます。私が1971年(昭和41年)の春に亡妻孝子との新婚旅行の旅先に選んだのが熱海の伊豆山温泉の「桃李境」でした。桃李境は、赤坂御所の設計で知られる建築家谷口吉郎氏による純和風建築で、1月中旬頃から梅が咲き誇り、その後も数種の桜が3月下頃まで楽しめる一万坪ほどのある広大な庭園で著名な老舗旅館でしたが、2007年でその歴史に幕を閉じ、跡地は、今年から東急ハーヴェストクラブ熱海伊豆山に生まれ変わるそうです。私は、2月10日(日)に、完成前のハーヴェストクラブを下見しました。熱海では、すでに梅は満開で、桜もちらほらとほころび始めていました。梅と桜の花びらの影に、亡き妻の姿をそっと重ねました。

 

東急ハーヴェスト.JPG 2013年2月10日(日)11:50 静岡県熱海市
東急ハーヴェストクラブ熱海伊豆山付近で撮影

 だるま.JPG

 2013年2月10日(日)12:31 神奈川県小田原市本町
小田原だるま料理店にて撮影

 

 梅のほかにも、桃の花、杏子の花、桜の花は、春を告げる代表的な花です。これらについては、次回以降のブログで書きたいと思います。

 ~ 今回の記事執筆にあたり、石草流生け花 家元後継 奥平清祥様、冷泉流歌壇玉緒会 伊藤幸子様、草月流師範 栗生世津子様、ランドブリーズ 渡辺憲司様にいろいろとご教授をいただきました。ありがとうございました。 

IMGP3263.JPG

2013年2月8日(日)7:11 高井伸夫撮影「水仙」
(東京都目黒区中目黒 中目黒公園にて)
花言葉:自惚れ

 

長らく私(鮒谷)が患ってきた病があります。
それは「先送り病」という名の一筋縄ではいかない病。

毎時、毎分、毎秒、私を苦しめ続けてきました。

この病気には程度の差こそあれ、多くの人が罹患しているのでは
ないかと思われますが、特に私は重篤な症状に苦しめられてきたのです。
 (そして今も)

