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2016年7月31日(日)8:28 東京都千代田区五番町12にて百日紅を撮影
花言葉:「雄弁、愛嬌、不用意」

 

 

株式会社開倫塾
代表取締役社長 林 明夫

 

『「無用の用」(無の効用)を考える』

 

1.はじめに

高井伸夫先生がいつも口になさり、また、このブログの表題でもあるのが「無用の用」だ。そこで今回は「無用の用」について考える。

 

2.

 高井伸夫先生の愛読書、佐藤一斎著「言志四録」(全四巻)の第一巻「言志録」の「無用の用」は極めて示唆に富む。

 

『無用の用

1.

(1)世の中の物事は、自然のなりゆきでそうならざるを得ないものがある(皆、存在理由はあるのだ)。

(2)とかくすると、学問があると称する人は、あるいは人の行なう事を排斥し、「無用」物視する。

(3)そしてことに、「天下には無用の物もなければ、無用の事もない」ことを知らない。

(4)学人が排斥して、「無用」物視するものが、大いに役に立つことがある。

(5)もし、人間の衣食住に何ら役に立たないものは皆「無用」であると考えるならば、天の神は、なぜ「無用」の物を数多く作ったのだろう。

(6)用材にならない草木、食用にならない鳥獣や虫魚などがある。

(7)天が果して、如何なる用途を目してこれらのものを生ぜしめたのか、人間の考えが及ばない。

(8)易経に「あごのひげをのばして儀容を飾る」とある。

(9)其の鬚も何の役に立つものであろうか。

(10)我々はそう簡単に物を考えてはいけない。自然のなりゆきというものがあるのだ。

 

2.

(1)前条の理屈を人間の事に当てはめてみよう。

(2)一年中の仕事はさまざまであるが、これを算えてみれば十の中の七は「無用」である。

(3)ただ人は平和な時代にあって、心を寄せるところがないと、「大学」にいう「小人は閑居して不善をなす」ことも少なくない。

(4)今の世は、貴いも賤しいも、男も女も、「無用の用」が多くて、それに引きまわされて忙しく働いているから、悪い事をしようという気持の起こることが少ないのであろう。

(5)これも「無用の用」ということであろう。

(6)思うに、太平無事な世の中では、こうならざるを得ないのも、また、自然のなりゆきである。』

 

以上は、佐藤一斎著、川上正光全訳注「言志四録(一)全四巻」講談社学術文庫、講談社1978年8月10日刊、P128~131より引用

 

3.「老子」第11章、「無用の用(無の効用)」

佐藤一斎はおそらく「老子」第11章の「無用の用」から学び、「言志四録」を執筆したと思われる。

 

『無用の用(無の効用)

1.〔題意〕

(1)世人は形あるものの有用性は良く知っているが、形なきもの、空虚なるものの有用性を認識しているものは少ない。

(2)家の屋根・柱・床などは、人を居住せしめる室の空虚な部分を形づくるためのものである。

(3)ところが、それに気づいている者は少ない。

(4)かく空虚な部分が真に有用であることを説き、これより連想させて、無すなわち道の有用であることを読者に悟らしめようとするのがこの章の趣旨である。

(5)無の有用なるを説くという意味で、「無用」とこの章に題されているのは適切。

 

2.〔書き下し文〕

(1)三十の輻は一轂を共にす。

(2)其の無に當りて車の用有り。

(3)埴を挻して以て器を爲る。

(4)其の無に當りて器の用有り。

(5)戸牖を鑿ちて以て室を爲る。

(6)其の無に當りて室の用有り。

(7)故に有の以て利を爲すは、無の以て用を爲せばなり。

 

3.〔通釈〕

はじめに(道はその存在が知られない。いわば無の如きものであるが、その働きを譬えると次のようである。)

(1)車輪の三十本の輻(や)は一つの轂(こしき)の空虚な部分に集中している。

(2)その轂の空間部が軸を通しているからこそ始めて車輪はその働きをなすことが出来るのである。

(3)粘土をまるめて器を作る。

(4)その器は中の空間部があればこそ物を容れるという器の働きが果たされるのである。

(5)また戸や窓をあけて室を作るが、

(6)室というものは人を容れる空間部があればこそ室としての働きをなすことが出来るのである。

(7)このような訳であるから、有すなわち存在するものが人々に利をもたらすのは、無すなわち存在しないもの隠れたるものが働きをなすからである。

おわりに(道あればこそ万物の働きも可能であり有用となってくるのである。)

 

4.〔語釈〕

(1)三十輻「輻」は車輪の矢。河上公注によると、昔は月の日数に法(のっと)って車輪には三十本の輻を用いたという。

(2)共一轂「共」は同じくするの意。「轂(こしき)」は車輪の中心にあって軸(じく)を通し、輻を集めている部分。

(3)挻埴「埴」は粘土。

 

5.〔余説〕

(1)老子や荘子には普通人の考えも及ばない物の見方や考え方が随所に見られる。

(2)この章の如きはその良い一例である。

(3)道という虚無なものの存在を、一般世人は普通意識していない。

(4)それに対して、実はこれこそ最も尊いもの有用なものであるとして、器や室の例を取って合点させる。

(5)その譬喩の巧みさ、着想の奇抜さは、ちょっと他に類を見いだせない。

(6)油絵の如く、画面一杯に絵の具を塗りつけ、いささかの余白をも残さない洋画に対して、中国の絵画は古来主材を簡潔に描くのみに留めて、余白を生かすことに苦心が払われていると聞く。

(7)こういう、いわゆる「無の芸術」の思想根拠も、かような老荘の「無の効用」の思想に由来するのではあるまいか。』

 

以上は、阿部吉雄・山本敏夫著「新釈漢文大系、第7巻、老子」明治書院1966年10月30日刊、P27~29より引用。

 

4.

 (1)このように、言志四録を川上正光全訳注の講談社学術文庫で、「老子」を阿部吉雄・山本敏夫著の明治書院の新釈漢文大系でお読みになると、なぜ高井伸夫先生が「無用の用」の大切さを人々に訴えておられるのかがよくわかると思います。

(2)後者は極めて詳細でこの上なくわかりやすい作品ですが、少し高価なので、図書館で御覧頂くか、蜂屋邦夫訳注の「老子」ワイド版岩波文庫、岩波書店2012年4月17日刊でお読みになることをお勧めいたします。

 

5.最後に一言

(1)高井伸夫先生の素晴らしさは、佐藤一斎の「言志四録」はじめ様々な古典に絶えず親しまれ、現代社会に最も必要なテーマを、古典のことばを通して示されることにあります。

(2)高井先生は、「四書」、つまり「論語」「孟子」「大学」「中庸」など儒教だけでなく、「老子」など道教の考えにも精通し、人生にとり、また、リーダーを目指す人々にとり何が大切かを優しく示してくださいます。

(3)論語や孟子も大切ですが、「無用の用」、「無の効用」など道教はその教えの中で最も現代が必要とするものと確信します。

(4)最大の問題は、「言志四録」のような日本の古典や「老子」のような中国の古典を読み込むことなくリーダーを目指す人々が余りにも多いということです。

(5)日本や中国の古典の深い理解ほど役に立つ勉強はありませんので、今からでも大いに学んで参りましょう。

 

―2016年8月23日(水) 林明夫記―

 

