2012年1月アーカイブ

高井伸夫先生とご一緒していて、驚嘆させられるのは、

常に思考と行動が同時並行で走っているところ。

 

大抵の場合、「思考」と「行動」の間にはタイムラグがあるものです。

(私を含め)平均的な人は考えてから、実行に移すまでに

相応の時間がかかります。

 

あるいはタイムラグがあるだけなら、まだ良いのですが、

「考えたけれども、いつまでたっても実行されない」ということも

往々にしてあるものです。

 

 

しかし高井先生は、思いついたことは一つ残らず、すぐ実行。

 

たくさんのスタッフの方々と即時、即座の連絡を取られることで

「思考」⇒「行動」の間に時間差がなく、

 

従って、頭に浮かんだすべての案件が細大漏らさず、

リアルタイムで実行に移されていく姿はまさに圧巻です。

 

 

一切の業務をひたすら前倒し、前倒し、前倒しで

処理されていくのですから、文字通り、

 

「1人で10人分の仕事をしている」

 

ことになるわけです。

 

その昔、「思考スピードの経営」という本がありましたが、

まさにその言葉を彷彿とさせるようなスピード感。

 

 

しかもそれを努力して行なっているのではなく、

完全に日常化され、習慣となり、無理している風もなく、

飄々、軽々、淡々と実行されているところにかえって凄みを感じます。

 

努力・頑張りの空気が身体から立ち昇ってきて、

あの人は努力しているなあ、頑張っているなあと周囲の人から

思われる程度ではまだまだ修行が足りない、ということなのでしょうか。

 

 

さらにこのスピード、密度で

盆・正月の休みもなく、

 

「50年近く続けてきた」

 

と言われたときにも驚愕しました。

 

「ただ見れば 何の苦もなき 水鳥の

足に閑(ひま)なき わが思ひかな」

 

の句を思い出したものです。

当たり前のことですが、横着していては、成果は出せないのですね。

 

 

何が高井先生をしてここまで駆り立てるのだろうと

不思議に感じることもありましたが、あるときから、

 

 

「ご縁の会った人に何かをして差し上げ

(それが情報であることもあれば、人の紹介であることも

あり、具体的なアイディアであることもあります)

 

それが成果につながり、その人が喜んでいる顔を

見るのが純粋に嬉しい。

 

さらに、よりたくさんの人に喜んでもらいたい。

それが大量行動として反映されるのだろう」

 

 

と思うようになりました。

 

私の憶測に過ぎませんが、当たらずとも遠からずと

思っております。

 

 

普通に生きているとなかなか間近に拝見することも叶わない、

超絶した生活に触れ、貴重な学びの場とさせて頂いていることに

ただただ感謝です。

 

また「学ぶことは真似ぶこと」と言われますが、

その姿勢や行動を模倣させて頂くことで、

自分自身が変わっていく実感を日々、味わっています。

 

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【交友録その16】 2012年1月(1)

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今回の交友録では、2004年11月より親しくお付き合いさせていただいている有限会社サンク・センス 代表取締役 松浦 尚子様をご紹介いたします。

 

サンク・センスHP http://cinq-sens.jp/

 

松浦尚子様.JPG

(有限会社サンク・センス 代表取締役 松浦 尚子様)

 

松浦様とは、2004年11月に初めてお会いいたしました。その経緯は、松浦様が主宰されていた「ワインシンポジウム」(一流の経営者・ビジネスパーソンがゲストスピーカーとして講演をし、ワインとチーズをいただきながら、親睦を深める会で、26回程開催。)に、私が親しくさせていただいている株式会社かんき出版最高顧問 境 健一郎様を通じて、松浦様が私をお招きしてくださったことがきっかけです。爾来、親しくお付き合いさせていただいております。また、1月6日付「歴訪記その11山形」にてご紹介した、有限会社登起波牛肉店 代表取締役社長 尾﨑 仁様は、松浦様のご主人様で、ご夫婦そろって、いつも親身にお気づかいをいただいております。

 

かんき出版HP http://www.kankidirect.com/

登起波牛肉店HP http://www.yonezawabeef.co.jp/

 

さて、松浦様の経営されるサンク・センスでは、ワインセミナー、ワインCLUB運営、講演・執筆等を行われています。ワインセミナーは、単にワインそのものの知識だけを詰め込むのではなく、教養・マナーの観点から、ワインを多くの場面で、国境や文化の垣根を越えた円滑な人間関係の構築に役立てるためのセミナーです。ワインという全世界で愛される飲み物が、人と人を結ぶコミュニケーションツールであるということを広く日本で認識されるようになってほしいという大望を果たすべく、以前には駐日フランス大使館主催事でのプレゼンテーターや六本木ヒルズクラブでのワイン講師、経営者を中心としたビジネスマン向けのワイン講演も数多くこなし、多くの雑誌でコラム連載も手掛けられ、日々精力的にご活躍されています。

 

松浦様は、神戸大学教育学部をご卒業され、教育・出版会社である株式会社福武書店(1995年4月にベネッセコーポレーションに社名変更)に3年間勤められた後、単身、フランスに渡ることを決意されました。これは、世界の権威であるボルドー大学ワイン醸造学部が主宰する、日本人では数少ない『ワインテイスター専門家』資格を取得し、日本でワイン教育を広めるためでした。

 

クラスメートは、有名なシャトーの醸造長、広報担当者等、かなりプロフェッショナルな方々が集う場所だったそうです。ボルドー大学は、テイスティング技術も教えながら、歴史、哲学、思想などを学べる幅広いカリキュラムがあり、松浦様の「ワインを通じて、感性を磨き、表現力を養える場所を日本で作る」という願いを叶えるに相応しい大学でした。(サンク・センス〈cinq sens〉という社名は、フランス語で五感、を意味します。)しかし、醸造学部では、外国人枠(留学生枠)があるものの、勿論授業は全てフランス語で、年3回、2時間の論文形式の筆記試験もあったということで、大変苦労をされたそうです。元々、大学でフランス語を勉強していたわけでないので、ベネッセコーポレーションを退社後は日本でフランス語を勉強、渡仏後はまずは語学学校に通され、3年目にボルドー大学に入られたということです。しかし、3年目にしてもボルドー大学における多くの論文試験を見事クリアされるということは、並大抵の努力が必要だと思いますが、松浦様は「言葉を学びにきたよりも、先にもっと大きな目標があること。例えば料理、お菓子、ワイン、フランスの芸術等々、フランス語が目的ではなくて『言葉は夢を叶えるための道具である』と考える人は、上達も早い気がします」とおっしゃっていました。松浦様は、フランス滞在中に、難関フランス文部省認定のフランス語資格試験DALFも全て取得されたそうです。

