縁(その3)

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(2012年2月11日 朝10:11 
東京都台東区上野公園 東照宮ぼたん苑にて撮影)

 

 

2月10日(金)より「縁」をテーマにブログ記事を連載しておりますが、今回は人間関係のトラブルに直面した際の「謝罪」について述べたいと思います。

 

 

【謝り上手になろう】

人間関係を上手に維持するためには、人の心の痛みを敏感に察知する繊細さが必要です。そして、人との縁を、気持ちよくかつ長くつなげていきたいならば、トラブルが発生したとき、円満にそれを解決する聡明さが何より重要になります。

 

まったく悪意はなくても、人に失礼なことを言ってしまったり、してしまったりするようなことは、誰にでもありますし、避けて通れないことです。しかし、こういったトラブルを起こしてしまった際に、責任逃れの言い訳に終始したり、率直に謝罪する誠意を持たなかったりする人は、疎まれ、嫌われるものです。謝らなければならない立場におかれたとき、大げさにいえば、人間としての真価が問われます。どんな釈明よりも真っ先に「謝罪する」という誠意を見せることが何よりも大切で、相手の怒りの感情を、一刻も早く鎮めることを最優先するのが、謝るときの基本です。

 

しかし、特にビジネスがらみの場合には、むやみに謝ればよいというものではありません。当方の非があきらかで謝るべき部分については、素直に謝らなければならないでしょうが、事実関係については、それとは別の客観的な判断を下さなければなりません。つまり、相手に被害や不快な感情を与えてしまったことに対してはきちんと謝ったとしても、事実に関しては安易に認めたり、妥協したりしてはならないと思います。相手の気持ちを慮りながらも、事実関係については、「別途、慎重に対処します」ということを適切な態度ではっきりと表明することが正しい謝り方であると思います。

 

 

 

【謝罪とは】

謝り方の得手不得手は、人生を大きく左右することもあります。謝り方が悪ければ、長年かかって築いた良好な縁が切れてしまうことになるでしょう。そして、忘れてはならないことは、謝罪とは、自分の心を救済するものではないということです。それでは単なる自己満足の世界です。謝罪とは、相手の傷ついた心を救済するためのものであるということです。

 

飼い犬や飼い猫は、人に迷惑をかける振る舞いをしたときに飼い主から叱責されれば、シュンとして反省をしますが、当然のことながら、そのあとで相手方にお詫びをしに行くことはしません。謝罪とは、他者の心の痛みを正しく認識し、自己を律する行為であり、人間にしかできない行動であると思います。つまり、謝罪とは、非常に人間的な行為であり、人間であろうとする行為なのではないでしょうか。

 

昔から「災い転じて福となす」というように、上手にお詫びをすることで相手の心を慰謝できたならば、信頼関係はかえって強まるものでしょう。謝罪しなければならない事態とは、単にピンチであるだけでなく、そのあとの縁の発展の大きなチャンスでもあるという2つの局面が背中合わせに存在する緊張状態なのです。言い訳をしたり、取り繕ったりをせずに、率直に謝罪する誠意・勇気をもつことが、縁をより成熟させる鍵となるでしょう。

 

 

(リライト:加藤・宮本)

 

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縁(その2)

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(東京都文京区伝通院付近にて撮影)

 

 

【挨拶】

先週から「縁」をテーマにブログ記事を連載しておりますが、今回は縁(人間関係)を築く入口となる「挨拶」についてお話ししたいと思います。

 

挨拶は、人間関係の基本です。中国古典『礼記』には、「挨拶はお酒を造る麹(こうじ)のようなもの」という記述があります。醸造に麹が不可欠であるように、挨拶は人間関係の構築に欠かすことのできないものです。

 

挨拶の漢字の由来をひも解いてみると、「挨」は「聞く」「押す」、「拶」には「押し返す」「引き出す」という意味があるそうです。つまり、「心を開いて、相手のよい部分を引き出す」ということが挨拶の本来の役目なのです。挨拶は、人間関係の入口であり、第一関門であると心得る必要があります。加えて、会社などの組織に属する人が、その組織外の人に対して挨拶をする場合は、自分が組織を代表しているという意識が大切です。

 

近ごろは、この挨拶が出来ない人が増えてきていると聞きます。しかし、挨拶が出来ない若手社員をみて上司が怒ってしまうのは間違いでしょう。挨拶とは、先にも述べた通り「心を開いて、相手のよい部分を引き出す」ものですから、「挨拶は先にすることをもってよしとする」ということに気づかなくてはなりません。上司が率先して挨拶をすれば、若手社員はそれを見習い、挨拶を積極的に行えるようになるのではないでしょうか。

 

また、朝一番に発する「おはようございます」は、特に基本となる挨拶であると思います。人と人とが、一日の始まりに会って最初に発する言葉だからです。この「おはようございます」がしっかりできるようになれば、「こんにちは」や「こんばんは」そして「ありがとう」という言葉も自然と発することができるようになるでしょう。

 

 

【「ありがとう」と感謝の心を表す】

人は皆、自分ひとりでは生きていけません。人が人を相互に支え、思い合うことで、人は生きていきます。

 

しかし、誰かに支えていただいたとき、何かよくしていただいたとき、「ありがとう」という感謝の心を適切に表現することはなかなか難しいことではないでしょうか。『礼記』には、「礼は節を踰(こ)えず」(礼儀は節度を越えてはいけない。丁重がよいといっても、度を超えた丁寧さは、むしろへつらいに近くなり、ときには失礼にさえなる。:諸橋轍次著『中国古典名言事典』〔講談社1973年〕より)という指摘もあります。ただ確かにいえるのは、感謝の心は、心で思っているだけではだめで、形や言葉や態度でしっかりと表さないと相手に伝わりにくいということです。ともすると、日常の雑事に紛れているうちに、感謝の心を伝えることをすっかり忘れてしまったりすることもあります。

 

しかし、よくお金の貸し借りでいわれる「借りた方はすぐ忘れるが、貸した方はよく覚えている」と同じように、何かをしてあげた側はいつまでもよく覚えているものですから、うっかり感謝の心を表すことを忘れてしまうことが度重なると「礼儀知らず」「恩知らず」という印象を相手に与えてしまうことがあります。そして、人間関係がぎくしゃくしてしまい、折角のご縁が、疎遠になってしまう原因となってしまいます。

 

そのような事態にならないように、私は、感謝すべきときには、忘れないうちに、丁重に感謝の心を表すよう意識しています。「ありがとう」は、漢字では「有り難う」と書きますが、これは、もともと「滅多にない」という意味です。人によくしていただくことを当たり前に感じていては、「有り難い」という感謝の気持ちが湧かないものです。感謝の心を真摯に、そして率直な言葉で表す人には、その謙虚さに人間的な深みと凄みを感じます。感謝の表明を繰り返し行い、それをよき習慣として定着させれば、おのずと自分も感謝される存在になり、縁、人脈は無限に広がっていくでしょう。

 

 

(リライト:加藤・宮本)

 

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縁(その1)

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2012年1月16日(月)朝7:03
東京都千代田区北の丸公園にてフユザクラ(バラ科)を撮影
花言葉:「優美・精神美」

 

 

 

 

2011年10月14日付記事から2012年1月13日付記事まで、計14回にわたって「病気」をテーマとしてブログ記事を連載してまいりましたが、いったん終了し、今回の記事から「縁」をテーマとして連載を開始いたします。

 

 

【人脈に恵まれるためには】

人はひとりでは生きていけません。

相互に思い合い、助け合える人の存在がなければ、人生は寂しいものになりますし、仕事のうえでも発展は望めません。人のつながりは家族が第一ですが、仕事や趣味の世界で築き上げる人間関係もとても大切です。一般に人脈と呼ばれるものです。

どのような人脈を持ち、どのような仲間がいるかで、その人の人柄や仕事での手腕・力量も、おおよそ見当がつくものです。

 

では、どうしたらよい人脈に恵まれるでしょうか。

これは簡単なことで、まず声をかけて、出会いのきっかけを作ることです。

なかには、せっかく出会って名刺交換もしたというのに、心を開いてもらえなかった、ということもあるでしょう。しかし、それも縁の内ですので、格別気にする必要はないと思います。つまり、相手の反応に過剰な期待を抱くことは禁物であるということです。

 

この広い宇宙で、直接対面して言葉を交わすことは、確率論的にいえば奇跡に近いことです。そのような奇跡的な出会いに恵まれたことを、まずは有り難く思いましょう。そして、相手の為に何か自分がお役に立てることがあるかを考え、打算抜きに、自分のできることを爽やかに実行することが大切です。そうすることで、相手は自分のことをよき仲間だと思ってくれるでしょう。

 

人脈作りの最低限のルールは、ギブ&テイクです。ときにはこちらが与え続けることもありますし、逆に受け取り続けることもあります。そうした状態になってしまっても、糸が切れない関係が本当の人脈でしょう。つまり、自分がよい人脈に恵まれ、また、相手にとってもよい人脈であるためには、ギブ&テイクを前提としながらも、こちらが与え続ける状況になっていてもそれを認める心の広さが必要であるということです。

 

 

【縁が円になる】

さて、私は、徳川将軍に二代(秀忠、家光)にわたって仕えた柳生家の家訓「小才は縁に出会って縁に気づかず、中才は縁に気づいて活かせず、大才は袖すりあう縁も活かす」という言葉が好きで、大切にしてまいりました。付き合いが濃密であれ、疎遠であれ、一度ご縁に恵まれた方とは、いつも変わらずに、丁寧にご縁を結んでおくことが大切だと思います。

 

縁や人脈を大切に生かしたいと思うならば、まずは手紙やハガキをまめに出す癖をつけることが必要です。「理由がないのになかなか書けない」という方が多いかと思いますが、手紙を出す機会を絶対に逃さないようにすればよいのです。私は、例えば、ちょっとした品をいただいた時、すぐにお礼状を出すようにします。そして、初めてお会いした方には、「先日はお目にかかれて幸いでした。○○に関するお話が大変参考になりました。また機会がございましたらお目にかかりたく存じます。」といった内容のお手紙を出しています。メールでもかまわないですが、できれば手書きがよいでしょう。IT時代においてはアナログな「手書き」の価値が逆に高まっているからです。

 

人の縁とは不思議なもので、1つの出会いが人生を大きく変えることが折々あります。そして、縁は、つないでこそ更に生きてくるし、意味があると思います。「折角知り合ったご縁を、自分の人脈のどなたにご紹介するのがよいだろうか」ということを常に念頭においていると、素敵な人脈が無限に広がっていきます。つまり、「縁が円になる」ということです。なんと素敵なことでしょう。

 

次回も「縁」についての記事を投稿したいと思います。

 