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2016年7月16日(土)7:27 中目黒公園にて韮を撮影
花言葉:「多幸、星への願い」 

 

 

第11回 管理監督者問題の本質(3)
(2008年7月28日転載)

 

 

前回、大井方子氏の論文「数字で見る管理職像の変化」を引用したように、スタッフ職の数はいわゆる管理監督者の数よりはるかに多い。ところが、スタッフ職を管理監督者並みに扱うべきであるという解釈は、行政通達(昭63・3・14基発150号)があるのみで、法文上の根拠はない。言わば鵺(ぬえ)的な存在であると言ってよい。

これを直視し法律上どのように扱うべきかを考えることが、管理監督者問題の改革への出発点となるのである。スタッフ職と同心円上のものとして専門職概念があるが、それは今日的に「プロ人材」と呼ばれている。スタッフ職の論を進めるにあたり、企業における「プロ人材」の増加および需要の高まりについて、まずは論ずる。

 

経営者を動かす役割も

「プロ人材」とは、並みの一般人には到達し得ないひときわ優れた専門的能力・技術を身につけた者を指す。その域を目指す並みの人材は大勢いるが、真のプロ人材は実際問題として極めて少数の人間に限られる。スタッフ職との関連で言っても、スタッフ職の中でプロ人材と呼べるものは極く僅かにすぎない。

このような有能な人材を輩出するためには、企業は候補者としての人材を多数擁していなければならない。真のプロ人材は、まさに時間を超越した自己啓発・切磋琢磨の中から生まれるのが真実だからである。しかし、有効な組織体を構成するための人員確保の必要性から、企業はプロ人材たらんとする中程度レベルの人材をも数多く抱え込む必要がある。

リクルートワークス研究所の「ワーキングパーソン調査2004」をもとに、リクルート社はプロフェッショナル人材の規模推計を行っている。推計によれば、言わば「自称」も含めたプロ人材は2002年において合計568万人で、その比率は雇用者の11.6%を占め、産業別ではサービス業が最も多く、プロ人材の約4割の(216万人)に及ぶ。そしてビジネス・プロフェッショナル(=ホワイトカラー系プロフェッショナル)人材は380万人でプロ人材の67%を占める。2015年には、プロ人材は612万人と2002年より44万人増加し、割合は12.6%に上昇すると予測されている。

サービス経済化・ソフト経済化・グローバル化・産業の高度化・競争の激化等に伴って、ますますプロフェッショナルな人材が産業界から渇望されることがこの調査から分かる。これまでは専門的職業人とは医師・弁護士のような特別な資格を有し専門知識を駆使して仕事をする者を指すのが一般であったが、今では特に資格が要求されないビジネスの世界でもプロ人材が要求され、一部がスタッフ職として活躍するようになった。

ところで、スタッフ(staff)とは元々は軍用語であり、staffには参謀・幕僚という語訳があてられている。軍における参謀とは、自らは上司部下のラインから外れ指揮官の補佐をするstaffであり指揮官にのみ責任を負う。参謀もスタッフ職も、上役になり代わり戦略構築や行動計画等の立案をして貢献するという点では、組織において同様の役割を担っている。しかし、企業におけるスタッフ職は、助言のみならず、それぞれの役割に伴う機能を果たす責任をも担う点で、軍の参謀より幅広い概念と言えよう。

高度情報化・グローバル化・競争激化等が甚だしく進行する今の社会では、現場からの情報がこれまでより遥かに重要になっているので、企業経営には参謀、参謀補佐、そしてその補佐…等々の役割が必要になり、スタッフ職が増えてきているという実態があると言ってよい。

フットワークの時代にはヘッドワークやハートワークの機能等を重視する必要がなかったから、経営は経営者の専門領域であり、その意を受けた経営補助者としての管理監督者が多数の一般社員を統率し社員を単一的な価値観で労働せしめていた。

ところが、ヘッドワークそしてハートワークの時代には、経営者は、個々の従業員がハートワーク等を十分に発揮しながら職業倫理・企業理念に叶う言動を自ずと取るような状況・環境を創り出し、社員それぞれの個性を活かした「考え方・思い方・感じ方」を発揮させることこそが重要になってくる。したがって、経営者のリーダシップ・マネジメント力は労働者を拘束する方向ではなく、労働者に個性を発揮させる方向に向けて、ハートワークがよく機能する「多様性が尊ばれる世界」にしていかなければならないのである。その結果として、経営者個人の発想による経営判断の重みはフットワークの時代に比べて相対的に低下するが、その結果、トップダウン方式ではなく、末端社員個々人の自律的な活動を一体化してこそ、企業としての体を成すことになる。

そして従来は経営者に強く求められていた具体的な指示命令が次第に抽象化され、より幅広く従業員にも自律的・自覚的な言動が求められるため、このプロセスにおいて、経営者を動かすスタッフ職が重要視される。かくして、スタッフ職にはその資質や発想や言動において経営者的かつ事業家的感覚を有し、逞しく新しいアイデアを産み出す人材が求められるのであり、企業はそうした人材が多ければ多いほど活性化し、競争に勝ち抜いていけることになる。

経営者はそうした人材を見出す“目利き”でなければならない。と同時に、スタッフ職の成果を的確に取捨選択するために、彼ら個々の様々な思いや意見をも洞察する能力と包容力ある姿勢が求められるのである。

 

立法的解決以外になし

スタッフ職の急増という背景で、今の社会では労働基準法の管理監督者の規定では如何ともし難くなっているが、それにも拘らず、学者はもとより弁護士もまた判例もスタッフ職について詳しく論じていない。スタッフ職の問題は、立法的に解釈する以外に道はない。

従来の企業組織はピラミッド型で、一定の上位層にある者は管理監督の役割を担うという認識があった。しかし、組織そのものがフラット化し、またグローバル化してきたことで、会社の機能スパンも広がりトップ以外の経営者もスタッフ(staff)化した。即ち、経営者は、現場に下りて独自の発想をすることを行動の基盤にしなければならなくなったのである。この状況下では一握りの経営者だけでは、多種多様な情報を集めそれを解析するというのが実質的に不可能になってきている。それが執行役員(スタッフオフィサー職)の存在理由でもあろう。

スタッフ職のようにマネジメントに関与せず、経営につながる職務に専念する役割の者を、今の労基法は全く想定していない。用語はともかく、「経営者」・「スタッフオフィサー職(上位のスタッフ職)」・「スタッフ職(一般のスタッフ職)」・「管理監督者」・「一般職」等々という区分で、法律を再構築して規定しなおすことを、具体的一案として提言するものである。

 

 

 

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2016年7月16日(土)7:22 中目黒公園にてクロコスミアを撮影
花言葉:「楽しい思い出、陽気」

 

 

第10回 管理監督者問題の本質(2)
(2008年7月21日転載) 

 

 

スタッフ職増加の背景

労働基準法が制定されたのは、今から60年も前の1947年(昭和22年)のことである。したがって、元々は当時主流であった肉体労働・フットワークを前提とする価値観に基づく規定であったことは言うまでもない。そのため、時代の変化に応じた度重なる法改正も弥縫策に過ぎず、フットワークからヘッドワークへ、そしてハートワークへと激しく移行していた産業社会・社会の質的変化(例えば製造業の著しい衰退)に対応しきれなかったというのが実情であり、事態と法理との乖離は必然の結果である。