 

渡仏を決意された際の、松浦様の「大きな目標」とは、先に述べた通り日本で「ワイン教育」を広めることでしたが、そのような目標をもってしても、大企業を辞めて単身渡仏するということは非常に勇気のある行動です。そのバイタリティ溢れるエネルギーについて、松浦様にお聞きした所、「タイガー・ウッズのエピソード」と「上杉鷹山の名言」を座右の銘にされているというお話をお聞かせいただきました。

 

プロゴルファーであるタイガー・ウッズは、「常にパットは強く打つ」ということをポリシーにしているそうです。これは、「強く打って届かなければ、ホールに入るわけがない」ということです。上杉鷹山の名言「なせば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」 は、有名な言葉ですが、「人が何かを為し遂げようという意思を持って行動すれば、何事も達成に向かうのである。ただ待っていて、何も行動を起こさなければ良い結果には結びつかない。結果が得られないのは、人が為し遂げる意思を持って行動しないからだ。」という意味です。

 

松浦様は、これらの言葉に触れて、「後悔する生き方は絶対にしたくない」ということがご自分の信念としてあることに気づき、単身渡仏という大きな一歩を踏み出したのです。タイガー・ウッズのエピソードは、その新聞記事をコピーしていつも手帳に入れていたそうです。幼いころから「教育」の道を進みたいとの想いがあった松浦様にとって、教育出版では最大手ともいえるベネッセコーポレーションで3年勤められたご経験は、大変貴重なものではありましたが、社内の異動などもあり、専門性を高めることは難しく、「自分にしかできない仕事をしたい、自分の代わりはいないというような仕事を極めてみたい」という想いがそれを後押ししたということです。

 

私は、「安定性」という美点ばかりを求め、「推進力」が欠けている日本人は多いと思っています。もともと、日本人は農耕民族ですので、安定性を好むがゆえに、推進力がないのは当然のことではあります。「安定性」と「推進力」は、本来的には並び立つものではありません。松浦様は、このことについて「頭でわかっていても、一歩を踏み出すことはなかなかできない。自分の今まで持っていたものを手放すのは怖いものです。でも、今まで持っていたものを手放さなければ、新しいものは得ることができない。『やろう!』と思わない限り、絶対に叶わないのです。」と分かり易く語られていました。松浦様は、「今はまさに、世界はアジア、欧米、そういった地理的括りのない密なものになっています。日本だけで物事を考えていては小さな考えになってしまいます。最初は、遊び気分、旅行気分でもいいから、まずは日本以外のところへ行ってみて、そこから海外に住んで学んでみたい、何かやりたい、という目標を見つければいいのでは」とおっしゃっていました。私は、今の青年諸君が、海外に赴かないという嘆かわしい状況を見るにつけ、日本人はまさにゾウの時間ではなく「ネズミの時間」になってしまったと思っています。海外雄飛という言葉が再度現代に躍ることはもう難しいかもしれません。しかし、これから、海外に日本の青年たちが積極的に赴き、世界に再びはばたき活躍してくれれば、黄昏社会となってしまった日本が、早晩立ち直ることができると思います。

 

さて、松浦様は、通算5年間フランスに滞在した後、2002年秋に帰国され、2003年4月に有限会社サンク・センスを設立し、代表取締役に就任されました。ワインセミナー、ワインCLUB運営、講演・執筆等数々の実績を積まれていますが、最近では、2008年9月に自宅で学べるDVDワイン講座「ビジネスワインマスター」をリリースされました。2010年4月には、白金高輪にワインショップ「サンク・センス ワインセレクターズショップ」を開業され、同時にWEBショップもスタートし、世界各国から300種におよぶワインを紹介されています。日本のワインの普及の手助けになれば、と、「○○フェア」と題して、地域ごとにお勧めワイナリーのワインを紹介されるフェアも実施される予定です。また、ご主人様のお店「登起波牛肉店」の米沢牛と、サンク・センスのワインとをコラボレーションしたギフトセットも大変好評を博しているそうです。

 

 

ワインセレクトショップ.JPG

「サンク・センス ワインセレクターズショップ」店内の様子

 

「ビジネスワインマスター」について http://cinq-sens.jp/bwm/

サンク・センス ワインセレクターズショップHP http://cinq-sens.jp/shop/

 

日本のワイナリーでお勧めをお聞きしたところ、「数多くあります」とのことで、その中でも特に、というものをピックアップしていただきました。

 

  1. 山形県上山市四ツ谷 タケダワイナリー  http://www.takeda-wine.co.jp/
  2. 栃木県足利市田島町 ココ・ファーム・ワイナリー(私もココ・ファーム・ワイナリーには昨年8月13日(土)に訪問いたしました。本ブログでも8月23日付記事にてご紹介しましたのであわせてご覧ください。)http://www.cocowine.com/winery/about.html
  3. 島根県雲南市木次町寺領 奥出雲ワイナリー http://www.okuizumo.com/

 

また、2011年4月には時間が不規則で決まった曜日に通えない方や、遠方の方の為に、「ホームワインスクール」という通信教育セミナーをスタートされました。DVDとCD、そして1ヵ月に2本ずつ、計12本の世界各国のワインが6ヶ月に亘って毎月1回届くそうです。通信教育は、開設して未だ間もないですが、北海道から九州まで、津々浦々の方からご注文を受けているそうです。

 

ホームワインスクールHP http://cinq-sens.jp/home_wine_school/

 

これからもどんどん充実されたいということで、例えば通信教育「ホームワインスクール」では、初級者向けのカリキュラムしかまだ準備がないとのことですが、次はシャンパーニュ、ボルドー、ブルゴーニュ、等、テーマ別のカリキュラムを作ってみたい、とおっしゃっていました。