 

(リライト:加藤・宮本)

 

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本ブログ2011年12月20日付【歴訪記その9】でご紹介いたしました通り、私は、同年11月19日(土)から11月27日(日)まで、弊所の特別企画「21世紀の国 インド 社会・経済視察団」の団長として、インドへ赴きました。その視察団の解団式が、1月19日(木)18時30分から21時すぎまで、東京都千代田区二番町のインド料理店「アジャンタ」にて開催されました。私は、新年より体調を崩しておりますため、出席することが叶いませんでしたので、私の秘書の山崎郁子が代わりに出席いたしました。本ブログ記事にて、解団式の様子を簡単にご紹介します。

 

解団式には、視察団に参加された22名の内、下記12名の皆様にご出席いただきました。

 

信州レジャー興業株式会社 代表取締役 新井 泰憲様

株式会社ユービー 代表取締役 内舘 健彦様

シナノア株式会社 専務取締役 釜谷 俊朗様

JNC株式会社 取締役 最高顧問 後藤 舜吉様

マナック株式会社 取締役社長 杉之原 祥二様

デロイトトーマツコンサルティング株式会社 パートナー 土田 昭夫様

弊所顧問 知久 信義様

弊所客員弁護士 千種 秀夫様、千種 友子様

新潟トヨタ自動車株式会社 代表取締役会長 等々力 好泰様

中央精工株式会社 取締役 相談役 中村 光次様

株式会社ワールドプランニングオフィス 代表取締役 椎葉 卓光様

 

また、2011年9月27日付記事【交友録その12】でもご紹介しました日本画家 山田 真巳様、一般財団法人インド経済研究所理事 菅谷 弘様がゲストとしてご出席くださいました。解団式では、本ブログ【歴訪記その9】に少し手を加えたものに、参加者各人に作成していただいた原稿を加えた小冊子をお配りいたしました。インド料理をいただきながら、早朝から夜分に渡る相当な強行スケジュールだったインド視察での思い出を、ご出席くださいました皆様が、楽しく語らい、式は大盛況であったとのことです。この場を借りまして、ご出席くださいました皆様に、私の欠席の無礼をお詫びいたしますとともに、心より御礼申し上げます。

 

 

【解団式の様子】

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写真を拝見すると、インドに赴いた昨年11月のことがまるで昨日のように思い返されます。私は、現在、いろいろな病を治療中でございまして、いわば、真っ暗闇の中にいるようなものです。私が次にインドに赴くことができるのはいつになるか分かりませんが、また必ずお邪魔できるよう、真っ暗闇の中に、一筋の希望があることを祈りながら、諦めずに、頑張って治療に励んでまいります。

 

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高井伸夫先生とご一緒していて、驚嘆させられるのは、

常に思考と行動が同時並行で走っているところ。

 

大抵の場合、「思考」と「行動」の間にはタイムラグがあるものです。

(私を含め)平均的な人は考えてから、実行に移すまでに

相応の時間がかかります。

 

あるいはタイムラグがあるだけなら、まだ良いのですが、

「考えたけれども、いつまでたっても実行されない」ということも

往々にしてあるものです。

 

 

しかし高井先生は、思いついたことは一つ残らず、すぐ実行。

 

たくさんのスタッフの方々と即時、即座の連絡を取られることで

「思考」⇒「行動」の間に時間差がなく、

 

従って、頭に浮かんだすべての案件が細大漏らさず、

リアルタイムで実行に移されていく姿はまさに圧巻です。

 

 

一切の業務をひたすら前倒し、前倒し、前倒しで

処理されていくのですから、文字通り、

 

「1人で10人分の仕事をしている」

 

ことになるわけです。

 

その昔、「思考スピードの経営」という本がありましたが、

まさにその言葉を彷彿とさせるようなスピード感。

 

 

しかもそれを努力して行なっているのではなく、

完全に日常化され、習慣となり、無理している風もなく、

飄々、軽々、淡々と実行されているところにかえって凄みを感じます。

 

努力・頑張りの空気が身体から立ち昇ってきて、

あの人は努力しているなあ、頑張っているなあと周囲の人から

思われる程度ではまだまだ修行が足りない、ということなのでしょうか。

 

 

さらにこのスピード、密度で

盆・正月の休みもなく、

 

「50年近く続けてきた」

 

と言われたときにも驚愕しました。

 

「ただ見れば 何の苦もなき 水鳥の

足に閑(ひま)なき わが思ひかな」

 

の句を思い出したものです。

当たり前のことですが、横着していては、成果は出せないのですね。

 

 

何が高井先生をしてここまで駆り立てるのだろうと

不思議に感じることもありましたが、あるときから、

 

 

「ご縁の会った人に何かをして差し上げ

(それが情報であることもあれば、人の紹介であることも

あり、具体的なアイディアであることもあります)

 

それが成果につながり、その人が喜んでいる顔を

見るのが純粋に嬉しい。

 

さらに、よりたくさんの人に喜んでもらいたい。

それが大量行動として反映されるのだろう」

 

 

と思うようになりました。

 

私の憶測に過ぎませんが、当たらずとも遠からずと

思っております。

 

 

普通に生きているとなかなか間近に拝見することも叶わない、

超絶した生活に触れ、貴重な学びの場とさせて頂いていることに

ただただ感謝です。

 

また「学ぶことは真似ぶこと」と言われますが、

その姿勢や行動を模倣させて頂くことで、

自分自身が変わっていく実感を日々、味わっています。

 

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【交友録その16】 2012年1月(1)

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今回の交友録では、2004年11月より親しくお付き合いさせていただいている有限会社サンク・センス 代表取締役 松浦 尚子様をご紹介いたします。

 

サンク・センスHP http://cinq-sens.jp/

 

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(有限会社サンク・センス 代表取締役 松浦 尚子様)

 

松浦様とは、2004年11月に初めてお会いいたしました。その経緯は、松浦様が主宰されていた「ワインシンポジウム」(一流の経営者・ビジネスパーソンがゲストスピーカーとして講演をし、ワインとチーズをいただきながら、親睦を深める会で、26回程開催。)に、私が親しくさせていただいている株式会社かんき出版最高顧問 境 健一郎様を通じて、松浦様が私をお招きしてくださったことがきっかけです。爾来、親しくお付き合いさせていただいております。また、1月6日付「歴訪記その11山形」にてご紹介した、有限会社登起波牛肉店 代表取締役社長 尾﨑 仁様は、松浦様のご主人様で、ご夫婦そろって、いつも親身にお気づかいをいただいております。

 

かんき出版HP http://www.kankidirect.com/

登起波牛肉店HP http://www.yonezawabeef.co.jp/

 

さて、松浦様の経営されるサンク・センスでは、ワインセミナー、ワインCLUB運営、講演・執筆等を行われています。ワインセミナーは、単にワインそのものの知識だけを詰め込むのではなく、教養・マナーの観点から、ワインを多くの場面で、国境や文化の垣根を越えた円滑な人間関係の構築に役立てるためのセミナーです。ワインという全世界で愛される飲み物が、人と人を結ぶコミュニケーションツールであるということを広く日本で認識されるようになってほしいという大望を果たすべく、以前には駐日フランス大使館主催事でのプレゼンテーターや六本木ヒルズクラブでのワイン講師、経営者を中心としたビジネスマン向けのワイン講演も数多くこなし、多くの雑誌でコラム連載も手掛けられ、日々精力的にご活躍されています。

 

松浦様は、神戸大学教育学部をご卒業され、教育・出版会社である株式会社福武書店(1995年4月にベネッセコーポレーションに社名変更)に3年間勤められた後、単身、フランスに渡ることを決意されました。これは、世界の権威であるボルドー大学ワイン醸造学部が主宰する、日本人では数少ない『ワインテイスター専門家』資格を取得し、日本でワイン教育を広めるためでした。

 

クラスメートは、有名なシャトーの醸造長、広報担当者等、かなりプロフェッショナルな方々が集う場所だったそうです。ボルドー大学は、テイスティング技術も教えながら、歴史、哲学、思想などを学べる幅広いカリキュラムがあり、松浦様の「ワインを通じて、感性を磨き、表現力を養える場所を日本で作る」という願いを叶えるに相応しい大学でした。(サンク・センス〈cinq sens〉という社名は、フランス語で五感、を意味します。)しかし、醸造学部では、外国人枠(留学生枠)があるものの、勿論授業は全てフランス語で、年3回、2時間の論文形式の筆記試験もあったということで、大変苦労をされたそうです。元々、大学でフランス語を勉強していたわけでないので、ベネッセコーポレーションを退社後は日本でフランス語を勉強、渡仏後はまずは語学学校に通され、3年目にボルドー大学に入られたということです。しかし、3年目にしてもボルドー大学における多くの論文試験を見事クリアされるということは、並大抵の努力が必要だと思いますが、松浦様は「言葉を学びにきたよりも、先にもっと大きな目標があること。例えば料理、お菓子、ワイン、フランスの芸術等々、フランス語が目的ではなくて『言葉は夢を叶えるための道具である』と考える人は、上達も早い気がします」とおっしゃっていました。松浦様は、フランス滞在中に、難関フランス文部省認定のフランス語資格試験DALFも全て取得されたそうです。

 

渡仏を決意された際の、松浦様の「大きな目標」とは、先に述べた通り日本で「ワイン教育」を広めることでしたが、そのような目標をもってしても、大企業を辞めて単身渡仏するということは非常に勇気のある行動です。そのバイタリティ溢れるエネルギーについて、松浦様にお聞きした所、「タイガー・ウッズのエピソード」と「上杉鷹山の名言」を座右の銘にされているというお話をお聞かせいただきました。

 

プロゴルファーであるタイガー・ウッズは、「常にパットは強く打つ」ということをポリシーにしているそうです。これは、「強く打って届かなければ、ホールに入るわけがない」ということです。上杉鷹山の名言「なせば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」 は、有名な言葉ですが、「人が何かを為し遂げようという意思を持って行動すれば、何事も達成に向かうのである。ただ待っていて、何も行動を起こさなければ良い結果には結びつかない。結果が得られないのは、人が為し遂げる意思を持って行動しないからだ。」という意味です。

 

松浦様は、これらの言葉に触れて、「後悔する生き方は絶対にしたくない」ということがご自分の信念としてあることに気づき、単身渡仏という大きな一歩を踏み出したのです。タイガー・ウッズのエピソードは、その新聞記事をコピーしていつも手帳に入れていたそうです。幼いころから「教育」の道を進みたいとの想いがあった松浦様にとって、教育出版では最大手ともいえるベネッセコーポレーションで3年勤められたご経験は、大変貴重なものではありましたが、社内の異動などもあり、専門性を高めることは難しく、「自分にしかできない仕事をしたい、自分の代わりはいないというような仕事を極めてみたい」という想いがそれを後押ししたということです。