このことは、管理監督者問題についても同様である。元来、労基法41条2号が労働時間規制の適用除外者として定める管理監督者は、ライン管理職が想定されていたが、事業構造の変化および事業内容の高度化・専門化に伴って、今では本社の企画・調査等に携わるいわゆる「スタッフ職」「スタッフ管理職」が急増してきていることは、周知のとおりである。

こうした変化に対応して、スタッフ職でも処遇如何で同規定の該当者である旨の行政通達をやむなく出さざるを得なくなっている(昭63・3・14基発150号)。

スタッフ職の問題は、特に自律的な労働時間制度(いわゆるホワイトカラー・エグゼンプション)につながる重要な議論であるが、この通達をめぐっての裁判例は今のところ見受けられない。ここに、スタッフ職に関する考察を展開したい。

いささか古い数字になるが、1979年から2004年にかけての期間、わが国におけるライン管理職の人数はほぼ50万人と一定であったが、スタッフ職を含む広義の管理職の人数は同じ期間で1・5倍増え、340万人に達したという(大井方子氏「数字で見る管理職の変化」『日本労働研究雑誌』2005年12月№545掲載)。

こうしたスタッフ職の増加は、実際には、ホワイトカラー人口および高学歴者数の増加やIT等の発達に伴う仕事内容の激変によって、管理職ポストが総じて不足してきたという背景があった(総務省統計局「労働局調査」、厚生労働省白書「労働経済の分析」昭和56年版ほか参照)。

つまり、人数に比して管理職ポストが減少したとしても、企業は雇用に当たり従業員に対して年齢にふさわしい処遇をせざるを得ない実際上の大きな要請もあって、30~40歳でも平社員のまま留まらせると社会的評価が極端に下がり、その結果働きがいを失わせることになる。このため管理監督者のみならずスタッフ職の著しい乱造の必要性が生まれ、真にそれらに相応しい者に限らず管理監督者の扱いをしていかなければならなくなったのである。

その結果、当然のことながら管理監督者等の賃金の低下をもたらした。石を投げれば全てがスタッフ職も含めたいわゆる管理監督者であるというような企業組織も存在するが、それにはこうした背景があると言ってよい。

これは平等社会の帰結でもあるし、そうしてこそ企業にとっては、生きがい・働きがいを見つける労務管理の真の目的を実現することができる。

こうした実情はあったが、ますます進行する業務の専門化に対応するために、スタッフ職を名実ともに充実させなければ企業の存続・発展はあり得ないという厳然たる事実が、スタッフ職の肥大化が進行してきたことの主要な理由である。

 

構造変化と「心の時代」

業務が専門化する中では、企業は、「専門職概念」を通常の管理監督者に比してより上位の概念として構想・構築しなければ、優秀人材を集めることはできず、企業としての生命すら失われてしまう。そして、この専門職は、単に人を管理監督する能力に長けた能力だけでは不十分で、本人が現場に身を置き現場の情報を収集したうえで、これに応え得る専門知識と技能に長けたプレーイング・マネージャーでなければならなくなったのである。

前回紹介したように、P・F・ドラッカーは管理監督者の備えるべき重要な要素として「人間としての真摯さ」と「教育的役割」を指摘したが、これはライン管理職を念頭に置くものであった。とすれば、スタッフ職には、この教育的役割を超越する“プロフェッショナルとしてのスキル”“専門知識・専門技能”が求められることになるのは当然のことである。

フットワークを中心とする産業が基軸であった時代にできた労働基準法は、ヘッドワークの時代に移り産業構造と相容れない法律になったが、ハートワークの時代にはこの乖離はいよいよ甚だしくなる。

ヘッドワークの時代には頭脳労働・ソフト産業が中心となり、研究・開発・企画等の仕事が重視されてきた。その結果として、労働時間制は「みなし労働時間制」や「裁量労働制」という新しい法制度を弥縫策として作らざるを得なくなった。

そして、社会のIT化・ソフト化により個々人の考える・思う・感ずる能力が重要になるがゆえに、人間としての自立と成長が求められ、その行き着く結果として、「ハート化」「心の時代」が招来・到来するのである。

そして、この「ハート化」の目標は「真・善・美」「人間としての良心」等々の世界にあるから、個々人が良心に目覚め、善意で気働きをし、それらを通じて成長への希求を一層強く求めることが、企業経営の根幹を支える要素となるのである。

 

確立されない評価基準

実は、企業においては既にこれらを念頭に置く組織が芽生え始めたどころか急速に成長し続けている。例えば、コンプライアンス部門の設立、職業倫理・企業倫理の重視を実現する組織、さらには企業による社会貢献・顧客満足度の向上を目指す組織の組成等々、それぞれの部署・担当者の定着等である。

さらに、人材競争・人材難の時代を迎えて、持てる人材の成長に大きな責任を課せられる人材開発部も企業において重要な地位を占めつつある。

ヘッドワークの所産は才能・能力によるが、その才能・能力は偏差値等その他諸々の測定概念でかなり明確になり得るが、ハートワークはその能力格差を捉える基準がなく、それを基盤にした確固たる評価基準が未だに確立されていない。つまり、ハートワーク時代には、心の在り方・持ち様という流動的で絶えざる変化に的確に対応できる能力、即ち捉え難い人間性を前提とするものなのである。

スタッフ職に求められる専門職としての能力も、まさにこうした社会と産業構造の変化に応じて変容し、需要が高まると言ってよいが、そこでは労働時間の長さ如何によって能力と成果の良し悪しを測定する基準とすることが、決定的にできなくなっているのである。

 

 

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上から時計回りに
2016年7月10日(日)7:34 中目黒公園にて芍薬を撮影 花言葉:「恥じらい、謙遜」
2016年7月16日(土)11:10 パソナビルにてベゴニアを撮影 花言葉:「片思い、親切」
同日時同場所にてペチュニアを撮影 花言葉:「心の安らぎ」 

 

 

第12回「知性・考えぬく」
(平成27年12月28日より転載) 

 


「初めに言葉ありき。言葉は神とともにあった。言葉は神であった」―新約聖書にある有名な辞句である。宗教的意味は分からないが、言葉こそが相手に想いを伝え得る道具であり最大の武器であると、諭しているように感じられる。私たちは、言葉なしには決して考えることはできない。哲学者パスカルは、「考えが人間の偉大さを作る」「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかでも最も弱いものである。…だが、それは考える葦である」などと述べ、考えることの重要性を説いた。私たちは言葉によって考え、思索を深め論理を構築し、議論を重ねることができるのである。

 

先日、「AI(人工知能)の発達により弁護士の仕事も代替されるようになるか?」と問われたとき、私は「情報処理能力では凌駕されていくが、AIは考え“ぬく”ことはできない。その意味で弁護士の仕事をAIが完全に行うことはできない」と答えた。これはすべての職業に当てはまることであり、これからは考えぬく力を持ち、秀でた成果を出せる者しか生き残れない。樹木が栄養を得ながら成長するのと同様に、人間も考え続け、考え尽くすことで頭脳に栄養を得て、いろいろな知恵が生まれ、花が咲き、実がなるのである。

 