お恥ずかしい話ですが、

 「本当にギリギリの、ギリギリの、ギリギリのところ」

までいって、

「これ以上放置すると人生や、仕事や、日常生活に
 重大な支障をきたしてしまう」

寸前まで、重い腰がなかなか上がらないのです。

さらに告白すると、

「重大な支障が起こってから慌てふためく」

ことも往々にしてあります。

そんな性格を逆手に取って、これまでの人生戦略では
受験も、仕事も、起業も、経営も、すべて

「ギリギリまで放置&エネルギー爆発戦略」

を取り、そこそこうまく機能させてきましたが、さすがに
こんな戦略をいつまでも繰り返すわけにはいきません。

そのようなわけで、あの手この手を用いて、この強大な敵と
戦って来ましたが、いまだに打ち倒すことができません。

とはいえ、徐々に寛解に向かっているのでは、と思える節がないこともないのです。

それは、

「一切の先送りを拒絶し続ける
 圧倒的なパワーを持たれた方」

と身近に接するところから始まりました。

「すべての行動を前倒し、前倒し、前倒し」

「今日できることは今日する、
 明日やればいいことも今日する、
 明後日やればいいことも今日する」

と、限界ギリギリまで前倒す。

そんな習慣を持たれている人と御縁を頂く
ところから変化が生まれたように思えるのです。

私の接してきた人の中で、
そんな圧倒的なパワーを身につけられている方、

それは、いわずもがなの高井伸夫先生です。

その前倒し性?の強烈さは著書のタイトルにも
あらわれていました。

<朝10時までに仕事は片づける~モーニング・マネジメントのすすめ>
 http://www.law-pro.jp/2002/12/10-1.html

とはいえ、いくら前倒しの人生が良い、といわれ、
それがいいことだと分かっても、

分かっていることと実行できることとは 
まるで別物。

「百聞は一見に如かず」

で、実際に圧倒的なレベルで実践されている方と間近に接することに
よって、初めてその薫陶を受ける、躾けられる、ということもあるようです。

などと書きながら、このブログ原稿も入稿期限を
大幅に過ぎ、ご担当者様にご迷惑をお掛けしております。

朝10時までに仕事を片付けるどころか、
午前3時(執筆時現在)になっても仕事が片付いておりません。

それでもなお、午前3時になってもまだ仕事をしている、
という時点で、これはかつての私にはありえないことで、

「先送り癖が大きく改善されている」

なによりの証左なのです。

高井先生に出会う前の私の座右の銘など、それこそ、

「人生、諦めが肝心」

という情けないもので、
今日中にやり遂げなければならない仕事があっても、

「今日は諦めて寝よう。
 明日の早朝に起きて頑張ろう」

となっていたわけです。

(お察しの通り、当然、翌朝、起きられないのですが)

そんな私でも生まれ変わることができました。
もとい、生まれ変わりつつあります。

それはひとえに、高井伸夫先生という、
すべてを強烈に前倒しし続けられる方と御縁を頂いたから。

だからこそ、高井伸夫先生には本当に感謝しても
しきれないものがあるのです。

(それでもなお、ブログ原稿をなかなか入稿期日に
 入れられないのですが)

「花」第2回:蓮・睡蓮


IMGP3215.JPG

2013年2月3日(日)7:52
東京都渋谷区神宮前 表参道「にいがたチューリップロード」にてチューリップを撮影
花言葉:博愛、名声

 

前回の記事から、私が撮影してきた花の写真とともに、花について私が思い・感じ・考えてきたさまざまなことをつづっています。

 

不忍池.jpg

 東京都台東区上野恩賜公園不忍池にて撮影
2011年8月23日付ブログ記事に掲載)

 

 さて、私は、花のなかでも、とくに、静謐な美しさをたたえた蓮の花が好きです。蓮は、水底の泥中の根茎から柄をのばし、水の面(おも)に大きく浮葉(うきは)をひろげると朝露を玉のように転がし、暑い夏の盛りには花の香匂う薄紅色や紅白に色づいた多弁花を咲かせます。蓮といえば、上野の不忍池の蓮が、私にとって一番馴染みあるものですが、蓮は、原産地がインド亜大陸(インド半島)とその周辺で、インド、スリランカ、ベトナムの国花でもあるとのことです。

 

 私は1991年5月、94年12月、96年4月、2000年11月、2008年2月の計5回、ベトナムを訪問したことがあります。1991年5月に初めてベトナムを訪れたときのエピソードをひとつ、後に述べます。

 

インド蓮.jpgこれは、私の親しい友人である日本画家 山田真巳画伯がインドで撮影された蓮の写真です。山田真巳画伯は、1996年から2002年までインド ニューデリーで過ごされた方です。私が2011年11月にインドを訪問した際(これは私の2度目の渡印で、1度目は2005年2月でした)、デリーのチャーナキャプリーにある日本大使館に、彼の大きな屏風作品が飾られていました。なお、山田画伯によれば、インドの国花は蓮ですが、一般的にインドでよく見られるのは睡蓮のほうであるそうです(蓮と睡蓮の違いについては、後に述べます)。蓮の可憐で清楚な姿を見ると、かつて何度も訪れたベトナムやインドでの楽しく心温まる時間が思いだされます。

 

バリ蓮.JPGインドネシア・バリ島 Nikko Bali Resort & Spaの門前の池にて撮影

 

また、2007年12月~2008年1月の年末年始休暇でインドネシア・バリ島を訪れた際に滞在したNikko Bali Resort & Spa(JAL HOTEL系列)の門前の池に咲いていた蓮の花も印象的です。バリ島には、インド仏教とヒンドゥー教が習合したバリ・ヒンドゥーを信仰している人が多く住んでいます。Wikipediaによると、ヒンドゥー教では、美しく、清浄な蓮の花は、気高く凛としたその立ち姿とともに、俗世の欲にまみれず清らかに生きることの象徴とされており、またこのイメージはのちの仏教にも継承され、仏の智慧や慈悲の象徴として、極楽浄土の象徴花『蓮華(れんげ)』と呼称されてきたそうです。また、蓮は、古来より和歌の世界でも『はちす(蓮)』の古名で詠み親しまれてきました。