 

私は、「安定性」という美点ばかりを求め、「推進力」が欠けている日本人は多いと思っています。もともと、日本人は農耕民族ですので、安定性を好むがゆえに、推進力がないのは当然のことではあります。「安定性」と「推進力」は、本来的には並び立つものではありません。松浦様は、このことについて「頭でわかっていても、一歩を踏み出すことはなかなかできない。自分の今まで持っていたものを手放すのは怖いものです。でも、今まで持っていたものを手放さなければ、新しいものは得ることができない。『やろう!』と思わない限り、絶対に叶わないのです。」と分かり易く語られていました。松浦様は、「今はまさに、世界はアジア、欧米、そういった地理的括りのない密なものになっています。日本だけで物事を考えていては小さな考えになってしまいます。最初は、遊び気分、旅行気分でもいいから、まずは日本以外のところへ行ってみて、そこから海外に住んで学んでみたい、何かやりたい、という目標を見つければいいのでは」とおっしゃっていました。私は、今の青年諸君が、海外に赴かないという嘆かわしい状況を見るにつけ、日本人はまさにゾウの時間ではなく「ネズミの時間」になってしまったと思っています。海外雄飛という言葉が再度現代に躍ることはもう難しいかもしれません。しかし、これから、海外に日本の青年たちが積極的に赴き、世界に再びはばたき活躍してくれれば、黄昏社会となってしまった日本が、早晩立ち直ることができると思います。

 

さて、松浦様は、通算5年間フランスに滞在した後、2002年秋に帰国され、2003年4月に有限会社サンク・センスを設立し、代表取締役に就任されました。ワインセミナー、ワインCLUB運営、講演・執筆等数々の実績を積まれていますが、最近では、2008年9月に自宅で学べるDVDワイン講座「ビジネスワインマスター」をリリースされました。2010年4月には、白金高輪にワインショップ「サンク・センス ワインセレクターズショップ」を開業され、同時にWEBショップもスタートし、世界各国から300種におよぶワインを紹介されています。日本のワインの普及の手助けになれば、と、「○○フェア」と題して、地域ごとにお勧めワイナリーのワインを紹介されるフェアも実施される予定です。また、ご主人様のお店「登起波牛肉店」の米沢牛と、サンク・センスのワインとをコラボレーションしたギフトセットも大変好評を博しているそうです。

 

 

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「サンク・センス ワインセレクターズショップ」店内の様子

 

「ビジネスワインマスター」について http://cinq-sens.jp/bwm/

サンク・センス ワインセレクターズショップHP http://cinq-sens.jp/shop/

 

日本のワイナリーでお勧めをお聞きしたところ、「数多くあります」とのことで、その中でも特に、というものをピックアップしていただきました。

 

  1. 山形県上山市四ツ谷 タケダワイナリー  http://www.takeda-wine.co.jp/
  2. 栃木県足利市田島町 ココ・ファーム・ワイナリー(私もココ・ファーム・ワイナリーには昨年8月13日(土)に訪問いたしました。本ブログでも8月23日付記事にてご紹介しましたのであわせてご覧ください。)http://www.cocowine.com/winery/about.html
  3. 島根県雲南市木次町寺領 奥出雲ワイナリー http://www.okuizumo.com/

 

また、2011年4月には時間が不規則で決まった曜日に通えない方や、遠方の方の為に、「ホームワインスクール」という通信教育セミナーをスタートされました。DVDとCD、そして1ヵ月に2本ずつ、計12本の世界各国のワインが6ヶ月に亘って毎月1回届くそうです。通信教育は、開設して未だ間もないですが、北海道から九州まで、津々浦々の方からご注文を受けているそうです。

 

ホームワインスクールHP http://cinq-sens.jp/home_wine_school/

 

これからもどんどん充実されたいということで、例えば通信教育「ホームワインスクール」では、初級者向けのカリキュラムしかまだ準備がないとのことですが、次はシャンパーニュ、ボルドー、ブルゴーニュ、等、テーマ別のカリキュラムを作ってみたい、とおっしゃっていました。

 

松浦様ご夫婦はそれぞれに経営者でいらっしゃいますので、尾﨑様は山形県米沢市、松浦様は東京で、経営者として精力的に活動を続けられています。松浦様は、おふたりの0歳と4歳のお子様を保育園に預け、周りの皆さまの助けをいただきながら、仕事と子育てを両立されています。「大きな企業で、その会社の制度の中で働くよりも、かえって、自分が経営している分、色々融通が効いています。」とのことです。子育てと仕事の両立を不安に感じる女性も多いかと思いますが、松浦様は、好きなことを仕事にしていれば、おのずと家族との兼ね合いも上手くいくことが多いのではないか、とおっしゃっていました。社会では、「男性は仕事、女性は家庭」という価値観が未だに根強い気もしますが、女性がやりたいことをやり続けるということを実践し続ける松浦様のお姿に、共感し見習いたいと憧れる若い女性は多いのではないでしょうか。

 

これからの展望を快活にお話しされる松浦様のお姿を拝見していると、女性は仕事に打ち込むと『女性らしさ』を失うのではないか、と感じる方も多いかと思いますが、実はまったく逆で、精力的に活躍することでこそ、ますます美しくなれるのではないか、と感じます。2011年の流行語大賞に、日本サッカー界初のワールドカップ優勝という快挙を成し遂げた「なでしこジャパン」が選ばれましたが、今年2012年も、働く女性が大いに美しく活躍する1年になるのではないでしょうか。男性の皆さまにも、女性のエネルギーを見習っていただきたいものです。

 

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(2012年1月8日 朝7:39 東京都港区 仙台坂にて撮影)

 

 

 

前回、前々回に引き続き、新潟大学大学院医歯学総合研究科教授 安保 徹先生をご紹介いたします。

 

 

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安保 徹先生 公式HP http://toru-abo.com/

 

 

【自分の生き方を問い直すこと】

さて、私たちは正反対のはたらきをする2つの神経(自律神経)から成り立っています。活動している時や、ストレス、緊張している時に使用する「交感神経」、そしてもうひとつは休息している時、体の修復をしている時、リラックスしている時に使用する「副交感神経」です。体の中で副交感神経が優位にたつと筋肉が緩み、血管が広がり、心拍はゆっくりとなって、内臓は活発になります。これは筋肉の中の血管、リンパ腺、神経が、血管が広がることによって、栄養・酸素・体温が体のすみずみに運ばれていき、老廃物や疲労物質などの不要なものもスムーズに排出されるからだそうです。

 

反対にストレスが多いと、交感神経ばかりが働くことになってしまいますので、副交感神経による「体の修復・疲労の回復」が体の中で追いつかず「疲れがとれない」、「不眠」等の不調をかかえてしまうそうです。交感神経の緊張が続くと「低体温」、「低酸素」の世界が続き、がんが発症しやすい状態が作られることになります。このような時は体を温めることを心がけ、ゆったり食事をとるなどして、副交感神経を優位にし、活発化させることが必要になってきます。副交感神経が活発だと酸素も活発に取り入れられますので、それに伴ってミトコンドリアも活発になります。これは「副交感神経が活発化」=「免疫力が上がる」ということを意味します。「無理をしないでリラックスする」、「物事に対しては常に楽観的でいること」など、興奮やストレスのない状態が、副交感神経を活発化することになります。

 

がんについて安保先生は「自分自身の生き方の偏りが特定の部位のガン化として現れる」とおっしゃっています。たとえば悩みばかりの人は頭(脳)の中でそのことばかりを日々考えて過ごすことになりますので、副交感神経を使いたくてもリラックスできず、常に脳が緊張し交感神経が優位にたち、ストレスを抱えていることになります。結果、脳腫瘍にかかる率がどうしても高くなるということです。ですから、「自分の生き方を問い直すこと」、生き方の改善こそが、がんの最大の処方箋だということです。

 

また、常に笑っていることでがんが治った人もいるそうです。安保先生はご自身の本、「ガンは自分で治せる」(マキノ出版、2002)」の中で「笑いと治癒力」(岩波書店、2001)の著者であるノーマン・カズンズ氏の言葉を引用し、「笑うこと」がストレスを緩和し、免疫系のバランスを回復させ、人間の自然治癒力を活性化させるということについて述べていらっしゃいます。笑う事は免疫力(リンパ球)が活性化することと関係しており、実際に「笑い」を治療の一環としている病院もあるということです。これについては7月12日付ブログ記事「交友録その2」でご紹介した船瀬俊介先生も、ご著書「笑いの免疫学」(花伝社、2006)の中で述べられています。

 

苦しみの最中、笑うということは非常に難しいような気もします。しかし、漫画家の故・赤塚不二夫先生による「天才バカボン」のパパの名台詞「これでいいのだ」があります。「これでいいのだ」と笑って過ごすことは、すなわち病気や老いといった、自分の力ではどうにもならない宇宙の法則に全て身をゆだね、受け入れるということでしょう。

 

人は病気になり、老い衰え、そして最終的には死に至ります。こういった宇宙の法則は、無常であります。しかしこの悲しみを、悩みや怒りをもって受け止めてはいけないと思います。悲しみを受け入れ、肯定することで、安保先生のおっしゃる「自分の生き方」がおのずと意識できるのではないでしょうか。人は病気になり、老い衰え、そして最終的には死に至るということは、肉体的な健康を失うということであると思いますが、人間の「生きること」に対する「苦悩」、「苦痛」、「苛立ち」、「怒り」、そして「不安」のない状態は、霊的には健康であるということでしょう。

 

 

【統合医療について】

本ブログでは度々「統合医療」について述べておりますが、安保先生もまた、統合医療の目指す対症療法・原因療法を相互発展・連携させていく医療のありかたが必要であると述べられています。

 

代替医療の治療は、ガン、リウマチ、アレルギーなど、西洋医学の治療を長く続けると破たんをきたすような病気に効果を挙げていることが多いです。その理由として、安保先生は、これらの病気は『慢性化する』という共通点があり、慢性化しているということは、つまり、自律神経、免疫系、循環系、消化器系等、体全体のバランスが破たんしているということですから、バランスを整える働きを全身で考える代替医療が功を奏すのだと述べられています。

 

 

 

 

「ガンの患者さんたちを見ていると、ガン医療というのが過渡期に差しかかっているように思います。たいていの患者さんは、まず西洋医学にたよります。そして、西洋医学でできることをやりつくした後で、何かほかにないかと、代替医療をためしはじめるという人がとても多いのが実情です。…西洋医学の薬で体力を消耗しきっている人がとてもたくさんいます。…代替医療は、生体反応を利用してゆっくりと治癒に向かわせる医療なので、やはり、ある程度生体反応自体が正常に働く余力が残っていないと、なかなか治癒に向かいません。…もっとたくさんの人に、西洋医学以外の選択肢があるということを普段から意識してほしいと思います。」(『免疫革命』274-275頁、講談社、2003)