私がなぜ「考えぬく」というテーマに関心を持ったかといえば、マスメディアで「反知性主義」という言葉を度々目にしたことによる。おそらくこれは、知性を振りかざして行動の伴わない人々を揶揄した表現であろう。しかし考えぬいた末に得られる知性を身に付けることは、人間によって極めて重要な所為である。努力を重ね知性という実を得た者だけが、知性主義の弊害を論ずる資格がある、と思うのは私だけではないだろう。

 

知性の第1ステージは、徹底的な準備と調査に始まる。方向性を定め、物事を客観的に証明し実証するための裏付け資料を、収集する。多くの書物や資料にあたるだけでなく、各方面の賢者たちに教えを乞い、その知見を素直に学ぶことにより、多様な角度から考えをめぐらせることが可能になる。

 

第2ステージでは、自分の考えを文章化し、ひとつのテーマについて考えぬいて論考をまとめる。文章にすることで思考が固まり、次なる発想の土台となる。本質に迫る努力が肝要であり、大義名分、想定問答、さらには討論技術をも念頭に置く。反論内容をも考えぬいて、考え方・思い方・感じ方を統一し強固にする過程は、まさに知性の塊であろう。

 

第3ステージでは、身に付けた知恵・知性を常に見直し、スピード感と時代の流れを意識した自己革新を重ね続ける。

 

ただ、こうしたプロセスによって考えぬくことを旨とする知性主義には、主に2つの欠陥がある。ひとつは思考を重視するあまり、大胆さを失い慎重になりすぎることで、もうひとつは考えぬくことに没頭しすぎて脳に緊張の連続を強いて疲労させると、メンタルヘルスに不調を来すおそれがあることである。適度な休憩・休暇・休日・休養を取り、リフレッシュしなければ、健全な知性は育まれない。

 

孔子は、「中庸の徳たるや、其れ至れるかな」(どちらにも片寄らない中庸の道は徳目の最高指標である)といった。それほどに物事のバランスをとるのは難しい。人事労務の分野においても、考えぬく能力のある優秀な人材が心の健康を害さないよう、緩急のバランスを取る配慮が何より求められる。

 

 

 

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2016年7月16日(土)7:20 中目黒公園にてタンジーを撮影
花言葉:「平和、挑戦する」

 

 

株式会社開倫塾
代表取締役社長 林 明夫

 

「上手に人を辞めさせる
-教育ある人とは勉強し続ける人-」

 

1.高井伸夫先生の名著の一つに、「上手に人を辞めさせる」がある。

 

2.「上手に人を辞めさせる」大前提は、就業規則の絶えざる見直しだ。労働法の基本的な
理解と遵守も欠かせない。

 

3.ただ、我が開倫塾は、高井先生の有難い教えを参考にしながらも、「人を辞めさせない経
営」を1979年の創業以来目指している。なぜなら、失業は人間の尊厳を著しく阻害するものであるから、縁あって開倫塾にお勤め頂いた社員の皆様には、もし開倫塾でよければ、できるだけ長い期間働いて頂きたいと考えるからだ。

 

4.1998年以来、日本経営品質賞を目指して経営を行っている開倫塾では、経営の基本理
念の一つに「社員重視」を掲げ、「働くに値する職場づくり」に励んでいる。

 

5.開倫塾が60校舎を展開する栃木県、群馬県、茨城県の北関東地域は、30~40年前から
輸出主導型のハイテク製造業のメッカで、有効求人倍率や雇用者所得は全国でも有数の高さであるため、慢性的な人手不足が続いている。

 

6.ここ数年の円安と東北復興、東京オリンピック・パラリンピックの影響で、人手不足感は今
まで経験したことのないレベルにまで達している。そこで、現在の人事労務の最大の課題は、「働くに値する職場づくり」を磨き込んで、新しい社員の採用と今いる社員にできるだけ長く働いて頂くリテンションとなる。

 

7.ただ、この採用とリテンションを果たすためにも、高井先生の「上手に社員を辞めさせる」
前提となる就業規則の見直しと、労働法の基本的な理解と遵守は欠かせない。

 

8.これからの社員に求められる最大の資質は、論理的な内容の文章や資料を分析的に読
み込み、問題点を発見し、課題として設定、それを皆と力を合わせて解決する能力だと考える。例えば、栃木県、群馬県、茨城県の北関東3県に60校舎を展開し、各校舎に約100名の塾生を擁して小学校1年生から高校3年生までの学習指導を行う開倫塾では、毎月膨大な経営情報が蓄積されている。上場企業ではないが、それらの中から財務情報を抽出し、従来からの「月次決算」を固定させると同時に、2011年より「四半期決算」を導入し、本年2016年度で5年目になった。

 

9.今後は、日々の経営に直結する「管理会計」の充実を図ると同時に、非財務情報で企業
としての中長期的な発展に欠かせない重要な経営情報を「統合報告 Integrated Reporting」として取りまとめたい。

 

10.IoT(モノのインターネット)やAI(人口知能)が発展して現在の仕事がなくなり、別のもの
に置き換えられると言われているが、データや論理的な文章を分析し、問題点を発見、課題を設定し、皆で力で合わせて解決する能力は、月次決算、四半期決算、財務会計、管理会計、統合報告以外にもありとあらゆる業務分野で必要とされる。「働くに値する職場」とは、そのような能力を社員一人ひとりのキャリアとして、また、社員のキャリア権を担保するものとして、戦略的に身に着けさせるようなしくみを独自に構築しているところと考える。

 

11.高井先生は、「教育ある人とは勉強し続ける人」というドラッカー先生のことばを折に触
れて口になさり、生涯にわたっての勉強の必要性を訴えておられる。

 

12.開倫塾の本社のある栃木県足利市出身の書家、相田みつを先生のことばに、「一生勉
強、一生青春」がある。相田先生は、私の実家の近くにお住まいであったので、散歩するお姿をよく拝見した。高井先生の教えてくださった、ドラッカー先生の「教育ある人とは勉強し続ける人」という教えと相田みつを先生の「一生勉強、一生青春」の教えは私の中で渾然一体となり、「一生勉強し続けてはじめていつまでも青春時代のように元気に生きられるのだよ」と教えてくださっているようだ。

 

13.では、どのように生きるかが最大の課題となる。今年は、スペインの文豪、セルバンティ
スの没後400年にあたるので、小学生のときに読んだ覚えがある「ドン・キホーテ」を岩波文庫で読んでみた。読んでいるうちに、セルバンティスはドン・キホーテが目指す「遍歴の騎士」を通して、読者にある一つの生き方を問いかけ、示しているのではないかと気づいた。そこで、セルバンティスが訴えたいところに鉛筆で横線を引きながら、全6巻を一通り読んでみて、「ノブリス・オブリージ(高貴なる生き方)」とは何かが少しだけわかったような気がする。

 

14.日本では、内村鑑三が「後世への最大遺物・デンマルク国の話」と「代表的日本人」の2
冊でどのような生き方があるのかをわかりやすく示してくれているので、参考になる。

 

15.高井先生はいつもカバンの中や身近に本を何冊か置き、考えながら著者との時空を超
えた対話をしておられる。大いに参考にさせて頂きたい。

 

2016年7月27日(水) 

 

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2016年7月10日(日)7:31 中目黒公園にてグラジオラスを撮影
花言葉:「忘却、勝利」

 

 

 

第9回 管理監督者問題の本質(1)
(2008年7月14日転載) 

 