 

松浦様ご夫婦はそれぞれに経営者でいらっしゃいますので、尾﨑様は山形県米沢市、松浦様は東京で、経営者として精力的に活動を続けられています。松浦様は、おふたりの0歳と4歳のお子様を保育園に預け、周りの皆さまの助けをいただきながら、仕事と子育てを両立されています。「大きな企業で、その会社の制度の中で働くよりも、かえって、自分が経営している分、色々融通が効いています。」とのことです。子育てと仕事の両立を不安に感じる女性も多いかと思いますが、松浦様は、好きなことを仕事にしていれば、おのずと家族との兼ね合いも上手くいくことが多いのではないか、とおっしゃっていました。社会では、「男性は仕事、女性は家庭」という価値観が未だに根強い気もしますが、女性がやりたいことをやり続けるということを実践し続ける松浦様のお姿に、共感し見習いたいと憧れる若い女性は多いのではないでしょうか。

 

これからの展望を快活にお話しされる松浦様のお姿を拝見していると、女性は仕事に打ち込むと『女性らしさ』を失うのではないか、と感じる方も多いかと思いますが、実はまったく逆で、精力的に活躍することでこそ、ますます美しくなれるのではないか、と感じます。2011年の流行語大賞に、日本サッカー界初のワールドカップ優勝という快挙を成し遂げた「なでしこジャパン」が選ばれましたが、今年2012年も、働く女性が大いに美しく活躍する1年になるのではないでしょうか。男性の皆さまにも、女性のエネルギーを見習っていただきたいものです。

 

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IMGP0750.JPG

(2012年1月8日 朝7:39 東京都港区 仙台坂にて撮影)

 

 

 

前回、前々回に引き続き、新潟大学大学院医歯学総合研究科教授 安保 徹先生をご紹介いたします。

 

 

安保徹先生.jpg

安保 徹先生 公式HP http://toru-abo.com/

 

 

【自分の生き方を問い直すこと】

さて、私たちは正反対のはたらきをする2つの神経(自律神経)から成り立っています。活動している時や、ストレス、緊張している時に使用する「交感神経」、そしてもうひとつは休息している時、体の修復をしている時、リラックスしている時に使用する「副交感神経」です。体の中で副交感神経が優位にたつと筋肉が緩み、血管が広がり、心拍はゆっくりとなって、内臓は活発になります。これは筋肉の中の血管、リンパ腺、神経が、血管が広がることによって、栄養・酸素・体温が体のすみずみに運ばれていき、老廃物や疲労物質などの不要なものもスムーズに排出されるからだそうです。

 

反対にストレスが多いと、交感神経ばかりが働くことになってしまいますので、副交感神経による「体の修復・疲労の回復」が体の中で追いつかず「疲れがとれない」、「不眠」等の不調をかかえてしまうそうです。交感神経の緊張が続くと「低体温」、「低酸素」の世界が続き、がんが発症しやすい状態が作られることになります。このような時は体を温めることを心がけ、ゆったり食事をとるなどして、副交感神経を優位にし、活発化させることが必要になってきます。副交感神経が活発だと酸素も活発に取り入れられますので、それに伴ってミトコンドリアも活発になります。これは「副交感神経が活発化」=「免疫力が上がる」ということを意味します。「無理をしないでリラックスする」、「物事に対しては常に楽観的でいること」など、興奮やストレスのない状態が、副交感神経を活発化することになります。

 

がんについて安保先生は「自分自身の生き方の偏りが特定の部位のガン化として現れる」とおっしゃっています。たとえば悩みばかりの人は頭(脳)の中でそのことばかりを日々考えて過ごすことになりますので、副交感神経を使いたくてもリラックスできず、常に脳が緊張し交感神経が優位にたち、ストレスを抱えていることになります。結果、脳腫瘍にかかる率がどうしても高くなるということです。ですから、「自分の生き方を問い直すこと」、生き方の改善こそが、がんの最大の処方箋だということです。

 

また、常に笑っていることでがんが治った人もいるそうです。安保先生はご自身の本、「ガンは自分で治せる」(マキノ出版、2002)」の中で「笑いと治癒力」(岩波書店、2001)の著者であるノーマン・カズンズ氏の言葉を引用し、「笑うこと」がストレスを緩和し、免疫系のバランスを回復させ、人間の自然治癒力を活性化させるということについて述べていらっしゃいます。笑う事は免疫力(リンパ球)が活性化することと関係しており、実際に「笑い」を治療の一環としている病院もあるということです。これについては7月12日付ブログ記事「交友録その2」でご紹介した船瀬俊介先生も、ご著書「笑いの免疫学」(花伝社、2006)の中で述べられています。

 

苦しみの最中、笑うということは非常に難しいような気もします。しかし、漫画家の故・赤塚不二夫先生による「天才バカボン」のパパの名台詞「これでいいのだ」があります。「これでいいのだ」と笑って過ごすことは、すなわち病気や老いといった、自分の力ではどうにもならない宇宙の法則に全て身をゆだね、受け入れるということでしょう。

 

人は病気になり、老い衰え、そして最終的には死に至ります。こういった宇宙の法則は、無常であります。しかしこの悲しみを、悩みや怒りをもって受け止めてはいけないと思います。悲しみを受け入れ、肯定することで、安保先生のおっしゃる「自分の生き方」がおのずと意識できるのではないでしょうか。人は病気になり、老い衰え、そして最終的には死に至るということは、肉体的な健康を失うということであると思いますが、人間の「生きること」に対する「苦悩」、「苦痛」、「苛立ち」、「怒り」、そして「不安」のない状態は、霊的には健康であるということでしょう。

 

 

【統合医療について】

本ブログでは度々「統合医療」について述べておりますが、安保先生もまた、統合医療の目指す対症療法・原因療法を相互発展・連携させていく医療のありかたが必要であると述べられています。

 

代替医療の治療は、ガン、リウマチ、アレルギーなど、西洋医学の治療を長く続けると破たんをきたすような病気に効果を挙げていることが多いです。その理由として、安保先生は、これらの病気は『慢性化する』という共通点があり、慢性化しているということは、つまり、自律神経、免疫系、循環系、消化器系等、体全体のバランスが破たんしているということですから、バランスを整える働きを全身で考える代替医療が功を奏すのだと述べられています。

