(2011年7月26日朝6時50分 東京都港区赤坂 檜町公園にて撮影)
前回7月22日付「気」第6回記事にて、「気が合う」ことについて述べましたが、今回は「気」の交流は対人関係のみならず、人間と物、人間と宇宙との間にもあるということを述べていきたいと思います。
【「気」の交流】
中国においては気功といって、自ら「気」を養い心身の鍛錬による健康法があり、日本にもそれが採用されています。また、「気」の熟達者によって病人の邪気をとり健康体に戻す治療も存在します。(これは7月12日付交友録に掲載しました鎌田毅成先生の「サイ気療研究会」もその一つでしょう。)いずれにしても、お互いの「気」の交流があるからこそ、こうした成果が望めるのでしょう。
弁護士についていえば、依頼者との関係において、何事にもわだかまりがなく、和気藹々とし、同じことに笑い、同じことに悩み苦しむ、という関係が理想的でしょう。そうでなければ、今後の成功・失敗の鍵となる弁護士と依頼者との関係においては、解決できる問題も、時間がかかったり上手く事が運ばなくなるでしょう。つまり、弁護士と依頼者とのあいだでも、「気」が交流しなければならないのです。
スポーツにおいてのチームによるお互いの阿吽の呼吸なども、「気」の交流であろうと思います。また、今年6月16日~19日に開催されたゴルフの全米オープン選手権においてロリー・マキロイ選手は、名だたる強者を寄せ付けず、完全優勝を果たしました。ゴルフは、チームとしての優勝を競うのではなく、単独プレーで優劣を決める競技ですが、過酷な4日間を通じて、自分の思うがままにボールを操り続けられる技術は、ただ単に練習のみでは達しえないでしょう。そこにはボールを運びたいという強い願い、信念、一点に集中し自分の放つボールとの「気」の交流があればこそ成し得たものだと思います。
人間は宇宙の一存在ですが、人間だけではなく、宇宙に存在するものは、全て「気」を有していますが、人工的に作られたものは、天然のものよりもはるかに弱い「気」を有しているにすぎないと思います。ですから、マキロイ選手は、自分の「気」と、人工的なゴルフクラブとゴルフボールの持つ「気」とを交流させましたが、それはゴルフクラブ・ゴルフボールの持つ淡い「気」を、自分の「気」によって強大にしたのではないかと思います。マキロイ選手は「気」を極めて強大にし、ゴルフクラブとゴルフボールに乗り移した、つまり「気」を入れた、ということではないかと思います。
また、自然界においては森林浴によって樹木の香気を浴び英気を養ったり、高山で登頂の達成感を感じたり、大海原で感じる解放感などは、大自然と人間との「気」の交流といえるでしょう。
つまり、「気」の交流とは、人と人との交流のみならず、人と道具(マキロイ選手の場合はゴルフクラブとゴルフボール)との交流、人と自然との交流、つまり、宇宙に存在するすべての物同士で起こるものなのです。
【「気を合わせる」ことの究極=宇宙の気と交流し一致させる】
「合気道」の開祖である植芝盛平(1883~1969)は、「合気道の極意は、おのれを宇宙の動きと調和させ、おのれを宇宙そのものと一致させることにある」と説いています。「気を合わせる」ことの究極は、宇宙の「気」、意識と交流し、一致させることなのです。
「宇宙」については、小生が7月7日にお会いした帯津良一先生(先生のプロフィール等に関しては、7月12日付交友録にてご紹介しました)は、ご著書『生きるも死ぬもこれで十分』(法研、2010)で、「虚空」という、宇宙よりさらに大きな場について説明されています。「虚空とは、3000とも4000ともいわれる宇宙を生み出し、これを抱いている大いなる場」、「エネルギーに満ち満ちた偉大なる空間」で、いつか自分が死した時にはこの「虚空」という故郷へと、羽ばたき、赴き、至ることですから、「死」という楽しみ(希望)をもって「生」きるべきだ、という趣旨のことを述べられています。
人がいよいよ最期を迎える時、未だ心底にこの世へ未練、執着がある人、苦しんでいる人でも、最後を迎えたときの顔つきは、とても安らかな顔になることが多いとのことです。これは、生きていく中で哀しさや寂しさを抱き続けてきた人間が、ついに故郷である虚空へと戻ることができるからだと思います。帯津先生の本によると、こうした安らかな虚空へ旅立つためには、「気」というエネルギーが必要で、人間は今の生を生きることでエネルギーを充填しているのだそうです。
私は、「気」について実感できませんが、残り少ない人生において宇宙の本質とは何かを少しは考え、宇宙との結合をいくらかでも果たすべく、これからの短い人生を生きていきたいと思います。すなわち、私はまだ、宇宙との結合については意識したこともないのですが、折に触れてこの壮大なる「気」について学び、いささかでも習得していきたいと考えております。
