【歴訪記】その10 高知

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20111215 講演の様子.JPG12月15日(木)10時40分に羽田を発ち、12時10分に高知龍馬空港へ到着しました。高知に赴いたのは、今年9月23日(金)~25日(日)の旅行以来、3カ月弱ぶりでした。前回は観光で訪れましたが(詳しくは、10月4日付歴訪記その5をご覧ください)、今回は、18時から19時30分に、高知新阪急ホテル3階「蘭の間」にて、私の「リーダーシップセミナー」を開催するために訪れました。このリーダーシップセミナーは、トライアル版の第7回目にあたります(高知での開催は第1回目です)。今回のセミナーは、株式会社一秀 代表取締役 横畠秀一様と有限会社コマ・コーポレーション 代表取締役 成采準様が、開催に向けてご尽力くださいました。この場を借りてお礼申し上げます。私は風邪をひいていたため、声がとおりにくくて大変申し訳なかったのですが、48名のご出席者の皆様が大変熱心にご聴講くださいました。貴重なご意見もアンケートにて承り、今後のリーダーシップセミナーの改善のための資料とさせていただきたく存じております。ありがとうございました。(写真は講演の様子)

 

 

 

 

【岩崎弥太郎先生のご生家】

さて、リーダーシップセミナーの開催前、午後12時40分に、高知県安芸市井ノ口にある岩崎弥太郎先生(1834年~1885年)のご生家にお邪魔しました。ご生家は、寛政7(1795)年に、岩崎家の第6代弥次右衛門の代に建てられた由緒ある建物でした。とても立派な家で、現在でもそ

のまま使えるがごとき状態で残っていました。ただし、昔の人は背丈が150㎝~160㎝ぐらいしかなかったので、出入り口等が非常に低い造りになっていました。かつて三菱では、各グループ会社の役員に就任した際には、創業者のご生家にお参りする、という恒例があったそうですが、今はその風習は残っているでしょうか。

 

 

ご生家には、立派な碑がたっており、その碑文は、漢字の研究者で、大著『大漢和辞典』や『広漢和辞典』(ともに大修館書店刊)の編者として著名な諸橋轍次先生(1883年~1982年)によるものでした。諸橋轍次先生は、1919(大正8)年から2年間中国に留学し、各地で碩学に学んだそうですが、そのころから、三菱第4代社長、岩崎小彌太(1879年~1945年。岩崎弥太郎先生の弟、岩崎彌之助様<1851年~1908年>の長男)の援助を受けていたということです。最近三菱商事の社長(1986年~1992年)・会長(1992年~1998年)を歴任された、現財団法人静嘉堂文庫理事長 諸橋晋六様は、轍次先生の三男にあたります。(静嘉堂文庫は、東京都世田谷区岡本にある、岩崎彌之助様と岩崎小彌太様の父子二代によって設立された美術館です。国宝7点、重要文化財83点を含む、およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6、500点の東洋古美術品を収蔵しています。)

 

岩崎弥太郎様ご生家(1).JPG

(ご生家前で撮影 右が成采準様、左が私

左手に諸橋轍次先生筆「岩崎弥太郎誕生之地」記念碑)

 

岩崎弥太郎様ご生家(2).JPG

(記念碑の説明文<クリックすると拡大します>)

 

さて、岩崎弥太郎先生は“東洋の海上王”と呼ばれ、日本の資本主義を大胆に導いた革命家の一人として評価すべき存在でした。ご生家前にあった「まる彌カフェ」にて弥太郎先生に関する書籍が多数販売されていましたので、いくつか購入しました。今回のブログを書くにあたっては、「龍馬と弥太郎 長崎風雲録」(編・発行 長崎新聞社、2010)を大いに参考にさせていただきました。

 

弥太郎先生は、1835(天保5)年に、最下級の武士でありながら農民であるという、地下浪人(じげろうにん)という身分の家の長男として現在の高知県安芸市に生まれました。21歳の時に学問で身を立てるべく、江戸へ出て、安積艮斎(1791年~1861年)の私塾「見山楼」に入りました。しかし、1855年、父・弥次郎が、酒席での喧嘩により投獄されたことを知り、江戸から高知へ帰郷し、弥次郎の冤罪を訴えたそうですが、弥太郎先生も投獄されてしまいました。この時、獄中で、同房の商人から算術や商法を学び、これが後に弥太郎先生が幕末から明治初めの動乱期に土佐藩の商業活動を担ってのしあがり、その後三菱を創業し政商を奮い海上王と呼ばれる人生を送る機縁となったそうです。

 

弥太郎先生は、出獄後は、出身の村を追放されてしまいますが、吉田東洋(1816年~1862年)が開いていた「少林塾」に入塾して、後藤象二郎らと知り合いました。その後、土佐勤王党の監視や脱藩者の探索などに従事し、1867年には後藤象二郎に土佐藩の商務組織「土佐商会」の、長崎土佐商会責任者主任に抜擢され、藩の貿易に従事するようになりました。弥太郎先生と坂本龍馬は不仲であったという話があるそうですが、龍馬が長崎を離れ上洛する際には弥太郎先生が龍馬に餞別の乗馬はかまを送り、長崎港で涙を流して見送ったそうです。道筋に沿って先頭を切って走る行動力・先見力、豪胆な人となり等の共通点が多く、二人は意気投合していたそうです。

 

さて、幕末の動乱期を経て、廃藩置県後の1873(明治6)年に後藤象二郎より、船2隻を入手し(これは、土佐藩の負債を肩代わりする条件が付けられていたそうです)、海運業をはじめ、現在の大阪市西区堀江にあった土佐藩蔵屋敷に「三菱商会」を設立しました。三菱のマークは、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を併せて作ったものであるそうです。なお、この三菱のマークは、ご生家の屋根にも掲げられていました。