 

草木の緑がかがやき木の葉がそよぐ音、潮騒の響き、暖かな太陽の日差し、心の奥底を寂然と照らしだす月の光等々の自然、宇宙のエネルギーは、私たちになんともいえない安心感や心地よさを与え、体中に力が満ち溢れてくることがあります。私は、これこそが「自然治癒力」であると思います。本ブログの7

月23日付交友録にてご紹介したリンゴ農家の木村秋則先生は、肥料も農薬も使わないリンゴ栽培を成功された方です。何も与えないので、リンゴを1年間収穫すれば、その分の栄養が土壌から奪われるはずですが、「うちの畑の土は、周辺のリンゴ畑よりも栄養分が多いという調査結果が出ています。…足りないモノを補っていく力が、自然界には備わっている。」と述べられています(日経ビジネス2011年11月28日号、148頁)。人の自然治癒力も、このリンゴの力と同じであると思うのです。

 

東洋医学をはじめとする伝統医学や代替医療は、「自然治癒力」という、人が宇宙から与えられた力を、最大限に生かした治療法であり、人がもっとも自然に(すなわち宇宙と調和して)生きることのできる治療法であると思います。

 

 

【最後に】

今回まで計3回、安保徹先生をご紹介する記事を投稿して参りましたが、全ての原稿につきまして、安保先生と読み合わせをいたしました。そして、お話をうかがった最後に一言コメントをとお願いしましたところ、「様々な角度から、様々な方の話を取り上げられ立体的に記されているので、大きな反響があるのではないでしょうか。楽しみにしております。」との言葉をいただきました。あわせて付記しておきたいと思います。

 

また、先生は、来年2013年に、65歳で新潟大学をご退任される予定ですが、その後の展望として、研究所を新潟に作り、引き続き免疫学の研究に励みたい、とおっしゃっていました。安保先生の益々のご活躍を心から祈念しております。

 

 

【自分の生き方を問い直すこと】
さて、私たちは正反対のはたらきをする2つの神経(自律神経)から成り立っています。活動している時や、ストレス、緊張している時に使用する「交感神経」、そしてもうひとつは休息している時、体の修復をしている時、リラックスしている時に使用する「副交感神経」です。体の中で副交感神経が優位にたつと筋肉が緩み、血管が広がり、心拍はゆっくりとなって、内臓は活発になります。これは筋肉の中の血管、リンパ腺、神経が、血管が広がることによって、栄養・酸素・体温が体のすみずみに運ばれていき、老廃物や疲労物質などの不要なものもスムーズに排出されるからだそうです。
反対にストレスが多いと、交感神経ばかりが働くことになってしまいますので、副交感神経による「体の修復・疲労の回復」が体の中で追いつかず「疲れがとれない」、「不眠」等の不調をかかえてしまうそうです。交感神経の緊張が続くと「低体温」、「低酸素」の世界が続き、がんが発症しやすい状態が作られることになります。このような時は体を温めることを心がけ、ゆったり食事をとるなどして、副交感神経を優位にし、活発化させることが必要になってきます。副交感神経が活発だと酸素も活発に取り入れられますので、それに伴ってミトコンドリアも活発になります。これは「副交感神経が活発化」=「免疫力が上がる」ということを意味します。「無理をしないでリラックスする」、「物事に対しては常に楽観的でいること」など、興奮やストレスのない状態が、副交感神経を活発化することになります。
がんについて安保先生は「自分自身の生き方の偏りが特定の部位のガン化として現れる」とおっしゃっています。たとえば悩みばかりの人は頭(脳)の中でそのことばかりを日々考えて過ごすことになりますので、副交感神経を使いたくてもリラックスできず、常に脳が緊張し交感神経が優位にたち、ストレスを抱えていることになります。結果、脳腫瘍にかかる率がどうしても高くなるということです。ですから、「自分の生き方を問い直すこと」、生き方の改善こそが、がんの最大の処方箋だということです。
また、常に笑っていることでがんが治った人もいるそうです。安保先生はご自身の本、「ガンは自分で治せる」(マキノ出版、2002)」の中で「笑いと治癒力」(岩波書店、2001)の著者であるノーマン・カズンズ氏の言葉を引用し、「笑うこと」がストレスを緩和し、免疫系のバランスを回復させ、人間の自然治癒力を活性化させるということについて述べていらっしゃいます。笑う事は免疫力(リンパ球)が活性化することと関係しており、実際に「笑い」を治療の一環としている病院もあるということです。これについては7月12日付ブログ記事「交友録その2」でご紹介した船瀬俊介先生も、ご著書「笑いの免疫学」(花伝社、2006)の中で述べられています。
苦しみの最中、笑うということは非常に難しいような気もします。しかし、漫画家の故・赤塚不二夫先生による「天才バカボン」のパパの名台詞「これでいいのだ」があります。「これでいいのだ」と笑って過ごすことは、すなわち病気や老いといった、自分の力ではどうにもならない宇宙の法則に全て身をゆだね、受け入れるということでしょう。
人は病気になり、老い衰え、そして最終的には死に至ります。こういった宇宙の法則は、無常であります。しかしこの悲しみを、悩みや怒りをもって受け止めてはいけないと思います。悲しみを受け入れ、肯定することで、安保先生のおっしゃる「自分の生き方」がおのずと意識できるのではないでしょうか。人は病気になり、老い衰え、そして最終的には死に至るということは、肉体的な健康を失うということであると思いますが、人間の「生きること」に対する「苦悩」、「苦痛」、「苛立ち」、「怒り」、そして「不安」のない状態は、霊的には健康であるということでしょう。
【統合医療について】
本ブログでは度々「統合医療」について述べておりますが、安保先生もまた、統合医療の目指す対症療法・原因療法を相互発展・連携させていく医療のありかたが必要であると述べられています。
代替医療の治療は、ガン、リウマチ、アレルギーなど、西洋医学の治療を長く続けると破たんをきたすような病気に効果を挙げていることが多いです。その理由として、安保先生は、これらの病気は『慢性化する』という共通点があり、慢性化しているということは、つまり、自律神経、免疫系、循環系、消化器系等、体全体のバランスが破たんしているということですから、バランスを整える働きを全身で考える代替医療が功を奏すのだと述べられています。
「ガンの患者さんたちを見ていると、ガン医療というのが過渡期に差しかかっているように思います。たいていの患者さんは、まず西洋医学にたよります。そして、西洋医学でできることをやりつくした後で、何かほかにないかと、代替医療をためしはじめるという人がとても多いのが実情です。…西洋医学の薬で体力を消耗しきっている人がとてもたくさんいます。…代替医療は、生体反応を利用してゆっくりと治癒に向かわせる医療なので、やはり、ある程度生体反応自体が正常に働く余力が残っていないと、なかなか治癒に向かいません。…もっとたくさんの人に、西洋医学以外の選択肢があるということを普段から意識してほしいと思います。」(『免疫革命』274-275頁、講談社、2003)
草木の緑がかがやき木の葉がそよぐ音、潮騒の響き、暖かな太陽の日差し、心の奥底を寂然と照らしだす月の光等々の自然、宇宙のエネルギーは、私たちになんともいえない安心感や心地よさを与え、体中に力が満ち溢れてくることがあります。私は、これこそが「自然治癒力」であると思います。本ブログの7
月23日付交友録にてご紹介したリンゴ農家の木村秋則先生は、肥料も農薬も使わないリンゴ栽培を成功された方です。何も与えないので、リンゴを1年間収穫すれば、その分の栄養が土壌から奪われるはずですが、「うちの畑の土は、周辺のリンゴ畑よりも栄養分が多いという調査結果が出ています。…足りないモノを補っていく力が、自然界には備わっている。」と述べられています(日経ビジネス2011年11月28日号、148頁)。人の自然治癒力も、このリンゴの力と同じであると思うのです。
東洋医学をはじめとする伝統医学や代替医療は、「自然治癒力」という、人が宇宙から与えられた力を、最大限に生かした治療法であり、人がもっとも自然に(すなわち宇宙と調和して)生きることのできる治療法であると思います。
【最後に】
今回まで計3回、安保徹先生をご紹介する記事を投稿して参りましたが、全ての原稿につきまして、安保先生と読み合わせをいたしました。そして、お話をうかがった最後に一言コメントをとお願いしましたところ、「様々な角度から、様々な方の話を取り上げられ立体的に記されているので、大きな反響があるのではないでしょうか。楽しみにしております。」との言葉をいただきました。あわせて付記しておきたいと思います。
また、先生は、来年2013年に、65歳で新潟大学をご退任される予定ですが、その後の展望として、研究所を新潟に作り、引き続き免疫学の研究に励みたい、とおっしゃっていました。安保先生の益々のご活躍を心から祈念しております。

 

 

 

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【歴訪記】その11 山形

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新春のお喜びを申し上げます。
皆様おすこやかに新春をお迎えのことと存じます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 


 

 

 

さて、昨年12月17日(土)~18日(日)の日程で、山形県置賜盆地と山形市を訪ねました。1泊2日の短い旅でしたが、豊かな自然に恵まれた山形で(東北地方の南西部に位置する山形県は、県土の72%を森林が占めているそうです)癒しのひとときを満喫いたしました。今回の旅は、有限会社セカンドステージ代表取締役社長 鮒谷周史様に全旅程をご同行いただきました。

 

 

(1)12月17日(土)

東京駅を16時8分に出発し、新幹線つばさ145号に乗り18時20分、米沢駅に到着いたしました。米沢駅には有限会社登起波牛肉店代表取締役社長 尾﨑 仁様が車でお迎えくださいました。外に出ると雪景色で、米沢はすっかり冬という感じでした。私は2011年12月27日付ブログ「歴訪記その10」にも書きましたが、今回の山形訪問の前々日の15日には、高知を訪問しました。高知では、摂氏17度と小春日和でしたが、山形はまさに滴水成氷で、冬まっただ中でした。 

 

【登起波分店「登」で夕食】 

まず、尾﨑様の経営される「登起波分店「登」(のぼる)」にて、大変美味しい夕食をいただきました。「登起波分店「登」」は、「登起波牛肉店」の飲食部門の支店にあたります。「登起波牛肉店」の歴史は古く、明治27年10月、初代の尾﨑庄吉様が、米沢市あら町に開店したのが始まりだそうです。当時は、牛肉の販売期間は、寒くなる秋から冬の間に、集めて踏み固めた雪がなくなる6月頃までだったそうです。現在、米沢の牛肉店の中では、一番古くから営業している牛肉店であり、確かな品質と味にこだわり、「米沢に登起波あり」との評価を得ているとのことです。