 

世間の耳目を集めた「日本マクドナルド事件」判決(東京地判平20・1・28)の影響もあり、近時様ざまな分野において管理監督者問題が議論されている。しかし、「名ばかり管理職」という余りにも印象的なフレーズのせいか、残業代の支払いの有無だけが大々的に取り上げられ過ぎている。本稿では、3回にわたって、本質的な視点から管理監督者問題の分析を試みたい。

まず、管理監督者とは何かという問題から説き起こす必要がある。条文には管理職という文言はなく、管理監督者とある。一般的に用いられる管理職とは、管理監督者の通称であろう。

条文の定義としては、労働基準法上の労働時間規制の適用除外を定める同法41条2号で「事業の種類にかかわらず監督若しくは管理の地位にある者」と規定、また労働組合の自主性を図るために一部の者を組合員資格から除外する規定である労働組合法2条1号で「役員、雇用解雇昇進又は異動に関して直接の権限を持つ監督的地位にある労働者、使用者の労働関係についての計画と方針とに関する機密の事項に接し、そのためにその職務上の義務と責任とが当該労働組合の組合員としての誠意と責任とにてい触する監督的地位にある労働者その他使用者の利益を代表する者」としている。

 

人間としての真摯さを

多人数の集合体である企業は、構成員各々が共感・協調して機能しなければ組織体(互助と牽制とその上に立っての成長を期すことに本質があるもの)としての業務を遂行し得ず、企業としての価値がない。個々の多種多様な人材を統合し、一定の成果を上げるための共感・協調を実現して協働体制を構築するなかで必要とされたのが、経営者と管理監督者なのである。

合理性を企業の背景として通すこと=「理を管する」ことがそうした協調・協働体制の基盤であろう。集団はとかく情緒的支配に刹那的に流れていく。それをセーブし、理性的コントロールを行うのが、管理監督者の役割である。その一方で、集団を動かすには情緒的・感性的な側面もなければならない。理に頼り過ぎては無味乾燥のものとなり、およそ人に対して感動を与え得ないからである。

構成員の共感・協調を育むためには、管理監督者は率先垂範して業務を遂行することから始めて部下らを教育・指導し、育てる必要がある。

ドラッカーは言う。「経営管理者であるということは、親であり教師であるということに近い。そのような場合、仕事上の真摯さだけでは十分ではない。人間としての真摯さこそ、決定的に重要である」と。さらに「最も一般化した経営管理者についての定義は間違っているばかりか破壊的である」「誰が経営管理者であるかは、役割と期待される貢献によってにのみ定義される、何よりも経営管理者を他の人から区別するものは、教育的な役割の有無である」と喝破する(傍線は筆者/P・F・ドラッカー『現代の経営(下)210~223頁『第27章優れた経営管理者の要件』参照』)。

ここで注目すべきは、ドラッカーが、「地位」「給与」よりも「人間としての真摯さ」「教育的役割」こそが、管理監督者たる所以であるとしている点である。彼は、管理監督者は単に仕事ができるだけでは足りず、情熱をもって部下に対する育成、即ち教育・指導等々が決め手であるということを言いたかったのであろう。要するに、教育的機能を果たしてこそ、管理監督者たる素地を具有すると言ってよいのである。

さらに、人には「人の上に立ちたい」という本能があるが(それは向上心のひとつの表れであろう)、それは下の者に慕われてこそ初めて可能になる。上の者が下の者を引き立ててくれるという要素があってのことであり、それは、ドラッガーの言う教育的役割と同義である。

下の者から慕われるためには、上の者が下の者の面倒を見る等、まずは「自己犠牲」を厭わない姿勢を持つことが必要である。自己犠牲を具体的に言えば、第一に組織において成果を上げ組織として成長を図り続けること、次にそれにかかわりを持ち自分を支えてくれる個々人の成長を図ることである。そうして、自己犠牲を払っている者は昇進させ部下を持たせるが、その一方、自己犠牲を厭う者に対しては昇進させないどころか降格させ、ついには淘汰していかなければならないのである。

また、報酬についても、部下よりも控えめの報酬でもよしとする姿勢でなければならない。要するに、自己犠牲のうえに初めてリーダーシップ、ひいては信望が生まれるのである。

 

戦って勝てる組織とは

企業体のトップである社長は、素晴らしい業績を上げてこそ初めて然るべき報酬を得る資格を獲得する。それゆえに、業績を上げられない経営者・管理監督者は、淘汰されなければならないことになる。ここにこそ、「人事管理」の本当の意味があるのである。

これらの一般論を具体的に展開すれば、産業構造の変革により業務がソフト化し、グローバルな競争の激化にさらされている企業において、管理監督者は従来以上にマネジメント的視点を持つことが要求される。加えて、個々人の自主性が重んじられる社会的風潮を背景に、管理監督者には下の者に対して取り締まり的な高姿勢ではなく、人間的に接する姿勢が求められるのであり、監督的機能よりも管理的機能を果たす方が重要になってきているのである。

「日本マクドナルド事件」は、ファーストフード店の店長が労基法上の管理監督者に該当するかどうかが争われた事例であり、一般企業とは多少状況を異にするであろうが、管理監督者と労働時間制の問題は、各企業において日常的に見受けられるテーマである。それは、実は管理監督者の処遇は極めて低いことに起因すると言ってよい。

確かに、管理監督者がそれ相応の処遇を受けていないという側面は否めない。しかし、企業という組織体は上位の者の自己犠牲の上に成り立っているという先の論述とともに、企業は競争に勝たねばならない宿命を負っている。その結果として管理監督者の賃金が割り食っていることのみに議論を収斂させるのではなく、組織に貢献したいという心意気とタフな精神力が、今後管理監督者の要件として強調される必要がある。管理監督者が賃金と処遇でしか繋がっていない企業は、戦って勝てる組織でなく、敗退の途を辿ることは必定である。

 

 

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2016年7月3日(日)7:36 山の上ホテル付近にてアンンスリウムを撮影
花言葉:「煩悩、旅立ち」

 

 

第8回 ハートワーク時代のメンタルヘルス
(2008年5月12日転載)

 

 

企業や働く個人にとって最も重要なことは、常に前進し成長を果たすことである。そして、組織体である企業は多数の労働者の統合があってこそ初めて成果を生むシステムであるから、ヘッドワークおとびハートワークの競争を繰り広げている彼らの能力を、組織体として最大限に発揮させるための労務管理を推進することが必要になる。

そこで最も重要な役割を果たすのが、管理職教育である。大切なのは部下に対する「ほめ方」「叱り方」の能力である。失敗をした部下を叱り飛ばすだけの管理職は無能である。成長につながる励まし方ができなければ、結局は成果に結びつかない。その意味で、管理職には心理学の勉強が必須であると言えよう。

上司の言動による部下の自殺(パワハラ自殺として取り上げられた)に業務起因性を認めた判決が昨年立て続けに出されている(東京地判平19・10・15、名古屋高判平19・10・31、大阪地判平19・11・12)。企業における心の問題を考える場合、管理職の「ほめ方」「叱り方」教育がいかに重要か、司法も警鐘を鳴らしている現状にある。

 