【「諦念をもって受け止める」とは】
さて、宮城康年門主(京都・聖護院門跡)のインタビュー記事(家庭画報2011年7月号、世界文化社)を読んでいたところ、宮城門主の「この度の東日本大震災で家族を亡くした方々は、諦念をもって受け止めて前に進んでいただきたい。」といった発言を目にしました。
広辞苑を引いてみると、諦念とは、ただ諦めるのではなく、「真理を知り、迷いを捨てる」という意味だそうですが、宮城門主は、「その『真理』とは、人や自然とのかかわり合いの中で見つけていくもの」と述べられていました。
「諦念」のために知るべき「真理」、すなわち人や自然とのかかわりの中で見つけていくものの中には、歓喜に満ちた出来事も多くありますが、「哀しみ」「寂しさ」を伴ったものも多いと思います。対人関係でいえば、協調関係も生まれるものの、対立することも(気が合わないことも)少なくありません。そして、出会いもありますが、悲しい別れも多いものです。対自然との関係でいえば、素晴らしい大自然のパノラマに感動することもあれば、この度の東日本大震災のように、一瞬のうちに悲しみのどん底に突き落とされるような出来事も起こります。
帯津先生の本には、「私たちは孤独な旅人のような存在」とありました。つまり、喜び・幸せ・満足感・ときめき・悲しみ・寂しさが綯い交ぜ(「ないまぜ」と読み、意味は「質や色のちがったものをまぜ合せること」です。「広辞苑 第四版」)になった、一喜一憂を繰り返す儚い旅をしつづけ、そしていつかは旅路を終え虚空に向かうのですとあります。
人間は、生物体として宇宙に存在する以上、宇宙の一つの構成物であり、宇宙と一体ですから、この有限である宇宙に存在する小さな「かげろうのような」「一粒の泡のような」存在として、宇宙と同様に、全て有限であって、「死」の世界に直面しながら、はかない旅路を進むのだと思います。
また、帯津先生はご著書の中で、藤原新也さんの短編集『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』から「哀しみや苦しみの彩りによってさえ人間は救われ癒される」「みずからの心を犠牲にした他者への限りない思いが存在する」という言葉を引用され、「かなしみが自らを、そして他者を癒すとすれば、そうか!自然治癒力とは人の抱くかなしみだったのだ。」と述べられています。この藤原新也さんの言葉に触れて、私が感じたことは、東日本大震災で愛する人を失った人々が今、「哀しみ」や「寂しさ」「苦しみ」の最中にいるのは、そもそも、その亡くなった人々への限りない愛情、亡くなった人々と自分とが築くはずだった夢、希望といった「他者への限りない思い」の存在があるからこそでしょう。
【人事を尽くして天命を待つ】
「諦念をもって受け止める」ためには、「人事を尽くして天命を待つ」、すなわち悔いのない状態を準備しておく、自ら演出することも必要ではないかと思います。
天命とは、人がこの世に生を授けられる因となった、天からの命令のことです。「天から命令を受ける」という思想は「受命思想」と呼ばれているそうです。この思想の成立は殷から周(紀元前1046年ごろ~紀元前256年)への王朝交代と結びつけて考えられているようです。殷の王の正統性は帝または上帝と呼ばれる最高神の直系子孫であると称していた点にあるようですが、周王が天下を統治する権限は天からの命令を背景にしているとされ、「天命」が王朝交代の大義名分とされるようになったようです。
【参考】http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%91%BD
私は、弁護士の信条として、「尽くすべきは尽くす」ということをモットーとして仕事に当たってきました。簡単に言えば、ありとあらゆる努力をして、最善の問題解決を図るのです。
あらゆる努力を惜しまぬ姿勢によって、自分の熱意という「気」が、相手に伝わり、そして第三者へと波及し、ひいては裁判所や相手方の弁護士等の関係者への説得効果が生じることもあります。そのためには、現地に赴き、現場を見て、担当者の話を直接聞き、そしてこれらを書面化し、さらにその内容を関係者に何度も確認したうえで、その人、その企業の持つ独特の雰囲気・空気という「気」のエネルギーを感じて、それを込めながら仕事をするのです。
こうして、「尽くすべきを尽く」し、「人事を尽くして天命を待」てば、その結果を、諦念を持って受け止めることができるのです。すなわち「真理たるものを知り、迷いを捨てる」ことができるのです。敢えて言えば、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という境地に達するのです。
次回以降も、「気」についての記事を投稿していきたいと思います。
高井・岡芹法律事務所
会長弁護士 高井伸夫
(次回に続く)