「祈り」と「気」


 

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(2011年9月22日(木) 朝6:44 東京都港区 芝公園にて撮影)

 

 

本日掲載の写真は、私の新しいカメラ「CANON POWERSHOT S95」で撮影しました。このカメラは、私と親しいGMOインターネット株式会社 代表取締役会長兼社長 熊谷正寿様から、9月14日(水)に行われた私の激励会にて、記念品として頂きました。心なしか、カメラの腕が上がった気がいたします。熊谷正寿様、有難うございました。

GMOインターネット株式会社HP http://www.gmo.jp/

 

 

【祈り】

人間は、その歴史の中で、全ての民族が、真摯に「祈り」をささげてきました。その対象は、大自然、大自然が息づく地球、その地球が存在する宇宙の、目には見えない働き…すなわちサムシング・グレートに対するものです。全ての民族が、「祈り」の形や方法こそ千差万別とはいえ、「祈り」という行為を綿々と続けてきています。また、宗教を信じていない人でも、危機的な状況で、困った時、苦しい時、希望が打ち砕かれそうになった時等には、人は何かに「祈り」ます。

 

国に一命を捧げた戦没者や、不慮の天災などの犠牲者を対象とする、国民儀礼としての「黙祷」(もちろん、民間でも黙祷を捧げることも多くあります)という儀式があります。皆が沈黙し、神や死者に「祈り」を捧げるこの行為は、広島への原爆の投下(8月6日)、長崎への原爆の投下(8月9日)、終戦記念日(8月15日)、震災記念日(9月1日)等に行われます。東日本大震災に際しては、震災後初の2011年3月17日の衆議院本会議でも黙祷が行われました。

 

さて、黙祷の歴史を調べてみると、言葉自体は中国・唐の時代の文献に登場するほど古くからあります。しかし、その意味は「個人が心の中で祈る」程度の意味でありましたが、今日の国民儀礼としての黙祷の歴史はそれほど古いものではなく、1919年11月11日、第1次大戦中のイギリスにて、国王ジョージ5世の呼びかけで初めて行われたそうです。日本では、1924年9月1日の関東大震災1周年に行われたのが始まりといわれているそうです。その後、黙祷という儀礼は国際慣例化して今日に至っています。

 

このように、全ての民族が祈り続けるという歴史、現状は、「祈り」に何らかの効果があるからでしょう。「祈り」に、本質的に何らかの効果があることを、先人も、今を生きる私たちも、本能的に、遺伝子レベルで知っているのではないでしょうか。

 

私たちの体は、約六十兆個の膨大な数の細胞から成り立っているそうです。そして遺伝子とは、細胞の核におさめられた膨大な情報データで、私たち人間が生きていく全てを司っているそうです。

 

私たち人間が生きていく全てを司っている遺伝子が、「祈り」を情報として記録しているということは、「祈り」という行為とは、純粋な人間的な行為ではないでしょうか。すなわち、「祈ること」とは、「生きること」そのものなのでしょう。

 

2011年8月11日付毎日新聞夕刊3面に、アシリレラさんというアイヌ女性への取材記事がありました。「アシリレラ・ファミリーの暮らしの中には、当たり前のように祈りと感謝があった」…「カムイノミ(神への祈り)によって『人間の力の及ばない存在』を感じながら生きる」。アイヌの人々は、「祈り」が生きることそのものであることを、しっかりと理解しているのだと思います。ですから、1997年10月に、「チプサンケ」(丸木舟を新造したときに行なわれる儀式で、神へ水運の安全を祈る)を行うアイヌの人々の神聖な場所(北海道平取町の二風谷<にぶたに>)を、ダム事業によって水没させてしまったことは、すなわち祈りの場所を奪い、人間性を奪ったことであり、利便性や収益性ばかりを重視した人間が、「良心」「魂」を失ったということでしょう。

 

京都大学の外科部長であり、執刀医として「ゴッドハンド」と呼ばれた、故・青柳安誠先生は、執刀の前に、必ず神様に「祈り」を捧げておられ、「手術は祈りである」という発言を繰り返されたそうです。青柳先生は、外科手術は、「いのち」「生きること」に直結する行為であって、「祈ること」が「生きること」そのものであると理解されていたのだと思います。

 

また、医学・医療分野において、「祈り」によって、希望を見出し、将来に期待を持つことが、何らかの健康への効果を生み出すのではないかという点から研究がつづけられています。そして、実際に「祈り」の治療効果が明らかになりつつあります。現在、ハーバード大学、コロンビア大学などの権威ある大学が、競ってこの研究に乗り出しているとのことです。全民族が古来続けてきた「祈り」が最先端の研究分野になりつつあるということです。

 

【「祈り」と「気」】

 