 

さて、米沢牛は、上杉鷹山(1751年~1822年)が開校した藩校「興譲館」で、明治4年から8年までの間教鞭を執ったチャールス・ヘンリー・ダラスが、故郷を懐かしんで四つ足の動物は食べないとされた米沢の地で、牛肉を食べたのが、食用としての米沢牛の歴史のはじまりであるそうです。その味わいにいたく感動したダラス氏は、任期を終え、米沢をはなれる際に1頭の牛を横浜へ連れていきふるまったところ、その牛肉の旨さに一同が感嘆して、それが「米沢牛」が全国に広がるきっかけであったそうです。

 

尾﨑 仁様は、5代目にあたり、1995(平成7)年に東京農業大学畜産学科をご卒業された年の11月に、4代目尾崎 祐二様がお亡くなりになり、すぐに5代目店主となった方です。ハム・ソーセージについては、大学時代に東京吉祥寺の「ケーニッヒ」にて修行されたそうです。1998(平成10)年には、2階・3階の飲食部門を改装し、全テーブルに無煙炭火ロースター(網焼きのみ炭火)を導入され、新メニューに炭火網焼きが加わりました。また、2004(平成16)年9月には、【登起波分店「登」】をオープンされ、米沢牛をもっと気軽に味わえる店として、牛丼、牛鍋、すき焼き、しゃぶしゃぶ、ステーキ、炭火網焼きなど、本店よりもリーズナブルな価格で提供されています。尾﨑様は、長い歴史・伝統を守りながら、イノベーションを続けられ、情熱、責任感、判断力の備わった若き経営者でいらっしゃいます。

 

尾崎様とは、色々なお話をいたしましたが、特に東日本大震災の影響が話題に上りました。震災直後の米沢、山形は雇用、経済、すべてにおいて大変な状況だったということでしたが、その頃に比べると随分と元気になってきている感触があるというお話をして下さいました。

 

登起波牛肉店の扱う米沢牛は、12月の米沢牛銘柄推進協議会主催の第52回米沢牛枝肉共進会で牛1頭1千万円の売値が出たそうです。松阪牛が1頭につき3~4千万円といわれる中で、苦戦していた米沢牛に1千万円の値がついたことは、米沢牛のイメージアップを図るためには喜ばしいことだとおっしゃっていました(ただしこれは特定の牛についてのことで、全体としてはまだまだ安めだというお話でした)。いずれにしても東日本大震災後、被災地の経済が元に戻りかけているということは大変喜ばしいことです。

 

【登起波分店「登」】の料金について聞きましたところ、夕食(お酒代込み)で1人当たり6千円が限度だということでした。昼食ともなればもっと安くなるのはいうまでもありません。いずれにしろ、米沢ではそれくらいの料金が限界だということです。

 


 

 

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(2011年12月17日 19:53 登起波分店「登」での会食の様子

 

私は地方のレストランは勿論のことですが、東京のレストランもほとんどが赤字経営であると推測しています。この前まであったお店が、突然閉店したり経営者が変わったりすることがごく頻繁に起こることは、やむを得ないことなのかもしれません。尾崎様は、現在、米沢商工会議所青年部副会長として、ご活躍されていますが、お話は、米沢、山形、或いは東北全体の話までに及び、大変説得力がありました。

 

 

なお、尾﨑 仁様の奥様は、有限会社サンク・センス代表取締役社長 松浦 尚子様です。松浦様は、ボルドー大学ワイン醸造学部公認のワインテイスティング専門家資格を取得された方で、つまり、ご夫婦そろって「美食」に通じたプロフェッショナルなのです(松浦様については、当ブログでも『交友録』として近々ご紹介させていただきます)。

 

登起波牛肉店HP http://www.yonezawabeef.co.jp/

 

 

【湯滝の宿・西屋】

夜は米沢市大字関にある「湯滝の宿・西屋」に宿泊いたしました。西吾妻山系からの白布の湯は、開湯700年を誇り、湯滝風呂の湯船は、江戸中期頃、職人が1枚1枚御影石を削りだして作られたものだそうで、以来300年以上、変わらずに姿を今にとどめているのだそうです。また館内も、昔ながらの木造建築で、季節柄少し寒くはありましたが、趣のある素晴らしい宿でした。

 

湯滝の宿・西屋 http://www.nishiya-shirabu.jp/

 

 

 

 

 

(2)12月18日(日)

 

【我妻榮記念館】

宿で朝食をいただいた後、8時30分頃に旅館を出発し、尾崎様の車の運転により、9時頃、米沢市鉄砲屋町にある「我妻榮記念館」に到着し、50分ほど、見学いたしました。

IMGP0631.JPGのサムネール画像

(2011年12月18日 9:03 我妻榮記念館の前で撮影)

 

我妻榮先生は、民法学者としては明治以降の学者の中でナンバーワンの方であり、我妻先生の義兄である孫田秀春先生は、私の恩師であります(孫田先生については後述します)。「我妻榮記念館」は、我妻先生のご生家を補修整備したもので、木造2階建てで、土蔵を併設しているという米沢の標準的な民家になっていました。我妻榮記念館 管理人の小林 秀一様のご説明を伺いながらの見学をさせていただきました。また、館内には書籍も販売されていましたので、何点か購入させていただきました。

 

 

 

我妻記念館領収書.JPG

 

 

 

我妻先生の父・我妻又次郎様は、明治28年から大正11年までの27年間、旧制米沢中学校の英語教師として教鞭をふるわれた方です。我妻榮先生は、この米沢市鉄砲屋町で父・又次郎様、母・つる様の長男として1897年に生まれ、興譲小学校(母・つる様が長らく教鞭をふるわれた小学校です)、米沢中学校を卒業し、1914年9月(17歳)に第一高等学校(現在の東京大学教養学部及び、千葉大学医学部、同薬学部の前身となった旧制高等学校)に主席合格し、1917年に東京帝国大学法学部に入学されました。以後、弱冠25歳にして同大学助教授となり、不世出の天才民法学者として、功績を残しました。60歳で東京大学を退官した際には、最高裁判所の長官に議せられたそうですが、「守一、無二、無三」(一を守り、二無く、三無し)として、一切官職に付くことを辞退し、専ら民法学の研究に当たられたそうです(なお、この「守一、無二、無三」は、我妻先生の残された数少ない色紙の内の1枚として、ご生家に飾られていました)。1964年、67歳の時には山形県で3人目の受賞となる文化勲章に輝きました(1人目は伊東忠太様、2人目は斎藤茂吉様)。

 

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(2011年12月18日 9:26 我妻先生の2階の勉強部屋にて撮影)

 

さて、土蔵の中には我妻先生の著作が掲げられておりました。沢山の論述を執筆・発表されたということを改めて認識しました。我妻先生の勉強部屋は母屋の2階にありましたが、昔ながらのこじんまりとした部屋で、我妻先生がお使いになられた小さな机を前にし、来る日も来る日も机に向かい、全身全霊で勉強されていた我妻先生のお姿が目に浮かび、その輝かしい業績の陰に潜む努力研鑽の見事さに、私は感慨深い気持ちになりました。勉強部屋にあった記録簿に、私は「本日、即ち2011年12月18日にやっとお邪魔しました。有難うございました。さらに精進を重ねます。」と書かせていただきました。

 

 

私の我妻先生についての思い出は、まず、東京大学在学中に、我妻先生の講義を聞く立場ではなかったのですが、講義を何度か聴講させていただいたことです。次に、太平洋テレビを設立された清水 昭様(1924年~1988年。後に「アポロン」という最高級のクラブを経営されていました。)から我妻先生についてのお話を伺ったことが、大変印象に残っています。清水様は、北海道帝国大学(北海道大学)法学部出の大秀才です。我妻先生ご夫妻が三顧の礼を持って「東京大学の弟子に入らないか」と清水様に声を掛けられたそうです。清水様が真ん中、我妻先生ご夫妻が両脇にお立ちになって、北海道大学の校庭で写した写真も見せていただいたという思い出があります。きっと我妻先生は民法という学問を完成させるために、後継者の育成にも大いに関心をもたれていたということではなかったかと思います。

 

 

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(2011年12月18日 9:22 我妻榮記念館の一階応接間 我妻先生の数々のお写真)

 

我妻榮記念館の一階応接間には、我妻先生の写真が飾ってありました。我妻先生は折々米沢に寄り、ご生家に立ち寄られていました。亡くなる1ヵ月前の写真でしたが、それは、2階の勉強部屋の窓に腰掛けて、しみじみと外を見ておられる写真で、この写真から故郷をこよなく愛していらっしゃったことが伝わってきました。17歳の時に第一高等学校に入学されて以降、住まいはずっと東京であったそうですが、米沢は、遠きに在りて想うものですが、我妻先生には2階の勉強部屋が心のふるさとでもあったのでしょう。

 

 

 

【登起波牛肉店を訪問】

我妻榮記念館を出て、尾崎 仁様の登起波牛肉店を訪問いたしました。私も、東京より度々、お取り寄せさせていただいておりますが、初めてお店にお邪魔させていただきました。

 

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(2011年10月18日 9:58 登起波牛肉店で撮影)

 

 

【孫田秀春先生のご生家などを訪問】

米沢市から40~50分程かけ、10時50分頃には長井市の髙世重右エ門様のご自宅を訪問しました。髙世様は、私の恩師である故・孫田秀春先生と「大の仲良し」であった故・木村弥次郎様(西根村の元村長)の甥にあたる方で、私が孫田先生のご経歴を調べているうちに、ご縁がありこの度お邪魔させていただくことになったのです。

 

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(2011年12月18日 11:40 西根小学校 愛郷の碑の前で撮影
左から髙世重右エ門様、私、尾崎仁様)

 

髙世様のご自宅では、地元のお菓子などの心配りの品々をいただきながら、お話しを伺った後、孫田先生が母校の西根小学校に建てられたという愛郷の碑を見に行きました。「人を愛する心、それを拡充して広めていけば、郷里を愛する心。これを青少年諸君にとくと腹の中からしみじみ考えてもらいたい。」という心から、建てられた碑であるとのことです。

 

私は、弁護士登録をした1963(昭和38)年4月、孫田先生の「孫田・高梨法律事務所」に入所いたしました。孫田先生は1924年に「労働法」という名称での講義を日本で初めて、東京商科大学(一橋大学の前身)にて行った法学者です。今でこそ「労働法」という名称は日常に交わされていますが、それまでは「労働法」という言葉は存在していませんでした。労働法の草分けと言われ、日本における労働法を体系づけた人物です。