小夜ふけて 蓮(はちす)の浮葉の 露のうへに 玉とみるまで やどる月影

 『金槐和歌集』源実朝

 

 また、蓮とよく似た植物に睡蓮があります(植物学上では蓮は「ヤマモガシ目ハス科ハス属ハス」、睡蓮は「スイレン目スイレン科スイレン属」)。蓮は水面より上に茎葉(けいよう)を伸ばし、花も水面より伸びたところで開花しますが、睡蓮は、葉が水面に浮かび、花も同じように水面に浮かぶという違いがあるそうです。睡蓮の品種のひとつである夜咲睡蓮は、エジプトの国花であり、インターネットで調べたところ、この睡蓮の香りは酔いに効果があるとして、古代エジプトで夜毎に開かれるパーティーで、女性の髪飾りとして使われていたそうです。パーティーに睡蓮を準備するために広大な睡蓮畑を所有しなければなりませんでしたので、睡蓮が富の象徴とされていたとのことです。

 

 睡蓮には、未(羊)の刻、午後2時頃開花し、午後6時頃眠るように花弁を閉じることから「ひつじ草」と名付けられたとされる品種もあります(実際には朝から夕方まで花を咲かせるそうです)。ひつじ草は、今上天皇第一皇女である紀宮清子内親王殿下(現黒田清子様)の皇室でのお印で、清子様の婚礼の際、引き出物として用意された有田焼の磁器製ボンボニエール(お菓子入れ)の側面には、ひつじ草のデザインがあしらわれたそうです(2005年11月16日読売新聞)。

 

 さて、睡蓮といえば、印象派を代表するフランスの画家、クロード・モネ( 1840年~1926年)も睡蓮に憧れ、その連作は、彼の代名詞ともなっています。彼は、自宅の日本風庭園にある睡蓮の池をモチーフに、1899年から1926年に亡くなるまでの間に全部で200点以上の作品を残しました。上野の国立西洋美術館にある1916年作の睡蓮は、晩年のモネの睡蓮のなかでももっともすぐれたもののひとつとされています。また、静岡県熱海市にあるMOA美術館にも、1918年に描かれたモネの睡蓮の作品が展示されています。

◎ 国立西洋美術館蔵 1916年作「睡蓮」
◎ MOA美術館蔵 1918年作「睡蓮」

 

東大寺別当の北河原公敬氏は、蓮について、「泥の中で育ちながら、気品ある、香り高い花を咲かせます。…『どうせ汚れた世の中だから』と開き直って、成功のみを求めて貪るように生きるより、…一輪でもいいから美しく、かぐわしい自分の花を咲かせてほしい。」と述べられています(2012年10月22日付日本経済新聞夕刊)。

 

北京蓮.JPG

中国 北京市郊外 北京語言大学キャンパスにて撮影

(北京語言大学は、当事務所の中国業務グループ総代表兼北京代表処首席代表である萩原大吾弁護士が、2011年6月中旬より8月末まで中国語を習熟するべく勉学に励んだ大学です。私は、萩原君が在学中であった2011年8月24日(水)に同大学を訪問しました。詳しくは、2011年8月30日付ブログ記事をご覧ください。)

 

蓮も、睡蓮も、泥の中から成長し凛とした花を咲かせる清々しい姿が、いにしえから、世界各地で、人の心に心地よい風をそよがせてきました。蓮・睡蓮は、言葉を発しませんが、その姿を眺めていると、たしかに私たちに人間のあり方や生き方を問いかけてきているような気がします。

  

※ 先に書いたとおり、ベトナムの国花は、蓮の花です。

私が、1991年5月にベトナムを初めて訪れたときは、当時のハノイ国際空港は、国際空港とは名ばかりの貧相な空港でした。イミグレーションでは国際共通語である英語は使われておらずベトナム語・フランス語・ロシア語のみであり書類に書き込むにも戸惑いました。また、空港の設備が非常に粗雑な造りで、果ては空港内で使われているバスが日本で使われていた中古バスで、おそらく神戸市バスであったものと記憶しています。