脱落者の増加が顕著に

企業における労務管理の要諦である教育・矯正は、「教育」「指導」「注意・警告」の過程を経て、教育・矯正措置を超えた「懲戒」の段階に至る。教育は集団を対象とした指導・教育であり、指導は個別教育であり、注意・警告は叱責という分類になる。仕事を通じて馴染んだ公務員関係の労働法で、公務員には「注意」の中にも①「口頭注意」、②「厳重口頭注意」、③「書面注意」、④「厳重書面注意」という4段階があると知り、小生は当時から、「教育」から「警告」に至る展開を意識してきた。

これまでは、公務員はもちろん民間企業の労働者もこうしたプロセスへの耐性を有していたが、近年は指導集団である「教育」段階で脱落する者が出てきている。この傾向は次第に顕著になり、教育に耐えても指導に耐えられない。指導に耐えても注意に耐えられない者が増えつつあるのが現実である。このように労務管理としての教育・矯正措置を断念するかという命題にすら企業は直面しているが、それは認め難いことである。

企業は組織的な活動・統一的な活動を求めるがゆえに、集団的な教育は避けて通れない。ここに実は教育・矯正活動としての労務管理である「ほめ方」「叱り方」を管理職が勉強する必要性に迫れられている理由がある。管理職は、部下に対する「ほめ方」「叱り方」について指導・教育を受け、注意・警告をされながら、管理職自身も成長していくプロセスが必要となった。

統一的・組織的活動を効果的かつ円滑に行うためには、個別労働者を対象にした教育・矯正活動だけでなく、集団を意識した教育・矯正活動を実行しなければならない。そうでなければ、組織体としての企業活動は不可能だからであるが、ここに困難さがついてまわる側面のひとつがある。「教育」「指導」「注意・警告」という行為自体が、管理職の能力次第では、部下の精神障害を招く原因となりつつあるのが現実だからである。

上司の言動等がパワハラになり得るのは、「指導」「教育」「注意・警告」というプロセスが、成長を促す趣旨と受け取られず、相手の精神に傷跡を残し、嫌がらせ・いじめ・暴行と受け取られるからであろう。

しかしこれは、管理職の能力不足だけではなく、仕事に生きることが非常に疲れる時代になってしまっていることも反映していると言ってよい。日本経済が右肩上がりの時代には皆が立身出世を目指し、自分なりに成長していた。しかし、今では成長どころか没落・右肩下がりの時代になったから仕事に生きること自体が非常に疲れるようになってきた。90年代後半から企業に成果主義的人事制度が導入されたことに伴い、組織が集団主義から個人主義へと移行したことも、逃げ道のない心理状態を増幅させている。組織の変革によって、個人の没落・スピンアウトの度合いが甚だしくなっている。

そして、うつ病等の精神疾患は、ホルモン変化の問題や職場での男性優位の状況、ワークライフ・バランスの悩み等の理由から、女性の方が男性の2倍多いとも聞くが、ハートワークのダメージを深刻化させないためにも、企業にとってメンター制度や女性にも働きやすい職場環境を整備することが、今まで以上に必要になってきている。

部下の上司に対する言動や社員間の言動にも、十分な指導が必要である。部下や同僚の心ない言動により、ナイーブな上司が傷付き精神障害に陥る可能性や、職場いじめの問題が極めて顕著になっている現実がある。ここにコミュニケーションさらにはより基礎的なカンバセーションのあり方の探求を企業の中で展開していかなければならない理由がある。

昨今の企業における仕事の指導はOJTが中心となり、ノウハウ・ハウツーしか教えなくなっている。本来、現場教育・職場教育では、仕事内容だけでなくその仕事の持つ目的や必要性等の根本的な意義が語られなければならない。そこにこそ仕事の意味や働きがい・生きがいを見出すからである。仕事の根本を語らない職場教育は、結局は働く者を歯車の一つに貶め、働く者は「全体の中の自分」ではなく、「部分としての自分」という思いを強く抱いてしまう。

そうして自分のやりたいことが分からず、仕事をすればするほど徒労に終わってる気分にさえ陥り、実際にしたいことへのこだわりが強まって、落差の甚だしさに空虚感を味わう。このように、仕事に対する徒労感やパッションの喪失が、企業で働く者のうつ状態を招く基盤であるように思えてならない。ハートワークが必要とされる時代には、今まで以上に仕事のやりがいの説明と得心が何よりも必要とされるのである。

 

人間性喪失の危機実感

ハートワークの時代と敢えて協調しなければならない理由も、社会の営みからハートが失われ、人間性の喪失の危機を実感していることにある。社会の変革が進む中で精神障害者が激増している現実は、例えば糖尿病の研究・治療が格段に進歩しているのと逆行して、患者が急増している状況とも似ている。社会の急激な変容についていけず人間性を崩壊させる者が増えているのであり、これにどう対処すべきかはメンタルヘルスにおける最大のそして根本的なテーマであると言ってよい。

企業におけるメンタルヘルス問題について執筆するとき、この問題は、より根本を極めた大胆な発想の転換がなければ対応策即ち解がないということを小生はいつも痛感している。本稿「上」冒頭でも紹介したとおり、現在でも生涯を通じて国民の5人に1人が発症するという見方もあるメンタルヘルス問題は、ガンや心臓疾患や脳障害の発症率よりも高いということを肝に銘じて、企業における人事労務を進めなければならない。

紙幅の制約がありここで筆を置くが、現在の最も深刻かつ重大なテーマであるメンタルヘルス問題については、また機会をみて論じたい。

 

 

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2016年6月26日(日)9:08 正丸峠にて撮影

 

 

第7回 ハートワーク時代のメンタルヘルス
(2008年5月5日転載)

 


「治癒」ではなく「寛解」 

精神障害の場合には治癒や完治という表現はせず、病気の症状がほとんどなくなっても完全に治癒したわけではなく、様子をみていく「寛解」という判断概念にとどまるのはなぜだろうか。身体は18~20歳で完成されると言われているが、精神はその個体が死を迎えるまで、生涯完成を目指して発達を続けると言われている。

即ち、いわゆる成人に達しても、「精神」自体は本来的に完成したとは言い得ず、四肢など身体の一部は完成と言い得るのに対して、精神は常に“未完成”なのである。未完成であるからこそ、精神とはかくも脆くかつ傷つきやすいものなのだろう。メンタル面で問題がないと評価される者であっても、ときに傷付き成長への気力を失い、ときに退行(精神状態が暦年齢より子ども帰りした状態)さえ生じることもあり、可塑性が失われる事態に陥ることがあるのではないか。

それでもなお、正常であると判断され得ることがあるのは、精神的な成長を遂げるプロセス下に今あると自覚しているからであろう。つまり、正常な者の精神状態は、未完成ではあるが、なお向上の途上にあるという自信を抱いているのだろう。

ところが、いわゆるメンタルヘルスの障害に陥ると、精神が未完成なものであるがゆえに、挫折感が生じ、成長するエネルギーを失い、自己が淘汰されるという不安に苛まれ続ける事態を迎える者が多数に上る。そこで、精神障害の症状が一旦治ったとみえて、淘汰の不安が再び招来し、再発の可能性があるとせざるを得ず、そのことから治癒という概念を使わざるを得ないのではないか。

この寛解という分かりにくい単語を例にとっても分かるように、精神医学はなお究明されていない未分化な学問であり、ある意味稚拙な部分が大いにあると言えるかもしれないし、逆に言えばなお未発達の余地が大いにあるとみることもできよう。