 
岩崎弥太郎様ご生家(三菱のマーク).JPG

 

弥太郎先生が巨利を得るきっかけとなったのは、今でいうインサイダー取引によるものであったそうです。新政府の高官となっていた後藤象二郎が、各藩が発行していた藩札を、新政府が買い上げる紙幣貨幣全国統一化の情報を事前に弥太郎先生に流して、これを受けて弥太郎先生は藩札を大量に買い占めて新政府に買い取らせ、莫大な利益を得たのだそうです。弥太郎先生は最初から「政商」として活動していたということを表すエピソードです。また、私の5月18日付ブログで述べた澁澤栄一は、「企業活動は単なる金儲けではあってはならない」として、道徳と経済の合一を説いた人物で、会社は共同出資で設立し、利益は出資者に還元すべきという「合本主義」を思想としていましたが、弥太郎先生は「才能のある社長による独裁経営が企業の発展に繋がる」という思想を持っていました。二人は一度、経営思想に関し激論を交わしたことがあるそうで、澁澤の回顧談によると、その激論からついに仲直りをすることはなかったそうです(のちに、澁澤の米寿の祝いは弥太郎先生の長男・久弥が発起人となったそうですが…)。

 

また、弥太郎先生は、企業経営にあたって実力主義、合理性を貫き、実力のある人材は抜擢し、幹部から一般社員まで、信賞必罰を重んじ(日本で初めてボーナスを出した人物でもあります)、「企業は人なり」の精神を貫きました。また、「士魂商才」という精神も貫きました。「士魂商才」とは「武士の精神と商人の才を兼備する」という意味です。強欲であこぎなイメージのある弥太郎先生ですが、ずば抜けたリーダーシップを兼ね備えた人物であったことは確かです。

 

私は、リーダーシップセミナーにて、リーダーシップとは、まずは、自ら示した方向性、道筋に沿って先頭を切って走ることであり、先頭をきって走るからこそ、勇気ある行動として評価される、と述べております。ご生家の表座敷に面した庭には、いくつかの庭石が置いてあり、それは日本列島の形をしていました。これは、「日本をひとにらみする」と、幼き頃の弥太郎先生が築いたものだそうです。また、米相場で大失敗をした際に、「これで投機の危険を知ったなら、安いもの」と笑ったというエピソードがあるそうです。大胆不敵な弥太郎先生の人となり、その開拓者精神(もともとは、特に米国の西部辺境における開拓者たちの精神をさしていた。転じて、一般的剛健・忍耐・創意、また闘争性・現実性・利己性などを特色とする)は、「打たれ弱い」等の傾向にあるといわれている最近の青年諸君に、見習っていただきたいところも大いにあるものだと思います。

 

 

【アンパンマンランド】

さて、今回の高知でのリーダーシップセミナーでは、「高知県がいつまでも坂本龍馬に頼ってはいけない。」といったことを述べましたが、これについては受講者からアンケートにて「共感した」というコメントをいただきました。

 

確かに坂本龍馬は高知県の誇る歴史的人物であり、日本人のなかには龍馬ファンが多いのですが、広く海外からの観光客を呼び込むテーマではたり得ないと思います。高知県は、沖縄や九州と同様に、アジアに近いというメリットがありますから、このメリットを最大限生かすべきです。

 

私は、高知県の皆さまが自覚されていない「盛上げ上手、喜ばせ上手、歓待上手」な県民性を活かして、心底楽しい思いを持って帰ってもらい、リピートにつながるホスピタリティー産業を展開することが必要であると思います。「観光」の語源は『易経』の「国の光を観る。用て王に賓たるに利し」との一節によるもので、「観光」とは国の「光」を観ることですから、それぞれの地域の「光」るところをさらに磨き上げることが必要です。このことをお話ししたところ、ひとつの提案として、成様より「アンパンマンランド」建設という企画のお話をお聞きしました。

 

アンパンマンは、ご存じの通り、国民的キャラクターで、アンパンマンの作者のやなせたかし様は、高知県香美郡在所村(現・香美市)のご出身です。やなせたかし様は、1919年生まれの92歳です。2010年には、年齢が90歳を超えて、引退も考えられたそうですが、今年3月の東日本大震災を受けて思いとどまり、未だ現役で活動を続けているという現代に生きる高知県の偉人であります。

 

同行した鮒谷周史様が成様のアンパンマンランド構想をお聞きし、「そういう構想が実現したら、すごく大きな需要があるのではないでしょうか」と言われていました。鮒谷様の親戚で2歳半のお子様がいるそうですが、アンパンマンと聞くと、テレビにかじりついて喜ぶのだそうです。高知県には、香美市立やなせたかし記念館がありますが、遊戯施設であるアンパンマンランド(こども向けの施設として、仙台、横浜、名古屋に『アンパンマンこどもミュージアム&モール』がありますが、これよりもさらに大規模な、200万坪程度の家族全員で楽しめる、ディズニーランドのようなテーマパーク)を高知県に設ける方が、休日に全国から孫に引率されたお祖父さんお祖母さん等家族連れが集まるでしょうし、海外からもアンパンマンファンが押しかけるのではないかと思います。

 

アンパンマンランドは、旅行会社ももちろんですが、航空会社にも貢献するだろうし、地元の高知にも目玉施設ができたということで、活況を呈するでしょう。成様は、土地は県が提供することになるだろうから見通しは明るいとおっしゃっていました。それが実現できるかどうかわかりませんが、それに値する企画だと思われます。アンパンマンランド建設を推進することが高知へ、海外からの旅行者をも含めた観光客を誘因するための決定的な起爆剤となり、ひいては、高知県民の幸福と発展につながるという真摯な確信をもつべきでしょう。

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