私は、生命体に限らず、宇宙に存在する全ての構成物が本来持っているエネルギーを「気」「波動」「サトルエネルギー(微弱エネルギー)」であると解釈しております。たとえば、日本には古来より自然信仰がありました。これは、簡単に言えば、全てのものに神が宿る、という信仰です。神の宿っている宇宙のあらゆる構成物の有する「気」と、自分の「気」、その核である「心」とを交流させるために、古来より人々は「祈り」を捧げてきたのではないかと思います。前5世紀末には成立していたと考えられている「論語」述而第七の三十四には「丘の禱ること久し」、「わたしは、不断に誠を持っている。それが神に祈ることだ」という言葉があります。「誠」が「祈り」であると述べているのです。

 

また、洋の東西を問わず、ドルメン(巨石を利用した記念物)が存在し、巨石信仰が各地で行われていました。例えば、10メートルを超す奇石が数多く点在する「巨石パーク」(佐賀県佐賀市大和町)があります。「巨石パーク」は、佐賀県川上峡東側の山(標高約400メートル)にあり、巨石が積み重なり、17個の巨大な石が点在しています。これらの巨石は、古くは「肥前風土記」(奈良時代<710年~794年>初期に編纂)に記されており、肥前国一の宮としてさかえた与土日女(よどひめ)神社のご神体として崇められていたということです。おそらく古来の人々は、自然と共に生きており、すなわち宇宙と共に、宇宙の大いなる「気」が満ち溢れている地に、自然の石などを置いて宇宙の「気」と交流するべく「祈り」の場としてきたのではないでしょうか。また、仏教では合掌を行い「祈り」を捧げますが、これは「私」という小さな宇宙の「気」と、「私」の存在する大きな宇宙の「気」とを交流させ、宇宙と私とが一体となる、重ね合うということだと思います。

 

鎌倉幕府が貞永元年(1232年)に制定した法令「御成敗式目」には、「神は人の敬いによりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う」という言葉があります。即ち、人が神を敬うことによって神はその御神威を上げ、御神威が上がった神の徳によって人は開運する、という意味です。逆に、神を敬わず神の意に反した時、「祟り」(神仏や怨霊<おんりょう>などによって災厄をこうむること)が起こるのでしょう。タタリの語は、神の顕現を表す「立ち有り」が転訛(てんか)したものといわれています。人間が、サムシング・グレートや霊魂などの超自然的存在、すなわち宇宙の意に反した時、宇宙の力が人間に災いを与えるのではないでしょうか。また、「呪い」(恨みや憎しみを抱いている人に災いが起こるように神仏に祈る。また、災難がふりかかったり、失敗したりするように願うこと)のように、人が「邪心」に基づくよこしまな祈りを神仏にささげることも、宇宙の意に反することではないでしょうか。祈りは尊大ではなく謙虚でなければならないことはいうまでもありません。神仏に祈るのですから人間として謙虚でなければなりません。「祈り」は宇宙との一体感を感じるため、結合を図るためのものであり、「気」「良心」「魂」によるものでなくてはならないのです。

 

宇宙と自分とが一体になるように「祈る」ときは、人は全身の力をこめます。手を合わせるなどの祈りの姿勢をとっているとき、脱力している人はいないでしょう。力を込めて、すなわち自分の持っている「気」を注ぎきって祈ります。

 

月刊文藝春秋2011年9月特別号に、伊勢神宮の参拝に訪れた一人の老婦人が、荷物を置き、靴と靴下を脱いで素足になり、きちんと正座をして深く頭を下げ、長い祈りを捧げていた光景のエッセイがありました(巻頭グラビア「私とお伊勢さん」)。このエッセイを書いた作家の佐藤多佳子さんは、その光景を「老婦人は一時間くらい祈るのかもしれない」…「実際は十五分か二十分。それでも、」…「長い強い祈りに出会い、私自身も心の深みに降りたような厳粛な気持ちになったのだった。」と表現されています。強く長い「祈り」の姿は、「祈り」に、祈る人の「気」が強く入っているため、それを見た他人の「気」と共鳴・共感・共振し、他人の「気」「心」「魂」にも影響するのではないかと思います。

 

ですから、巨石信仰のような自然崇拝であれ、神社や寺院での「祈り」であれ、人々が「祈り」を捧げてきた場所は、「気」のエネルギー、パワーに満ち溢れた場所であると思います。神聖な場所が昨今「パワースポット」と呼ばれるのもそれが所以でしょう。非常に長い間、人々が「祈り」を捧げてきたことで、さらに「祈り」のもつ力、すなわち「気」のエネルギーが集中した場所であるわけです。「パワースポット」には、「気」は、悲しみに満ち溢れた「気」であったり、願い事の成就の喜びの「気」であったりと、様々な「気」に満ち溢れています。このように「気」に満ち溢れた場所は、宇宙と一体となるにもっとも近しい場所であり、神仏と交感できるのに易しい場所であるのだと思います。先にご紹介した「巨石パーク」も、1995年に開園以降、やや来場者は減少傾向にあったそうですが、最近は「パワースポット」ブームで、若い女性やカップル等県内外からの来場者が増えてきたそうです。