 

 

 

 

「ガンの患者さんたちを見ていると、ガン医療というのが過渡期に差しかかっているように思います。たいていの患者さんは、まず西洋医学にたよります。そして、西洋医学でできることをやりつくした後で、何かほかにないかと、代替医療をためしはじめるという人がとても多いのが実情です。…西洋医学の薬で体力を消耗しきっている人がとてもたくさんいます。…代替医療は、生体反応を利用してゆっくりと治癒に向かわせる医療なので、やはり、ある程度生体反応自体が正常に働く余力が残っていないと、なかなか治癒に向かいません。…もっとたくさんの人に、西洋医学以外の選択肢があるということを普段から意識してほしいと思います。」(『免疫革命』274-275頁、講談社、2003)

 

草木の緑がかがやき木の葉がそよぐ音、潮騒の響き、暖かな太陽の日差し、心の奥底を寂然と照らしだす月の光等々の自然、宇宙のエネルギーは、私たちになんともいえない安心感や心地よさを与え、体中に力が満ち溢れてくることがあります。私は、これこそが「自然治癒力」であると思います。本ブログの7

月23日付交友録にてご紹介したリンゴ農家の木村秋則先生は、肥料も農薬も使わないリンゴ栽培を成功された方です。何も与えないので、リンゴを1年間収穫すれば、その分の栄養が土壌から奪われるはずですが、「うちの畑の土は、周辺のリンゴ畑よりも栄養分が多いという調査結果が出ています。…足りないモノを補っていく力が、自然界には備わっている。」と述べられています(日経ビジネス2011年11月28日号、148頁)。人の自然治癒力も、このリンゴの力と同じであると思うのです。

 

東洋医学をはじめとする伝統医学や代替医療は、「自然治癒力」という、人が宇宙から与えられた力を、最大限に生かした治療法であり、人がもっとも自然に(すなわち宇宙と調和して)生きることのできる治療法であると思います。

 

 

【最後に】

今回まで計3回、安保徹先生をご紹介する記事を投稿して参りましたが、全ての原稿につきまして、安保先生と読み合わせをいたしました。そして、お話をうかがった最後に一言コメントをとお願いしましたところ、「様々な角度から、様々な方の話を取り上げられ立体的に記されているので、大きな反響があるのではないでしょうか。楽しみにしております。」との言葉をいただきました。あわせて付記しておきたいと思います。

 

また、先生は、来年2013年に、65歳で新潟大学をご退任される予定ですが、その後の展望として、研究所を新潟に作り、引き続き免疫学の研究に励みたい、とおっしゃっていました。安保先生の益々のご活躍を心から祈念しております。

 

 