 

実は、孫田先生とのご縁を作ったのは、私の父であります。父は名古屋で弁護士をしていましたが、若い頃に、労働法を学びたいということでドイツ留学を希望、ご縁があって労働法の権威である孫田先生のもとに書生として置いていただいたという経緯があります。当初、父は名古屋で自分の後を継がせたかったようですが、私は父の影響下を離れて東京で弁護士の仕事をすることを希望しました。これを父に話すと「それなら小さくまとまるのではなく、孫田先生のもとで勉強すべき」といわれ、孫田先生のご指導を受けることになったのです。すなわち、父も私も2代にわたって孫田先生のご指導を受けたのです。

 

私が弁護士となった1960年代は、日本はまさに高度成長期で、組合活動がとても盛んな頃でした。孫田・高梨法律事務所のもとには次々と仕事の依頼が押し寄せ、大変忙しい状況で、私は、孫田先生のもとで弁護士人生をスタートしたことで多くの労働事件にかかわることになり、おのずと労働法を学ぶ機会に恵まれました。

 

孫田先生のもとでは様々なことを教えていただきましたが、特に孫田先生のご著書「労働法」の中で説かれていた「労働の人的価値」は、私が東京大学在籍中に受講し感銘を受けた来栖三郎先生(1912年~1998年)の、法律学を超えた人間観・人生観についてをも含んだ講義と通じるものがありました。「石にも目がある」「尽くすべきは尽くす」という孫田先生の言葉は、私の半世紀に亘る弁護士人生を通じて座右の銘となりました。私が人事・労務問題専門の弁護士として歩んでこられたのは、孫田先生のご指導のおかげであります。

 

  •  「石にも目がある」とは、硬い石でも弱い点、筋目を突けば割れる、という剣聖塚原ト伝が剣術の極意を悟ったエピソードですが、これは自分の手に余る大きな仕事もどこかに必ず「目」(弱点・筋目)があり、そこを狙い突破口を開けば良いという意味になります。弁護士が仕事で見極めるべき目も同様で、仕事の核心に迫るための姿勢として常に意識しています。
  •  「尽くすべきは尽くす」とは、あらゆる努力をして最善の問題解決を図る、という意味です。

 

さて、孫田先生が80歳になって愛郷の碑を建てられたということですが、それは大変立派な碑石で、孫田先生がいかにこよなく故郷を愛されていたのかということが強く伝わってまいりました。

 

 

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(2011年12月18日 11:46 歓喜院の子育観音堂)

 

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(2011年12月18日 11:49 孫田秀春先生の墓前で撮影)

 

 

その後、孫田先生のお墓があるお寺・歓喜院に赴きました。恩師のお墓に初めてお参りさせていただき、在りし日の先生を想い、心の中でお礼を申し上げました。また、孫田先生は、この歓喜院に、子育観音堂を設置されておられました。孫田先生は故郷への還元ということをいつも意識されていたのだと思いました。

 

 

 

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(2011年12月18日 12:05 孫田秀春先生のご生家前で撮影
左から尾崎様、私、髙世様、孫田瑩子様)

 

そして12時5分頃、孫田秀春先生のご生家を訪問しました。ご生家では、孫田先生の甥孫のご令室様にあたる孫田瑩子様に、お会いしました。孫田先生とゆかりの深い髙世様に孫田先生のお話をお伺いしているうちに、孫田・高梨事務所で寝食を忘れ、心血を注いで仕事に没頭した駆け出し時代を思い出し、お世話になった頃に想いをめぐらせました。

 

その後、昼食のため山形市に向かいました。

 

 

 

【和食「うけ月」にて昼食】

置賜地方は雪で埋まっておりましたが、山形地方は雪がなかったのには驚きました。当初は12時30分から「うけ月」ではじまる昼食会の予定でしたが、到着が30分遅れ、13時からの食事会になりました。

 

うけ月での会食会にご出席いただいた方々は、日米商事株式会社代表取締役会長 鈴木 恒吉様ご夫妻、山形トヨタ自動車株式会社取締役社長 鈴木 吉徳様、以前弊所にて勤務していただいていた、弁護士法人あかつき 佐藤欣哉法律事務所 田中 暁弁護士、尾崎様、鮒谷様でした。

 

13時から14時30分までの食事会の間は山形地方のお話を伺いました。山形地方では、食料品等の企業、工場はあるけれども、機械等の生産工場は下請け企業が大部分で名のある企業、工場がないということです。山形トヨタ自動車株式会社は、鈴木 恒吉様から吉徳様へ引き継がれたのですが、最盛期の売り上げの2分の1(80億円)にまで下がってしまっているそうです。車を10年を超して使用する人が増え(買換えが非常に遅い)、新車の売り込みは成果を収めていないということで、サービスや修理に注力する方針にされているそうです。また、新車を販売するときには購入後のアフターサービスも込みのパックで販売する方針をとり、顧客の囲い込みを実践されているそうです。

 

また、以前に増して雇用の問題が大きな問題になっていますが、被災地からの移住者で空き家がほとんどなくなってしまったというお話もありました。しかし雇用がなければ住民はいくらか増えたとしても、財政はいつまでたっても豊かにならないという意見、その他活発な意見交換がなされました。

 

うけ月 HP http://www.shogetsu.net/

 

 

 

【鈴木 恒吉様ご夫妻のご自宅】

14時40分頃から、「うけ月」近くの鈴木 恒吉様ご夫妻のご自宅にお邪魔いたしました。

 

鈴木様と私が初めてお会いしたのは1976年6月で、当時、鈴木様は山形交通株式会社代表取締役社長でした。しかし、会長であった服部 敬雄様との確執があり、1979年11月に代表取締役社長を解任・退任されました。なお、服部様は、民権運動家で山形日報発行人、服部敬吉様の長男で、山形新聞、山形放送、山形テレビ、そして山形交通などのグループ企業の社長・会長を歴任し、強大な権力を持ち、山形県政に多大な影響を及ぼした人物で、その影響力の強さから、地元では「服部天皇」と呼ばれた人物です。鈴木 恒吉様の退任の御挨拶状は、私が起草しました。

 

「私がこの解任を甘受致しましたのは何よりも山形交通を愛するが故であります。私が自らの信念を変えてまでして地位に恋々とするならば、今後山形交通の真の自主自立経営、すなわち黒字経営の確保と他の何人からも侵されない独立経営の伝統の灯すら消しかねないと判断したからであります。」(退任の御挨拶状から抜粋)

 

今回お会いして、鈴木様が、「解任・退任されてよかった。バス事業が、現在は破綻に瀕している中で、今、こうして命をいただいていることは、あの時辞任したからであろう」とおっしゃっていたのが大変印象的でした。何しろ辞め時の有り様が肝腎と痛感されたようです。何が幸いするかわからない、ということでしょう。

 

さて、鈴木様の旧屋敷にはじめてお邪魔したのは、15年程前のことでしたが、今回は残念なことに旧屋敷はすでにとりはらわれてしまっており、家業のガソリンスタンドにしたとのことでした。以前の旧屋敷にあった樹木、数多くの灯籠や石のことが私は気になり、鈴木様ご夫妻に申しあげましたところ、樹木については3分の1を移植し、灯籠については崩れかけていたので、残っている灯籠のみ新しい住居に移したということでした。

 

 

鈴木様ご夫妻の新しい住居は、野村證券の社員寮を譲りうけ、これをリフォームして作られたそうです。山形大学が裏手にあるまさに新しい住宅地でしたが、千歳山を借景にした立地といい、住宅地としては好立地で、新しい住居に移られてすでに8年になられるということですが、終の棲家として生活をされていました。

 

鈴木様ご夫妻はいつものとおり仲睦まじく、本当にお幸せそうでいらっしゃいましたが、恒吉様は目の視野が欠ける「黄斑円孔」というご病気を患われたそうですが、手術の結果ほとんど快癒されたということです。また、奥様もサルコイドーシス症が起因の「ぶどう膜炎」に悩んでおられるということでした。人間は誰しも老いれば病気になるのはやむを得ません。自分自身の現在のありさまを見て、老いを迎える支度を若い時からすべきであるとも思いました。

 

実は、この後松尾芭蕉ゆかりの地「山寺」や他の名所へ参る予定でございましたが、私の風邪でお邪魔できず、鈴木様のご自宅を辞去して、そのまま15時57分発のつばさ148号で帰京いたしました。色々な名所を訪問することはできませんでしたが、私の弁護士人生を振り返ることのできた、1泊2日の大変充実した旅でした。次回訪れる際には、暖かい春以降、ゆっくりと山形の自然を満喫したいと思います。

 

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(2011年12月24日(土)朝6:54 
東京都新宿区早稲田 鶴巻南公園にて撮影)

 

 

さて、前回12月23日付記事では新潟大学大学院医歯学総合研究科教授 安保徹先生が提唱する病気の2つの原因、「低酸素」と「低体温」についてお話しいたしましたが、引き続き、安保先生についてご紹介いたします。

 

【「身体を温める」ことが病を遠ざける】

家族や友人が風邪をひいたときに「温かくして寝てね」と声をかけたり、けがをした人や病気で苦しむ人を「温かく見守る」といった、看護の世界で「温かい」という言葉を頻繁に使うのは、先人からの教えでもあります。これは、20億年前から私たちのエネルギー産生を手伝ってくれているミトコンドリアが、身体を「温めること」で活性化し、人の癒し・健康になることを、体内から私たちに情報として知らせてくれているのではないでしょうか。

 

また、2011年11月17日付読売新聞(夕刊)では、北海道で同月15日夕方、81歳の男性が、運転を誤って河川敷に転落してしまい、同乗していた孫の女の子(3歳)とその男性は車の中で一夜を過ごしましたが、翌日無事に助けられたと報じられていました。零下3度以下という厳しい冷え込みであったにもかかわらず、2人は足に凍傷を負っただけですんだそうですが、大変驚くべきことです。2人は、愛犬であるラブラドールレトリバーの「ジュニア」をしっかり抱き、ジュニアの体温で身体を温め、寒さをしのいだということです。まさに「愛犬の温かい体温」が2人を救ったということです。このニュースを聞いた時には、私の心の中までもがホッと温まりました。

 

「身体を温める」ことに関しては丹羽クリニック院長 丹羽正幸先生が丹羽式統合医療の一つの柱である「温熱免疫ルーム」でも実践されている治療法です(詳しくは11月4日(金)のブログ記事「丹羽式統合医療 その他の施設について」をご覧ください)。

 

人間の体温は36度といわれています。36度を超せば高い体温になりますし、36度を割れば低体温になります。人間の体温が36度と決まったのは、太陽が1分間に呼吸する回数を表す18(それに合わせて人間の呼吸も1分間に18回)の、その倍の36という数字が体温の基礎数値になっているからであるといわれています。