 

制度設備の取組み急務 

このように、精神障害は寛解にとどまり再発の可能性をいつも秘めているがゆえに、身体的病気からの復職以上に、十分に配慮しながらの試し出勤・リハビリ勤務という制度が必要不可欠となってくる。

アンケート調査をみると、リハビリ勤務を制度として備えている企業はまだそれほど多くない。しかし、メンタルヘルス問題が近年急速に拡大している実情からすれば、制度整備への取組みが急務になる。職務復帰支援は、休職開始時点から開始することが望ましいとされており、さらに再発防止のための手続きも必要になる。

最近の20~30歳代の若い世代は、メンタル面での不調があると進んで医療機関を調べて心療内科へ行くケースが多く、うつ病・自律神経失調症・パニック障害等の診断書を自ら受け取り上司に提出すると言う。悩みを抱えてカウンセラーに相談する社員も、すでに精神安定剤や睡眠導入剤を服用している者も多く、若者にとって心療内科の敷居は以前のように高くない。

従って、ラインの気付きや声かけはもちろん必要だが、家族からの連絡を得られやすい体制を作ったり、本人から診断書が提出された際の上司や人事の対処方法も一定のルールを作る必要もあるだろう。その診断書に対する判断および診断書に従い休職に入った場合の復帰時期等につき、セカンドオピニオンの求めに応える専門医も絶対に必要になるであろう。

復職にあたってまずはどの職場が適切か問題となるが、原職場も新しい職場も、どちらも難しい。原職場になれば、そこで働いて発症したことから再発の可能性がある。ところが、新しい職場で上司も同僚も変わると、本人にとって精神的負担が強まる。そうなると、リハビリ職場は本人の意向が重要になってくる。

実際に企業内カウンセラーから伺った話によれば、本人が元の職場に戻りたいというケースと絶対戻りたくないというケースがある。人間関係の軋轢が原因の場合は本人が異動を希望するかと思うと、そうとは限らず、軋轢の相手を攻撃して、その人の移動を望む場合もある。あの人(上司)さえいなければ完璧に仕事ができると主張するのである。

また、負荷が重く耐え切れず体調を崩した場合でも、その仕事内容に執着のある人は、同じ職場に復帰を望む。その場合、休職中も休みの日に出社したり、会社の周りをうろついたりして、現場に顔を出す。スキル不足を認めようとしない。そういう人は復帰してもまた体調を崩して休職を繰り返すケースが多い。

欠勤後や休職後の復帰に関しては、最終的には本人の希望の聞いて対処するしかないが、移動を希望している場合は受け入れ先との交渉があり、難航することになるのが一般である。

リハビリ勤務は労災適用の問題とも絡み、休職期間に含まれるのか、あるいは勤務期間とされるのかという基本的な問題もある。また、リハビリ勤務にはどれだけの期間を要するかについても検討を要する。個別企業の例によれば、2週間~1カ月程度としているところもあれば、規定では特に制限を設けていない企業もあり、まちまちだ。

そして、その期間中の処遇についても、正社員のまま一定割合を支給する企業もあれば、某ベンチャー企業のように、期間中は身分をパート社員に切り替えて、処遇もそれに応じたものにする例もあるようだ。

 

最高裁も配慮を求める 

なお、復職問題に関する最高裁判決としては、バセドウ病に罹患した労働者をめぐる「片山組事件」(最判平10・4・9)がある。最高裁は、「労働者が職種や業務内容を特定せずに労働契約を締結した場合においては、現に就業を命じられた特定の業務について労務の提供が十全にはできないとしても、…当該労働者が配置される現実的可能性があると認められる他の業務について労務の提供をすることができ、かつ、その提供を申し出ているならば、なお債務の本旨に従った履行の提供があると解するのが相当である」として、企業に対し労働者への配慮を求めている。制度設備を行わずに休職者にリハビリ勤務を認めると、この判決を根拠に原職の処遇を求められるおそれもあるので、注意が必要である。

また、企業によってリハビリ勤務期間は人事で預かるケースや、外部のリワークプログラム(対人交流練習、認知療法、職業訓練を通じての復職準備プログラム)への参加を促すケースもある。なお、職場へ復帰した場合のリハビリ勤務期間はプロセスを注意深く見守らなければならず、いわば“ウォッチ”し続けることになり、その結果本人及び同僚の緊張感が高まることにもなる。ここにリハビリ勤務期間特有の難しさ・留意点があり、上司・同僚等だけでなく、精神障害に関する専門知識を持つ医師・専門家が対応しなければならない根本的な理由がある。

 

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右上から時計回りに
2016年6月19日(日)10:36国立新美術館にてくちなしを撮影 花言葉:「優雅」
2016年6月19日(日)8:23九段北4にてアガパンサスを撮影 花言葉:「恋の訪れ」
2016年5月29日(日)11:20栃木県足利にてカシワバアジサイを撮影 花言葉:「慈愛」

 

 

第6回 ハートワーク時代のメンタルヘルス
(2008年4月28日転載) 

 


厚生労働省の「国民(成人)の2人に1人は過去1カ月間にストレスを感じており、生涯を通じて5人に1人が精神障害と診断され得るという調査結果もある」(2006年3月「平成17年度職場におけるメンタルヘルス対策のあり方検討委員会報告書」中央労働災害防止協会)とのショッキングな報告を紹介するまでもなく、程度の差こそあれ、メンタルヘルスの不調が自分自分や職場の同僚等にも普通に起こり得る身近な問題であることは、誰もが体験的に感じているであろう。企業からのご相談においても、メンタルヘルスの不調から問題行動をとる者、休職する者、あるいは休職期間を終えて復職する者等々に関する内容が、実感としてここ4~5年急増し続けており、一向に収まる気配がない。また、精神障害と自殺の強い相関関係が指摘されるなか、2006年の自殺者は3万2155人で、そのうち企業等組織で働く者(管理職を含む)の人数は8790人に上っている。これら労働者が全体の25%前後を占めるという比率はほぼ一定であるが、数は増加傾向であり、企業等で働く者の自殺者数は1978年よりも3000人以上増えている。

職場のメンタルヘルス問題は働く者のモチベーション如何に直結し、企業の労働生産性をも左右する経営の重大テーマの一つなのである。

 

働き方の進化と関連性

精神障害を引き起こす一因として一般にあげられるのは、長時間労働の弊害である。「電通事件」(最判平12・3・24)では最高裁も「労働者が労働日に長時間にわたり業務に従事する状況が継続するなどして、疲労や心理的負荷等が過度に蓄積すると、労働者の心身の健康を損なう危険のあることは、周知のところである」としている。確かに、慢性的な長時間労働が心身を疲弊させることは事実だろう。しかし、私が機会あるごとに述べているように、昔の労働時間は現在よりも確実に長かったが、職場で精神障害の問題が生じるのは稀なことであった。なぜだろうか?労働時間の長さだけでは、メンタルヘルスの問題を説明できない。最近は総じて以前よりも人間関係を結ぶのが不得手になり、IT発達の影響で多面的な血の通ったコミュニケーションをとる能力が低下していることやストレス耐性が劣化していること等が社会的背景として語られるが、それのみならず、精神障害の問題は労働の進化と関連性があると私は考えている。

 