【自分の生き方を問い直すこと】
さて、私たちは正反対のはたらきをする2つの神経(自律神経)から成り立っています。活動している時や、ストレス、緊張している時に使用する「交感神経」、そしてもうひとつは休息している時、体の修復をしている時、リラックスしている時に使用する「副交感神経」です。体の中で副交感神経が優位にたつと筋肉が緩み、血管が広がり、心拍はゆっくりとなって、内臓は活発になります。これは筋肉の中の血管、リンパ腺、神経が、血管が広がることによって、栄養・酸素・体温が体のすみずみに運ばれていき、老廃物や疲労物質などの不要なものもスムーズに排出されるからだそうです。
反対にストレスが多いと、交感神経ばかりが働くことになってしまいますので、副交感神経による「体の修復・疲労の回復」が体の中で追いつかず「疲れがとれない」、「不眠」等の不調をかかえてしまうそうです。交感神経の緊張が続くと「低体温」、「低酸素」の世界が続き、がんが発症しやすい状態が作られることになります。このような時は体を温めることを心がけ、ゆったり食事をとるなどして、副交感神経を優位にし、活発化させることが必要になってきます。副交感神経が活発だと酸素も活発に取り入れられますので、それに伴ってミトコンドリアも活発になります。これは「副交感神経が活発化」=「免疫力が上がる」ということを意味します。「無理をしないでリラックスする」、「物事に対しては常に楽観的でいること」など、興奮やストレスのない状態が、副交感神経を活発化することになります。
がんについて安保先生は「自分自身の生き方の偏りが特定の部位のガン化として現れる」とおっしゃっています。たとえば悩みばかりの人は頭(脳)の中でそのことばかりを日々考えて過ごすことになりますので、副交感神経を使いたくてもリラックスできず、常に脳が緊張し交感神経が優位にたち、ストレスを抱えていることになります。結果、脳腫瘍にかかる率がどうしても高くなるということです。ですから、「自分の生き方を問い直すこと」、生き方の改善こそが、がんの最大の処方箋だということです。
また、常に笑っていることでがんが治った人もいるそうです。安保先生はご自身の本、「ガンは自分で治せる」(マキノ出版、2002)」の中で「笑いと治癒力」(岩波書店、2001)の著者であるノーマン・カズンズ氏の言葉を引用し、「笑うこと」がストレスを緩和し、免疫系のバランスを回復させ、人間の自然治癒力を活性化させるということについて述べていらっしゃいます。笑う事は免疫力(リンパ球)が活性化することと関係しており、実際に「笑い」を治療の一環としている病院もあるということです。これについては7月12日付ブログ記事「交友録その2」でご紹介した船瀬俊介先生も、ご著書「笑いの免疫学」(花伝社、2006)の中で述べられています。
苦しみの最中、笑うということは非常に難しいような気もします。しかし、漫画家の故・赤塚不二夫先生による「天才バカボン」のパパの名台詞「これでいいのだ」があります。「これでいいのだ」と笑って過ごすことは、すなわち病気や老いといった、自分の力ではどうにもならない宇宙の法則に全て身をゆだね、受け入れるということでしょう。
人は病気になり、老い衰え、そして最終的には死に至ります。こういった宇宙の法則は、無常であります。しかしこの悲しみを、悩みや怒りをもって受け止めてはいけないと思います。悲しみを受け入れ、肯定することで、安保先生のおっしゃる「自分の生き方」がおのずと意識できるのではないでしょうか。人は病気になり、老い衰え、そして最終的には死に至るということは、肉体的な健康を失うということであると思いますが、人間の「生きること」に対する「苦悩」、「苦痛」、「苛立ち」、「怒り」、そして「不安」のない状態は、霊的には健康であるということでしょう。
【統合医療について】
本ブログでは度々「統合医療」について述べておりますが、安保先生もまた、統合医療の目指す対症療法・原因療法を相互発展・連携させていく医療のありかたが必要であると述べられています。
代替医療の治療は、ガン、リウマチ、アレルギーなど、西洋医学の治療を長く続けると破たんをきたすような病気に効果を挙げていることが多いです。その理由として、安保先生は、これらの病気は『慢性化する』という共通点があり、慢性化しているということは、つまり、自律神経、免疫系、循環系、消化器系等、体全体のバランスが破たんしているということですから、バランスを整える働きを全身で考える代替医療が功を奏すのだと述べられています。
「ガンの患者さんたちを見ていると、ガン医療というのが過渡期に差しかかっているように思います。たいていの患者さんは、まず西洋医学にたよります。そして、西洋医学でできることをやりつくした後で、何かほかにないかと、代替医療をためしはじめるという人がとても多いのが実情です。…西洋医学の薬で体力を消耗しきっている人がとてもたくさんいます。…代替医療は、生体反応を利用してゆっくりと治癒に向かわせる医療なので、やはり、ある程度生体反応自体が正常に働く余力が残っていないと、なかなか治癒に向かいません。…もっとたくさんの人に、西洋医学以外の選択肢があるということを普段から意識してほしいと思います。」(『免疫革命』274-275頁、講談社、2003)
草木の緑がかがやき木の葉がそよぐ音、潮騒の響き、暖かな太陽の日差し、心の奥底を寂然と照らしだす月の光等々の自然、宇宙のエネルギーは、私たちになんともいえない安心感や心地よさを与え、体中に力が満ち溢れてくることがあります。私は、これこそが「自然治癒力」であると思います。本ブログの7
月23日付交友録にてご紹介したリンゴ農家の木村秋則先生は、肥料も農薬も使わないリンゴ栽培を成功された方です。何も与えないので、リンゴを1年間収穫すれば、その分の栄養が土壌から奪われるはずですが、「うちの畑の土は、周辺のリンゴ畑よりも栄養分が多いという調査結果が出ています。…足りないモノを補っていく力が、自然界には備わっている。」と述べられています(日経ビジネス2011年11月28日号、148頁)。人の自然治癒力も、このリンゴの力と同じであると思うのです。
東洋医学をはじめとする伝統医学や代替医療は、「自然治癒力」という、人が宇宙から与えられた力を、最大限に生かした治療法であり、人がもっとも自然に(すなわち宇宙と調和して)生きることのできる治療法であると思います。
【最後に】
今回まで計3回、安保徹先生をご紹介する記事を投稿して参りましたが、全ての原稿につきまして、安保先生と読み合わせをいたしました。そして、お話をうかがった最後に一言コメントをとお願いしましたところ、「様々な角度から、様々な方の話を取り上げられ立体的に記されているので、大きな反響があるのではないでしょうか。楽しみにしております。」との言葉をいただきました。あわせて付記しておきたいと思います。
また、先生は、来年2013年に、65歳で新潟大学をご退任される予定ですが、その後の展望として、研究所を新潟に作り、引き続き免疫学の研究に励みたい、とおっしゃっていました。安保先生の益々のご活躍を心から祈念しております。

 

 

 

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【歴訪記】その11 山形

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新春のお喜びを申し上げます。
皆様おすこやかに新春をお迎えのことと存じます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 


 

 

 

さて、昨年12月17日(土)~18日(日)の日程で、山形県置賜盆地と山形市を訪ねました。1泊2日の短い旅でしたが、豊かな自然に恵まれた山形で(東北地方の南西部に位置する山形県は、県土の72%を森林が占めているそうです)癒しのひとときを満喫いたしました。今回の旅は、有限会社セカンドステージ代表取締役社長 鮒谷周史様に全旅程をご同行いただきました。

 

 

(1)12月17日(土)

東京駅を16時8分に出発し、新幹線つばさ145号に乗り18時20分、米沢駅に到着いたしました。米沢駅には有限会社登起波牛肉店代表取締役社長 尾﨑 仁様が車でお迎えくださいました。外に出ると雪景色で、米沢はすっかり冬という感じでした。私は2011年12月27日付ブログ「歴訪記その10」にも書きましたが、今回の山形訪問の前々日の15日には、高知を訪問しました。高知では、摂氏17度と小春日和でしたが、山形はまさに滴水成氷で、冬まっただ中でした。 

 

【登起波分店「登」で夕食】 

まず、尾﨑様の経営される「登起波分店「登」(のぼる)」にて、大変美味しい夕食をいただきました。「登起波分店「登」」は、「登起波牛肉店」の飲食部門の支店にあたります。「登起波牛肉店」の歴史は古く、明治27年10月、初代の尾﨑庄吉様が、米沢市あら町に開店したのが始まりだそうです。当時は、牛肉の販売期間は、寒くなる秋から冬の間に、集めて踏み固めた雪がなくなる6月頃までだったそうです。現在、米沢の牛肉店の中では、一番古くから営業している牛肉店であり、確かな品質と味にこだわり、「米沢に登起波あり」との評価を得ているとのことです。

 

さて、米沢牛は、上杉鷹山(1751年~1822年)が開校した藩校「興譲館」で、明治4年から8年までの間教鞭を執ったチャールス・ヘンリー・ダラスが、故郷を懐かしんで四つ足の動物は食べないとされた米沢の地で、牛肉を食べたのが、食用としての米沢牛の歴史のはじまりであるそうです。その味わいにいたく感動したダラス氏は、任期を終え、米沢をはなれる際に1頭の牛を横浜へ連れていきふるまったところ、その牛肉の旨さに一同が感嘆して、それが「米沢牛」が全国に広がるきっかけであったそうです。

 