 

ところで、私が親しくさせていただいており、2008年の弊所主催の年末講演会にて、「薬のいらない健康法」というテーマでご講演いただきましたイシハラクリニック院長 石原結實先生は、「身体を温める」ことについて深く研究されている先生です。ご著書には、『「体を温める」と病気は必ず治る』(三笠書房、2003)などがあり、他にも健康に関する数多くの書籍を出版されています。年末講演会で石原先生は、50年前は、大人の平均体温は36.8度、子どもは37度ありましたが、今の日本人の体温は高い人で36.2度位、多くの人が35度台にまで下がっている、とお話しされました。石原先生によると、身体の体温が1度下がると、免疫力が30数パーセント落ち、身体はマイナスのダメージを受け、病気になる頻度が高くなるのだそうです。35.5度という状態が恒常的に続くと「排泄機能低下」や「自律神経失調症状」、「アレルギー症状」が出現し、さらに35.0度まで下がると、身体の中で、がん細胞が最も繁殖する温度となってしまうそうです。このようなことからわかるように、人間の身体は「一種の熱機関」として働いているわけですから、体温は人間の健康や生命にとって極めて重要であり、強い寒さに襲われると、体温が低下して死に至ることもあるということです。どんな屈強な若者でさえ、冬山で遭難すると体温が低下して死に至ることがあるのはそのためです。たった0.5度の違いでも身体に与えるダメージは大きく、「体を温めること」は、病気を遠ざけるために極めて重要なポイントであるということです。石原先生は食べ物、飲み物を上手に摂り、体を温める生活習慣を身につけることが大切だとお話しされました。

 

さて、体内に取り込まれた糖、アミノ酸、遊離脂肪酸などのエネルギー基質は、各細胞の中のミトコンドリアがそれらを酸化させて、エネルギー源とするのだそうです。ミトコンドリアを活性化させるには、身体をミトコンドリアが活動する37度~39度の環境へと温める必要があります。ミトコンドリア系が優位になれば、「解糖系」ががん細胞を分裂・繁殖させてしまうことも抑えられるのだそうです。安保先生によれば、「お風呂に入ってホッカイロを貼って湯たんぽを使って24時間身体を温めれば、1カ月のうちにがんの進行は止まるでしょう。」とのことです。また、がんの化学療法である「抗がん剤」を使うと低体温になり、顔色が悪くなります。これではがん細胞がますます分裂・増殖してしまうことにつながるそうで、安保先生は「抗がん剤なんて、『増がん剤』です」ともおっしゃっていました。

 

低酸素・低体温を治療する方法として何があるか、安保先生にお伺いしたところ、下記の通りお教えいただきました。

 

(1)低酸素を治療する方法

時々深呼吸をする(対症療法)

生き方の無理をやめる(根本療法)

(2)低体温を治療する方法

からだを温める(対症療法)

ストレスを除く、体操する、日光浴(根本療法)

 

上記のうち、対症療法は、日頃から簡単に実践できるものですので、ブログ読者の皆さまも、日常生活に取り入れてはいかがでしょうか。(なお、「生き方の無理をやめる」ことについては、次回のブログ記事にて詳細を述べたいと思います。)

 

 

【生命の世界の本質】

さてこのように、安保先生は、私たちの身体は60兆個の細胞で構成されており、その中に性質の異なる2つのエネルギー工場を持っているというのです。そして、それは絶妙なバランスで成り立っているそうです。このバランスが崩れることで病気になるのです。何も解糖系を全く使わない(まったくストレスを感じない)ことが良いわけではなく、解糖系、ミトコンドリア系両方のエネルギーのバランスが大事なのです。安保先生は、「ストレスのない生活がいいわけでなく、楽することばかり求めても生きたことにならない。(身体の)機能を使いこなすことが重要。いわゆる『中庸の世界の本質』である。」とおっしゃっています。まことに名言であると思います。

 

私がお世話になっている三井温熱株式会社東京施術所所長 岩間功先生は、「三井温熱療法」で、瞬間的に訪れる強烈な熱さ、時間をかけて徐々に感じる心地よい熱さ、温かさや気持ちよさを感じる絶妙な熱などを利用して、自律神経のリハビリテーションを行っていくという治療法を実践していらっしゃいます。瞬間的に感じる熱さは受け手にある種の恐怖感を与えて交感神経の強い緊張を促し、心地よい温熱の流しや徐々に感じる熱さは安心感を与え副交感神経を促すことになるそうです。このような療法で緊張とリラックスを繰り返すことにより、自律神経に刺激を加えてバランスをとっていくそうです。この治療法こそ、『中庸』の実践であるということではないでしょうか。

 

三井温熱株式会社HP  http://www.mitsui-onnetsu.co.jp/   

 

なお、「三井温熱療法」によると、熱を与えた皮膚が「熱い」と感じたところ(温熱反応)を分析して、治療を施します。「温熱反応」は、「関連痛」すなわち内臓の不調が脊髄にて感覚神経に反映され、皮膚の痛みとして現れることと似ています。「関連痛」は、一種の錯覚であり、内臓の不調が脊髄内で皮膚の痛みとして伝達され、どの位置に痛みが出るかによって、どの内臓に不調がでているかが分かるものであるそうです。「関連痛」はある程度症状が進行してからでないと自覚症状が出ませんので、「三井温熱療法」では熱刺激を加えて、治療点を判断し、その箇所に熱を与えることで、次第に血流をよくするという方法をとっています。将来的には、まだ病気になっていない人、痛みが出ていない人たちが、予防医学という観点からこの治療法を捉えてほしいと、岩間先生は述べられていました。

 

さて、話を戻しますと、酸素を使わないエネルギー産生方法である「解糖系」は、瞬発力のエネルギーですので、アクセル全開で危機に立ち向かうことができるそうです。その時、血管の末端は無酸素状態となり、赤血球同士がくっついてドロドロになります。このことについて安保先生は、「血液ドロドロもすばらしい。血液ドロドロは、『戦いの世界』に対する身体の対応に他ならないからです。」とおっしゃっています。大事なことは、アクセル全開で働いた後に血液サラサラ(ミトコンドリア系)へとしっかり切り替えることだということです。

 

私は1973年(昭和48年)1月に開業して以来、年末年始も含め、年中無休で一心不乱に仕事をしてまいりました。時には親しい知人と食事をご一緒したり、旅行等にも赴いてきましたが、その間でも常に仕事・執務を忘れたことがありませんでした。特に、私の専門とする労働問題という世界は、「戦いの世界」でもありました。切り替えが大事であるということを、常々認識はしておりましたが、それを疎かにしてきたのです。やはり人間にはバランスが必要であるということを、安保先生の病気の原因論に触れ、深く考えさせられました。

 

安保先生はこの絶妙なバランスについて、「そうした生命の世界の本質に触れることができれば誰もが感動し、生きることのすばらしさを体感するはずです。これまでの医学には、そうした視点がありませんでした。目の前の症状ばかりに着目し、肝心の生命の世界が置き去りにされていたのです。」とおっしゃっています。

 

人間の力には限界があります。なぜ人間の力に限界があるのかといえば、安保先生のおっしゃる通り、人間には2つのエネルギー工場がありますが、「解糖系」という瞬発力のエネルギーによってアクセル全開で活動することを続けることはできないからです。それに人間は、「調和」を欠いては健康ではいられないからであると思います。また、人間は宇宙の小さな構成物に過ぎず、気が遠くなるほど長い宇宙の歴史、それが積み上げてきた法則にさからって生きてはいけないのであると思います。宇宙が伸縮しながら膨張し続け、そして最後には消滅するというプロセスがあるといわれますが、伸縮すること、即ち調和が絶えず必要なのでしょう。

 

安保先生は、ご著書『免疫革命』(講談社、2003)の中で、「何もかもが、人間の力で対応したり、適応したりできるわけではありません。そのことを、現代人は忘れているような気がします。やはり、自然の力というのは偉大です。…深い悩みから体調をくずしてしまった場合、悩みさえとれれば交感神経緊張状態から脱却できて、病からも解放されるとわかっていても、現実には悩みにとらわれてしまってうまくいきません。日常的なレベルの心のあり方では、どうしても解決できないことがあるのです。そんなときは、人間本来のもっと深い祈りにたどりついたり、あるいは伝統的文化に立ち返ることで、楽になることがあるのではないでしょうか。…そういう儀式を経ることで、悲しみから脱却したり、あるいは未来の安泰を願う心構えをつくったりしているのだと思います。たとえ科学で証明できることでなくても脱却しがたい心の苦しみから真に逃れることが目的だとしたら、そのためにできることは、積極的にとりくんでいい」と述べられています。

 

私は、人間の力がおよばないところに別の力、宇宙にある力が働いていると思います。人間の身体、とりわけ病気を引き起こすさまざまな要因のなかに大きく影響を及ぼしているのは、この「宇宙の力」であると思います。人間を取り巻く宇宙の調和を乱すから「病気」になります。であるからこそ、病気になると、「神にすがる」(宇宙の力にすがる)という心境が生まれるのでしょう。2011年8月2日付日本経済新聞朝刊36面「夜の祈り」という神戸大学准教授 宮下規久朗先生によるコラム(7月20日から8月2日まで同紙文化面にて連載)では、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年~1890年)の『星月夜』について、宮下先生は「病への恐怖や孤独の中から神を求める感情が激しく渦巻いているようだ。」と表現しています。病気になったとき、人間は宇宙の「気」、「波動」、「サトルエネルギー(微弱エネルギー)」に頼らざるをえないのが人間の本来的な姿なのだと思います。

 

次回も引き続き安保先生の記事を投稿し、まとめとしたいと思います。

 

なお、この記事をもって、本ブログ2011年最後の記事とさせていただきます。

来年もブログ記事を投稿してまいりますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

ブログ読者の皆様におかれましては、健やかなる新年をお迎えになられますよう、心よりお祈り申し上げます。

 

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【歴訪記】その10 高知

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20111215 講演の様子.JPG12月15日(木)10時40分に羽田を発ち、12時10分に高知龍馬空港へ到着しました。高知に赴いたのは、今年9月23日(金)~25日(日)の旅行以来、3カ月弱ぶりでした。前回は観光で訪れましたが(詳しくは、10月4日付歴訪記その5をご覧ください)、今回は、18時から19時30分に、高知新阪急ホテル3階「蘭の間」にて、私の「リーダーシップセミナー」を開催するために訪れました。このリーダーシップセミナーは、トライアル版の第7回目にあたります(高知での開催は第1回目です)。今回のセミナーは、株式会社一秀 代表取締役 横畠秀一様と有限会社コマ・コーポレーション 代表取締役 成采準様が、開催に向けてご尽力くださいました。この場を借りてお礼申し上げます。私は風邪をひいていたため、声がとおりにくくて大変申し訳なかったのですが、48名のご出席者の皆様が大変熱心にご聴講くださいました。貴重なご意見もアンケートにて承り、今後のリーダーシップセミナーの改善のための資料とさせていただきたく存じております。ありがとうございました。(写真は講演の様子)