労働は、主に手足を使う労働・肉体労働がメーンである「フットワークの時代」から、頭脳労働・知的活動がメーンである「ヘッドワークの時代」に至り、さらに主に心を用いることが重要な要素である「ハートワークの時代」へという変遷をたどってきている。それゆえ、「フットワークの時代」には、肉体労働を長時間続けても精神的疲労につながりにくいが、「ヘッドワーク」「ハートワーク」の長時間労働は精神的負荷となるという対比が認められるだろう。

 

社会は「フットワークの時代」から「ヘッドワークの時代」を経て、今まさに「ハートワークの時代」を迎えようとしている。これからの社会では「良心・善意・成長」を旨とし、心を大切にすることに価値が置かれる。「良心」とは、自分の心に恥じない姿勢で生きることであり、「善意」とは他人の心を慮って行動することであり、「成長」とは自分自身はもちろん周囲の関係者にも成長を促し、向上心が促され、それぞれの自己実現への欲求に満足感を与えることを意味する。即ち、企業活動においても心の働きが重要な役割を果たすようになるが、そのような性質の労働を続けていると、野球のピッチャーが投球過多で肩を壊すのと同様、心が壊れやすくなることになる。

 

企業活動におけるハートワークの基本は、まずは競争下に生き続けるということである。社会でも企業でも秩序形成のためには、順位付けが必要となる。これは動物も同様で、例えばボス猿という大将がいて、群れの順位付けが整い初めて猿の社会の秩序が保たれているのである。しかし、社会で競争がなされ順位付けが行われると、人間は悲しいかな、敗北の不安感と淘汰の恐怖に苛まれ、その状態が長くなれば挫折することになる。そして、敗者は打ちのめされるのである。

 

ハートワークのこうした競い合いが激しくなればなるほど、“ハートが壊れる”事態は一層強く招来されるのである。もち論、「ヘッドワーク」=頭脳の酷使によって、“頭が壊れる”こともある。これまでは、ヘッドワークの過重の結果もたらされる異常をもって精神障害とされてきたが、精神障害はそれだけではなく、ハートワークの時代には、ハートが壊れると言うこともまた精神障害であると意識しなければならないのである。

 

「ごちゃまぜ」精神医学

つまり、精神障害はヘッドワークの障害とハートワークの障害であることになるが、今の精神医学はこの区別を明確にすることなく、ごちゃまぜにして対処してきている。しかし、ヘッドワークの障害とハートワークの障害とを見極めて、それぞれの対処法を確認していく手続きが必要なのではないか。さらに言えば、ヘッドワークの破綻とハートワークの破綻とはそもそも異質のものであるから、その違いを意識して精神障害の治療は始められるべきではないだろうか。これは門外漢の発想かもしれないが、優れた専門医に私のこうした疑問を率直にお尋ねして教えを乞うたところ、最終的には患者さんの個別性が最も重要であるというご指摘のもとに大いに賛同していただけた。

 

専門医の分析によれば、(1)ヘッドワークの加重は精神機能の変調を引き起こし、主に精神科で治療されるべき病気(統合失調症・躁うつ病・うつ病等)をもたらす。これらには、薬物療法主体の治療が必要とされる。(2)ハートワークの加重はストレス関連障害や摂食障害、あるいはうつ病等を引き起こし、主にカウンセラーや心療内科で治療されるべき病気(セクハラ・パワハラを含む)をもたらす。これらには、カウンセリングなど心理的治療が必須であるという。

 

そして興味深いことに、休職後の復帰では、フットワーク⇒ヘッドワーク⇒ハートワークの順で行わせるのが一般的であるという。つまり、労働の進化のプロセスを踏ませるというわけである。

 

次回は職場におけるメンタルヘルスの問題として大きなテーマとなっている職場復帰・リハビリ勤務問題を取り上げたい。

 

 

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2016年6月19日(日)8:15 東京家政学院付近でネビキミヤコグサを撮影
花言葉:「きまぐれな心」

 

 

第11回「教員の淘汰こそ必要」
(2015年11月23日より転載)

 

私は、青山学院大学の非常勤講師として1972年4月より13年間ほど手形小切手および工業所有権法の講座を持ち、曲がりなりにも大学で教える立場を経験した。また、新人弁護士時代に、のちに私立大学の総長となった方が、「自分の人生において大学と銀行の設立をめざしたい」と語られる場に立ち会い、教育の強い関心を持った。2000年4月からは日本私立大学協会(加盟大学411校/2015年10月現在)の法律顧問を務め、加盟各大学の理事長・学長らに向けて度々講演をしてきた。教育の現場に接する機会に多く恵まれた結果、自分なりの教育観を持つようになったといえる。

 

教育の目的は、大学・大学院での高度に専門的な研究者養成の領域は別として、心技体を鍛え、感性・理性・知性・心性(品性)を磨き続ける術を教えるのに加え、「夢・愛・誠」「真・善・美」等々、人としての価値基準を理解させ、より良き人生を歩むための基盤となる未来志向の力を身に付けさせることにあるだろう。つまり、教育者は、自立・自律した社会人として良き社会を形成し得る基礎力を教え子に育む使命を負っているのである。

 

教育現場には、教員、児童・生徒・学生、児童らの親、そして学校の運営管理者という様ざまな立場の者がいるが、もっとも重視すべきは、教育の質を上げることである。

 

教育の議論のなかで「先生が変われば生徒も変わる」「改革にはお金がかかる」という2つの命題をよく耳にする。スポーツや合唱の分野でも同様にいわれるこれらの指摘は、教員養成システムを改善して教員の質を上げるには多くの人員と予算を要するものの、教員の質が向上すれば生徒・学生らに必ず好影響があるという経験則である。私は機会あるごとに指摘しているが、「教員に教え方を教える」システムがわが国では未だに十分に構築されず、真の意味での「教育」の専門家の養成がおろそかにされているのであろう。

 

教育者に関する名言としてよく知られる「凡庸な教師はただしゃべる。よい教師は説明する。優れた教師は自らやってみせる。偉大な教師は心に火を点ける」―の例に倣えば、日本の教員は、ただしゃべるだけのレベルにとどまっている者が多過ぎるのではないか。一般に教員は、自らは生徒・学生らを評価するにもかかわらず自らが評価されることは拒む傾向が強く、また、仄聞することによれば、一般に日本の大学では、能力不足の教員も優秀な教員も同じように評価・処遇され、特段格差は付けられていないという。

 

今後、日本の経済状況が今より上向く可能性はまったくない。特に大学は少子高齢社会の下、経営の悪化は火をみるより明らかだ。とすれば、教員にも優勝劣敗の競争原理を適用し、大学には、企業間のM&Aの如く統廃合も含む「廃校の自由」が認められるべきであろう。

 

ただ、日本の教育には長所もある。貧富の差を問わず読み・書き・算盤の最低限の教育を必ず受けられる点だ。また、「音楽」「図工」と「給食」がすばらしいと教えてくれた米国人もいる。感受性の重視と食育への取組みに対する評価であろうか。

 

教育と知性の頂点にある大学および大学院の先生方には、日本の将来を担う若者たちが良き教育を受けて能力を最大限に発揮できるよう、率先垂範して他者からの評価に耐え得る強さを持ってほしいと願っている。

 

 

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高井・岡芹法律事務所会長
弁護士 高井伸夫
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