尾﨑 仁様は、5代目にあたり、1995(平成7)年に東京農業大学畜産学科をご卒業された年の11月に、4代目尾崎 祐二様がお亡くなりになり、すぐに5代目店主となった方です。ハム・ソーセージについては、大学時代に東京吉祥寺の「ケーニッヒ」にて修行されたそうです。1998(平成10)年には、2階・3階の飲食部門を改装し、全テーブルに無煙炭火ロースター(網焼きのみ炭火)を導入され、新メニューに炭火網焼きが加わりました。また、2004(平成16)年9月には、【登起波分店「登」】をオープンされ、米沢牛をもっと気軽に味わえる店として、牛丼、牛鍋、すき焼き、しゃぶしゃぶ、ステーキ、炭火網焼きなど、本店よりもリーズナブルな価格で提供されています。尾﨑様は、長い歴史・伝統を守りながら、イノベーションを続けられ、情熱、責任感、判断力の備わった若き経営者でいらっしゃいます。

 

尾崎様とは、色々なお話をいたしましたが、特に東日本大震災の影響が話題に上りました。震災直後の米沢、山形は雇用、経済、すべてにおいて大変な状況だったということでしたが、その頃に比べると随分と元気になってきている感触があるというお話をして下さいました。

 

登起波牛肉店の扱う米沢牛は、12月の米沢牛銘柄推進協議会主催の第52回米沢牛枝肉共進会で牛1頭1千万円の売値が出たそうです。松阪牛が1頭につき3~4千万円といわれる中で、苦戦していた米沢牛に1千万円の値がついたことは、米沢牛のイメージアップを図るためには喜ばしいことだとおっしゃっていました(ただしこれは特定の牛についてのことで、全体としてはまだまだ安めだというお話でした)。いずれにしても東日本大震災後、被災地の経済が元に戻りかけているということは大変喜ばしいことです。

 

【登起波分店「登」】の料金について聞きましたところ、夕食(お酒代込み)で1人当たり6千円が限度だということでした。昼食ともなればもっと安くなるのはいうまでもありません。いずれにしろ、米沢ではそれくらいの料金が限界だということです。

 


 

 

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(2011年12月17日 19:53 登起波分店「登」での会食の様子

 

私は地方のレストランは勿論のことですが、東京のレストランもほとんどが赤字経営であると推測しています。この前まであったお店が、突然閉店したり経営者が変わったりすることがごく頻繁に起こることは、やむを得ないことなのかもしれません。尾崎様は、現在、米沢商工会議所青年部副会長として、ご活躍されていますが、お話は、米沢、山形、或いは東北全体の話までに及び、大変説得力がありました。

 

 

なお、尾﨑 仁様の奥様は、有限会社サンク・センス代表取締役社長 松浦 尚子様です。松浦様は、ボルドー大学ワイン醸造学部公認のワインテイスティング専門家資格を取得された方で、つまり、ご夫婦そろって「美食」に通じたプロフェッショナルなのです(松浦様については、当ブログでも『交友録』として近々ご紹介させていただきます)。

 

登起波牛肉店HP http://www.yonezawabeef.co.jp/

 

 

【湯滝の宿・西屋】

夜は米沢市大字関にある「湯滝の宿・西屋」に宿泊いたしました。西吾妻山系からの白布の湯は、開湯700年を誇り、湯滝風呂の湯船は、江戸中期頃、職人が1枚1枚御影石を削りだして作られたものだそうで、以来300年以上、変わらずに姿を今にとどめているのだそうです。また館内も、昔ながらの木造建築で、季節柄少し寒くはありましたが、趣のある素晴らしい宿でした。

 

湯滝の宿・西屋 http://www.nishiya-shirabu.jp/

 

 

 

 

 

(2)12月18日(日)

 

【我妻榮記念館】

宿で朝食をいただいた後、8時30分頃に旅館を出発し、尾崎様の車の運転により、9時頃、米沢市鉄砲屋町にある「我妻榮記念館」に到着し、50分ほど、見学いたしました。

IMGP0631.JPGのサムネール画像

(2011年12月18日 9:03 我妻榮記念館の前で撮影)

 

我妻榮先生は、民法学者としては明治以降の学者の中でナンバーワンの方であり、我妻先生の義兄である孫田秀春先生は、私の恩師であります(孫田先生については後述します)。「我妻榮記念館」は、我妻先生のご生家を補修整備したもので、木造2階建てで、土蔵を併設しているという米沢の標準的な民家になっていました。我妻榮記念館 管理人の小林 秀一様のご説明を伺いながらの見学をさせていただきました。また、館内には書籍も販売されていましたので、何点か購入させていただきました。

 

 

 

我妻記念館領収書.JPG

 

 

 

我妻先生の父・我妻又次郎様は、明治28年から大正11年までの27年間、旧制米沢中学校の英語教師として教鞭をふるわれた方です。我妻榮先生は、この米沢市鉄砲屋町で父・又次郎様、母・つる様の長男として1897年に生まれ、興譲小学校(母・つる様が長らく教鞭をふるわれた小学校です)、米沢中学校を卒業し、1914年9月(17歳)に第一高等学校(現在の東京大学教養学部及び、千葉大学医学部、同薬学部の前身となった旧制高等学校)に主席合格し、1917年に東京帝国大学法学部に入学されました。以後、弱冠25歳にして同大学助教授となり、不世出の天才民法学者として、功績を残しました。60歳で東京大学を退官した際には、最高裁判所の長官に議せられたそうですが、「守一、無二、無三」(一を守り、二無く、三無し)として、一切官職に付くことを辞退し、専ら民法学の研究に当たられたそうです(なお、この「守一、無二、無三」は、我妻先生の残された数少ない色紙の内の1枚として、ご生家に飾られていました)。1964年、67歳の時には山形県で3人目の受賞となる文化勲章に輝きました(1人目は伊東忠太様、2人目は斎藤茂吉様)。

 

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(2011年12月18日 9:26 我妻先生の2階の勉強部屋にて撮影)

 