ハノイ国際空港からハノイ市内のホテルに向かう小一時間、ハノイ国際空港があまりにも粗雑な造りであったことに落胆していた私の目に、車窓からたくさんの池に美しい蓮の花がいたるところに咲いているのが映り、そののどかな風景に感激しました。

その後、ハノイ工科大学にお邪魔して、副学長先生らとお会いした際に、池に蓮の花が咲く街道筋の風景についてお話したところ、副学長が、私が見たのは池ではなく爆弾の跡であるとおっしゃるので、とても驚きました。

私は、池だと思っていたものが爆弾の跡であると知り、30年にわたる戦争の痕跡をありありと見て、この状況に心が痛んだとお話ししました。すると、ベトナムの戦争の歴史は30年ではなく、「1030年です」との言葉が返ってきました。

30年にわたる戦争とは、1946年から1979年までに勃発した3つの戦争、インドシナ戦争(対フランス:1946年12月~1954年8月)、ベトナム戦争(対アメリカ:1960年12月~1975年4月)、中越戦争(対中国:1979年2月~同年3月)のことです。ベトナムはこれらの戦争にすべて勝利しています。そして、1000年の戦争は、中国との関係のものだそうです。

なお、ベトナムを越南といいますが、三国志に出てくる「呉・蜀・越」の「越」の南にいた人たちが、現在のベトナムに追いやられた後も、自分たちの国を越南と呼んだとする説もあるそうです。

私は、ベトナムの1030年というながきにわたる戦いを知り、ベトナムが、戦争という泥沼から生え、気高く咲く蓮の花そのものであることを思い知ったのです。

 

~ 今回の記事執筆にあたり、石草流生け花 家元後継 奥平清祥様、弊所上海代表処 元統括秘書 李国麗様、冷泉流歌壇玉緒会 伊藤幸子様、株式会社サンフローリスト 藤澤旭様山田真巳画伯草月流師範 栗生世津子様、ランドブリーズ 渡辺憲司様、株式会社ぷらう 代表取締役社長石川裕一様にいろいろとご教授をいただきました。ありがとうございました。

「花」第1回:はじめに


20130201.JPGのサムネール画像2013年1月27日(日)14:03
東京都八王子市南浅川町 うかい竹亭にてサザンカを撮影
花言葉:困難に打ち勝つ、ひたむきさ

 

 ここに一輪の花があります。物言わぬ花ですが、ただ存在するだけでまわりがぽおっと明るくなり、気持ちがやわらぐのを感じます。花とはそういうものです。

 

私が花の写真を撮るようになったのは、2011年4月にブログを始めるにあたり、文章だけではいかにも殺風景だろうから何か写真でも載せようかという軽い動機からでした。試しに花を撮ってみたところ、それまで日々忙殺されて忘れかけていた花の美しさ、愛おしさ、可憐さに改めてひかれるようになり、毎日の朝の散歩で花を撮り続けることが日課となったのです。そして、少しずつ花についての勉強も始めました。日々撮影した花の写真を一年をとおして見返すと、春夏秋冬の移り変わりを自然と感じ取ることができます。今回のブログから、十数回にわたって、私が撮影してきた花の写真を中心として、花について私が感じ・思い・考えてきたさまざまなことをつづります。

 