 

【参考】 http://allabout.co.jp/gm/gc/60042/

 

 

【祈りの本質】

さて、「祈り」という言葉自体に、仰山(ぎょうさん)なイメージを持たれる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、日常生活の中でも、「あなたの健康を祈りましょう。」「あなたの幸せを祈りましょう。」「お幸せに。」といった言葉は頻繁に使われています。「祈り」は自分のために行うだけでなく、他者のために祈りを捧げることも多々あるということです。他者を想って「祈り」を捧げるとき、実際に「祈る人」の姿を見ていなかったとしても、「祈られた人」は、その「祈り」が、自分の「守り」であるように感じるでしょう。これが「他者のための祈り」が持つ、強い力であると思います。

 

また、先に、「祈る」ときは「自分の持っている『気』を注ぐ」と述べましたが、最近若い方も多く通われて日常的な治療方法となってきている整体では、「気」を注入します。そして、整体の世界では、これをを「愉気(ゆき)」というのだそうです。元々は「気」を輸る(おくる)という意味で「輸気」と表していましたが、そこに「愉しく明るい陽気を伝える」という意味を込めて、愉気」としたそうです。「愉気」「祈り」とは、いきいきと生きるために必要な行為です。いきいきと生きるとは、孤独感を払拭し、未来へ向けての期待、希望、成長等を持って生きるということでしょう。

 

私の専門である人事労務の世界で「祈り」について述べると、企業においては、労務管理を進めるうえにおいて、この「祈り」の精神を忘れてはなりません。生産性の向上を祈ることは勿論大事ではありますが、メンタルヘルス管理の責任ある立場にある経営者は、自らのメンタルヘルスの健全さ、社員、従業員、同僚、部下の「気」、「心」が平和であって傷つかないこと、傷ついた者の回復を願う「気」、「心」を決して忘れてはならないと思います。それは、誰しも絶えず傷つきやすい存在であるからです。具体的に述べれば、部下を叱ったとき、フォローして、優しい言葉かけをすることが必要ということです。たとえば、「言霊」という概念がありますが、つまり言葉は「気」「波動」「サトルエネルギー(微弱エネルギー)」を持っています。自分が放った優しい言葉の持つ「気」が、相手の「気」と感応して、相手と共鳴・共感・共振することができます。

 

人間は孤独な存在です。それがゆえに、人は神に、そして隣人に救いを求め続けます。絶対者や他の人間との共生を求めるということです。人が孤独を感じた時、「寂しさ」や「悲しみ」が生まれ、他者のぬくもりに触れた時、人は孤独を忘れ、嬉しさが伴うのです。

 

自分のために祈るだけでなく、他者のために祈ることが本来の「祈り」の意味でしょう。そして、他者のために祈るということは、自分が他者との接点を得るということに繋がります。そしてそれは、孤独な存在である人間が相手と通じ、心が通い合い、すなわち「気」と「気」が交流するという瞬間のことでしょう。「気」を充実させれば、他者との一体感を意識することができ、「愉しく明るい」人生を送ることができます。「気」を充実させることは、他者との一体感だけでなく、いずれは宇宙との一体感を意識することができ、そしてそれは、人間は孤独な存在であるという普遍的な事実、そこから生まれる孤独感から、いささか解放されることに繋がるのでしょう。

 

宇宙の「気」には、死者の「気」も含まれていると思います。愛する人を失うことは、人間が孤独であると否が応でも認識させられる出来事です。しかし、自分が孤独であって、「寂しさ」や「悲しみ」を強く感じながら、愛する人の在りし日への想いを募らせ、「祈り」を捧げると、ふとその人が近くに居るように感じることがあり、見守ってくれているよう意識することがあります。これも、宇宙との一体感を意識していることの一つの例であり、「寂しさ」や「悲しみ」がいささかなりとも和らぎ、彼は癒され、本来の自分を取り戻すのでしょう。「悲しみ」は人の想い・想念ですから、「気」のエネルギーがあります。「気」の核は「心」「良心」で、つまりは「魂」です。「魂」から生み出された「悲しみ」は、「祈り」によって宇宙と一体化し、宇宙に存在するサトルエネルギー(微弱エネルギー)の一部となります。逆に、宇宙との一体感が生まれなければ、すなわち「悲しみ」を自分一人で抱え込むならば、一層孤独感が深まり、「寂しさ」が強まり、「悲しみ」が増し、空しい思いに至るのです。こういった哲学を持って人生を生きることが大切であると思います。

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