さて、土蔵の中には我妻先生の著作が掲げられておりました。沢山の論述を執筆・発表されたということを改めて認識しました。我妻先生の勉強部屋は母屋の2階にありましたが、昔ながらのこじんまりとした部屋で、我妻先生がお使いになられた小さな机を前にし、来る日も来る日も机に向かい、全身全霊で勉強されていた我妻先生のお姿が目に浮かび、その輝かしい業績の陰に潜む努力研鑽の見事さに、私は感慨深い気持ちになりました。勉強部屋にあった記録簿に、私は「本日、即ち2011年12月18日にやっとお邪魔しました。有難うございました。さらに精進を重ねます。」と書かせていただきました。

 

 

私の我妻先生についての思い出は、まず、東京大学在学中に、我妻先生の講義を聞く立場ではなかったのですが、講義を何度か聴講させていただいたことです。次に、太平洋テレビを設立された清水 昭様(1924年~1988年。後に「アポロン」という最高級のクラブを経営されていました。)から我妻先生についてのお話を伺ったことが、大変印象に残っています。清水様は、北海道帝国大学(北海道大学)法学部出の大秀才です。我妻先生ご夫妻が三顧の礼を持って「東京大学の弟子に入らないか」と清水様に声を掛けられたそうです。清水様が真ん中、我妻先生ご夫妻が両脇にお立ちになって、北海道大学の校庭で写した写真も見せていただいたという思い出があります。きっと我妻先生は民法という学問を完成させるために、後継者の育成にも大いに関心をもたれていたということではなかったかと思います。

 

 

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(2011年12月18日 9:22 我妻榮記念館の一階応接間 我妻先生の数々のお写真)

 

我妻榮記念館の一階応接間には、我妻先生の写真が飾ってありました。我妻先生は折々米沢に寄り、ご生家に立ち寄られていました。亡くなる1ヵ月前の写真でしたが、それは、2階の勉強部屋の窓に腰掛けて、しみじみと外を見ておられる写真で、この写真から故郷をこよなく愛していらっしゃったことが伝わってきました。17歳の時に第一高等学校に入学されて以降、住まいはずっと東京であったそうですが、米沢は、遠きに在りて想うものですが、我妻先生には2階の勉強部屋が心のふるさとでもあったのでしょう。

 

 

 

【登起波牛肉店を訪問】

我妻榮記念館を出て、尾崎 仁様の登起波牛肉店を訪問いたしました。私も、東京より度々、お取り寄せさせていただいておりますが、初めてお店にお邪魔させていただきました。

 

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(2011年12月18日 9:58 登起波牛肉店で撮影)

 

 

【孫田秀春先生のご生家などを訪問】

米沢市から40~50分程かけ、10時50分頃には長井市の髙世重右エ門様のご自宅を訪問しました。髙世様は、私の恩師である故・孫田秀春先生と「大の仲良し」であった故・木村弥次郎様(西根村の元村長)の甥にあたる方で、私が孫田先生のご経歴を調べているうちに、ご縁がありこの度お邪魔させていただくことになったのです。

 

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(2011年12月18日 11:40 西根小学校 愛郷の碑の前で撮影
左から髙世重右エ門様、私、尾崎仁様)

 

髙世様のご自宅では、地元のお菓子などの心配りの品々をいただきながら、お話しを伺った後、孫田先生が母校の西根小学校に建てられたという愛郷の碑を見に行きました。「人を愛する心、それを拡充して広めていけば、郷里を愛する心。これを青少年諸君にとくと腹の中からしみじみ考えてもらいたい。」という心から、建てられた碑であるとのことです。

 

私は、弁護士登録をした1963(昭和38)年4月、孫田先生の「孫田・高梨法律事務所」に入所いたしました。孫田先生は1924年に「労働法」という名称での講義を日本で初めて、東京商科大学(一橋大学の前身)にて行った法学者です。今でこそ「労働法」という名称は日常に交わされていますが、それまでは「労働法」という言葉は存在していませんでした。労働法の草分けと言われ、日本における労働法を体系づけた人物です。

 

実は、孫田先生とのご縁を作ったのは、私の父であります。父は名古屋で弁護士をしていましたが、若い頃に、労働法を学びたいということでドイツ留学を希望、ご縁があって労働法の権威である孫田先生のもとに書生として置いていただいたという経緯があります。当初、父は名古屋で自分の後を継がせたかったようですが、私は父の影響下を離れて東京で弁護士の仕事をすることを希望しました。これを父に話すと「それなら小さくまとまるのではなく、孫田先生のもとで勉強すべき」といわれ、孫田先生のご指導を受けることになったのです。すなわち、父も私も2代にわたって孫田先生のご指導を受けたのです。

 

私が弁護士となった1960年代は、日本はまさに高度成長期で、組合活動がとても盛んな頃でした。孫田・高梨法律事務所のもとには次々と仕事の依頼が押し寄せ、大変忙しい状況で、私は、孫田先生のもとで弁護士人生をスタートしたことで多くの労働事件にかかわることになり、おのずと労働法を学ぶ機会に恵まれました。

 

孫田先生のもとでは様々なことを教えていただきましたが、特に孫田先生のご著書「労働法」の中で説かれていた「労働の人的価値」は、私が東京大学在籍中に受講し感銘を受けた来栖三郎先生(1912年~1998年)の、法律学を超えた人間観・人生観についてをも含んだ講義と通じるものがありました。「石にも目がある」「尽くすべきは尽くす」という孫田先生の言葉は、私の半世紀に亘る弁護士人生を通じて座右の銘となりました。私が人事・労務問題専門の弁護士として歩んでこられたのは、孫田先生のご指導のおかげであります。

 

  •  「石にも目がある」とは、硬い石でも弱い点、筋目を突けば割れる、という剣聖塚原ト伝が剣術の極意を悟ったエピソードですが、これは自分の手に余る大きな仕事もどこかに必ず「目」(弱点・筋目)があり、そこを狙い突破口を開けば良いという意味になります。弁護士が仕事で見極めるべき目も同様で、仕事の核心に迫るための姿勢として常に意識しています。
  •  「尽くすべきは尽くす」とは、あらゆる努力をして最善の問題解決を図る、という意味です。

 

さて、孫田先生が80歳になって愛郷の碑を建てられたということですが、それは大変立派な碑石で、孫田先生がいかにこよなく故郷を愛されていたのかということが強く伝わってまいりました。

 

 

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(2011年12月18日 11:46 歓喜院の子育観音堂)

 