 『種の起源』で著名なイギリスの自然科学者のチャールズ・ロバート・ダーウィン(1809年~1882年)は、1879年に友人に宛てた手紙の中で、「花を咲かせる植物の化石が、なぜある時期に突然、登場するのか、わたしにはその理由がわかりません。…この謎がすっきり解明される日が待ち遠しく思えます」と綴っています。花を咲かせる植物を顕花植物と呼ぶそうですが、顕花植物がいつ地上に登場したのかは、現時点では正確には判明していないとのことです。ただ、1億3000万年前の地層で発見されたものが現時点で最古の化石であり、これ以前に花が地上に存在した証拠はみつかっていないそうです。顕花植物が誕生した時期は、現在でも謎に包まれているそうですが、赤や黄、オレンジ、ピンク、紫や白といった色彩や、それぞれの花のもつ香りは、地上に艶やかさをもたらしたに違いありません(参考:『137億年の物語』クリストファー・ロイド著、文芸春秋)。なお、花は植物の進化の過程であり、花の各器官は葉が変形したものであるそうです。この考えを最初に示したのは意外にもドイツの詩人、文学者のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749年~1832年)であり、彼は自然科学にも造詣が深く、1790年に著した『植物変態論』のなかでこの考えを展開していたそうです。

 

 さて、現代の遺伝学によれば、チンパンジーからヒトが枝分かれしたのは、700万年前から400万年前であるといわれています。顕花植物は、遅くとも1億3000万年前には存在していたとすると、ヒトが誕生したときには、すでに地球上では花が咲いていたことになります。なお、インターネットで調べたところ、ネアンデルタール人(約20万年前に出現し、2万数千年前に絶滅)の埋葬跡の周辺の土には、少なくとも8種類の花の花粉や花弁が含まれており、これがネアンデルタール人が死者に手向けた花であるとすれば(異論もあるようです)、これが最も古い花と人とのかかわりの記録ということになるそうです。

 

 IMGP2848.JPG

(2012年12月2日
神奈川県横須賀市佐島「地魚料理 はまゆう」にて彼岸花を撮影)

 

 このように、遠い祖先の時代から、花に囲まれて生活をしている私たちは、花がもつ美しさ、香り、花の四季折々の色鮮やかな彩りに、癒されています。春に咲く淡紅色の沈丁花、夏に咲く淡い桃色の蓮の花、秋に咲く赤・白・黄の色とりどりの彼岸花(秋の彼岸ごろから開花することが名前の由来だそうです。また、彼岸花の有毒性から、食べた後は「彼岸(死)」しかない、という由来であるとする別説もあるそうです)、冬に咲く真綿・薄紅・薄紫のシクラメンに至るまで、花はいつでも、見るたびに、ホッと安らぎを与えてくれます。布施明の「シクラメンのかほり」(作詞・作曲 小椋 佳)という歌が、私は好きです。実際にはシクラメンは、ほとんど香りがしないでしょうが、そんな指摘はヤボというものです。清楚なシクラメンの姿に、美しい恋の匂い立つような思い出を重ねる主人公には、ほのかな香りが確かに感じられたのではないでしょうか。

 

CIMG0527.JPG

(2011年4月2日 東京都千代田区国立劇場前にて桜を撮影)

 

 さて、私がいつごろから花に興味をもつようになったかは、定かではありません。戦前、小学2年生のときに、三重県桑名郡古浜村に疎開した時に目に映った、田園の鮮やかな紅紫色のレンゲや、川原に紫色のアザミが咲く原風景が、私の一番古い花の記憶です。そして、敗戦を迎え、疎開先から名古屋市へ戻ったとき、家の庭に植えられていた沈丁花の香りに愛着をもったのを覚えています。その後、1958年頃、武蔵野の奥の平屋建ての家に住み、小さな庭ではありましたが花木等を植え、夏に咲く百日紅(さるすべり)や、白い大手毬、小手毬、黄色い連翹(レンギョウ)、黄色や橙黄色のキレンゲツツジの花に目を楽しませたものでした。1985年7月に、今の住まいである東京都港区に引っ越した折には、庭に一本の桜を植えました。この桜は堂々と育ち、毎年、春の訪れとともに、私の人生の盛りを彩ってくれているかのように咲き満ちて、春の霞の大空を桜花(さくらばな)に染めています。こうして振り返ってみると、無趣味な私にとっても、花は生来の憧れであり続けたのです。

 

 ~ 今回の記事執筆にあたり、石草流生け花 家元後継 奥平清祥様、冷泉流歌壇玉緒会 伊藤幸子様、フラワーショップ華曜日 荒川智彦様に、ご教授をいただきました。ありがとうございました。

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