 

 

 

 

【岩崎弥太郎先生のご生家】

さて、リーダーシップセミナーの開催前、午後12時40分に、高知県安芸市井ノ口にある岩崎弥太郎先生(1834年~1885年)のご生家にお邪魔しました。ご生家は、寛政7(1795)年に、岩崎家の第6代弥次右衛門の代に建てられた由緒ある建物でした。とても立派な家で、現在でもそ

のまま使えるがごとき状態で残っていました。ただし、昔の人は背丈が150㎝~160㎝ぐらいしかなかったので、出入り口等が非常に低い造りになっていました。かつて三菱では、各グループ会社の役員に就任した際には、創業者のご生家にお参りする、という恒例があったそうですが、今はその風習は残っているでしょうか。

 

 

ご生家には、立派な碑がたっており、その碑文は、漢字の研究者で、大著『大漢和辞典』や『広漢和辞典』(ともに大修館書店刊)の編者として著名な諸橋轍次先生(1883年~1982年)によるものでした。諸橋轍次先生は、1919(大正8)年から2年間中国に留学し、各地で碩学に学んだそうですが、そのころから、三菱第4代社長、岩崎小彌太(1879年~1945年。岩崎弥太郎先生の弟、岩崎彌之助様<1851年~1908年>の長男)の援助を受けていたということです。最近三菱商事の社長(1986年~1992年)・会長(1992年~1998年)を歴任された、現財団法人静嘉堂文庫理事長 諸橋晋六様は、轍次先生の三男にあたります。(静嘉堂文庫は、東京都世田谷区岡本にある、岩崎彌之助様と岩崎小彌太様の父子二代によって設立された美術館です。国宝7点、重要文化財83点を含む、およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6、500点の東洋古美術品を収蔵しています。)

 

岩崎弥太郎様ご生家(1).JPG

(ご生家前で撮影 右が成采準様、左が私

左手に諸橋轍次先生筆「岩崎弥太郎誕生之地」記念碑)

 

岩崎弥太郎様ご生家(2).JPG

(記念碑の説明文<クリックすると拡大します>)

 

さて、岩崎弥太郎先生は“東洋の海上王”と呼ばれ、日本の資本主義を大胆に導いた革命家の一人として評価すべき存在でした。ご生家前にあった「まる彌カフェ」にて弥太郎先生に関する書籍が多数販売されていましたので、いくつか購入しました。今回のブログを書くにあたっては、「龍馬と弥太郎 長崎風雲録」(編・発行 長崎新聞社、2010)を大いに参考にさせていただきました。

 

弥太郎先生は、1835(天保5)年に、最下級の武士でありながら農民であるという、地下浪人(じげろうにん)という身分の家の長男として現在の高知県安芸市に生まれました。21歳の時に学問で身を立てるべく、江戸へ出て、安積艮斎(1791年~1861年)の私塾「見山楼」に入りました。しかし、1855年、父・弥次郎が、酒席での喧嘩により投獄されたことを知り、江戸から高知へ帰郷し、弥次郎の冤罪を訴えたそうですが、弥太郎先生も投獄されてしまいました。この時、獄中で、同房の商人から算術や商法を学び、これが後に弥太郎先生が幕末から明治初めの動乱期に土佐藩の商業活動を担ってのしあがり、その後三菱を創業し政商を奮い海上王と呼ばれる人生を送る機縁となったそうです。

 

弥太郎先生は、出獄後は、出身の村を追放されてしまいますが、吉田東洋(1816年~1862年)が開いていた「少林塾」に入塾して、後藤象二郎らと知り合いました。その後、土佐勤王党の監視や脱藩者の探索などに従事し、1867年には後藤象二郎に土佐藩の商務組織「土佐商会」の、長崎土佐商会責任者主任に抜擢され、藩の貿易に従事するようになりました。弥太郎先生と坂本龍馬は不仲であったという話があるそうですが、龍馬が長崎を離れ上洛する際には弥太郎先生が龍馬に餞別の乗馬はかまを送り、長崎港で涙を流して見送ったそうです。道筋に沿って先頭を切って走る行動力・先見力、豪胆な人となり等の共通点が多く、二人は意気投合していたそうです。

 

さて、幕末の動乱期を経て、廃藩置県後の1873(明治6)年に後藤象二郎より、船2隻を入手し(これは、土佐藩の負債を肩代わりする条件が付けられていたそうです)、海運業をはじめ、現在の大阪市西区堀江にあった土佐藩蔵屋敷に「三菱商会」を設立しました。三菱のマークは、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を併せて作ったものであるそうです。なお、この三菱のマークは、ご生家の屋根にも掲げられていました。

 
岩崎弥太郎様ご生家(三菱のマーク).JPG

 

弥太郎先生が巨利を得るきっかけとなったのは、今でいうインサイダー取引によるものであったそうです。新政府の高官となっていた後藤象二郎が、各藩が発行していた藩札を、新政府が買い上げる紙幣貨幣全国統一化の情報を事前に弥太郎先生に流して、これを受けて弥太郎先生は藩札を大量に買い占めて新政府に買い取らせ、莫大な利益を得たのだそうです。弥太郎先生は最初から「政商」として活動していたということを表すエピソードです。また、私の5月18日付ブログで述べた澁澤栄一は、「企業活動は単なる金儲けではあってはならない」として、道徳と経済の合一を説いた人物で、会社は共同出資で設立し、利益は出資者に還元すべきという「合本主義」を思想としていましたが、弥太郎先生は「才能のある社長による独裁経営が企業の発展に繋がる」という思想を持っていました。二人は一度、経営思想に関し激論を交わしたことがあるそうで、澁澤の回顧談によると、その激論からついに仲直りをすることはなかったそうです(のちに、澁澤の米寿の祝いは弥太郎先生の長男・久弥が発起人となったそうですが…)。

 

また、弥太郎先生は、企業経営にあたって実力主義、合理性を貫き、実力のある人材は抜擢し、幹部から一般社員まで、信賞必罰を重んじ(日本で初めてボーナスを出した人物でもあります)、「企業は人なり」の精神を貫きました。また、「士魂商才」という精神も貫きました。「士魂商才」とは「武士の精神と商人の才を兼備する」という意味です。強欲であこぎなイメージのある弥太郎先生ですが、ずば抜けたリーダーシップを兼ね備えた人物であったことは確かです。

 

私は、リーダーシップセミナーにて、リーダーシップとは、まずは、自ら示した方向性、道筋に沿って先頭を切って走ることであり、先頭をきって走るからこそ、勇気ある行動として評価される、と述べております。ご生家の表座敷に面した庭には、いくつかの庭石が置いてあり、それは日本列島の形をしていました。これは、「日本をひとにらみする」と、幼き頃の弥太郎先生が築いたものだそうです。また、米相場で大失敗をした際に、「これで投機の危険を知ったなら、安いもの」と笑ったというエピソードがあるそうです。大胆不敵な弥太郎先生の人となり、その開拓者精神(もともとは、特に米国の西部辺境における開拓者たちの精神をさしていた。転じて、一般的剛健・忍耐・創意、また闘争性・現実性・利己性などを特色とする)は、「打たれ弱い」等の傾向にあるといわれている最近の青年諸君に、見習っていただきたいところも大いにあるものだと思います。

 

 

【アンパンマンランド】

さて、今回の高知でのリーダーシップセミナーでは、「高知県がいつまでも坂本龍馬に頼ってはいけない。」といったことを述べましたが、これについては受講者からアンケートにて「共感した」というコメントをいただきました。

 

確かに坂本龍馬は高知県の誇る歴史的人物であり、日本人のなかには龍馬ファンが多いのですが、広く海外からの観光客を呼び込むテーマではたり得ないと思います。高知県は、沖縄や九州と同様に、アジアに近いというメリットがありますから、このメリットを最大限生かすべきです。

 

私は、高知県の皆さまが自覚されていない「盛上げ上手、喜ばせ上手、歓待上手」な県民性を活かして、心底楽しい思いを持って帰ってもらい、リピートにつながるホスピタリティー産業を展開することが必要であると思います。「観光」の語源は『易経』の「国の光を観る。用て王に賓たるに利し」との一節によるもので、「観光」とは国の「光」を観ることですから、それぞれの地域の「光」るところをさらに磨き上げることが必要です。このことをお話ししたところ、ひとつの提案として、成様より「アンパンマンランド」建設という企画のお話をお聞きしました。

 

アンパンマンは、ご存じの通り、国民的キャラクターで、アンパンマンの作者のやなせたかし様は、高知県香美郡在所村(現・香美市)のご出身です。やなせたかし様は、1919年生まれの92歳です。2010年には、年齢が90歳を超えて、引退も考えられたそうですが、今年3月の東日本大震災を受けて思いとどまり、未だ現役で活動を続けているという現代に生きる高知県の偉人であります。

 

同行した鮒谷周史様が成様のアンパンマンランド構想をお聞きし、「そういう構想が実現したら、すごく大きな需要があるのではないでしょうか」と言われていました。鮒谷様の親戚で2歳半のお子様がいるそうですが、アンパンマンと聞くと、テレビにかじりついて喜ぶのだそうです。高知県には、香美市立やなせたかし記念館がありますが、遊戯施設であるアンパンマンランド(こども向けの施設として、仙台、横浜、名古屋に『アンパンマンこどもミュージアム&モール』がありますが、これよりもさらに大規模な、200万坪程度の家族全員で楽しめる、ディズニーランドのようなテーマパーク)を高知県に設ける方が、休日に全国から孫に引率されたお祖父さんお祖母さん等家族連れが集まるでしょうし、海外からもアンパンマンファンが押しかけるのではないかと思います。

 

アンパンマンランドは、旅行会社ももちろんですが、航空会社にも貢献するだろうし、地元の高知にも目玉施設ができたということで、活況を呈するでしょう。成様は、土地は県が提供することになるだろうから見通しは明るいとおっしゃっていました。それが実現できるかどうかわかりませんが、それに値する企画だと思われます。アンパンマンランド建設を推進することが高知へ、海外からの旅行者をも含めた観光客を誘因するための決定的な起爆剤となり、ひいては、高知県民の幸福と発展につながるという真摯な確信をもつべきでしょう。

 

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