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(2011年12月18日 11:49 孫田秀春先生の墓前で撮影)

 

 

その後、孫田先生のお墓があるお寺・歓喜院に赴きました。恩師のお墓に初めてお参りさせていただき、在りし日の先生を想い、心の中でお礼を申し上げました。また、孫田先生は、この歓喜院に、子育観音堂を設置されておられました。孫田先生は故郷への還元ということをいつも意識されていたのだと思いました。

 

 

 

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(2011年12月18日 12:05 孫田秀春先生のご生家前で撮影
左から尾崎様、私、髙世様、孫田瑩子様)

 

そして12時5分頃、孫田秀春先生のご生家を訪問しました。ご生家では、孫田先生の甥孫のご令室様にあたる孫田瑩子様に、お会いしました。孫田先生とゆかりの深い髙世様に孫田先生のお話をお伺いしているうちに、孫田・高梨事務所で寝食を忘れ、心血を注いで仕事に没頭した駆け出し時代を思い出し、お世話になった頃に想いをめぐらせました。

 

その後、昼食のため山形市に向かいました。

 

 

 

【和食「うけ月」にて昼食】

置賜地方は雪で埋まっておりましたが、山形地方は雪がなかったのには驚きました。当初は12時30分から「うけ月」ではじまる昼食会の予定でしたが、到着が30分遅れ、13時からの食事会になりました。

 

うけ月での会食会にご出席いただいた方々は、日米商事株式会社代表取締役会長 鈴木 恒吉様ご夫妻、山形トヨタ自動車株式会社取締役社長 鈴木 吉徳様、以前弊所にて勤務していただいていた、弁護士法人あかつき 佐藤欣哉法律事務所 田中 暁弁護士、尾崎様、鮒谷様でした。

 

13時から14時30分までの食事会の間は山形地方のお話を伺いました。山形地方では、食料品等の企業、工場はあるけれども、機械等の生産工場は下請け企業が大部分で名のある企業、工場がないということです。山形トヨタ自動車株式会社は、鈴木 恒吉様から吉徳様へ引き継がれたのですが、最盛期の売り上げの2分の1(80億円)にまで下がってしまっているそうです。車を10年を超して使用する人が増え(買換えが非常に遅い)、新車の売り込みは成果を収めていないということで、サービスや修理に注力する方針にされているそうです。また、新車を販売するときには購入後のアフターサービスも込みのパックで販売する方針をとり、顧客の囲い込みを実践されているそうです。

 

また、以前に増して雇用の問題が大きな問題になっていますが、被災地からの移住者で空き家がほとんどなくなってしまったというお話もありました。しかし雇用がなければ住民はいくらか増えたとしても、財政はいつまでたっても豊かにならないという意見、その他活発な意見交換がなされました。

 

うけ月 HP http://www.shogetsu.net/

 

 

 

【鈴木 恒吉様ご夫妻のご自宅】

14時40分頃から、「うけ月」近くの鈴木 恒吉様ご夫妻のご自宅にお邪魔いたしました。

 

鈴木様と私が初めてお会いしたのは1976年6月で、当時、鈴木様は山形交通株式会社代表取締役社長でした。しかし、会長であった服部 敬雄様との確執があり、1979年11月に代表取締役社長を解任・退任されました。なお、服部様は、民権運動家で山形日報発行人、服部敬吉様の長男で、山形新聞、山形放送、山形テレビ、そして山形交通などのグループ企業の社長・会長を歴任し、強大な権力を持ち、山形県政に多大な影響を及ぼした人物で、その影響力の強さから、地元では「服部天皇」と呼ばれた人物です。鈴木 恒吉様の退任の御挨拶状は、私が起草しました。

 

「私がこの解任を甘受致しましたのは何よりも山形交通を愛するが故であります。私が自らの信念を変えてまでして地位に恋々とするならば、今後山形交通の真の自主自立経営、すなわち黒字経営の確保と他の何人からも侵されない独立経営の伝統の灯すら消しかねないと判断したからであります。」(退任の御挨拶状から抜粋)

 

今回お会いして、鈴木様が、「解任・退任されてよかった。バス事業が、現在は破綻に瀕している中で、今、こうして命をいただいていることは、あの時辞任したからであろう」とおっしゃっていたのが大変印象的でした。何しろ辞め時の有り様が肝腎と痛感されたようです。何が幸いするかわからない、ということでしょう。

 

さて、鈴木様の旧屋敷にはじめてお邪魔したのは、15年程前のことでしたが、今回は残念なことに旧屋敷はすでにとりはらわれてしまっており、家業のガソリンスタンドにしたとのことでした。以前の旧屋敷にあった樹木、数多くの灯籠や石のことが私は気になり、鈴木様ご夫妻に申しあげましたところ、樹木については3分の1を移植し、灯籠については崩れかけていたので、残っている灯籠のみ新しい住居に移したということでした。

 

 

鈴木様ご夫妻の新しい住居は、野村證券の社員寮を譲りうけ、これをリフォームして作られたそうです。山形大学が裏手にあるまさに新しい住宅地でしたが、千歳山を借景にした立地といい、住宅地としては好立地で、新しい住居に移られてすでに8年になられるということですが、終の棲家として生活をされていました。

 

鈴木様ご夫妻はいつものとおり仲睦まじく、本当にお幸せそうでいらっしゃいましたが、恒吉様は目の視野が欠ける「黄斑円孔」というご病気を患われたそうですが、手術の結果ほとんど快癒されたということです。また、奥様もサルコイドーシス症が起因の「ぶどう膜炎」に悩んでおられるということでした。人間は誰しも老いれば病気になるのはやむを得ません。自分自身の現在のありさまを見て、老いを迎える支度を若い時からすべきであるとも思いました。

 

実は、この後松尾芭蕉ゆかりの地「山寺」や他の名所へ参る予定でございましたが、私の風邪でお邪魔できず、鈴木様のご自宅を辞去して、そのまま15時57分発のつばさ148号で帰京いたしました。色々な名所を訪問することはできませんでしたが、私の弁護士人生を振り返ることのできた、1泊2日の大変充実した旅でした。次回訪れる際には、暖かい春以降、ゆっくりと山形の自然を満喫したいと思います。

 

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